上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後
「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」
の報が入りました。
唖然とする元康。しかし、周囲の家臣団(三河衆)の一人が
「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」
と叫ぶと
「あっ!」
と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。
それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。
元康は、しばらく考えます。そして
「全軍、岡崎へ向かう!」
「おお!」(家臣団)
「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
「ええっ?」(家臣団)
というのが前回までのお話でした。(リンクはこちらから)
1.大樹寺に入る元康
①大樹寺 |
訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真①)
岡崎城には、数は多くはありませんが、今川軍が居ます。桶狭間合戦で勢いに乗った信長軍が、三河へ攻め入ってきた場合、元康は岡崎城の今川軍と協働し、岡崎城にて立て籠もった方が安全であるにも係わらず、大樹寺に入るのは不思議です。(写真②)②岡崎城 |
前回述べたように、大樹寺は松平氏先祖8代の墓があり、その前で元康は切腹するつもりだったから?
であればわざわざ家臣団を連れて岡崎まで来ませんよね?元康だけでいいじゃないですか?
元康が切腹してしまったら、家臣団は散り散りになってしまい、直後に信長軍追撃があったなら、更に危険にさらされる訳ですから、この理由は通らないような気がします。
ここでちょっと元康の立場になって考えてみましょう。
2.元康は今川大企業の中間管理職
桶狭間合戦で、自分のボスを失ったとは言え、直ぐに自分の思い通りに動いて良いかというと、今川家という組織に帰属している限り、そうもいかないのはお分かり頂けると思います。
ただし、元康の直属上司はやはり今川義元公。首を取られたとあっては、組織の他の長の業務命令が無くても、非常事態であるが故に、織田軍側の領地にある大高城の地を撤退し、今川領である三河へ戻るのは当然といえば、当然ですし、独断で判断しても、後々今川家側でも問題にはならないはず。
ここまでの元康の読みは良く分かります。
ではなぜ、直ぐに岡崎城に入らず、3km手前の大樹寺に入ったのか。
ここに、元康の思慮の深さを垣間見ることが出来ます。
③桶狭間合戦公園に建つ 今川義元像と織田信長像 |
敵としての信長ではなく、将来の味方としての信長です。
義元が予期せぬ形で討死した直後、元康は元康なりに、義元の跡を継ぐ氏真(うじざね)と信長の器量を天秤に計っていたのでしょう。そして氏真より、自分たちの未来は信長にあるのではないかと予感していたのだと思います。(写真③)
ですので、幾ら自分の故郷、土地である岡崎だからと言って、不用意に岡崎城に入ってしまえば、岡崎城には今川軍も居る訳ですから、元康は信長に抵抗する勢力であると信長からみなされます。
ならば、岡崎城の今川軍を追っ払って入城し、早々に信長と手を結べばいいやん!
と思われる方もいらっしゃると思いますが、そこは、皆さん、今川家という、今で言う大企業、御曹司が多少甘くても、大企業は強い!立て直す人材が出るかもしれません(笑)。
となると、直ぐにライバル会社である信長ベンチャー企業に移籍というのは軽薄であり、ここはじっくりと今川大企業と信長ベンチャー企業の行末を見極めたいところ。
いずれにせよ、今の元康は今川大企業の中間管理職。この企業に居場所を残しつつ、将来移籍するかもしれない信長ベンチャー企業にも悪い顔はしたくない。
勿論、今、手薄の岡崎城を攻め、元康ら三河衆のものとすることもできる絶好の機会なのですが、それをやってしまっては、今後、今川大企業を敵に廻します。まだ信長ベンチャー企業とも提携もしていないのに。
なので、岡崎城には入らず、大樹寺に入ったのです。
ちょっと企業風に書きましたが、切実なところは、正妻の瀬名(せな)姫(築山御前)、竹千代、亀姫という元康の家族が人質同様に駿府に住んでいるこの時点で、今川家に楯突く事など想像できない元康です。ただ、今川家を継承している氏真と、元康が幼少の頃より知っている信長、この二人を天秤にかけるとどうしても信長に分があると思う元康の葛藤が、この大樹寺入りに現れていると思います。
3.わざと態度を明確にしない元康
④清州城に居た信長は怖い(笑) |
ところが、元康は頑として大樹寺を動きません。
そのうち、岡崎城の今川軍は、信長の三河侵攻を恐れ、城の守備を放り出し、駿府へ逃亡してしまいました。元康は、これを待っていました。
つまり、岡崎城の今川軍が遁走してしまったので
「(今川の城である)岡崎城を守るべく、しかたなく」元康らが大樹寺から岡崎城へ入城したと。
これなら、後で今川家から文句の言われようもありません。
また、後に信長から「あの時岡崎城に入って今川軍として守ろうとしたのだろう?」と詰問された場合でも
「いえいえ、滅相もございません。岡崎城は松平家代々の城。大樹寺で時機を見て今川軍を追っ払おうと思っていた次第です。」
と、元康らは、今川軍としてではなく、あくまで独立した三河衆としての行動だったと言い訳できる訳です。
つまり、このタイミングでは、元康は今川家側の人間なのか、信長側なのかが不明な状況を作り出すことに成功したのです。
4.鵜殿長照(うどのながてる)
⑤忍者ハットリくん (名は服部貫蔵) |
というのは、氏真の今川領内でのガバナンスはやはり上手く行かず、離反する豪族らの人質を次々と殺し、それがまた今川家からの離反を生むという負のスパイラルが廻り始めたからです。
松平家もその選に漏れることなく、東三河の松平家の十数人の人質が、吉田城付近で陰惨にも串刺しで処刑されるという伝承が残っています。この後に出てくる松平清善(きよよし)も人質だった娘を処刑されています。
氏真の統率力の欠如だけでなく、このような破滅型のガバナンスに嫌気が差した元康は、今川家を見限ります。それは勿論、駿府に残している自分の家族・瀬名姫(築山御前、以後大河ドラマに合わせ「瀬名姫」と記述します)、竹千代(後の信康)、亀姫の命を諦めるということを意味します。
ところが、ここで、一計を立てたのが服部半蔵正成(しげなり)、忍者ハットリくんのモデルです(イラスト⑤)。
◆ ◇ ◆ ◇
鵜殿長照(うどのながてる)という武将をご存じでしょうか?(写真⑥)
⑥「どうする家康」の鵜殿長照 (野間口徹氏) |
元康が大高城に、丸山砦の信長軍の追撃を振り切って、兵糧を入れた話を覚えていますか?(忘れた方は是非こちら「3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!」をご笑覧ください。)
元康が大高城へ兵糧を持って飛び込む時まで、大高城で孤高の将として鷲津砦や丸根砦の信長軍の付城と、草の根を嚙みながら戦っていた漢(おとこ)、それが鵜殿長照です。
かなり気骨のある漢でしたが、今川義元が桶狭間で討ち取られると、元康よりも早く三河の本領に帰って、今川方の武将として上ノ郷城で西三河を信長の魔の手から守ろうとします。(写真⑦)
というのは、長照自身、義元の甥にあたると同時に、奥方は、今川家当主である氏真の叔母にあたるのです。これだけ今川家との血脈が濃ければ、無条件に今川方で信長憎しであることは明白ですね。⑦上ノ郷城跡 |
ここで今川家の味方なのか、織田信長に汲みするのかを判然としないようにした元康の立ち位置を目いっぱい使った一芝居を服部半蔵正成は打ちます。
ある夜も更けた頃、彼は、鵜殿長照の上ノ郷城に負傷した姿で飛び込みます。
「御注進!隣国・松平清善殿(絵⑧)が、吉田城外にて娘を今川一族に殺された恨みで、この上ノ郷城へ兵を進めております。我が主・元康は同じ松平家として清善を思いとどまらせようと、竹谷の清善を尋ね岡崎から出てきたところ、清善殿は軍を固め、無勢の我が軍に襲い掛かってきた次第。」半蔵正成は話ながら、肩に刺さった矢を抜いて見せます。肩から少し血が吹き出します。鵜殿長照は、その生々しい戦の傷を見つめ、ゴクリと唾を飲み込むのです。(これは血袋を使った半蔵正成の演出です。)
「そもそも松平家同士の話し合いにより、この西三河での混乱を避けようと少人数で来た我が主・元康軍は現在、大苦戦でござる。」
⑧松平清善 |
「鵜殿長照殿!是非援軍を!我が主・元康は、上ノ郷城の西側・竹谷の地にて交戦中でござる。元はと言えば鵜殿長照殿を庇っての今回の出陣。どうかご出馬を!」
と、今にも戦での消耗で倒れそうな苦しい息の中での半蔵正成の言。
「むむむ・・松平家は結束が固いと聞くが・・」
と半信半疑、直ぐには応じられない長照。そこに留目を刺すかのような半蔵正成の言が続きます。
「織田信長が来ますぞ。同じ三河の松平家の内紛。信長が逃すはずはありませぬ。我が主・元康が清善殿のところに来たのも、実は清善殿が信長殿との密通の気配があり、このままでは長照殿も松平家も西三河が信長殿に切り取られてしまうと危惧されてのことなのです。ここで元康を見殺しにすれば、信長・清善連合軍と長照殿は対峙することになりますぞ。駿府の氏真殿の支援は望めない現状で!」
「よし分かった!元康殿を助けようぞ。」
とやっと応じる長照。早速、城の守備を長子に任せると、数百の騎馬を従えて、西の竹谷に向けて城門を打って出ます。
5.服部半蔵正成の火計
長照を説得した半蔵正成は、城内で手当てを受けることとなり、城に残された女性たちに、別室に案内されます。
「厠(かわや)はどちらか?」
と聞き、案内されると、厠から庭越しに外に出て、黒装束に着替え、するすると城屋敷の天井裏に潜みます。
◇ ◆ ◇ ◆
鵜殿長照らが、上之郷城から西の竹谷方面へ出撃したことを、城の東にある丘の上から見ていた武将がいます。
松平元康です。
半蔵正成が鵜殿へ、「西の竹谷で交戦中」と伝えた元康は、東の丘に引き連れた松平連合軍(松平清善の軍と連合)と共にいるのです。
竹谷の松平清善の屋敷には篝火を延々と焚いて、それなりに軍勢がいるようにみせかけはしているのですが、殆どもぬけの殻です。勿論、この屋敷は鵜殿軍に打ち壊されることは覚悟の上です。そんなことよりも、松平清善は、桶狭間合戦後、鵜殿長照の今川氏真への讒言により、人質である娘を殺された恨みで、上之郷城をなんとしても抜きたい(落城させたい)と思っていたところでした。
そこに、松平元康の家臣・服部半蔵正成から、上ノ郷城を抜くことに、元康が協力するとのオファを受けたのですから、屋敷の1つや2つ、大した話ではありません。元康軍が連合する上に、服部半蔵正成が率いる甲賀部隊(忍者部隊)が策略を持って上之郷城を抜くと言うのですから、こんなに心強いことはありません。
元康は、鵜殿軍が上ノ郷城を出払ったとみるや、全軍に指揮をします。
⑨本丸炎上イメージ |
城を守るのは鵜殿長照の長男、次男が中心となりますが、長照率いる主力は西の竹谷へ出撃しておりますので、東門を突き破って城に乱入するのに松平連合軍は苦労しません。
と同時に、上之郷城の本丸から火の手が上がります。城屋敷の天井裏に忍んだ半蔵正成が火を掛けたのです。
「頼むぞ!半蔵!」
と元康は祈る気持ちで、その火の手を見つめました。半蔵正成のこの火の手を合図に城外から甲賀部隊も乱入し、鵜殿長照の奥方、息子たちを生捕りにする手筈なのです。
城・本丸屋敷から上がる火の手はみるみる広がり、城内は大混乱。(イメージ⑨)
特に松平清善の兵は、城に火の回る中、娘を殺された恨みで鵜殿守備隊の虐殺を進めます。城内は大混乱となりましたが、どさくさに紛れながらも、甲賀部隊は、長照の奥方や息子たちの身の確保に成功しました。
6.鵜殿坂
出撃した鵜殿長照らが、竹谷の囮の陣を見つけ、
「服部半蔵正成に謀られた!」
と慌てて上之郷城へ取って返したのは、元康の予想通り、城を出撃してからほぼ半刻後。既に上ノ郷城は、火の海と化していました。
鵜殿軍は茫然として、上ノ郷城の落城を見ているしか無い状況です。
しかも、攻め手は、いつも相まみえる隣国の松平清善らの軍のようですが、奴らが引き上げる方向、城の東の丘には
「厭離穢土 欣求浄土」の元康の馬印が立っているではありませんか。
「おのれ!卑怯だぞ!騙したな、元康っっっ!」
と、鵜殿長照は、強烈な怒声を発しつつ、率いる軍と一緒に元康が陣に迫ろうとします。その怒声を聞いた松平清善、攻城戦が終り、元康が陣へ取って返す途中だったのですが、
「長照!観念!!」
と、長照の後を追いかけます。元康の陣がある丘の頂上にあと少しのところで、長照は木の根に馬の足が取られ落馬。そこに追いついた清善。長照が起き上がったところを、一刀に切り伏せます。悔しさで目を引ん剝く長照の首、これを掴んで持ち上げた清善、
「宿敵・鵜殿長照の首取ったり!」
と叫びます。
現在、この丘へ登る坂は「鵜殿坂」という地名で残っています。(写真⑩)
⑩鵜殿坂 |
また、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だとの伝承も残っているようです。
服部半蔵正成の火計は成功しました。生捕りにした鵜殿長照の奥方、その息子らと駿府にいる元康の家族との人質交換に今川氏真は応じるのです。
7.清州同盟
元康は、直ぐに無念顔の長照の首を検分します。
ー長照殿、さぞかしワシを卑怯ものと思われるであろう。しかし、ワシも領民のくらしを含む松平家という家を守り続けなければならず、その結果が得られるのであれば、幾らでも卑怯のそしりを受けもうそうー
元康の頬に一筋の涙が流れます。そして決意します。
ー今日を持って、今川家とは決別し、頂いた義元公の「元」の諱(いみな)はお返しし、ワシが卑怯と言われようと守っていく「家」を頂いた名としよう。つまり、「元康」改め「家康」じゃ。ー
駿府に人質となっていた瀬名姫、竹千代、亀姫を取り戻した元康、改め家康は、桶狭間合戦の2年後の永禄5年(1562年)、清州城にて信長と同盟を結びます。(360度写真⑫)
⑫清州城
これが「本能寺の変」までどんなに家康が不利・ピンチになっても続く清州同盟の始まりなのです。
長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございます。
《つづく》