マイナー・史跡巡り: 家康の大樹④ ~桶狭間の杜松~ -->

土曜日

家康の大樹④ ~桶狭間の杜松~

 「狙うは義元の首1つ!」

色々と複雑な経緯を経て、桶狭間で休息を取っている今川義元の本陣に突撃する信長軍。

この時、今川義元が馬を繋いだ木が枯木となって残っています。

杜松(ねず)の木です。(写真①)

①今川義元が馬を繋いでいた杜松の木

1.桶狭間当日の今川義元は馬に乗っていた?

27歳の信長に対し、海道一の弓取りと言われた今川義元は42歳の男盛り。

義元は公家の真似事ばかりして、天上眉の肥満体。上洛戦の時には武士であるのに、馬にも乗れず、桶狭間の戦いの時も、輿に乗っていたとの話が昔からよくあります。

ところが、実はこのような話は江戸中期以降の創作で、大国主・義元が慢心していたがため、小国主・信長に負けたことを強調したいということで作られた部分が多いのです。

勿論、輿での移動もかなりあったようです。というのは、今川家は時の幕府・足利家の流れを強く汲む家柄なので、輿の利用を許されていた数少ない高家だったのです。ですので、この特別待遇を強調したいと考え、輿を利用することが多かったようです。

ただし、信長の領地、つまり戦場地となりうる土地では、基本、義元は馬を使ったようです。少なくとも行軍中いつでも馬に乗れるよう引き連れていたことは確かですね。なので、写真①のように桶狭間には、義元が当日馬に乗っていた証拠の駒繋の「杜松の木」が残っているのです。

ちなみにこの駒繋の「杜松の木」。昭和初期まではちゃんと生きていたようです。大正時代のこの杜松の木が元気だった頃の写真があります。(写真②)

②今川義元公の馬を繋いだ「杜松の木」が元気な頃
※義元公が信長に急襲された桶狭間の雰囲気が良く伝わってきますね。

42歳、まさに男盛りの義元。当日の乗馬姿の出立を明良洪範には以下のように描写しています。

胸白の鎧に金打ち八竜の五枚兜をかぶり、紅錦の陣羽織に、今川重代松倉郷の太刀、一尺八寸の大左文字の脇差を差し、青の馬の逸物に金覆輪の鞍を置き、紅の鞦(しりがい:馬の尻から鞍にかける組み緒)をかけて乗っていた。

流石一流処の出立です。そしてやはり「青の馬の逸物」に乗っていたのですね。

ただ、残念ながら桶狭間では、この青の馬の逸物は「杜松の木」に繋いたまま、2度と主が乗ることは無かったのです。

2.絶対優位の義元

さて、今川義元の首1つを狙い、信長軍が突撃する少し前の時間に、今一度戻り、善照寺砦から桶狭間に至る間の話を、太田牛一の「信長公記」を基に見ていきたいと思います。(地図③)

③桶狭間に至る兵力分布図

善照寺砦で丸根砦陥落の報を聞いた信長が、「後詰め」戦法は一切捨て「奇襲」戦法に、完全に切り替えたと前回のブログで書きました。

逆に、この報を聞いた行軍中の今川義元は、

④上機嫌で謡をうたう義元
(コスミック出版『戦国武将 決断の瞬間』)
「『満足これに過ぐべからざる』の由にて、謡(うたい)を三番うたはせられたる由に候」

非常に上機嫌な義元です。こんな感じでしょう。(絵④)

◆ ◇ ◆ ◇

一方、信長臣下の佐々 政次(さっさ まさつぐ、「信長公記」では佐々隼人正と表記)は、信長が善照寺砦に入ったと聞き、

「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と

数百の兵力で、中島砦を打って出るのです。

この攻撃は、今川軍も十分に予想していたようで、約2倍の兵力で迎撃され、いとも簡単に跳ね返されてしまいます。佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死。

これを聞いた義元は

「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし。」

とさらに上機嫌になり、また謡をうたったようです(笑)。

「信長公記」に出てくる義元の2つの「謡」うたいの表現は、確かに義元が上機嫌となり、緊張感が和らいでいたことは史実のようですね。

ただ後世、これが義元の驕り・油断と見なされ、「酒宴を開いた」等、およそ戦闘状態とは思えない状況だったというのは、想像の尾ひれはひれが付いている可能性がありますね。まあ、士気高揚の酒飲みは、近隣の豪族が戦勝祝いで持ってくれば多少はあったかもしれませんが。

更にこの油断しきった今川義元は「田楽狭間」なる谷に布陣したという説もありますが、海道一の弓取りと言われた今川義元が、敵に襲われたときに戦術上大変不利になる谷に留まるということは考えづらいとも言われています。

古地図⑤は江戸時代に描かれたものではありますが、桶狭間の今川本陣がやはり、山の上、「おけはざま山」と言われる場所に敷かれたと言われる文献です。(古地図⑤)

⑤国立国会図書館蔵 桶間部類絵図には
今川本陣と書かれた場所は山になっており
これが「信長公記」の「おけはざま山」

実際、玉木がこの「おけはざま山」に行ってきました。(写真⑥)
今は住宅街になって分かりづらいですが、この位置から、写真⑥の奥へと坂を下った100m程先に、今川義元戦死之地碑があります。
⑥現在の「おけはざま山」は住宅街となっていますが
坂道を下りきったところが今川義元戦死地になって
います。信長軍に押されて古地図⑤の雨池付近まで
下らざるを得なかった今川本陣だったようです。

古地図⑤中に描かれている雨池の1つは、現在「大池」という整備された池となってこの地にあります。(360度写真⑦)。他にもこの大池のような雨池が現在もこの桶狭間の辺りには沢山残っています。

⑦大池
古地図⑤に見られるように、この地域は水捌けが
良くなく、あちこちに深田や雨池があったようです。
⑥の「おけはざま山」に陣を張った今川義元も信長軍
押され、この大池のすぐ奥に見える小山の左の深田
に足を取られ、討死したようです。

3.信長の細やかな作戦

佐々 政次の数百の兵で今川本陣に向かうも、今川軍に余裕で迎撃された戦は、一説には信長の考えた陽動作戦だったのではないかとも言われています。つまり佐々らは囮(おとり)で、この戦の勝利で、更に気を良くした今川義元を油断させるため、また信長本隊の動きを察知させないためにというものです。(地図③参照)

「信長公記」には、信長が更に芸が細かいことに、善照寺砦から中島砦に移動する際、深田の中の一本道を進軍させたとあります。信長の家臣たちからは

「殿、この道を進軍させれば、今川義元軍に我らが無勢で清州から駆け付けていることがバレてしまうので止めた方が良いのでは。」

と進言されたにも係わらず、振り切って実行。これは勿論、モタモタしている時間は無いという状況だったこともあるとは思いますが、わざと以下2つの事を今川軍に誤認させようという意思があるように感じます。

①信長軍は無勢。(とるに足らない。)
②佐々軍が出撃した後の中島砦の「後詰め」作戦を信長本隊が遂行している。
(奇襲する意志は信長軍には無い。)

つまり兵数が少ないにも関わらず、今川軍が尾張に築いた橋頭堡、鳴海城、大高城の対応に右往左往する信長の無策ぶり。

「ほっほっほ、わが眼中に信長軍はなし。心地よし。」

と言ったとは「信長公記」には書いていませんが、義元を慢心させればさせるだけ、この後の奇襲作戦はやりやすくなると考えたのかもしれません。

◆ ◇ ◆ ◇

中島砦に入った信長。ここでかつての「うつけ仲間」である前田利家が助っ人として参戦します。前田利家は、桶狭間合戦の前に、信長の不興を買い、出仕停止を食らっていたのですが、信長最大のピンチに、居ても経ってもいられず、無断で参戦。ここに到達するまでに既に敵の首一つ上げていました。(絵⑧)(この後2つ上げ、合計3つの首級を挙げます。)
⑧桶狭間合戦に参戦する前田利家
とその郎党(月岡芳年画)
※前田利家は、桶狭間で信長の許可なく暴れまわり
上記絵のように首級をあげていました

前田利家の参戦で勇気100倍となった信長軍、中島砦を出撃するにあたり、信長は以下の演説を全軍にします。

「聞け!今川軍は今朝寅の刻(午前3時頃)から大高城への出入り、鷲津・丸根の砦攻撃等でかなり疲れている。それに対してわが軍は新手。小軍ではあるが疲れた大軍を恐れるな。『運は天にあり』と古(いにしえ)より言う。敵が襲ってきたら引き、退いたら襲い掛かれ。揉み倒し、追い崩すべし!分捕りするな。首は討ち捨てよ!この一戦勝たば、集まりし者どもの家の面目は末代に至る功名であるぞ!一心に励むべし!」

4.義元、指を食いちぎる

先に佐々 政次の軍が今川軍に余裕で迎撃された戦で、今川軍が出てくる方向等から、今川本陣が大体どの辺りであるか、信長らは想像がつきます。

ただ、この時、急に雷神が轟き、沓掛峠の大楠が音を立てて倒れたかと思うと、大地を揺るがす豪雨となります。これは信長軍にとっては非常にラッキーで、後に「あれは熱田神宮の御力だったのだろう」と噂されるくらいの快事でした。

というのは、豪雨を避けることに手一杯だった今川本陣。豪雨で視界が悪いこともあって、直ぐ近くまで、この土地の豪族で、信長陣営に与している簗田(やなだ)出羽守政綱が偵察に来ていたことに気付きません。

簗田政綱は戻り、信長の馬の横に自分の馬を乗りつけると、義元のいる正確な位置を耳打ちします。

時は未の刻(午後2時ごろ)空は先程の豪雨が嘘のように晴れていきます。今でいうゲリラ豪雨だったのでしょう。信長は槍を天に突き出して、大声で

 「狙うは義元の首一つ!他の首は討ち捨てよ!」

と最後の下知を下します。

「うおおおおおお!」

と信長軍の馬のいななき、蹄音、鬨の声が鯨波となり、桶狭間の大地を揺るがします。全軍黒い玉となって今川本陣めがけて突っ込んでいくのです。

一方の今川軍、ひとたまりも無く崩れ落ちます。

出現すると想定していなかった敵が、一丸となって襲い掛かってくる恐怖。兵力がどうの、軍の配置がどうの等、冷静な分析ができる心理状態ではなかったでしょう。
弓、槍、鉄砲は打ち捨てられ、旗指物が散乱します。

この大混乱の中にあっても、当初、義元は周囲を今川軍300騎に護衛されていました。しかし信長軍の猛攻に耐え兼ね、じりじりと「おけはざま山」の緩斜面を下る形となり、先程の「大池」(360度写真⑦)まで撤退します。この池の淵までの撤退戦で、今川の護衛は50騎ほどに減ってしまったのです。(360度写真⑧)
 
  ⑧桶狭間古戦場公園(今川義元最期の地)

信長も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せます。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を砕くほどの激戦を展開。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次ぐ次第。

主戦場となった「大池」の辺りは、当時は大湿地帯で深田がひしめいており、この深田に足を取られて、義元の側近たちは次々と討ち取られていきます。

そして、とうとう

「そこにおわすは今川治部大輔(じぶたいふ)義元公とお見受けしたり!」と

服部小平太が義元に肉薄します。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌ぎます。ところが、今度は、横合いから、毛利新介という武者が突進してきます。(絵⑨)
⑨『桶狭間今川義元血戦』(揚斎延一画)
※右側の服部小平太を何とか凌いだ義元(中央)ですが、
左の幕の外側から毛利新介の襲撃にも合います。
こうなってはどんなに大軍を率いていても終わりですね。

義元は、今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられ、兜を蹴り外され、大刀で首を切り落とされるのです。その際、義元は従容として死についたのではなく、毛利新介の指を、首を切り落とされる前に食いちぎるという、およそ公家然とした風貌からは思いもつかない行動に出たという伝説が残っています。

⑩今川義元首検証杉
(桶狭間・長福寺)
※この霊木は2代目です
「義元公の首、取ったり!」

と毛利新介は絶叫します。

今川軍に激震が走りました。

海道一の弓取りと言われた大大領主のトップが戦場で「首を切り落とされる」。
敗色が濃いので撤兵するは「ありえること」と想定できても、直前まで絶対有利な今川軍トップが「首を切り落とされる」とは「ありえない」。

義元が討たれたとの震撼すべき報は、あっという間に両軍全軍に拡散しました。となると戦は、にわかに今川軍掃討戦の様相を呈します。
散り散りになって逃げ惑う今川軍。
義元の首を取るまでは、打ち捨てるべき今川軍の他の将の首も、義元を討ち取った後は分捕り放題です。
功名心に血眼になる信長軍に対し今川軍が逃げ惑うのは当然といえば当然です。

5.桶狭間の論功

掃討戦もほぼ収まってきたころ、信長の元には首を得た者達が続々と実検に訪れてきます。
ところが信長は、それら種々の今川軍の将首には興味を示さず、今川義元の首のみを検分します。(写真⑩)

検分後、晴れやかな表情で、もと来た道を引き返し、清州城に帰陣したと「信長公記」は締めくくっています。

後日、この合戦の論功がなされますが、なんと言っても一番は、やはり指を食いちぎられても、義元の首を上げた毛利新介だろう、いや最初に槍を付けた服部小平太に違いないと噂が飛び交います。

ところが論功第1は、なんと梁田政綱でした。これは織田信長が、戦における「情報」の重要性を、切った張ったの中世には珍しく、理解が深かったからだとする評価が多いですね。

しかし、今まで書いてきました「信長公記」でも、義元の最終位置確定に梁田政綱は貢献したかもしれませんが、義元本陣の大体の位置は中島砦に信長が来ている頃から分かっていたような節があります。

だとすると、これだけの寄与で論功第1とするのは過剰ではないかとの意見もあるようです。(また1次史料において論功第1が梁田政綱と書かれたものは見つかっていないという話もあります。)
ただ、事実として梁田政綱は沓掛城を貰っていますから、彼の功績は他にも表に出ない何かがあったのかもしれません。

この辺りの桶狭間の謎も興味が尽きない所ですが、そろそろ桶狭間合戦本論からは離れ、討たれた義元側の武将であった松平元康(家康)は「どうする?」のかに話を戻します。

6.松平元康の熟慮

この時、今川義元が向かっていた大高城に先に入り、鷲津・丸根砦等の四囲の信長軍を蹴散らした松平元康(家康)らはどうしたのでしょうか?

その日(5月19日)の夕方になっても、大高城へ現れない義元らに何かあったのだろうと気を揉み始めた頃、織田方の武将で、元康の伯父でもある水野信元から、

「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

の報が入りました。
唖然とする元康。しかし、周囲の三河衆の誰かが

「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

と叫ぶと

「あっ!」

と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

元康は、しばらく考えます。そして

「全軍、岡崎へ向かう!」
「おお!」
「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
「ええっ?」

訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真⑪)
⑪大樹寺
※岡崎城の北3km辺りにあります

話がまた脱線しますが、大樹寺に残る有名なこの時の伝承がありますので、一応、ご紹介します。

◆ ◇ ◆ ◇

大高城を信長軍の攻撃から命からがら逃げ伸びた元康ら30騎弱。なんとか大樹寺に逃げ込みます。しかし、追いかけてきた信長軍に大樹寺を包囲されてしまいました。絶望した元康は松平家先祖代々の墓前で腹を切るつもりでした。(写真⑫)
⑫大樹寺にある松平八代の墓前

そこへ、現れた当時の大樹寺住職。「厭離穢土欣求浄土」の教えを元康に説いて諭します。諭された元康は奮起し、「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、寺僧500人と一緒に追撃信長軍を撃退するのです。

この後、この「厭離穢土欣求浄土」の旗は家康の馬印として使われ続けるのです。(写真⑬)
⑬大樹寺本堂にある「厭離穢土」「欣求浄土」

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、信長軍が三河・岡崎へ追撃戦をしたという資料は見つかっていません。
また、もし追撃戦があったのであれば、どうしてたった3kmしか離れていない岡崎城に元康らは入らなかったのでしょうか。岡崎城には今川軍も居たのですから。これからお話する道理から考えても、この伝承には少し違和感を覚えます。

では、どうして元康は岡崎城ではなくて、大樹寺に入ったのでしょうか?
それには、元康の深い読みがあったと私は考えます。

長くなりましたので、この元康(家康)の「どうする?」は、次回のブログで解説致します。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》