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火曜日

北斗七星を追え② ~将門と安倍晴明~

前回までのあらすじ

 前回、平 将門と平 良文(よしふみ)の前に現れた妙見(北極星・北斗七星の神)が、この二人を支援して、坂東8か国を束ねるまでに発展させてくれたことを書きました。将門はこの坂東における栄華に、自らを「新皇」とし、中央政権に対抗しようとする姿勢を見せます。妙見はこれを驕慢とし、将門を離れ、平 良文の元へ。そこから8代後が、千葉常胤となり、名家・千葉一族は妙見を一族の神として深く信仰していくのです。

ここまでが前回のお話でした。

今回は、将門と、希代の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)との関係についての伝承話をさせてください。

その前に、前回の最後に少し頭出しをさせて頂きました平 良文は平姓ですが、8代後の常胤は千葉姓に変わっていることについて考証してみましょう。

1.「羽衣の松」伝承

この伝承、千葉県庁前の松の木に由来があるようです。(写真①)

①千葉県庁前にある「羽衣の松」

手前の看板に以下のようなことが書かれております。

「当時、亥鼻(いのはな)城下であるこの地に『池田の池』という美しい池がありました。
池には千葉(せんよう)の蓮の花が咲き誇り、花盛りの頃には沢山の人が見物に来るほどでした。
何時の頃からか、静かな夜に、ここに美しい天女が舞い降り、この松に羽衣をかけて、しばし蓮の花に魅入っているという噂が立ちます。
 これを聞いた当時の亥鼻城主・平 常将(たいらのつねまさ)。その美しい天女を自分の妻にしたいと思い、家来にこの松に掛けられている羽衣を隠すように命じます。天女は天に帰ることができず、常将の妻となり、やがて立派な男子を生んだといいます。
 『妙見実録千葉記』には、この事情を聴いた天皇が深く感銘し、前代未聞、常将は今後、千葉の蓮の花にあやかり 千葉 常将と名乗れと言ったとあります。」

千葉県の千葉が、まさか池の蓮の葉千枚とは知りませんでした。(写真②)
②蓮の葉千枚

まあ、この伝承、三保の松原にある羽衣伝説と良く似ていますし、大体、蓮の花は夜は閉じていますよね。朝7時~9時頃に開花して、夕方には閉じてしまうはず・・・。そういう意地の悪いツッコミは夢が無いので置いておきます(笑)。

天女が生んだ男の子が千葉常長です。千葉一族創生の頃の大物です。常長は前九年の役・後三年合戦で源頼義・義家父子に従って戦功を立て、大いに繁栄し、常長の子が千葉氏、原氏、相馬氏、上総氏の祖となって、後の頼朝旗挙げ時の千葉常胤や上総広常の大貢献につながるのです。

流石天女の子ですね。しかし、常将の妻は「中原師直の娘」という記録があります。「鎌倉殿の13人」に中原 親能(なかはら の ちかよし)という貴族が出てきたのを覚えていらっしゃいますでしょうか。

③鳥取県東郷池にある羽衣天女
と北斗七星
また、当時、京の貴族を「天人(あまびと)」と呼んだそうです。

つまり、想像すると、妻は「
中原師直の娘」という貴族の娘で「天人」。「天人」の女性は「天女」なので、いつしか中原師直の娘=京から来た女性=天女」ということで、この話を作った常将が帝に奏上したところ、「上手い!では千葉(せんよう)を下賜しよう。」とこれまた上手い返しを帝もしたのではないでしょうか。

そう思うと、天女の羽衣伝説から付いた「千葉」の伝承も、現実味があって面白いですよね。あと、実はこの羽衣伝承の話、平将門、良文から連綿と千葉一族まで続く、妙見信仰と無関係ではありません。

この話を作った常将が帝に奏上」と言いましたが、日本全国にある「天女の羽衣」伝承で、最後、天女が空に帰っていくという場面がありますが、この天女は北斗七星から来たという伝承が殆どです。(写真③)

もしかしたら、平 将門の子々孫々は妙見信仰を固持していくという信念が作り出した伝承を常将は帝に伝えたかったのかもしれませんし、帝も、その裏にある一族の信仰を認めたればこそ、伝承とは分かっていながら、蓮の「千葉」を姓として下賜したのだとすれば、何と雅な大人の対応が千葉県の名前の由来にあったことになるのでしょう!

2.安倍晴明は平 将門の息子だった?

さて、平 将門の話に戻します。将門が北斗七星の化身・妙見から見放されて、滅んでしまうお話をしました。(写真④)
④神田山にある将門の胴塚
(後ろのイヌマキが立派)

⑤安倍晴明と信太森の白狐
(安倍晴明神社)
また、先に述べました通り、将門を見限った妙見菩薩は、最初に出会った将門以外の人物・平 良文の基へ走ります。

この良文、将門の嫡子・将国(まさくに)を護り、常陸国信太(しのだ)に落ち延びさせたという伝承があります。


一方、関西の方は良くご存じだと思うのですが、陰陽師で有名な安倍晴明の誕生には「信太の森の白狐」という伝承があります。(写真⑤)

この伝承を、簡単にご説明します。

◆ ◇ ◆ ◇

陰陽師の師匠が急病で亡くなります。となると、高弟の誰が陰陽師の奥義を継ぐのかの問題に巻き込まれる安倍保名(あべのやすな)。安倍晴明の父となる人です。

ところが、その奥義書が盗まれ、その失態の責を負った
師匠の娘・「榊之前」という保名の恋人が自害してしまいます。悲観に暮れて和泉国信太森を彷徨していた保名。この森で狩人に追われていた白狐を庇い、自分は重傷を負いながらも、白狐を逃がすのです。

誰ぞに介抱されて目覚めると、そこにいたのは榊之前
「葛之葉姫」。彼女は姉にそっくりだったこともあり、保名はこの葛之葉姫と結婚し、息子が生まれます。これが後の安倍晴明。
⑥葛の葉姫(安倍晴明神社)

幸せな日々を保名と葛之葉姫が過ごしていたある日、一人の女性が保名を訪ねてきます。その名は葛之葉姫。

「これはどうしたことか」と妻、つまり晴明の母親の方を保名が見ると、つい今しがたまでは若い女性の姿だったのが、そこには信太の森で助けた白狐の姿が・・・。

正体がバレてしまった白狐は、晴明を保名に託し、断腸の思いで信太の森へ帰って行ったというお話です。(写真⑥)

その際に、息子・晴明に書き残したという有名な歌があります。

「恋しくば 訪ねて来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」

意訳:母を恋しいとい思うのであれば、訪ねて来て欲しい。和泉国の信太の森にいる侘しい葛の葉である私を。

◆ ◇ ◆ ◇

これが「信太の森の白狐」の正統な伝承であり、江戸時代には近松門左衛門が浄瑠璃等にして、有名になりました。

実際私もこの森に足を運び、その雰囲気を感じてきました。(写真⑦)
⑦信太森神社(関西三大稲荷)

ところが、信太という土地は、常陸の国(茨城県)にもあります。(写真⑧)

⑧茨城県美浦村信太
しかも、先に述べた平 将門の息子・将国を良文が逃がした場所が信太。後に将国は、信太(田)姓を名乗り、将門の子であることを隠して生き延びたという記録が残っているようです。

そこで、異なる伝承が唱えられます。

「安倍晴明は和泉国ではなく常陸信太の出身で、実は平 将門の息子・将国であった。」

そして、晴明となった将国は、京に上り、花山天皇の信頼を得て、父・将門の夢であった東国に独立国を作ろうとしたというものです。花山天皇が17歳で即位し、19歳という短期間で退位するのも、晴明(将国)が東国にて花山天皇を立てようとしたという伝承です。

うーん、これはまた異な!と皆さまお思いでしょうが、この伝承の裏っぽい史跡があるのですよ。ご紹介します。

3.五方山熊野神社

東京は葛飾区にあるこの神社、一見普通の神社のように見えるかもしれません。(写真⑨)
⑨五方山熊野神社(東京都葛飾区)

ところが、この神社の境内をマップで見ると、見事な正五角形。(写真⑩)
⑩境内は綺麗な五角形

そう、ここは、安倍晴明が造った唯一関東にある神社なのです。
どうやら、花山天皇退位後、熊野大社、那智の滝経由で、一緒にここに立ち寄り、熊野大神を勧請したとのこと。やはり花山天皇と、ここ坂東に将門の遺志を継いだ新国家を作ろうとしたのですかね。
伝承として、1つの状況証拠になるかもしれない五方山熊野神社です。

4.安倍晴明生誕の地

安倍晴明が生まれた場所として、一番有名なのは、勿論、大阪は阿倍野区にある安倍晴明神社ですね。(写真⑪)
⑪安倍晴明生誕の地として有名な安倍晴明神社
(大阪市阿倍野区)

ところが、常陸の国(茨城県)にも、晴明の生誕地はあるのです。(写真⑫)
⑫常陸の国(茨城県)明野町猫島にある安倍晴明生誕の地

大阪天王寺あたりのにぎやかな界隈に比べると、常陸の国の生誕地はかなり静かなルーラルエリアになりますが、確かに、この広大な平地と筑波山、天文学や暦の知識を駆使する陰陽道の素養を養うには、ピッタリの場所に感じました。

5.金烏玉兎集

では、この東国に根強く伝承される安倍晴明、常陸国出身説は何処から来るのでしょうか。これは史料が残っています。(写真⑬)
⑬三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝
金烏玉兎集
(略称「簠簋内伝」)

「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」という陰陽道の秘伝書です。

めちゃめちゃ長い名前の資料ですね。ロングネームは、陰陽道という難しそうな学問に合う荘重さがありますが、金烏玉兎集とか簠簋内伝(ほきないでん)等の略称で皆呼んでいます。

この陰陽道の秘伝書に対して、後世注釈書として「簠簋抄(ほきしょう)」というものが書かれました。こちらに安倍晴明の様々な伝承などの記述があります。
先に述べた「信太の森の白狐」伝承も、この本に書かれたことを題材に近松門左衛門が脚色したもののようです。

ちょっと長くなりましたので、この書に書かれている伝承を次回お話させて頂きたいと思います。ご精読ありがとうございました。

《つづく》


土曜日

北斗七星を追え① ~妙見と将門~

今回、趣向を少し変えたお話をさせてください。

妙見信仰についてです。この信仰対象は北極星または北斗七星等の天体なのです。普通の神仏信仰とは少し変わっています。

この妙見信仰を強く持っていたのが、上総から下総、いわば今の千葉県を中心とする地域を支配していた千葉一族です。(写真①)

①千葉氏の居城とされている猪鼻城と脇に立つ千葉常胤像

何故、千葉一族が妙見信仰なのか。

この辺りをこのシリーズでは描くと同時に、その流れでかかわりの深い安倍晴明(あべのせいめい)、花山天皇、紫式部や、更に話は飛んで伊能忠敬(いのうただたか)についても調査しましたので、描いていきたいと思います。

来年の大河ドラマは「光る君へ」で、紫式部が中心となり描かれていく予定ですので、その蘊蓄も含めて、お付き合いをお願いします。

1.古代から既に天文的なセンスに優れた坂東の人たち

当初、私はこの妙見信仰の基となる北極星・北斗七星信仰が、関東に根付いた理由は、関東平野という広大な平地を形成した大きな河川(利根川や江戸川等)にあるのでは?と推論しました。古代エジプトのナイル川がカイロのデルタ地帯を肥沃にしてエジプト文明ができたように、関東平野の河川も氾濫を起こし、広大な平野を形成してきたのであれば、当然、ナイル川の氾濫時期を正確に予測したエジプトの天文学のように、関東平野でも古代の人たちは、天文学的なセンスを養ったのではないか。また氾濫後の土地割等の実施も、北極星という不動点を基準とする測量技術を使うのが一番簡易かつ正確にできることから、これらの河川の季節的な氾濫がナイル川の氾濫と同様に天文学的な素養を人々に与え、ついでに北極星・北斗七星信仰である妙見信仰が根付いたのではないかと考えました。

ところが、千葉神社に見られるような、中世以前の妙見信仰は、群馬の高崎市等、川の下流より上流に分布しています。また信濃や東北にも妙見信仰は古代から根ざしているような妙見神社の分布が見られます。

どうやら、基本は牧場のようですね。田畑を中心に考えていた私の発想も、関東平野においては間違いとは言い切れない部分はあるのですが、もっとプリミティブに、牧場等、だだっ広いところで、方角を知るのに北極星をいつも意識していた古代人がいました。方位磁石が発見されたのは、丁度平将門が生まれた頃の中国での話で、日本で普及したのはもっとずっと後世の話です。関東の民は、北極星で北を認識したのでしょう。

それがいつしか妙見信仰に変化していったと考える筋が一番素直なようです。古代は関東平野こそ牧場が多い土地だったようで、野生馬が結構走り回っていたのでしょう。それを手名付けた坂東武者たち、坂東は良馬の産地だったのです。

②北斗七星の柄杓のふちの5倍延長先が北極星
また北斗七星はご存じのように、北極星を見つけるために有用な星座です。(図②)

なので、古くから、北極星、北斗七星が天文的な有用性と相まって、信仰になっていったようですね。

映画「のぼうの城」で忍城水攻めのための本陣を石田三成が敷いた場所は、「さきたま古墳群」の中の大きな円墳・丸墓山古墳です。そしてその周りに前方後円墳が並び、これらの古墳を結ぶと北斗七星の形になります。そしてこの大きな円墳・丸墓山古墳は北極星を現しているのであろうという説もあります。(図③

③「さきたま古墳群」の北斗七星説
「さきたま古墳群に隠された北斗七星と
「異国の大神様」の謎/西風隆介」から


④そんなことは全く気にしないで
丸墓山古墳に登る筆者たち(笑)

さらに、武蔵府中熊野神社古墳という府中市付近の史跡からは、七曜紋の鞘尻金具が出土しており、
七曜紋は北斗七星を顕すということで、やはりこの辺りにも北斗七星信仰があったのではないかという推論がなされているようです。(写真⑤、⑥)

⑤武蔵府中熊野神社古墳(珍しい上円下方墳です。)

⑥出土した七曜紋の鞘尻金具

また東京・秋葉原近くにある鳥越神社の紋も七曜紋です。(写真⑦)

⑦東京・鳥越神社の社紋も七曜紋

このように、関東には古くから北極星・北斗七星信仰があったようです。

2.九曜紋を家紋として持つ千葉一族

さて、七曜紋が飛鳥時代の史跡で見つかった話から、今度は、千葉一族の家紋が九曜紋である話を検証してみたいと思います。

千葉一族の家紋は以下の2つですね。(図⑧、図⑨)

⑧九曜紋
※十曜紋とも言うようです。千葉宗家は十曜紋を使い
分家筋には、中央1、周囲8の九曜紋を使わせました。

⑨三光紋
※これは、2つの●、1つの〇が書かれています。
大きな●は太陽、白抜きの〇は月、小さな●は星
を現し、これら3つで宇宙全体を現しています。

実は、これらの紋は千葉神社(妙見本宮)の社紋にあたります。つまり、冒頭に述べた通り、千葉一族は妙見信仰である証左なのです。(写真⑩)

⑩妙見本宮(千葉神社)本殿の額周辺には上記
九曜紋や三光紋が沢山描かれています。

⑪三光紋の屋根瓦
ちなみに、写真①の猪鼻城周辺の建物は三光紋の屋根瓦が使われていました。(写真⑪)

千葉一族のルーツを遡ると、平将門に行き当たるのですが、妙見信仰は、この平将門の頃に発生したようです。

3.平将門と妙見信仰

妙見とは妙見菩薩という仏教における菩薩の一人で、北極星または北斗七星を神格化したものです。北斗七星の中の破軍星(はぐんしょう)伝承から、軍神とされたのです。(図⑫)

破軍星とは北斗七星の柄の先端にあるアルカイド(おおぐま座η星)のことで、この星を背にすると必ず戦に勝つと信じられていました。そのため妙見が軍神とみなされた訳です。

⑫破軍星は北斗七星の柄の先端
※自分が該当する干支に該当する星が自分の
守り星だそうです。皆さんどれでしょうか?
(八幡大師 大日寺HPから)

将門が、京から常陸の国元に帰り、叔父の平良文(よしふみ)と一緒に常陸の南側にある下総の敵・伯父の平国香(くにか)と戦った時は、敵に対して北側に陣を張ることになりました。

まさに破軍星を背にして戦ったのですが、この時は大勝利どころか、たった七騎にまで手勢が減るという大ピンチとなります。

するとそこに童が現れ、川を渡って南側の敵・国香軍に切り込めと将門と良文に言うのです。

川を挟んだ弓合戦で、ほぼすべての矢を射ってしまった将門軍。渡ったところで、たった七騎で矢も無ければ、白兵戦で勝利できるだけの兵数もありません。

「私を信じなさい」

⑬童(妙見)に導かれ、渡河する平将門と平良文

「よし、信じてみよう!」

と将門は童について渡河することにします。(絵⑬)

この童、渡河できる浅瀬の位置を知っているのか、川の中をどんどんと進んでいきます。渡り切った童は、今度は敵陣前に落ちている矢をあっという間に大量に集めて将門らに手渡し、それを敵に射よと言うばかりでなく、自ら一度に10本の矢を番え、敵を射続けると、なんと不意打ちを食らった敵は退散するのです。

⑭妙見像(鎌倉時代)
※確かに童に見える
しかもVサイン(笑)
逆転勝利を掴んだ将門は、童の前にひざまずき

「あなたはどなたですか」と問うと

「私は妙見です。あなたは正直武剛な人なので味方しました。」

と言い、忽然と姿を消すのです。(写真⑭)

妙見菩薩は、経典でリーダーについてこうのたまっています。

「正法を以て臣下を任用せず、心に慚愧なく、暴虐濁乱を恣(ほしい)ままにして、諸の群臣・百姓を酷虐すれば、我能く之を退け、賢能を徴召して其の王位に代らしめん」

つまり、現リーダーが驕慢に陥れば、他の人に変えたる!と言っているのです。

この時期の関東は、見方によっては、京の中央政権から離れた国司・受領等が、荘園制度の矛盾点を上手く活用し、私利私欲を肥し、勢力を拡大するという状況に見えなくもありません。つまり、妙見が将門の前に現れたのは、従来の国司・受領等の代わりのリーダーとして、お前に変えたる!という意思表示だったという訳です。以後、妙見は将門を支援し、関東各所での戦で次々と勝利させる訳です。

将門も、妙見を自分の後ろ盾の軍神として崇め、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)へと突き進みます。

4.千葉一族が妙見信仰となった経緯

そして遂には、妙見の後ろ盾のおかげで、将門は坂東8か国を束ねるまでの勢いとなりました。ところがこの時、将門は自分を「新皇」と、天皇以外の統治者的な呼び方までしてしまいます。日本史の中で、後にも先にも「自分は天皇以上だ!」とのたまう程の革命的な実力者は居ないのではないでしょうか。

妙見は、ここで将門の中に、驕慢を見出すのです。伝承では、妙見は将門を見限り、最初に出会った将門以外の人物・平良文の基へ走ります。

妙見に見放されたその後の将門の運命は、滅びへと向かうのです。

(詳細は拙著マイナー・史跡巡りブログ「日本三悪人① ~将門が本当にしたかったこと~」をご笑覧頂ければ嬉しいです。)

そして、妙見を迎えた平良文、将門の失敗を教訓に決して驕りに走らず、また子々孫々にもその旨伝え、妙見信仰を保っていきます。

そのように妙見信仰を守り続けた坂東平氏の8代目が平(千葉)常胤となるのです。

⑮千葉県庁前にある「羽衣の松」
長くなりましたので、今回はここまでとさせてください。

長文・乱文失礼しました。

ご精読ありがとうございました!

◆ ◇ ◆ ◇

さて、この北斗七星伝承と関係を調査中ではありますが、平将門からの流れで、次回は陰陽師の安倍晴明へと話を移していきたいと思います。

蛇足ですが、平姓であった千葉氏が、何故千葉と名乗るようにな)ったのか、その伝承が千葉県庁前の看板にありましたので、次回ご紹介しますね。千葉の言葉の由来も分かりますよ。

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