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火曜日

中国大返し➂ ~「神速」のその先へ!~

前回、豊臣秀吉が備中高松城から姫路城まで驚異的な速さで移動した「中国大返し」の舞台裏について描いた。海路活用説や、播磨・摂津の有力武将たちが明智光秀につくか秀吉につくか迷う中、彼らを牽制するための「神速」戦略があったことを述べた。

そして、今回はいよいよ大返しの最終章、「山崎の戦い」について書きあげた。

さらに、多くの者が疑問に抱く「なぜ毛利軍は追撃しなかったのか」についても、ご先祖様にも登場頂き、考察を進めてみた。御笑覧頂きたい。

1.山崎の戦い

①再掲:山崎の戦いの配陣図
(天王山山頂・旗立松展望台看板より)

戦端は6月13日の午後4時、図①に示された右上の池田恒興が、中央で明智軍と対峙する高山右近の右翼に布陣しようとしたその時、開かれた。明智軍には、秀吉軍の陣形が整う前に決着をつけたい焦りがあったのかもしれない。

②斎藤利三
(Wikipediaより)
しかも、秀吉軍の最前線を担う中川・高山・池田らは、元々光秀派であった者たちであり、中国大返しには参加していない、疲れを知らぬ精鋭部隊であった。光秀側には、これらを迎え撃つ焦り、そして怒りが同時に渦巻いていたのだろう。

光秀の軍師・斎藤利三(絵②参照)もまた、高山右近に襲いかかり、一時的に高山右近ら秀吉の前線部隊は押され気味であった。

そもそも、「ここが受験の天王山」という言葉の比喩は、図①にある淀川系の3河川(木津川、宇治川、桂川)と天王山に挟まれた隘路を抜けた先に広がる、わずかに開けた土地が戦局を大きく左右するという状況からきている。この開けた地に先に陣取った方が圧倒的に有利となるため、明智光秀は筒井順慶を待っていた洞ヶ峠(写真③)から、秀吉は6km離れた富田から駆けつけ、どちらが先に有利な陣地を確保できるかを競ったことに由来する言葉なのだ。
③洞ヶ峠(天王山からの遠望)
※ここ天王山と洞ヶ峠の間には、奥から
木津川、宇治川、桂川の3本が走っており、
隘路になっているのが分かる

2.洞ヶ峠と池田恒興の奇襲

ちなみに洞ヶ峠といえば、光秀から加勢を要請された筒井順慶が日和見した逸話で有名だ。しかし、その子孫である筒井康隆氏によると、順慶はそもそも洞ヶ峠には来ていなかったらしい。洞ヶ峠で伊賀上野城にいる筒井順慶を待っていたのは、光秀であったのだ。

この山崎の戦いで活躍するのが池田恒興だ。図①でも、彼の軍だけが右奥(北東)に入り込んでいるのが分かるだろう。恒興は高山右近の右翼に並ぶのを止め、大きく迂回して明智光秀の左翼に位置する津田与三郎を攻め立て始めたのだ。

さすが勇猛果敢で鳴る池田恒興が攻め寄せると、津田与三郎はたちまち押され始めた。それを救援しようとした斎藤利三が、今度は高山右近らに押され、結局、明智軍は津田・斎藤らが守る左翼側から崩壊した。

そもそも、対峙する前から明智軍の方が寡兵であった。光秀らは秀吉軍を洞ヶ峠と淀川系3河川に挟まれた隘路から広い場所に出させず、逐次撃破を目指していた。しかし、池田恒興が広い場所に出、明智軍の左側(東側)に回り込めてしまった時点で、光秀は敗北を強く意識したことだろう。

戦いはわずか3時間で秀吉軍の勝利が確定した。

3.不可解な光秀の最期

寡兵の明智軍が唯一勝つための作戦は、隘路での逐次撃退であった。しかし、池田恒興ら摂津・播磨衆が、その隘路を突破し広い場所へ出る作戦を完遂したため、明智軍のこの目論見は水泡に帰した。夕方4時に始まった戦からわずか3時間。周囲が闇に包まれる中、光秀らは後方にある勝龍寺城へとばらばらと退却した(写真④)。
④勝龍寺城

勝龍寺城は、明智光秀の娘たま(細川ガラシャ)が嫁いだ城として有名だが、元々寺を改造した平城であり、防衛能力は低かった。とても秀吉軍の追撃に耐えられないと判断した光秀は、自身の領国である丹波亀山城か、近江の坂本城のどちらかに落ち延びることを決めた。繰り返すが、本能寺の変前の光秀は、京の首根っこを東西から抑える位置に領国を持っていたのだ。これは信長からの信頼の厚さを象徴するものであった。

ここで興味深いのは、丹波亀山城と坂本城を直線距離で比較すると、丹波亀山城の方が勝龍寺城に近いことだ(写真⑤)。
⑤丹波亀山城

もちろん、光秀は本能寺の変後、織田信長の領国を引き継ぐ形で「近畿管領」的な立場を目指していた。その構想の中核をなすのが近江国であり、その本拠地である坂本城は、光秀にとって最後の望みを託せる場所であった。嫡男・明智秀満がいたことや、安土城との連携、交通網の発達度合い等も総合的に考えると、誰しも再起のために坂本城を選択した光秀の判断は自然に感じるだろう。

しかし、落ち延びる光秀一行は、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りをしていた農民に遭遇する。そして、竹藪から現れた農民に、竹やりで脇腹をブスッと刺されたのだ(写真⑥)。
⑥明智藪

歴史に「もしも」はないが、もしこの時、丹波亀山城を目指し、農民の不意打ちに遭わずに逃げ延びていたとしたら、どうなっていたのだろうか。それこそ西の丹波亀山城に光秀、東の坂本城に秀満が呼応して……。いや、それでも光秀に勝ち目はなかったように思える。

農民らを撃退し、山科を坂本方面へと馬を進める光秀だが、しばらく行ったところで落馬する。脇腹の刺し傷はかなり深く、光秀はここで諦め自刃した。介錯を頼んだ側近には、秀吉軍に自分の首を取られないよう地中深く埋めるよう指示したという。

ところが、光秀の首に関しては、実は様々な伝承が存在する。側近もその後自害したため、地中のどこにあるのか分からないという説。竹藪から光秀の脇腹を刺した農民の仲間が追跡しており、地中に埋めるところを見ていたため、掘り返して織田信孝に届けられた、いや秀吉の手に渡ったという説。これもまた諸説紛々としている。

⑦不意を突かれる明智光秀
(作画AI)
この辺りが曖昧であることも相まって、光秀存命説まで飛び出している。大河ドラマでは、格好良く丹波に馬で駆け、自由に生きる光秀が描かれたこともある。あるいは天海上人となったという説など、こちらも諸説紛々だ。

そもそも、光秀の脇腹に槍を刺した農民は、なぜ光秀がここを通ることを知っていたのか。また、首を掘り起こしたのも農民なのか。そんな都合よく名もなき農民が立ち回ったのか。その証拠はあるのか。光秀が逃げ延びるためにでっち上げた話ではないか、といった疑問も呈される。

このように、不可解な部分が多い光秀の死ではある。ただ、「三日天下」と言われた光秀の天下が、6月2日から同月13日までの11日間であったという事実だけは確かなようだ。

4.何故、毛利軍は秀吉を追撃しなかったのか?

さて、この中国大返しの話の最後に、手前味噌ながら私のご先祖様の逸話も交えたい。

私も高校生になって知ったのだが、我がご先祖・玉木吉保(たまきよしやす)は毛利家の家臣であった。玉木吉保が記した『身自鏡(みのかがみ)』という日記は、当時の中流武士の生活を克明に伝える貴重な史料だ。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に対する罵詈雑言など、思わず膝を打ちたくなるような(?)記録もあるらしい。

最近、安部龍太郎氏のブログを読んでいたところ、ふと三重大の藤田達夫氏の論文が紹介されているのに目が留まった。それは、玉木吉保の『身自鏡』の中の、中国大返しに関する記述に対する考察であった。

それによると、玉木は秀吉と安国寺恵瓊が備中・高松城攻めで講和交渉をした時のことを記しているという。秀吉は、多くの毛利重臣たちを既に離反させ、その連判状を証拠として提示したとのことだ。さらに、「毛利(輝元)殿御謀言不浅(おはかりごとあさからざる)故に信長既に果給ふ」と、本能寺の変を裏で操ったのは毛利輝元であることまで知っていると告げたという。

ここまでが玉木の記述らしいのだが、安部龍太郎氏は、この秀吉の「毛利が黒幕」という情報源は、黒田官兵衛からだろうと推測している。また、毛利の御謀言とは、副将軍に任じられていた輝元が、将軍・足利義昭と長宗我部元親を動かし、光秀と接近させ、本能寺の変を起こさせたことを指す、と述べている。

そして、この文章の解釈を、三重大の藤田達夫氏は以下のように論じているのだ。

「ここまで重臣を取り込まれた上に、内情を見透かされていては、とても動けない。毛利はそう判断した」

⑧秀吉軍に追いすがる毛利軍5万
(作画AI)
つまり、これが中国大返しで東へ奔走する秀吉軍を毛利軍が追いかけなかった理由だというのだ。どうだろうか?素人の邪推で恐縮だが、本能寺の変のお膳立てをしたのが毛利であるならば、むしろ全力で秀吉軍を追いかけ、決戦に持ち込み、光秀をバックアップするのが筋ではないか。そもそも謀略で超大物・信長を殺せるほどの胆力を持った漢・輝元であるならば、本当にそれほど多くの重臣が背くほど、求心力が低下するだろうか。仮にそうだとしても、高松城主・清水宗治のような、己の命を捧げた部下を見殺しにして、平静でいられただろうか。

やはり私は、この3シリーズの最初の記事で述べた『浅野家文書』にあるように、5万の毛利軍というのは功績を大きく見せようとする秀吉の誇張ではないか。実際には1万ほどしか毛利は動員できておらず、追いすがっても秀吉軍に勝てる見込みが毛利側になかっただけなのではないかと考えている。

私のご先祖の日記が、このような歴史の論争ネタを提供すること自体は、大変名誉である。しかし、その解釈について、一意に「だから毛利は動けなかった」とするには論理的な飛躍があるように感じるのは、私だけだろうか。

5.おわりに

以上で、私の中国大返しに関する調査を終える。

私自身が実際に見て回った備中高松城、沼城、姫路城、尼崎、山崎の天王山登頂、洞ヶ峠など、定番の地を巡れたことは大きな収穫であった。しかし、それ以上に驚いたのは、近年、この中国大返しに関する検証や論考の数の多さだ。どこまでが真実なのだろうか。

考えようによっては、高々500年弱前の話に過ぎない。にもかかわらず、これほど多くの説が飛び交うこと自体が、多くの日本人の興味とロマンを掻き立てる出来事であったという、ただこの一事実だけで十分なのかもしれない。

明智藪のすぐ横の畑で、のんびり煙草をくゆらせていたおじさんを見て、この方が光秀の脇腹を槍で突いた農民の子孫かもしれないし、関係ないかもしれない、などとまた妄想を膨らませていた私が、ふと次の瞬間に捉えたことは、この歴史の奥深さであった。

ご精読に感謝する。


【天王山・旗立松展望台】〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎

【洞ヶ峠】〒573-1131 大阪府枚方市高野道2丁目23−20

【勝龍寺城】〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13−1
【小栗栖(おぐるす)の明智藪】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町




木曜日

中国大返し② ~何故そんなに急いだのか~

前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。

①中国大返し日付と移動距離等

1.大返しにおける海路活用説

大返しは、約230kmの行程をわずかな期間で踏破し、3万もの大軍を率いて戦闘にまで及んだ作戦である。この成功の鍵として、近年、海路の活用が注目されている。本能寺の変からわずか2日後には大返しが開始されていることを考えると、急遽、大返しのために海路を準備したとは考えにくい。

この問題の解決策として、皮肉にも、もはや訪れることのない信長のために秀吉が準備した御座所が活用されたのではないか、という説が浮上している。

以前の論考でも述べたように、秀吉は信長に出陣を促した。これは、自身の力では中国攻めが限界であるため主君・信長を頼る姿勢を見せつつ、実際には水攻めなど、中国攻めでの自身の活躍を信長に見せつけることが目的であったと考えられる。そうであれば、備中高松城までの道中に信長の御座所(貴人が宿泊・休憩する場所)を準備する配慮を秀吉が怠るはずがない。

当然、御座所を準備するのであれば、その間の移動手段も抜かりなく準備するはずである。前回の論考でも触れたが、当時、毛利氏は村上水軍による瀬戸内海の制海権掌握に努めていた。しかし、当時の秀吉は、村上水軍の一部である来島水軍を味方につけ、また児島水軍なども配下に加えており、毛利水軍に対抗できるだけの水軍力を有していたことが明らかになっている。

とすれば、御座所間の信長の移動に船を用いることを考えても不自然ではない。かつて平家の都として栄えた福原に位置する大輪田泊(写真②)には、戦国時代に兵庫城が存在した。そして、この兵庫城こそ、本能寺の変がなければ信長の御座所として準備されていた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっているのである。

②ここ大輪田泊には、戦国時代に兵庫城が存在
(現在のイオンモール辺り)

神戸港の原型である大輪田泊が御座所の目の前にある以上、この湊から出航し、西へ向かう信長という構想は不自然ではない。支援の大軍は明智光秀に任せており、そちらは山陰道を西へ進む。しかし、信長自身は本能寺に同行した少数の供のみと移動するのであれば、御座所船を海路で岡山城(旭川を遡上)や沼城(吉井川を遡上)といった宇喜多氏の領地へ向かわせることは十分にあり得る。

しかしながら、結局のところ、これら全ての計画は本能寺の変によって実現することなく終わったため、どのような詳細な計画であったのかは残されていない。そもそも信長本隊の移動計画は、本能寺宿泊を含め、信長軍の第一級軍事機密であったと考えられる。ゆえに、明智光秀や秀吉など、ごく一部の限られた将兵しか知り得ない事実であり、当然ながら史料なども残るはずがないのだ。

秀吉は、この極秘の御座所ルートを、大返しという京都への帰路に活用したのだろう。地図①は中国大返しのルートを示しているが、前回述べた沼城から姫路城の間は約70kmある。

ちなみに、この区間を1〜2日間で移動することは、途中の船坂峠の急峻さ、またこの時期が梅雨で道がぬかるんでいたことを考慮すると、非常に困難な行程となる。

そこで、沼城のやや東側を流れる吉井川沿いの長船、あるいはさらに東に位置する備前・片上から、赤穂付近までは海路が用いられたのではないかという説が浮上している。もちろん、急ごしらえで3万もの軍勢を船で運ぶことは不可能である。しかし、秀吉をはじめとする一部の主要メンバーだけでも、早期に秀吉の本拠地である姫路城近くまで運搬されたのだろうというのが、この説の主旨である。

2.秀吉の「神速」と戦略

では、なぜ秀吉は、3万の軍が追いつかないほどの勢いで、単身でも帰路を急いだのだろうか。この疑問は、山崎の戦いの布陣図を見ると氷解するだろう。図③をご覧いただきたい。これは、天王山山頂付近から見える各軍の陣立てに基づき解説した看板の抜粋である。

③天王山山頂付近(旗立松展望台)の看板に
ある山崎の戦いの配陣図

秀吉の本陣は、この看板のある天王山付近(図③の現在地)であった。しかし、秀吉軍全体は戦列が非常に長く、この陣配置の時でさえ、最後尾は30kmも離れた西宮に位置していたという。息を切らしながら天王山を登り、この看板を目にした筆者は、まさに「なるほど!」と膝を打ったのである。

黒田官兵衛(地図では黒田孝高)と羽柴秀長は、筆者が懸命に登ってきた天王山の中腹あたりに陣を敷いており、やや奥まった位置にいた。しかし、秀吉軍の最前列で今にも襲いかかろうとしていたのは、中川清秀(茨木市)、高山右近(高槻市)、池田恒興(伊丹市)といった摂津の大武将たち、そして加藤光泰(三木市)という播磨の武将であった。これらの山崎の戦いで最前線にいた武将たちは、中国攻めに参戦する予定で準備を進めていた最中に本能寺の変が起きたため、出陣を一時保留し、明智光秀側につくか、あるいは当初の予定通り秀吉側につくか、状況を冷静に分析しながら熟慮を重ねていたと考えられる。

であるならば、秀吉はまず、播磨・摂津の武将たちに、鬼神のごとき迅速性と勢いを見せつける必要があった。光秀が彼らや京周辺の武将らを自陣に取り込み勢力を拡大する前に叩くためには、合戦は早ければ早いほど良いという判断があったのだろう。そのため、備中から速く京へ引き返すことが作戦の基本であった。しかし、単に速いだけでなく、「鬼神」のごとき神がかった速さが必要であった。これが光秀の勢力拡大を阻止し、周囲を巻き込み天下人となる「勢い」となるのだ。

まず6月6日に備前沼城を出発した秀吉は、海路も活用し、他の兵に先駆けて70kmも離れた姫路城へ早々に到着した。ここで、上記の摂津・播磨の武将たちに檄を飛ばす書状をしたためたのである。信長や信忠は生存しているという偽情報を流したという説もある。

④姫路城

なぜ、沼城から姫路城までこれほど急いだのか。沼城までは、信長の変死を知った毛利軍が猛烈に追撃してくる状況を想定し、秀吉は緊張していた。しかし、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から献上された姫路城まで一気に逃げ切れば、ひとまず安心できたのだ。毛利の脅威はほぼなくなり、次なる大敵である明智光秀に対する様々な策略に没頭できるというわけである。

光秀もまた賢い武将であった。柴田勝家が越中・能登の北陸戦線(対上杉氏)に、滝川一益が後北条氏の上州討入り計画への対応に追われ、もちろん秀吉も中国戦線で膠着している状況を見極めたからこそ、変を起こしたのだ。しかも、秀吉への援軍として控えている丹波・播磨・摂津の武将たちは、旧来から光秀とは昵懇の仲であったため、交渉次第では全員が、秀吉の援軍どころか、光秀の援軍、つまり秀吉の敵になりうる立場にあったのだ。

実際、大返しを行った秀吉こそ、毛利からの追撃だけでなく、丹波・播磨・摂津の武将たちからも襲いかかられ、光秀から血祭りに挙げられる最初の武将となるかもしれない状況であった。

彼らが光秀についてしまうと、万が一光秀との合戦に敗れた場合、京から姫路への退路も閉ざされかねない。そう考えると、備中高松城から姫路までは、まず逃げるように駆け込み、ここで丹波・播磨・摂津の武将たちを自分の味方につける方策を早急に立てる必要があったのだ。つまり、大返しの兵員よりも、上記の陣形で先陣を切っていた武将たち(中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰ら)の確保が重要だったのである。

その根拠に、明石を通過してからの1日の行軍距離が30km以下となっている点が挙げられる。これは、先に姫路城で書状をしたためた播磨・摂津の有力武将たちに、迅速な秀吉軍、無傷の秀吉軍、そして忠義の秀吉軍を見せつけ、その後の光秀討伐を有利に進めようという秀吉の思惑があったためと推定されるのだ。

⑤秀吉が髻(もとどり)を切って光秀への復讐心
を見せたのは、尼崎はこの寺町付近と言われる

もちろん、元播磨出身の黒田官兵衛が秀吉の背後で、地元の武将たちを説得していたことも大きな要因である。秀吉も、いくら素早く戻ったとしても、自軍の疲労度を考えれば、待ち構える光秀と対等に戦えるわけがないことは理解していた。しかし、その行動力を見せつける効果がいかに重要であるかを、さすが「人たらし」と称されるだけあって、彼は深く理解していたのだ。

3.山崎の戦い

こうして、摂津・播磨衆を先鋒に従えた秀吉軍と、軍師・斎藤利三を前面に出した明智光秀軍との間で山崎の戦いが始まった。天王山頂上付近から現在の戦場周辺を写したのが写真⑥である。

⑥山崎の戦い古戦場

写真⑥の正面に見える京滋バイパス(名神高速道路の迂回路)の、やや左側でとぐろを巻いているのが大山崎ジャンクションだが、ちょうどこのあたりを中心に明智軍と秀吉の先鋒がにらみ合ったのだ(地図③ご参照)。

長文になったため、山崎の戦いのクライマックスについては次回に描くこととしたい。

ご精読に感謝する。


水曜日

中国大返し① ~宇喜多家の活躍~

「おお、見えてきた!」

中国自動車道の岡山総社ICを降り、東へ少し戻る感じで3km弱。大きな鳥居をくぐると、その先に平らな公園が見えてきた。

備中高松城(写真①)

そう秀吉が、黒田 孝高(くろだ よしたか、黒田官兵衛とも。以降は黒田官兵衛と記す)の発案した大作戦・水攻めを採用し、落としたことで有名。

また、この城を取り囲んでいる最中に、本能寺の変が起き、中国大返しが起きた起点の場所としても良く知られている。

今回、秀吉の運命と日本の歴史の転換点であるこの場所に立つことにより、少しでもその時の彼の気分を味わうと同時に、この水攻めの影の立役者である宇喜多一族についても思いを巡らしたく、史跡巡りに来たという訳である。

①備中・高松城
※中国大返しの起点

1.宇喜多家の命運をかけた戦・備中高松城攻め

ご存じのように本能寺の変は、羽柴秀吉の中国・毛利攻めの最中に起きた。

しかも、秀吉からの要請により、信長は西行しようとした矢先に起きたのはご存じの通り

この毛利攻めから、本能寺の変の弔い合戦にとんぼ返りをする秀吉軍の軍略に至るまで黒田官兵衛の策によるところが大きいのは周知の史実ではあるが、この毛利攻めに関しては、地元・宇喜多の活躍もまた大きい。(写真②:沼城の写真)

②沼城(備前亀山城)
※宇喜多の城で大返し時に
一旦ここで毛利の動向を伺う

この宇喜多の視点から、備中・高松水攻め~中国大返しの背景を考えてみた。

(1)毛利を見限った宇喜多

宇喜多の台頭について書くと、本ブログでも軽く1,2シリーズできてしまうので、今回はあまりルーツには立ち入らない。

③宇喜多直家の木像
※Wikipediaより

宇喜多直家(なおいえ:絵➂)は、主君であった浦上氏を下剋上するチャンスを狙っていた。この備前・浦上氏、良くあることだが、隣国(備中、毛利)とは対立関係。ということは、毛利は宇喜多にとって敵(浦上氏)の敵(毛利)となる。

「敵の敵は味方」との諺通り、宇喜多直家は毛利と手を組み、浦上氏と敵対。その後、経緯は複雑だが、結果的に宇喜多は浦上氏を備前から追放、名実ともに備前のNo.1となることに成功する。

これが成功すると、もはや毛利と手を組んでいるのも是々非々となる。信長の命を受けた秀吉が中国方面へ侵攻してくると、さっさと毛利を見限り、秀吉を介して信長陣営へ。

信長陣営への鞍替えが早かった理由の1つは、宇喜多の備前の東隣り、摂津・播磨の荒木村重(あらきむらしげ)が信長に逆らい、毛利をあてにしたことが大いに災いしたという事態を良く見ていたからと思われる。(絵④)

④荒木村重(歌川国芳)
※Wikipediaより
口に咥えているのは、信長に無理やり
押し込まれた餅

村重は毛利を頼りに、信長陣営に反抗したが、全く毛利が動かなかった。毛利からの援軍を首を長くして待つ村重。その間、家臣やその家族も、信長軍によって数百人が火炙り、自分の妻も京で断首という悲惨な運命を辿った。これ程陰惨な事態を迎えても村重は決して信長に降参せず、動かない毛利を当てにし、家臣の求心力をすべて失った。最後は村重失踪という最悪の事態を迎えるのである。

これを見ていれば、「毛利も焼きが回ったか、何故村重を見殺しにしたのか」と直家が思うのも無理はない。

だが、長年毛利側に付き、信長と対峙していた直家は、当初、信長から家臣になることを拒否された。信長からすれば、主家であった浦上氏を裏切り、次に毛利を裏切った宇喜多直家を信用できないと考えたのだろう。秀吉が間を取り持ち、以後宇喜多家は秀吉、いや豊臣家に忠誠を尽くすのである。

(2)八浜合戦

秀吉が中国攻めに自ら出撃しなければ!と考えさせたのが、宇喜多と毛利の大衝突が起きた八浜合戦である。(地図⑤)

⑤八浜合戦の地理的位置等
※出典:ブログ「今日は何の日?徒然日記」図を加工

結論から言えば、この合戦で宇喜多は毛利に大敗北を喫した。

強力なリーダシップを発揮していた宇喜多直家が岡山城で病死しており、本家を継いだ秀家はまだ若干10歳。なので親族からのサポートが必要であり、その一番手が宇喜多忠家(直家の異母弟)であった。

毛利は、宇喜多直家が死去したことを知ると、手を組んでいる村上水軍を岡山沖へ出させ、宇喜多の目と鼻の先である瀬戸内海地域の制海権を掌握。

1582年(天正十年)2月、毛利軍が八浜城辺りに進軍。

ある朝、馬草刈をしていた数名の宇喜多兵に対して、毛利兵数名が追い払いに出たところ、宇喜多軍が援護の兵を出し、毛利も出し始め、お互いエスカレートして、大きな戦に発展した。毛利側は村上水軍も投入。九鬼水軍の鉄船に敗れたとは言え、第一次木津川口の戦いにおける活躍ぶりを考えれば、村上水軍の強さに宇喜多は対抗できない。秀家の名代である宇喜多基家が戦死するという大敗を喫した。

この八浜合戦における宇喜多の大敗は秀吉に即伝えられ、中国攻めで、秀吉自身が主体的に備中方面へ動かねばと考えた決定的要因となった。

(3)秀吉の備中進行

1582年(天正十年)3月、秀吉は姫路城を出発し、備中へ3万の兵を従え、進軍を開始する。中旬ごろに、宇喜多の沼城(写真②)へ入城。16日間滞在して、毛利の防衛ラインの動向を探った。

当時、宇喜多の備前と毛利の備中の境には7つの毛利軍の城があり、毛利軍はこれを防衛ラインとしていた。(図⑥)

⑥毛利軍の防衛ライン「境目七城」

この七城周辺で小競合いが多発。既にこの時、北側の2城(宮路山城、冠山城)を秀吉軍は攻略済みであり、また加茂城も秀吉側に寝返っていた。そして水攻めで有名な備中・高松城攻めが開始される。

(4)備中・高松城攻め

備中・高松城の周囲は低湿地となっており、足守川が氾濫すると冠水してしまうような平城だった。(写真⑦)

⑦足守川氾濫時(1985年6月)の高松城址水没写真(上)
※下は比較のため14年後の通常時に撮影した高松城址

この城に対しては水攻めとの黒田官兵衛の策を採用した秀吉。早速、
城の周囲に堰を築く突貫工事を行い、約3kmにも及ぶ堤防を12日間で完成。

5月に入り、梅雨時でもあったため、すぐに堰止めの効果が現れ、写真⑦のような水没状態。食料搬入が困難となり、城の守備兵5,000の士気は低下した。

布陣の図を見ると、高松城・清水宗治の正面は宇喜多勢である。(地図⑧)この高松城攻めは、清水宗治と隣国・宇喜多との戦が主であるとしたのは、勿論、宇喜多が土地に明るいということもあるが、八浜合戦での敗北の汚名を雪ぐという意味もあるのだろう。

⑧高松城水攻め布陣図
※蛙ヶ鼻築堤跡看板から

2.本能寺の変

秀吉の巧みなところは、このまま黙っていても落ちる高松城であるにも関わらず、信長に「御出馬願わないと、サルのみでは手に負えません。」と、信長を立てることを忘れないところだろう。

勿論、高松城の援軍に出てきた小早川隆景、吉川元春を合わせた毛利軍は5万。(地図⑧の右下側)

一方の秀吉軍は3万。

⑨高松城水攻め時の秀吉本陣からの眺望
ちょうど正面の寺院のような辺りが高松城辺り

この毛利本隊との決戦ともなれば、やはり信長御大将が必要となるのは、兵数増のためだけではない。信長公お呼出方式であった長篠合戦(呼び出したのは家康だが)とも似ている。それらを想定して、信長への出馬を促したのだろう。そこで、信長も坂本と丹波に軍拠点を置く明智光秀の軍勢も伴って、秀吉の陣中へ駆けつけるという行動に移ったと思われる。

ただ、安芸の毛利拠点から支援に来た吉川・小早川軍は高松城の南西に布陣(図⑧参照)。ところが既に水没している高松城、軍事行動をするには遅すぎた。

また、実は5万という兵数は秀吉が実績を大きくするために誇張して言っているのであって(『浅野家文書』)、実際には1万くらいしか出兵していなかった可能性も指摘されている。

ともあれ、毛利軍は動かず(動けず)、結局、清水宗治切腹で和睦が成り立つまでたった17日間。勿論、信長出馬か?の情報または噂等が毛利軍に伝わっていて、常勝信長が来る前にケリを付けて安芸に帰らんとマズいという雰囲気はあったのだろう。

しかし、信長に出馬を願ったのは、吉川・小早川軍と対決することになるという危機感からというよりは、まずは信長を立てて、気分良くさせ、更には稀代の水攻めによる圧倒的勝利を信長に見せたかったのではないだろうか。

一番、辛いのはそれに乗せられた明智光秀である。この当時の光秀は信長の信がかなり篤い。それは東西、坂本と丹波という2つの京を挟んだ重要な地を与えられていることからも窺い知れる。家康の饗応役としてNGだったからとか、金柑頭を欄干にたたきつけられたとか、色々と庶民的な感情伝承はあるようだが、それら全て信長の愛情の裏返し表現に尾ひれ葉ひれが付いた話ではないかと私は思う。

しかし、家康の饗応役を外し、信長と一緒に中国攻めに行かせようとしたときの「中国取り放題、ただし旧領2つ(近江志賀郡と丹波国)は没収」という冗談(?)は、ちょっと行き過ぎたのかもしれない。まあ、この説すら確たる証拠はなく、下の細川藤孝へ宛てた信長文書を見る限り、光秀には相当の信頼を置いていることが分かることから、やはりこれは俗説ではないだろうか。(手紙⑩)

⑩「本能寺の変」直前の織田信長朱印状

《⑩の朱印状訳》

中国地方への進出は来年の秋を予定していたが、この度、備前の児島で敗北した小早川隆景(※1)備中高山城(※2)籠城。羽柴藤吉郎(秀吉)の軍が包囲しているとの注進があった。
指示次第で出陣できるよう用意せよ。油断せずに用意しておくように。詳細は惟任日向守(明智光秀)に申し伝える。

4月24日 信長

※1:児島(八浜合戦)で敗北したのは、先に述べた通り宇喜多であり、小早川ではない。
※2:備中高山城は誤情報、高松城。更に籠城したのは小早川ではなく、清水宗治ら。


上記※1,2のように、この時代、正確なFACTを把握するのが難しい状況だったことがこの手紙から分かるのも面白い。着目すべきは、この手紙、4月24日に書かれたものであるということと私は考える。本能寺の変が起きたのは6月2日であるから、1か月以上前にこの手紙を出したことになる。つまり中国攻めについては、1か月以上も前から光秀と談義し、光秀も認識があったということだ。となると、家康の饗応対応に腹を立てたとか、急に旧領を召し上げて中国切取れとかは、やはり後世の創作ということにはならないか。

本能寺の変について書き始めるときりがないので、とりあえずこの辺りまでの言及に留め、中国大返しの続きを書きたいと思う。

兎に角、本能寺の変は起きた。

3.大返し開始

何度か光秀から毛利へ向けた使者は出されたらしいが、すべからく秀吉のところで、それらの使者は捕まり、また秀吉自体も自軍へ全く知らせることなく隠蔽したため、毛利は、城主・清水宗治切腹による備中・高松城落城後にそれを知ったというのが通説である。

ただ、ここで不思議なのは、何も毛利軍は、吉川・小早川軍だけではない。この山陽道沿いに使者を走らせなくても、知らせるルートは複数あるはず。毛利側がこれを知ったのは、石山本願寺戦で共に戦った紀州の雑賀衆からで6月5日のことである。

勿論、光秀も本能寺の変を起こしたのが6月2日、そこから2,3日の間に毛利もこの変を知れば、秀吉を釘付けにすることはできるだろうとの甘い見積が最大の失敗だった。そもそも上記⑩の文書上の情報混乱状況を見れば、光秀といえども、水攻めで4日に城主・清水宗治が切腹という情報を正確に知る由もなかったかもしれない。

なので3日目の6月5日に毛利が知ったのは光秀の予想範囲内だったかもしれない。

ただ、この予測が甘かった。いや、これが当時の情報伝搬の常識だとすれば、秀吉はそれを知っていたからこそ、裏をかいて、中国大返しで、いわゆる超「速攻」に拘ったのかもしれない。

いずれにせよ、既にこの時、秀吉は備前・沼城まで走り抜けていた。(写真⑪)

⑪沼城本丸跡
宇喜多秀家の旗印「兒」が沢山立ててある
ちなみに
「兒」は手紙⑩の文中にある児島の
「児」の原字である。

一応、ここで秀吉は、毛利の追撃のあるやなしやを確認するために、少々停滞する。

一説には高松城を水没させた梅雨は、前線を伴って激しく吹き荒れたため、この城の東側を流れる大河・吉井川が氾濫していたために足を止めざるを得なかったというものもある。

秀吉は天を恨みながら、この城に足を止めたというが、毛利の追撃の有無を確認した説より筋は通っているような気がする。追撃があったところで、沼城で迎撃するくらいなら、もっと規模の大きな岡山城の方が堅固であるし、またこの後、一昼夜で辿り着く姫路城は秀吉軍の本拠なのだから、なぜこの城でぐずぐずする必要があるのだろうか?と思う。

ということで、6月8日晴天を以てして、大返し再開。

19里(76㎞)をわずか1昼夜で駆け抜け姫路城へ到着。

姫路城で秀吉は大判振る舞いを、大返し参加のメンバーにするらしいが、この後の大返しと山崎の戦いは、長くなったので、次回に描きたいと思う。

精読感謝。

【備中・高松城】〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2
【秀吉本陣跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【蛙が鼻築堤跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【沼城(備前亀山城)】〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801
【八浜城】〒706-0221 岡山県玉野市八浜町八浜1062
【岡山城】〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1

    火曜日

    南総里見発見伝② ~公方と鎌倉公方~

     前回は北関東を発祥の地とする里見氏が、結城合戦敗戦により、房総半島へ逃避するまでを描きました。

    今回は、戦国時代の引き金を引いたとされる、この混乱を引き起こした鎌倉公方(関東公方)とその変遷についてみていきたいと思います。

    1.鎌倉殿こと鎌倉公方
    鎌倉時代に武家の政権が鎌倉に発足しました。しかし、それから約140年後、建武の新政があったことや、南北朝の対立等、鎌倉から京へ政治の中心は移ります。

    ただ、鎌倉はやはり武士の聖地、特に坂東武者を中心とする東日本の武士たちは、野放しにすれば大変なことになります。

    実際、鎌倉幕府最後の北条得宗家・高時の遺児が鎌倉を奪還し、鎌倉幕府再興を企てる「中先代の乱」が起こっています。(写真①)

    中先代の乱」で北条時行と足利直義がぶつかった
    「井出の沢」古戦場(町田市)
    ※わずか10歳の時行が、この戦で勝利。直義は鎌倉を退散

    当時は、足利尊氏の弟・直義(ただよし)が鎌倉府を守っておりましたが撤退。その後も足利尊氏・直義らが京と鎌倉を何度も往復せざるを得ない程、鎌倉は武家を統治するのに重要な地点だったわけです。

    尊氏は、幼少期より鎌倉で育った嫡男・足利義詮(よしあきら)に統治を任せていた時期もあったのですが、義詮は尊氏を次いで京で将軍職を拝命します。そこで鎌倉のトップとなった初代は足利基氏(もとうじ)。尊氏の四男です。(絵②)

    ②足利基氏

    もともと鎌倉公方という呼び方は当時はありません。鎌倉公方自体が正式な役職ではなく、前述のように武家を統治するのに重要な鎌倉に、京の将軍こと公方の代行としてなんとなく存在したからです。
    なので当時、室町時代であっても鎌倉時代と同様に「鎌倉殿」と呼ばれていたようです。(ここでは便宜上、鎌倉公方という後世に付けられた名称で通します。)

    問題はこの後です。鎌倉公方は、京から公方が決定した足利血縁者を鎌倉へ送り出す方式を採用していれば大きな問題は発生しなかったかもしれません。しかし実態は違い、関東公方は足利基氏以降、世襲制を踏襲することになるのです。
    ③足利基氏館跡(埼玉)
    ※基氏という方は初代鎌倉公方とは言っても
    鎌倉で安穏と生活していた訳ではなく、関東のあちこち
    で発生する乱を鎮圧するために転々としていました。
    こちらの館跡も「岩殿山合戦」的に本陣としていた場所です。

    ④入間川御所

    ※足利基氏は「入間川殿」と呼ばれるくらい、

    この場所に「入間川御所」を開設し、長期に南朝方と交戦していたことでも有名です。


    2.公方と鎌倉公方の対立
    やはり土地への執着が強烈な坂東にあっては、そんな一時の任官地方長官のようなトップでは収められない程、坂東武者らを統率するのは難しかったのでしょう。そしてそれ程大変であれば、時として公方より鎌倉公方の方が傑出した人物が出ることもあり、公方と関東公方の仲が悪くなり始めるのも不自然ではないですね。

    鎌倉で武家のガバナンスがしっかりできる人物は、京で公家相手の「まつりごとごっこ」をやっている公方よりも人物的に優れている。なぞ坂東武者らが言い出し、鎌倉公方を担ぎ上げて、京にでも攻め上ってきたら大変です。なので公方はなるだけ鎌倉公方の力を削いでおきたいわけです。ところが鎌倉公方は鎌倉公方で、関東を抑えるのに懸命なわけで、現場を知らない京の公方が「鎌倉公方の力を削ぐ」等と言い出したら、「大変困る」訳です。

    ま、ロケーションが離れているからええやん。と思うのですが、そうは問屋が卸しません。

    3.鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立
    鎌倉公方を、京の公方の立場から抑える人物が必要なのです。

    それを担ったのが、関東管領・上杉家です。元々管領は「執事」的な立場で、公方を補佐する役割を果たします。
    この執事は最初から上杉家だったわけではありません。面白いのは、当初基氏の執事だった畠山国清は、なんやかやで基氏と対立、滅ぼされてしまいます。そして次の次くらいから、上杉家となります。
    この関東管領を任命するのが、京の公方です。

    そう、関東公方の執事は、京の公方側の人物でもある訳なので、鎌倉公方とうまがあうわけがありません。
    鎌倉公方の暴走を抑えながらも、その補佐をする。この微妙なバランスを保ちながら、上杉家は存続しておりました。
    ただ、このバランスは非常に危ういのです。

    そして、この微妙なバランスが崩れ、起こったのが永享10年(1438年)に起こった「永享の乱」。逆に鎌倉公方が出来てから約100年も微妙なバランスを上杉家は良く保ったものだと感心します。

    正確には、この乱の2年前に既に上杉禅秀の乱ということで関東管領である上杉家が鎌倉公方と対立しております。この時は京の公方と鎌倉公方は協働して、この乱を収めているのですが、この困難を越えた後に、この時の4代目の鎌倉公方である足利持氏が唯我独尊に走ります。

    そして鎌倉公方・持氏は、室町幕府の第6代将軍(公方)足利義教(よりのり)と対立。当然、持氏は義教方である管領・上杉憲実(のりざね)とも仲が悪く、武力衝突に至ります。(写真⑤)

    ⑤高安寺(府中市)
    ※持氏は、上野平井城へ逃れた上杉憲実へ近臣の一色直兼に
     軍を与えて差し向け、自身もこの寺に陣を構えました。

    北関東の平井城に居た上杉憲実は京の公方に支援を乞うと、流石は室町幕府、駿河の今川氏や信濃の小笠原氏も動員し、上杉憲実を援護し、持氏と対立します。更には持氏の居ない鎌倉の留守役だったはずの三浦氏も持氏を裏切り、鎌倉を占拠するのです。あっという間に形勢逆転、持氏はピンチに陥ります。

    結局、持氏は室町幕府に恭順を誓い、金沢文庫の称名寺にて出家します。(写真⑥)

    ⑥称名寺(金沢文庫)

    この後、持氏は鎌倉へ移されますが、室町幕府に対して持氏の助命嘆願と、その嫡子の鎌倉公方就任を懇願したのは、なんと敵であった上杉憲実なのです。
    この辺りが、この鎌倉公方と関東管領・上杉氏の妙ですよね。
    しかし、幕府は赦しません。持氏もその嫡子も鎌倉でほろぼしてしまいます。

    4.結城合戦
    足利家4代に渡って続いてきた鎌倉公方の世襲制が宜しくないのではないかと、室町幕府はこの頃やっと気づいたようです。そこで、京の足利家から鎌倉公方の候補を選び、鎌倉へ下向させようとしました。

    ところが、これにまた反発する坂東武者たち。
    「やはり、足利基氏殿からの代々続く鎌倉に根付いた血縁が、我ら坂東武者の棟梁たる鎌倉公方である。」
    と言ったかどうかは定かではないですが、下総の有力者である結城氏朝・持朝親子が、持氏の子・春王・安王・永寿丸を担いで反乱を起こします。(写真⑦⑧
    ⑦結城城址

    ⑧結城合戦記念碑
    ※タイムカプセルの中身が気になりますね

    残念ながら、この乱は鎮圧され、春王・安王は途中美濃で捕まり、斬首となります。
    生き残った永寿王丸が、経緯は複雑ですが、後の第5代鎌倉公方(古河公方)・足利成氏(しげうじ)となります。
    この辺り、鎌倉公方の世襲制を止めようとした室町幕府の意向はどうなったのでしょうね。明確に世襲制が問題と認識されなかったのかもしれません。

    そして成氏は、北関東の龍興寺に父・兄弟の供養塔を建立したのです。(写真⑨)
    ⑨【龍興寺】足利成氏が建てた
    (父)持氏、(兄)春王・安王の供養塔

    さて、このゴタゴタに巻き込まれたのが、安房里見氏のご先祖・里見義実(よしざね)です。

    5.里見氏、房総半島に渡る
    里見一族は元々、新田義貞の一族でした。現在の群馬県高崎市の里見郷で土地の名を名乗った新田一族の流れです。その後、この里見氏は南北朝の動乱等を経て、色々と分散したようですが、鎌倉公方に召し出されて、常陸国に所領を得ていた里見氏が居ました。この里見氏、足利持氏に奉公衆として仕えたのですが、永享の乱、結城合戦で嫡流が断絶。結城合戦で打たれた結城家基の一子・義実は安房国に落ち延び、安房里見氏の開祖となったとされています。

    滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」では、この義実が、逃亡先の安房国で無一文から成り上がる過程で対立した敵将・安西景連との戦いの最中の出来事を書いています。
    愛犬・八房に「安西景連の首を食いちぎって持ってきたら、娘の伏姫をおまえにやろう」
    等と冗談を言ったばかりに、大変面倒なことになったのですね。笑
    ⑩滝田城址

    その義実が八房にその冗談を言ったとされる城が、
    八犬伝の中の設定では写真⑩の滝田城となっています。しかし実際、義実が、この安房国で最初に拠点とした城は稲村城(写真⑪)ではないかとされています。

    まあ、馬琴はあれだけの大作を書いておきながら、1度も安房には行ったことが無いようです。安房はおろか、房総半島にも1歩も入ったことの無い、想像の戯作なので、史実とかけ離れていることは仕方の無い事ですけど。
    ⑪稲村城

    さてこの後、里見氏は「天文の内訌(稲村の変)」等の御家内騒動があり、また史実も良く分からない経緯が続きます。

    後に、小弓公方との関係から里見義弘の代に、房総半島にて大きく勢力を伸ばすのですが、その辺りは後日書きたいと思います。

    ご精読ありがとうございました。



    月曜日

    住吉大社の誕生石 ~薩摩藩・島津家のルーツは頼朝?~

    難波の海の神様である住吉大社。源氏物語でも度々出てくるこの神社は、光源氏や明石の君等の参詣場面でも描かれる雅(みやび)な所ですね。(写真①)

    ①住吉大社正面

    そんな古(いにしえ)より京とも所縁の深い住吉大社ですが、太鼓橋を渡った先に源頼朝と縁の深い伝承場所があります。誕生石です。(写真②)

    ②住吉大社脇にある誕生石
    ※島津の家紋入り提灯が印象的ですね
    薩摩藩・島津家の聖地だからです

    今回は、この史跡にまつわる伝承をお話したいと思います。

    1.頼朝の乳母・比企尼の長女(丹後内侍)

    ちょっと話が複雑になりますが、京で生まれた頼朝の乳母は比企尼(ひきあま)という武蔵国の比企氏の流れを汲む女性でした。(写真③)

    ③比丘尼山
    比企一族の里・埼玉県松山市にあります。
    比企一族が北条一族に滅ぼされた後、
    頼朝の乳母・比企尼が
    若狭局の遺骨を
    抱きながら鎌倉から来て、ここで静かに
    弔いながら暮らしたといわれます。

    比企尼には3人の美人娘がおりました。長女は丹後内侍(たんごないし)と言って、それはそれは比企尼も自慢の美人で教養高い娘でした。母である比企尼の話を良く聞き、常に慎ましやかな性格だったようです。

    2.丹後内侍と頼朝の関係

    ④鎌倉の頼朝の墓(正面)
    丹後内侍は、頼朝が伊豆に流されていた頃からの側近、安達盛長(もりなが)の妻となります。ただし、彼女は初婚ではありません。

    初婚は惟宗広言(これむね の ひろこと)という歌人で、丹後内侍自身も「無双の歌人」と言われた程の方なので、教養高い歌で繋がりを持ったということですね。

    惟宗(島津)忠久という嫡男を産むのですが、広言の子供ではなく、頼朝と通じていたことにより生まれたという伝承があります。この忠久が薩摩・島津家の祖であることから、島津家の始祖は頼朝という伝承が生まれました。

    女性好きの頼朝のことですから、あり得るとは思います。特に薩摩藩は、これを藩の公式見解として、鎌倉にある頼朝のお墓を江戸時代にかなり立派に建て直す程、この説を支持してきました。

    ◆ ◇ ◆ ◇

    鎌倉の頼朝のお墓に来ると、立派な多層塔があります。(写真④)

    おお、流石武士の世を創生した頼朝のお墓だと思うでしょうが、是非、このお墓の裏に廻ってみてください。(写真⑤)

    小さな、五輪塔がこの多層塔の影に隠れて見えますね。実はこちらがオリジナルなのです。

    では多層塔は?というとこちらは薩摩藩が、自分たちの始祖は頼朝であるということで、彼らの崇敬を顕す意味も含めて建てたものなのです。  

    ⑤墓の背面に廻ると小さな五輪塔が

    この程左様に、薩摩藩が頼朝に肩入れできるのかと言う根拠が、この伝承なのです。つまり大阪の住吉大社の誕生石と、鎌倉の頼朝の立派なお墓の提供の話は1つに繋がっています。

    では、何故丹後内侍が、ここ関東から離れた難波の住吉大社で頼朝の子を生んだのかという経緯を伝承に基づき記します。

    3.畠山重忠の対応

    北条政子が関係します。ご存じの通り、政子は、頼朝の愛人・亀の前に対する憎しみの余り、かなり酷いことをしたのは有名ですね。同じように丹後内侍が頼朝の子を懐妊したことが政子にバレると、政子は畠山重忠に内侍を殺すように命じます。

    「御台所様(政子)にも困ったものだ。いや、それ以上に武衛殿(頼朝)が問題か。。。」

    と重忠は、更に家臣の本田次郎親経(ちかつね)に命じて、丹後内侍を由比ガ浜へ誘い出します。由比ガ浜は当時、刑場兼墓場のような、よろしからぬ場所でした。そこに誘い出すこと自体、丹後内侍も何かを感じて、斬首前に上手く逃げてくれないかと重忠は期待したのです。

    ー逃げてしまえば、「由比ガ浜で斬るつもりでした」と言い訳もできるー

    ◆ ◇ ◆ ◇

    後年、畠山重忠の息子・重保(しげやす)は、北条時政の命により、懇意だった稲毛重成に由比ガ浜に呼び出され、待ち構えていた三浦義村に刺殺されています。その数時間後に重忠も二俣川(横浜市)で討ち取られるのです。(写真⑥)

    ⑥二俣川合戦の地にある畠山重忠の首塚

    ◆ ◇ ◆ ◇

    話を戻します。

    ところが、この重忠の変な期待に反し、丹後内侍は身重であるにも係わらず、本田次郎に従い浜に現れます。次郎がなんと言って誘い出したかは知りませんが、重忠は内侍を一目見るなり、品格高く、かつ決して人を疑わない素直で澄んだ雰囲気に、政子と対照的なものを感じました。

    ―なるほど、武衛殿が惚れるのも分からんでもないな。これはやはり斬れんなー

    やさしい重忠は、次善の策として手配しておいた由比ガ浜の東端にある和賀江島の湊(写真⑦)から、難波を経由して運航する船に、本田次郎と丹後内侍が乗船するよう指示します。

    ⑦今も伊豆石を使った
    基盤部分が残る和賀江島
    ※遠く左が江の島、右は稲村ケ崎

    「よいか、身重で大変だろうが、次郎をつけるので、難波に着いたら、淀川を登る船で京へ行き、前夫である惟宗広言殿を頼るのじゃぞ!惟宗殿には事の経緯を書いた秘文書を作成しておいた、次郎、しっかり手渡してくれ。」

    本田次郎も、重忠の寛大な措置に敬服し、なんとしても丹後内侍を逃がさねばという気持ちになっています。そして二人は出帆する船に乗り、難波の湊に向かうのです。

    4.島津家始祖誕生

    ところが、難波の湊で下船した直後に雷雨に遭い、また日も暮れてきて2人は途方にくれていましたが、不思議なことに雷雨が上がると、数多の狐火が灯り、浜の松原沿いの道を照らしました。

    ー住吉様のお導きか?ー

    と2人は松原沿いの道を歩き続けると、予想したように住吉大社の社頭に至ったのです。

    この時、丹後内侍が急に産気づきます。

    本田次郎は「住吉様、お導き頂いたからには立派な子をお授け下さい」と祈りながら、社殿に飛び込みます。そこに田中光宗(みつむね)という神人がいました。そこで次郎は神人に産湯と薬湯を持ってくるようお願いします。(写真⑧)

    ⑧住吉大社社殿
    本田次郎が戻ると、丹後内侍は社の大きな力石に抱きついたまま、まさに男児を出産した直後でした。田中光宗も直ぐに駆け付け、母子共に介抱し、無事保護に至りました。

    ⑨住吉名勝図会
    (誕生石脇に立つ看板から抜粋)
    後に内侍が抱きついていた住吉大社の力石は、「誕生石」として安産を祈念する対象となったのです。

    また後年、この本田次郎の行動を知った頼朝は、次郎を賞賛すると同時に、成長した男児に薩摩・大隅の2か国を与えます。これが薩摩の島津氏の起こりとなり、この男児は島津三郎忠久と名乗るのです。(写真⑨)

    また、この島津三郎忠久の「忠」は畠山重忠の「忠」をもらい受けたものです。そう、忠久が元服する際に、烏帽子親を買って出たのは、畠山重忠だったのです。

    5.伝承の不可思議・・・

    ただ、良く分からないのは、忠久の出生年が上記の時系列とつじつまを合わせようとすると腐心します。彼の出生年については1166年、1177年、1179年と複数あり、頼朝が旗揚げをしたのが1180年ですから、まだ頼朝が鎌倉入りする前に生まれたことになります。

    島津家の「吉見系図」によると、京の二条院に女房として仕えていた時期に懐妊し、島津忠久を住吉神社にて生んだ後、上記の話にもあるように、これを助けた惟宗広言と再婚。そしてその後、離縁し関東へ下って安達盛長に嫁いだとされているようです。

    ただ、頼朝が伊豆に流されたのが1160年、伊豆での挙兵が1180年なので、その間で内侍が産み落とした子がどうして頼朝の子なのでしょうか?仮に頼朝が14歳で京にいた時、関係を持ったとしても1161年生まれでないといけませんし、幾ら女好きの頼朝でも平治の乱前後の少年で子をなすとは考えづらいですね。(写真⑩)

    ⑩伝 島津忠久公 肖像画
    (Wikipediaより)

    更に1177年頃に頼朝と出会う政子に殺されそうになるなんて、それこそ内侍の子が生まれる前、更に畠山重忠は1180年の挙兵時は頼朝と敵対しています。一体全体、どういう流れで考えれば良いか悩んでしまいます。

    うーむ、ただ、あの大藩である薩摩藩が、頼朝のお墓にここまでしっかり関与しているのであれば、歴史考証の素人である私が及ばない考証があるのでしょう。

    どなたか分かる方、是非ご教示ください(笑)。

    ご精読ありがとうございました。

    《終り》

    【住吉大社 誕生石】〒558-0045 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9

    比丘尼山】〒355-0008 埼玉県東松山市大谷

    【和賀江島】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座6丁目

    土曜日

    南総里見発見伝① ~安房里見氏と八犬伝の源流~

    1.はじめに

    里見氏について調べてみたいと思いました。

    自分がガキの頃、住んでいた近くの柏尾川で大きな合戦があり、沢山の戦死者が出たということを知っていました。後に中学生になって、これは北条氏と安房から攻めてきた里見氏との合戦の死者を供養した首塚という事を知りました。(写真①)
    この戦闘の前に、進軍途上にある鶴岡八幡宮も、里見氏は焼討していたとのこと。

    ①柏尾川脇にある首塚(玉縄首塚)

    また、神奈川県人なら誰でも行ったことのある三浦半島の先の城ヶ島。ここも三浦氏と里見氏の、取った取られたを繰り返していたとのこと。(絵②)
    ②版画「里見左馬頭義弘相州城ヶ島にて北条と戦ふ」(歌川芳虎)

    安房から東京湾を渡って、鶴岡八幡宮を焼討、大勢力である北条氏に戦を挑んで来るなんて、里見氏は海賊みたいでかっこええやんと、中学の教室の窓から見える、湾を隔てた遠くの房総半島を見ながら、ロマンのある物語を当時想像したものです。

    ③曲亭(滝沢)馬琴

    ところが、驚くことに、この海賊みたいなやり方で鎌倉の元・お姫様をかっさらうという物語も、本当にあったのですね。しかも単純な強奪話ではなく、大恋愛の背景があるようです。青岳尼(せいがくに)と里見義弘(よしひろ)。これから少しずつ、対北条との係わりも含めながら、2人の話も書いていきたいと思います。

    ◆ ◇ ◆ ◇

    そして日本人だれもが知る「南総里見八犬伝」。曲亭(滝沢)馬琴の人生の半分を掛けて作ったこの大長編物語もロマン溢れる日本の大傑作。これも里見氏から始まりますね。(写真③)

    来年の大河ドラマは蔦屋重三郎という馬琴や葛飾北斎と同時代の出版プロデューサーの話なので、両者とも必ず話が出てくると思います。(写真④、絵⑤)

    ④蔦屋重三郎「耕書堂」跡(中央区日本橋付近)

    そして馬琴と北斎は非常に仲が良かったことでも有名です。この秋には山田風太郎氏の「八犬伝」も映画化され、馬琴と北斎の魂のやりとりを観ることができそうです。

    ⑤蔦屋重三郎
    このように、しばらくはメディアでも話題の尽きない里見氏について、主に上記2つの話題、青岳尼と里見義弘の恋愛物語と南総里見八犬伝について、史跡巡りを交えてお話させて頂ければと存じます。是非、御笑覧ください。

    2.里見氏の勃興

    南総里見八犬伝は勿論創作ですが、史実に基づいて書いている部分も結構多いのです。里見氏の勃興も八犬伝に書かれている時代背景が基本的には合っています。(勿論、架空人物を設定しているので、全くそのまま合っているとは言えませんが・・・)

    大本は新田義貞の庶子の系列からなり、所領は現在の上野国(現在の高崎市)の辺りですが、その後、常陸国(現在の茨城県)、美濃(今の岐阜県)にも分派が所領を持ちます。

    では何故里見氏は、戦国時代「南総」つまり千葉県房総半島の先端・安房の国に居を構える戦国大名になったのでしょう。

    それを解くカギはまず、鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立にあります。

    3.鎌倉公方と関東管領・上杉氏との対立

    ここから少しややこしくなります。応仁の乱勃発直前の関東ですね。応仁の乱自体も結構権勢争いが複雑ですが、関東も同時期騒乱が続く複雑な様相を呈して参ります。

    ⑥高安寺に陣を敷く足利持氏
    を上杉軍が攻めます
    まずは鎌倉公方問題です。そもそも足利尊氏の代から、鎌倉は火薬庫のようなリスクを含んだ場所でした。

    鎌倉時代に長らく武士の都として君臨したこの都市は、ともすると、ここのトップを神輿担ぎすれば、京の足利将軍家に対抗できるのでは?と妄想する輩が多かったのかもしれません。

    なので、京の足利将軍家と、この鎌倉を中心に坂東武者を収めた鎌倉公方は、同じ足利家なのです。

    ただ、鎌倉公方は尊氏の4男・基氏から代々の血縁が引き継ぎ、京の足利将軍家の血統が入ることを赦さない風潮を作ったことが、先に述べた「血筋は足利将軍家と同じ!」という対抗心を生み出したのかもしれません。京の将軍家と、徐々に対立基調になっていきます。

    足利将軍家は、尊氏の母方の実家である上杉家を関東管領という形で、鎌倉公方の補佐役として付け、この上杉家が、鎌倉公方を京の将軍家に代わって監視するという、目付役的な立場で立ち振る舞ったため、関東においては、上杉家と鎌倉公方との対立が深刻化していくのです。

    そしてとうとう上杉家の上杉憲実(うえすぎ のりざね)と鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の間で闘争が勃発。負けた持氏が自害してしまうという乱(永享の乱)が起きました。(写真⑥、絵⑦)

    ⑦自刃する鎌倉公方・持氏(画面左上)
    ※出典:国立国会図書館デジタルコレクション

    上杉憲実は、この乱の原因が、今まで京の足利将軍家から鎌倉公方を選出せずに鎌倉の現地で世襲化してしまっていたことだと深く憂慮し、すぐさま京から持氏の後継者を鎌倉公方として下向させるように足利将軍家へ依頼します。

    京の6代足利将軍・足利義教(よしのり)は、実子を鎌倉へ向かわせます。

    「やれやれ、やっと傍流の足利家が代々継いできた鎌倉公方も、足利本家の血筋で治めることができる」

    ⑧結城氏朝
    と思った上杉憲実の認識は甘かったのです。坂東武者の京への対抗心は既に根深いものとなっていました。

    4.結城合戦

    自害した持氏の子供たちのうち、安王丸・春王丸・万寿丸の3人が、応仁の乱時代の関東の複雑な勢力図を形作っていきます。

    まず安王丸・春王丸の二人は、下総国(千葉県北部)の結城氏朝(ゆうき うじとも)父子に担がれます。結城父子は「関東を京の足利将軍配下になぞ治めさせるか!」と幕府に対して反旗を翻すのです。(絵⑧)

    この京に対するレジスタンス活動、関東は坂東武者の賛同を集め、幕府軍として討伐に来た上杉、今川等との連合軍と大規模な合戦に発展します。(写真⑨)

    これが結城合戦です。

    ⑨結城合戦の舞台となった結城城

    しかし、いくら屈強な坂東武者が大規模な反乱を起こそうとも、流石に幕府軍には敵いません。結局、
    結城氏朝父子は自害。安王丸・春王丸も掴まり、京へ送られる途中、美濃(岐阜県)で殺されます。

    ⑩結城城本丸跡に建つ
    結城合戦タイムカプセル
    この時、結城城の近く、常陸国(茨城県)に領地を持っていた里見義実は父と共に結城氏朝側に付きますが、父は討たれ、義実は常陸国の所領を捨て、房総半島の先、安房へ亡命し、安房の豪族らの間を渡り歩き、力を付け、勢力を拡大したという説が有力です。

    5.鎌倉公方から古河公方へ

    南総里見氏の勃興について4項までで書きました。これが今回のブログの中核なのですが、結城合戦のついでに、関東は早雲にはじまる後北条氏が台頭するまで、かなり複雑な豪族らによる勢力争いが続きます。それらに1本筋を通して話を簡単にするために、公方の変遷(鎌倉公方、古河公方、小弓公方、堀越公方)もついでに書いちゃいます。少々お付き合いください。

    結城合戦で、安王丸・春王丸は殺されましたが、実は万寿丸は生き延びていました。

    幼いので寺に預けられていたとか、実は京に上る途中で6代将軍・義教(よしのり)が殺されたのでその騒ぎに乗じて信濃の大井氏の元に逃げた等、諸説ありますが、兎に角生き残るのです。

    そして、鎌倉府再興は、坂東武者が持氏の遺児である万寿丸を鎌倉に迎え入れることで成立するのです。万寿丸は元服すると足利成氏(しげうじ)と名乗ります。

    ところが、経緯は複雑なので簡略化してお話すると、またもや関東管領上杉氏とののもつれ、対立が始まります。

    成氏は、上杉氏の勢力圏である常陸国の小栗城等を攻めるのですが、この征伐の最中に留守である鎌倉へ駿府(静岡)から今川氏(幕府側)が攻め入って、鎌倉を占拠します。

    「そんなに鎌倉が欲しければ、そんな土地幾らでもやろう!どうせ鎌倉は上杉勢力圏だ。俺、いや坂東武者の勢力圏はここにある。」

    と言って古河に御所を開く成氏。自分を「古河公方」と名乗ります。(写真⑪)

    ⑪古河公方勢力(オレンジ)と上杉氏勢力(緑)の拮抗
    (出典:古河歴史博物館)

    地図⑪の勢力図で分かるように、江戸川(当時は利根川)の東側が古河公方、西側が上杉氏と綺麗に分かれますね。この乱は、「享徳の乱」と言い、1454年~1482年まで30年近くも長く続くのです。ちなみに応仁の乱が1467年~1477年の11年間ですが、その戦より遥かに長いです。

    関東も、応仁の乱で大混乱に陥る京に勝るとも劣らない(?)対立と混乱があった訳です。

    6.南総里見八犬伝にも出てくる古河公方・足利成氏

    この古河公方こと成氏は、南総里見八犬伝にも出てきます。(絵⑫)

    ⑫八犬伝の足利成氏

    そしてこの古河公方の古河城こそが、八犬伝の名場面、芳流閤(ほうりゅうかく)屋根上の決闘の場所となるのです。(写真⑬、写真⑭)

    ⑬古河城本丸跡
    ※今は何もありませんが、明治までしっかりした
    お城がありました(写真まで残っています)

    ⑭2024年10月に公開予定の映画「八犬伝」

    芳流閤(古河城本丸)屋根上の決闘場面

    ※ちなみに下に見えるのが当時の利根川(現・江戸川)です

    八犬伝の話の中では、この川が重要な役割を成すのです


    ◆ ◇ ◆ ◇

    詳細は次回に、里見氏が安房で立ち上がる話と併せ描く予定です。また、古河公方から派生した小弓(おゆみ)公方、更には堀越公方等、関東にはいったい幾つの公方が乱立するんかい!といった混沌エピソードも次回以降描きたいと思います。

    長文・乱文失礼致しました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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