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日曜日

大航海時代と朝鮮出兵② ~妄想から構想へ~

前回は「耳塚」から、秀吉の構想の元となる信長の海外戦略について軽く触れた。また同時代の世界史に目を転じると、スペイン・ポルトガルが世界を2分して侵攻しようとするトルデシリヤス条約・サラゴサ条約について紹介した。

今回は、更にスペインの世界侵攻戦略について考察を深める。その上で、秀吉の明征服構想は、このスペインの脅威を意識したものだったのか。大航海時代という当時の世界史的背景が、秀吉の朝鮮出兵にどう影響したのかを検証していく。

1.スペインの侵攻戦略

1580年フェリペ二世がポルトガル王を兼ねると、ポルトガルとスペイン間の植民地分割問題は霧散した。

一方で、ピサロインカ帝国を滅ぼした例に見られるように、当時のカトリックは、キリスト教を信じない地域についてはやりたい放題を許した。現在のキリスト教と違い、当時は神の教えに従わない者は虐殺も厭わないという思想のもと、植民地政策は進められたのである。

➀船上で指揮を執る
コロンブス
(Wikipediaより)

コロンブスでさえ、前述の通り日本を「黄金の国(ジパング)」と信じ、そこを目的の地として航海に出た。彼が日本に到着していれば、その行動は略奪が主体となった可能性は極めて高い。実際、彼はカリブ海諸島で先住民の大虐殺を指揮し、「黄金探し」をスペイン王室の使命とし、現地インディアンに大量の黄金の献上を強いたのである。

以後、大航海時代が「黄金探し」を主な目的とするようになったのは、ピサロによるインカ帝国滅亡時も同様である。

「黄金の国」という日本像が、結果的に黄金目的の侵略を加速させた。その意味で、コロンブスが日本に到着できず、アメリカ大陸に阻まれたのは、日本にとって幸運であったのかもしれない。

インカ帝国滅亡のやり口は、あまりに凄惨であった。数百名のピサロの兵に対し、数万のインカの民が皆殺しにされたのである。さらに、捕虜としたインカの王を助ける条件として、部屋を黄金で満たし、次に銀で満たすという、「黄金探し」の極致とも言える下劣な侵攻を行った。にもかかわらず、捕虜の王は条件達成後に殺された。

キリスト教徒ではない民族に対する侵攻は、次第にエスカレートしていった。超少数の欧州兵でも、火器兵器を用いれば簡単に征服でき、黄金を手にできるというスペイン式の征服手法が確立されたのである。

しかし、単なる暴力や略奪だけであれば、彼らは「野盗の群れ」と変わりない。彼らにとって重要なのは、神が後押ししてくれるからこそ容易に征服できるのであり、神が後押しをしない場所ではそれは難しい、という考えであった。

神が後押しをする土地かどうか。それを判断するため、イエズス会はまずその土地でキリスト教を布教し、情報を集め、祈ることで、その土地が侵攻すべき土地かどうかを見定めた。そういう意味で、イエズス会は宗教的な布教部隊であると同時に、重要な諜報部隊でもあったのだ。

では、当時の宣教師たちは日本をどのように見ていたのだろうか。

日本の習慣を尊重する「適応主義」という方針を打ち出した宣教師バリニャーノは、フィリピン総督府への書簡で日本侵攻について以下のように述べている。

「日本は、求めるべきものは少ない割には、勇猛果敢、かつ軍事訓練を怠らない兵士を持っているため、征服が困難である」

要するに、侵攻は非効率だと分析したのである。

その分析は的確であった。1580年後半の日本は、世界にあった鉄砲100万丁の約半分を保有していたという説もあるほどだ。戦国乱世で鍛えられた武士は精強であり、ヨーロッパ人が夢見た「黄金の国ジパング」というイメージとは裏腹に、資源に乏しい国でもあった。

一方、当時の明はどう見られていたか。人口が多く国力はあれど、日本ほどの軍事的脅威はないと判断されていた。スペインのわずかな鉄砲隊でたやすく征服できる、という報告がフィリピンから国王フェリペ2世へ送られている。これは、かつてインカ帝国を滅ぼした発想と通じるものがある。

これらのことから、スペインは植民地政策の優先順位として、日本よりも明への侵攻を優先していたと推測される。

2.妄想から構想へ

では、豊臣秀吉の朝鮮出兵に話を戻そう。この出兵が、最終的に中国・明の征服を目的とした壮大な侵攻計画の一部であったことは周知の事実である。

ここまで大航海時代、特にスペインの動向を追ってきた。その文脈に立てば、「秀吉はスペインに先んじて明を征服しようとした」という見方が、ごく自然な発想に思えるだろう。

朝鮮出兵の動機を巡る議論

現在、この朝鮮出兵の動機を巡る議論は、大きく二つに大別される。

【説①】アジア統一構想 秀吉が明の地位に日本を置き換えることで、アジア全体の秩序を再編し、ひいては天下統一後の日本の安定を図ろうとした、という見方である。この説では、スペインの存在は直接的な動機と見なされない。

【説②】スペイン対抗説 いずれスペインが明を征服し、その次には必ず日本を狙ってくる。そうなる前に日本が明を支配し、来たるべき脅威に対抗しようとした、という見方である。これは、スペインの動向を強く意識した説だ。

これら二つの説は、果たして全く相容れないものなのだろうか。

素人考えではあるが、両者の違いはただ一点に集約されるように思える。それは、秀吉がスペインの侵攻戦略をどこまで具体的に認識していたか、という情報量の差に過ぎない。

つまり、秀吉がスペインの明侵攻計画を知らなかったのであれば、その動機は【説①】となる。逆に、それを知っていたのであれば、【説②】の結論に至る。本質的な違いは、そこだけではないだろうか。

③カラック船
(神戸市立博物館,
 Wikipediaより

秀吉が海外侵攻の構想を明確に打ち出したのは、1585年頃とする学説が有力だ。事実、この時期の書状には、外征計画への言及が頻繁に見られる。

その翌年、1586年にイエズス会副管区長ガスパール・コエリョは、大坂城で秀吉と謁見した。この時、秀吉は日本統一後の明侵攻構想を語り、そのために堅固な大型軍艦(カラック船)を2隻売却してほしいと依頼した記録が残っている。

だが、コエリョはこの申し出を結果的に断った。この一件が秀吉のイエズス会への不信を招き、翌1587年の伴天連追放令につながっていくのである。

この経緯だけを見れば、「スペインは自ら明侵攻を狙っているため、秀吉に協力しなかったのだ」と勘繰りたくもなる。しかし、真相は違った。スペイン側が、秀吉がその軍艦でフィリピンのマニラに攻め入ることを恐れたためであった。

そうこうするうちに、世界史を揺るがす出来事が起こる。1588年、スペインの誇る「無敵艦隊」がアルマダの海戦で、イギリスに壊滅的な敗北を喫したのだ。これにより、国王フェリペ2世は拡大路線から領土防衛へと舵を切らざるを得なくなった。

この事実を踏まえると、スペインの明侵攻はあくまで構想レベルに過ぎず、国家戦略として具体化してはいなかったと考えるのが妥当である。とすれば、やはり秀吉の動機は【説②】(スペイン対抗説)ではなく、【説①】(アジア統一構想)で考えるのが自然ではないか。

ただし、その【説①】にも一つ、大きな疑問符が付く。

かつて日本の支配者たちは、隋や唐の高度な文化・文明を吸収し、模倣することに終始した。彼らにとって、かの大国に攻め込んで勝利するなど、夢想だにできぬことであった。

その「常識」を、一介の農民から身を起こした秀吉が、なぜ突如として打ち破れたのか。国土、人口、文化の厚み、その全てにおいて比較にならぬ大国を征服するという発想は、あまりに荒唐無稽ではないだろうか。外部からの刺激なしに、そのような壮大な構想を独力で思いつき、実行に移せるとは、にわかには信じがたいのである。

3.秀吉の明征服構想:その根拠と背景

当時の日本は、世界の鉄砲生産台数100万丁の約半分を保有していた。戦国時代の延長で兵力50万を備えることも可能であった。この状況を冷静に分析すれば、「明にも対抗できるだろう」と考える者がいるかもしれない。実際、1590年頃の天下統一期であれば、そう考えるのも不自然ではないだろう。

天正20年(1592年)6月、毛利家文書および鍋島家文書には、秀吉のこんな発言が残っている。「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。」これは、先に述べた冷静な分析に基づくものだと主張されるのは理解できる。

ところが、秀吉はそれより遡ること1578年、織田信長との対話で、日本、朝鮮、中国を統一帝国として統合すると豪語したのである。その達成は「筵(むしろ)を巻くが如く」容易であると主張したという。1578年は、長篠の戦いでやっと3千丁の鉄砲が使われてから、わずか3年後である。秀吉がこの時点で、火器兵力などの何の根拠もなく「筵を巻くが如く容易」と主張できたのかは何故だろうか。

4.スペインの侵攻戦略と秀吉の推論

そこで私が想像したのは、信長や秀吉が、1533年のピサロによるインカ帝国征服など、「スペインの侵攻戦略」をどこかで聞いていたのではないかということだ。

秀吉が「筵を巻くが如く容易」と主張する2年前、フィリピン総督フランシスコ・デ・サンデはフェリペ2世に対し、4000〜6000の兵力で中国を征服できると上申している。この上申には日本の傭兵を利用する案も含まれていることを鑑みれば、日本側にその内容が漏れていたとしても不思議ではない。

この情報があったとすれば、秀吉はスペインに明への侵攻構想があることを意識した上で、こう考えたのかもしれない。

「スペインが数千人でできると考える明征服。今までの植民地政策で実績もあるのだから荒唐無稽な話ではないだろう。であれば、戦闘能力がスペインに劣らない日本兵が数万行けば明征服は可能である。」

これらを基に、彼は【説①】(アジア統一構想)を単なる妄想から構想へと変えていったのではないか。

5.大航海時代の必然性

スペインが明の侵攻を構想していたこと自体を知っていたとすれば、「スペインが明へ侵攻し征圧してしまうと、次のターゲットは日本となる。そうなる前に明をとってしまえば、スペインに対抗できるだろう」と秀吉が考えても不自然ではない。

ただし、秀吉がどこまでスペインの征服を現実のものとして捉えていたかには疑問が残る。史料その他にスペインの侵攻時期を気にしていた形跡は見当たらない。そのため【説①】だけでも説明はできる。しかし、信長や秀吉のような革新的な人物が、この大航海時代という世界的なトレンドを見落としたり、無視したりしたとは考えづらい

【説①】は、発想一つだけであれば他の時代のトップ(源頼朝や足利尊氏、義満など)でもシナ征服は思い付けるはずだ。では、なぜ秀吉は思い付きだけでなく、実行に移すことができたのか。それは、大航海時代という必然があったからだと私は考える。したがって、秀吉は【説①】 を発想したが、 「スペインの明侵攻構想を知ったため、【説①】 を発想から構想のレベルに昇華したというのが、私の推論である。

6.おわりに

ご存じの通り、朝鮮出兵自体は、当初の目的である明の征服を15万の軍を投入しても達成できなかった。いくらスペインの侵攻構想を知っていたとしても、秀吉の見積もりが甘かったと言うほかない。

④アルマダの海戦
Wikipediaより

当時、明は日本の倭寇対策を主因とする鎖国(海禁)の方針をとっており、その軍力などの実情は分かっていなかった。これはスペインも同様であった。

そこでここからまた私の憶測だが、1588年のアルマダの海戦に敗れたスペイン(無敵艦隊)は、明征服について、秀吉の日本軍侵攻を試させ、どれくらいの軍勢と兵站をもってすれば侵攻が可能かを見極めようとした可能性も否定はできない。

結局、日本軍を大量投入しても成功しなかったため、スペイン自体も明を征服できるかを見極められず、シナは「眠れる獅子」として恐れられることとなった。この状況は、約250年後にスペインから世界の海上覇権を奪ったイギリスがアヘン戦争という形で清を落とすまで続くのである。

ご精読に感謝する。

水曜日

大航海時代と朝鮮出兵➀ ~耳塚にて思うこと~

 京都の方広寺と言えば、その梵鐘の銘文「国家安康」が有名である。徳川家康は、「家康」の諱の間に「安」の字を挿入したことを、あたかも自分の首を切断したことに等しいと難癖をつけた。

この屁理屈を口実として、徳川家康が豊臣家を征伐し、大阪の冬の陣・夏の陣で淀殿と豊臣秀頼を滅亡させたことは、社会科の授業でも習うほど有名な歴史的事実である。

当時の壮麗な方広寺は既に存在しないが、この地には豊臣家と縁の深い場所として、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されている。

この豊国神社の正門から約100メートル先に、「耳塚」と呼ばれる塚があるのをご存じだろうか。(写真①)

①耳塚
首塚や胴塚は多いが、耳塚とは珍しい。そこで調べてみると、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592年~1598年)として知られる朝鮮出兵の際、敵兵の首は持ち帰るには重すぎるため、その(一部ではともいわれる)を切り落として持ち帰り、それを供養した塚だとされる。

その規模は相当なもので、高さは7~8メートル、直径は約20~25メートルにも及ぶのだ。

なるほど、海外からの帰国には首は大変だから耳、というわけか。

しかし、首や胴であれば骨が残るため、塚の真偽はすぐに判明するが、耳や鼻では何も残らない。この点はどうなのだろうか?また、これほどの巨大さは、大量殺戮の事実を物語っているのだろうか?

などの疑問が湧き上がり、さらには「そもそも秀吉は何のために朝鮮出兵を行ったのだろうか?」という根本的な疑問まで、この耳塚の霊に後押しされたかのように泉のごとく湧き出てきた。そこで、これらの疑問について少し調べてみることにした。

1.海外侵攻をしたがらない武士たち

テレビドラマなどでは、豊臣秀吉による朝鮮出兵が、愛息・鶴松(棄丸:すてまる)の病死による悲しみを紛らわすため、あるいは老耄(ろうもう)から思いつきで実行されたものとして描かれることが多い。しかし、これはあまりにドラマ仕立てに過ぎるだろう。たしかに高齢による判断力の衰えはあったかもしれないが、当時の日本の国家機構が、そのような無謀な行動を安易に許容するほど愚かな国であったとは考えにくい。

では、なぜこのような大規模な海外遠征が実現したのだろうか。鎌倉幕府以来、およそ400年以上にわたり、日本は元寇のように他国からの侵攻を受けることはあっても、自ら海外へ大規模な軍事遠征を行うことはなかった。この背景には、源頼朝以降の武士が海外領土の奪取といった発想を持たなかったというよりも、武士たちが「日本国」という統一国家の正規軍であるという明確な概念が薄かったことが影響しているのではないだろうか。

②熱田湊の灯台のような役割を
果たした村上社のクスノキ
日本が海外へ兵を進めたのは、六六三年の白村江の戦いまで遡る。この戦いで大敗した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え、防衛体制の強化に着手した。その一環として、「防人(さきもり)」を対馬・壱岐・筑紫(北九州)に設置し、彼らを律令制下の正規の防衛兵として位置づけたのである。
しかし、平安時代中期以降、天皇を頂点とする律令国家体制下でこのような「国家の兵」は徐々に形骸化した。これに代わって登場したのが、「北面の武士」などに代表される「」である。彼らは本来、「(朝廷や貴族に)さぶらう」、つまり従属した下人的な立ち位置から始まった組織だ。

「侍」は、個別の主君に仕える私的な武力集団であり、「国家」全体の軍事力を担うという意識は希薄であった。

鎌倉時代の元寇襲来について、「あれは国防意識があったからこそ、博多湾に集結して戦ったのではないか?」と疑問を持つ読者もいるだろう。

しかし、その後の経緯を考えて欲しい。

元寇後、武士たちの生活はどうなったのか。彼らは純粋な「国防」意識ではなく、「一所懸命」の地を守り、「御恩と奉公」という主従関係の図式で生きていたに過ぎない。敵を退けても、新たな領地や財産を得る恩賞は少なかった

結果、生活は成り立たなくなり、多くの武士が困窮する。

この困窮が原因となり、徳政令が頻発された。そして最終的には、不満を募らせた武士たちによって鎌倉幕府は転覆させられる。

この事実こそが、当時の武士たちの間に「国家の軍」であるという意識が、いかに希薄であったかを物語っているのだ。

現在の日本はシビリアン・コントロール(文民統制)の国であり、事情は多少異なる。しかし、そもそも律令国家として8世紀に始まった日本国の兵員も、天皇を頂点とする貴族国家という文官統制のもとに置かれていた。

つまり、この武士階級は、海外外交を含む「政府の機能」までを積極的に担うつもりは毛頭なかったのである。

2.型破りな武士・信長

しかし、この考え方とは対照的な武将がいる。

織田信長だ。

ルイス・フロイスの『日本史』には、これを裏付ける記述がある。「信長は毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考えであった」と記されている。

信長だからこそ、このような型破りな発想ができたとの見方もある。だが、当時は欧州の大航海時代であり、植民地政策が盛んな時代だ。

信長は領内の熱田湊などで貿易を行い、財を成した織田家の出身である。このため、大航海時代における海外進出の優位性を深く理解していた。海外遠征による壮大な貿易経済効果の構想を、秀吉にも話していた可能性は高いと言える。(写真②)

➂トルデシリヤス条約
(Wikipediaより)
3.トルデシリヤス条約

ここで、少々当時の欧州事情に寄り道しよう。

1494年、当時世界一、二を争う海軍国であったポルトガルとスペインは、トルデシリヤス条約を締結した。これは両国による植民地支配の境界を取り決めた条約である(写真➂)。

この境界設定に大きく影響したのは、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見したことだ。

ご存じの通り、彼は『東方見聞録』にある黄金の国ジパング、すなわち日本を目指していた。アフリカ経由よりも大西洋ルートの方が遥かに早いと考え、そのルート開拓を望んだ。問題はこの航路に必要な資金である。

コロンブスはまず海洋国第一のポルトガルに資金援助を求めた。しかしポルトガルは、喜望峰経由のアフリカルート開拓こそが有用と考えていた。大西洋ルートはそれまで何度か試みられたが、残念ながら陸地の発見報告はなかった。役に立たないと判断したポルトガルは、コロンブスの資金援助に応じなかったのである。

ポルトガルに失望したコロンブスは、次にスペインに支援を求めた。紆余曲折を経たものの、彼はなんとか支援を取り付けた。そして、ご存じの通り、コロンブスは大西洋ルートを進み、大陸を発見したのだ。

この発見はポルトガルを大いに焦らせた。「新世界」への進出は、スペインとポルトガルとの競争となり、侵出先での係争が絶えない状態となった。この摩擦を解消するために締結されたのが、トルデシリヤス条約である。

4.サラゴサ条約

図④中、紫の経線を境として、東回りはポルトガル、西回りはスペインの勢力圏と定めた。
④トルデシリヤス条約とサラゴサ条約
Wikipediaの図を加工)
この境界線は、ほぼ大西洋上に引かれている。興味深いのは、この分割線だけでは地球は二分割されたことにならないという、単純なからくりだ。地球は丸いので、もう一本分割線が必要である。

この盲点を問題視できたのは、マゼラン艦隊が世界一周を達成し、帰還した1522年以降である。そこで、もう一本の分割線として、図④の緑の線、すなわち東経約142度の位置に境界線を定めた条約が、1529年に締結された。それがサラゴサ条約である。

図から分かるように、日本はこの二本目の境界線上に位置し、その大部分はポルトガル側に属している。そのため、種子島に漂着したのがポルトガル船であり、日本で最初に平戸に入った貿易船もポルトガル船なのである。

5.遠大なる構想

⑤鉄甲船
かなり脱線したが、織田家が熱田湊で培った貿易の観点から、信長は南蛮(スペイン・ポルトガル)との交易を重視し、イエズス会の修道士たちと積極的に交流した。先に触れたルイス・フロイスもポルトガル人である。

信長が、ゆくゆくは天下布武を国内に留めず、スペインやポルトガルのように大航海時代に日本も乗り出したいと考えていたとしても不自然ではない。それゆえ、フロイスの記述に「一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考え」が出たのであろう。その構想の一端が垣間見えるのが、信長お抱えの九鬼水軍の「鉄甲船」である。(絵⑤)

鉄甲船自体は朝鮮出兵に直接参加していないが、九鬼水軍は後の出兵時、豊臣海軍の要となる。

また、この信長の話をフロイスが聞いていたくらいであるから、毛利平定の司令長官であった秀吉が聞いていなかったはずがない。そうなると、秀吉自身も毛利平定の頃から、信長の海外進出構想をいかに実現するか考えていたのだろう。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、続きは既に書き上げているが、長くなりすぎるため今回はここまでとする。 次回は、ヨーロッパを起点とする大航海時代が、秀吉の朝鮮出兵に影響を与えたのか否かを考察する。 ご精読に感謝する。


月曜日

秀吉の天下統一④ ~奥州仕置から天下統一完成へ~

前回は小田原城の落城から宇都宮仕置までを扱った。

今回はその続き、宇都宮仕置から奥州仕置、そして東北地方の混乱と収拾を描き出そうと思う。この一連の動きを、東北の雄・伊達政宗の動向を追いながら詳述していく。この混乱の収束こそが、豊臣秀吉の天下統一の完成となるのだ。

.問題児・伊達政宗の動向

①仙台に立つ伊達政宗像
前回も述べた通り、伊達政宗は宇都宮城への参集においても、石垣山城の時と同様に遅参している。彼は秀吉の到着(7月26日)から2日後に、奥州仕置の出迎えとして宇都宮入りした。

度重なる遅参が影響してか、この宇都宮仕置では、惣無事令違反とされた会津に加え、岩瀬・安積の3郡を没収された。これにより、政宗の所領は150万石から72万石へと大幅に減封された。

そもそも政宗は、北条氏と連携し、佐竹氏を挟撃する計画を立てるなど、秀吉の天下統一に公然と抵抗する姿勢を見せていた問題児であった。それにもかかわらず、一度ならず二度までも遅参した。この態度は「反省の色なし」と見なされても仕方の無い振る舞いだったと言える。

2.奥州仕置

8月4日、失意の中、伊達政宗は、この後奥州仕置の案内として、会津の黒川城(会津若松城)へ秀吉を案内する。

②蒲生氏郷
(作画:ザネリさん)
ここで、伊達政宗は黒川城を秀吉臣下の蒲生氏郷(がもううじさと)へ引き渡さねばならない。(絵②)

この伊達政宗の処置はある程度予測されたことであったが、他の奥州在地領主への仕置は、予見されていなかったこともあり、伝統的な在地領主にとっては、かなり厳しく感じたようだ。

これには後述する石田三成が関わっている可能性が高い。

まず、秀吉は平泉周辺の大崎氏や葛西氏などを改易処分とした。彼らが小田原へ参陣しなかったことがその理由である。その上で、新たに秀吉の家臣である木村吉清を領主として配置した。

長年安定的に統治されてきた土地柄に加え、旧来の領主と家臣団との関係を断ち切る急進的な領地替えは、現地の武士たちに強い不満を引き起こした。その結果、この不満は大規模な一揆へと発展することになる。

3.葛西・大崎一揆

天正18年(1590年)10月、奥州仕置軍が引き揚げると、仕置に対する不満から葛西・大崎の旧家臣団が一揆を起こした。これが「葛西・大崎一揆」である。彼らは新領主である木村吉清の支配を拒否し、武力による抵抗を続けた。

この一揆の鎮圧に、伊達政宗が任じられた。しかし、政宗はやはり筋金入りの問題児である。この鎮圧計画は一時保留(ペンディング)となってしまうのだ。

4.またもや問題児・伊達政宗と決死のパフォーマンス

問題とされたのは、この一揆を煽動しているのが当の伊達政宗ではないか、という嫌疑であった。決定的証拠として、政宗の花押(サイン)が入った書状まで見つかり、政宗は絶体絶命の窮地に陥る。

「うーむ、小田原遅参時に白装束(死装束)のパフォーマンスをやってしまった。もっと華々しいパフォーマンスを秀吉に披露しなければ、今度こそ首と体がバラバラになる。

私が秀吉だったら、問答無用でこの大問題児である政宗を斬首して終りにしたくなるが、派手好きな秀吉は、この大問題児のパフォーマンスを楽しみにするキライがある。

京に呼び出された政宗は考え抜いた末、「金箔を貼った巨大な十字架を背負い、白装束で京の町を練り歩き、秀吉の前に出る」という奇抜なパフォーマンスを披露したのである。(写真③)

③白装束+金の十字架を持ち京を練り歩く政宗一行
(伊達政宗歴史館の展示物を加工)

「また面白いパフォーマンスだ。しかも金箔を使うとはワシ好みの演出!」

と秀吉は思ったのだろうか。意外にもこのパフォーマンスが気に入ったらしい。

5.鶺鴒押印事件

さて、金の十字架を背負い、京の街を練り歩いた後、政宗は秀吉と対面した。

「何故、伴天連の神のように十字架を担ぐのか?」

「伴天連は言います。彼らの神・ゼウス(イエス・キリストのこと)は、何らやましいことは一つもなかったにも関わらず、十字架に磔となって死んだと。」

④鶺鴒(セキレイ)
「では政宗、ぬしは何ら身にやましいことは無いにも関わらず、伴天連の神のようにその十字架に磔られる殉死者になると申すか。」

「はい。」

「では、この書状は何じゃ!」

と秀吉は「葛西・大崎一揆」を煽ったのが政宗である証拠の書状をはらりと白装束の政宗の前に広げる。

「書状には、紛れもない鶺鴒(セキレイ)の花押。ぬしの花押に間違いないな!」

⑤政宗の鶺鴒押印
花押は、現在の公式押印と同じ意味を持ち、特に政宗の花押は鳥の鶺鴒を模した凝ったものであった。(写真④⑤)
政宗は投げられた書状をじっと見つめた。
「良くできておりますが、失礼ながら、この書状は偽物です。」

「何をいまさら。」

「いえ、この花押は私のものではありません。私の花押であれば、鶺鴒の目のところに針で穴をあけております。この書状の鶺鴒の目には穴が空いておりません。」

「ほう」と秀吉。

佐吉、政宗から送られてきた他の書状を御番所(ごばんしょ)からもってこい。

「はっ!」佐吉こと石田三成は慌ただしく立ち上がり、御番所へ走った。

御番所から、政宗の押印が入った他の書状を持って戻った三成は、秀吉に書状を渡す。秀吉はバッと書状を開き、左下の押印を眺めた。

しばらく緊張の沈黙がその場に流れる。

「ワハハ、確かに開いとるわ!」

と大声で笑う秀吉。ほっとした雰囲気の政宗の白装束の肩をポンポンと扇子で叩きながら、秀吉はその場から立ち去るのだった。

6.三成の策

先の鶺鴒押印事件について、現存する政宗の公文書に鶺鴒の目に穴が開いたものは確認されていない

では、これはどういうことか。

⑥奥州仕置軍・再仕置軍等の足取り
一説には、秀吉の寛容な措置であった、あるいは政宗の鮮やかな弁舌とパフォーマンスに対する返礼であったという見方がある。また、後世の創作だとする説も有力である。

石田三成の深謀

ただ、佐吉(石田三成)もかなり怪しい。

彼は自分の深謀を早期に実現させるには、伊達政宗が必要と考えていた。その深謀とは以下の通りである。

三成は「朝鮮征伐」構想を、単なる侵略ではなく、「天下統一後の経済社会システム」として現実的な視点で捉えていた。

応仁の乱以降、百二十年以上にわたる戦乱の中で、武士だけでなく、武器商人など戦で生計を立ててきた人々が大量に増加していた。彼らが天下統一によって一気に失業すれば、当時の日本経済は崩壊するだろう。三成は、このようなハードランディングを避け、ソフトランディングを実現するための深慮遠謀を巡らせた唯一の武将である。

奥州に対する二つの期待

彼は、この海外遠征構想を推し進めるにあたり、奥州に対し以下の二つの役割を期待していた。

寒冷地での労働力確保:寒さの厳しい朝鮮半島と同じような気候の奥州以北で、有用な人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること。

極寒地での事前演習:奥州以北で戦を起こすことで、極寒の朝鮮半島における戦いの事前演習とすること。

そして彼は、奥州仕置軍の巡察行軍中、以下のように思考した。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。それゆえ、圧政を敷けば、かなりの規模の反乱が発生するのではないか。その鎮圧に軍を送れば、②が実現するし、さらにその時の捕虜を①に充当すればよい。」

三成の仕掛け

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官たちに、厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するよう仕向けた。

⑦九戸城本丸と井戸の遺構

これが効果を発揮する。先に述べた葛西・大崎一揆を皮切りに、図⑥のように和賀、稗貫などの地方から不満分子が多数発生した。それらの一揆は鎮圧されるたび、生き残った人々は皆、最後の反乱を起こす九戸政実の許に集結したのである。これの促進に一役買っていたのが伊達政宗。

まさに三成の策に嵌りつつあったと言えるだろう。

7.九戸政実の乱

そして九戸政実の乱が九戸城にて勃発する。(写真⑦)

この反乱も、秀吉の奥州仕置に対する不満から起こった一揆の一つと見なされている。しかし、他の葛西・大崎一揆などのような領主替えや圧制への反発とは、少々背景が異なるのだ。

南部氏の家督争い

乱の真の火種は、秀吉に恭順の意を示した南部信直に対する、九戸政実をはじめとする奥州武将たちの強い不満である。

その不満の原因の一つは、南部家の強引な家督相続にあった。

信直は、女子しか子がいなかった南部晴政(はるまさ)の養子として迎えられた。しかし、晴政が53歳にして晴継(はるつぐ)をもうけたことで、信直は秀吉にとっての秀次と同じく、邪魔な存在となる。

⑧九戸政実
(ザネリさん作)
信直は一旦身を引いた。だが、晴政が66歳で急死し、当主となった晴継もその直後に急死したのだ。これは信直または九戸政実による暗殺説が有力である。

政実の不満と反乱

柔軟かつ狡猾に南部家当主の座を手に入れた信直であったが、九戸政実は実弟・実親(さねちか)を晴継の後継者に据えようとしていた経緯から、信直に強い反感を抱いていた。

また、信直が宇都宮仕置で秀吉から南部家当主のお墨付きをもらい、領内の不満分子の鎮静化を図ったことも、政実には気に入らなかった。

これら南部家跡継ぎ問題に対する九戸政実の不満こそが、秀吉の天下統一に反乱を起こす直接的な火種となったのである。そして、信直の圧政に苦しむ領民らを巻き込み、九戸城へ立て籠もったのだ。

8.奥州再仕置軍の派遣

秀吉は、奥州における一連の反乱を完全に鎮圧するため、天正19年(1591年)6月20日、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」の編成を命じた。

この再仕置軍は、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった豊臣政権の主力を核とし、さらに上杉景勝伊達政宗も加わるよう命じられた大軍である。

この大軍はまず、葛西・大崎一揆などの反乱を平定しながら北進し、最終目標である九戸政実の討伐へと向かったのだ。(図⑥参照)

⑨九戸城包囲陣立

九戸政実の乱の詳細については、以下の拙著ブログを参照願いたい。

「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」

「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」

九戸城の攻防

九戸城に立て籠もった政実軍は、領民を含めても五千人に過ぎない。対する秀吉の「奥州再仕置軍」は、六万五千という圧倒的な兵力を擁していた。

兵力差は歴然としている。しかし、九戸城は極めて堅固な城郭であった。

九戸政実がこの乱を起こした唯一の活路は、この堅城をもって圧倒的な豊臣軍を厳冬の東北に留めおくことだと考えていたのである。

9.九戸政実の乱終結と天下統一の完了

しかし、奥州再仕置軍の進軍は九戸政実の想定よりも早かった。九月二日には九戸城は完全に包囲されたのである。(図⑨)

一説には、厳冬期の戦いを経験させようとする三成の策に嫌気が差した蒲生氏郷が、早期決着を目指し進軍を急いだとも言われている。

政実は、これ以上の抵抗は無益と判断し、開城を決断する。

政実の命と引き換えに籠城者全員の助命を条件とし、彼は頭を丸めて出頭した。しかし、奥州再仕置軍はこの約束を反故とする。

二の丸では、弟の九戸実親をはじめとする城内の者たちが惨殺され、火が放たれた。政実自身も平泉の南、栗原郡にて斬され、ここに九戸政実の乱は終結したのである。

⑩九戸城から出土した首の無い人骨
城内に居た者は女・子供に至るまで
なで斬りにされたとの伝承が残る)

こうして九戸政実の乱が鎮圧されたことで、豊臣秀吉の天下統一事業は名実ともに完成した。

10.おわりに

本シリーズの冒頭で述べた通り、秀吉の天下統一は小田原征伐ではなく、この九戸政実の乱の終結をもって達成されたという経緯を、ご理解いただけたであろう。

中世という時代をどこで定義するのかについては諸説ある。しかし、平安時代末期の前九年の役で源頼義・義家が陸奥(みちのく)の俘囚(ふしゅう、蝦夷)討伐を始めたことに端を発し、やはり陸奥の九戸城で終焉を迎えると考えれば、中世は陸奥で始まり陸奥で終わるという、きわめて分かりやすい構図となるのである。

ご精読に感謝する。


【宇都宮城】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町2−24

【黒川城(会津若松城、鶴ヶ城)】〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
【九戸城】〒028-6101 岩手県二戸市福岡城ノ内


木曜日

秀吉の天下統一➂ ~宇都宮仕置~

前回は小田原城の総構えを囲む、秀吉軍20万の包囲網が完成、大規模な石垣山城を付城とし、開城を促したところまで述べた。

今回は、その続きを解説する。

1.石垣山城でのエピソード2つ

小田原城を見下ろす位置に石垣山城を築いた秀吉。ここで有名なエピソード2つを改めてご紹介する。

《家康とのつれしょんべん》

①日本の首都となる東京は
この連れしょんで決定?

さてある日、秀吉は家康の手をとり、石垣山に登る。眼下に広がるは難攻不落の小田原城。

「御覧あれ、徳川殿。あの城の命運ももはや風前の灯。北条が滅びた暁には、この関八州、そっくりそのまま御辺に進ぜようぞ!」と秀吉。

さても豪快なるは、その次の一言。「ささ、共に小便を仕ろうではないか!」と言うなり、小田原城に向かって威勢よく放尿。

これこそが後世に伝わる「関東の連れ小便」の吉兆伝承である。関八州古戦録に記録されたものだが、後世の創作であろうという説が有力である。

《伊達政宗との謁見》

東国に覇を唱える北条氏を討つべく、秀吉は全国の大名に小田原への参陣を厳命。これに遅れればお家取り潰しは必定!

奥州の独眼竜こと伊達政宗は若干23歳。会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となったところで、「蘆名氏との戦は惣無事令違反」とされ、上洛して釈明せいとの秀吉の要請も無視していた状態。そこに最後通牒のように降ってきた小田原参陣要請。無視して秀吉と一戦交えるか、参陣して臣従するか。。。悩んでいるうちに時は経ち、小田原征伐は開始されていた。

「今更参陣しても遅い。いちかばちか秀吉と一戦交え、天下をとるか、伊達家が滅亡するか

しかし、北条方の城が次々と落ち、本拠・小田原城も落城寸前との報に、さすがの政宗も自らの甘さを悟る。もはや万事休すかと思われたその時、独眼竜はただでは死なぬと一計を案じる。

死装束である白の麻衣をその身にまとい、石垣山城へと遅参してきた伊達政宗。(絵②)

②白装束で弁明する政宗
「遅参の罪は、この首一つにてご勘弁願いたい!」

この常軌を逸した度胸と芝居がかった振る舞いは、怒れる天下人・秀吉の度肝を抜き、その興味を引くことに成功。

結果、斬首は免れたものの、苦労して蘆名氏より手に入れた会津の地は召し上げられることに。政宗は、この石垣山城での謁見において、天下の広さと秀吉という男の巨大さを、骨の髄まで思い知らされたのだった。1か月後、小田原城は降参、開城する。まさにギリギリでヒヤヒヤモノの政宗であった。

その後、政宗は改めて後述する宇都宮城にて秀吉に引見。領地の決定を受けることとなる。

2.小田原城開城までの経緯

小田原城は、支城がことごとく陥落し、外部からの援軍の望みも絶たれた。

城内では、徹底抗戦か降伏かを巡って議論が紛糾した(後に小田原評定と呼ばれる)。

最終的に、約3ヶ月の籠城の末、当主の北条氏直は降伏を決断し、天正18年(1590年)7月5日に小田原城は開城した。

この結果、

  • 当主の氏直は、妻が徳川家康の娘であったこともあり、助命されたが、高野山へ追放された。
  • 主戦派であった父の氏政と叔父の氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての北条氏は滅亡した。

この小田原征伐の完了をもって、豊臣秀吉による天下統一は成し遂げられたとされる。

3.その後の北条氏

氏直は、家康らがとりなしに入ったこともあり、翌年の天正19年(1591年)2月には赦免された。

なんと、同年8月には大名への返り咲きまで果たした。しかし、その直後の11月に疱瘡(ほうそう)で亡くなるという、あまりにも残念な結末を迎える。せっかく北条家復活の光が見えてきた矢先の病死であった。

ここで北条家も終焉かと思いきや、あの籠城戦で粘りに粘った韮山城主である北条氏規(うじのり)が、これまた徳川家康の取り成しもあって河内(現在の大阪府)に所領を与えられた。氏規は氏直の叔父にあたる人物である。

そして、その氏規の息子である氏盛(うじもり)が1万1千石に加増され、大名入りを果たしたのだ。この家系は狭山藩として、幕末まで続くことになるのである。(写真③)

③日比谷公園はかつて北条氏・狭山藩上屋敷があった場所

4.鎌倉での秀吉

20万という大軍をもって小田原城を攻め落とした秀吉。

天下統一を果たし、大坂へ引き上げたいところであったが、元来、日本の西地域で活躍していた秀吉である。関東まで来たのだからと考えたのかどうかは別として、彼はさらに東下を続けた。

天正18年(1590年)7月17日、秀吉は鎌倉へ入った。

彼はまず鶴岡八幡宮に参詣し、源頼朝の像と対面を果たしたのである。(写真④)

④当時鶴岡八幡宮内白旗神社にあった頼朝座像
(東京国立博物館蔵)

このとき、秀吉は頼朝像の肩を叩きながら、次のように話しかけたとの伝承がある。

「自分は農民の出から、お前さんは罪人の身から天下を取った。徒手空拳から天下を取ったのは、俺とお前さんくらいしかいないだろう。」

そして、さらに続けた。

「しかし、お前さんのご先祖は関東で権威があった。だから、血統の良いお前さんが挙兵すれば、多くの武士が従ったはずだ。それに比べて、自分は名もない卑しい身分から天下を取ったのだから、自分の方がお前さんより偉い。」

どこまで史実かは分からないが、その理屈は理に適った話である。いずれにせよ、小田原征伐が成就し、天下統一を果たした秀吉ならではの感慨だったのかもしれない。

5.江戸の見分

頼朝が奥州征伐(奥州藤原氏を征伐)のために鎌倉を出発したのが7月19日だったことに因み、秀吉も同じ7月19日に鎌倉を出立する。秀吉の場合、先に述べたように奥州の覇者であった伊達政宗を石垣山城にて臣従させていたため、奥州征伐は必要なかった。しかし、仕置(領有等に対する支配体制の確定)は必要不可欠であった

⑤宇都宮仕置に向かう途中
江戸を検分する秀吉
鎌倉を出発して秀吉がまず立ち寄ったのは江戸である。(絵⑤)

関東一円を収めるにあたり、江戸を拠点とすべきと家康に言ったのは、実は秀吉のようだ。

幾つかの観点で秀吉が江戸をすすめた説があるが、大きく2つの説を取り上げる。

(1)江戸の潜在能力を見抜いた説

一つ目は、当時の江戸が主要な街道が通り、江戸湾の海上交通や河川交通の便が良い場所であったことだ。

秀吉は、江戸が将来的に関東支配の中心地として、大きな発展の可能性を秘めていることを見抜いていたという説である。個人的には、これを発案したのは家康かと思いきや、秀吉だったとは意外である。もちろん、家康もこの考えに同調できたからこそ、江戸を選択したのだろう。

(2)家康の脅威を排除する説

もう一つは、今回、家康が130万石から関東240万石への大幅な加増を受けたことによる脅威の排除である。

秀吉は家康を、関東・東北の諸大名への押さえとして期待する一方で、その実力を恐れていた。

小田原城は、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城であり、巨大な総構が築かれていたことは前述の通りである。このような強力な要塞をそのまま家康に与えることは、将来的な脅威になりかねないと、秀吉は判断した可能性がある。

これに対し、当時の江戸はまだ発展途上であり、家康に一から拠点を築かせることで、その力をある程度コントロールしようとしたというのだ。

秀吉は、常に相手のことを考える誠実さの裏で、しっかりと保身策も裏で練っている。これこそが天下人としての器なのであろう。

6.結城城への立ち寄り

さて、話を戻そう。

江戸を出た秀吉は、その後、常陸の結城城に7月25日に到着した。ここでも秀吉は徳川家康への配慮を示している。

家康の次男である秀康は、すでに秀吉の養子となっていた。この秀康を、名家である結城氏の養嗣子(家督相続をする養子)にすることが、この結城城にて決定されたのである。

ここに、結城秀康が誕生した。

このとき、結城氏には、周辺地域で北条側であった豪族の土地が分け与えられている。

⑥下野国にある結城城跡

7.宇都宮仕置

秀吉は結城城を出立し、翌日の7月26日には宇都宮城へ到着した。

秀吉の到着前から、宇都宮城には常陸国の佐竹義宣や陸奥国の南部信直といった東北・関東の大名が出頭していたのだ。

秀吉は、この城で約10日間にわたり、仕置(戦後の領土確定や人事などの支配体制の確定)を断行したのである。(写真⑦)

⑦宇都宮仕置が行われた宇都宮城

最近の研究で分かってきたことなのだが、関東や東北の雄たちは、小田原へ参陣したかどうかが宇都宮仕置における重要な処分の分かれ道だったと思われていた。

しかし、この宇都宮仕置中に宇都宮城へ出頭するかどうかも、重要な判断基準であったようだ。

例えば、下野国の那須資晴は、宇都宮までわずか一日の距離にいながら、病気を理由に出頭しなかった。このため、秀吉は領地没収に踏み切ったのだ。

また、徳川家康は、すでに小田原で関東地方への移封を内示されていたが、7月29日に宇都宮城であらためて秀吉に会い、公式な通達を受けた。

途中江戸を見てきた秀吉は、家康に対し、

「権大納言殿、やはり江戸は広大な関東の拠点として申し分ない。大坂城と似ている。江戸城を改築なされい。」

のようなことを言ったであろう。

この宇都宮仕置の通達を受けて、家康が公式に江戸に入ったのは、この後の8月1日とされている。(江戸入府)

8.奥州仕置

宇都宮城への参集でも、またしても伊達政宗は石垣山城の時と同じく遅参を犯しているのだ。

宇都宮仕置から奥州仕置、そしてその後の問題に至るまで、天下統一の完成には伊達政宗の動向が大きく影響している。

次のシリーズでは、この伊達政宗を中心に、その辺りを詳しく書いていきたいと思う。

ご精読に感謝する。

【小田原城本丸跡(北条氏時代)】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目14

【石垣山城跡(一夜城)】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12

【鶴岡八幡宮 白旗神社】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1

【結城城跡】〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【宇都宮城跡】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1−15

火曜日

中国大返し➂ ~「神速」のその先へ!~

前回、豊臣秀吉が備中高松城から姫路城まで驚異的な速さで移動した「中国大返し」の舞台裏について描いた。海路活用説や、播磨・摂津の有力武将たちが明智光秀につくか秀吉につくか迷う中、彼らを牽制するための「神速」戦略があったことを述べた。

そして、今回はいよいよ大返しの最終章、「山崎の戦い」について書きあげた。

さらに、多くの者が疑問に抱く「なぜ毛利軍は追撃しなかったのか」についても、ご先祖様にも登場頂き、考察を進めてみた。御笑覧頂きたい。

1.山崎の戦い

①再掲:山崎の戦いの配陣図
(天王山山頂・旗立松展望台看板より)

戦端は6月13日の午後4時、図①に示された右上の池田恒興が、中央で明智軍と対峙する高山右近の右翼に布陣しようとしたその時、開かれた。明智軍には、秀吉軍の陣形が整う前に決着をつけたい焦りがあったのかもしれない。

②斎藤利三
(Wikipediaより)
しかも、秀吉軍の最前線を担う中川・高山・池田らは、元々光秀派であった者たちであり、中国大返しには参加していない、疲れを知らぬ精鋭部隊であった。光秀側には、これらを迎え撃つ焦り、そして怒りが同時に渦巻いていたのだろう。

光秀の軍師・斎藤利三(絵②参照)もまた、高山右近に襲いかかり、一時的に高山右近ら秀吉の前線部隊は押され気味であった。

そもそも、「ここが受験の天王山」という言葉の比喩は、図①にある淀川系の3河川(木津川、宇治川、桂川)と天王山に挟まれた隘路を抜けた先に広がる、わずかに開けた土地が戦局を大きく左右するという状況からきている。この開けた地に先に陣取った方が圧倒的に有利となるため、明智光秀は筒井順慶を待っていた洞ヶ峠(写真③)から、秀吉は6km離れた富田から駆けつけ、どちらが先に有利な陣地を確保できるかを競ったことに由来する言葉なのだ。
③洞ヶ峠(天王山からの遠望)
※ここ天王山と洞ヶ峠の間には、奥から
木津川、宇治川、桂川の3本が走っており、
隘路になっているのが分かる

2.洞ヶ峠と池田恒興の奇襲

ちなみに洞ヶ峠といえば、光秀から加勢を要請された筒井順慶が日和見した逸話で有名だ。しかし、その子孫である筒井康隆氏によると、順慶はそもそも洞ヶ峠には来ていなかったらしい。洞ヶ峠で伊賀上野城にいる筒井順慶を待っていたのは、光秀であったのだ。

この山崎の戦いで活躍するのが池田恒興だ。図①でも、彼の軍だけが右奥(北東)に入り込んでいるのが分かるだろう。恒興は高山右近の右翼に並ぶのを止め、大きく迂回して明智光秀の左翼に位置する津田与三郎を攻め立て始めたのだ。

さすが勇猛果敢で鳴る池田恒興が攻め寄せると、津田与三郎はたちまち押され始めた。それを救援しようとした斎藤利三が、今度は高山右近らに押され、結局、明智軍は津田・斎藤らが守る左翼側から崩壊した。

そもそも、対峙する前から明智軍の方が寡兵であった。光秀らは秀吉軍を洞ヶ峠と淀川系3河川に挟まれた隘路から広い場所に出させず、逐次撃破を目指していた。しかし、池田恒興が広い場所に出、明智軍の左側(東側)に回り込めてしまった時点で、光秀は敗北を強く意識したことだろう。

戦いはわずか3時間で秀吉軍の勝利が確定した。

3.不可解な光秀の最期

寡兵の明智軍が唯一勝つための作戦は、隘路での逐次撃退であった。しかし、池田恒興ら摂津・播磨衆が、その隘路を突破し広い場所へ出る作戦を完遂したため、明智軍のこの目論見は水泡に帰した。夕方4時に始まった戦からわずか3時間。周囲が闇に包まれる中、光秀らは後方にある勝龍寺城へとばらばらと退却した(写真④)。
④勝龍寺城

勝龍寺城は、明智光秀の娘たま(細川ガラシャ)が嫁いだ城として有名だが、元々寺を改造した平城であり、防衛能力は低かった。とても秀吉軍の追撃に耐えられないと判断した光秀は、自身の領国である丹波亀山城か、近江の坂本城のどちらかに落ち延びることを決めた。繰り返すが、本能寺の変前の光秀は、京の首根っこを東西から抑える位置に領国を持っていたのだ。これは信長からの信頼の厚さを象徴するものであった。

ここで興味深いのは、丹波亀山城と坂本城を直線距離で比較すると、丹波亀山城の方が勝龍寺城に近いことだ(写真⑤)。
⑤丹波亀山城

もちろん、光秀は本能寺の変後、織田信長の領国を引き継ぐ形で「近畿管領」的な立場を目指していた。その構想の中核をなすのが近江国であり、その本拠地である坂本城は、光秀にとって最後の望みを託せる場所であった。嫡男・明智秀満がいたことや、安土城との連携、交通網の発達度合い等も総合的に考えると、誰しも再起のために坂本城を選択した光秀の判断は自然に感じるだろう。

しかし、落ち延びる光秀一行は、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りをしていた農民に遭遇する。そして、竹藪から現れた農民に、竹やりで脇腹をブスッと刺されたのだ(写真⑥)。
⑥明智藪

歴史に「もしも」はないが、もしこの時、丹波亀山城を目指し、農民の不意打ちに遭わずに逃げ延びていたとしたら、どうなっていたのだろうか。それこそ西の丹波亀山城に光秀、東の坂本城に秀満が呼応して……。いや、それでも光秀に勝ち目はなかったように思える。

農民らを撃退し、山科を坂本方面へと馬を進める光秀だが、しばらく行ったところで落馬する。脇腹の刺し傷はかなり深く、光秀はここで諦め自刃した。介錯を頼んだ側近には、秀吉軍に自分の首を取られないよう地中深く埋めるよう指示したという。

ところが、光秀の首に関しては、実は様々な伝承が存在する。側近もその後自害したため、地中のどこにあるのか分からないという説。竹藪から光秀の脇腹を刺した農民の仲間が追跡しており、地中に埋めるところを見ていたため、掘り返して織田信孝に届けられた、いや秀吉の手に渡ったという説。これもまた諸説紛々としている。

⑦不意を突かれる明智光秀
(作画AI)
この辺りが曖昧であることも相まって、光秀存命説まで飛び出している。大河ドラマでは、格好良く丹波に馬で駆け、自由に生きる光秀が描かれたこともある。あるいは天海上人となったという説など、こちらも諸説紛々だ。

そもそも、光秀の脇腹に槍を刺した農民は、なぜ光秀がここを通ることを知っていたのか。また、首を掘り起こしたのも農民なのか。そんな都合よく名もなき農民が立ち回ったのか。その証拠はあるのか。光秀が逃げ延びるためにでっち上げた話ではないか、といった疑問も呈される。

このように、不可解な部分が多い光秀の死ではある。ただ、「三日天下」と言われた光秀の天下が、6月2日から同月13日までの11日間であったという事実だけは確かなようだ。

4.何故、毛利軍は秀吉を追撃しなかったのか?

さて、この中国大返しの話の最後に、手前味噌ながら私のご先祖様の逸話も交えたい。

私も高校生になって知ったのだが、我がご先祖・玉木吉保(たまきよしやす)は毛利家の家臣であった。玉木吉保が記した『身自鏡(みのかがみ)』という日記は、当時の中流武士の生活を克明に伝える貴重な史料だ。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に対する罵詈雑言など、思わず膝を打ちたくなるような(?)記録もあるらしい。

最近、安部龍太郎氏のブログを読んでいたところ、ふと三重大の藤田達夫氏の論文が紹介されているのに目が留まった。それは、玉木吉保の『身自鏡』の中の、中国大返しに関する記述に対する考察であった。

それによると、玉木は秀吉と安国寺恵瓊が備中・高松城攻めで講和交渉をした時のことを記しているという。秀吉は、多くの毛利重臣たちを既に離反させ、その連判状を証拠として提示したとのことだ。さらに、「毛利(輝元)殿御謀言不浅(おはかりごとあさからざる)故に信長既に果給ふ」と、本能寺の変を裏で操ったのは毛利輝元であることまで知っていると告げたという。

ここまでが玉木の記述らしいのだが、安部龍太郎氏は、この秀吉の「毛利が黒幕」という情報源は、黒田官兵衛からだろうと推測している。また、毛利の御謀言とは、副将軍に任じられていた輝元が、将軍・足利義昭と長宗我部元親を動かし、光秀と接近させ、本能寺の変を起こさせたことを指す、と述べている。

そして、この文章の解釈を、三重大の藤田達夫氏は以下のように論じているのだ。

「ここまで重臣を取り込まれた上に、内情を見透かされていては、とても動けない。毛利はそう判断した」

⑧秀吉軍に追いすがる毛利軍5万
(作画AI)
つまり、これが中国大返しで東へ奔走する秀吉軍を毛利軍が追いかけなかった理由だというのだ。どうだろうか?素人の邪推で恐縮だが、本能寺の変のお膳立てをしたのが毛利であるならば、むしろ全力で秀吉軍を追いかけ、決戦に持ち込み、光秀をバックアップするのが筋ではないか。そもそも謀略で超大物・信長を殺せるほどの胆力を持った漢・輝元であるならば、本当にそれほど多くの重臣が背くほど、求心力が低下するだろうか。仮にそうだとしても、高松城主・清水宗治のような、己の命を捧げた部下を見殺しにして、平静でいられただろうか。

やはり私は、この3シリーズの最初の記事で述べた『浅野家文書』にあるように、5万の毛利軍というのは功績を大きく見せようとする秀吉の誇張ではないか。実際には1万ほどしか毛利は動員できておらず、追いすがっても秀吉軍に勝てる見込みが毛利側になかっただけなのではないかと考えている。

私のご先祖の日記が、このような歴史の論争ネタを提供すること自体は、大変名誉である。しかし、その解釈について、一意に「だから毛利は動けなかった」とするには論理的な飛躍があるように感じるのは、私だけだろうか。

5.おわりに

以上で、私の中国大返しに関する調査を終える。

私自身が実際に見て回った備中高松城、沼城、岡山城、八浜城、姫路城、尼崎、山崎の天王山登頂、洞ヶ峠など、定番の地を巡れたことは大きな収穫であった。しかし、それ以上に驚いたのは、近年、この中国大返しに関する検証や論考の数の多さだ。どこまでが真実なのだろうか。

考えようによっては、高々500年弱前の話に過ぎない。にもかかわらず、これほど多くの説が飛び交うこと自体が、多くの日本人の興味とロマンを掻き立てる出来事であったという、ただこの一事実だけで十分なのかもしれない。

明智藪のすぐ横の畑で、のんびり煙草をくゆらせていたおじさんを見て、この方が光秀の脇腹を槍で突いた農民の子孫かもしれないし、関係ないかもしれない、などとまた妄想を膨らませていた私が、ふと次の瞬間に捉えたことは、この歴史の奥深さであった。

ご精読に感謝する。


【天王山・旗立松展望台】〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎

【洞ヶ峠】〒573-1131 大阪府枚方市高野道2丁目23−20

【勝龍寺城】〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13−1
【小栗栖(おぐるす)の明智藪】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町




木曜日

中国大返し② ~何故そんなに急いだのか~

前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。

①中国大返し日付と移動距離等

1.大返しにおける海路活用説

大返しは、約230kmの行程をわずかな期間で踏破し、3万もの大軍を率いて戦闘にまで及んだ作戦である。この成功の鍵として、近年、海路の活用が注目されている。本能寺の変からわずか2日後には大返しが開始されていることを考えると、急遽、大返しのために海路を準備したとは考えにくい。

この問題の解決策として、皮肉にも、もはや訪れることのない信長のために秀吉が準備した御座所が活用されたのではないか、という説が浮上している。

以前の論考でも述べたように、秀吉は信長に出陣を促した。これは、自身の力では中国攻めが限界であるため主君・信長を頼る姿勢を見せつつ、実際には水攻めなど、中国攻めでの自身の活躍を信長に見せつけることが目的であったと考えられる。そうであれば、備中高松城までの道中に信長の御座所(貴人が宿泊・休憩する場所)を準備する配慮を秀吉が怠るはずがない。

当然、御座所を準備するのであれば、その間の移動手段も抜かりなく準備するはずである。前回の論考でも触れたが、当時、毛利氏は村上水軍による瀬戸内海の制海権掌握に努めていた。しかし、当時の秀吉は、村上水軍の一部である来島水軍を味方につけ、また児島水軍なども配下に加えており、毛利水軍に対抗できるだけの水軍力を有していたことが明らかになっている。

とすれば、御座所間の信長の移動に船を用いることを考えても不自然ではない。かつて平家の都として栄えた福原に位置する大輪田泊(写真②)には、戦国時代に兵庫城が存在した。そして、この兵庫城こそ、本能寺の変がなければ信長の御座所として準備されていた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっているのである。

②ここ大輪田泊には、戦国時代に兵庫城が存在
(現在のイオンモール辺り)

神戸港の原型である大輪田泊が御座所の目の前にある以上、この湊から出航し、西へ向かう信長という構想は不自然ではない。支援の大軍は明智光秀に任せており、そちらは山陰道を西へ進む。しかし、信長自身は本能寺に同行した少数の供のみと移動するのであれば、御座所船を海路で岡山城(旭川を遡上)や沼城(吉井川を遡上)といった宇喜多氏の領地へ向かわせることは十分にあり得る。

しかしながら、結局のところ、これら全ての計画は本能寺の変によって実現することなく終わったため、どのような詳細な計画であったのかは残されていない。そもそも信長本隊の移動計画は、本能寺宿泊を含め、信長軍の第一級軍事機密であったと考えられる。ゆえに、明智光秀や秀吉など、ごく一部の限られた将兵しか知り得ない事実であり、当然ながら史料なども残るはずがないのだ。

秀吉は、この極秘の御座所ルートを、大返しという京都への帰路に活用したのだろう。地図①は中国大返しのルートを示しているが、前回述べた沼城から姫路城の間は約70kmある。

ちなみに、この区間を1〜2日間で移動することは、途中の船坂峠の急峻さ、またこの時期が梅雨で道がぬかるんでいたことを考慮すると、非常に困難な行程となる。

そこで、沼城のやや東側を流れる吉井川沿いの長船、あるいはさらに東に位置する備前・片上から、赤穂付近までは海路が用いられたのではないかという説が浮上している。もちろん、急ごしらえで3万もの軍勢を船で運ぶことは不可能である。しかし、秀吉をはじめとする一部の主要メンバーだけでも、早期に秀吉の本拠地である姫路城近くまで運搬されたのだろうというのが、この説の主旨である。

2.秀吉の「神速」と戦略

では、なぜ秀吉は、3万の軍が追いつかないほどの勢いで、単身でも帰路を急いだのだろうか。この疑問は、山崎の戦いの布陣図を見ると氷解するだろう。図③をご覧いただきたい。これは、天王山山頂付近から見える各軍の陣立てに基づき解説した看板の抜粋である。

③天王山山頂付近(旗立松展望台)の看板に
ある山崎の戦いの配陣図

秀吉の本陣は、この看板のある天王山付近(図③の現在地)であった。しかし、秀吉軍全体は戦列が非常に長く、この陣配置の時でさえ、最後尾は30kmも離れた西宮に位置していたという。息を切らしながら天王山を登り、この看板を目にした筆者は、まさに「なるほど!」と膝を打ったのである。

黒田官兵衛(地図では黒田孝高)と羽柴秀長は、筆者が懸命に登ってきた天王山の中腹あたりに陣を敷いており、やや奥まった位置にいた。しかし、秀吉軍の最前列で今にも襲いかかろうとしていたのは、中川清秀(茨木市)、高山右近(高槻市)、池田恒興(伊丹市)といった摂津の大武将たち、そして加藤光泰(三木市)という播磨の武将であった。これらの山崎の戦いで最前線にいた武将たちは、中国攻めに参戦する予定で準備を進めていた最中に本能寺の変が起きたため、出陣を一時保留し、明智光秀側につくか、あるいは当初の予定通り秀吉側につくか、状況を冷静に分析しながら熟慮を重ねていたと考えられる。

であるならば、秀吉はまず、播磨・摂津の武将たちに、鬼神のごとき迅速性と勢いを見せつける必要があった。光秀が彼らや京周辺の武将らを自陣に取り込み勢力を拡大する前に叩くためには、合戦は早ければ早いほど良いという判断があったのだろう。そのため、備中から速く京へ引き返すことが作戦の基本であった。しかし、単に速いだけでなく、「鬼神」のごとき神がかった速さが必要であった。これが光秀の勢力拡大を阻止し、周囲を巻き込み天下人となる「勢い」となるのだ。

まず6月6日に備前沼城を出発した秀吉は、海路も活用し、他の兵に先駆けて70kmも離れた姫路城へ早々に到着した。ここで、上記の摂津・播磨の武将たちに檄を飛ばす書状をしたためたのである。信長や信忠は生存しているという偽情報を流したという説もある。

④姫路城

なぜ、沼城から姫路城までこれほど急いだのか。沼城までは、信長の変死を知った毛利軍が猛烈に追撃してくる状況を想定し、秀吉は緊張していた。しかし、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から献上された姫路城まで一気に逃げ切れば、ひとまず安心できたのだ。毛利の脅威はほぼなくなり、次なる大敵である明智光秀に対する様々な策略に没頭できるというわけである。

光秀もまた賢い武将であった。柴田勝家が越中・能登の北陸戦線(対上杉氏)に、滝川一益が後北条氏の上州討入り計画への対応に追われ、もちろん秀吉も中国戦線で膠着している状況を見極めたからこそ、変を起こしたのだ。しかも、秀吉への援軍として控えている丹波・播磨・摂津の武将たちは、旧来から光秀とは昵懇の仲であったため、交渉次第では全員が、秀吉の援軍どころか、光秀の援軍、つまり秀吉の敵になりうる立場にあったのだ。

実際、大返しを行った秀吉こそ、毛利からの追撃だけでなく、丹波・播磨・摂津の武将たちからも襲いかかられ、光秀から血祭りに挙げられる最初の武将となるかもしれない状況であった。

彼らが光秀についてしまうと、万が一光秀との合戦に敗れた場合、京から姫路への退路も閉ざされかねない。そう考えると、備中高松城から姫路までは、まず逃げるように駆け込み、ここで丹波・播磨・摂津の武将たちを自分の味方につける方策を早急に立てる必要があったのだ。つまり、大返しの兵員よりも、上記の陣形で先陣を切っていた武将たち(中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰ら)の確保が重要だったのである。

その根拠に、明石を通過してからの1日の行軍距離が30km以下となっている点が挙げられる。これは、先に姫路城で書状をしたためた播磨・摂津の有力武将たちに、迅速な秀吉軍、無傷の秀吉軍、そして忠義の秀吉軍を見せつけ、その後の光秀討伐を有利に進めようという秀吉の思惑があったためと推定されるのだ。

⑤秀吉が髻(もとどり)を切って光秀への復讐心
を見せたのは、尼崎はこの寺町付近と言われる

もちろん、元播磨出身の黒田官兵衛が秀吉の背後で、地元の武将たちを説得していたことも大きな要因である。秀吉も、いくら素早く戻ったとしても、自軍の疲労度を考えれば、待ち構える光秀と対等に戦えるわけがないことは理解していた。しかし、その行動力を見せつける効果がいかに重要であるかを、さすが「人たらし」と称されるだけあって、彼は深く理解していたのだ。

3.山崎の戦い

こうして、摂津・播磨衆を先鋒に従えた秀吉軍と、軍師・斎藤利三を前面に出した明智光秀軍との間で山崎の戦いが始まった。天王山頂上付近から現在の戦場周辺を写したのが写真⑥である。

⑥山崎の戦い古戦場

写真⑥の正面に見える京滋バイパス(名神高速道路の迂回路)の、やや左側でとぐろを巻いているのが大山崎ジャンクションだが、ちょうどこのあたりを中心に明智軍と秀吉の先鋒がにらみ合ったのだ(地図③ご参照)。

長文になったため、山崎の戦いのクライマックスについては次回に描くこととしたい。

ご精読に感謝する。