マイナー・史跡巡り: 家康の大樹③ ~桶狭間を助けた名木たち~ -->

木曜日

家康の大樹③ ~桶狭間を助けた名木たち~

 前回、駿府の今川義元が仕掛けた松平元信の岡崎への里帰り。里帰り直後に今川家を裏切り、織田信長側になびいてしまうようであれば、元信を滅ぼす覚悟の義元でした。

逆に信長にはなびかず、しっかりと今川家の将として信用の置ける行動をとるのであれば、義元は元信を大いに信頼し、重く用いようと考えていたのです。

そして、見事に義元の「信用」を勝ち取った元信。義元は、この三河の雄・元信を引き連れ、上洛作戦を展開するのです。

1.三国同盟と元康への改名

今川義元が上洛する6年前の1554年、後方の憂いが無いように甲相駿三国同盟を結びました。(地図②)

②甲相駿三国同盟
※盟主の嫡男宛にそれぞれ姫を送ることで
成立している同盟ですね。
※ちなみに3人の嫡男
(北条氏政、武田信義、今川氏真)
は、皆1538年生まれの同い歳!

当時、武田は隣国信濃(長野県)が気掛かり、北条は隣国武蔵(東京・埼玉)、安房(千葉)が気がかり、今川は織田等の西側が気がかりという隣国が気になる三国が固く結んだ同盟がありました。この同盟のお蔭で今川義元は後方の憂い無く、上洛を開始できるという訳です。

ちなみに、この当時の織田信長の版図を見てください。(地図③)

③1559年頃の織田信長版図
※水野誠志朗の「尾張時代の信長をめぐる」から抜粋・加工

地図上「境川」が地図左上の美濃国と、地図右側の三河国の2か所に同名の川としてあります。これが、織田領・尾張が隣国と接しているまさに「境」でした。

赤文字の城が織田信長の敵方です。ということは、信長領内にかなり奥深く、今川義元の沓掛城、大高城、鳴海城が入り込んでいるわけです。この3つの城が信長領侵攻への橋頭堡(きょうとうほ)な訳で、桶狭間の戦いもこの3つの城を今川義元が使っているうちに起きたことなのです。

「東海一の弓取り」と言われた今川義元、三国同盟という巧な外交政策と、隣国・織田領への橋頭堡確立済みという侵略性に長けていたかお分かりいただけたかと思います。

義元は、今度は三河の優秀な若武将と目を付けた元信を、上洛戦で使いこなそうとします。
先に述べました通り、義元と元信は固い信頼関係が出来上がっていたのです。そのせいかどうかは分かりませんが、この時期、家康は元服した時に今川義元から貰った「元信」から、「元康」に改名しています。
義元の「元」の字はそのままなのは、義元への忠節を顕していますが、当時三河衆の間では、松平家中興の祖、元信の祖父である、松平清康の「康」の字を使うことで三河衆への「自分も祖父に恥じない松平家当主を目指したい」という意思表示をした形なのでしょう。それを許した義元との高い信頼関係もうかがえます。

2.義元の上洛

地図➂を見てもう1つ気づくことがあります。

それは、義元が、上洛を盤石なものにすると同時期に、織田家は、智多(今の知多半島)を今川家に奪われて、かなりジタバタしていたということです。

知多半島自体は山谷が複雑に入込み、そんなに米が取れる訳でもない土地です。ところが、織田家にとっては、この智多は「あゆち潟」という現在の伊勢湾に面する重要な場所だったのです。そう土地以上に大切な交易箇所を取られてしまうという危機感ですね。莫大でしたから、交易による富は。

伊勢湾の制海権を今川に奪われつつある信長は、流言まで使い、今川の有力な家臣・戸部新左衛門や、信長を裏切り、今川側についた武将・山口父子を陥れるなど、余裕のない行動をこの時期繰り広げるのです。

「こざかしや!信長!」

と、義元は信長の行動を思ったことでしょう。

三国同盟も成ったことですし、そろそろ織田家を潰して西上しようと考える機は熟したのですね。

上記のように上洛のための隣国関係が盤石になった頃から、織田信長は、義元の上洛時期がいつになるのかを探るため、かなり数の諜報方を駿府に入れたようです。

④菖蒲(アヤメ)に軍を動かす
※「勝負(菖蒲)」や「殺め(アヤメ)」
の言葉にかけ、またちょうど農作業の
合間に当たることから、この花が咲く
ときに大規模な戦を仕掛ける武将は
多かったようです。

もう1つ信長が気になっていたのは、元康です。

永禄3年(1560年)のアヤメが咲く5月、義元が2万5千の軍を動かすことを知る信長ですが、この時、信長は、元康が今川軍の先陣を希望したということに憤りを感じます。(写真④)

信長が吉法師と呼ばれていた少年時代に、弟のようにかわいがった竹千代(元康の幼名)。それが義元の先鋒となって、尾張領国へ攻め入ってくるのです。しかも、元康が凡将で、単に三河の人質だから先鋒にさせられているというのであれば、まだ我慢のしようもあるのですが、なんと自分から義元に先陣を申し出たという諜報方の報告なのです。

元康が攻め入り、信長は弟分の元康の足下にひれ伏す。

想像するだけで、歯ぎしりしたくなる信長です。

弟分の竹千代に兄分の信長が領地を蹂躙される、その方が、義元が攻め入るより、信長にとっては屈辱的に感じていたかもしれません。

3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!

5月の半ば、今川義元は境川を超えた沓掛城へと入ります。(地図③参照)

ここで先陣を申し出た松平元康。尾張攻略の今川軍の最前線、大高城へ兵糧を運ぶ作戦を成功させます。(地図⑤)

⑤桶狭間の戦い・戦力&行動図
※今川軍2.5万、信長軍0.3万なので
約10倍の敵を倒したという通説

信長軍も、勿論、これら今川軍の動静をただ黙って看過していた訳ではなく、自領内にある2つの腹立たしい今川側の城・大高城と鳴海城に、付け城をつけ、特に大高城へ兵糧を持って入る元康には、付け城・丸根砦から軍を出し、それらの兵糧を横取りするよう指示します。(写真⑥)

⑥大高城から丸根砦を臨む
ところが、元康、勿論そんなことは想定済み。1千の兵に1人約1斗の米を各自のこおりに持たせます。そして通常の軍勢が持つ荷駄隊は当然、組織するのですが、その米俵に入れてあるのは単なる土。

そもそも荷駄隊は、戦闘員が兵糧を持たず、身軽で戦える一方で後方にあって糧食を供給する役を担うものです。元康の予想通りに、この荷駄隊が丸根砦近くを通ると、織田軍が襲ってきます。元康は

「織田軍から一心に逃げて、全力で大高城まで走れ!」

と号令します。それでも荷駄隊が織田軍に追いつかれそうになると、

「荷駄を捨てよ!懸命に大高城へ走れ!」

と号令するのです。

織田軍が、元康軍が放棄した荷駄を改めると、土が詰めてある米俵ばかり。

ほどなく、元康が大高城へ兵糧を上手く運び入れたことを知るのです。

4.桶狭間へ名木伝いに進軍する信長

元康は、今川軍前線の大高城への兵糧入れに成功しただけの活躍に留まりません。

翌日の5月19日には、直ぐに守備兵と併せて2千5百の軍勢で、丸根砦を攻めるのです。(同時に鷲津砦も、方面担当である朝比奈泰朝に攻めさせます。)

「元康、丸根砦を攻城中」との報を聞いた信長は、夜中に飛び起きます。
前日に今川義元が沓掛城に入るという情報を聞いても、雑談ばかりして、周りの家臣団から「運の末には、知恵の鏡も曇る」と言われた信長が、元康のこの報に驚き飛び起きたのです。

「信長公記」に書かれたこの事実、やはり信長としては、今川義元のような大物武将には、一種の「あきらめ」のような感情を持っていたのに対し、元康については、前述のように「あの竹千代がぁ!」とガキの経験的な感情論からそうなったのでしょうか。様々な説がありますね。今川義元奇襲の計が既に信長の頭の中にはできており、ただその情報が家臣を通して今川方に漏れてはならじと雑談ばかりしていたのだろう説。実はこの時に信長は「歯痛」で冷静な判断能力を失っていた説。そもそも幼馴染の信長は、元康と共同作戦で、大高城に入った元康が、今川義元への攻め時を知らせるために、丸山砦攻撃を開始した裏取引のサイン説。議論百出で面白いです。

いずれにせよ、夜中に、この報を聞き、がばっと起き上がった信長。

寅の刻(午前3時頃)に、あの有名な舞・幸若舞『敦盛』を舞います。

‐人間五十年、化天(けてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか‐

⑦清州城
勿論これは平家物語の平敦盛(あつもり)が須磨の海岸で、熊谷直実(くまがい なおざね)に討ち取られる時のことを書いたものですが、その中で書かれた人生に対する達観が好きだったようです。

「化天(住人)の1日は、人的時間感覚の50年間に相当する。つまり化天の時間軸に比べれば、人の時など一瞬の夢幻」

ということで、信長は人の人生は50年程度とは全く考えていないようです。あくまで化天(住人)の1日が人的時間感覚の50年と、その比較の数字なのです。なので世間でいうところの「人間50年」(しか生きない)という解釈は違うのです。どうも「人間(じんかん)=人の間=人である間」という読みが「人間(にんげん)」と同じ字を書くので「ああ、人間(にんげん)50年ね!」と誤解されて広まったのでしょうね。

兎に角、ここで今川軍に討ち取られようと、万が一勝利しようと大して変わらんと、舞うことで、精神安定を確保した信長。半刻後の午前4時過ぎには、ほら貝を吹かせ、具足を履き、茶漬けをかっこんで、たったの5騎で清州城を出発。(写真⑦)

午前8時~10時に熱田神宮に到着。他の武将も参集し、その数3千になります。

子供の頃、良くここまでの場面は、敦盛を舞い、清州城をほぼ単騎で飛び出した馬上の信長を追うのが大変な家臣たちが、何とか熱田神宮で信長に追いつき、そこで戦勝祈願をするという話を何度も聞かされています。

ところが、清州城から熱田神宮までは約12km、徒歩で移動してもかかる時間は3時間弱。つまり朝4時に清州城を出れば、徒歩でも熱田神宮には朝7時前には到着する計算です。

それが、馬を駆っても到着が午前8時以降とは、かなり遅いですよね?子供の頃聞かされた話とは随分と様子が違うようです。

どうやら、熱田神宮へ向かう要所・要所の名木や名木のある神社等、目立つ場所で地域、地域の豪族らが、信長のところに参集するのを待つと同時に、様々な今川軍に関する情報をリアルタイムに信長が仕入れていたと言われています。

なので、徒歩よりもかなり遅い進軍。
ただ、やはりこの時代、20㎞以上離れた今川義元の数時間後の動静を、入ってくる情報には時間差もあるのですから、的確に分析して3千の兵を動かすのも大変だったのでしょう。また、こちら信長軍の動静が今川軍にちょっとでも漏れたら終わりです。情報統制も非常に重要であることを考えると、馬で駆け抜けて今川本陣を突く等と単純なものではないことは理解できますね。

それら立ち寄りの名木は、松原緑地や田光八幡神社、村上社の大楠等が残っています。(写真⑧⑨、360度写真⑩)

⑧熱田神宮到着半里(2㎞)手前にある松原緑地

⑨田光八幡神社
※熱田神宮の遙拝所であった田光八幡神社は、弘法七本楠
の1本を持つ鎌倉街道上にある神社。この場所も信長が
桶狭間に向かう途中に参拝した場所の1つ。
《写真提供:銘木総研 橘七海さん》

 

⑩村上社のクスノキ
 ※村上社も桶狭間に向かう信長が武者らの参集場所の1つです。
当時、この名木はあゆち潟の灯台代わりになっていました。
「あゆち潟の交易を今川義元に渡してなるものか!」と信長は
この大木の下で誓ったかもしれませんね。

 5.熱田神宮の白鷺

こう見ていくと、今川義元を討つ、謂わば一発大逆転が成ったのは、多分に名木伝いに情報収集と情報統制の徹底があったからでは?と想像してしまいます。大楠が導いた大逆転劇と言ってはちょっと大げさかも知れませんが、もし大楠が、集まる信長への義元討ち取りのためのインプット情報を聞いていたのであれば、取り出してみたいですね。

最近の研究で、樹木等は人間の五感とは全く違った形でモノを聞き、見て、記憶するようですので、将来その記憶をなんらかの形で取り出せるようになったら、様々な歴史上の事実が分かって凄いことになるのですが・・・。

⑪信長が願文を読んだ直後に白鷺がご神体から
飛び立つ(「半蔵の門」から)

脱線しました。さて、5月19日の午前10時頃に熱田神宮に集まった信長軍約3千。

熱田神宮で信長は、途中で書かせた願文を奉納します。「今川の大軍に対し、わが軍は寡兵、どうか熱田神宮ヤマトタケルのご加護で何とかこの戦いを勝利に導いてほしい。」

とその時、神宮から一羽の白鷺が飛びたち、吉事として信長軍は勇気百倍となったと言います。(絵⑪)

ここもまた色々と伝承があり、飛びたった白鷺は今川義元の本陣に向かって飛んだので、信長軍は白鷺を追い、見事桶狭間で義元を討ち取ったとか(笑)。

一般的には、この熱田神宮を出撃する信長軍は、一目散に桶狭間の今川義元目掛けて進軍したように思われていますが、願文でも「狙うは義元の首1つ!」とは言っていません。この後、信長軍は今川軍の鳴海城の付城である善照寺砦に入ります。(地図⑤参照、写真⑫)

⑫善照寺砦

つまり今川軍が立て籠もる鳴海城、大高城、これら信長軍が付城により取り巻いている攻撃部隊の「後詰め」(後方から支援に来る隊)作戦をしようとしていた可能性もあります。

実際、ちょうどこの善照寺砦に入城する直前に、大高城の付城・丸根砦が元康(徳川家康)によって潰されたことを知る信長です。

この日の信長の、午前3時の初動が、元康の丸根砦の攻撃開始を聞いた時。がばっと起き、幸若舞を舞ったのですから、もしかしたら清州城を出撃した時は、丸根砦の後詰めを第一に考えていた可能性がありますね。

元康が、丸根砦を落としていなかったら、後詰めに来た信長と家康の直接対決、そこに今川義元本陣が到着し、あっけなく信長軍敗退。私がここでこんな陳腐な歴史if(イフ)を思い付かなくても、この日の朝8時頃に沓掛城を出発した今川軍は、総大将の義元をはじめ、軍の大半が、そのように想像したのではないでしょうか。

6.狙うは義元の首1つ

ただ、善照寺砦で丸根砦陥落の報を聞いた信長は、いわゆる戦の常道である「後詰め」戦法は一切捨て、その後何百年も語り草になる「奇襲」戦法に、完全に切り替えます。

勿論、信長自身、そこで思いついた訳ではなく、それこそ清州城で後詰めの無い籠城をしても勝てないとの危機感の中では、どうやったら、この窮状を打開できるだろうと色々と考えたのだと思います。その中の打開策の1つとして、義元本陣急襲というは、義元が上洛する前から考えていたのではと想像します。

ただ、これが成功するには以下3つの条件を揃えさせる必要があると考えたのでしょう。

条件①)今川軍の勢力を広範囲に分散させる必要がある。

条件②)分散した今川軍の中で、義元のいる本隊の位置を正確にリアルタイムに知る必要がある。

条件③)この作戦を直前まで一切今川軍に感知させてはいけない。

条件③のことから、信長は本気で大高城を攻撃する丸根砦などの後詰めを演じたのかもしれません。元康が丸根砦を攻撃し始めたとの報で飛び起きたのも「うぬ!元康め!」のように周囲には思わせておいて、実は「おお!時機到来じゃ!」と心の中では思っていたのかもしれません。丸根砦を本気で助けようとすれば、今川軍もどんどんこの大高城方面へ兵を繰り出し、条件①の兵力分散が計れるでしょう。本気で後詰めを演じれば演じるだけ①と③の条件が整う訳です。

信長はどう兵力を分散させたのか、先程の進軍図にプロットしてみます。
(地図⑬)

⑬桶狭間における今川軍兵力分散
※結局、桶狭間の信長軍は
義元軍の70%以上だった

そして条件②。沓掛城から大高城、鳴海城辺りは、かつては織田の領地。

信長が「虚け(うつけ)」と言われていた若い頃、桶狭間の辺りも、仲間と走り回っていたはず。彼は沓掛城を出た義元が大体どのあたりを通過するのかの土地勘が働いたのと、桶狭間で休憩を取っているとのリアルタイムで正確な情報を伝えてきたこの土地の豪族・簗田政綱(やなだ まさつな)の情報により、正確に義元本陣を衝けたのでしょう。簗田政綱は桶狭間の論功行賞で第1とされたことから、この条件②が如何に信長にとって運命の分れ道だったかが理解できますね。

ある意味、大高・鳴海城の前線1万の軍と後方守備1万の軍の間に飛び込むのですから、ちょっとでも間違えれば、条件③に反する行動となってしまい、信長軍は、前後1万の今川大軍に攻められ、袋のネズミになってしまう恐れがあったのですから。

さて、この条件3つに加えて、天気という天運にも恵まれた信長。もしかしたら熱田神宮の大楠も彼に味方して、今川軍の視界が無茶苦茶悪くなるというシチュエーションができあがったのかもしれません。(360度写真⑭)

⑭熱田神宮の大楠
※写真⑨の田光八幡宮の大楠と同じ
弘法七本楠の1つです。本当に立派。

「者ども!狙うは義元の首1つ。それ以外は打ち捨てよ!」

と、雷鳴と共に雹が打ち付ける程の真っ暗な午後2時過ぎの桶狭間、信長軍の突撃が始まります。

《つづく》

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