前回は、小田原征伐の引き金となった名胡桃(なぐるみ)城事件について解説した。
さて、今回はこの小田原征伐そのものについて、これまでの史跡調査をもとに、気ままに綴っていきたい。
1.小田原城への進軍:山中城と韮山城
①三枚橋城(沼津城) |
②山中城 北条氏特有の障子掘りが美しい |
③韮山城本丸付近 これは頼朝の蛭ヶ小島から撮影したもの |
そして、また韮山城は、山中城のように急ごしらえの機能追加の必要もない程、北条100年の築城ノウハウが蓄積された、まさに「枯れた(完成した)」城だったのだ。
早雲の時代から受け継がれたこの名城は、その堅牢な特性を最大限に発揮できるよう、防御機能だけでなく、兵の配置や守備方法に至るまで、あらゆる攻撃パターンに対する防衛シミュレーションができていたのだ。当然、この伝統ある城を守る兵たちの士気も非常に高かった。
④八王子城 御主殿の石垣 |
八王子城の陥落については、拙著ブログ「滝山城と八王子城 ~北条氏の滅亡~」を参照されたい。
北条氏の要衝であるこれらの城が落ちたことで、豊臣軍は小田原城の完全包囲に向けて、障害をほぼすべて取り除いたと言えるだろう。
2.小田原城包囲陣の陣容
山中城を攻略し、箱根を越えた豊臣秀吉は、4月5日に箱根湯本の早雲寺を占拠した。北条氏の家祖、早雲にちなんだこの菩提寺を、秀吉は当初の本営としたのである。(写真⑤)
⑤早雲寺にある北条五代の墓 |
この時すでに、徳川家康らは小田原城の包囲を開始していた。(写真⑥⑦)
⑥小田原城包囲陣形図 |
⑦小田原城の東・酒匂川氾濫原に 陣をしいた家康 |
説②:家康が小田原の弱点を攻めた?
第二の説は、小田原城が誇る「総構(そうがまえ)」に着目したものだ。これは、欧州や中国の城郭都市のように、町全体を堀と土塁で囲んだ壮大な防衛線である。「大外郭」とも呼ばれ、全長9kmにも及ぶこれは、築城を得意とする北条氏の秘策の一つだった。
しかし、この総構にも弱点がある。豊臣軍20万に対し、北条軍はわずか5万。全長9kmもの広範囲に兵力を配置するのは困難だったのだ。(地図⑧参照)
⑧小田原城総構 香川元太郎氏作成 |
そこで、豊臣軍の中核をなす家康が、総構の最も脆弱な部分に陣を敷き、北条氏の守備を分散させて開城を促したという説である。
3.一夜城の真実
ご存じの通り、豊臣秀吉は小田原城の西側、早川を挟んだ丘陵地に石垣山城を築いた。(写真⑩)
⑩小田原城総構(西側)の「鉄砲矢場」 から見た石垣山城 |
この城は、山の木々を極力残したまま建設が進められた。そして完成間近、城壁に見せかけた白い紙を貼り付け、最後に周囲の樹木を一斉に伐採したのだ。
小田原城側からは、まるで一夜のうちに城が出現したように見えたことから、この城は「一夜城」と呼ばれている。いかにも秀吉らしい、奇抜で派手な演出だ。
しかし、これはあくまで逸話にすぎないようだ。私自身が小田原城の総構から石垣山を見たとき、山の中腹にあるみかん畑で農薬を散布する人が肉眼で確認できた。当時の小田原城からも、石垣山城の建築作業は十分見えていたというのが通説らしい。
いずれにせよ、この「一夜城」こと石垣山城の出現が小田原城兵の厭戦気分を煽り、秀吉のド派手な征伐ぶりを全国の諸将に見せつけ、小田原城開城に至らしめた主要因の1つとなったのはご存じの通りである。
さて、また長くなってしまったのでこの後の宇都宮仕置に至る経緯は次回としたい。
ご精読に感謝する。
【三枚橋城(沼津城)】〒410-0801 静岡県沼津市大手町4丁目3−2
【山中城】〒411-0011 静岡県三島市山中新田410−4
【韮山城】〒410-2143 静岡県伊豆の国市韮山438−3
【八王子城】〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3丁目
【早雲寺】〒250-0311 神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
【徳川家康陣地跡の碑】〒250-0002 神奈川県小田原市寿町4丁目14−15
【小峯御鐘ノ台大堀切東堀】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目30−27
【総構:鉄砲矢場】〒250-0045 神奈川県小田原市城山4丁目15−15
【石垣山城】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12