マイナー・史跡巡り: #信長
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マイナー・史跡巡り
訪問した史跡を繋いでいくと物語になります。
点・点とある史跡が、このBlogにより結ばれ、史跡巡りが楽しくなって頂ければ幸いです。
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水曜日
大航海時代と朝鮮出兵➀ ~耳塚にて思うこと~
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京都の方広寺と言えば、その梵鐘の銘文「国家安康」が有名である。徳川家康は、「家康」の諱の間に「安」の字を挿入したことを、あたかも自分の首を切断したことに等しいと難癖をつけた。 この屁理屈を口実として、徳川家康が豊臣家を征伐し、大阪の冬の陣・夏の陣で淀殿と豊臣秀頼を自害させたこと...
火曜日
中国大返し➂ ~「神速」のその先へ!~
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前回、豊臣秀吉が備中高松城から姫路城まで驚異的な速さで移動した「中国大返し」の舞台裏について描いた。海路活用説や、播磨・摂津の有力武将たちが明智光秀につくか秀吉につくか迷う中、彼らを牽制するための 「神速」戦略 があったことを述べた。 そして、今回はいよいよ大返しの最終章、 「山...
木曜日
中国大返し② ~何故そんなに急いだのか~
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前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。 ①中国大返し日付と移動距離等 1.大返しにおける海路活用説 大返しは、約230kmの行程をわ...
水曜日
中国大返し① ~宇喜多家の活躍~
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「おお、見えてきた!」 中国自動車道の岡山総社ICを降り、東へ三キロ弱戻ると、大きな鳥居が見えてくる。その先に、目指す平らな公園が広がっている。 備中高松城(写真①) ここは、秀吉が黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛とも。以下、黒田官兵衛)の発案した大作戦「水攻め」を採用し、落とした...
土曜日
家康の大樹⑤ ~清州同盟へ~
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上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後 「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」 の...
家康の大樹④ ~桶狭間の杜松~
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「狙うは義元の首1つ!」 色々と複雑な経緯を経て、桶狭間で休息を取っている今川義元の本陣に突撃する信長軍。 この時、今川義元が馬を繋いだ木が枯木となって残っています。 杜松(ねず)の木です。(写真①) ①今川義元が馬を繋いでいた杜松の木 1.桶狭間当日の今川義元は馬に乗っていた...
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