前回は小田原城の落城から宇都宮仕置までを扱った。
今回はその続き、宇都宮仕置から奥州仕置、そして東北地方の混乱と収拾を描き出す。この一連の動きを、東北の雄・伊達政宗の動向を追いながら詳述していく。この混乱の収束こそが、豊臣秀吉の天下統一の完成となるのだ。
1.問題児・伊達政宗の動向
①仙台に立つ伊達政宗像 |
2.奥州仕置
8月4日、失意の中、伊達政宗は、この後奥州仕置の案内として、会津の黒川城(会津若松城)へ秀吉を案内する。
②蒲生氏郷 (作画:ザネリさん) |
この伊達政宗の処置はある程度予測されたことであったが、他の奥州在地領主への仕置は、予見されていなかったこともあり、伝統的な在地領主にとっては、かなり厳しく感じたようだ。
これには後述する石田三成が関わっている可能性が高い。
まず、秀吉は平泉周辺の大崎氏や葛西氏などを改易処分とした。彼らが小田原へ参陣しなかったことがその理由である。その上で、新たに秀吉の家臣である木村吉清を領主として配置した。
長年安定的に支配されてきた土地柄に加え、旧来の領主と家臣団との関係を断ち切る急進的な領地替えは、現地の武士たちに強い不満を引き起こした。その結果、この不満は大規模な一揆へと発展することになる。
3.葛西・大崎一揆
天正18年(1590年)10月、奥州仕置軍が引き揚げると、仕置に対する不満から葛西・大崎の旧家臣団が一揆を起こした。これが「葛西・大崎一揆」である。彼らは新領主である木村吉清の支配を拒否し、武力による抵抗を続けた。
この一揆の鎮圧に、伊達政宗が任じられた。しかし、政宗はやはり筋金入りの問題児である。この鎮圧計画は一時保留(ペンディング)となってしまうのだ。
4.またもや問題児・伊達政宗と決死のパフォーマンス
問題とされたのは、この一揆を煽動しているのが当の伊達政宗ではないか、という嫌疑であった。決定的証拠として、政宗の花押(サイン)が入った書状まで見つかり、政宗は絶体絶命の窮地に陥る。
「うーむ、小田原遅参時に白装束(死装束)のパフォーマンスをやってしまった。もっと華々しいパフォーマンスを秀吉に披露しなければ、今度こそ首と体がバラバラになる。」
私が秀吉だったら、問答無用でこの大問題児である政宗を斬首して終りにしたくなるが、派手好きな秀吉は、この大問題児のパフォーマンスを楽しみにするキライがある。
京に呼び出された政宗は考え抜いた末、「金箔を貼った巨大な十字架を背負い、白装束で京の町を練り歩き、秀吉の前に出る」という奇抜なパフォーマンスを披露したのである。(写真③)
③白装束+金の十字架を持ち京を練り歩く政宗一行 (伊達政宗歴史館の展示物を加工) |
「また面白いパフォーマンスだ。しかも金箔を使うとはワシ好みの演出!」
と秀吉は思ったのだろうか。意外にもこのパフォーマンスが気に入ったらしい。
5.鶺鴒押印事件
さて、金の十字架を背負い、京の街を練り歩いた後、政宗は秀吉と対面した。
「何故、伴天連の神のように十字架を担ぐのか?」
「伴天連は言います。彼らの神・ゼウス(イエス・キリストのこと)は、何らやましいことは一つもなかったにも関わらず、十字架に磔となって死んだと。」
④鶺鴒(セキレイ) |
「はい。」
「では、この書状は何じゃ!」
と秀吉は「葛西・大崎一揆」を煽ったのが政宗である証拠の書状をはらりと白装束の政宗の前に広げる。
「書状には、紛れもない鶺鴒(セキレイ)の花押。ぬしの花押に間違いないな!」
⑤政宗の鶺鴒押印 |
「何をいまさら。」
「いえ、この花押は私のものではありません。私の花押であれば、鶺鴒の目のところに針で穴をあけております。この書状の鶺鴒の目には穴が空いておりません。」
「ほう」と秀吉。
「佐吉、政宗から送られてきた他の書状を御番所(ごばんしょ)からもってこい。」
「はっ!」佐吉こと石田三成は慌ただしく立ち上がり、御番所へ走った。
御番所から、政宗の押印が入った他の書状を持って戻った三成は、秀吉に書状を渡す。秀吉はバッと書状を開き、左下の押印を眺めた。
しばらく緊張の沈黙がその場に流れる。
「ワハハ、確かに開いとるわ!」
と大声で笑う秀吉。ほっとした雰囲気の政宗の白装束の肩をポンポンと扇子で叩きながら、秀吉はその場から立ち去るのだった。
6.三成の策
先の鶺鴒押印事件について、現存する政宗の公文書に鶺鴒の目に穴が開いたものは確認されていない。
では、これはどういうことか。
⑥奥州仕置軍・再仕置軍等の足取り |
石田三成の深謀
ただ、佐吉(石田三成)も怪しい。
三成は「朝鮮征伐」構想を、単なる侵略ではなく、「天下統一後の経済社会システム」として現実的な視点で捉えていた。
応仁の乱以降、百二十年以上にわたる戦乱の中で、武士だけでなく、武器商人など戦で生計を立ててきた人々が大量に増加していた。彼らが天下統一によって一気に失業すれば、当時の日本経済は崩壊するだろう。三成は、このようなハードランディングを避け、ソフトランディングを実現するための深慮遠謀を巡らせた唯一の武将である。
奥州に対する二つの期待
彼は、この海外遠征構想を推し進めるにあたり、奥州に対し以下の二つの役割を期待していた。
①寒冷地での労働力確保:寒さの厳しい朝鮮半島と同じような気候の奥州以北で、有用な人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること。
②極寒地での事前演習:奥州以北で戦を起こすことで、極寒の朝鮮半島における戦いの事前演習とすること。
三成は、奥州仕置軍の巡察行軍中、以下のように思考した。
「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。それゆえ、圧政を敷けば、かなり規模の反乱が発生するのではないか。その鎮圧に軍を送れば、②が実現するし、さらにその時の捕虜を①に充当すればよい。」
三成の仕掛け
そして三成は、奥州仕置軍が残した代官たちに、厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するよう仕向けた。
⑦九戸城本丸と井戸の遺構 |
これが効果を発揮する。先に述べた葛西・大崎一揆を皮切りに、図⑥のように和賀、稗貫などの地方から不満分子が多数発生した。それらの一揆は鎮圧されるたび、生き残った人々は皆、最後の反乱を起こす九戸政実の許に集結したのである。
まさに三成の策に嵌りつつあったと言えるだろう。
7.九戸政実の乱
そして九戸政実の乱が九戸城にて勃発する。(写真⑦)
この反乱も、秀吉の奥州仕置に対する不満から起こった一揆の一つと見なされている。しかし、他の葛西・大崎一揆などのような領主替えや圧制への反発とは、少々背景が異なるのだ。
南部氏の家督争い
乱の真の火種は、秀吉に恭順の意を示した南部信直に対する、九戸政実をはじめとする奥州武将たちの強い不満である。
その不満の原因の一つは、南部家の強引な家督相続にあった。
信直は、女子しか子がいなかった南部晴政(はるまさ)の養子として迎えられた。しかし、晴政が五十三歳にして(はるつぐ)をもうけたことで、信直は秀吉にとっての秀次と同じく、邪魔な存在となる。
⑧九戸政実 (ザネリさん作) |
政実の不満と反乱
柔軟かつ狡猾に南部家当主の座を手に入れた信直であったが、九戸政実は実弟・実親(さねちか)を晴継の後継者に据えようとしていた経緯から、信直に強い反感を抱いていた。
また、信直が宇都宮仕置で秀吉から南部家当主のお墨付きをもらい、領内の不満分子の鎮静化を図ったことも、政実には気に入らなかった。
これら南部家跡継ぎ問題に対する九戸政実の不満こそが、秀吉の天下統一に反乱を起こす直接的な火種となったのである。そして、信直の圧政に苦しむ領民らを巻き込み、九戸城へ立て籠もったのだ。
8.奥州再仕置軍の派遣
秀吉は、奥州における一連の反乱を完全に鎮圧するため、天正十九年(一五九一年)六月二十日、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」の編成を命じた。
この再仕置軍は、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった豊臣政権の主力を核とし、さらに上杉景勝や伊達政宗も加わるよう命じられた大軍である。
この大軍はまず、葛西・大崎一揆などの反乱を平定しながら北進し、最終目標である九戸政実の討伐へと向かったのだ。(図⑥参照)
⑨九戸城包囲陣立 |
九戸政実の乱の詳細については、以下の拙著ブログを参照願いたい。
九戸城の攻防
九戸城に立て籠もった政実軍は、領民を含めても五千人に過ぎない。対する秀吉の「奥州再仕置軍」は、六万五千という圧倒的な兵力を擁していた。
兵力差は歴然としている。しかし、九戸城は極めて堅固な城郭であった。
九戸政実がこの乱を起こした唯一の活路は、この堅城をもって圧倒的な豊臣軍を厳冬の東北に留めおくことだと考えていたのである。
9.九戸政実の乱終結と天下統一の完了
しかし、奥州再仕置軍の進軍は九戸政実の想定よりも早かった。九月二日には九戸城は完全に包囲されたのである。(図⑨)
一説には、厳冬期の戦いを経験させようとする三成の策に嫌気が差した蒲生氏郷が、早期決着を目指し進軍を急いだとも言われている。
政実の最期
政実は、これ以上の抵抗は無益と判断し、開城を決断する。
政実の命と引き換えに籠城者全員の助命を条件とし、彼は頭を丸めて出頭した。しかし、奥州再仕置軍はこの約束を反故とする。
二の丸では、弟の九戸実親をはじめとする城内の者たちが惨殺され、火が放たれた。政実自身も平泉の南、栗原郡にて斬首され、ここに九戸政実の乱は終結したのである。
⑩九戸城から出土した首の無い人骨 (城内に居た者は女・子供に至るまで なで斬りにされたとの伝承が残る) |
こうして九戸政実の乱が鎮圧されたことで、豊臣秀吉の天下統一事業は名実ともに完成した。
本シリーズ冒頭で述べたように、秀吉の天下統一は小田原征伐ではなく、この九戸政実の乱の終結をもって達成された経緯を、ご理解いただけたであろうか。
ご精読に感謝する。
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