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日曜日

北斗七星を追え! ~光秀と天海①~

①日光東照宮陽明門と北極星

元和2年(1616年)4月17日。戦国の乱世に終止符を打ち、泰平の礎を築いた徳川家康が、駿府城にてその激動の生涯を静かに閉じた。

だが、その死は決して物語の終焉ではなかった。家康の死と同時に、徳川の治世を数百年先まで持続させるための巧妙な「大きな仕掛け」が発動したのである。当時の人々は、その後に長く続く平穏が、いかなる意志によって設計されたのかを知る由もなかった。

江戸時代は約260年もの長きにわたった。これは鎌倉時代の1.8倍、室町時代の1.2倍に相当する。特筆すべきは、その大半が戦のない「泰平の世」であった点だろう。鎌倉時代は元寇などの国難に見舞われ、室町時代も後半の約半分は絶え間ない戦火の中にあった。これらと比較すれば、江戸時代の平和な期間が、いかに異例であったかが分かる。

さて、今回はこの「大きな仕掛け」について調査した。

先に結論めいたことを描くが、以下3つの図、これらについて順に解説する形で、この仕掛けについてお話したい。(図②、③、④)

これらの「大きな仕掛け」を考案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)である。

②久能山、富士山、日光のレイライン 他

③江戸城の裏鬼門

④将門の北辰伝承による北斗七星

1.家康の遺言

では、図②から順に見ていきたい。

徳川家康が死の間際に遺した有名な遺言がある。 

「遺体は久能山(くのうざん)に納め、一周忌を過ぎたのちに日光へ勧請(かんじょう)せよ」

この言葉が発せられた瞬間、天海の頭脳の中で「仕掛け」が完成した。家康の切なる願いと、坂東の地に千年以上も深く根付いていた「北斗信仰」を融合させるという、構想である。

もちろん、当時の人々の多くは、家康が駿府(静岡市)を見下ろす標高213メートルの久能山に葬られることを、自然なことと受け止めたに違いない。亡き主君がその高地から、かつての領国を見守り続ける――。そんな光景を、人々は穏やかな気持ちで思い描いたはずだ(360°写真⑤)

⑤久能山からの眺め

有名な伝承として、江戸幕府を脅かす勢力は必ず西から来ると予見していた家康の次の遺言がある。

「我が亡骸は西国に向かい、立ち姿で久能山へ納めよ。死してなお立ち姿を崩さず、天下の安寧を乱す者を睥睨(へいげい)す」

事実、久能山東照宮に安置された家康の棺(ひつぎ)は、その主がいまも毅然と立ち、鋭い眼光を放っているのではないかと思わせるような、独特の佇まいを見せている。(写真⑥)

⑥久能山東照宮の家康の棺
※しっかり西を向いて建っている

⑦天海僧正
(川越歴史博物館蔵)
実際に、家康の死から約260年もの間、西からの大きな脅威が幕府を揺るがすことは、ついぞなかったのである。

2.天海大僧正は明智光秀か

ではなぜ、一度葬った遺体を移動させる必要があったのか?なぜ、日本一の霊峰・富士山を跨ぐようにして「久能山」と「日光」は配置されたのか?

そこには、家康の側近であり「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)が描いた「風水都市・江戸」の設計図が隠されていたと言われる。(写真⑦)

天海は謎多き人物である。数ある伝承の中でも特に有名なのが、「天海の正体は、山崎の戦いで生き延びた明智光秀である」という説だ。

光秀が羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から消えたのは天正10年(1582年)。それから6年後の天正16年(1588年)、入れ替わるように歴史に足跡を刻み始めたのが天海であった。彼は無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市・喜多院、川越大師。360°写真⑧)の住持として、初めてその名を名乗っている。

両者の生誕時期には諸説あるが、年齢的にも光秀と天海はほぼ重なる。光秀が高齢の武将として亡くなった(55歳)とされるが、もし彼が天海として再生したのだとしたら、その後の天海の活躍はまさに驚異的な「遅咲き」と言えるだろう。

 ⑧喜多院(川越市)         

更に脱線して申し訳ないが、もう少し「天海が光秀だった伝承」について述べたい。この伝承の主な根拠として、以下4項が挙げられる。

  • 比叡山の修築:織田信長によって焼き討ちされた比叡山。ドラマでもよく見るように光秀はこの焼き討ちに不満を持っており、焼き討ち後は復興を願っていた。焼き討ち当時比叡山に居たとされる天海がその再興に尽力したことは、光秀の悲願を継いだようにも見える。
  • 恵林寺・快川紹喜(かいせん じょうき)との交流の共通性:比叡山焼き討ちで居場所を失った天海は、この焼き討ちに同情的であり、信長と敵対する武田信玄に招聘されて甲斐国に移住。そして天海は武田家が滅ぼされる時「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との名言で有名な快川紹喜とも親交があり、恵林寺山門での焼死については、かなり心を痛めたという。心を痛めたというのは光秀もほぼ同じ話がある。
  • 「明智平(あけちだいら)」という地名: 日光にある絶景ポイント「明智平」の名は、天海が「明智の名を後世に残すために命名した」という伝承が残っている。
  • 家光の乳母・春日局(かずがのつぼね)との密談: 斎藤利三(としみつ、光秀の重臣)の娘である春日局が、天海と対面した際に「お久しぶりです」と挨拶したという逸話も、二人の密接な関係を予感させる。

⑨日光東照宮にある桔梗紋?
かつては、日光東照宮に光秀の家紋である「水色桔梗」に似た紋が彫られていたという話も伝承化していたが、これは多くの研究家が桔梗に似た他の文様であると検証している。また天海が1643年に亡くなっており、光秀は1528年生まれなので、115歳という高齢が「尋常でない」ということで「天海≠光秀」説を唱える人は多い。(写真⑨)

ただ、天海自身108歳という高齢で亡くなったというのは有力説であり、その差は7年である。この時代「115歳がありえない」というのであれば108歳はいけるのだろうか?

3.本当の「光秀⇒天海」説

史実は、十中八九「天海≠光秀」なのだろう。ただ、身勝手な妄想ではあるが、以下のような仮説はいかがであろうか。

有名な比叡山焼き討ちの時、若き天海(当時は随風と名乗っていた)は比叡山に居た。

比叡山焼き討ちが行われる元亀2年(1571年)、比叡山側も、当時朝倉・浅井軍の叡山結託に手を焼いている信長が本気で山を焼こうとしていることは察知していた。実際「信長公記」にはこの比叡山焼き討ち前の信長からの「最後通牒」について記述している。

  1. 信長側に味方せよ。 そうすれば、以前没収した寺領をすべて返還する。

  2. せめて中立を守れ。 朝倉・浅井の軍勢を山から追い出せ。

  3. どちらも拒むなら、焼き払う。 根本中堂をはじめとする全ての伽藍を灰にする。

この交渉窓口に、明智光秀が関わっていた可能性は極めて高い。

⑩比叡山の天海住坊跡
そして元亀2年(1571年)9月12日の焼き討ち決行の直前、追い詰められた比叡山側は、信長に対して黄金300枚を贈り、土壇場での攻撃回避を試みたという記録が残っている。

『信長公記』などの史料によれば、信長はこの露骨な買収工作を「汚らわしい」と一蹴。懐柔を撥ねつけ、翌朝の総攻撃を命じた。歴史の転換点となったこの交渉の場で、山側の使者として黄金を携えていたのは一体誰だったのか。その正体については詳らかではないが、そこに智謀に長けた若き日の天海(随風)がいたと考えるのは、決して不自然な空想ではないだろう。(写真⑩)

一方、織田側の実務を担っていたのは光秀である。利害を異にする二人が、炎に包まれる直前の比叡山で言葉を交わし、互いの才を認め合った――。この未曾有の危機の最中にこそ、光秀と天海(随風)の密かな親交が始まったのではないだろうか。

4.甲斐国への亡命支援

たとえ先述の黄金交渉に直接関わっていなかったとしても、比叡山焼き討ちの際、光秀と天海(随風)が接触した可能性は他にも残されている。その鍵を握るのが、当時の天台座主(てんだいざす:天台宗の最高責任者)・覚恕(かくじょ)の動静だ。(写真⑪)

当時の座主・覚恕法親王は、時の正親町(おおぎまち)天皇の弟にあたる人物であった。皇族に対し並々ならぬ敬意を抱いていた光秀が、戦火に包まれる比叡山から覚恕を救い出し、武田信玄を頼って甲斐国(山梨県)へと亡命させたという説がある。

注目すべきは、天海(随風)もまた、この時期に同じく甲斐へと逃れている点だ。

ここから一つの仮説が浮かび上がる。光秀は「尊い座主の身を守る」という極秘任務を遂行するため、最も信頼できる実務者として随風を選んだのではないか。若くして智略に長け、南都(奈良)や東国の情勢にも精通していた随風は、亡命ルートを確保するための特使として、これ以上ない適任者だったはずだ。

光秀が道を切り拓き、天海(随風)が座主を導く。この亡命劇こそが、二人の絆を決定的なものにした「真の接点」だったのかもしれない。

⑪信玄のもとに逃げ込んだ覚恕(春風亭小朝)
大河ドラマ『麒麟がくる』
第34回(11月29日放送)より

比叡山延暦寺の焼き討ちという未曾有の惨劇に、天海(随風)がどう関わったのか――。その事実を裏付ける直接的な文献は、いまだ見つかっていない。しかし、天海(随風)、光秀、そして覚恕。この三者の運命が、これほど巨大な歴史の転換点において一度も交錯しなかったと断じるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。

激動する情勢の中で、皇族を守ろうとする光秀の「矜持」と、知略を尽くして山を救おうとする天海(随風)の「志」が共鳴したといえる。

5.快川紹喜との交流

一説によれば、武田信玄は比叡山延暦寺を甲斐の身延山へ移転させる壮大な計画を抱いていたという。覚恕は亡命からわずか2年で京へ戻るが、天海(随風)は信玄の参謀として、そのまま甲斐国に留まったとされている。

この甲斐滞在期において、随風は武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と深い交流を持った。恵林寺の寺伝や一部の史料には、彼が快川から禅の教えを受け、深い感銘を受けたという伝承が残されている。

一方、見逃せないのが明智光秀との関係である。快川紹喜と光秀は、ともに美濃国(岐阜県)の名族・土岐氏の血を引く者同士であり、旧知の仲であったとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻により、武田家は滅亡の運命を辿る。一門および家臣団が総崩れとなる中、快川紹喜は恵林寺の山門に追いやられ、生きたまま火を放たれて壮絶な最期を遂げた。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉を残したあの事件である。

この惨劇に対し、光秀は激しく心を痛め、深く嘆き悲しんだと伝えられている。そこには、単なる知己の死への哀悼を超えた、同じ土岐氏の血を引く者としての強い連帯感があったのだろう。(写真⑫)

⑫恵林寺山門
※左の柱に「心頭を滅却すれば火も
自ずから涼し」が書かれている

この時、信長に同伴して甲斐攻めに来ていた光秀が、快川紹喜の悲報と同時に、天海(随風)についても「死亡」との報を得たとしたらどうだろうか。

快川紹喜や天海(随風)といった至高の教養人と通じ、彼らを文化の守り手として敬重していた光秀にとって、信長の所業は耐え難いものであった。比叡山を焼き、恵林寺を焼き払い、文化の源泉を次々と灰にする信長の破壊衝動。そこに追い打ちをかけるように、あの有名な「打擲(だちょう)」の事件が起きる。

「うぬは甲斐攻めで何を苦労したというのか!」

諏訪の地で放たれた信長の激昂。信長は光秀の言葉を遮り、額から血が流れるまで扇子で打ち続けた。この理不尽な暴力は、光秀の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。文化を愛する教養人としての矜持も、主君への忠誠心も、この瞬間に限界を超えたのである。

密かに謀反の決意を固め始めた光秀の脳裏には、ある「壮大な構想」がおぼろげながら浮かんでいたはずだ。それは、もし万が一、謀反の果てに自らが歴史の表舞台から消えることになった際の、現代で言うところの「BCP(事業継続計画)」であった。

「いざとなれば、天海(随風)殿の名を借りよう――」

死んだとされる随風になり代わり、僧侶として生き永らえ、影からこの国を導く。のちに「天海」として家康を支えることになる驚天動地の計画が、屈辱にまみれた諏訪の夜に産声を上げたのかもしれない。

6.天海への転身と周到なる計画

「打擲(だちょう)」の屈辱からわずか3か月後。天正10年(1582年)6月2日、歴史を塗り替える「本能寺の変」が勃発した。

変の動機については、怨恨説や四国政策をめぐる対立説など、500年以上にわたって議論が絶えない。ここではその詳細には立ち入らないが、光秀が「思いつき」ではなく「周到な計画」のもとに動いた、という説を前提に話を進めたい。

当時の光秀は、近江(滋賀県)の要衝・坂本に加え、平定したばかりの丹波(京都府・兵庫県)も領有していた。まさに京の都を東西から挟み撃ちにする絶好の配置である。さらに彼は、他方面の有力武将たちがそれぞれ敵対勢力と交戦中で、すぐには動けない状況にあることも完全に把握していた。

⑬明智藪
※山崎の戦いに敗れた光秀が
藪から槍で脇腹を刺された
信長は、わずかな手勢とともに本能寺に宿泊している――。光秀はこの「千載一遇の好機」を見誤ることなく、冷静かつ計画的に活用した。これほど緻密な計算ができる男なら、万が一失敗した際の「コンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)」、すなわち「プランB」を練っていたと考えるのが自然だろう。

そして、そのプランBこそが「天海(随風)へのなりすまし」であった。

運命の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れた光秀。本拠地・坂本へ退却する途上、山科(京都市)の小栗栖(おぐるす)にて農民に襲われ落命したとされるが、その最期には不自然な点が多い。(写真⑬)

伝承によれば、竹藪から突き出された農民の槍に脇腹を深く刺され、自刃を覚悟した光秀は、側近に「自分の首を秀吉軍に渡さぬよう、地中深く埋めよ」と命じたという。

ところが、その後の経緯は謎に包まれている。命じられた側近もその場で自害したため、首の埋め場所は永遠の闇に葬られたという説。あるいは、農民たちが一部始終を見ており、首を掘り返して織田信孝や秀吉に届けたという説。まさに諸説紛々であり、光秀の死を確定させる決定的な証拠は、今なお存在しないのである。(写真⑭)

7.プランBの発動――天海(随風)として北へ

⑭山科にある
光秀胴塚
私が想定する光秀の「プランB」は、実に大胆かつ緻密なものである。

「山科では、別の者の首を身代わりに埋めることで光秀は死んだものと見せかけ、自身は密かに北上して近畿圏を脱出する。そして、当面は地方で『天海(随風)』になりすます」というものだ。

武田家が滅び、随風が快川紹喜らと共に消息を絶ってから、わずか3か月。光秀ほどの教養人が突如として僧侶に転身すれば、本来なら周囲の疑念を招くだろう。しかし、武田の食客であった「随風」という名の下であれば、主家滅亡によって流浪の身となった高僧として、諸国の人々に無理なく受け入れられたはずだ。

光秀がまず身を寄せたのは、当時、蘆名(あしな)氏が統治していた会津であった。

蘆名氏は会津に金山を保有し、その豊富な資金力を背景に足利義昭へ頻繁に貢物を送り、官位を求めていたことで知られる。かつて、その仲介役を担っていたのが光秀であった。つまり、蘆名氏と光秀の間には以前から深い信頼関係があったのだ。

さらに、天海(随風)自身の出自が蘆名氏の一族であるという説を、光秀は事前に掴んでいたのかもしれない。偽装工作を完璧なものにするためには、その名に縁の深い場所へ身を隠すのが最も賢明な判断である。こうして光秀は、かつての知己を頼り、北の地で「天海(随風)」としての静かな再スタートを切ったのではないか。

長くなったので、この後の天海=光秀説、更には天海の「大きな仕掛け」について引き続き描いていきたい。

ご精読に感謝。

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【久能山東照宮】〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390
【喜多院(無量寿寺北院)】〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
【日光東照宮】〒321-1431 栃木県日光市山内2301
【明智平展望台】〒321-1445 栃木県日光市細尾町
【天海大僧正住坊趾(南光坊)】〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
【恵林寺】〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
【明智藪(小栗栖)】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町


水曜日

大航海時代と朝鮮出兵➀ ~耳塚にて思うこと~

 京都の方広寺と言えば、その梵鐘の銘文「国家安康」が有名である。徳川家康は、「家康」の諱の間に「安」の字を挿入したことを、あたかも自分の首を切断したことに等しいと難癖をつけた。

この屁理屈を口実として、徳川家康が豊臣家を征伐し、大阪の冬の陣・夏の陣で淀殿と豊臣秀頼を自害させたことは、社会科の授業でも習うほど有名な歴史的事実である。

当時の壮麗な方広寺は既に存在しないが、この地には豊臣家と縁の深い場所として、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されている。

この豊国神社の正門から約100メートル先に、「耳塚」と呼ばれる塚があるのをご存じだろうか。(写真①)

①耳塚
首塚や胴塚は多いが、耳塚とは珍しい。そこで調べてみると、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592年~1598年)として知られる朝鮮出兵の際、敵兵の首は持ち帰るには重すぎるため、その(一部ではともいわれる)を切り落として持ち帰り、それを供養した塚だとされる。

その規模は相当なもので、高さは7~8メートル、直径は約20~25メートルにも及ぶのだ。

なるほど、海外からの帰国には首は大変だから耳、というわけか。

しかし、首や胴であれば骨が残るため、塚の真偽はすぐに判明するが、耳や鼻では何も残らない。この点はどうなのだろうか?また、これほどの巨大さは、大量殺戮の事実を物語っているのだろうか?

などの疑問が湧き上がり、さらには「そもそも秀吉は何のために朝鮮出兵を行ったのだろうか?」という根本的な疑問まで、この耳塚の霊に後押しされたかのように泉のごとく湧き出てきた。そこで、これらの疑問について少し調べてみることにした。

1.海外侵攻をしたがらない武士たち

テレビドラマなどでは、豊臣秀吉による朝鮮出兵が、愛息・鶴松(棄丸:すてまる)の病死による悲しみを紛らわすため、あるいは老耄(ろうもう)から思いつきで実行されたものとして描かれることが多い。しかし、これはあまりにドラマ仕立てに過ぎるだろう。たしかに高齢による判断力の衰えはあったかもしれないが、当時の日本の国家機構が、そのような無謀な行動を安易に許容するほど愚かであったとは考えにくい。

では、なぜこのような大規模な海外遠征が実現したのだろうか。鎌倉幕府以来、およそ400年以上にわたり、日本は元寇のように他国からの侵攻を受けることはあっても、自ら海外へ大規模な軍事遠征を行うことはなかった。この背景には、源頼朝以降の武士が海外領土の奪取といった発想を持たなかったというよりも、武士たちが「日本国」という統一国家の正規軍であるという明確な概念が薄かったことが影響しているのではないだろうか。

②熱田湊の灯台のような役割を
果たした村上社のクスノキ
日本が海外へ兵を進めたのは、663年の白村江の戦いまで遡る。この戦いで大敗した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え、防衛体制の強化に着手した。その一環として、「防人(さきもり)」を対馬・壱岐・筑紫(北九州)に設置し、彼らを律令制下の正規の防衛兵として位置づけたのである。
しかし、平安時代中期以降、天皇を頂点とする律令国家体制下でこのような「国家の兵」は徐々に形骸化した。これに代わって登場したのが、「北面の武士」などに代表される「」である。彼らは本来、「(朝廷や貴族に)さぶらう」、つまり従属した下人的な立ち位置から始まった組織だ。

「侍」は、個別の主君に仕える私的な武力集団であり、「国家」全体の軍事力を担うという意識は希薄であった。

鎌倉時代の元寇襲来について、「あれは国防意識があったからこそ、博多湾に集結して戦ったのではないか?」と疑問を持つ読者もいるだろう。

しかし、その後の経緯を考えて欲しい。

元寇後、武士たちの生活はどうなったのか。彼らは純粋な「国防」意識ではなく、「一所懸命」の地を守り、「御恩と奉公」という主従関係の図式で生きていたに過ぎない。敵を退けても、新たな領地や財産を得る恩賞は少なかった

結果、生活は成り立たなくなり、多くの武士が困窮する。

この困窮が原因となり、徳政令が頻発された。そして最終的には、不満を募らせた武士たちによって鎌倉幕府は転覆させられる。

この事実こそが、当時の武士たちの間に「国家の兵」であるという意識が、いかに希薄であったかを物語っているのだ。

現在の日本はシビリアン・コントロール(文民統制)の国であり、事情は多少異なる。しかし、そもそも律令国家として8世紀に始まった日本国の兵員も、天皇を頂点とする貴族国家という文官統制のもとに置かれていた。

つまり、この武士階級は、海外外交を含む「政府の機能」までを積極的に担うつもりは毛頭なかったのである。

2.型破りな武士・信長

しかし、この考え方とは対照的な武将がいる。

織田信長だ。

ルイス・フロイスの『日本史』には、これを裏付ける記述がある。「信長は毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考えであった」と記されている。

信長だからこそ、このような型破りな発想ができたとの見方もある。だが、当時は欧州の大航海時代であり、植民地政策が盛んな時代だ。

信長は領内の熱田湊などで貿易を行い、財を成した織田家の出身である。このため、大航海時代における海外進出の優位性を深く理解していた。海外遠征による壮大な貿易経済効果の構想を、秀吉にも話していた可能性は高いと言える。(写真②)

➂トルデシリヤス条約
(Wikipediaより)
3.トルデシリヤス条約

ここで、少々当時の欧州事情に寄り道しよう。

1494年、当時世界一、二を争う海軍国であったポルトガルとスペインは、トルデシリヤス条約を締結した。これは両国による植民地支配の境界を取り決めた条約である(写真➂)。

この境界設定に大きく影響したのは、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見したことだ。

ご存じの通り、彼は『東方見聞録』にある黄金の国ジパング、すなわち日本を目指していた。アフリカ経由よりも大西洋ルートの方が遥かに早いと考え、そのルート開拓を望んだ。問題はこの航路に必要な資金である。

コロンブスはまず海洋国第一のポルトガルに資金援助を求めた。しかしポルトガルは、喜望峰経由のアフリカルート開拓こそが有用と考えていた。大西洋ルートはそれまで何度か試みられたが、残念ながら陸地の発見報告はなかった。役に立たないと判断したポルトガルは、コロンブスの資金援助に応じなかったのである。

ポルトガルに失望したコロンブスは、次にスペインに支援を求めた。紆余曲折を経たものの、彼はなんとか支援を取り付けた。そして、ご存じの通り、コロンブスは大西洋ルートを進み、大陸を発見したのである。

この発見はポルトガルを大いに焦らせた。「新世界」への進出は、スペインとポルトガルとの競争となり、侵出先での係争が絶えない状態となった。この摩擦を解消するため1494年に締結されたのが、トルデシリヤス条約である。

4.サラゴサ条約

トルデシリヤス条約では、図④中、紫の経線を境として、東回りはポルトガル、西回りはスペインの勢力圏と定めた。
④トルデシリヤス条約とサラゴサ条約
Wikipediaの図を加工)
この境界線は、ほぼ大西洋上に引かれている。興味深いのは、この分割線だけでは地球は二分割されたことにならないという、単純な盲点がある。地球は丸いので、もう一本分割線が必要となる。

この盲点を問題視できたのは、マゼラン艦隊が世界一周を達成し、帰還した1522年以降である。そこで、もう一本の分割線として、図④の緑の線、すなわち東経約142度の位置に境界線を定めた条約が、1529年に締結された。それがサラゴサ条約である。

図から分かるように、日本はこの二本目の境界線上に位置し、その大部分はポルトガル側に属している。そのため、種子島に漂着したのがポルトガル船であり、日本で最初に平戸に入った貿易船もポルトガル船なのである。

5.遠大なる構想

⑤鉄甲船
かなり脱線したが、織田家が熱田湊で培った貿易の観点から、信長は南蛮(スペイン・ポルトガル)との交易を重視し、イエズス会の修道士たちと積極的に交流した。先に触れたルイス・フロイスもポルトガル人である。

信長が、ゆくゆくは天下布武を国内に留めず、スペインやポルトガルのように大航海時代に日本も乗り出したいと考えていたとしても不自然ではない。それゆえ、フロイスの記述に「一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考え」が出たのであろう。その構想の一端が垣間見えるのが、信長お抱えの九鬼水軍の「鉄甲船」である。(絵⑤)

鉄甲船自体は朝鮮出兵に直接参加していないが、九鬼水軍は後の出兵時、豊臣海軍の要となる。

また、この信長の話をフロイスが聞いていたくらいであるから、毛利平定の司令長官であった秀吉が聞いていなかったはずがない。そうなると、秀吉自身も毛利平定の頃から、信長の海外進出構想をいかに実現するか考えていたのだろう。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、続きは既に書き上げているが、長くなりすぎるため今回はここまでとする。 次回は、ヨーロッパを起点とする大航海時代が、秀吉の朝鮮出兵に影響を与えたのか否かを考察する。 ご精読に感謝する。


火曜日

中国大返し➂ ~「神速」のその先へ!~

前回、豊臣秀吉が備中高松城から姫路城まで驚異的な速さで移動した「中国大返し」の舞台裏について描いた。海路活用説や、播磨・摂津の有力武将たちが明智光秀につくか秀吉につくか迷う中、彼らを牽制するための「神速」戦略があったことを述べた。

そして、今回はいよいよ大返しの最終章、「山崎の戦い」について書きあげてみた。

さらに、多くの者が疑問に抱く「なぜ毛利軍は追撃しなかったのか」についても、ご先祖様にも登場頂き、考察を進めてみた。御笑覧頂ければ幸いである。

1.山崎の戦い

①再掲:山崎の戦いの配陣図
(天王山山頂・旗立松展望台看板より)

戦端は6月13日の午後4時、図①に示された右上の池田恒興が、中央で明智軍と対峙する高山右近の右翼に布陣しようとしたその時、開かれた。明智軍には、秀吉軍の陣形が整う前に決着をつけたい焦りがあったのかもしれない。

②斎藤利三
(Wikipediaより)
しかも、秀吉軍の最前線を担う中川・高山・池田らは、元々光秀派であった者たちであり、中国大返しには参加していない、疲れを知らぬ精鋭部隊であった。光秀側には、これらを迎え撃つ焦り、そして怒りが同時に渦巻いていたのだろう。

光秀の軍師・斎藤利三(絵②参照)もまた、高山右近に襲いかかり、一時的に高山右近ら秀吉の前線部隊は押され気味であった。

そもそも、「ここが受験の天王山」という言葉の比喩は、図①にある淀川系の3河川(木津川、宇治川、桂川)と天王山に挟まれた隘路を抜けた先に広がる、わずかに開けた土地が戦局を大きく左右するという状況からきている。この開けた地に先に陣取った方が圧倒的に有利となるため、明智光秀は筒井順慶を待っていた洞ヶ峠(写真③)から、秀吉は6km離れた富田から駆けつけ、どちらが先に有利な陣地を確保できるかを競ったことに由来する言葉なのだ。
③洞ヶ峠(天王山からの遠望)
※ここ天王山と洞ヶ峠の間には、奥から
木津川、宇治川、桂川の3本が走っており、
隘路になっているのが分かる

2.洞ヶ峠と池田恒興の奇襲

ちなみに洞ヶ峠といえば、光秀から加勢を要請された筒井順慶が日和見した逸話で有名だ。しかし、筒井康隆氏によると、順慶はそもそも洞ヶ峠には来ていなかったらしい。洞ヶ峠で、大和郡山城にいる筒井順慶を待っていたのは、光秀だったのだ。

この山崎の戦いで活躍するのが池田恒興だ。図①でも、彼の軍だけが右奥(北東)に入り込んでいるのが分かるだろう。恒興は高山右近の右翼に並ぶのを止め、大きく迂回して明智光秀の左翼に位置する津田与三郎を攻め立て始めたのだ。

さすが勇猛果敢で鳴る池田恒興が攻め寄せると、津田与三郎はたちまち押され始めた。それを救援しようとした斎藤利三が、今度は高山右近らに押され、結局、明智軍は津田・斎藤らが守る左翼側から崩壊した。

そもそも、対峙する前から明智軍の方が寡兵であった。光秀らは秀吉軍を洞ヶ峠と淀川系3河川に挟まれた隘路から広い場所に出させず、逐次撃破を目指していた。しかし、池田恒興が広い場所に出、明智軍の左側(東側)に回り込めてしまった時点で、光秀は敗北を強く意識したことだろう。

戦いはわずか3時間で秀吉軍の勝利が確定した。

3.不可解な光秀の最期

寡兵の明智軍が唯一勝つための作戦は、隘路での逐次撃退であった。しかし、池田恒興ら摂津・播磨衆が、その隘路を突破し広い場所へ出る作戦を完遂したため、明智軍のこの目論見は水泡に帰した。夕方4時に始まった戦からわずか3時間。周囲が闇に包まれる中、光秀らは後方にある勝龍寺城へとばらばらと退却した(写真④)。
④勝龍寺城

勝龍寺城は、明智光秀の娘たま(細川ガラシャ)が嫁いだ城として有名だが、平城であり防衛能力は高くない。とても秀吉軍の追撃に耐えられないと判断した光秀は、自身の領国である丹波亀山城か、近江の坂本城のどちらかに落ち延びることを決めた。繰り返すが、本能寺の変の直前の光秀は、京の首根っこを東西から抑える位置に領国を持っていたのだ。これは信長からの信頼の厚さを象徴するもの以外なにものでもない。

ここで興味深いのは、丹波亀山城と坂本城を直線距離で比較すると、丹波亀山城の方が勝龍寺城に近いことだ(写真⑤)。
⑤丹波亀山城

丹波亀山城に落ち延びてもおかしくはない。
もちろん、光秀は本能寺の変の後は、織田信長の領国を引き継ぐ形で「近畿管領」的な立場を目指していた。その構想の中核をなすのが近江国であり、その本拠地である坂本城は、光秀にとって最後の望みを託せる場所であった。嫡男・明智秀満がいたことや、安土城との連携、交通網の発達度合い等も総合的に考えると、誰しも再起のために坂本城を選択した光秀の判断は自然に感じるだろう。

しかし、落ち延びる光秀一行は、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りをしていた農民に遭遇する。そして、竹藪から現れた農民に、竹やりで脇腹をブスッと刺されたのだ(写真⑥)。
⑥明智藪

歴史に「もしも」はないが、もしこの時、丹波亀山城を目指し、農民の不意打ちに遭わずに逃げ延びていたとしたら、どうなっていたのだろうか。それこそ西の丹波亀山城に光秀、東の坂本城に秀満が呼応して……。いや、それでも光秀に勝ち目はなかったように思える。

農民らを撃退し、山科を坂本方面へと馬を進める光秀だが、しばらく行ったところで落馬する。脇腹の刺し傷はかなり深く、光秀はここで諦め自刃した。介錯を頼んだ側近には、秀吉軍に自分の首を取られないよう地中深く埋めるよう指示したという。

ところが、光秀の首に関しては様々な伝承が存在する。側近もその後自害したため、地中のどこにあるのか分からないという説。竹藪から光秀の脇腹を刺した農民の仲間が追跡しており、地中に埋めるところを見ていたため、掘り返して織田信孝に届けられた、いや秀吉の手に渡ったという説。これもまた諸説紛々としている。

⑦不意を突かれる明智光秀
(作画AI)
この辺りが曖昧であることも相まって、光秀存命説まで飛び出している。大河ドラマでは、格好良く丹波に馬で駆け、自由に生きる光秀が描かれたこともある。あるいは天海上人となったという説など、こちらも諸説紛々だ。

そもそも、光秀の脇腹に槍を刺した農民は、なぜ光秀がここを通ることを知っていたのか。また、首を掘り起こしたのも農民なのか。そんな都合よく名もなき農民が立ち回ったのか。その証拠はあるのか。光秀が逃げ延びるためにでっち上げた話ではないか、といった疑問も呈される。

このように、不可解な部分が多い光秀の死ではある。ただ、「三日天下」と言われた光秀の天下が、6月2日から同月13日までの11日間であったという事実だけは確かなようだ。

4.何故、毛利軍は秀吉を追撃しなかったのか?

さて、この中国大返しの話の最後に、手前味噌ながら私のご先祖様の逸話も交えたい。

私も高校生になって知ったのだが、我がご先祖・玉木吉保(たまきよしやす)は毛利家の家臣であった。玉木吉保が記した『身自鏡(みのかがみ)』という日記は、当時の中流武士の生活を克明に伝える貴重な史料だ。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に対する罵詈雑言など、思わず膝を打ちたくなるような(?)記録もあるらしい。

最近、安部龍太郎氏のブログを読んでいたところ、ふと三重大の藤田達夫氏の論文が紹介されているのに目が留まった。それは、玉木吉保の『身自鏡』の中の、中国大返しに関する記述に対する考察であった。

それによると、玉木は秀吉と安国寺恵瓊が備中・高松城攻めで講和交渉をした時のことを記しているという。秀吉は、多くの毛利重臣たちを既に離反させ、その連判状を証拠として提示したとのことだ。さらに、「毛利(輝元)殿御謀言不浅(おはかりごとあさからざる)故に信長既に果給ふ」と、本能寺の変を裏で操ったのは毛利輝元であることまで知っていると告げたという。

ここまでが玉木の記述らしいのだが、安部龍太郎氏は、この秀吉の「毛利が黒幕」という情報源は、黒田官兵衛からだろうと推測している。また、毛利の御謀言とは、副将軍に任じられていた輝元が、将軍・足利義昭と長宗我部元親を動かし、光秀と接近させ、本能寺の変を起こさせたことを指す、と述べている。

そして、この文章の解釈を、三重大の藤田達夫氏は以下のように論じているのだ。

「ここまで重臣を取り込まれた上に、内情を見透かされていては、とても動けない。毛利はそう判断した」

⑧秀吉軍に追いすがる毛利軍5万
(作画AI)
つまり、これが中国大返しで東へ奔走する秀吉軍を毛利軍が追いかけなかった理由だというのだ。どうだろうか?素人の邪推で恐縮だが、本能寺の変のお膳立てをしたのが毛利であるならば、むしろ全力で秀吉軍を追いかけ、決戦に持ち込み、光秀をバックアップするのが筋ではないか。そもそも謀略で超大物・信長を殺せるほどの胆力を持った漢・輝元であるならば、本当にそれほど多くの重臣が背くほど、求心力が低下するだろうか。仮にそうだとしても、高松城主・清水宗治のような、己の命を捧げた部下を見殺しにして、平静でいられただろうか。

やはり私は、この3シリーズの最初の記事で述べた『浅野家文書』にあるように、5万の毛利軍というのは功績を大きく見せようとする秀吉の誇張ではないか。実際には1万ほどしか毛利は動員できておらず、追いすがっても秀吉軍に勝てる見込みが毛利側になかっただけなのではないかと考えている。

私のご先祖の日記が、このような歴史の論争ネタを提供すること自体は、大変名誉である。しかし、その解釈について、一意に「だから毛利は動けなかった」とするには論理的な飛躍があるように感じるのは、私だけだろうか。

5.おわりに

以上で、私の中国大返しに関する調査を終える。

私自身が実際に見て回った備中高松城、沼城、岡山城、八浜城、姫路城、尼崎、山崎の天王山登頂、洞ヶ峠など、定番の地を巡れたことは大きな収穫であった。しかし、それ以上に驚いたのは、近年、この中国大返しに関する検証や論考の数の多さだ。どこまでが真実なのだろうか。

考えようによっては、高々500年弱前の話に過ぎない。にもかかわらず、これほど多くの説が飛び交うこと自体が、多くの日本人の興味とロマンを掻き立てる出来事であったという、ただこの一事実だけで十分なのかもしれない。

明智藪のすぐ横の畑で、のんびり煙草をくゆらせていたおじさん。あの方が光秀の脇腹を槍で突いた農民の子孫かもしれない、などと妄想を膨らませていた。 だが、ふと我に返った。この、ありふれた日常が流れる場所こそが、かつて歴史ロマンの中心だったのだ。その不思議さに、私は歴史の奥深さを感じていた。

ご精読に感謝する。

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【天王山・旗立松展望台】〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎

【洞ヶ峠】〒573-1131 大阪府枚方市高野道2丁目23−20

【勝龍寺城】〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13−1
【小栗栖(おぐるす)の明智藪】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町




木曜日

中国大返し② ~何故そんなに急いだのか~

前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。

①中国大返し日付と移動距離等

1.大返しにおける海路活用説

大返しは、約230kmの行程をわずかな期間で踏破し、3万もの大軍を率いて戦闘にまで及んだ作戦である。この成功の鍵として、近年、海路の活用が注目されている。本能寺の変からわずか2日後には大返しが開始されていることを考えると、急遽、大返しのために海路を準備したとは考えにくい。

この問題の解決策として、皮肉にも、もはや訪れることのない信長のために秀吉が準備した御座所が活用されたのではないか、という説が浮上している。

以前の論考でも述べたように、秀吉は信長に出陣を促した。これは、自身の力では中国攻めに限界があるため主君・信長を頼る姿勢を見せつつ、実際には水攻めなど、中国攻めでの自身の活躍を信長に見せつけることが目的であったと考えられる。そうであれば、備中高松城までの道中に信長の御座所(貴人が宿泊・休憩する場所)を準備する配慮を秀吉が怠るはずがない。

当然、御座所を準備するのであれば、その間の移動手段も抜かりなく準備するはずである。前回の論考でも触れたが、当時、毛利氏は村上水軍による瀬戸内海の制海権掌握に努めていた。しかし、秀吉も村上水軍の一部である来島水軍を味方につけ、また児島水軍なども配下に加えており、毛利水軍に対抗できるだけの水軍力を有していたことが明らかになっている。

とすれば、御座所間の信長の移動に船を用いることを考えても不自然ではない。かつて平家の都として栄えた福原に位置する大輪田泊(写真②)には、戦国時代に兵庫城が存在した。そして、この兵庫城こそ、本能寺の変がなければ信長の御座所として準備されていた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっているのである。

②ここ大輪田泊には、戦国時代に兵庫城が存在
(現在のイオンモール辺り)

神戸港の原型である大輪田泊が御座所の目の前にある以上、この湊から出航し、西へ向かう信長という構想は不自然ではない。支援の大軍は明智光秀に任せており、そちらは山陰道を西へ進む。しかし、信長自身は本能寺に同行した少数の供のみと移動するのであれば、御座所船を海路で岡山城(旭川を遡上)や沼城(吉井川を遡上)といった宇喜多氏の領地へ向かわせることは十分にあり得る。

しかしながら、結局のところ、これら全ての計画は本能寺の変によって実現することなく終わったため、どのような詳細な計画であったのかは残されていない。そもそも信長本隊の移動計画は、本能寺宿泊を含め、信長軍の第一級軍事機密であったと考えられる。ゆえに、明智光秀や秀吉など、ごく一部の限られた将兵しか知り得ない事実であり、当然ながら史料なども残るはずがないのだ。

秀吉は、この極秘の御座所ルートを、大返しという京都への帰路に活用したのだろう。地図①は中国大返しのルートを示しているが、前回述べた沼城から姫路城の間は直線距離で約70kmある。

ちなみに、この区間を1〜2日間で移動することは、途中の船坂峠の急峻さ、またこの時期が梅雨で道がぬかるんでいたことを考慮すると、非常に困難な行程となる。

そこで、沼城のやや東側を流れる吉井川沿いの長船、あるいはさらに東に位置する備前・片上から、赤穂付近までは海路が用いられたのではないかという説が浮上している。もちろん、急ごしらえで3万もの軍勢を船で運ぶことは不可能である。しかし、秀吉をはじめとする一部の主要メンバーだけでも、早期に秀吉の本拠地である姫路城近くまで運搬されたのだろうというのが、この説の主旨である。

2.秀吉の「神速」と戦略

では、なぜ秀吉は、3万の軍が追いつかないほどの勢いで、単身でも帰路を急いだのだろうか。この疑問は、山崎の戦いの布陣図を見ると氷解するだろう。図③をご覧いただきたい。これは、各軍の陣立てを解説した、天王山山頂の看板の抜粋である。

③天王山山頂付近(旗立松展望台)の看板に
ある山崎の戦いの配陣図

秀吉の本陣は、この看板のある天王山付近(図③の現在地)であった。しかし、秀吉軍全体は戦列が非常に長く、この陣配置の時でさえ、最後尾は30kmも離れた西宮に位置していたという。息を切らしながら天王山を登り、この看板を目にした筆者は、まさに「なるほど!」と膝を打ったのである。

黒田官兵衛(地図では黒田孝高)と羽柴秀長は、筆者が懸命に登ってきた天王山の中腹あたりに陣を敷いており、やや奥まった位置にいた。しかし、秀吉軍の最前列で今にも襲いかかろうとしていたのは、中川清秀(茨木市)、高山右近(高槻市)、池田恒興(伊丹市)といった摂津の大武将たち、そして加藤光泰(三木市)という播磨の武将であった。これらの山崎の戦いで最前線にいた武将たちは、中国攻めに参戦する予定で準備を進めていた最中に本能寺の変が起きたため、出陣を一時保留し、明智光秀側につくか、あるいは当初の予定通り秀吉側につくか、状況を冷静に分析しながら熟慮を重ねていたと考えられる。

であるならば、秀吉はまず、播磨・摂津の武将たちに、鬼神のごとき迅速性と勢いを見せつける必要があった。光秀が彼らや京周辺の武将らを自陣に取り込み勢力を拡大する前に叩くためには、合戦は早ければ早いほど良いという判断があったのだろう。そのため、備中から速く京へ引き返すことが作戦の基本であった。しかし、単に速いだけでなく、「鬼神」のごとき神がかった速さが必要であった。これが光秀の勢力拡大を阻止し、周囲を巻き込み天下人となる「勢い」となるのだ。

まず6月6日に備前沼城を出発した秀吉は、海路も活用し、他の兵に先駆けて70km以上も離れた姫路城へ早々に到着した。ここで、上記の摂津・播磨の武将たちに檄を飛ばす書状をしたためたのである。信長や信忠は生存しているという偽情報を流したという説もある。

④姫路城

なぜ、沼城から姫路城までこれほど急いだのか。沼城までは、信長の変死を知った毛利軍が猛烈に追撃してくる状況を想定し、秀吉は緊張していた。しかし、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から献上された姫路城まで一気に逃げ切れば、ひとまず安心できたのだ。毛利の脅威はほぼなくなり、次なる大敵である明智光秀に対する様々な策略に没頭できるというわけである。

光秀もまた賢い武将であった。柴田勝家が越中・能登の北陸戦線(対上杉氏)に、滝川一益が後北条氏の上州討入り計画への対応に追われ、もちろん秀吉も中国戦線で膠着している状況を見極めたからこそ、変を起こしたのだ。しかも、秀吉への援軍として控えている丹波・播磨・摂津の武将たちは、旧来から光秀とは昵懇の仲であったため、交渉次第では全員が、秀吉の援軍どころか、光秀の援軍、つまり秀吉の敵になりうる立場にあったのだ。

実際、大返しを行った秀吉こそ、毛利からの追撃だけでなく、丹波・播磨・摂津の武将たちからも襲いかかられ、光秀から血祭りに挙げられる最初の武将となるかもしれない状況であった。

彼らが光秀についてしまうと、万が一光秀との合戦に敗れた場合、京から姫路への退路も閉ざされかねない。そう考えると、備中高松城から姫路までは、まず逃げるように駆け込み、ここで丹波・播磨・摂津の武将たちを自分の味方につける方策を早急に立てる必要があったのだ。つまり、大返しの兵員よりも、上記の陣形で先陣を切っていた武将たち(中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰ら)の確保が重要だったのである。

その根拠に、明石を通過してからの1日の行軍距離が30km以下となっている点が挙げられる。これは、先に姫路城で書状をしたためた播磨・摂津の有力武将たちに、迅速な秀吉軍、無傷の秀吉軍、そして忠義の秀吉軍を見せつけ、その後の光秀討伐を有利に進めようという秀吉の思惑があったためと推定されるのだ。

⑤秀吉が髻(もとどり)を切って光秀への復讐心
を見せたのは、尼崎はこの寺町付近と言われる

もちろん、元播磨出身の黒田官兵衛が秀吉の背後で、地元の武将たちを説得していたことも大きな要因である。秀吉も、いくら素早く戻ったとしても、自軍の疲労度を考えれば、待ち構える光秀と対等に戦えるわけがないことは理解していた。しかし、その行動力を見せつける効果がいかに重要であるかを、さすが「人たらし」と称されるだけあって、彼は深く理解していたのだ。

3.山崎の戦い

こうして、摂津・播磨衆を先鋒に従えた秀吉軍と、軍師・斎藤利三を前面に出した明智光秀軍との間で山崎の戦いが始まった。天王山頂上付近から現在の戦場周辺を写したのが写真⑥である。

⑥山崎の戦い古戦場

写真⑥の正面に見える京滋バイパス(名神高速道路の迂回路)の、やや左側でとぐろを巻いているのが大山崎ジャンクションだが、ちょうどこのあたりを中心に明智軍と秀吉の先鋒がにらみ合ったのだ(地図③ご参照)。

長文になったため、山崎の戦いのクライマックスについては次回に描くこととしたい。

ご精読に感謝する。


水曜日

中国大返し① ~宇喜多家の活躍~

「おお、見えてきた!」

中国自動車道の岡山総社ICを降り、東へ三キロ弱戻ると、大きな鳥居が見えてくる。その先に、目指す平らな公園が広がっている。

備中高松城(写真①)

ここは、秀吉が黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛とも。以下、黒田官兵衛)の発案した大作戦「水攻め」を採用し、落としたことで有名な城跡だ。また、この城を包囲中に本能寺の変が起き、「中国大返し」の起点となった場所としても知られている。

今回、秀吉の運命と日本の歴史の転換点であるこの地に立つことで、当時の彼の心境を少しでも味わいたかった。同時に、この水攻めの影の立役者である宇喜多一族についても思いを巡らせたい。それが、今回の史跡巡りの目的である。

①備中・高松城
※中国大返しの起点

1.宇喜多家の命運をかけた戦・備中高松城攻め

ご存じの通り、本能寺の変は、羽柴秀吉が中国・毛利攻めの最中に起きた。

しかも、信長は秀吉からの要請により、援軍として西国へ向かう直前の出来事であった。この毛利攻めから、本能寺の変の弔い合戦へととんぼ返りする秀吉軍の軍略は、黒田官兵衛の策によるところが大きいのは周知の史実だ。しかし、この毛利攻めにおいて、地元である宇喜多一族の活躍が非常に大きかった点も見逃せない。(写真②:沼城の写真)

②沼城(備前亀山城)
※宇喜多の城で大返し時に
一旦ここで毛利の動向を伺う

まずは、この宇喜多の視点から、備中高松城の水攻め、そして中国大返しに至る背景を考察する。

(1)毛利を見限った宇喜多

宇喜多の台頭について書くと、本ブログでも軽く1,2シリーズできてしまうので、今回はあまりルーツには立ち入らない。

③宇喜多直家の木像
※Wikipediaより

宇喜多直家(なおいえ:絵➂)は、主君であった浦上氏の下剋上の機会を虎視眈々と狙っていた。この備前の浦上氏は、隣国である毛利氏(備中)とは常に対立関係にあった。これは、宇喜多にとって、敵(浦上氏)の敵は毛利ということになる。る。

「敵の敵は味方」という諺通り、直家は毛利と手を組み、浦上氏と敵対した。その後、経緯は複雑だが、結果として宇喜多は浦上氏を備前から追放し、名実ともに備前のナンバーワンとなることに成功した。

備前の掌握が成功すると、もはや毛利と手を組む理由は是々非々となった。そこに信長の命を受けた秀吉が中国方面へ侵攻してくる。直家はすかさず毛利を見限り、秀吉を介して信長陣営へと寝返ったのである。

宇喜多直家の信長陣営への鞍替えが早かった理由の一つは、備前の東隣、摂津・播磨で起きた荒木村重の悲劇を間近で見ていたからに他ならない。(絵④)

④荒木村重(歌川国芳)
※Wikipediaより
口に咥えているのは、信長に無理やり
押し込まれた餅

村重は、信長に反旗を翻し毛利を頼ったが、毛利は全く動かなかった。援軍を首を長くして待つ間、信長軍によって村重の家臣やその家族は数百人が火炙りにされ、彼の妻までもが京で斬首されるという悲惨な運命を辿った。これほど陰惨な事態を迎えても、村重は信長に降伏せず、動かない毛利を当てにしたため、家臣の求心力をすべて失ってしまった。最終的に村重は失踪するという最悪の事態を迎えるのである。

この経緯を見れば、直家が「毛利も焼きが回った。なぜ村重を見殺しにしたのか」と考えたのも無理はない。

しかし、長年毛利側につき信長と対峙していた直家は、当初、信長から家臣となることを拒否された。信長からすれば、主家であった浦上氏を裏切り、次に毛利を裏切った直家を信用できないと考えたのだろう。その後、秀吉が間を取り持ったことにより、宇喜多家は以後、秀吉、いや豊臣家に忠誠を尽くすのである。

(2)秀吉出撃の引き金:八浜合戦

秀吉に「自ら中国攻めに出撃しなければならない」と決断させたのが、宇喜多と毛利の大衝突、八浜合戦である。(地図⑤)

⑤八浜合戦の地理的位置等
※出典:ブログ「今日は何の日?徒然日記」図を加工

結論から言えば、この合戦で宇喜多勢は毛利に大敗北を喫した。

この時、強力なリーダーシップを発揮していた宇喜多直家は岡山城で病死しており、本家を継いだ秀家はわずか10歳であった。そのため親族からのサポートが必要であり、その筆頭が宇喜多忠家(直家の異母弟)なのである。

毛利は直家が死去したことを知るや、手を組んでいた村上水軍を岡山沖へ出撃させた。これにより、宇喜多の本拠の目と鼻の先である瀬戸内海地域の制海権を毛利側が掌握したのである。

天正10年(1582年)2月、毛利軍は八浜城方面へ進軍した。

ある朝、馬草刈りをしていた数名の宇喜多兵を、毛利兵数名が追い払おうとしたことから事態はエスカレートした。宇喜多軍が援護兵を出すと、毛利側も応戦。小競り合いは次第に大きな戦へと発展したのである。

毛利側は村上水軍も投入した。村上水軍は、九鬼水軍の鉄甲船には敗れたとはいえ、第一次木津川口の戦いでの活躍からもその強さは明らかであり、宇喜多勢は対抗できなかった。結果、幼い秀家の名代として出陣していた宇喜多基家が戦死するという大敗を喫した。

この八浜合戦における宇喜多の壊滅的な敗北は即座に秀吉に伝えられた。これが、秀吉自身が中国攻めで主体的に備中方面へ動かねばならないと考えた、決定的要因となったのである。

(3)秀吉の備中進行

天正10年3月、秀吉は姫路城を出発し、3万の兵を率いて備中へ進軍を開始した。中旬ごろには、宇喜多の沼城(ぬまじょう)へ入城。そこで16日間滞在し、毛利の防衛ラインの動向を探ったのである。

当時、宇喜多の備前と毛利の備中の境には、毛利軍の7つの城が存在し、これが防衛ラインとなっていた。(図⑥)

⑥毛利軍の防衛ライン「境目七城」

この七城周辺では小競り合いが多発していた。既にこの時点で、備中高松城の北側二つの城(宮路山城、冠山城)は秀吉軍が攻略済みであり、さらに南側の加茂城も秀吉側に寝返っていた。そしていよいよ、水攻めで有名な備中高松城攻めが開始されるのである。

(4)備中・高松城攻め

備中高松城の周囲は低湿地となっており、足守川(あしもりがわ)が氾濫すれば冠水してしまうような平城であった。(写真⑦)

⑦足守川氾濫時(1985年6月)の高松城址水没写真(上)
※下は比較のため14年後の通常時に撮影した高松城址

秀吉はこの城に対し、黒田官兵衛の策である水攻めを採用した。秀吉軍は直ちに城の周囲に堰を築く突貫工事に着手し、約3kmにも及ぶ堤防を12日間で完成させた。

5月に入り、梅雨時でもあったため、堰き止めの効果はすぐに現れ、城は水没状態となった。食料の搬入が困難となり、城の守備兵5千人の士気は急速に低下した。

布陣図を見ると、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の正面を受け持つのは宇喜多勢であった。(地図⑧)この高松城攻めにおいて、清水宗治と隣国である宇喜多との戦いが主になったのは、宇喜多勢が土地に明るいという理由もある。しかし、八浜合戦での敗北の汚名を雪(そそ)ぐという意味合いも大きかったのだろう。

⑧高松城水攻め布陣図
※蛙ヶ鼻築堤跡看板から

2.本能寺の変

秀吉の巧みな点は、このまま待てば落ちる高松城であるにもかかわらず、信長に対して「御出馬願わないと、サルのみでは手に負えません」と、信長を立てることを忘れなかった点だろう。

無論、高松城の援軍に出てきた小早川隆景吉川元春を合わせた毛利軍は5に上る。(地図⑧の左下側)

一方の秀吉軍は3

⑨高松城水攻め時の秀吉本陣からの眺望
ちょうど正面の寺院のような辺りが高松城辺り

この毛利本隊との決戦となれば、やはり信長御大将の出陣が必要となる。これは単に兵数を増やすためだけではない。信長公のお呼び出し方式であった長篠合戦(呼び出したのは家康だが)とも似た、政治的な思惑があった。秀吉はそれらを想定して、信長へ出馬を促したのだろう。これにより、信長も坂本と丹波に軍拠点を置く明智光秀の軍勢を伴って、秀吉の陣中へ駆けつけるという行動に移ったと思われる。

しかし、安芸の毛利拠点から支援に来た吉川・小早川軍は高松城の南西に布陣したものの、城は既に水没していた。軍事行動を起こすには手遅れであった。

また、実は毛利軍の5万という兵数は、秀吉が自己の実績を大きく見せるため誇張したものであって(『浅野家文書』)、実際には1万程度しか出兵していなかった可能性も指摘されている。

ともあれ、毛利軍は動かず(動けず)、結局、清水宗治の切腹による和睦が成立するまで、わずか17日間で決着がついた。無論、「信長出馬か?」という情報や噂が毛利軍に伝わっており、常勝・信長が来る前にケリをつけて安芸へ帰らねばまずいという危機感はあったのだろう。

しかし、秀吉が信長に出馬を願ったのは、吉川・小早川軍との対決という危機感から、というよりも、まずは信長を立てて機嫌良くさせること、さらには稀代の水攻めによる圧倒的勝利を信長に見せつけたかったのではないだろうか。

この状況で最も辛い立場にあったのは、それに乗せられた明智光秀である。この当時の光秀は、信長の信任がかなり篤かった。これは、京を挟んだ東西の重要地である坂本丹波という二つの地を与えられていることからも窺い知れる。

家康の饗応役で失態を犯したからだとか、金柑頭を欄干に叩きつけられたといった、庶民的な感情に訴える伝承は数多くある。だが、それら全てが、信長の愛情の裏返しを表現した逸話に尾ひれはひれが付いた話ではないかと私は考えている。

しかし、家康の饗応役を外し、信長と一緒に中国攻めに行かせようとした際の「中国は取り放題だが、旧領の二国(近江志賀郡と丹波国)は没収する」という冗談じみた言葉は、光秀にとって行き過ぎた仕打ちであったのかもしれない。

もっとも、この説ですら確たる証拠はない。細川藤孝へ宛てた信長文書を見る限り、光秀には相当な信頼を置いていることが分かることから、やはりこれは俗説ではないかという見方もある。(手紙⑩)

⑩「本能寺の変」直前の織田信長朱印状

《⑩の朱印状訳》

中国地方への進出は来年の秋を予定していたが、この度、備前の児島で敗北した小早川隆景注1]備中高山城注2]籠城。羽柴藤吉郎(秀吉)の軍が包囲しているとの注進があった。
指示次第で出陣できるよう用意せよ。油断せずに用意しておくように。詳細は惟任日向守(明智光秀)に申し伝える。

4月24日 信長[朱印]

  • 注1:児島(八浜合戦)で敗北したのは、先に述べた通り宇喜多であり、小早川ではない。
  • 注2:備中高山城は誤情報、高松城。更に籠城したのは小早川ではなく、清水宗治ら。

前述の手紙の注釈から、この時代に正確な事実(FACT)を把握することが難しかった状況がうかがえるのは興味深い点だ。ここで着目すべきは、この手紙が4月24日に書かれたという事実であると私は考える。

本能寺の変が起きたのは6月2日であるから、この手紙は一か月以上も前に出されたことになる。つまり、中国攻めについては、一か月以上も前から信長と光秀の間で議論されており、光秀も計画を認識していたということになる。

そうなると、「家康の饗応対応に腹を立てた」とか、「急に旧領を召し上げて中国を切り取れと命じられた」といった説は、やはり後世の創作ということにならないだろうか。

兎にも角にも、本能寺の変は起きた。

織田信長の死は、備中高松城の水攻めに膠着していた全軍の運命を一変させた。

本能寺の変について詳しく論じ始めればきりがない。よって、この辺りまでの言及に留め、ここからは秀吉が天下人への道を決定づけた、歴史的な奇跡の機動、「中国大返し」の顛末を追うこととする。

3.大返し開始

明智光秀から毛利へ向けた使者は何度か出されたようだが、それらはすべて秀吉の陣中で捕縛されたという。秀吉らは、この重大な情報を自軍にすら知らせず完全に隠蔽したため、毛利側は、城主・清水宗治の切腹による備中高松城の落城後に初めてそれを知ったというのが通説である。

ただし、ここで疑問が生じるのは、毛利軍の主力は吉川・小早川軍だけではないという点だ。山陽道沿いに使者を走らせるルート以外にも、情報を伝える方法は複数あったはずである。毛利側が本能寺の変を知ったのは、対信長として共闘した紀州の雑賀衆(さいかしゅう)からもたらされた情報であり、それは6月5日のことであった。

光秀が本能寺の変を起こしたのが6月2日。そこから2~3日の間に毛利側も変事を知れば、秀吉を釘付けにできるだろうという甘い見通しが、光秀の最大の失敗であった。そもそも当時の情報は混乱していたため、光秀といえども、水攻めで6月4日に清水宗治が切腹したという情報を正確に知る由もなかったのだろう。毛利が6月5日に変事を知ったのは、光秀の予測範囲内だったと思われる。

だが、その予測は甘かった。当時の情報伝搬の常識がその程度の速さだとすれば、秀吉はそれを知っていたからこそ、その裏をかき中国大返しで、いわゆる超「速攻」にこだわったのだろう。

先に述べたように、秀吉は自力で落とせる備中高松城を、わざわざ信長を立てるために呼び寄せようとした。信長も秀吉の魂胆が分かっていたのかもしれない。しかし、現代の上司が部下にするように、信長は光秀に中国侵攻がいかに大変かを説いたはずだ。「光秀はプレッシャーが大きければ大きいほど、大きな働きをする」という部下マネジメントの観点からであろう。結果的に信長の判断は正しく、光秀は「本能寺の変」という「大きな働き」をしてしまう。

光秀の性格からして、援軍のための準備は抜かりなくやったに違いない。であれば、援軍を請うた秀吉が、信長無しで2〜3日で備中高松城を落とせるはずがないと考えるのは、光秀にとって当然の判断ではなかっただろうか。結果的に、これが光秀の「甘い判断」となった訳だが、後から歴史を知る人だから言えるのであって、光秀の能力不足の問題ではない。

いずれにせよ、既にこの時、秀吉は備前の沼城まで走り抜けていたのである。(写真⑪)

⑪沼城本丸跡
宇喜多秀家の旗印「兒」が沢山立ててある
ちなみに
「兒」は手紙⑩の文中にある児島の
「児」の原字である。

沼城へ到達した秀吉は、ここで一旦停滞している。一応は毛利の追撃の有無を確認したためとされる。

しかし、別の一説では、高松城を水没させた梅雨前線が激しく吹き荒れたため、この城の東側を流れる大河・吉井川が氾濫し、足止めせざるを得なかったというものもある。秀吉は天候を恨みながらこの城に留まったというが、こちらの方が追撃確認説より筋が通っているように思える。

仮に追撃があったとしても、沼城で迎撃するよりも、規模の大きな岡山城の方が堅固である。また、この後一昼夜で辿り着く姫路城は秀吉軍の本拠なのだから、なぜ沼城でぐずぐずする必要があったのか疑問が残る。

そして、六月八日晴天をもって大返しは再開された。十九里(七六キロ)の道のりをわずか一昼夜で駆け抜け、秀吉は姫路城へ到着。

ここ姫路城で、秀吉はストックしていた食料や金銀を、大返し中の兵たちに大盤振る舞いで与えた

それは取りも直さず、この大返しの帰結が秀吉の死活を決めるほどの大きな賭けであったからだ。もし失敗すれば、姫路城の財産など何の意味も持たなくなる、そう判断したのである。

この後の大返しと山崎の戦いは、次回に描きたいと思う。

精読感謝。

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