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月曜日

秀吉の天下統一④ ~奥州仕置から天下統一完成へ~

前回は小田原城の落城から宇都宮仕置までを扱った。

今回はその続き、宇都宮仕置から奥州仕置、そして東北地方の混乱と収拾を描き出そうと思う。この一連の動きを、東北の雄・伊達政宗の動向を追いながら詳述していく。この混乱の収束こそが、豊臣秀吉の天下統一の完成となるのだ。

.問題児・伊達政宗の動向

①仙台に立つ伊達政宗像
前回も述べた通り、伊達政宗は宇都宮城への参集においても、石垣山城の時と同様に遅参している。彼は秀吉の到着(7月26日)から2日後に、奥州仕置の出迎えとして宇都宮入りした。

度重なる遅参が影響してか、この宇都宮仕置では、惣無事令違反とされた会津に加え、岩瀬・安積の3郡を没収された。これにより、政宗の所領は150万石から72万石へと大幅に減封された。

そもそも政宗は、北条氏と連携し、佐竹氏を挟撃する計画を立てるなど、秀吉の天下統一に公然と抵抗する姿勢を見せていた問題児であった。それにもかかわらず、一度ならず二度までも遅参した。この態度は「反省の色なし」と見なされても仕方の無い振る舞いだったと言える。

2.奥州仕置

8月4日、失意の中、伊達政宗は、奥州仕置に向けた案内役として、会津の黒川城(会津若松城)へ秀吉を先導した。

②蒲生氏郷
(作画:ザネリさん)
ここで、伊達政宗は黒川城を秀吉臣下の蒲生氏郷(がもううじさと)へ引き渡さねばならない。(絵②)

この伊達政宗の処置はある程度予測されたことであったが、他の奥州在地領主への仕置は、予見されていなかったこともあり、伝統的な在地領主にとっては、かなり厳しく感じたようだ。

これには後述する石田三成が関わっている可能性が高い。

まず、秀吉は平泉周辺の大崎氏や葛西氏などを改易処分とした。彼らが小田原へ参陣しなかったことがその理由である。その上で、新たに秀吉の家臣である木村吉清を領主として配置した。

長年安定的に統治されてきた土地柄に加え、旧来の領主と家臣団との関係を断ち切る急進的な領地替えは、現地の武士たちに強い不満を引き起こした。その結果、この不満は大規模な一揆へと発展することになる。

3.葛西・大崎一揆

天正18年(1590年)10月、奥州仕置軍が引き揚げると、仕置に対する不満から葛西・大崎の旧家臣団が一揆を起こしたこれが「葛西・大崎一揆」である。彼らは新領主である木村吉清の支配を拒否し、武力による抵抗を続けた。

この一揆の鎮圧に、伊達政宗が任じられた。しかし、政宗はやはり筋金入りの問題児である。この鎮圧計画は一時保留(ペンディング)となってしまうのだ。

4.またもや問題児・伊達政宗と決死のパフォーマンス

問題とされたのは、この一揆を煽動しているのが当の伊達政宗ではないか、という嫌疑であった。決定的証拠として、政宗の花押(サイン)が入った書状まで見つかり、政宗は絶体絶命の窮地に陥る。

「うーむ、小田原遅参時に白装束(死装束)のパフォーマンスをやってしまった。もっと華々しいパフォーマンスを秀吉に披露しなければ、今度こそ首と体がバラバラになる。

私が秀吉だったら、問答無用でこの大問題児である政宗を斬首して終りにしたくなるが、派手好きな秀吉は、この大問題児のパフォーマンスを楽しみにするキライがある。

京に呼び出された政宗は考え抜いた末、「金箔を貼った巨大な十字架を背負い、白装束で京の町を練り歩き、秀吉の前に出る」という奇抜なパフォーマンスを披露したのである。(写真③)

③白装束+金の十字架を持ち京を練り歩く政宗一行
(伊達政宗歴史館の展示物を加工)

「また面白いパフォーマンスだ。しかも金箔を使うとはワシ好みの演出!」

と秀吉は思ったのだろうか。意外にもこのパフォーマンスが気に入ったらしい。

5.鶺鴒押印事件

さて、金の十字架を背負い、京の街を練り歩いた後、政宗は秀吉と対面した。

「何故、伴天連の神のように十字架を担ぐのか?」

「伴天連は言います。彼らの神・ゼウス(イエス・キリストのこと)は、何らやましいことは一つもなかったにも関わらず、十字架に磔となって死んだと。」

④鶺鴒(セキレイ)
「では政宗、ぬしは何ら身にやましいことは無いにも関わらず、伴天連の神のようにその十字架に磔られる殉死者になると申すか。」

「はい。」

「では、この書状は何じゃ!」

と秀吉は「葛西・大崎一揆」を煽ったのが政宗である証拠の書状をはらりと白装束の政宗の前に広げる。

「書状には、紛れもない鶺鴒(セキレイ)の花押。ぬしの花押に間違いないな!」

⑤政宗の鶺鴒押印
花押は、現在の公式押印と同じ意味を持ち、特に政宗の花押は鳥の鶺鴒を模した凝ったものであった。(写真④⑤)
政宗は投げられた書状をじっと見つめた。
「良くできておりますが、失礼ながら、この書状は偽物です。」

「何をいまさら。」

「いえ、この花押は私のものではありません。私の花押であれば、鶺鴒の目のところに針で穴をあけております。この書状の鶺鴒の目には穴があいておりません。」

「ほう」と秀吉。

佐吉、政宗から送られてきた他の書状を御番所(ごばんしょ)からもってこい。

「はっ!」佐吉こと石田三成は慌ただしく立ち上がり、御番所へ走った。

御番所から、政宗の押印が入った他の書状を持って戻った三成は、秀吉に書状を渡す。秀吉はバッと書状を開き、左下の押印を眺めた。

しばらく緊張の沈黙がその場に流れる。

「ワハハ、確かにあいとるわ!」

と大声で笑う秀吉。ほっとした雰囲気の政宗の白装束の肩をポンポンと扇子で叩きながら、秀吉はその場から立ち去るのだった。

6.三成の策

先の鶺鴒押印事件について、現存する政宗の公文書に鶺鴒の目に穴があいたものは確認されていない

では、これはどういうことか。

⑥奥州仕置軍・再仕置軍等の足取り
一説には、秀吉の寛容な措置であった、あるいは政宗の鮮やかな弁舌とパフォーマンスに対する返礼であったという見方がある。また、後世の創作だとする説も有力である。

石田三成の深謀

ただ、佐吉(石田三成)もかなり怪しい。

彼は自分の深謀を早期に実現させるには、伊達政宗が必要と考えていた。その深謀とは以下の通りである。

三成は「朝鮮出兵」構想を、単なる侵略ではなく、「天下統一後の経済社会システム」として現実的な視点で捉えていた。

応仁の乱以降、百二十年以上にわたる戦乱の中で、武士だけでなく、武器商人など戦で生計を立ててきた人々が大量に増加していた。彼らが天下統一によって一気に失業すれば、当時の日本経済は崩壊するだろう。三成は、このようなハードランディングを避け、ソフトランディングを実現するための深慮遠謀を巡らせた唯一の武将である。

奥州に対する二つの期待

彼は、この海外遠征構想を推し進めるにあたり、奥州に対し以下の二つの役割を期待していた。

寒冷地での労働力確保:寒さの厳しい朝鮮半島と同じような気候の奥州以北で、有用な人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること。

極寒地での事前演習:奥州以北で戦を起こすことで、極寒の朝鮮半島における戦いの事前演習とすること。

そして彼は、奥州仕置軍の巡察行軍中、以下のように思考した。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。それゆえ、圧政を敷けば、かなりの規模の反乱が発生するのではないか。その鎮圧に軍を送れば、②が実現するし、さらにその時の捕虜を①に充当すればよい。」

三成の仕掛け

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官たちに、厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するよう仕向けた。

⑦九戸城本丸と井戸の遺構

これが効果を発揮する。先に述べた葛西・大崎一揆を皮切りに、図⑥のように和賀、稗貫などの地方から不満分子が多数発生した。許それらの一揆は鎮圧されるたび、生き残った人々は皆、最後の反乱を起こす九戸政実の許に集結したのである。これの促進に一役買っていたのが伊達政宗。

まさに三成の策に嵌りつつあったと言えるだろう。

7.九戸政実の乱

そして九戸政実の乱が九戸城にて勃発する。(写真⑦)

この反乱も、秀吉の奥州仕置に対する不満から起こった一揆の一つと見なされている。しかし、他の葛西・大崎一揆などのような領主替えや圧制への反発とは、少々背景が異なるのだ。

南部氏の家督争い

乱の真の火種は、秀吉に恭順の意を示した南部信直に対する、九戸政実をはじめとする奥州武将たちの強い不満である。

その不満の原因の一つは、南部家の強引な家督相続にあった。

信直は、女子しか子がなかった南部晴政(はるまさ)の養子として迎えられた。しかし、晴政が53歳にして晴継(はるつぐ)をもうけたことで、信直は秀吉にとっての秀次と同じく、邪魔な存在となる。

⑧九戸政実
(ザネリさん作)
信直は一旦身を引いた。だが、晴政が66歳で急死し、当主となった晴継もその直後に急死したのだ。これは信直または九戸政実による暗殺説が有力である。

政実の不満と反乱

晴継の急死により、南部家当主の座を手に入れた信直であったが、九戸政実は実弟・実親(さねちか)を晴継の後継者に据えようとしていた経緯から、信直に強い反感を抱いていた。

また、信直が宇都宮仕置で秀吉から南部家当主のお墨付きをもらい、領内の不満分子の鎮静化を図ったことも、政実には気に入らなかった。

これら南部家跡継ぎ問題に対する九戸政実の不満こそが、秀吉の天下統一に反乱を起こす直接的な火種となったのである。そして、信直の圧政に苦しむ領民らを巻き込み、九戸城へ立て籠もったのだ。

8.奥州再仕置軍の派遣

秀吉は、奥州における一連の反乱を完全に鎮圧するため、天正19年(1591年)6月20日、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」の編成を命じた。

この再仕置軍は、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった豊臣政権の主力を核とし、さらに上杉景勝伊達政宗も加わるよう命じられた大軍である。

この大軍はまず、葛西・大崎一揆などの反乱を平定しながら北進し、最終目標である九戸政実の討伐へと向かったのだ。(図⑥参照)

⑨九戸城包囲陣立

九戸政実の乱の詳細については、以下の拙著ブログを参照願いたい。

「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」

「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」

九戸城の攻防

九戸城に立て籠もった政実軍は、領民を含めても五千人に過ぎない。対する秀吉の「奥州再仕置軍」は、六万五千という圧倒的な兵力を擁していた。

兵力差は歴然としている。しかし、九戸城は極めて堅固な城郭であった。

九戸政実がこの乱を起こした唯一の活路は、この堅城をもって圧倒的な豊臣軍を厳冬の東北に留めおくことだと考えていたのである。

9.九戸政実の乱終結と天下統一の完了

しかし、奥州再仕置軍の進軍は九戸政実の想定よりも早かった。九月二日には九戸城は完全に包囲されたのである。(図⑨)

一説には、厳冬期の戦いを経験させようとする三成の策に嫌気が差した蒲生氏郷が、早期決着を目指し進軍を急いだとも言われている。

政実は、これ以上の抵抗は無益と判断し、開城を決断する。

政実の命と引き換えに籠城者全員の助命を条件とし、彼は頭を丸めて出頭した。しかし、奥州再仕置軍はこの約束を反故とする。

二の丸では、弟の九戸実親をはじめとする城内の者たちが惨殺され、火が放たれた。政実自身も平泉の南、栗原郡にて斬され、ここに九戸政実の乱は終結したのである。

⑩九戸城から出土した首の無い人骨
城内に居た者は女・子供に至るまで
なで斬りにされたとの伝承が残る)

こうして九戸政実の乱が鎮圧されたことで、豊臣秀吉の天下統一事業は名実ともに完成した。

10.おわりに

本シリーズの冒頭で述べた通り、秀吉の天下統一は小田原征伐ではなく、この九戸政実の乱の終結をもって達成されたという経緯を、ご理解いただけたであろう。

中世という時代をどこで定義するのかについては諸説ある。しかし、平安時代末期の前九年の役で源頼義・義家が陸奥(みちのく)の俘囚(ふしゅう、蝦夷)討伐を始めたことに端を発し、やはり陸奥の九戸城で終焉を迎えると考えれば、中世は陸奥で始まり陸奥で終わるという、きわめて分かりやすい構図となるのである。

ご精読に感謝する。


【宇都宮城】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町2−24

【黒川城(会津若松城、鶴ヶ城)】〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
【九戸城】〒028-6101 岩手県二戸市福岡城ノ内


木曜日

秀吉の天下統一➂ ~宇都宮仕置~

前回は小田原城の総構えを囲む、秀吉軍20万の包囲網が完成、大規模な石垣山城を付城とし、開城を促したところまで述べた。

今回は、その続きを解説する。

1.石垣山城でのエピソード2つ

小田原城を見下ろす位置に石垣山城を築いた秀吉。ここで有名なエピソード2つを改めてご紹介する。

《家康とのつれしょんべん》

①日本の首都となる東京は
この連れしょんで決定?

さてある日、秀吉は家康の手をとり、石垣山に登る。眼下に広がるは難攻不落の小田原城。

「御覧あれ、徳川殿。あの城の命運ももはや風前の灯。北条が滅びた暁には、この関八州、そっくりそのまま御辺に進ぜようぞ!」と秀吉。

さても豪快なるは、その次の一言。「ささ、共に小便を仕ろうではないか!」と言うなり、小田原城に向かって威勢よく放尿。

これこそが後世に伝わる「関東の連れ小便」の吉兆伝承である。関八州古戦録に記録されたものだが、後世の創作であろうという説が有力である。

《伊達政宗との謁見》

東国に覇を唱える北条氏を討つべく、秀吉は全国の大名に小田原への参陣を厳命。これに遅れればお家取り潰しは必定!

奥州の独眼竜こと伊達政宗は若干23歳。会津の蘆名氏を滅ぼし、奥州の覇者となったところで、「蘆名氏との戦は惣無事令違反」とされ、上洛して釈明せいとの秀吉の要請も無視していた状態。そこに最後通牒のように降ってきた小田原参陣要請。無視して秀吉と一戦交えるか、参陣して臣従するか。。。悩んでいるうちに時は経ち、小田原征伐は開始されていた。

「今更参陣しても遅い。いちかばちか秀吉と一戦交え、天下をとるか、伊達家が滅亡するか

しかし、北条方の城が次々と落ち、本拠・小田原城も落城寸前との報に、さすがの政宗も自らの甘さを悟る。もはや万事休すかと思われたその時、独眼竜はただでは死なぬと一計を案じる。

死装束である白の麻衣をその身にまとい、石垣山城へと遅参してきた伊達政宗。(絵②)

②白装束で弁明する政宗
「遅参の罪は、この首一つにてご勘弁願いたい!」

この常軌を逸した度胸と芝居がかった振る舞いは、怒れる天下人・秀吉の度肝を抜き、その興味を引くことに成功。

結果、斬首は免れたものの、苦労して蘆名氏より手に入れた会津の地は召し上げられることに。政宗は、この石垣山城での謁見において、天下の広さと秀吉という男の巨大さを、骨の髄まで思い知らされたのだった。1か月後、小田原城は降参、開城する。まさにギリギリでヒヤヒヤモノの政宗であった。

その後、政宗は改めて後述する宇都宮城にて秀吉に引見。領地の決定を受けることとなる。

2.小田原城開城までの経緯

小田原城は、支城がことごとく陥落し、外部からの援軍の望みも絶たれた。

城内では、徹底抗戦か降伏かを巡って議論が紛糾した(後に小田原評定と呼ばれる)。

最終的に、約3ヶ月の籠城の末、当主の北条氏直は降伏を決断し、天正18年(1590年)7月5日に小田原城は開城した。

この結果、

  • 当主の氏直は、妻が徳川家康の娘であったこともあり、助命されたが、高野山へ追放された。
  • 主戦派であった父の氏政と叔父の氏照は切腹を命じられ、戦国大名としての北条氏は滅亡した。

この小田原征伐の完了をもって、豊臣秀吉による天下統一は成し遂げられたとされる。

3.その後の北条氏

氏直は、家康らがとりなしに入ったこともあり、翌年の天正19年(1591年)2月には赦免された。

なんと、同年8月には大名への返り咲きまで果たした。しかし、その直後の11月に疱瘡(ほうそう)で亡くなるという、あまりにも残念な結末を迎える。せっかく北条家復活の光が見えてきた矢先の病死であった。

ここで北条家も終焉かと思いきや、あの籠城戦で粘りに粘った韮山城主である北条氏規(うじのり)が、これまた徳川家康の取り成しもあって河内(現在の大阪府)に所領を与えられた。氏規は氏直の叔父にあたる人物である。

そして、その氏規の息子である氏盛(うじもり)が1万1千石に加増され、大名入りを果たしたのだ。この家系は狭山藩として、幕末まで続くことになるのである。(写真③)

③日比谷公園はかつて北条氏・狭山藩上屋敷があった場所

4.鎌倉での秀吉

20万という大軍をもって小田原城を攻め落とした秀吉。

天下統一を果たし、大坂へ引き上げたいところであったが、元来、日本の西地域で活躍していた秀吉である。関東まで来たのだからと考えたのかどうかは別として、彼はさらに東下を続けた。

天正18年(1590年)7月17日、秀吉は鎌倉へ入った。

彼はまず鶴岡八幡宮に参詣し、源頼朝の像と対面を果たしたのである。(写真④)

④当時鶴岡八幡宮内白旗神社にあった頼朝座像
(東京国立博物館蔵)

このとき、秀吉は頼朝像の肩を叩きながら、次のように話しかけたとの伝承がある。

「自分は農民の出から、お前さんは罪人の身から天下を取った。徒手空拳から天下を取ったのは、俺とお前さんくらいしかいないだろう。」

そして、さらに続けた。

「しかし、お前さんのご先祖は関東で権威があった。だから、血統の良いお前さんが挙兵すれば、多くの武士が従ったはずだ。それに比べて、自分は名もない卑しい身分から天下を取ったのだから、自分の方がお前さんより偉い。」

どこまで史実かは分からないが、その理屈は理に適った話である。いずれにせよ、小田原征伐が成就し、天下統一を果たした秀吉ならではの感慨だったのかもしれない。

5.江戸の見分

頼朝が奥州征伐(奥州藤原氏を征伐)のために鎌倉を出発したのが7月19日だったことにちなみ、秀吉も同じ7月19日に鎌倉を出立する。秀吉の場合、先に述べたように奥州の覇者であった伊達政宗を石垣山城にて臣従させていたため、奥州征伐は必要なかった。しかし、仕置(領有等に対する支配体制の確定)は必要不可欠であった

⑤宇都宮仕置に向かう途中
江戸を検分する秀吉
鎌倉を出発して秀吉がまず立ち寄ったのは江戸である。(絵⑤)

関東一円を収めるにあたり、江戸を拠点とすべきと家康に言ったのは、実は秀吉のようだ。

幾つかの観点で秀吉が江戸をすすめた説があるが、大きく2つの説を取り上げる。

(1)江戸の潜在能力を見抜いた説

一つ目の説は、当時の江戸は主要な街道が通り、江戸湾の海上交通や河川交通の便が良い場所であったことだ。

秀吉は、江戸が将来的に関東支配の中心地として、大きな発展の可能性を秘めていることを見抜いていたという説である。個人的には、これを発案したのは家康かと思いきや、秀吉だったとは意外である。もちろん、家康もこの考えに同調できたからこそ、江戸を選択したのだろう。

(2)家康の脅威を排除する説

もう一つの説は、今回、家康が130万石から関東240万石への大幅な加増を受けたことによる脅威の排除である。

秀吉は家康を、関東・東北の諸大名への押さえとして期待する一方で、その実力を恐れていた。

小田原城は、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えた難攻不落の城であり、巨大な総構が築かれていたことは前述の通りである。このような強力な要塞をそのまま家康に与えることは、将来的な脅威になりかねないと、秀吉は判断した可能性がある。

これに対し、当時の江戸はまだ発展途上であり、家康に一から拠点を築かせることで、その力をある程度コントロールしようとしたというのだ。

秀吉は、常に相手のことを考える誠実さの裏で、しっかりと保身策も練っている。これこそが天下人としての器なのであろう。

6.結城城への立ち寄り

さて、話を戻そう。

江戸を出た秀吉は、その後、常陸の結城城に7月25日に到着した。ここでも秀吉は徳川家康への配慮を示している。

家康の次男である秀康は、すでに秀吉の養子となっていた。この秀康を、名家である結城氏の養嗣子(家督相続をする養子)にすることが、この結城城にて決定されたのである。

ここに、結城秀康が誕生した。

このとき、結城氏には、周辺地域で北条側であった豪族の土地が分け与えられている。

⑥下野国にある結城城跡

7.宇都宮仕置

秀吉は結城城を出立し、翌日の7月26日には宇都宮城へ到着した。

秀吉の到着前から、宇都宮城には常陸国の佐竹義宣や陸奥国の南部信直といった東北・関東の大名が出頭していたのだ。

秀吉は、この城で約10日間にわたり、仕置(戦後の領土確定や人事などの支配体制の確定)を断行したのである。(写真⑦)

⑦宇都宮仕置が行われた宇都宮城

最近の研究で分かってきたことなのだが、関東や東北の雄たちは、小田原へ参陣したかどうかが宇都宮仕置における重要な処分の分かれ道だったと思われていた。

しかし、この宇都宮仕置中に宇都宮城へ出頭するかどうかも、重要な判断基準であったようだ。

例えば、下野国の那須資晴は、宇都宮までわずか一日の距離にいながら、病気を理由に出頭しなかった。このため、秀吉は領地没収に踏み切ったのだ。

また、徳川家康は、すでに小田原で関東地方への移封を内示されていたが、7月29日に宇都宮城であらためて秀吉に会い、公式な通達を受けた。

途中江戸を見てきた秀吉は、家康に対し、

「権大納言殿、やはり江戸は広大な関東の拠点として申し分ない。大坂城と似ている。江戸城を改築なされい。」

のようなことを言ったであろう。

この宇都宮仕置の通達を受けて、家康が公式に江戸に入ったのは、この後の8月1日とされている。(江戸入府)

8.奥州仕置

宇都宮城への参集でも、またしても伊達政宗は石垣山城の時と同じく遅参を犯しているのだ。

宇都宮仕置から奥州仕置、そしてその後の問題に至るまで、天下統一の完成には伊達政宗の動向が大きく影響している。

次のシリーズでは、この伊達政宗を中心に、その辺りを詳しく書いていきたいと思う。

ご精読に感謝する。

【小田原城本丸跡(北条氏時代)】〒250-0045 神奈川県小田原市城山3丁目14

【石垣山城跡(一夜城)】〒250-0021 神奈川県小田原市早川1383−12

【鶴岡八幡宮 白旗神社】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1

【結城城跡】〒307-0001 茨城県結城市結城2486−1
【宇都宮城跡】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1−15

土曜日

秀吉の天下統一① ~名胡桃城事件~

豊臣秀吉の天下統一は、20万の秀吉軍による小田原征伐の完了をもって成し遂げられた。多くの人が、小中学生の頃にそう習ったはずだ。しかし、その認識は正確なのだろうか?
①小田原城

秀吉は小田原征伐の後も、北関東から東北にかけての領土問題を解決するため「宇都宮仕置」「奥州仕置」を行った。さらに、これに不満を抱いた九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こし、その鎮圧にまで時間を要している。

真の天下統一は、この「九戸政実の乱」の平定をもって完了したのではなかろうか。今回のシリーズでは、この天下統一の総仕上げに至る経緯を紐解いていく。

1.惣無事令(そうぶじれい)

本能寺の変から5年後の天正15年(1587年)、豊臣秀吉が全国に発した「惣無事令(そうぶじれい)」は、大名間の私闘を禁じ、その裁定権を秀吉自身に一元化することを目的としていた。
要するに、秀吉の許可なく勝手に戦をしてはならない、という天下統一に向けた強力な命令だった。

②北条氏邦の鉢形城
この巨岩の上が本丸

この惣無事令違反を理由に実施されたのが、小田原征伐である。 当時の北条氏は約250万石という広大な領土を持つ有力大名であり、天下統一を目前に控えた秀吉にとって、その存在は無視できないものだった。徹底恭順か、つぶすかの二択を迫られる存在だったのだ。秀吉としてはできれば、何某かの口実でつぶしてしまおうと考えていたのだろう。

後世に、徳川家康が豊臣家を滅ぼす口実とした「方広寺の鐘銘事件」のような、いわば難癖のようなものと小田原征伐の口実も同じではないか、と考える向きもある。しかし、北条氏の惣無事令違反は、決して言いがかりではなかった。

2.北条氏の惣無事令違反① 宇都宮攻め

惣無事令は、関東・東北地方で領土拡大の野心を燃やす武将たちに、特に向けられた命令だった。北条氏は北関東への勢力拡大を狙い、東北では伊達政宗が領土拡大を企てていたのだ。彼らは天下統一に出遅れた分を取り戻そうと、まさに領土欲の塊だった。乗り遅れたと焦る彼らこそ、惣無事令が特に標的とした武将たちだった。

惣無事令発令から2年後の天正17年(1589年)、この命令を無視し、北条氏は下野国(現在の栃木県)へ侵攻した。鉢形城主の北条氏邦は、宇都宮国綱の拠点・宇都宮城を攻撃したのである。 これは、秀吉の定めた秩序を破る、明確な惣無事令違反だった。(写真②、360°写真③)

③宇都宮城
確かに宇都宮城は市街にある平城

宇都宮国綱は、平城だった宇都宮城から、より守りやすい山城である多気城へ拠点を移し、なんとか北条氏の侵攻を防いだ。(写真④)

④宇都宮氏が、宇都宮城から
移った山城・多気城
(宇都宮城内展示模型)

翌年、小田原征伐を行い、北条氏を全面降伏させた秀吉。この後、宇都宮城に入城し、かの有名な宇都宮仕置を実現する。

しかし、歴史的に見ると、この宇都宮攻めが直接的な開戦理由になったとは一般的には言われない。

秀吉に20万の大軍を率いて小田原征伐を決意させたのは、名胡桃(なぐるみ)城事件こそが最大の引き金だったとされている。

3.北条氏の惣無事令違反② 名胡桃城事件

北条氏の宇都宮攻めは、単純な惣無事令違反だった。しかし、もう一つの違反である名胡桃(なぐるみ)城事件は、さらに悪質だったのだ。
この事件には、秀吉が仕掛けた罠だったという説もある。もしそれが事実なら、秀吉はやはり恐るべき策士だ。徳川家康が方広寺の鐘銘を口実にした「国家安康」の件など、子供の遊びのように思えてくるほどである。
では、なぜこの名胡桃城事件こそが、小田原征伐の直接的な原因とされているのか、その詳細を見ていこう。

4.真田昌幸(まさゆき)のリスクヘッジ

もともと北関東の西側は、信濃の武田、関東の北条、越後の上杉という三国がにらみ合う地だった。武田軍の最前線を担っていたのが、信州・上田城を拠点とする真田昌幸である。

◆ ◇ ◆ ◇

ここで少し脱線しよう。武田家滅亡の直前、織田信長の大軍に攻められ、武田勝頼は居城・新府城を捨てて落ち延びる先を探した。その際、昌幸が「私の岩櫃城へ!」と進言したことは有名だ。
岩櫃城は、信州・上田城と沼田方面の拠点である名胡桃城・沼田城を結ぶ要衝であり、信州にも上州にも機動的に出られる、非常に重要な城だったのだ。(図⑤)

⑤惣無事令発出時の真田領と北条領

岩櫃城は、単に防御に優れているだけでなく、非常に戦略的な位置にあった。織田軍や北条氏の動きに応じて、上田城や名胡桃城、沼田城など真田氏の各城と連携し、臨機応変に対応できる要衝だったのである。
一方で、この時、武田勝頼が落ち延びる先として選んだのは、小山田信茂の岩殿城だった。(写真⑥)

岩櫃城と岩殿城、名前も堅牢さも似ているこの二つの巨岩の城、そして静岡県の久能山城の三つこそが、武田氏の三堅城として知られている。
⑥左:岩櫃城(上州) 右:岩殿城(大月市)

もしあの時、武田勝頼が戦術的にも機動性にも優れた岩櫃城を選んでいれば、その後の歴史は大きく変わっていたことだろう。
昌幸は、その機動性の高さを証明するかのように、わずか3日で勝頼を迎えるための屋敷を岩櫃城に建てさせた。(写真⑦)
一方、勝頼が選んだ岩殿城は、勝頼が来ることを恐れ、何も準備しなかった。屋敷どころか、甲斐から郡内へ入る笹子峠に防御柵を設けて、勝頼の入城を阻もうとしたのだ。

⑦岩櫃城を背景とした武田勝頼のための屋敷跡

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さて、話を戻そう。北条氏の北関東における勢力拡大は、前述した宇都宮城などの北東方面だけにとどまらなかった。当然、北西方面、つまり沼田領への侵攻も積極的に進めていたのだ。
⑧真田昌幸像
(Wikipediaより)

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が死去すると、旧武田領(信濃、甲斐、上野など)はたちまち大混乱に陥った。武田家が滅亡してからわずか3ヶ月後のことであり、新領主・信長の死は、まさに混沌に拍車をかけた。
この混乱に乗じ、旧武田領をめぐる争奪戦、「天正壬午の乱」が勃発する。その主役は北条、徳川、上杉、そして真田の四者だった。真田家は小大名だったため、生き残りをかけて徳川、上杉と主君を転々としながら領土を守ることに必死だった。特に、沼田領の獲得を狙う北条氏に対抗するため、真田昌幸は徳川家康と手を組む。

しかし、徳川家康は北条氏直との和睦の席で、「沼田領を北条氏に割譲する」という条件を出した。

これに真田昌幸は激怒し、家康を見限って上杉景勝の傘下に入った。家康は代替地として信濃国伊那郡箕輪を準備していたものの、昌幸にしてみれば、沼田領を譲れば、次は岩櫃城、そしてその先と、北条氏の勢力拡大の餌食になってしまうという危機感があったのだ。彼にとって、沼田領は自家の存続を賭けた、決して譲れない土地だったのである。

5. 豊臣秀吉による沼田裁定

上杉景勝を頼った真田昌幸だったが、複雑な経緯を経て、最終的には豊臣秀吉の大名となった。この時、秀吉から徳川家康の与力を命じられている。
それから7年後の天正17年(1589年)、秀吉は改めて北条氏と真田氏の沼田領をめぐる裁定を下した。

秀吉の裁定は、沼田領を分割するというものだった。
  • 北条氏:沼田城を含む、3分の2
  • 真田氏:祖先の墓がある地と主張した名胡桃城を含む、3分の1
この分割は、利根川上流を境界線として行われたと言われている。(写真⑨)
この裁定により、長きにわたる沼田領争奪戦に、ひとまずの決着がつくことになった。

⑨沼田城址(北条)から名胡桃城(真田)
方面を望む

名胡桃城は奥の山の中腹あたりにあるが、
その手前、道路と並行している緑の辺りが
北条と真田の領境・利根川

秀吉による沼田領の分割裁定は、両者にとって不満の残るものだったようだ。真田昌幸は、元々真田氏の領地だった沼田城を北条氏に引き渡すことになり、到底納得できなかった。これは北条氏への大きな譲歩だったからだ。

一方の北条氏もまた、不満だった。7年前の徳川家康との和睦では、沼田領の全面割譲が約束されていた。それなのに、小大名にすぎない真田氏に3分の1とはいえ領地が残されたことに、納得がいかなかったのである。

そして、裁定からわずか3ヶ月後、北条氏の行動が事態を決定的に動かした。彼らは、秀吉の裁定で真田氏の領地とされた名胡桃城を、武力によって奪い取ってしまったのだ。

この行為は、秀吉の定めた秩序を根底から覆すものだった。この事件こそが、天下統一を目前にした秀吉が、ついに北条氏を討つ決意を固める直接的な引き金となったのである。

⑩名胡桃城から沼田城方面を臨む

北条氏の名胡桃城攻めは、秀吉が下した裁定を武力で覆す行為だった。秀吉はこれを「許し難い背信行為」として厳しく糾弾した。
そもそも、秀吉は真田氏が元々領有していた沼田城を北条氏に引き渡すなど、北条氏への譲歩を示していたのである。にもかかわらず、その恩義を無視し、さらに惣無事令を破ってまで名胡桃城を攻め取ったのだ。これは、天下人である秀吉の権威に対する、明白かつ直接的な挑戦にほかならない。秀吉が小田原征伐を決意したのも当然のことだ。

6.小田原攻めの蛙告(けいこく)

北条氏による宇都宮城への侵攻は、確かに惣無事令違反だったが、単純な違反にすぎない。しかし、名胡桃城事件は全く異なる。これは惣無事令違反に加え、秀吉が示した温情による譲歩すら北条氏が踏みにじった、決定的な背信行為だったのだ。
「北条は潰す!」と、秀吉が激怒したのも当然だろう。

これで、小田原征伐が名胡桃城事件によって決定された経緯に納得いただけただろうか。これは、徳川家康が大坂城を攻める口実とした「方広寺の鐘銘事件」とはわけが違う。圧倒的な実力を持つ秀吉が、北条氏に譲歩まで見せたにもかかわらず、それを踏みにじるような態度は、誰の目から見ても「悪は北条」と言いたくなるものだ。

しかし、あまりに出来過ぎた話であるため、秀吉と真田昌幸が共謀した、あるいは秀吉が意図的に仕組んだのではないか、という噂が現在まで絶えないのである。

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さて、このような経緯を辿った後、小田原には、こんな伝承が残っているので紹介する。
⑪蛙石(北条稲荷)

小田原の海岸近く、北条稲荷に蛙石(かわずいし)と呼ばれる岩がある。(写真⑪)
 蛙のような形をしたこの石は、明治35年の大津波でも、関東大震災でも微動だにしなかったという。試しに掘り起こそうとしたところ、3メートル以上掘っても底に達せず、小田原の地下岩盤の先端ではないかと言われている。

この蛙石は、小田原に異変が起こるたびに鳴いたと伝えられている。名胡桃城事件から小田原城が落城するまでの間、昼夜を問わず盛んに鳴き続けたという伝承が残っているのだ。
まさに警告ならぬ、「蛙告(けいこく)」と呼ぶにふさわしい話である。

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こうして、小田原攻めが始まった。
詳細は次回に譲るが、北条氏政・氏直父子は豊臣軍に対抗するため、町全体を覆う壮大な防御施設「総構え」を築き上げた。その延長は9kmにも及び、秀吉が築いた大坂城の惣構を凌ぐ規模だったと言われている。(写真⑫)

⑫小田原城総構の一部
小峯御鐘ノ台大堀切東堀


精読に感謝する。次回に続く。