マイナー・史跡巡り: #明智光秀 -->
ラベル #明智光秀 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #明智光秀 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

月曜日

北斗七星を追え!⑦ 〜天海の江戸設計〜

前回、天海について有名な伝承、明智光秀の代わりが天海ではないかについて論考してみた。

今回は、光秀と入れ替わったかどうかは別としても、この後、天海(当時は随風)は会津の蘆名氏を頼り、北上してからの経緯を簡単にまとめ、また彼の設計した「江戸を守る東照大権現」計画についても、他の計画の対比も含めて描いていきたいと思う。

1.喜多院で「天海」と名乗るまで

武田家が滅亡したように、蘆名(あしな)氏も天正17年(1589年)の「摺上原(すりあげはら)の戦い」で伊達政宗と激突し、大敗を喫した。

①天海の兜「麒麟前立付兜」

この戦いの際、驚くべきことに天海(当時は随風)は甲冑姿で出陣したと伝えられている。

彼が蘆名家の出身であるという説は有力だ。自身の出身家の一大事とあれば、僧籍にありながら戦場へ赴いたという動機にも納得がいく。

しかし天海は、後に家康の顧問となってからも、関ヶ原の戦いにおいて鎧兜を着用して参戦したという記録が残る。

この戦を好むかのような振る舞いは、明智光秀が亡くなった後の時代であることも手伝い、「やはり天海は元武将の明智光秀ではないか」という伝承の根拠として語られがちだ。

それを象徴するのが、天海の遺品である「麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)」だ。大河ドラマ『麒麟がくる』が記憶に新しいが、光秀が追い求めた「麒麟」を彷彿とさせる前立てが、この兜には据えられている。

また、巨大な半月状の指物(さしもの)も見る者を圧倒する。これは北斗信仰や天体による風水を自在に操った天海ならではの、独特な風格を強調しているのだろう。(写真①)

2.家康の風水顧問

蘆名家が滅亡すると、天海は武蔵国(むさしのくに)の無量寿寺(むりょうじゅじ)北院(のちの喜多院)へと移った。ここで豪海(ごうかい)僧正に師事し、その名から「海」の字を譲り受け、これまでの「随風」を改めて「天海」と名乗るようになった。(写真②)

②天海像(日光東照宮)
ちょうどその頃(天正18年、1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めが始まり、戦後に徳川家康は関東への移封(国替え)を命じられる。秀吉から、大坂と立地が似ている江戸の地を勧められた家康は、さっそく土地開発に着手した。しかし、この未開の地を拠点とするにあたり、単なる軍事的な防衛だけでなく、地相や方角の観点から「都市の永続性」を担保できる知恵者を必要としていた。

天海は天台宗の奥義のみならず、陰陽道や風水、さらには都市計画にまで通じた知識人であった。その博識ぶりに家康が深く帰依(きえ)したことが、二人の緊密な協力関係の始まりとされる。

それにしても、天台宗の本山である京から遠く離れた関東において、なぜ天海に白羽の矢が立ったのだろうか。家康の周囲から「武蔵国の北院に、光秀に面影の似た高僧がいる」という噂が耳に入り、興味を持った可能性は否定できない。

家康にとって、光秀はかつて織田信長暗殺という大事件を起こし、自らの運命をも激変させた男だ。もしその光秀が生きており、僧として隠棲しているとしたら、その優れた知略を徳川の天下取りに利用したいと考えたとしても不思議ではない。

事実、家康は天海と初めて対面した際、周囲を遠ざけて二人きりで数時間にわたり密談したと伝えられている。歴史の表舞台から消えたはずの光秀と、突如として家康の懐刀となった天海。この二人が同一人物であるという噂が家康を動かす動機になったのだとすれば、その後の江戸開府に向けた異例の抜擢も筋が通る。

この密談を経て、家康と天海の間には強い信頼関係が生まれた。かつて比叡山の麓である坂本の地で、京を霊的に守護する風水の理を学んでいた天海は、その知見を惜しみなく提供した。今度は家康が造り上げる「江戸」という「東の京」の守護を万全にし、荒野を平和の礎へと造り変える。この天海のビジョンは、平和な世を求めていた家康の要望と完全に一致した。

江戸という土地が持つ力を最大限に引き出し、徳川の治世を永続させる。これこそが、二人の邂逅(かいこう)が生んだ歴史的なプロジェクトの始まりであった。

③上野公園(旧寛永寺境内)にある天海僧正毛髪塔

光秀としての過去を背負い、兜に頂いた「麒麟」、つまり戦のない世を願ったのであれば、天海が江戸の町造りに「霊的な守護」を組み込んだ理由も合点が行く。では、彼らはどのようにして、江戸を強固な防衛都市へと変貌させたのだろうか。

3.霊的防衛都市の設計

天海が家康に提示したのは、江戸城を霊的中核(センター)とした防衛都市構想であった。その根幹は、大きく次の3点に集約される。

  1. ④江戸城を中核とした
    天海の霊的防御構想
    江戸城を中心に据える:京の御所が当時の首都の中心であったように、江戸の設計も御所と同じ霊的な位置づけで行う。
  2. 鬼門と裏鬼門の封印:上記の設計思想に基づき、北東(鬼門)の守りとして、京の比叡山に匹敵する大寺院を置く。また、南西(裏鬼門)については、点ではなく面的な守りによって災厄の侵入を防ぐ。
  3. 北斗信仰の活用:古来、関東では平将門の時代から、不動の北極星や北斗七星を崇める信仰が盛んであった。武士の拠り所であるこの信仰を活用し、武士の連携強化と強い幕府の完成を目指す。

天海が実際に施した具体的な霊的防御の配置を見てみよう。
  • 鬼門(北東)の守り:東叡山寛永寺(上野寛永寺:写真③)

  • 裏鬼門(南西)の守り:日枝神社、増上寺、山内満願寺、富士山、久能山東照宮

  • 北斗信仰(真北)の守り:江戸城の真北に位置する日光に東照宮を造営し、徳川家康を神(東照大権現)として鎮座させる

この具体案がこのシリーズの冒頭に表示した図④(再掲)となる。

この3つの要素のうち、鬼門・裏鬼門の封印は、京の御所の設計思想を色濃く反映している。

《京都御所の鬼門と裏鬼門》
  •  鬼門 :比叡山
  • 裏鬼門 :壬生寺(みぶでら)、石清水八幡宮
⑤江戸城の北にある北斗信仰拠点
しかし、3つ目の「北斗信仰による日光東照宮」という発想には、江戸ならではの明確な意図が隠されている。これには、かつて同じ関東に幕府を開いた鎌倉幕府の反省があったと考えられる。

鎌倉幕府の創設者・源頼朝は、家康のように神格化されなかった。勿論、頼朝の時代は神格化と言ってもせいぜい「八幡大菩薩」の化身として扱われる程度であったこともある。
その結果、頼朝に始まった源氏将軍はわずか3代で途絶え、以降は平家の末裔である北条氏が執権として実権を握ることになる。北条一族にとって、頼朝を絶対的な神君として据え置くことは、自らの権力を維持する上で都合が悪かったのだろう。

これを徹底的に分析し、逆手に取った霊的防衛を図ったのが天海の東照大権現構想である。つまり、家康自身を絶対的な「神」として祀り上げることに成功すれば、その子孫が代々将軍職を継承することの正当性を、誰にも文句のつけられない形で合理化できる。
⑥加藤清正が揮毫したと
伝わる「豊國大明神

将門塚が江戸城の鬼門にあり、また前回も掲載した図⑤(再掲)に見られるように、北斗信仰の強い土地柄であることも活用すれば、自ずと江戸城の真北・日光に家康の霊的な根拠地を作ることが大事であることは明白である。

この霊的な結界の完成にこだわったのが、2代将軍・秀忠と3代将軍・家光だ。家康自身は長年、豊臣秀吉をはじめとする大坂以西の大名に悩まされてきたため、将来の脅威は西国大名であるという、現実的な軍事リスクを想定していた。戦国時代を生き抜いた武将らしい、極めて現実的な視点だ。

これに対して、より形而上(スピリチュアル)な観点から幕府の永続を考えたのが天海であり、その結果、家康の霊柩(れいきゅう)は久能山から日光へと改葬されることになった。こうして結界図④の形が完成したのである。

ちなみに、家康を神格化するにあたっては「大明神」か「大権現」かで激しい論争があった。しかし、豊臣秀吉が「豊国大明神」という神号を授かりながらも豊臣家が滅亡してしまったため、その前例を嫌って「大権現」に決定したという経緯がある。(写真⑥)

4.鉄壁の霊的防御

「江戸を守る東照大権現」という観点から見ると、天海が設計した風水都市・江戸の機能は、後世において遺憾なく発揮された。

⑦西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑(静岡市内)
先述した「駿府の久能山から西国を睨みつける家康の視線」という防衛効果も、260年の時を経てついに破られる日がやってくる。しかし、その家康の睨みを浴びながら進軍してきた西郷隆盛率いる新政府軍(官軍)は、幕府側の勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟という「幕末の三舟」の尽力により、江戸城無血開城に漕ぎ着けた。これにより、江戸は壊滅的な戦火を免れることになる。

江戸城無血開城といえば、三田の薩摩藩邸における勝海舟と西郷隆盛の会談が有名だが、実は明け渡しの根本的な約定は、久能山のふもとである駿府(静岡市)において、山岡鉄舟が西郷隆盛と直談判したことで成立していた(写真⑦)。

ここで、無血開城に至る主な経緯を整理しておこう。

  1. 徳川慶喜の恭順と謹慎:最後の将軍・徳川慶喜は朝廷に対して恭順の意を示し、天海が江戸城の鬼門守護として建造した上野寛永寺に籠もって謹慎した。

  2. 高橋泥舟の推薦:慶喜からの信頼が篤い幕臣・高橋泥舟は、義弟である山岡鉄舟を新政府軍への交渉役として勝海舟に推挙した。

  3. 駿府での直談判:山岡鉄舟は東進する官軍の陣が置かれた駿府へ赴き、実務トップである大総督府参謀・西郷隆盛と交渉。「江戸城明け渡し」に関する5か条を提示させた。

  4. 最終合意:三田の薩摩藩邸にて、西郷隆盛と幕府の陸軍総裁・勝海舟が細部を詰め、3月15日に予定されていた江戸総攻撃を中止させる最終合意に達した(写真⑧)。

⑧三田にある江戸開城の石碑
この歴史の歩みは、まるで天海が260年前に施した風水都市の設計図通りに動いているかのように見え、実に興味深い。

まず、慶喜が謹慎先に選んだ上野寛永寺だ。ここは天海が京の比叡山を模して造営した鬼門守護の要である。山号の「東叡山」は「東の比叡山」を意味し、比叡山延暦寺が「延暦」という元号に由来するのと同様に、寛永年間に造営されたことから「寛永寺」と名付けられた。

かつて京の比叡山は、後白河天皇や後醍醐天皇など、動乱の際に多くの天皇が避難所とした歴史を持つ。

徳川慶喜が東の比叡山である寛永寺に身を置いたのは、こうした皇室の故事に倣(なら)った側面もあったのだろう。(もちろん、寛永寺の住職である天台座主は皇室から迎えられていたため、官軍としても皇族が門主を務める寺院には容易に攻撃を仕掛けられない、という現実的な政治計算もあった)。

結果として、鬼門の寺で恭順を示した慶喜は、助命されて水戸での謹慎となり、江戸の町は無血開城によって守られた。

天海が仕掛けた「江戸を守る東照大権現」の防衛システムは、260年の歳月を経てもなお、形を変えて生きていたと言えるのではないだろうか。

⑨江戸城搦手にある半蔵門
5.幕府BCP計画(服部半蔵 vs 天海上人)

ここまでは天海による霊的なアプローチを見てきたが、少し視点を変えて、現実的な軍事防衛の話をしてみたい。実は江戸幕府の黎明期、天海とはまったく異なるアプローチで「幕府BCP(事業継続計画)」を策定していた人物がいた。

服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)である。

半蔵は家康率いる伊賀忍者部隊の筆頭として知られているが、本能寺の変の際、家康の命がけの「伊賀越え」を成功させた実績など、有事における実務能力を幕府から高く評価されていた。

彼は単に主君の危機を救うだけでなく、将来の江戸幕府全体が危機に瀕した際のBCP計画を冷徹に練り上げていた。

天海が「江戸城」という場所に焦点を当て、風水による霊的守護を張り巡らせたのに対し、半蔵の計画は極めて実質的で、現代の私たちにも理解しやすい。

半蔵の計画はこうだ。

彼の名が冠された江戸城の「半蔵門」(写真⑨)

こここそが彼の立案した江戸幕府BCP計画の第1ゲートである。

この半蔵門は、甲州街道(現在の国道20号)と直結している。この街道を西へ向かって約100キロメートル以上突き進むと、ひとつの堅固な目的地に突き当たる。

甲府城である。(写真⑩)

⑩甲府城
かつて甲斐国(山梨県)を治めた武田信玄は、「人は石垣、人は城」と謳い、本拠地に大規模な城郭を築かなかった。

自国を出て敵地で戦うことを旨とし、「攻撃こそ最大の防御」という戦略を貫いていたためだ。

後に武田勝頼が新府城(現・韮崎市)を築いたが、従来の中心地からは離れた長野県境に近い場所であった。

つまり、現在残る甲府城は、武田家が滅亡して徳川の支配地となってから、新しく築城されたものだ。

実は、この甲府城の建設こそ、半蔵が隠したBCP計画の終着点であった。そしてこの半蔵の防衛ラインを、260年後の幕末に鮮やかに活用したのが、ほかならぬ勝海舟である。

長くなったため、勝海舟が半蔵の隠した計画を利用する話については、次回に譲ることとする。ご精読に感謝。

 《つづく》

《執筆ブログ一覧はこちら》


私が管理人を務めるFacebookグループでは、こうした『街角に残る意外な史跡』の情報を毎日交換しています。史跡好き・歴史好きの方は、ぜひグループにご参加ください!


Facebookグループ『旅と歴史・伝承倶楽部』会員募集中
現在、7,000名以上の仲間が毎日ディープな史跡情報を交換しています。

もちろん無料・承認制で安心です。

👉 旅と歴史・伝承倶楽部へ参加する


📍 喜多院:埼玉県川越市小仙波町1丁目20-1(Googleマップで開く

📍 天海僧正毛髪塔(上野公園内):

東京都台東区上野公園1 清水観音堂裏(Googleマップで開く

📍 豊國神社:

京都府京都市東山区大和大路通正面茶屋町530(Googleマップで開く

📍 西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑:

静岡県静岡市葵区御幸町3-21地先(Googleマップで開く

📍 江戸開城の石碑:

東京都港区芝5丁目33-8 第一田町ビル敷地内(Googleマップで開く

📍 半蔵門(江戸城跡)

:東京都千代田区麹町1丁目1(Googleマップで開く

📍 甲府城(舞鶴城公園)

:山梨県甲府市丸の内1丁目5-4(Googleマップで開く

日曜日

北斗七星を追え!⑥ ~光秀と天海~

①日光東照宮陽明門と北極星

元和2年(1616年)4月17日。戦国の乱世に終止符を打ち、泰平の礎を築いた徳川家康が、駿府城にてその激動の生涯を静かに閉じた。

だが、その死は決して物語の終焉ではなかった。家康の死と同時に、徳川の治世を数百年先まで持続させるための巧妙な「大きな仕掛け」が発動したのである。当時の人々は、その後に長く続く平穏が、いかなる意志によって設計されたのかを知る由もなかった。

江戸時代は約260年もの長きにわたった。これは鎌倉時代の1.8倍、室町時代の1.2倍に相当する。特筆すべきは、その大半が戦のない「泰平の世」であった点だろう。鎌倉時代は元寇などの国難に見舞われ、室町時代も後半の約半分は絶え間ない戦火の中にあった。これらと比較すれば、江戸時代の平和な期間が、いかに異例であったかが分かる。

さて、今回はこの「大きな仕掛け」について調査した。

先に結論めいたことを描くが、以下3つの図、これらについて順に解説する形で、この仕掛けについてお話したい。(図②、③、④)

これらの「大きな仕掛け」を考案したのは、「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)である。

②久能山、富士山、日光のレイライン 他

③江戸城の裏鬼門

④将門の北辰伝承による北斗七星

1.家康の遺言

では、図②から順に見ていきたい。

徳川家康が死の間際に遺した有名な遺言がある。 

「遺体は久能山(くのうざん)に納め、一周忌を過ぎたのちに日光へ勧請(かんじょう)せよ」

この言葉が発せられた瞬間、天海の頭脳の中で「仕掛け」が完成した。家康の切なる願いと、坂東の地に千年以上も深く根付いていた「北斗信仰」を融合させるという、構想である。

もちろん、当時の人々の多くは、家康が駿府(静岡市)を見下ろす標高213メートルの久能山に葬られることを、自然なことと受け止めたに違いない。亡き主君がその高地から、かつての領国を見守り続ける――。そんな光景を、人々は穏やかな気持ちで思い描いたはずだ(360°写真⑤)

⑤久能山からの眺め

有名な伝承として、江戸幕府を脅かす勢力は必ず西から来ると予見していた家康の次の遺言がある。

「我が亡骸は西国に向かい、立ち姿で久能山へ納めよ。死してなお立ち姿を崩さず、天下の安寧を乱す者を睥睨(へいげい)す」

事実、久能山東照宮に安置された家康の棺(ひつぎ)は、その主がいまも毅然と立ち、鋭い眼光を放っているのではないかと思わせるような、独特の佇まいを見せている。(写真⑥)

⑥久能山東照宮の家康の棺
※しっかり西を向いて建っている

⑦天海僧正
(川越歴史博物館蔵)
実際に、家康の死から約260年もの間、西からの大きな脅威が幕府を揺るがすことは、ついぞなかったのである。

2.天海大僧正は明智光秀か

ではなぜ、一度葬った遺体を移動させる必要があったのか?なぜ、日本一の霊峰・富士山を跨ぐようにして「久能山」と「日光」は配置されたのか?

そこには、家康の側近であり「黒衣の宰相」と呼ばれた怪僧・天海(てんかい)が描いた「風水都市・江戸」の設計図が隠されていたと言われる。(写真⑦)

天海は謎多き人物である。数ある伝承の中でも特に有名なのが、「天海の正体は、山崎の戦いで生き延びた明智光秀である」という説だ。

光秀が羽柴秀吉に敗れ、歴史の表舞台から消えたのは天正10年(1582年)。それから6年後の天正16年(1588年)、入れ替わるように歴史に足跡を刻み始めたのが天海であった。彼は無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市・喜多院、川越大師。360°写真⑧)の住持として、初めてその名を名乗っている。

両者の生誕時期には諸説あるが、年齢的にも光秀と天海はほぼ重なる。光秀が高齢の武将として亡くなった(55歳)とされるが、もし彼が天海として再生したのだとしたら、その後の天海の活躍はまさに驚異的な「遅咲き」と言えるだろう。

 ⑧喜多院(川越市)         

更に脱線して申し訳ないが、もう少し「天海が光秀だった伝承」について述べたい。この伝承の主な根拠として、以下4項が挙げられる。

  • 比叡山の修築:織田信長によって焼き討ちされた比叡山。ドラマでもよく見るように光秀はこの焼き討ちに不満を持っており、焼き討ち後は復興を願っていた。焼き討ち当時比叡山に居たとされる天海がその再興に尽力したことは、光秀の悲願を継いだようにも見える。
  • 恵林寺・快川紹喜(かいせん じょうき)との交流の共通性:比叡山焼き討ちで居場所を失った天海は、この焼き討ちに同情的であり、信長と敵対する武田信玄に招聘されて甲斐国に移住。そして天海は武田家が滅ぼされる時「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」との名言で有名な快川紹喜とも親交があり、恵林寺山門での焼死については、かなり心を痛めたという。心を痛めたというのは光秀もほぼ同じ話がある。
  • 「明智平(あけちだいら)」という地名: 日光にある絶景ポイント「明智平」の名は、天海が「明智の名を後世に残すために命名した」という伝承が残っている。
  • 家光の乳母・春日局(かずがのつぼね)との密談: 斎藤利三(としみつ、光秀の重臣)の娘である春日局が、天海と対面した際に「お久しぶりです」と挨拶したという逸話も、二人の密接な関係を予感させる。

⑨日光東照宮にある桔梗紋?
かつては、日光東照宮に光秀の家紋である「水色桔梗」に似た紋が彫られていたという話も伝承化していたが、これは多くの研究家が桔梗に似た他の文様であると検証している。また天海が1643年に亡くなっており、光秀は1528年生まれなので、115歳という高齢が「尋常でない」ということで「天海≠光秀」説を唱える人は多い。(写真⑨)

ただ、天海自身108歳という高齢で亡くなったというのは有力説であり、その差は7年である。この時代「115歳がありえない」というのであれば108歳はいけるのだろうか?

3.本当の「光秀⇒天海」説

史実は、十中八九「天海≠光秀」なのだろう。ただ、身勝手な妄想ではあるが、以下のような仮説はいかがであろうか。

有名な比叡山焼き討ちの時、若き天海(当時は随風と名乗っていた)は比叡山に居た。

比叡山焼き討ちが行われる元亀2年(1571年)、比叡山側も、当時朝倉・浅井軍の叡山結託に手を焼いている信長が本気で山を焼こうとしていることは察知していた。実際「信長公記」にはこの比叡山焼き討ち前の信長からの「最後通牒」について記述している。

  1. 信長側に味方せよ。 そうすれば、以前没収した寺領をすべて返還する。

  2. せめて中立を守れ。 朝倉・浅井の軍勢を山から追い出せ。

  3. どちらも拒むなら、焼き払う。 根本中堂をはじめとする全ての伽藍を灰にする。

この交渉窓口に、明智光秀が関わっていた可能性は極めて高い。

⑩比叡山の天海住坊跡
そして元亀2年(1571年)9月12日の焼き討ち決行の直前、追い詰められた比叡山側は、信長に対して黄金300枚を贈り、土壇場での攻撃回避を試みたという記録が残っている。

『信長公記』などの史料によれば、信長はこの露骨な買収工作を「汚らわしい」と一蹴。懐柔を撥ねつけ、翌朝の総攻撃を命じた。歴史の転換点となったこの交渉の場で、山側の使者として黄金を携えていたのは一体誰だったのか。その正体については詳らかではないが、そこに智謀に長けた若き日の天海(随風)がいたと考えるのは、決して不自然な空想ではないだろう。(写真⑩)

一方、織田側の実務を担っていたのは光秀である。利害を異にする二人が、炎に包まれる直前の比叡山で言葉を交わし、互いの才を認め合った――。この未曾有の危機の最中にこそ、光秀と天海(随風)の密かな親交が始まったのではないだろうか。

4.甲斐国への亡命支援

たとえ先述の黄金交渉に直接関わっていなかったとしても、比叡山焼き討ちの際、光秀と天海(随風)が接触した可能性は他にも残されている。その鍵を握るのが、当時の天台座主(てんだいざす:天台宗の最高責任者)・覚恕(かくじょ)の動静だ。(写真⑪)

当時の座主・覚恕法親王は、時の正親町(おおぎまち)天皇の弟にあたる人物であった。皇族に対し並々ならぬ敬意を抱いていた光秀が、戦火に包まれる比叡山から覚恕を救い出し、武田信玄を頼って甲斐国(山梨県)へと亡命させたという説がある。

注目すべきは、天海(随風)もまた、この時期に同じく甲斐へと逃れている点だ。

ここから一つの仮説が浮かび上がる。光秀は「尊い座主の身を守る」という極秘任務を遂行するため、最も信頼できる実務者として随風を選んだのではないか。若くして智略に長け、南都(奈良)や東国の情勢にも精通していた随風は、亡命ルートを確保するための特使として、これ以上ない適任者だったはずだ。

光秀が道を切り拓き、天海(随風)が座主を導く。この亡命劇こそが、二人の絆を決定的なものにした「真の接点」だったのかもしれない。

⑪信玄のもとに逃げ込んだ覚恕(春風亭小朝)
大河ドラマ『麒麟がくる』
第34回(11月29日放送)より

比叡山延暦寺の焼き討ちという未曾有の惨劇に、天海(随風)がどう関わったのか――。その事実を裏付ける直接的な文献は、いまだ見つかっていない。しかし、天海(随風)、光秀、そして覚恕。この三者の運命が、これほど巨大な歴史の転換点において一度も交錯しなかったと断じるほうが、むしろ不自然ではないだろうか。

激動する情勢の中で、皇族を守ろうとする光秀の「矜持」と、知略を尽くして山を救おうとする天海(随風)の「志」が共鳴したといえる。

5.快川紹喜との交流

一説によれば、武田信玄は比叡山延暦寺を甲斐の身延山へ移転させる壮大な計画を抱いていたという。覚恕は亡命からわずか2年で京へ戻るが、天海(随風)は信玄の参謀として、そのまま甲斐国に留まったとされている。

この甲斐滞在期において、随風は武田家の菩提寺である恵林寺(えりんじ)の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)と深い交流を持った。恵林寺の寺伝や一部の史料には、彼が快川から禅の教えを受け、深い感銘を受けたという伝承が残されている。

一方、見逃せないのが明智光秀との関係である。快川紹喜と光秀は、ともに美濃国(岐阜県)の名族・土岐氏の血を引く者同士であり、旧知の仲であったとされる。

天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻により、武田家は滅亡の運命を辿る。一門および家臣団が総崩れとなる中、快川紹喜は恵林寺の山門に追いやられ、生きたまま火を放たれて壮絶な最期を遂げた。「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉を残したあの事件である。

この惨劇に対し、光秀は激しく心を痛め、深く嘆き悲しんだと伝えられている。そこには、単なる知己の死への哀悼を超えた、同じ土岐氏の血を引く者としての強い連帯感があったのだろう。(写真⑫)

⑫恵林寺山門
※左の柱に「心頭を滅却すれば火も
自ずから涼し」が書かれている

この時、信長に同伴して甲斐攻めに来ていた光秀が、快川紹喜の悲報と同時に、天海(随風)についても「死亡」との報を得たとしたらどうだろうか。

快川紹喜や天海(随風)といった至高の教養人と通じ、彼らを文化の守り手として敬重していた光秀にとって、信長の所業は耐え難いものであった。比叡山を焼き、恵林寺を焼き払い、文化の源泉を次々と灰にする信長の破壊衝動。そこに追い打ちをかけるように、あの有名な「打擲(だちょう)」の事件が起きる。

「うぬは甲斐攻めで何を苦労したというのか!」

諏訪の地で放たれた信長の激昂。信長は光秀の言葉を遮り、額から血が流れるまで扇子で打ち続けた。この理不尽な暴力は、光秀の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。文化を愛する教養人としての矜持も、主君への忠誠心も、この瞬間に限界を超えたのである。

密かに謀反の決意を固め始めた光秀の脳裏には、ある「壮大な構想」がおぼろげながら浮かんでいたはずだ。それは、もし万が一、謀反の果てに自らが歴史の表舞台から消えることになった際の、現代で言うところの「BCP(事業継続計画)」であった。

「いざとなれば、天海(随風)殿の名を借りよう――」

死んだとされる随風になり代わり、僧侶として生き永らえ、影からこの国を導く。のちに「天海」として家康を支えることになる驚天動地の計画が、屈辱にまみれた諏訪の夜に産声を上げたのかもしれない。

6.天海への転身と周到なる計画

「打擲(だちょう)」の屈辱からわずか3か月後。天正10年(1582年)6月2日、歴史を塗り替える「本能寺の変」が勃発した。

変の動機については、怨恨説や四国政策をめぐる対立説など、500年以上にわたって議論が絶えない。ここではその詳細には立ち入らないが、光秀が「思いつき」ではなく「周到な計画」のもとに動いた、という説を前提に話を進めたい。

当時の光秀は、近江(滋賀県)の要衝・坂本に加え、平定したばかりの丹波(京都府・兵庫県)も領有していた。まさに京の都を東西から挟み撃ちにする絶好の配置である。さらに彼は、他方面の有力武将たちがそれぞれ敵対勢力と交戦中で、すぐには動けない状況にあることも完全に把握していた。

⑬明智藪
※山崎の戦いに敗れた光秀が
藪から槍で脇腹を刺された
信長は、わずかな手勢とともに本能寺に宿泊している――。光秀はこの「千載一遇の好機」を見誤ることなく、冷静かつ計画的に活用した。これほど緻密な計算ができる男なら、万が一失敗した際の「コンティンジェンシープラン(緊急時対応計画)」、すなわち「プランB」を練っていたと考えるのが自然だろう。

そして、そのプランBこそが「天海(随風)へのなりすまし」であった。

運命の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れた光秀。本拠地・坂本へ退却する途上、山科(京都市)の小栗栖(おぐるす)にて農民に襲われ落命したとされるが、その最期には不自然な点が多い。(写真⑬)

伝承によれば、竹藪から突き出された農民の槍に脇腹を深く刺され、自刃を覚悟した光秀は、側近に「自分の首を秀吉軍に渡さぬよう、地中深く埋めよ」と命じたという。

ところが、その後の経緯は謎に包まれている。命じられた側近もその場で自害したため、首の埋め場所は永遠の闇に葬られたという説。あるいは、農民たちが一部始終を見ており、首を掘り返して織田信孝や秀吉に届けたという説。まさに諸説紛々であり、光秀の死を確定させる決定的な証拠は、今なお存在しないのである。(写真⑭)

7.プランBの発動――天海(随風)として北へ

⑭山科にある
光秀胴塚
私が想定する光秀の「プランB」は、実に大胆かつ緻密なものである。

「山科では、別の者の首を身代わりに埋めることで光秀は死んだものと見せかけ、自身は密かに北上して近畿圏を脱出する。そして、当面は地方で『天海(随風)』になりすます」というものだ。

武田家が滅び、随風が快川紹喜らと共に消息を絶ってから、わずか3か月。光秀ほどの教養人が突如として僧侶に転身すれば、本来なら周囲の疑念を招くだろう。しかし、武田の食客であった「随風」という名の下であれば、主家滅亡によって流浪の身となった高僧として、諸国の人々に無理なく受け入れられたはずだ。

光秀がまず身を寄せたのは、当時、蘆名(あしな)氏が統治していた会津であった。

蘆名氏は会津に金山を保有し、その豊富な資金力を背景に足利義昭へ頻繁に貢物を送り、官位を求めていたことで知られる。かつて、その仲介役を担っていたのが光秀であった。つまり、蘆名氏と光秀の間には以前から深い信頼関係があったのだ。

さらに、天海(随風)自身の出自が蘆名氏の一族であるという説を、光秀は事前に掴んでいたのかもしれない。偽装工作を完璧なものにするためには、その名に縁の深い場所へ身を隠すのが最も賢明な判断である。こうして光秀は、かつての知己を頼り、北の地で「天海(随風)」としての静かな再スタートを切ったのではないか。

長くなったので、この後の天海=光秀説、更には天海の「大きな仕掛け」について引き続き描いていきたい。

ご精読に感謝。

《執筆ブログ一覧はこちら》

私が管理人を務めるFacebookグループでは、こうした『街角に残る意外な史跡』の情報を毎日交換しています。史跡好き・歴史好きの方は、ぜひグループにご参加ください!

Facebookグループ『旅と歴史・伝承倶楽部』会員募集中

現在、6,000名以上の仲間が毎日ディープな史跡情報を交換しています。

もちろん無料・承認制で安心です。

👉 旅と歴史・伝承倶楽部へ参加する

【久能山東照宮】〒422-8011 静岡県静岡市駿河区根古屋390
【喜多院(無量寿寺北院)】〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目20−1
【日光東照宮】〒321-1431 栃木県日光市山内2301
【明智平展望台】〒321-1445 栃木県日光市細尾町
【天海大僧正住坊趾(南光坊)】〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220
【恵林寺】〒404-0053 山梨県甲州市塩山小屋敷2280
【明智藪(小栗栖)】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町