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土曜日

家康の大樹④ ~桶狭間の杜松~

 「狙うは義元の首1つ!」

色々と複雑な経緯を経て、桶狭間で休息を取っている今川義元の本陣に突撃する信長軍。

この時、今川義元が馬を繋いだ木が枯木となって残っています。

杜松(ねず)の木です。(写真①)

①今川義元が馬を繋いでいた杜松の木

1.桶狭間当日の今川義元は馬に乗っていた?

27歳の信長に対し、海道一の弓取りと言われた今川義元は42歳の男盛り。

義元は公家の真似事ばかりして、天上眉の肥満体。上洛戦の時には武士であるのに、馬にも乗れず、桶狭間の戦いの時も、輿に乗っていたとの話が昔からよくあります。

ところが、実はこのような話は江戸中期以降の創作で、大国主・義元が慢心していたがため、小国主・信長に負けたことを強調したいということで作られた部分が多いのです。

勿論、輿での移動もかなりあったようです。というのは、今川家は時の幕府・足利家の流れを強く汲む家柄なので、輿の利用を許されていた数少ない高家だったのです。ですので、この特別待遇を強調したいと考え、輿を利用することが多かったようです。

ただし、信長の領地、つまり戦場地となりうる土地では、基本、義元は馬を使ったようです。少なくとも行軍中いつでも馬に乗れるよう引き連れていたことは確かですね。なので、写真①のように桶狭間には、義元が当日馬に乗っていた証拠の駒繋の「杜松の木」が残っているのです。

ちなみにこの駒繋の「杜松の木」。昭和初期まではちゃんと生きていたようです。大正時代のこの杜松の木が元気だった頃の写真があります。(写真②)

②今川義元公の馬を繋いだ「杜松の木」が元気な頃
※義元公が信長に急襲された桶狭間の雰囲気が良く伝わってきますね。

42歳、まさに男盛りの義元。当日の乗馬姿の出立を明良洪範には以下のように描写しています。

胸白の鎧に金打ち八竜の五枚兜をかぶり、紅錦の陣羽織に、今川重代松倉郷の太刀、一尺八寸の大左文字の脇差を差し、青の馬の逸物に金覆輪の鞍を置き、紅の鞦(しりがい:馬の尻から鞍にかける組み緒)をかけて乗っていた。

流石一流処の出立です。そしてやはり「青の馬の逸物」に乗っていたのですね。

ただ、残念ながら桶狭間では、この青の馬の逸物は「杜松の木」に繋いたまま、2度と主が乗ることは無かったのです。

2.絶対優位の義元

さて、今川義元の首1つを狙い、信長軍が突撃する少し前の時間に、今一度戻り、善照寺砦から桶狭間に至る間の話を、太田牛一の「信長公記」を基に見ていきたいと思います。(地図③)

③桶狭間に至る兵力分布図

善照寺砦で丸根砦陥落の報を聞いた信長が、「後詰め」戦法は一切捨て「奇襲」戦法に、完全に切り替えたと前回のブログで書きました。

逆に、この報を聞いた行軍中の今川義元は、

④上機嫌で謡をうたう義元
(コスミック出版『戦国武将 決断の瞬間』)
「『満足これに過ぐべからざる』の由にて、謡(うたい)を三番うたはせられたる由に候」

非常に上機嫌な義元です。こんな感じでしょう。(絵④)

◆ ◇ ◆ ◇

一方、信長臣下の佐々 政次(さっさ まさつぐ、「信長公記」では佐々隼人正と表記)は、信長が善照寺砦に入ったと聞き、

「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と

数百の兵力で、中島砦を打って出るのです。

この攻撃は、今川軍も十分に予想していたようで、約2倍の兵力で迎撃され、いとも簡単に跳ね返されてしまいます。佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死。

これを聞いた義元は

「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし。」

とさらに上機嫌になり、また謡をうたったようです(笑)。

「信長公記」に出てくる義元の2つの「謡」うたいの表現は、確かに義元が上機嫌となり、緊張感が和らいでいたことは史実のようですね。

ただ後世、これが義元の驕り・油断と見なされ、「酒宴を開いた」等、およそ戦闘状態とは思えない状況だったというのは、想像の尾ひれはひれが付いている可能性がありますね。まあ、士気高揚の酒飲みは、近隣の豪族が戦勝祝いで持ってくれば多少はあったかもしれませんが。

更にこの油断しきった今川義元は「田楽狭間」なる谷に布陣したという説もありますが、海道一の弓取りと言われた今川義元が、敵に襲われたときに戦術上大変不利になる谷に留まるということは考えづらいとも言われています。

古地図⑤は江戸時代に描かれたものではありますが、桶狭間の今川本陣がやはり、山の上、「おけはざま山」と言われる場所に敷かれたと言われる文献です。(古地図⑤)

⑤国立国会図書館蔵 桶間部類絵図には
今川本陣と書かれた場所は山になっており
これが「信長公記」の「おけはざま山」

実際、玉木がこの「おけはざま山」に行ってきました。(写真⑥)
今は住宅街になって分かりづらいですが、この位置から、写真⑥の奥へと坂を下った100m程先に、今川義元戦死之地碑があります。
⑥現在の「おけはざま山」は住宅街となっていますが
坂道を下りきったところが今川義元戦死地になって
います。信長軍に押されて古地図⑤の雨池付近まで
下らざるを得なかった今川本陣だったようです。

古地図⑤中に描かれている雨池の1つは、現在「大池」という整備された池となってこの地にあります。(360度写真⑦)。他にもこの大池のような雨池が現在もこの桶狭間の辺りには沢山残っています。

⑦大池
古地図⑤に見られるように、この地域は水捌けが
良くなく、あちこちに深田や雨池があったようです。
⑥の「おけはざま山」に陣を張った今川義元も信長軍
押され、この大池のすぐ奥に見える小山の左の深田
に足を取られ、討死したようです。

3.信長の細やかな作戦

佐々 政次の数百の兵で今川本陣に向かうも、今川軍に余裕で迎撃された戦は、一説には信長の考えた陽動作戦だったのではないかとも言われています。つまり佐々らは囮(おとり)で、この戦の勝利で、更に気を良くした今川義元を油断させるため、また信長本隊の動きを察知させないためにというものです。(地図③参照)

「信長公記」には、信長が更に芸が細かいことに、善照寺砦から中島砦に移動する際、深田の中の一本道を進軍させたとあります。信長の家臣たちからは

「殿、この道を進軍させれば、今川義元軍に我らが無勢で清州から駆け付けていることがバレてしまうので止めた方が良いのでは。」

と進言されたにも係わらず、振り切って実行。これは勿論、モタモタしている時間は無いという状況だったこともあるとは思いますが、わざと以下2つの事を今川軍に誤認させようという意思があるように感じます。

①信長軍は無勢。(とるに足らない。)
②佐々軍が出撃した後の中島砦の「後詰め」作戦を信長本隊が遂行している。
(奇襲する意志は信長軍には無い。)

つまり兵数が少ないにも関わらず、今川軍が尾張に築いた橋頭堡、鳴海城、大高城の対応に右往左往する信長の無策ぶり。

「ほっほっほ、わが眼中に信長軍はなし。心地よし。」

と言ったとは「信長公記」には書いていませんが、義元を慢心させればさせるだけ、この後の奇襲作戦はやりやすくなると考えたのかもしれません。

◆ ◇ ◆ ◇

中島砦に入った信長。ここでかつての「うつけ仲間」である前田利家が助っ人として参戦します。前田利家は、桶狭間合戦の前に、信長の不興を買い、出仕停止を食らっていたのですが、信長最大のピンチに、居ても経ってもいられず、無断で参戦。ここに到達するまでに既に敵の首一つ上げていました。(絵⑧)(この後2つ上げ、合計3つの首級を挙げます。)
⑧桶狭間合戦に参戦する前田利家
とその郎党(月岡芳年画)
※前田利家は、桶狭間で信長の許可なく暴れまわり
上記絵のように首級をあげていました

前田利家の参戦で勇気100倍となった信長軍、中島砦を出撃するにあたり、信長は以下の演説を全軍にします。

「聞け!今川軍は今朝寅の刻(午前3時頃)から大高城への出入り、鷲津・丸根の砦攻撃等でかなり疲れている。それに対してわが軍は新手。小軍ではあるが疲れた大軍を恐れるな。『運は天にあり』と古(いにしえ)より言う。敵が襲ってきたら引き、退いたら襲い掛かれ。揉み倒し、追い崩すべし!分捕りするな。首は討ち捨てよ!この一戦勝たば、集まりし者どもの家の面目は末代に至る功名であるぞ!一心に励むべし!」

4.義元、指を食いちぎる

先に佐々 政次の軍が今川軍に余裕で迎撃された戦で、今川軍が出てくる方向等から、今川本陣が大体どの辺りであるか、信長らは想像がつきます。

ただ、この時、急に雷神が轟き、沓掛峠の大楠が音を立てて倒れたかと思うと、大地を揺るがす豪雨となります。これは信長軍にとっては非常にラッキーで、後に「あれは熱田神宮の御力だったのだろう」と噂されるくらいの快事でした。

というのは、豪雨を避けることに手一杯だった今川本陣。豪雨で視界が悪いこともあって、直ぐ近くまで、この土地の豪族で、信長陣営に与している簗田(やなだ)出羽守政綱が偵察に来ていたことに気付きません。

簗田政綱は戻り、信長の馬の横に自分の馬を乗りつけると、義元のいる正確な位置を耳打ちします。

時は未の刻(午後2時ごろ)空は先程の豪雨が嘘のように晴れていきます。今でいうゲリラ豪雨だったのでしょう。信長は槍を天に突き出して、大声で

 「狙うは義元の首一つ!他の首は討ち捨てよ!」

と最後の下知を下します。

「うおおおおおお!」

と信長軍の馬のいななき、蹄音、鬨の声が鯨波となり、桶狭間の大地を揺るがします。全軍黒い玉となって今川本陣めがけて突っ込んでいくのです。

一方の今川軍、ひとたまりも無く崩れ落ちます。

出現すると想定していなかった敵が、一丸となって襲い掛かってくる恐怖。兵力がどうの、軍の配置がどうの等、冷静な分析ができる心理状態ではなかったでしょう。
弓、槍、鉄砲は打ち捨てられ、旗指物が散乱します。

この大混乱の中にあっても、当初、義元は周囲を今川軍300騎に護衛されていました。しかし信長軍の猛攻に耐え兼ね、じりじりと「おけはざま山」の緩斜面を下る形となり、先程の「大池」(360度写真⑦)まで撤退します。この池の淵までの撤退戦で、今川の護衛は50騎ほどに減ってしまったのです。(360度写真⑧)
 
  ⑧桶狭間古戦場公園(今川義元最期の地)

信長も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せます。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を砕くほどの激戦を展開。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次ぐ次第。

主戦場となった「大池」の辺りは、当時は大湿地帯で深田がひしめいており、この深田に足を取られて、義元の側近たちは次々と討ち取られていきます。

そして、とうとう

「そこにおわすは今川治部大輔(じぶたいふ)義元公とお見受けしたり!」と

服部小平太が義元に肉薄します。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌ぎます。ところが、今度は、横合いから、毛利新介という武者が突進してきます。(絵⑨)
⑨『桶狭間今川義元血戦』(揚斎延一画)
※右側の服部小平太を何とか凌いだ義元(中央)ですが、
左の幕の外側から毛利新介の襲撃にも合います。
こうなってはどんなに大軍を率いていても終わりですね。

義元は、今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられ、兜を蹴り外され、大刀で首を切り落とされるのです。その際、義元は従容として死についたのではなく、毛利新介の指を、首を切り落とされる前に食いちぎるという、およそ公家然とした風貌からは思いもつかない行動に出たという伝説が残っています。

⑩今川義元首検証杉
(桶狭間・長福寺)
※この霊木は2代目です
「義元公の首、取ったり!」

と毛利新介は絶叫します。

今川軍に激震が走りました。

海道一の弓取りと言われた大大領主のトップが戦場で「首を切り落とされる」。
敗色が濃いので撤兵するは「ありえること」と想定できても、直前まで絶対有利な今川軍トップが「首を切り落とされる」とは「ありえない」。

義元が討たれたとの震撼すべき報は、あっという間に両軍全軍に拡散しました。となると戦は、にわかに今川軍掃討戦の様相を呈します。
散り散りになって逃げ惑う今川軍。
義元の首を取るまでは、打ち捨てるべき今川軍の他の将の首も、義元を討ち取った後は分捕り放題です。
功名心に血眼になる信長軍に対し今川軍が逃げ惑うのは当然といえば当然です。

5.桶狭間の論功

掃討戦もほぼ収まってきたころ、信長の元には首を得た者達が続々と実検に訪れてきます。
ところが信長は、それら種々の今川軍の将首には興味を示さず、今川義元の首のみを検分します。(写真⑩)

検分後、晴れやかな表情で、もと来た道を引き返し、清州城に帰陣したと「信長公記」は締めくくっています。

後日、この合戦の論功がなされますが、なんと言っても一番は、やはり指を食いちぎられても、義元の首を上げた毛利新介だろう、いや最初に槍を付けた服部小平太に違いないと噂が飛び交います。

ところが論功第1は、なんと梁田政綱でした。これは織田信長が、戦における「情報」の重要性を、切った張ったの中世には珍しく、理解が深かったからだとする評価が多いですね。

しかし、今まで書いてきました「信長公記」でも、義元の最終位置確定に梁田政綱は貢献したかもしれませんが、義元本陣の大体の位置は中島砦に信長が来ている頃から分かっていたような節があります。

だとすると、これだけの寄与で論功第1とするのは過剰ではないかとの意見もあるようです。(また1次史料において論功第1が梁田政綱と書かれたものは見つかっていないという話もあります。)
ただ、事実として梁田政綱は沓掛城を貰っていますから、彼の功績は他にも表に出ない何かがあったのかもしれません。

この辺りの桶狭間の謎も興味が尽きない所ですが、そろそろ桶狭間合戦本論からは離れ、討たれた義元側の武将であった松平元康(家康)は「どうする?」のかに話を戻します。

6.松平元康の熟慮

この時、今川義元が向かっていた大高城に先に入り、鷲津・丸根砦等の四囲の信長軍を蹴散らした松平元康(家康)らはどうしたのでしょうか?

その日(5月19日)の夕方になっても、大高城へ現れない義元らに何かあったのだろうと気を揉み始めた頃、織田方の武将で、元康の伯父でもある水野信元から、

「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

の報が入りました。
唖然とする元康。しかし、周囲の三河衆の誰かが

「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

と叫ぶと

「あっ!」

と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

元康は、しばらく考えます。そして

「全軍、岡崎へ向かう!」
「おお!」
「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
「ええっ?」

訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真⑪)
⑪大樹寺
※岡崎城の北3km辺りにあります

話がまた脱線しますが、大樹寺に残る有名なこの時の伝承がありますので、一応、ご紹介します。

◆ ◇ ◆ ◇

大高城を信長軍の攻撃から命からがら逃げ伸びた元康ら30騎弱。なんとか大樹寺に逃げ込みます。しかし、追いかけてきた信長軍に大樹寺を包囲されてしまいました。絶望した元康は松平家先祖代々の墓前で腹を切るつもりでした。(写真⑫)
⑫大樹寺にある松平八代の墓前

そこへ、現れた当時の大樹寺住職。「厭離穢土欣求浄土」の教えを元康に説いて諭します。諭された元康は奮起し、「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、寺僧500人と一緒に追撃信長軍を撃退するのです。

この後、この「厭離穢土欣求浄土」の旗は家康の馬印として使われ続けるのです。(写真⑬)
⑬大樹寺本堂にある「厭離穢土」「欣求浄土」

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、信長軍が三河・岡崎へ追撃戦をしたという資料は見つかっていません。
また、もし追撃戦があったのであれば、どうしてたった3kmしか離れていない岡崎城に元康らは入らなかったのでしょうか。岡崎城には今川軍も居たのですから。これからお話する道理から考えても、この伝承には少し違和感を覚えます。

では、どうして元康は岡崎城ではなくて、大樹寺に入ったのでしょうか?
それには、元康の深い読みがあったと私は考えます。

長くなりましたので、この元康(家康)の「どうする?」は、次回のブログで解説致します。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》


木曜日

家康の大樹③ ~桶狭間を助けた名木たち~

 前回、駿府の今川義元が仕掛けた松平元信の岡崎への里帰り。里帰り直後に今川家を裏切り、織田信長側になびいてしまうようであれば、元信を滅ぼす覚悟の義元でした。

逆に信長にはなびかず、しっかりと今川家の将として信用の置ける行動をとるのであれば、義元は元信を大いに信頼し、重く用いようと考えていたのです。

そして、見事に義元の「信用」を勝ち取った元信。義元は、この三河の雄・元信を引き連れ、上洛作戦を展開するのです。

1.三国同盟と元康への改名

今川義元が上洛する6年前の1554年、後方の憂いが無いように甲相駿三国同盟を結びました。(地図②)

②甲相駿三国同盟
※盟主の嫡男宛にそれぞれ姫を送ることで
成立している同盟ですね。
※ちなみに3人の嫡男
(北条氏政、武田信義、今川氏真)
は、皆1538年生まれの同い歳!

当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始できるという訳です。

ちなみに、この当時の織田信長の版図を見てください。(地図③)

③1559年頃の織田信長版図
※水野誠志朗の「尾張時代の信長をめぐる」から抜粋・加工

地図上「境川」が地図左上の美濃国と、地図右側の三河国の2か所に同名の川としてあります。これが、織田領・尾張が隣国と接しているまさに「境」でした。

赤文字の城が織田信長の敵方です。ということは、信長領内にかなり奥深く、今川義元の沓掛城、大高城、鳴海城が入り込んでいるわけです。この3つの城が信長領侵攻への橋頭堡(きょうとうほ)な訳で、桶狭間の戦いもこの3つの城を今川義元が使っているうちに起きたことなのです。

「東海一の弓取り」と言われた今川義元、三国同盟という巧な外交政策と、隣国・織田領への橋頭堡確立済みという侵略性に長けていたかお分かりいただけたかと思います。

義元は、今度は三河の優秀な若武将と目を付けた元信を、上洛戦で使いこなそうとします。
先に述べました通り、義元と元信は固い信頼関係が出来上がっていたのです。そのせいかどうかは分かりませんが、この時期、家康は元服した時に今川義元から貰った「元信」から、「元康」に改名しています。
義元の「元」の字はそのままなのは、義元への忠節を顕していますが、当時三河衆の間では、松平家中興の祖、元信の祖父である、松平清康の「康」の字を使うことで三河衆への「自分も祖父に恥じない松平家当主を目指したい」という意思表示をした形なのでしょう。それを許した義元との高い信頼関係もうかがえます。

2.義元の上洛

地図➂を見てもう1つ気づくことがあります。

それは、義元が、上洛を盤石なものにすると同時期に、織田家は、智多(今の知多半島)を今川家に奪われて、かなりジタバタしていたということです。

知多半島自体は山谷が複雑に入込み、そんなに米が取れる訳でもない土地です。ところが、織田家にとっては、この智多は「あゆち潟」という現在の伊勢湾に面する重要な場所だったのです。そう土地以上に大切な交易箇所を取られてしまうという危機感ですね。莫大でしたから、交易による富は。

伊勢湾の制海権を今川に奪われつつある信長は、流言まで使い、今川の有力な家臣・戸部新左衛門や、信長を裏切り、今川側についた武将・山口父子を陥れるなど、余裕のない行動をこの時期繰り広げるのです。

「こざかしや!信長!」

と、義元は信長の行動を思ったことでしょう。

三国同盟も成ったことですし、そろそろ織田家を潰して西上しようと考える機は熟したのですね。

上記のように上洛のための隣国関係が盤石になった頃から、織田信長は、義元の上洛時期がいつになるのかを探るため、かなり数の諜報方を駿府に入れたようです。

④菖蒲(アヤメ)に軍を動かす
※「勝負(菖蒲)」や「殺め(アヤメ)」
の言葉にかけ、またちょうど農作業の
合間に当たることから、この花が咲く
ときに大規模な戦を仕掛ける武将は
多かったようです。

もう1つ信長が気になっていたのは、元康です。

永禄3年(1560年)のアヤメが咲く5月、義元が2万5千の軍を動かすことを知る信長ですが、この時、信長は、元康が今川軍の先陣を希望したということに憤りを感じます。(写真④)

信長が吉法師と呼ばれていた少年時代に、弟のようにかわいがった竹千代(元康の幼名)。それが義元の先鋒となって、尾張領国へ攻め入ってくるのです。しかも、元康が凡将で、単に三河の人質だから先鋒にさせられているというのであれば、まだ我慢のしようもあるのですが、なんと自分から義元に先陣を申し出たという諜報方の報告なのです。

元康が攻め入り、信長は弟分の元康の足下にひれ伏す。

想像するだけで、歯ぎしりしたくなる信長です。

弟分の竹千代に兄分の信長が領地を蹂躙される、その方が、義元が攻め入るより、信長にとっては屈辱的に感じていたかもしれません。

3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!

5月の半ば、今川義元は境川を超えた沓掛城へと入ります。(地図③参照)

ここで先陣を申し出た松平元康。尾張攻略の今川軍の最前線、大高城へ兵糧を運ぶ作戦を成功させます。(地図⑤)

⑤桶狭間の戦い・戦力&行動図
※今川軍2.5万、信長軍0.3万なので
約10倍の敵を倒したという通説

信長軍も、勿論、これら今川軍の動静をただ黙って看過していた訳ではなく、自領内にある2つの腹立たしい今川側の城・大高城と鳴海城に、付け城をつけ、特に大高城へ兵糧を持って入る元康には、付け城・丸根砦から軍を出し、それらの兵糧を横取りするよう指示します。(写真⑥)

⑥大高城から丸根砦を臨む
ところが、元康、勿論そんなことは想定済み。1千の兵に1人約1斗の米を各自のこおりに持たせます。そして通常の軍勢が持つ荷駄隊は当然、組織するのですが、その米俵に入れてあるのは単なる土。

そもそも荷駄隊は、戦闘員が兵糧を持たず、身軽で戦える一方で後方にあって糧食を供給する役を担うものです。元康の予想通りに、この荷駄隊が丸根砦近くを通ると、織田軍が襲ってきます。元康は

「織田軍から一心に逃げて、全力で大高城まで走れ!」

と号令します。それでも荷駄隊が織田軍に追いつかれそうになると、

「荷駄を捨てよ!懸命に大高城へ走れ!」

と号令するのです。

織田軍が、元康軍が放棄した荷駄を改めると、土が詰めてある米俵ばかり。

ほどなく、元康が大高城へ兵糧を上手く運び入れたことを知るのです。

4.桶狭間へ名木伝いに進軍する信長

元康は、今川軍前線の大高城への兵糧入れに成功しただけの活躍に留まりません。

翌日の5月19日には、直ぐに守備兵と併せて2千5百の軍勢で、丸根砦を攻めるのです。(同時に鷲津砦も、方面担当である朝比奈泰朝に攻めさせます。)

「元康、丸根砦を攻城中」との報を聞いた信長は、夜中に飛び起きます。
前日に今川義元が沓掛城に入るという情報を聞いても、雑談ばかりして、周りの家臣団から「運の末には、知恵の鏡も曇る」と言われた信長が、元康のこの報に驚き飛び起きたのです。

「信長公記」に書かれたこの事実、やはり信長としては、今川義元のような大物武将には、一種の「あきらめ」のような感情を持っていたのに対し、元康については、前述のように「あの竹千代がぁ!」とガキの経験的な感情論からそうなったのでしょうか。様々な説がありますね。今川義元奇襲の計が既に信長の頭の中にはできており、ただその情報が家臣を通して今川方に漏れてはならじと雑談ばかりしていたのだろう説。実はこの時に信長は「歯痛」で冷静な判断能力を失っていた説。そもそも幼馴染の信長は、元康と共同作戦で、大高城に入った元康が、今川義元への攻め時を知らせるために、丸山砦攻撃を開始した裏取引のサイン説。議論百出で面白いです。

いずれにせよ、夜中に、この報を聞き、がばっと起き上がった信長。

寅の刻(午前3時頃)に、あの有名な舞・幸若舞『敦盛』を舞います。

‐人間五十年、化天(けてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか‐

⑦清州城
勿論これは平家物語の平敦盛(あつもり)が須磨の海岸で、熊谷直実(くまがい なおざね)に討ち取られる時のことを書いたものですが、その中で書かれた人生に対する達観が好きだったようです。

「化天(住人)の1日は、人的時間感覚の50年間に相当する。つまり化天の時間軸に比べれば、人の時など一瞬の夢幻」

ということで、信長は人の人生は50年程度とは全く考えていないようです。あくまで化天(住人)の1日が人的時間感覚の50年と、その比較の数字なのです。なので世間でいうところの「人間50年」(しか生きない)という解釈は違うのです。どうも「人間(じんかん)=人の間=人である間」という読みが「人間(にんげん)」と同じ字を書くので「ああ、人間(にんげん)50年ね!」と誤解されて広まったのでしょうね。

兎に角、ここで今川軍に討ち取られようと、万が一勝利しようと大して変わらんと、舞うことで、精神安定を確保した信長。半刻後の午前4時過ぎには、ほら貝を吹かせ、具足を履き、茶漬けをかっこんで、たったの5騎で清州城を出発。(写真⑦)

午前8時~10時に熱田神宮に到着。他の武将も参集し、その数3千になります。

子供の頃、良くここまでの場面は、敦盛を舞い、清州城をほぼ単騎で飛び出した馬上の信長を追うのが大変な家臣たちが、何とか熱田神宮で信長に追いつき、そこで戦勝祈願をするという話を何度も聞かされています。

ところが、清州城から熱田神宮までは約12km、徒歩で移動してもかかる時間は3時間弱。つまり朝4時に清州城を出れば、徒歩でも熱田神宮には朝7時前には到着する計算です。

それが、馬を駆っても到着が午前8時以降とは、かなり遅いですよね?子供の頃聞かされた話とは随分と様子が違うようです。

どうやら、熱田神宮へ向かう要所・要所の名木や名木のある神社等、目立つ場所で地域、地域の豪族らが、信長のところに参集するのを待つと同時に、様々な今川軍に関する情報をリアルタイムに信長が仕入れていたと言われています。

なので、徒歩よりもかなり遅い進軍。
ただ、やはりこの時代、20㎞以上離れた今川義元の数時間後の動静を、入ってくる情報には時間差もあるのですから、的確に分析して3千の兵を動かすのも大変だったのでしょう。また、こちら信長軍の動静が今川軍にちょっとでも漏れたら終わりです。情報統制も非常に重要であることを考えると、馬で駆け抜けて今川本陣を突く等と単純なものではないことは理解できますね。

それら立ち寄りの名木は、松原緑地や田光八幡神社、村上社の大楠等が残っています。(写真⑧⑨、360度写真⑩)

⑧熱田神宮到着半里(2㎞)手前にある松原緑地

⑨田光八幡神社
※熱田神宮の遙拝所であった田光八幡神社は、弘法七本楠
の1本を持つ鎌倉街道上にある神社。この場所も信長が
桶狭間に向かう途中に参拝した場所の1つ。
《写真提供:銘木総研 橘七海さん》

 

⑩村上社のクスノキ
 ※村上社も桶狭間に向かう信長が武者らの参集場所の1つです。
当時、この名木はあゆち潟の灯台代わりになっていました。
「あゆち潟の交易を今川義元に渡してなるものか!」と信長は
この大木の下で誓ったかもしれませんね。

 5.熱田神宮の白鷺

こう見ていくと、今川義元を討つ、謂わば一発大逆転が成ったのは、多分に名木伝いに情報収集と情報統制の徹底があったからでは?と想像してしまいます。大楠が導いた大逆転劇と言ってはちょっと大げさかも知れませんが、もし大楠が、集まる信長への義元討ち取りのためのインプット情報を聞いていたのであれば、取り出してみたいですね。

最近の研究で、樹木等は人間の五感とは全く違った形でモノを聞き、見て、記憶するようですので、将来その記憶をなんらかの形で取り出せるようになったら、様々な歴史上の事実が分かって凄いことになるのですが・・・。

⑪信長が願文を読んだ直後に白鷺がご神体から
飛び立つ(「半蔵の門」から)

脱線しました。さて、5月19日の午前10時頃に熱田神宮に集まった信長軍約3千。

熱田神宮で信長は、途中で書かせた願文を奉納します。「今川の大軍に対し、わが軍は寡兵、どうか熱田神宮ヤマトタケルのご加護で何とかこの戦いを勝利に導いてほしい。」

とその時、神宮から一羽の白鷺が飛びたち、吉事として信長軍は勇気百倍となったと言います。(絵⑪)

ここもまた色々と伝承があり、飛びたった白鷺は今川義元の本陣に向かって飛んだので、信長軍は白鷺を追い、見事桶狭間で義元を討ち取ったとか(笑)。

一般的には、この熱田神宮を出撃する信長軍は、一目散に桶狭間の今川義元目掛けて進軍したように思われていますが、願文でも「狙うは義元の首1つ!」とは言っていません。この後、信長軍は今川軍の鳴海城の付城である善照寺砦に入ります。(地図⑤参照、写真⑫)

⑫善照寺砦

つまり今川軍が立て籠もる鳴海城、大高城、これら信長軍が付城により取り巻いている攻撃部隊の「後詰め」(後方から支援に来る隊)作戦をしようとしていた可能性もあります。

実際、ちょうどこの善照寺砦に入城する直前に、大高城の付城・丸根砦が元康(徳川家康)によって潰されたことを知る信長です。

この日の信長の、午前3時の初動が、元康の丸根砦の攻撃開始を聞いた時。がばっと起き、幸若舞を舞ったのですから、もしかしたら清州城を出撃した時は、丸根砦の後詰めを第一に考えていた可能性がありますね。

元康が、丸根砦を落としていなかったら、後詰めに来た信長と家康の直接対決、そこに今川義元本陣が到着し、あっけなく信長軍敗退。私がここでこんな陳腐な歴史if(イフ)を思い付かなくても、この日の朝8時頃に沓掛城を出発した今川軍は、総大将の義元をはじめ、軍の大半が、そのように想像したのではないでしょうか。

6.狙うは義元の首1つ

ただ、善照寺砦で丸根砦陥落の報を聞いた信長は、いわゆる戦の常道である「後詰め」戦法は一切捨て、その後何百年も語り草になる「奇襲」戦法に、完全に切り替えます。

勿論、信長自身、そこで思いついた訳ではなく、それこそ清州城で後詰めの無い籠城をしても勝てないとの危機感の中では、どうやったら、この窮状を打開できるだろうと色々と考えたのだと思います。その中の打開策の1つとして、義元本陣急襲というは、義元が上洛する前から考えていたのではと想像します。

ただ、これが成功するには以下3つの条件を揃えさせる必要があると考えたのでしょう。

条件①)今川軍の勢力を広範囲に分散させる必要がある。

条件②)分散した今川軍の中で、義元のいる本隊の位置を正確にリアルタイムに知る必要がある。

条件③)この作戦を直前まで一切今川軍に感知させてはいけない。

条件③のことから、信長は本気で大高城を攻撃する丸根砦などの後詰めを演じたのかもしれません。元康が丸根砦を攻撃し始めたとの報で飛び起きたのも「うぬ!元康め!」のように周囲には思わせておいて、実は「おお!時機到来じゃ!」と心の中では思っていたのかもしれません。丸根砦を本気で助けようとすれば、今川軍もどんどんこの大高城方面へ兵を繰り出し、条件①の兵力分散が計れるでしょう。本気で後詰めを演じれば演じるだけ①と③の条件が整う訳です。

信長はどう兵力を分散させたのか、先程の進軍図にプロットしてみます。
(地図⑬)

⑬桶狭間における今川軍兵力分散
※結局、桶狭間の信長軍は
義元軍の70%以上だった

そして条件②。沓掛城から大高城、鳴海城辺りは、かつては織田の領地。

信長が「虚け(うつけ)」と言われていた若い頃、桶狭間の辺りも、仲間と走り回っていたはず。彼は沓掛城を出た義元が大体どのあたりを通過するのかの土地勘が働いたのと、桶狭間で休憩を取っているとのリアルタイムで正確な情報を伝えてきたこの土地の豪族・簗田政綱(やなだ まさつな)の情報により、正確に義元本陣を衝けたのでしょう。簗田政綱は桶狭間の論功行賞で第1とされたことから、この条件②が如何に信長にとって運命の分れ道だったかが理解できますね。

ある意味、大高・鳴海城の前線1万の軍と後方守備1万の軍の間に飛び込むのですから、ちょっとでも間違えれば、条件③に反する行動となってしまい、信長軍は、前後1万の今川大軍に攻められ、袋のネズミになってしまう恐れがあったのですから。

さて、この条件3つに加えて、天気という天運にも恵まれた信長。もしかしたら熱田神宮の大楠も彼に味方して、今川軍の視界が無茶苦茶悪くなるというシチュエーションができあがったのかもしれません。(360度写真⑭)

⑭熱田神宮の大楠
※写真⑨の田光八幡宮の大楠と同じ
弘法七本楠の1つです。本当に立派。

「者ども!狙うは義元の首1つ。それ以外は打ち捨てよ!」

と、雷鳴と共に雹が打ち付ける程の真っ暗な午後2時過ぎの桶狭間、信長軍の突撃が始まります。

《つづく》

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【善照寺砦】〒458-0801 愛知県名古屋市緑区鳴海町砦3
【桶狭間古戦場】〒458-0913 愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001

日曜日

北条氏康の娘たち② ~早川殿~

①杉並区にある今川氏累代のお墓
前回は、北条氏康の娘の一人、武田勝頼に嫁いだ北条夫人について描きました。

滅びゆく武田家と運命を共にした北条夫人は、品格を気高く保ち、勝頼を深く愛したまま、戦国のままならない世を倦み果て、去って行ったのです。

このシリーズの後半は、同じ氏康の娘、早川殿について書きたいと思います。

こちらは旦那である今川氏真を上手く盛り立てて、華々しい戦国大名には成れなくても、江戸時代を通して今川家を、江戸にて存続させるのです。(写真①)

では、早速早川殿と今川氏真について見て行きましょう。

1.甲相駿三国同盟による結婚

この同盟の背景等の詳細は、拙著「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」に描きましたので、是非こちらをご笑覧頂けると幸いです。

いずれにせよ、今川義元、武田信玄、そして北条氏康も、国境を接している外側の敵(順に、織田信長、上杉謙信、北関東の豪族&謙信)に、後方の憂いなく戦いを挑むには、この甲相駿三国同盟が必要だったのです。
②今川氏真(右)と早川殿(左)
並んで向き合っている絵を描かれる程仲が
良かった二人であるとも言われる

そして、この当時の同盟には、お約束の姫交換がなされ、今川義元の息子、氏真には、北条の早川殿が輿入れてきます。

氏真17才、多分早川殿も同い年くらいだろうと言われています。

氏真は、この歳まで、かなりの教養人として教育されました。京都の冷泉家等で、駿河に下向していた人物から和歌や蹴鞠の手解きを受けていました。剣道は、あの有名な塚原卜伝です。

父の義元は、単なる京都の公家に対する憧憬だけで交流を繰り広げていた訳では無く、中央政権に対する人脈作り等、政権を取ってからの布石と考えていたようです。

このように氏真は、当時の文化人との交流によって、多様な価値観を身に着けることが出来ました。

そんな頃に嫁いできた早川殿から氏真はどう見えたのでしょうか?家訓の厳しい北条家から来た彼女から見ると、同い年の氏真は、色々と博識ではありますが、まだまだ自分より、子供に見えたかも知れません。

そして、彼女こそ、誤解の多い氏真の真の理解者であり、戦国時代の滅亡する立派な武将に多い自裁に至らせない価値観を肯定し、今川家を生き延びさせたのです。

晩年の二人を描いた絵があります。(写真②)

それぞれ別の掛け軸に描かれた絵ですが、ピッタリくっ付け合わすと、畳の縁がピッタリ合い、お互いが見つめ合うような形になります。

この様に、二人は仲が良かったようですよ。

2.桶狭間の戦い

1560年5月、この同盟で後方の憂いが無くなった今川義元は、先に述べた中央政権奪取のために上洛を開始します。総勢2万5千、隣国尾張の織田軍はこれに比べると寡兵です。

③大雨の桶狭間での奮戦模様
ちょっと話が脱線しますが、有名な桶狭間における、一つの説をご紹介します。

義元が5月に上洛を開始した一つの理由として、5月は「菖蒲」の花が咲き始め、幸先が良いとされます。「菖蒲」を「勝負」に掛けたのです。流石、雅な京風文化を採り入れた義元らしいですね。

それを読んでいたのが信長です。義元はきっと「菖蒲」の月、5月に軍を動かす。この月は現在のグレゴリオ暦の6月あたりであり、梅雨の時期です。

大雨を使おう。

信長は、奇襲作戦を思いつきで実施したのではありません。寡兵でもって大軍の今川に当たるには、山岳戦のようなゲリラ戦が一番なのですが、そのような奇襲が出来る程、尾張は入り組んだ地形がないことが彼の悩みでした。

なので、この時期の悪天候を上手く利用することにしたのです。
この頃台頭してきた乱波(忍者)は、大方が農民の知恵を活かして活動していたので、局所的な天候の予測に長けた者も多く、それらが義元の行軍中の天候を予測していました。

桶狭間で突如降り出した大雨で軍が別れ別れで雨宿りをし、視界が悪い中に、信長の軍が義元の首一つを求めて、突撃してきたのは有名な場面です。(絵③)

「菖蒲」にかけて、「勝負」に出た義元の雅さが仇となりました。

3.薩埵峠(さったとうげ)の戦い(今川氏の滅亡)

今川氏真は、今川義元が上洛を開始する2年前から、今川家の宗家を引き継いでいました。義元は領内の雑事に惑わされず、上洛という目的に邁進するためです。

ですので、本来、義元が桶狭間で討たれても、氏真が既に2年間も今川本家を仕切っているですから、大丈夫ということでは残念ながらありませんでした。
やはり実権は義元が握っていましたし、結局この2年間で氏真は値踏みをされていたのです。義元が討たれた直後から、遠江・三河の国人たちを中心に、今川家からどんどん離反します。

④薩埵峠から国道1号を見下ろす
※当時は山裾まで海で国道
 の幅の土地もありません
一番の代表例は、徳川家康(当時松平元康)です。彼は今川家と断交し、織田信長と結びます。
これには、氏真もかなりご執心で、自ら兵を率いて家康を攻撃するも撃退され、結局三河は家康のものになってしまうのです。

これに動揺したのが駿河と三河の間に位置する遠江、代表的な国人が、あの「直虎」で有名な井伊谷の井伊直親、大河ドラマの中でもありましたが、謀反を疑われ、今川氏真の重臣に誅殺されています。

これら離反する国人を繋ぎとめようと、武威を持って強硬すればするほど、今川家の求心力は低下の一途を辿ります。

そして、甲相駿三国同盟を破棄して、武田信玄が徳川家康と協働して駿河に攻め込んでくるのが桶狭間から8年後の1568年。(ここまでの武田側の経緯は「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」をご笑覧ください。

氏真は、薩埵峠で迎え撃ちます。(写真④)

ちょっと脱線しますが、源平合戦の時、「富士川の戦い」という有名な戦があります。

富士川の水鳥が、夜中にバァーと急に飛び立つと、平家軍が「源氏の大軍が夜襲に来たあ!」とばかりに逃げてしまうのですが、その時に水鳥を飛び立たせたのは、平家軍を寡兵を持って、本当に夜襲しようとした当時の武田軍(武田信義、前回のブログで書いた武田姓を最初に名乗った初代甲斐源氏)なのです。

つまり源平の昔から、武田軍は富士川を南下して、太平洋側へ出たのです。今回武田信玄も、やはりこの道を使い、駿河侵攻をしました。(地図⑤)

⑤薩埵峠で対峙する武田軍と今川軍
※武田軍の背後を北条軍が突きます
薩埵峠はその富士川が太平洋に出たところから、駿府(静岡市)に向かってちょっと行ったところにあり、海と急峻な崖に囲まれているので、南下してくる武田軍を防御するのに最適な場所なのです。(写真⑥)

氏真は更に、早川殿の実家である北条氏康にも援軍を頼み、武田軍の背後から北条軍が襲いかかり、今川軍とで挟み撃ちにして殲滅する戦法に出ます。(地図⑤)

絶対絶命の武田軍にも係わらず、信玄は余裕で駿府への進軍を止めもせず、今川軍の護る薩埵峠へと迫ります。

あわや、信玄も終わりかと思った次の瞬間、今川家の重臣たちが裏切り始めます。

信玄の裏工作で、既に重臣を含む、21人もの武将を寝返らせているのです。なので信玄は余裕。

今川氏真は、ほうほうのていで駿府へ逃げ帰ります。しかし、重臣が寝返っているのでは、駿府だろうが、薩埵峠だろうが迎え撃って勝てる訳が無いと考えます。

さて、信玄は今川氏真が逃げ出した薩埵峠の残兵を軽く破り、その日のうちに駿河へ迫ります。「疾きこと風の如く」です。

⑥薩埵峠のサクラ
薩埵峠は直ぐに海岸が迫っている急斜面なの
で敵を叩きのめしては海に転落させるのです
慌てた氏真は、奥さんである早川殿の輿を用意するまもなく、これまたほうほうのていで掛川城へ落ち延びて行きます。早川殿は氏真の乗る超高速で逃げる輿に遅れぬよう必死で走って、付いて行くのです。レディ・ファーストという考えは、この時代全くないようです。

これを聞いて怒ったのは、早川殿の御父上、北条氏康です。(絵⑦)

ただ、彼の怒りの矛先は、何故か今川氏真ではなく、武田信玄に向かうのです。

「信玄坊主が同盟を破棄して今川へ攻め入るから、可愛い我が娘は輿にも乗れずに走らねばならなかったではないか!」と。

ちょっとズレている気もしますが、氏康は、武田軍の駿河侵攻の妨害工作に出ます。この隙をついて、氏真たちは掛川城へ滑り込みセーフ。

この後も、氏康は小田原から増援した北条軍による陣を薩埵峠に張り、駿河に侵攻した武田軍の退路を断つ行動に出る等、信玄に対し、しつこく妨害工作に出ます。

⑦「戦国無双」に描かれる北条氏康と早川殿
そして、信玄と氏康の仲は大変悪くなり、以前書きました三増峠の戦いとなる訳です。(詳細はポータルサイト「武将ジャパン」の転載拙著記事を参照。ここをクリック

実は、これも父親氏康の性格を知っている早川殿が、わざと輿にも乗らず、武田軍と敵対する口実を作り上げたのではないかという説もあります。

今川氏真は、掛川城で3か月間たて籠ります。氏真にとって運が良かったのは、掛川城を包囲し戦う相手が徳川家康だったことです。

信玄は今回の駿河侵攻に当たり、徳川家康と協働体制を敷いており、駿河と遠江の国境を流れる大井川を境に、駿河を信玄が、遠江を家康の軍事行動範囲としていました。

なので、駿河から逃げ、遠江の掛川城に逃げ込んだ氏真を包囲したのは家康であり、家康は、氏真の命を助ける条件で、掛川城を開城させます。

彼は、今川氏真には人質時代に、嫌なことも沢山させられましたが、懐かしい思い出もあるようで、氏真を後々も尊重するのです。これが信玄だったら・・・

いずれにせよ、この掛川城開城にて、戦国大名としての今川氏は滅びました。

4.流転の日々
⑧伊豆戸倉城から国境を流れる狩野川を臨む

掛川城を出た今川氏真は、義父である北条氏康の御世話になります。

北条氏の伊豆と駿河の国境を流れる狩野川に面した伊豆戸倉城という小城がありますが、ここの城主となります。(写真⑧)

というのも掛川城を開城した徳川軍側から、今川軍に提示した条件の1つに、徳川軍と協働した北条軍が、武田軍を駿河から追い出した暁には、氏真を駿河の国主に戻すというのがありました。

ですので、北条氏康は、駿河との国境のこの城に、城主として今川氏真を置いたのですが、これは駿河に侵攻した武田軍に、どうぞ氏真をお滅ぼしくださいと言わんばかりの状況に結果的になってしまいました。
⑨今川氏真と早川殿の屋敷
があった早川河口付近

そこで早川殿が氏康に掛けあい、この城を退去して、小田原城のすぐ横を流れる早川沿いに屋敷を貰います。(写真⑨)

早川殿の名前の由来は、この早川沿いの屋敷を貰ったことから来ています。

さて、こちらで起死回生を目指して、氏真は駿河の国人等に文書を沢山送り続け、武田からの駿河奪還の夢に掛けます。

しかし、この時期に北条氏康が病死し、その死に際に息子氏政に「信玄との同盟を復活するように」と言い残しました。信玄の駿河侵攻については、頭に来ていた氏康ですが、やはり武田軍の強さに、つまらぬ意地を張っているのは北条にとって損と思ったのでしょう。氏政は早速武田信玄と再同盟をします。

これに納得いかないのが早川殿です。今川家再起を目指し、北条が後ろ盾にいると思うからこそ、愛する旦那である今川氏真は頑張っているのです。完全に梯子を外された形です。もう自分の実家である北条は、今川家の再起は諦めているのです。掛川城開城の約定はどうなったのか!と。
⑩氏真、早川殿はこの早川港から脱出します
※現在この港の灯台は巨大な小田原提灯になっています

さて、信玄との再同盟を北条氏政が結ぶと、直ぐに武田軍が小田原に来て、早川沿いの今川屋敷を囲み、今川氏真を捕まえようとします。

これに激怒します。

喝ーっ!

捕縛しに来た武田軍に対し、一喝します。
今川氏真ではなくて、早川殿が、です。

そしてわざと堂々と小田原譜代の家臣に用意させた船で、早川の河口の港から脱出します。(写真⑩)
脱出した船上で涙を流す早川殿は、北条の実家から裏切られた感が強く、口惜しくて仕方ありません。その後もう2度と北条を頼ることはありませんでした。

5.信長への蹴鞠の披露

早川殿と氏真は、船で浜松に逃れます。実は、この北条の裏切りに対応すべく、氏真は事前に徳川家康と結んでいたのです。この頃の氏真は、世間一般がステレオタイプで考える暗愚の将ではなく、一皮剥けた感があります。

⑪諏訪原城跡
家康は氏真を家臣として仕官させ、あの長篠の戦いに参戦させたりしています。
そして、遠江と駿河の境の城、諏訪原城の城主に返り咲きさせています。(写真⑪)

この頃、氏真は京へ上り、かつての文化人の友人らと会うと当時に、父義元の仇である織田信長にも拝謁しています。

そこで有名なエピソードがあります。

信長が「氏真は大変な蹴鞠上手と聞くが、是非見せてくれい」と残忍な笑顔で氏真に言います。

氏真も、父の仇の信長の前で、遊戯である蹴鞠を披露すれば、世間は「さすが今川氏真は暗愚の将だ。良く仇の前で遊戯が出来るよ。」とこき下ろされるのは分かっています。

当然断るつもりでいるところを、早川殿が言います。

「つらいでしょうが、信長の言う通りにしてください。」
「彼は、あなたが暗愚の将であることを世間に印象付け、あなたを世間的に抹殺したいのでしょうが、断れば本当に命を狙われます。私や子供のため、ひいては今川家の子々孫々のために、ここは我慢して彼の言う通りにしてください。」
「どんなに世間が笑っても、私だけはあなたのすばらしさを理解しています。」

氏真は決意します。この戦国の世を暗愚という隠れ蓑で乗り切ることを。

そして、見事信長の前で蹴鞠を披露し、彼の失笑をあえて受けます。

その後、武田勝頼が天目山で滅びます。この時、早川殿の次に氏真の理解者である家康は、武田家が支配していた駿河の国主に氏真を据えたらどうかと、信長に提案します。これが叶えば掛川城で氏真と約束したことが成就します。

しかし、信長は「あんな役にも立たたない奴に国を与えてどうする。」と家康を睨みつけて言います。それから1年以内に信長も武田勝頼同様、戦国武将としても人間としても滅びます。本能寺の変です。

6.高家として

⑫杉並区にある観泉寺
その後、今川家は徳川家康により、高家として江戸に迎え入れられます。
現在の杉並区今川町に知行地を与えられ、早川殿との間にも、4人の息子を設け、おのおのが徳川秀忠等に出仕し、立派に務めています。

そして、今川家は累代に渡り、華々しくはありませんが、立派に繁栄するのです。

知行地の今川町に観泉寺という今川家の菩提寺があります。(写真⑫)

早川殿の方が氏真より、若干早く75歳で亡くなり、氏真も2年後に77歳で亡くなります。二人ともこの時代としては長寿でした。

7.おわりに

前回のブログで書いた北条夫人が亡くなったは19歳、早川殿に比べるとその早すぎた死に何と短い生涯だったのかと涙すると同時に、この二人の姉妹の差は何だったのだろうかと考えてしまいます。

まず、両夫人の旦那の違いは勿論大です。
これは、前回もちょっと書きましたが、やはり教育でしょう。

信玄は、自分が死んだ後も、当然後継者は自分と同じような武将生活が続くと考え、武将としての帝王学や価値観を勝頼に教え込みました。当たり前とは言え、モノトーンの価値観だけを徹底したのです。

一方、今川義元は、氏真に対して、国主としての教育と、自分が上洛し、京都で今川氏が権勢をふるう様になることも想定して、2代目となる自分の息子にも、それら京の文化的な教養を身に付けさせたのです。また、氏真もこの教養を喜び受け、蹴鞠以外、和歌も1700首も読んだようです。

これが両者の教育のされ方の違いです。

勝頼は戦国武将としてしか生きられなかったのです。それが悪い訳ではなく、まるでサクラの花が散るように、潔い最期だったと思います。また、北条夫人も武将の妻としての教育をされてきて、この勝頼の価値観に拍車を掛けるのです。あの願文の内容を見てもそう思いますし、かつ勝頼より先に自害していることからも、彼女の価値観が良く分かります。

一方の今川氏真は、武将として生きられないことに気が付いた時、潔くその価値観を捨てます。信長の前で蹴鞠をして見せることが武将としてどんなに恥ずかしいことか等は、彼ほどの教養人なら分からない筈はありません。ただ、それでも敢てそれが出来たのは、彼の幅広い価値観と、早川殿という真の彼の理解者が居たからではないでしょうか?

⑬観泉寺にある今川氏真・早川殿のお墓
※左が早川殿、右が氏真
早川殿も北条夫人と同じように、武将の妻としての教育はされたでしょう。しかし、北条夫人は最期まで多少北条に対する従属にも似た感情を持っていましたが、早川殿は、早川の河口の港から小田原を脱出する時に、北条を捨てた事が大きく違って、戦国武将の価値観とは違う自分の考えをしっかり持って氏真の価値観を補助したのだと思います。

そういう目で見ると、写真②の氏真と早川殿が見つめ合っているように見える絵も、この人生を助け合って生きて来た二人だけの深い感謝の気持ちが表情に出ている気がします。

観泉寺にある二人のお墓も、写真のように対等な大きさ、むしろ早川殿の方がちょっと大きく立派です。(写真⑬)
この時代にあっては奥方の方が立派というのも珍しい気もします。

これは、その時代の考え方に囚われないで、二人がお互いに助け合いながら長く生きて来たことを象徴するようです。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

戦国武将というと、信長、秀吉、家康、信玄、謙信・・・etcのように、成功者に目が行きがちです。しかし、ご存じのように、人には向き不向きがあります。

武将の子供として生まれて来たからと言って、英才教育をされたからと言って、向いていない人には向いていないのです。

武田勝頼と今川氏真、この二人もそんな不向きなタイプだったのでしょう。

もし、生涯を掛けてやってきたことが、不向きだったと悟った時、あなただったらどうしますか?
敢てこの二人にスポットを当てたのは、この質問に対する180度違う2つの答えがここにあるからです。

また、そのようなパートナーをお持ちになった女性諸君ならどうしますか?そのヒントも北条氏康のこの二人の娘の対応にもあるのではないでしょうか?

⑭諏訪原城址に咲く雑草の花
どれが正しい生き方ということは全くありません。(写真⑭)

最後に一言、氏康の娘二人は、共にダメになっていく旦那を愛し切ったことに注目してください。

北条夫人は、勝頼が滅びる前に実家に帰れと言ってもあの世まで付いていくと言いますし、早川殿は、三国同盟破棄の時に別れなかったのは彼女だけなのです。(武田家と北条家は、妻を離縁して家に帰したのです。)

そして、二人とも愛する旦那に看取られて亡くなります。これが一番幸せなのではないでしょうか?

凄い娘たちを北条氏康は育て上げましたね。

つい長文となり、大変失礼しました。ご精読ありがとうございました。

【薩埵峠】 静岡県静岡市清水区由比西倉澤937−13(薩埵峠展望台)
【伊豆戸倉城】静岡県駿東郡清水町徳倉
【早川屋敷】神奈川県小田原市南町3丁目11-3(報身寺)
【諏訪原城址】 静岡県島田市金谷
【観泉寺】 東京都杉並区 今川2丁目16-1