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荒木村重⑤ ~七松~

①有岡城礎石
前回は、有岡城で荒木村重が信長に謀反の狼煙を上げた直後、信長軍である九鬼嘉隆の鉄甲船が、毛利水軍を破り大勝した話を描きました。

一般的には鉄の船である九鬼水軍の大勝と伝えられているこの海戦。毛利水軍は、じつは大勝という名を九鬼水軍に渡して、石山本願寺への兵糧供給成功という実を取ったのです。

荒木村重は、この時、この戦況をどのように見ていたのでしょうか?

やはり、毛利輝元の大阪湾を含む制海権は、信長軍の水軍たる九鬼嘉隆が鉄甲船で多少武器の技術的優位に立っても、ゆるぎない強さを見せていると感じたのではないでしょうか?

さて、石山本願寺とも仲の良い荒木村重。反信長としてどのような立ち居振る舞いを以後見せてくれるのでしょうか?

1.有岡城内への幽閉

有岡城にて信長に謀反を起こす村重。この村重に信長への帰順を説得しようとして姫路の小寺氏の使いとして黒田官兵衛が有岡城へ現れる話を、このシリーズの①でしたのを覚えていますでしょうか?

そこから既に4シリーズ先が本ブログになっていますので、今一度、その話の復習をさせて頂ければと存じます。

◆ ◇ ◆ ◇

毛利水軍が信長方の九鬼水軍の鉄甲船と一戦交える約1か月前、信長に謀反を起こした荒木村重に一人の男が訪ねてきます。

黒田官兵衛です。

彼は姫路の主君・小寺政職(まさもと)から荒木村重への書状を手にし、村重の信長謀反の翻意を計ろうと、わざわざ姫路から出向いてきたという訳です。

主君・小寺からは、

書状には信長謀反の翻意を、小寺自らが心を込めて説得する内容を書いた。その書簡に加える形で、官兵衛、お前自身が村重を説得するのだ

②この有岡城のどこかに黒田官兵衛は幽閉された
と言われて、その言葉通り、村重に書状を渡し、翻意を促します。

その官兵衛をまじまじと見る村重。実は主君・小寺は嘘をつき、官兵衛を村重に売ったのです。

書状の中身には、信長謀反に対する翻意等これっぽっちも書かれていません。書いてあるのは、官兵衛が反信長への翻意を主張し続けてうるさいので、村重が幽閉でもしてくれれば、信長方は村重に黒田官兵衛まで付いたと勘違いし、戦意をくじくことができる という非情かつ狡猾なものでした。

小寺の書状を読み終わった村重は、この狡猾な主君を決して疑わない官兵衛に憐れみさえ感じます。しかし、ここはドライに書状の提案通り、官兵衛を有岡城の土牢に放り込みます。(写真②

2.竹中半兵衛の知恵

黒田官兵衛が有岡城へ荒木村重を説得に向かったが、失敗し村重側に寝返ったようだとの噂が信長方に広まるのに時間はかかりませんでした。

噂なのですが、信長はすぐに反応します。

「おのれ、官兵衛、裏切ったな!」

そして人質として安土城にて預かっていた黒田官兵衛の嫡子を殺すよう、その預け先である竹中半兵衛に命じます。

竹中半兵衛。この人も黒田官兵衛に負けず劣らずの頭脳派。後に秀吉の軍師として「二兵衛」(半兵衛・官兵衛)と並び称される程の人物です。(絵③

彼は黒田官兵衛を良く知っています。幾ら信長の命と云えども、絶対官兵衛は裏切っていないと確信しており、ここで官兵衛の嫡子を殺してしまい、後に官兵衛が裏切っていなかったら取り返しのつかない大恥をかくのは主君・信長になると考えるのです。

どうしたらよいのか?

流石の知恵者でも妙案は浮かびません。

ただ、神様は考えに考え抜いて本当の窮地に立った人には必ず助け船を出します。

官兵衛の嫡男と同い年の10歳前後の子供が川で溺死したという情報が竹中半兵衛の耳に入ります。

③竹中半兵衛
「溺死した子供にはかわいそうだが、官兵衛の嫡男の身代わりとなってもらおう。」

と半兵衛は考えます。悲しみに暮れる溺死した息子の両親に心から同情し、また事情を全て話し、役に立ってくれぬかと諭したところ、両親も「この子も、竹中さまのお役にたてるのであれば本望だと思います。」と泣きながらも快諾したのです。

◆ ◇ ◆ ◇

3日後、安土城に、人質である黒田官兵衛の息子のものとされる首が届けられます。

しかし、信長はそれどころではありません。
それは、まさにこの時、九鬼水軍の鉄甲船が毛利水軍を迎え討つ直前だったのです。

そのため首実験もそこそこに完了し、この問題はしばらくの間、信長は忘れたのです。

3.高山右近の葛藤

さてこのシリーズの第1作にも書きましたが、荒木村重の謀反は、高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀ら、摂津国の有力武将も一緒に信長を離反し、毛利・石山本願寺連合と協働することで、信長を破れると判断したものだったのです。

殊にこの当時、信長は石山本願寺を中心とした包囲網に、悩んでいる最中でした。

石山本願寺の一向宗の影響は強く、この少し前に鎮圧した伊勢長島一向一揆や、加賀一向一揆、三河一向一揆等、大規模な一揆が石山本願寺を中心としてあちこちで発生します。また全国の反信長軍が立ち上がり、信長としては少しでも敵を減らしたい状況だったのです。特に本願寺派は全国規模を誇る抵抗勢力なので早々に潰したいのです。

ここで摂津の武将、高槻城の高山右近・茨木城の中川清秀・有岡城の荒木村重らが、石山本願寺に近いことを利用して連合を組まれると、摂津の西側にいる巨大勢力である毛利氏とも手を組んでいる石山本願寺を潰すことは不可能に近くなってしまいます。(地図④

④信長に反旗を翻す摂津の武将並びに石山本願寺

なので信長は村重を含め、懸命な懐柔策をとります。

高山右近はキリシタンであることや、中川清秀は村重に対するライバル心があること 等を利用。信長が裏に手を廻し、この二人を翻意することに成功するのです。

じつは荒木村重も、この二人の翻意の少し前に翻意しかけて、わざわざ安土城へと足を運ぼうとします。

ところが、中川清秀が「信長は一度裏切ったものを赦さぬ性質(たち)だぞ!安土城に行けば殺される。止めておけ。こうなれば徹底的に毛利を当てにするしかない。」

と言われ、「それもそうだ」と得心したので、謀反継続となったのです。

中川清秀はどこまで本心だったのでしょうね?彼自身は翻意しているのですから。

◇ ◆ ◇ ◆

高山右近の翻意はかなりドラマチックです。

一応、信長はオルガンティノ等の宣教師を高山右近説得のために送り込みますが、右近は従順なキリシタンであるため、それらの説得だけで信長へ翻意したというよりは、聖書に則り、悩み、自己解決したと云った方が正しいかもしれません。

新約聖書の中で使徒パウロが書いた「ローマ人への手紙」13章1~2節に有名な御言葉があります。
⑤高槻城にある高山右近像

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」
「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めに背いているのです。背いた人は自分の身にさばきを招きます。」

右近は、熱心なキリシタンでしたから、まずこの言葉を肝に銘じていたはずです。なので彼は、信長に背いた荒木村重のところに行き、謀反の翻意を促します。

自分のこの翻意を促すことが如何に本気かを示すため、村重に自分の妹や息子まで人質として差し出すのです。

右近のこの熱心な説得に心を動かされた村重。一度は翻意します。

そして安土城へ向かう途中で、先に述べた中川清秀の説得にあい、翻意した決心も簡単に覆り、元の有岡城へと戻ってしまうのです。

高山右近は苦悩しました。信長と村重との間に戦が起きれば、村重に右近の誠実さを示すために人質とした最愛の妹や息子を殺される可能性がある。
かと言って、自分が村重側に味方し、信長を裏切ることはデウスの教えに反することになる。

既に高山家家中も真っ二つに割れて争議が絶えない状況なのです。

大いに葛藤した右近は、何日も礼拝堂へ入り祈りました。
そして10日後。

「信長公の御前に参る」と周囲に静かに言う右近。

◆ ◇ ◆ ◇

翻意後、はじめて安土城の信長の前に現れた右近は、剃髪し、紙装束だけの姿でした。
そして右近は信長に言います。

「私の所領は全て信長様に返上致します。」

流石の信長も驚くと同時にあきれ顔で右近を見つめます。

右近もじっと信長を見返します。右近からすれば、所領を信長へ返上することで、信長への恭順を示したのです。と、同時に右近が持つ兵力も放棄することにより、敵対する意思が無いことを村重に示すことで、村重が人質を殺す動機も無くなるだろうと考えたのです。

この読みが当たったのでしょうか?結果的に村重は右近からの人質を殺しませんでした。そして、信長も右近のこの潔さに感服したのか、所領を召し上げるどころか、摂津の一部を褒美に与えたのです。

悩みに悩み、祈りに祈り、最後は自分の信仰以外のすべての拘りを放棄することで、逆に右近は、自分の大事なものは何一つ棄損すること無く問題解決を図ることができたのです。

4.尼崎城

⑥尼崎城址碑
さて、期待していた高山右近、中川清秀らが離反したことで、積極的には信長に反撃できない荒木村重。

毛利水軍が、大軍を乗せた船団を尼崎の浜に横付けにして、有岡城を攻める信長軍の背後を突くことのみに一縷の望みを掛けます。

しかし、毛利水軍は一向に現れません。

やはり、九鬼水軍の鉄甲船が大阪湾の制海権を握っていたのです。
尼崎は大阪湾ですから、毛利水軍も近寄れない訳です。

1年近く経ちました。援軍をあきらめかけた村重は言います。

「有岡城から兵を打って出し、信長軍と戦っている間に城に籠る女・子供含めて退却させよう。それが上手くいかない時は、尼崎城と花隈城を信長に明け渡して、助命を嘆願しよう。」

となんともまあ煮え切らない言葉を家臣たちにする村重。具体的にどこに退却するのか。退却後の見通し等ははっきりせず、家臣たちも躊躇するばかり。

そんなこんなするうちの1579年9月2日、村重は自分だけ信長軍の有岡城包囲網から脱出し、尼崎城へ転がり込みます。(写真⑥

有岡城を守る家臣たちは、当然、なんじゃ、我々を見捨てて自分だけ生き残ろうと考えているのか!と村重を疑いはじめます。

ただ、村重も見捨てたという考えではないのです。実は今回の信長離反の最大の原動力は、この尼崎という港町なのです。
尼崎城から花隈城への海岸線沿いは、現在の神戸がそうであるように、当時も港町であり、堺のように交易により富があるので、自立志向が強いのです。

また信長がこういう交易都市を狙い、その利潤を巻き上げようとする武将であることを、この港町衆は、良く知っているからこそ、反信長の精神も強いのです。そのため、村重に対する突き上げも激しく、村重が信長を離反したのも、このことも一因であるとの説があります。

となると、村重としては尼崎城で、これら港町衆と直接話し合い、信長に投降する方法をソフトランディングさせたいと考えたのでしょう。

5.七松

とは云うものの、やはり尼崎を中心とする港町衆の、信長嫌いは、そう易々と変えられるものではありません。

そうこうするうちに、村重が留守をしていた有岡城と信長との間に以下の降伏条件が結ばれてしまいました。
⑦有岡城にある忠魂碑

「有岡城に加え、尼崎城、花隈城の3城を明け渡せば、諸将の妻子は助ける」

この報告を尼崎城で受け取った荒木村重。苦渋で顔が歪みます。港町衆がOKを出さないうちにそんな条件が飲めるわけがないのです。

しかし、有岡城の諸将の求心力は、村重が単身で有岡城を脱出したことにより低下し続けていました。

この降伏条件を伝えに来た有岡城代たちは、村重がこの条件が呑み込めないと分かると、顔色を変え、そのまま出奔します。妻子を有岡城に残したままです。

つまり、信長と村重の間でサンドイッチ状態、本当にどうしようも無いと感じたのでしょうが、妻子が殺されることが分かった上で遁走するとは。先の高山右近に比べると無責任にも感じますね。

◇ ◆ ◇ ◆

有岡城は最終的に指導者を失い、見捨てられた婦女子の悲嘆は激しく、監視の信長軍の兵士たちも余程不憫に感じたようです。

しかし、信長は村重らに見せしめにするため、村重の妻子・親族は京の六条河原にて処刑、他の者は、村重の立てこもる尼崎城近くの七松という場所で処刑と決まったのです。
⑧七松八幡神社にある
石碑

1579年12月13日、まず七松での処刑が行われました。
最初に武将の妻子122名が磔となったのです。有終の美で最期を迎えたいという思いからでしょうか。着飾った衣装で磔にされ、槍や長刀、鉄砲等で次々と殺される様は飾った分だけ陰惨さが強調されるのです。子を抱いた母親もいましたが、容赦なく殺されました。

信長公記には、この時のことを以下のように表現しています。

「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」(Wikipediaより)

信長を肯定する側にある信長公記ですら、このような陰惨な行為であることが書かれているのですから、相当恐ろしい情景だったのでしょうね。。

更に下っ端の武士の妻子や小者等、合わせて512人が4軒の家屋に押し込められるのです。そしてその家屋に火をつけられるのです。家屋の中で、火の手の方向が風により変わるたび、魚の群れのように走り、生きながら焼かれていった512人。

信長は時々こういう陰惨な殺し方をしますね。
現在、七松八幡神社には、ここで殺された人々のための石碑が建っています。(写真⑧

更に村重の妻子・親族等の36人が、京の市中引き回しの上、六条河原にて斬首されたのです。村重の妻・おだし様はクリスチャンだったという説もあります。
⑨村重の妻・おだし様の斬首
(大河ドラマ「軍師官兵衛」より)

2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」では、クリスチャンであるおだし様が、処刑される他の人を思いやりながらも、この六条河原で毅然とした様子で斬首される様子が描かれております。

実際に「信長公記」でも、そのような様子だったことが書かれています。

おだし様を演じた桐谷美玲さんが上手でしたね。(写真➈

この時の様子も「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」と立入左京という朝廷の側近が書き残しています。

6.村重を見捨てた毛利氏

「毛利水軍は何をしているのじゃ!」

と尼崎城で村重は怒鳴ったに違いありません。尼崎の港町衆と信長降伏へのソフトランディングを推し進める一方で、もうこの尼崎の浜に今日来るか、明日来るかと毛利水軍による援軍も期待していた村重。有岡城に立て籠もって信長に敵対すること1年。この間、全然援軍をよこさない毛利軍に対して怒りが爆発しても仕方がありません。

では、何故この時、毛利輝元は荒木村重に援軍を出さなかったのでしょうか?
色々な説があります。雀の涙ほどですが、少しは援軍を出していたようです。

⑩「三本の矢の教え」がいつも正しいとは限らない
毛利軍、本当は上洛の計画まであったようですね。信長の領土を挟んで毛利輝元とは反対側に版図を持つ、東の雄・武田勝頼と共謀し、勝頼が信長・家康軍を引き付けている間に上洛するという計画があったようです。勿論、上洛のお膳立ての一環として村重の謀反があり、どうやら当時の将軍・足利義昭も、絡んでいるようです。

ただ、やはり前述している信長側の九鬼水軍・鉄甲船による大阪湾の制海権が奪われたこと。宇喜多氏の動きが計算外だったこと。大友氏扇動による毛利家内部の動揺。etc・・・

一番の原因は、輝元の祖父の毛利元就が「三本の矢の教え」で結束を図ろうとしたことに、輝元が従順だったことにあります。

ご存じのように「三本の矢の教え」は、元就が三人の息子の結束を呼びかけ、協働することで毛利家の安泰を促す話ですが、この三兄弟、毛利家、吉川家、小早川家の三家となった訳です。

毛利輝元はこの祖父の教えを守り、小早川隆景のこれ以上の戦線拡大は危険であるとの諫言を聞き、上洛を止めてしまいました。

これで村重は見捨てられる状況になったのです。

◆ ◇ ◆ ◇

有岡城が落城したのですから、荒木村重は、もう港町衆とソフトランディングの話し合いは必要ありません。村重は尼崎城に居た嫡男・村次(むらつぐ)と一緒に、花隈城に逃げ込みます。(写真⑪)

この時、花隈城も織田信長が若き尾張の「うつけ」といわれていた頃より、一緒に破落戸(ごろつき)をやっていた池田恒興(つねおき)に攻められ、村重も港町衆と一緒に懸命に戦いますが落城。村重は毛利氏のところに亡命するのです。

この辺りとその後の荒木村重については、次回またお話させてください。
ご精読ありがとうございました。


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 ⑪花隈城天守台からの景色(360°写真)

【有岡城跡】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【高槻城址】〒569-0075 大阪府高槻市城内町3−10
【尼崎城(大物城)址】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【七松八幡神社】〒660-0052 兵庫県尼崎市七松町3丁目10−7
【花隈城址】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4