マイナー・史跡巡り: 秀吉の天下統一② ~小田原征伐~ -->

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秀吉の天下統一② ~小田原征伐~

前回は、小田原征伐の引き金となった名胡桃(なぐるみ)城事件について解説した。

さて、今回はこの小田原征伐そのものについて、これまでの史跡調査をもとに、気ままに綴っていきたい。

1.小田原城への進軍:山中城と韮山城

①三枚橋城(沼津城)
1590年(天正18年)の春、豊臣軍の主力は源頼朝が挙兵した黄瀬川周辺に集結し、小田原城への進軍を開始した。秀吉は3月27日に三枚橋城(沼津城)に入り、ここから小田原征伐の采配を振るい始めたのだ。(写真①)

最初の標的は、箱根の手前にある韮山城と、箱根の山中にある山中城の二つ。豊臣軍はこの二つの城を同時に攻め立てた。(写真②③)

山中城には6万8千もの大軍が押し寄せ、わずか3千の兵がこれに抵抗した。兵力差は実に20倍以上。その圧倒的な力の前に、城はわずか半日で陥落した。

一方で、韮山城は兵力差が約10倍(豊臣軍4万4千に対し、北条軍3600)だったにもかかわらず、100日間も持ちこたえた。

この差は一体何だったのだろうか。

まず第一に、両城の防御力と完成度の違いが挙げられる。山中城は、箱根越えの東海道を見張る要衝として、北条三代目・氏康によって築かれた。元々堅固な城だったが、小田原征伐直前にも防御力強化の工事が行われていたのだ。

②山中城
北条氏特有の障子掘りが美しい

山中城は、北条氏の築城技術が成熟した時期に造られた城だ。写真にある障子掘りをはじめ、北条氏らしい工夫が随所に凝らされていた。しかし、これらの機能を十分に生かすには、まだ工事中という状態が障壁となった。

また、沼津を出発した豊臣軍が、勢いに乗って山中城を力攻めしたことも、半日という短期間での落城につながった。三島方面から箱根山を登ってくる圧倒的な数の豊臣軍を見て、城兵たちの士気が下がったのは間違いないだろう。そうした心理的な動揺もあって、城は猛烈な力攻めにあえなく陥落したのである。

一方、韮山城は、北条氏初代の早雲が最期まで居城としただけあって、要害堅固な城だった。
③韮山城本丸付近
これは頼朝の蛭ヶ小島から撮影したもの

そして、また韮山城は、山中城のように急ごしらえの機能追加の必要もない程、北条100年の築城ノウハウが蓄積された、まさに「枯れた(完成した)」城だったのだ。

早雲の時代から受け継がれたこの名城は、その堅牢な特性を最大限に発揮できるよう、防御機能だけでなく、兵の配置や守備方法に至るまで、あらゆる攻撃パターンに対する防衛シミュレーションができていたのだ。当然、この伝統ある城を守る兵たちの士気も非常に高かった。

④八王子城 御主殿の石垣
そのため、豊臣軍は山中城同様の圧倒的兵力で攻撃し、城下に火を放っても、北条軍は徹底抗戦を続けた。秀吉は一気呵成に落とすのは無理と悟り、周囲に付城を築き、堀や柵を巡らせて厳重な包囲網を築くように命じた。北条軍に籠城戦を強いたのだが、そこから100日韮山城は持ちこたえ、八王子城が陥落した天正18年6月23日の翌日、ついに開城となった。

八王子城の陥落については、拙著ブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」を参照されたい。

北条氏の要衝であるこれらの城が落ちたことで、豊臣軍は小田原城の完全包囲に向けて、障害をほぼすべて取り除いたと言えるだろう。

2.小田原城包囲陣の陣容

山中城を攻略し、箱根を越えた豊臣秀吉は、4月5日に箱根湯本の早雲寺を占拠した。北条氏の家祖、早雲にちなんだこの菩提寺を、秀吉は当初の本営としたのである。(写真⑤)

⑤早雲寺にある北条五代の墓

この時すでに、徳川家康らは小田原城の包囲を開始していた。(写真⑥⑦)

⑥小田原城包囲陣形図

図⑥は、当時描かれたの小田原城包囲陣形図だ。

一番右の中央に「家康」の文字が見えるだろう。そして一番左の中央には、「早雲寺谷 御本陣」と書かれている。地図の中央右寄り、太い黒枠で囲まれた三つの部分が小田原城である。

秀吉が早雲寺に本営を置いている間、家康は小田原城からさらに東、酒匂川の岸辺近くに陣を張っていた。

なぜ家康は、西にある秀吉の本陣近くではなく、わざわざ反対側の東奥に陣取ったのだろうか。これについては、いくつかの説がある。

⑦小田原城の東・酒匂川氾濫原に
陣をしいた家康
説①:秀吉に臣下の礼を取った時の約束を果たすため
第一の説は、小田原征伐が家康にとって、秀吉に臣従してから初めての大規模な戦だった。そこで臣従時に誓った約束を果たしたという考え方だ。そのため、家康は、あえて敵地の最も深い場所、関東平野の奥深くに陣を張った。

これは、補給や支援が最も困難になるという大きなリスクを、家康自身が率先して引き受けたことを意味する。

家康、秀吉への臣従
秀吉は、自分の母親を人質として差し出すほどに、家康を臣従させようと心を砕いた。臣下の礼を取らせる前日には、こっそり家康のもとを訪れ、「明日はあえて尊大な態度を取るが、それでも臣下の礼を取ってほしい」と頼み込んだほどだ。

翌日、家康はその頼み通り、秀吉にしっかりと臣下の礼をとった。この時、家康は秀吉が愛用していた陣羽織を所望する。そして、その陣羽織を身に着けるやいなや、「今後は殿下(秀吉)に代わり、この家康が合戦の指揮を執る。殿下に戦の負担はかけさせない」と豪語したのは有名な話だ。

そして、この言葉の直後の戦こそが、今回の小田原征伐だったのである。豪語したのだから積極的に合戦の要になったという訳だ。

説②:家康が小田原の弱点を攻めた?

第二の説は、小田原城が誇る「総構(そうがまえ)」に着目したものだ。これは、欧州や中国の城郭都市のように、町全体を堀と土塁で囲んだ壮大な防衛線である。「大外郭」とも呼ばれ、全長9kmにも及ぶこれは、築城を得意とする北条氏の秘策の一つだった。

しかし、この総構にも弱点がある。豊臣軍20万に対し、北条軍はわずか5万。全長9kmもの広範囲に兵力を配置するのは困難だったのだ。(地図⑧参照)

⑧小田原城総構
香川元太郎氏作成

そこで、豊臣軍の中核をなす家康が、総構の最も脆弱な部分に陣を敷き、北条氏の守備を分散させて開城を促したという説である。
確かに図⑧でわかる通り、小田原城の総構は西側が最も複雑で堅固だ。そこは早川の河岸段丘を利用しており、深く入り組んだ堀と土塁が築かれていた。前回のブログでも見たように、その防御性の高さは際立っている。(写真⑨)
 ⑨小峯御鐘ノ台大堀切東堀
図⑧の北西部側にあたる

しかし、東側はそうではなかった。自然の小川を堀に、土塁を築いたものの、酒匂川の氾濫原を含む湿地帯だったため、西側のような強固な防御壁を築くのは非常に困難だったのだ。

もともと小田原城は、西からの敵に備えて総構を築いたと考えられている。そのため、東側の湿地帯の防御が手薄でも、西の段丘に強固な外郭を築けば事足りると、北条氏は考えたのかもしれない。

いずれにせよ、東側の湿地帯は、さほど頑丈ではない土塁と堀でしか守られていなかった。もし家康が本気で攻めていれば、容易に突破できたであろうと想定されているのだ。

家康が総構の弱点に陣を敷いたという説は、非常に説得力がある。小田原城に圧力をかけることで、北条軍に兵力を東西に分散させる狙いがあった。本来、西側に集中させたい兵力を東にも割かざるを得なくさせ、結果として北条軍の厭戦ムードを醸成。ついには小田原城を開城に追い込んだというわけだ。

ちなみに、この湿地帯という蒸し暑く蚊の多い場所に家康を布陣させたのは、秀吉の嫌がらせだった、という笑える説も存在する。

3.一夜城の真実

ご存じの通り、豊臣秀吉は小田原城の西側、早川を挟んだ丘陵地に石垣山城を築いた。(写真⑩)

⑩小田原城総構(西側)の「鉄砲矢場」
から見た石垣山城

この城は、山の木々を極力残したまま建設が進められた。そして完成間近、城壁に見せかけた白い紙を貼り付け、最後に周囲の樹木を一斉に伐採したのだ。

小田原城側からは、まるで一夜のうちに城が出現したように見えたことから、この城は「一夜城」と呼ばれている。いかにも秀吉らしい、奇抜で派手な演出だ。

しかし、これはあくまで逸話にすぎないようだ。私自身が小田原城の総構から石垣山を見たとき、山の中腹にあるみかん畑で農薬を散布する人が肉眼で確認できた。当時の小田原城からも、石垣山城の建築作業は十分見えていたというのが通説らしい。

いずれにせよ、この「一夜城」こと石垣山城の出現が小田原城兵の厭戦気分を煽り、秀吉のド派手な征伐ぶりを全国の諸将に見せつけ、小田原城開城に至らしめた主要因の1つとなったのはご存じの通りである。

さて、また長くなってしまったのでこの後の宇都宮仕置に至る経緯は次回としたい。

ご精読に感謝する。

【三枚橋城(沼津城)】〒410-0801 静岡県沼津市大手町4丁目3−2
【山中城】〒411-0011 静岡県三島市山中新田410−4
【韮山城】〒410-2143 静岡県伊豆の国市韮山438−3
【八王子城】〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3丁目
【早雲寺】〒250-0311 神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
【徳川家康陣地跡の碑】〒250-0002 神奈川県小田原市寿町4丁目14−15
【小峯御鐘ノ台大堀切東堀】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目30−27
【総構:鉄砲矢場】〒250-0045 神奈川県小田原市城山4丁目15−15
【石垣山城】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12