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日曜日

北斗七星を追え! ~光秀と天海①~

①日光東照宮陽明門と北極星

元和2年(1616年)4月17日。戦国の乱世に終止符を打ち、泰平の礎を築いた徳川家康が、駿府城にてその激動の生涯を静かに閉じた。

だが、その死は決して物語の終焉ではなかった。家康の死と同時に、徳川の治世を数百年先まで持続させるための巧妙な「大きな仕掛け」が発動したのである。当時の人々は、その後に長く続く平穏が、いかなる意志によって設計されたのかを知る由もなかった。

江戸時代は約260年もの長きにわたった。これは鎌倉時代の1.8倍、室町時代の1.2倍に相当する。特筆すべきは、その大半が戦のない「泰平の世」であった点だろう。鎌倉時代は元寇などの国難に見舞われ、室町時代も後半の約半分は絶え間ない戦火の中にあった。これらと比較すれば、江戸時代の平和な期間が、いかに異例であったかが分かる。

さて、今回はこの「大きな仕掛け」について調査した。

先に結論めいたことを描くが、以下3つの図、これらについて順に解説する形で、この仕掛けについてお話したい。(図②、③、④)

これらの「大きな仕掛け」を考案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)である。

②久能山、富士山、日光のレイライン 他

③江戸城の裏鬼門

④将門の北辰伝承による北斗七星

1.家康の遺言

では、図②から順に見ていきたい。

徳川家康が死の間際に遺した有名な遺言がある。 

「遺体は久能山(くのうざん)に納め、一周忌を過ぎたのちに日光へ勧請(かんじょう)せよ」

この言葉が発せられた瞬間、天海の頭脳の中で「仕掛け」が完成した。家康の切なる願いと、坂東の地に千年以上も深く根付いていた「北斗信仰」を融合させるという、構想である。

もちろん、当時の人々の多くは、家康が駿府(静岡市)を見下ろす標高213メートルの久能山に葬られることを、自然なことと受け止めたに違いない。亡き主君がその高地から、かつての領国を見守り続ける――。そんな光景を、人々は穏やかな気持ちで思い描いたはずだ(360°写真⑤)

⑤久能山からの眺め

有名な伝承として、江戸幕府を脅かす勢力は必ず西から来ると予見していた家康の次の遺言がある。

「我が亡骸は西国に向かい、立ち姿で久能山へ納めよ。死してなお立ち姿を崩さず、天下の安寧を乱す者を睥睨(へいげい)す」

事実、久能山東照宮に安置された家康の棺(ひつぎ)は、その主がいまも毅然と立ち、鋭い眼光を放っているのではないかと思わせるような、独特の佇まいを見せている。(写真⑥)

⑥久能山東照宮の家康の棺
※しっかり西を向いて建っている

⑦天海僧正
(川越歴史博物館蔵)
実際に、家康の死から約260年もの間、西からの大きな脅威が幕府を揺るがすことは、ついぞなかったのである。

2.天海大僧正は明智光秀か

ではなぜ、一度葬った遺体を移動させる必要があったのか?なぜ、日本一の霊峰・富士山を跨ぐようにして「久能山」と「日光」は配置されたのか?

そこには、家康の側近であり「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)が描いた「風水都市・江戸」の設計図が隠されていたと言われる。(写真⑦)

天海は謎多き人物である。数ある伝承の中でも特に有名なのが、「天海の正体は、山崎の戦いで生き延びた明智光秀である」という説だ。

光秀が羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から消えたのは天正10年(1582年)。それから6年後の天正16年(1588年)、入れ替わるように歴史に足跡を刻み始めたのが天海であった。彼は無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市・喜多院、川越大師。360°写真⑧)の住持として、初めてその名を名乗っている。

両者の生誕時期には諸説あるが、年齢的にも光秀と天海はほぼ重なる。光秀が高齢の武将として亡くなった(55歳)とされるが、もし彼が天海として再生したのだとしたら、その後の天海の活躍はまさに驚異的な「遅咲き」と言えるだろう。

 ⑧喜多院(川越市)         

更に脱線して申し訳ないが、もう少し「天海が光秀だった伝承」について述べたい。この伝承の主な根拠として、以下4項が挙げられる。

  • 比叡山の修築:織田信長によって焼き討ちされた比叡山。ドラマでもよく見るように光秀はこの焼き討ちに不満を持っており、焼き討ち後は復興を願っていた。焼き討ち当時比叡山に居たとされる天海がその再興に尽力したことは、光秀の悲願を継いだようにも見える。
  • 恵林寺・快川紹喜(かいせん じょうき)との交流の共通性:比叡山焼き討ちで居場所を失った天海は、この焼き討ちに同情的であり、信長と敵対する武田信玄に招聘されて甲斐国に移住。そして天海は武田家が滅ぼされる時「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との名言で有名な快川紹喜とも親交があり、恵林寺山門での焼死については、かなり心を痛めたという。心を痛めたというのは光秀もほぼ同じ話がある。
  • 「明智平(あけちだいら)」という地名: 日光にある絶景ポイント「明智平」の名は、天海が「明智の名を後世に残すために命名した」という伝承が残っている。
  • 家光の乳母・春日局(かずがのつぼね)との密談: 斎藤利三(としみつ、光秀の重臣)の娘である春日局が、天海と対面した際に「お久しぶりです」と挨拶したという逸話も、二人の密接な関係を予感させる。

⑨日光東照宮にある桔梗紋?
かつては、日光東照宮に光秀の家紋である「水色桔梗」に似た紋が彫られていたという話も伝承化していたが、これは多くの研究家が桔梗に似た他の文様であると検証している。また天海が1643年に亡くなっており、光秀は1528年生まれなので、115歳という高齢が「尋常でない」ということで「天海≠光秀」説を唱える人は多い。(写真⑨)

ただ、天海自身108歳という高齢で亡くなったというのは有力説であり、その差は7年である。この時代「115歳がありえない」というのであれば108歳はいけるのだろうか?

3.本当の「光秀⇒天海」説

史実は、十中八九「天海≠光秀」なのだろう。ただ、身勝手な妄想ではあるが、以下のような仮説はいかがであろうか。

有名な比叡山焼き討ちの時、若き天海(当時は随風と名乗っていた)は比叡山に居た。

比叡山焼き討ちが行われる元亀2年(1571年)、比叡山側も、当時朝倉・浅井軍の叡山結託に手を焼いている信長が本気で山を焼こうとしていることは察知していた。実際「信長公記」にはこの比叡山焼き討ち前の信長からの「最後通牒」について記述している。

  1. 信長側に味方せよ。 そうすれば、以前没収した寺領をすべて返還する。

  2. せめて中立を守れ。 朝倉・浅井の軍勢を山から追い出せ。

  3. どちらも拒むなら、焼き払う。 根本中堂をはじめとする全ての伽藍を灰にする。

この交渉窓口に、明智光秀が関わっていた可能性は極めて高い。

⑩比叡山の天海住坊跡
そして元亀2年(1571年)9月12日の焼き討ち決行の直前、追い詰められた比叡山側は、信長に対して黄金300枚を贈り、土壇場での攻撃回避を試みたという記録が残っている。

『信長公記』などの史料によれば、信長はこの露骨な買収工作を「汚らわしい」と一蹴。懐柔を撥ねつけ、翌朝の総攻撃を命じた。歴史の転換点となったこの交渉の場で、山側の使者として黄金を携えていたのは一体誰だったのか。その正体については詳らかではないが、そこに智謀に長けた若き日の天海(随風)がいたと考えるのは、決して不自然な空想ではないだろう。(写真⑩)

一方、織田側の実務を担っていたのは光秀である。利害を異にする二人が、炎に包まれる直前の比叡山で言葉を交わし、互いの才を認め合った――。この未曾有の危機の最中にこそ、光秀と天海(随風)の密かな親交が始まったのではないだろうか。

4.甲斐国への亡命支援

たとえ先述の黄金交渉に直接関わっていなかったとしても、比叡山焼き討ちの際、光秀と天海(随風)が接触した可能性は他にも残されている。その鍵を握るのが、当時の天台座主(てんだいざす:天台宗の最高責任者)・覚恕(かくじょ)の動静だ。(写真⑪)

当時の座主・覚恕法親王は、時の正親町(おおぎまち)天皇の弟にあたる人物であった。皇族に対し並々ならぬ敬意を抱いていた光秀が、戦火に包まれる比叡山から覚恕を救い出し、武田信玄を頼って甲斐国(山梨県)へと亡命させたという説がある。

注目すべきは、天海(随風)もまた、この時期に同じく甲斐へと逃れている点だ。

ここから一つの仮説が浮かび上がる。光秀は「尊い座主の身を守る」という極秘任務を遂行するため、最も信頼できる実務者として随風を選んだのではないか。若くして智略に長け、南都(奈良)や東国の情勢にも精通していた随風は、亡命ルートを確保するための特使として、これ以上ない適任者だったはずだ。

光秀が道を切り拓き、天海(随風)が座主を導く。この亡命劇こそが、二人の絆を決定的なものにした「真の接点」だったのかもしれない。

⑪信玄のもとに逃げ込んだ覚恕(春風亭小朝)
大河ドラマ『麒麟がくる』
第34回(11月29日放送)より

比叡山延暦寺の焼き討ちという未曾有の惨劇に、天海(随風)がどう関わったのか――。その事実を裏付ける直接的な文献は、いまだ見つかっていない。しかし、天海(随風)、光秀、そして覚恕。この三者の運命が、これほど巨大な歴史の転換点において一度も交錯しなかったと断じるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。

激動する情勢の中で、皇族を守ろうとする光秀の「矜持」と、知略を尽くして山を救おうとする天海(随風)の「志」が共鳴したといえる。

5.快川紹喜との交流

一説によれば、武田信玄は比叡山延暦寺を甲斐の身延山へ移転させる壮大な計画を抱いていたという。覚恕は亡命からわずか2年で京へ戻るが、天海(随風)は信玄の参謀として、そのまま甲斐国に留まったとされている。

この甲斐滞在期において、随風は武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と深い交流を持った。恵林寺の寺伝や一部の史料には、彼が快川から禅の教えを受け、深い感銘を受けたという伝承が残されている。

一方、見逃せないのが明智光秀との関係である。快川紹喜と光秀は、ともに美濃国(岐阜県)の名族・土岐氏の血を引く者同士であり、旧知の仲であったとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻により、武田家は滅亡の運命を辿る。一門および家臣団が総崩れとなる中、快川紹喜は恵林寺の山門に追いやられ、生きたまま火を放たれて壮絶な最期を遂げた。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉を残したあの事件である。

この惨劇に対し、光秀は激しく心を痛め、深く嘆き悲しんだと伝えられている。そこには、単なる知己の死への哀悼を超えた、同じ土岐氏の血を引く者としての強い連帯感があったのだろう。(写真⑫)

⑫恵林寺山門
※左の柱に「心頭を滅却すれば火も
自ずから涼し」が書かれている

この時、信長に同伴して甲斐攻めに来ていた光秀が、快川紹喜の悲報と同時に、天海(随風)についても「死亡」との報を得たとしたらどうだろうか。

快川紹喜や天海(随風)といった至高の教養人と通じ、彼らを文化の守り手として敬重していた光秀にとって、信長の所業は耐え難いものであった。比叡山を焼き、恵林寺を焼き払い、文化の源泉を次々と灰にする信長の破壊衝動。そこに追い打ちをかけるように、あの有名な「打擲(だちょう)」の事件が起きる。

「うぬは甲斐攻めで何を苦労したというのか!」

諏訪の地で放たれた信長の激昂。信長は光秀の言葉を遮り、額から血が流れるまで扇子で打ち続けた。この理不尽な暴力は、光秀の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。文化を愛する教養人としての矜持も、主君への忠誠心も、この瞬間に限界を超えたのである。

密かに謀反の決意を固め始めた光秀の脳裏には、ある「壮大な構想」がおぼろげながら浮かんでいたはずだ。それは、もし万が一、謀反の果てに自らが歴史の表舞台から消えることになった際の、現代で言うところの「BCP(事業継続計画)」であった。

「いざとなれば、天海(随風)殿の名を借りよう――」

死んだとされる随風になり代わり、僧侶として生き永らえ、影からこの国を導く。のちに「天海」として家康を支えることになる驚天動地の計画が、屈辱にまみれた諏訪の夜に産声を上げたのかもしれない。

6.天海への転身と周到なる計画

「打擲(だちょう)」の屈辱からわずか3か月後。天正10年(1582年)6月2日、歴史を塗り替える「本能寺の変」が勃発した。

変の動機については、怨恨説や四国政策をめぐる対立説など、500年以上にわたって議論が絶えない。ここではその詳細には立ち入らないが、光秀が「思いつき」ではなく「周到な計画」のもとに動いた、という説を前提に話を進めたい。

当時の光秀は、近江(滋賀県)の要衝・坂本に加え、平定したばかりの丹波(京都府・兵庫県)も領有していた。まさに京の都を東西から挟み撃ちにする絶好の配置である。さらに彼は、他方面の有力武将たちがそれぞれ敵対勢力と交戦中で、すぐには動けない状況にあることも完全に把握していた。

⑬明智藪
※山崎の戦いに敗れた光秀が
藪から槍で脇腹を刺された
信長は、わずかな手勢とともに本能寺に宿泊している――。光秀はこの「千載一遇の好機」を見誤ることなく、冷静かつ計画的に活用した。これほど緻密な計算ができる男なら、万が一失敗した際の「コンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)」、すなわち「プランB」を練っていたと考えるのが自然だろう。

そして、そのプランBこそが「天海(随風)へのなりすまし」であった。

運命の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れた光秀。本拠地・坂本へ退却する途上、山科(京都市)の小栗栖(おぐるす)にて農民に襲われ落命したとされるが、その最期には不自然な点が多い。(写真⑬)

伝承によれば、竹藪から突き出された農民の槍に脇腹を深く刺され、自刃を覚悟した光秀は、側近に「自分の首を秀吉軍に渡さぬよう、地中深く埋めよ」と命じたという。

ところが、その後の経緯は謎に包まれている。命じられた側近もその場で自害したため、首の埋め場所は永遠の闇に葬られたという説。あるいは、農民たちが一部始終を見ており、首を掘り返して織田信孝や秀吉に届けたという説。まさに諸説紛々であり、光秀の死を確定させる決定的な証拠は、今なお存在しないのである。(写真⑭)

7.プランBの発動――天海(随風)として北へ

⑭山科にある
光秀胴塚
私が想定する光秀の「プランB」は、実に大胆かつ緻密なものである。

「山科では、別の者の首を身代わりに埋めることで光秀は死んだものと見せかけ、自身は密かに北上して近畿圏を脱出する。そして、当面は地方で『天海(随風)』になりすます」というものだ。

武田家が滅び、随風が快川紹喜らと共に消息を絶ってから、わずか3か月。光秀ほどの教養人が突如として僧侶に転身すれば、本来なら周囲の疑念を招くだろう。しかし、武田の食客であった「随風」という名の下であれば、主家滅亡によって流浪の身となった高僧として、諸国の人々に無理なく受け入れられたはずだ。

光秀がまず身を寄せたのは、当時、蘆名(あしな)氏が統治していた会津であった。

蘆名氏は会津に金山を保有し、その豊富な資金力を背景に足利義昭へ頻繁に貢物を送り、官位を求めていたことで知られる。かつて、その仲介役を担っていたのが光秀であった。つまり、蘆名氏と光秀の間には以前から深い信頼関係があったのだ。

さらに、天海(随風)自身の出自が蘆名氏の一族であるという説を、光秀は事前に掴んでいたのかもしれない。偽装工作を完璧なものにするためには、その名に縁の深い場所へ身を隠すのが最も賢明な判断である。こうして光秀は、かつての知己を頼り、北の地で「天海(随風)」としての静かな再スタートを切ったのではないか。

長くなったので、この後の天海=光秀説、更には天海の「大きな仕掛け」について引き続き描いていきたい。

ご精読に感謝。

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【久能山東照宮】〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390
【喜多院(無量寿寺北院)】〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
【日光東照宮】〒321-1431 栃木県日光市山内2301
【明智平展望台】〒321-1445 栃木県日光市細尾町
【天海大僧正住坊趾(南光坊)】〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
【恵林寺】〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
【明智藪(小栗栖)】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町


火曜日

北斗七星を追え② ~将門と安倍晴明~

前回までのあらすじ

 前回、平 将門と平 良文(よしふみ)の前に現れた妙見(北極星・北斗七星の神)が、この二人を支援して、坂東8か国を束ねるまでに発展させてくれたことを書きました。将門はこの坂東における栄華に、自らを「新皇」とし、中央政権に対抗しようとする姿勢を見せます。妙見はこれを驕慢とし、将門を離れ、平 良文の元へ。そこから8代後が、千葉常胤となり、名家・千葉一族は妙見を一族の神として深く信仰していくのです。

ここまでが前回のお話でした。

今回は、将門と、希代の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)との関係についての伝承話をさせてください。

その前に、前回の最後に少し頭出しをさせて頂きました平 良文は平姓ですが、8代後の常胤は千葉姓に変わっていることについて考証してみましょう。

1.「羽衣の松」伝承

この伝承、千葉県庁前の松の木に由来があるようです。(写真①)

①千葉県庁前にある「羽衣の松」

手前の看板に以下のようなことが書かれております。

「当時、亥鼻(いのはな)城下であるこの地に『池田の池』という美しい池がありました。
池には千葉(せんよう)の蓮の花が咲き誇り、花盛りの頃には沢山の人が見物に来るほどでした。
何時の頃からか、静かな夜に、ここに美しい天女が舞い降り、この松に羽衣をかけて、しばし蓮の花に魅入っているという噂が立ちます。
 これを聞いた当時の亥鼻城主・平 常将(たいらのつねまさ)。その美しい天女を自分の妻にしたいと思い、家来にこの松に掛けられている羽衣を隠すように命じます。天女は天に帰ることができず、常将の妻となり、やがて立派な男子を生んだといいます。
 『妙見実録千葉記』には、この事情を聴いた天皇が深く感銘し、前代未聞、常将は今後、千葉の蓮の花にあやかり 千葉 常将と名乗れと言ったとあります。」

千葉県の千葉が、まさか池の蓮の葉千枚とは知りませんでした。(写真②)
②蓮の葉千枚

まあ、この伝承、三保の松原にある羽衣伝説と良く似ていますし、大体、蓮の花は夜は閉じていますよね。朝7時~9時頃に開花して、夕方には閉じてしまうはず・・・。そういう意地の悪いツッコミは夢が無いので置いておきます(笑)。

天女が生んだ男の子が千葉常長です。千葉一族創生の頃の大物です。常長は前九年の役・後三年合戦で源頼義・義家父子に従って戦功を立て、大いに繁栄し、常長の子が千葉氏、原氏、相馬氏、上総氏の祖となって、後の頼朝旗挙げ時の千葉常胤や上総広常の大貢献につながるのです。

流石天女の子ですね。しかし、常将の妻は「中原師直の娘」という記録があります。「鎌倉殿の13人」に中原 親能(なかはら の ちかよし)という貴族が出てきたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。

③鳥取県東郷池にある羽衣天女
と北斗七星
また、当時、京の貴族を「天人(あまびと)」と呼んだそうです。

つまり、想像すると、妻は「
中原師直の娘」という貴族の娘で「天人」。「天人」の女性は「天女」なので、いつしか中原師直の娘=京から来た女性=天女」ということで、この話を作った常将が帝に奏上したところ、「上手い!では千葉(せんよう)を下賜しよう。」とこれまた上手い返しを帝もしたのではないでしょうか。

そう思うと、天女の羽衣伝説から付いた「千葉」の伝承も、現実味があって面白いですよね。あと、実はこの羽衣伝承の話、平将門、良文から連綿と千葉一族まで続く、妙見信仰と無関係ではありません。

この話を作った常将が帝に奏上」と言いましたが、日本全国にある「天女の羽衣」伝承で、最後、天女が空に帰っていくという場面がありますが、この天女は北斗七星から来たという伝承が殆どです。(写真③)

もしかしたら、平 将門の子々孫々は妙見信仰を固持していくという信念が作り出した伝承を常将は帝に伝えたかったのかもしれませんし、帝も、その裏にある一族の信仰を認めたればこそ、伝承とは分かっていながら、蓮の「千葉」を姓として下賜したのだとすれば、何と雅な大人の対応が千葉県の名前の由来にあったことになるのでしょう!

2.安倍晴明は平 将門の息子だった?

さて、平 将門の話に戻します。将門が北斗七星の化身・妙見から見放されて、滅んでしまうお話をしました。(写真④)
④神田山にある将門の胴塚
(後ろのイヌマキが立派)

⑤安倍晴明と信太森の白狐
(安倍晴明神社)
また、先に述べました通り、将門を見限った妙見菩薩は、最初に出会った将門以外の人物・平 良文の基へ走ります。

この良文、将門の嫡子・将国(まさくに)を護り、常陸国信太(しのだ)に落ち延びさせたという伝承があります。


一方、関西の方は良くご存じだと思うのですが、陰陽師で有名な安倍晴明の誕生には「信太の森の白狐」という伝承があります。(写真⑤)

この伝承を、簡単にご説明します。

◆ ◇ ◆ ◇

陰陽師の師匠が急病で亡くなります。となると、高弟の誰が陰陽師の奥義を継ぐのかの問題に巻き込まれる安倍保名(あべのやすな)。安倍晴明の父となる人です。

ところが、その奥義書が盗まれ、その失態の責を負った
師匠の娘・「榊之前」という保名の恋人が自害してしまいます。悲観に暮れて和泉国信太森を彷徨していた保名。この森で狩人に追われていた白狐を庇い、自分は重傷を負いながらも、白狐を逃がすのです。

誰ぞに介抱されて目覚めると、そこにいたのは榊之前
「葛之葉姫」。彼女は姉にそっくりだったこともあり、保名はこの葛之葉姫と結婚し、息子が生まれます。これが後の安倍晴明。
⑥葛の葉姫(安倍晴明神社)

幸せな日々を保名と葛之葉姫が過ごしていたある日、一人の女性が保名を訪ねてきます。その名は葛之葉姫。

「これはどうしたことか」と妻、つまり晴明の母親の方を保名が見ると、つい今しがたまでは若い女性の姿だったのが、そこには信太の森で助けた白狐の姿が・・・。

正体がバレてしまった白狐は、晴明を保名に託し、断腸の思いで信太の森へ帰って行ったというお話です。(写真⑥)

その際に、息子・晴明に書き残したという有名な歌があります。

「恋しくば 訪ねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

意訳:母を恋しいとい思うのであれば、訪ねて来て欲しい。和泉国の信太の森にいる侘しい葛の葉である私を。

◆ ◇ ◆ ◇

これが「信太の森の白狐」の正統な伝承であり、江戸時代には近松門左衛門が浄瑠璃等にして、有名になりました。

実際私もこの森に足を運び、その雰囲気を感じてきました。(写真⑦)
⑦信太森神社(関西三大稲荷)

ところが、信太という土地は、常陸の国(茨城県)にもあります。(写真⑧)

⑧茨城県美浦村信太
しかも、先に述べた平 将門の息子・将国を良文が逃がした場所が信太。後に将国は、信太(田)姓を名乗り、将門の子であることを隠して生き延びたという記録が残っているようです。

そこで、異なる伝承が唱えられます。

「安倍晴明は和泉国ではなく常陸信太の出身で、実は平 将門の息子・将国であった。」

そして、晴明となった将国は、京に上り、花山天皇の信頼を得て、父・将門の夢であった東国に独立国を作ろうとしたというものです。花山天皇が17歳で即位し、19歳という短期間で退位するのも、晴明(将国)が東国にて花山天皇を立てようとしたという伝承です。

うーん、これはまた異な!と皆さまお思いでしょうが、この伝承の裏っぽい史跡があるのですよ。ご紹介します。

3.五方山熊野神社

東京は葛飾区にあるこの神社、一見普通の神社のように見えるかもしれません。(写真⑨)
⑨五方山熊野神社(東京都葛飾区)

ところが、この神社の境内をマップで見ると、見事な正五角形。(写真⑩)
⑩境内は綺麗な五角形

そう、ここは、安倍晴明が造った唯一関東にある神社なのです。
どうやら、花山天皇退位後、熊野大社、那智の滝経由で、一緒にここに立ち寄り、熊野大神を勧請したとのこと。やはり花山天皇と、ここ坂東に将門の遺志を継いだ新国家を作ろうとしたのですかね。
伝承として、1つの状況証拠になるかもしれない五方山熊野神社です。

4.安倍晴明生誕の地

安倍晴明が生まれた場所として、一番有名なのは、勿論、大阪は阿倍野区にある安倍晴明神社ですね。(写真⑪)
⑪安倍晴明生誕の地として有名な安倍晴明神社
(大阪市阿倍野区)

ところが、常陸の国(茨城県)にも、晴明の生誕地はあるのです。(写真⑫)
⑫常陸の国(茨城県)明野町猫島にある安倍晴明生誕の地

大阪天王寺あたりのにぎやかな界隈に比べると、常陸の国の生誕地はかなり静かなルーラルエリアになりますが、確かに、この広大な平地と筑波山、天文学や暦の知識を駆使する陰陽道の素養を養うには、ピッタリの場所に感じました。

5.金烏玉兎集

では、この東国に根強く伝承される安倍晴明、常陸国出身説は何処から来るのでしょうか。これは史料が残っています。(写真⑬)
⑬三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝
金烏玉兎集
(略称「簠簋内伝」)

「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」という陰陽道の秘伝書です。

めちゃめちゃ長い名前の資料ですね。ロングネームは、陰陽道という難しそうな学問に合う荘重さがありますが、金烏玉兎集とか簠簋内伝(ほきないでん)等の略称で皆呼んでいます。

この陰陽道の秘伝書に対して、後世注釈書として「簠簋抄(ほきしょう)」というものが書かれました。こちらに安倍晴明の様々な伝承などの記述があります。
先に述べた「信太の森の白狐」伝承も、この本に書かれたことを題材に近松門左衛門が脚色したもののようです。

ちょっと長くなりましたので、この書に書かれている伝承を次回お話させて頂きたいと思います。ご精読ありがとうございました。


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土曜日

北斗七星を追え① ~妙見と将門~

今回、趣向を少し変えたお話をさせてください。

妙見信仰についてです。この信仰対象は北極星または北斗七星等の天体なのです。普通の神仏信仰とは少し変わっています。

この妙見信仰を強く持っていたのが、上総から下総、いわば今の千葉県を中心とする地域を支配していた千葉一族です。(写真①)

①千葉氏の居城とされている猪鼻城と脇に立つ千葉常胤像

何故、千葉一族が妙見信仰なのか。

この辺りをこのシリーズでは描くと同時に、その流れでかかわりの深い安倍晴明(あべのせいめい)、花山天皇、紫式部や、更に話は飛んで伊能忠敬(いのうただたか)についても調査しましたので、描いていきたいと思います。

来年の大河ドラマは「光る君へ」で、紫式部が中心となり描かれていく予定ですので、その蘊蓄も含めて、お付き合いをお願いします。

1.古代から既に天文的なセンスに優れた坂東の人たち

当初、私はこの妙見信仰の基となる北極星・北斗七星信仰が、関東に根付いた理由は、関東平野という広大な平地を形成した大きな河川(利根川や江戸川等)にあるのでは?と推論しました。古代エジプトのナイル川がカイロのデルタ地帯を肥沃にしてエジプト文明ができたように、関東平野の河川も氾濫を起こし、広大な平野を形成してきたのであれば、当然、ナイル川の氾濫時期を正確に予測したエジプトの天文学のように、関東平野でも古代の人たちは、天文学的なセンスを養ったのではないか。また氾濫後の土地割等の実施も、北極星という不動点を基準とする測量技術を使うのが一番簡易かつ正確にできることから、これらの河川の季節的な氾濫がナイル川の氾濫と同様に天文学的な素養を人々に与え、ついでに北極星・北斗七星信仰である妙見信仰が根付いたのではないかと考えました。

ところが、千葉神社に見られるような、中世以前の妙見信仰は、群馬の高崎市等、川の下流より上流に分布しています。また信濃や東北にも妙見信仰は古代から根ざしているような妙見神社の分布が見られます。

どうやら、基本は牧場のようですね。田畑を中心に考えていた私の発想も、関東平野においては間違いとは言い切れない部分はあるのですが、もっとプリミティブに、牧場等、だだっ広いところで、方角を知るのに北極星をいつも意識していた古代人がいました。方位磁石が発見されたのは、丁度平将門が生まれた頃の中国での話で、日本で普及したのはもっとずっと後世の話です。関東の民は、北極星で北を認識したのでしょう。

それがいつしか妙見信仰に変化していったと考える筋が一番素直なようです。古代は関東平野こそ牧場が多い土地だったようで、野生馬が結構走り回っていたのでしょう。それを手名付けた坂東武者たち、坂東は良馬の産地だったのです。

②北斗七星の柄杓のふちの5倍延長先が北極星
また北斗七星はご存じのように、北極星を見つけるために有用な星座です。(図②)

なので、古くから、北極星、北斗七星が天文的な有用性と相まって、信仰になっていったようですね。

映画「のぼうの城」で忍城水攻めのための本陣を石田三成が敷いた場所は、「さきたま古墳群」の中の大きな円墳・丸墓山古墳です。そしてその周りに前方後円墳が並び、これらの古墳を結ぶと北斗七星の形になります。そしてこの大きな円墳・丸墓山古墳は北極星を現しているのであろうという説もあります。(図③

③「さきたま古墳群」の北斗七星説
「さきたま古墳群に隠された北斗七星と
「異国の大神様」の謎/西風隆介」から


④そんなことは全く気にしないで
丸墓山古墳に登る筆者たち(笑)

さらに、武蔵府中熊野神社古墳という府中市付近の史跡からは、七曜紋の鞘尻金具が出土しており、
七曜紋は北斗七星を顕すということで、やはりこの辺りにも北斗七星信仰があったのではないかという推論がなされているようです。(写真⑤、⑥)

⑤武蔵府中熊野神社古墳(珍しい上円下方墳です。)

⑥出土した七曜紋の鞘尻金具

また東京・秋葉原近くにある鳥越神社の紋も七曜紋です。(写真⑦)

⑦東京・鳥越神社の社紋も七曜紋

このように、関東には古くから北極星・北斗七星信仰があったようです。

2.九曜紋を家紋として持つ千葉一族

さて、七曜紋が飛鳥時代の史跡で見つかった話から、今度は、千葉一族の家紋が九曜紋である話を検証してみたいと思います。

千葉一族の家紋は以下の2つですね。(図⑧、図⑨)

⑧九曜紋
※十曜紋とも言うようです。千葉宗家は十曜紋を使い
分家筋には、中央1、周囲8の九曜紋を使わせました。

⑨三光紋
※これは、2つの●、1つの〇が書かれています。
大きな●は太陽、白抜きの〇は月、小さな●は星
を現し、これら3つで宇宙全体を現しています。



実は、これらの紋は千葉神社(妙見本宮)の社紋にあたります。つまり、冒頭に述べた通り、千葉一族は妙見信仰である証左なのです。(写真⑩)

⑩妙見本宮(千葉神社)本殿の額周辺には上記
九曜紋や三光紋が沢山描かれています。

⑪三光紋の屋根瓦
ちなみに、写真①の猪鼻城周辺の建物は三光紋の屋根瓦が使われていました。(写真⑪)

千葉一族のルーツを遡ると、平将門に行き当たるのですが、妙見信仰は、この平将門の頃に発生したようです。

3.平将門と妙見信仰

妙見とは妙見菩薩という仏教における菩薩の一人で、北極星または北斗七星を神格化したものです。北斗七星の中の破軍星(はぐんしょう)伝承から、軍神とされたのです。(図⑫)

破軍星とは北斗七星の柄の先端にあるアルカイド(おおぐま座η星)のことで、この星を背にすると必ず戦に勝つと信じられていました。そのため妙見が軍神とみなされた訳です。

⑫破軍星は北斗七星の柄の先端
※自分が該当する干支に該当する星が自分の
守り星だそうです。皆さんどれでしょうか?
(八幡大師 大日寺HPから)

将門が、京から常陸の国元に帰り、叔父の平良文(よしふみ)と一緒に常陸の南側にある下総の敵・伯父の平国香(くにか)と戦った時は、敵に対して北側に陣を張ることになりました。

まさに破軍星を背にして戦ったのですが、この時は大勝利どころか、たった七騎にまで手勢が減るという大ピンチとなります。

するとそこに童が現れ、川を渡って南側の敵・国香軍に切り込めと将門と良文に言うのです。

川を挟んだ弓合戦で、ほぼすべての矢を射ってしまった将門軍。渡ったところで、たった七騎で矢も無ければ、白兵戦で勝利できるだけの兵数もありません。

「私を信じなさい」

⑬童(妙見)に導かれ、渡河する平将門と平良文

「よし、信じてみよう!」

と将門は童について渡河することにします。(絵⑬)

この童、渡河できる浅瀬の位置を知っているのか、川の中をどんどんと進んでいきます。渡り切った童は、今度は敵陣前に落ちている矢をあっという間に大量に集めて将門らに手渡し、それを敵に射よと言うばかりでなく、自ら一度に10本の矢を番え、敵を射続けると、なんと不意打ちを食らった敵は退散するのです。

逆転勝利を掴んだ将門は、童の前にひざまずき

「あなたはどなたですか」と問うと

⑭妙見像(鎌倉時代)
※確かに童に見える
しかもVサイン(笑)


「私は妙見です。あなたは正直武剛な人なので味方しました。」

と言い、忽然と姿を消すのです。(写真⑭)

妙見菩薩は、経典でリーダーについてこうのたまっています。

「正法を以て臣下を任用せず、心に慚愧なく、暴虐濁乱を恣(ほしい)ままにして、諸の群臣・百姓を酷虐すれば、我能く之を退け、賢能を徴召して其の王位に代らしめん」

つまり、現リーダーが驕慢に陥れば、他の人に変えたる!と言っているのです。

この時期の関東は、見方によっては、京の中央政権から離れた国司・受領等が、荘園制度の矛盾点を上手く活用し、私利私欲を肥し、勢力を拡大するという状況に見えなくもありません。つまり、妙見が将門の前に現れたのは、従来の国司・受領等の代わりのリーダーとして、お前に変えたる!という意思表示だったという訳です。以後、妙見は将門を支援し、関東各所での戦で次々と勝利させる訳です。

将門も、妙見を自分の後ろ盾の軍神として崇め、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)へと突き進みます。

4.千葉一族が妙見信仰となった経緯

そして遂には、妙見の後ろ盾のおかげで、将門は坂東8か国を束ねるまでの勢いとなりました。ところがこの時、将門は自分を「新皇」と、天皇以外の統治者的な呼び方までしてしまいます。日本史の中で、後にも先にも「自分は天皇以上だ!」とのたまう程の革命的な実力者は居ないのではないでしょうか。

妙見は、ここで将門の中に、驕慢を見出すのです。伝承では、妙見は将門を見限り、最初に出会った将門以外の人物・平良文の基へ走ります。

妙見に見放されたその後の将門の運命は、滅びへと向かうのです。

(詳細は拙著マイナー・史跡巡りブログ「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご笑覧頂ければ嬉しいです。)

そして、妙見を迎えた平良文、将門の失敗を教訓に決して驕りに走らず、また子々孫々にもその旨伝え、妙見信仰を保っていきます。

そのように妙見信仰を守り続けた坂東平氏の8代目が平(千葉)常胤となるのです。

⑮千葉県庁前にある「羽衣の松」
長くなりましたので、今回はここまでとさせてください。

長文・乱文失礼しました。

ご精読ありがとうございました!

◆ ◇ ◆ ◇

さて、この北斗七星伝承と関係を調査中ではありますが、平将門からの流れで、次回は陰陽師の安倍晴明へと話を移していきたいと思います。

蛇足ですが、平姓であった千葉氏が、何故千葉と名乗るようにな)ったのか、その伝承が千葉県庁前の看板にありましたので、次回ご紹介しますね。千葉の言葉の由来も分かりますよ。

《つづく》

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【猪鼻城】〒260-0856 千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目5−6
【さきたま古墳群(丸墓山古墳)】〒361-0025 埼玉県行田市埼玉4834
【武蔵府中熊野神社古墳】〒183-0031 東京都府中市西府町2丁目9−5
【鳥越神社】〒111-0054 東京都台東区鳥越2丁目4−1
【千葉神社(妙見本宮)】〒260-0018 千葉県千葉市中央区院内1丁目16−1
【妙見像(HANA·BIYORI)】〒206-8566 東京都稲城市矢野口4015−1
【羽衣の松】〒260-0855 千葉県千葉市中央区市場町1