前回は小田原征伐で、小田原城の総構えを囲む、秀吉軍20万の包囲網が完成した。さらに、大規模な石垣山城を小田原城の付城とし、小田原城の開城を促したところまで述べた。
今回は、その続きを解説する。
1.石垣山城でのエピソード2つ
小田原城を見下ろす位置に石垣山城を築いた秀吉。ここで有名なエピソード2つを改めてご紹介する。
《家康とのつれしょんべん》
①日本の首都となる東京は この連れしょんで決定? |
「御覧あれ、徳川殿。あの城の命運ももはや風前の灯。北条が滅びた暁には、この関八州、そっくりそのまま御辺に進ぜようぞ!」と秀吉。
さても豪快なるは、その次の一言。「ささ、共に小便を仕ろうではないか!」と言うなり、小田原城に向かって威勢よく放尿。
これこそが後世に伝わる「関東の連れ小便」の吉兆伝承である。関八州古録に記録されたものだが、後世の創作であろうという説が有力である。
《伊達政宗との謁見》
東国に覇を唱える北条氏を討つべく、秀吉は全国の大名に小田原への参陣を厳命。これに遅れればお家取り潰しは必定!
奥州の独眼竜こと伊達政宗は若干23歳。会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となったところで、「蘆名氏との戦は惣無事令違反」とされ、上洛して釈明せいとの秀吉の要請も無視していた状態。そこに最後通牒のように降ってきた小田原参陣要請。無視して秀吉と一戦交えるか、参陣して臣従するか。。。悩んでいるうちに時は経ち、小田原征伐は開始されていた。
「今更参陣しても遅い。いちかばちか秀吉と一戦交え、天下をとるか、伊達家が滅亡するか」
しかし、北条方の城が次々と落ち、本拠・小田原城も落城寸前との報に、さすがの政宗も自らの甘さを悟る。もはや万事休すかと思われたその時、独眼竜はただでは死なぬと一計を案じる。
死装束である白の麻衣をその身にまとい、石垣山城へと遅参してきた伊達政宗。(絵②)
②白装束で弁明する政宗 |
この常軌を逸した度胸と芝居がかった振る舞いは、怒れる天下人・秀吉の度肝を抜き、その興味を引くことに成功。
結果、斬首は免れたものの、苦労して蘆名氏より手に入れた会津の地は召し上げられることに。政宗は、この石垣山城での謁見において、天下の広さと秀吉という男の巨大さを、骨の髄まで思い知らされたのだった。1か月後、小田原城は降参、開城する。まさにギリギリでヒヤヒヤモノの政宗であった。
その後、政宗は改めて後述する宇都宮城にて秀吉に引見。領地の決定を受けることとなる。
2.小田原城開城までの経緯
小田原城は、支城がことごとく陥落し、外部からの援軍の望みも絶たれた。
城内では、徹底抗戦か降伏かを巡って議論が紛糾した(後に小田原評定と呼ばれる)。
最終的に、約3ヶ月の籠城の末、当主の北条氏直は降伏を決断し、天正18年(1590年)7月5日に小田原城は開城したのだ。
この結果、
- 当主の氏直は、妻が徳川家康の娘であったこともあり、助命されたが、高野山へ追放された。
- 主戦派であった父の氏政と叔父の氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての北条氏は滅亡した。
この小田原征伐の完了をもって、豊臣秀吉による天下統一は成し遂げられたとされるのだ。
3.その後の北条氏
氏直は、家康らがとりなしに入ったこともあり、翌年の天正19年(1591年)2月には赦免されたのだ。
なんと、同年8月には大名への返り咲きまで果たした。しかし、その直後の11月に疱瘡(ほうそう)で亡くなるという、あまりにも残念な結末を迎える。せっかく北条家復活の光が見えてきた矢先の病死であった。
ここで北条家も終焉かと思いきや、あの籠城戦で粘りに粘った韮山城主である北条氏規(うじのり)が、これまた徳川家康の取り成しもあって河内(現在の大阪府)に所領を与えられた。氏規は氏直の叔父にあたる人物である。
そして、その氏規の息子である氏盛(うじもり)が1万1千石に加増され、大名入りを果たしたのだ。この家系は狭山藩として、幕末まで続くことになるのである。(写真③)
③日比谷公園はかつて北条氏・狭山藩上屋敷があった場所 |
4.鎌倉での秀吉
20万という大軍をもって小田原城を攻め落とした秀吉。
天下統一を果たし、大坂へ引き上げたいところであったが、元来、日本の西地域で活躍していた秀吉である。関東まで来たのだからと考えたのかどうかは別として、彼はさらに東下を続けたのだ。
天正18年(1590年)7月17日、秀吉は鎌倉へ入った。
彼はまず鶴岡八幡宮に参詣し、源頼朝の像と対面を果たしたのである。(写真④)
④当時鶴岡八幡宮内白旗神社にあった頼朝座像 (東京国立博物館蔵) |
このとき、秀吉は頼朝像の肩を叩きながら、次のように話しかけたとの伝承があるのだ。
「自分は農民の出から、お前さんは罪人の身から天下を取った。徒手空拳から天下を取ったのは、俺とお前さんくらいしかいないだろう。」
そして、さらに続けた。
「しかし、お前さんのご先祖は関東で権威があった。だから、血統の良いお前さんが挙兵すれば、多くの武士が従ったはずだ。それに比べて、自分は名もない卑しい身分から天下を取ったのだから、自分の方がお前さんより偉いのだ。」
どこまで史実かは分からないが、その理屈は理に適った話である。いずれにせよ、小田原征伐が成就し、天下統一を果たした秀吉ならではの感慨だったのかもしれない。
5.江戸の見分
頼朝が奥州征伐(奥州藤原氏を征伐)のために鎌倉を出発したのが7月19日だったことに因み、秀吉も同じ7月19日に鎌倉を出立する。秀吉の場合、先に述べたように奥州の覇者であった伊達政宗を石垣山城にて臣従させていたため、奥州征伐は必要なかった。しかし、仕置(領有等に対する支配体制の確定)は必要不可欠であったのだ。
⑤宇都宮仕置に向かう途中 江戸を検分する秀吉 |
関東一円を収めるにあたり、江戸を拠点とすべきと家康に言ったのは、実は秀吉のようだ。
幾つかの観点で秀吉が江戸をすすめた説があるが、大きく2つの説を取り上げる。
(1)江戸の潜在能力を見抜いた説
一つ目は、当時の江戸が主要な街道が通り、江戸湾の海上交通や河川交通の便が良い場所であったことだ。
秀吉は、江戸が将来的に関東支配の中心地として、大きな発展の可能性を秘めていることを見抜いていたという説である。個人的には、これを発案したのは家康かと思いきや、秀吉だったとは意外である。もちろん、家康もこの考えに同調できたからこそ、江戸を選択したのだろう。
(2)家康の脅威を排除する説
もう一つは、今回、家康が130万石から関東240万石への大幅な加増を受けたことによる脅威の排除である。
秀吉は家康を、関東・東北の諸大名への押さえとして期待する一方で、その実力を恐れていたのだ。
小田原城は、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城であり、豊臣軍に対抗するために総延長9kmにも及ぶ巨大な総構えが築かれていたことは前述の通りである。このような強力な要塞をそのまま家康に与えることは、将来的な脅威になりかねないと、秀吉は判断した可能性がある。
これに対し、当時の江戸はまだ発展途上であり、家康に一から拠点を築かせることで、その力をある程度コントロールしようとしたというのだ。
秀吉は、常に相手のことを考える誠実さの裏で、しっかりと保身策も裏で練っている。これこそが天下人としての器なのであろう。
6.結城城への立ち寄り
さて、話を戻そう。
江戸を出た秀吉は、その後、常陸の結城城に7月25日に到着した。ここでも秀吉は徳川家康への配慮を示している。
家康の次男である秀康は、すでに秀吉の養子となっていた。この秀康を、名家である結城氏の養嗣子(家督相続をする養子)にすることが、この結城城にて決定されたのである。
ここに、結城秀康が誕生した。
このとき、結城氏には、周辺地域で北条側であった豪族の土地が分け与えられているのだ。
⑥下野国にある結城城跡 |
7.宇都宮仕置
秀吉は結城城を出立し、翌日の7月26日には宇都宮城へ到着した。
秀吉の到着前から、宇都宮城には常陸国の佐竹義宣や陸奥国の南部信直といった東北・関東の大名が出頭していたのだ。
秀吉は、この城で約10日間にわたり、仕置(戦後の領土確定や人事などの支配体制の確定)を断行したのである。(写真⑦)
⑦宇都宮仕置が行われた宇都宮城 |
この宇都宮仕置の通達を受けて、家康が公式に江戸に入ったのは、この後の8月1日とされている。(江戸入府)
8.奥州仕置
宇都宮城への参集でも、またしても伊達政宗は石垣山城の時と同じく遅参を犯しているのだ。
宇都宮仕置から奥州仕置、そしてその後の問題に至るまで、天下統一の完成には伊達政宗の動向が大きく影響している。
次のシリーズでは、この伊達政宗を中心に、その辺りを詳しく書いていきたいと思う。
ご精読に感謝する。
【小田原城本丸跡(北条氏時代)】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目14
【石垣山城跡(一夜城)】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12
【鶴岡八幡宮 白旗神社】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1
【結城城跡】〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【宇都宮城跡】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1−15