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月曜日

秀吉の天下統一④ ~奥州仕置から天下統一完成へ~

前回は小田原城の落城から宇都宮仕置までを扱った。

今回はその続き、宇都宮仕置から奥州仕置、そして東北地方の混乱と収拾を描き出そうと思う。この一連の動きを、東北の雄・伊達政宗の動向を追いながら詳述していく。この混乱の収束こそが、豊臣秀吉の天下統一の完成となるのだ。

.問題児・伊達政宗の動向

①仙台に立つ伊達政宗像
前回も述べた通り、伊達政宗は宇都宮城への参集においても、石垣山城の時と同様に遅参している。彼は秀吉の到着(7月26日)から2日後に、奥州仕置の出迎えとして宇都宮入りした。

度重なる遅参が影響してか、この宇都宮仕置では、惣無事令違反とされた会津に加え、岩瀬・安積の3郡を没収された。これにより、政宗の所領は150万石から72万石へと大幅に減封された。

そもそも政宗は、北条氏と連携し、佐竹氏を挟撃する計画を立てるなど、秀吉の天下統一に公然と抵抗する姿勢を見せていた問題児であった。それにもかかわらず、一度ならず二度までも遅参した。この態度は「反省の色なし」と見なされても仕方の無い振る舞いだったと言える。

2.奥州仕置

8月4日、失意の中、伊達政宗は、この後奥州仕置の案内として、会津の黒川城(会津若松城)へ秀吉を案内する。

②蒲生氏郷
(作画:ザネリさん)
ここで、伊達政宗は黒川城を秀吉臣下の蒲生氏郷(がもううじさと)へ引き渡さねばならない。(絵②)

この伊達政宗の処置はある程度予測されたことであったが、他の奥州在地領主への仕置は、予見されていなかったこともあり、伝統的な在地領主にとっては、かなり厳しく感じたようだ。

これには後述する石田三成が関わっている可能性が高い。

まず、秀吉は平泉周辺の大崎氏や葛西氏などを改易処分とした。彼らが小田原へ参陣しなかったことがその理由である。その上で、新たに秀吉の家臣である木村吉清を領主として配置した。

長年安定的に統治されてきた土地柄に加え、旧来の領主と家臣団との関係を断ち切る急進的な領地替えは、現地の武士たちに強い不満を引き起こした。その結果、この不満は大規模な一揆へと発展することになる。

3.葛西・大崎一揆

天正18年(1590年)10月、奥州仕置軍が引き揚げると、仕置に対する不満から葛西・大崎の旧家臣団が一揆を起こした。これが「葛西・大崎一揆」である。彼らは新領主である木村吉清の支配を拒否し、武力による抵抗を続けた。

この一揆の鎮圧に、伊達政宗が任じられた。しかし、政宗はやはり筋金入りの問題児である。この鎮圧計画は一時保留(ペンディング)となってしまうのだ。

4.またもや問題児・伊達政宗と決死のパフォーマンス

問題とされたのは、この一揆を煽動しているのが当の伊達政宗ではないか、という嫌疑であった。決定的証拠として、政宗の花押(サイン)が入った書状まで見つかり、政宗は絶体絶命の窮地に陥る。

「うーむ、小田原遅参時に白装束(死装束)のパフォーマンスをやってしまった。もっと華々しいパフォーマンスを秀吉に披露しなければ、今度こそ首と体がバラバラになる。

私が秀吉だったら、問答無用でこの大問題児である政宗を斬首して終りにしたくなるが、派手好きな秀吉は、この大問題児のパフォーマンスを楽しみにするキライがある。

京に呼び出された政宗は考え抜いた末、「金箔を貼った巨大な十字架を背負い、白装束で京の町を練り歩き、秀吉の前に出る」という奇抜なパフォーマンスを披露したのである。(写真③)

③白装束+金の十字架を持ち京を練り歩く政宗一行
(伊達政宗歴史館の展示物を加工)

「また面白いパフォーマンスだ。しかも金箔を使うとはワシ好みの演出!」

と秀吉は思ったのだろうか。意外にもこのパフォーマンスが気に入ったらしい。

5.鶺鴒押印事件

さて、金の十字架を背負い、京の街を練り歩いた後、政宗は秀吉と対面した。

「何故、伴天連の神のように十字架を担ぐのか?」

「伴天連は言います。彼らの神・ゼウス(イエス・キリストのこと)は、何らやましいことは一つもなかったにも関わらず、十字架に磔となって死んだと。」

④鶺鴒(セキレイ)
「では政宗、ぬしは何ら身にやましいことは無いにも関わらず、伴天連の神のようにその十字架に磔られる殉死者になると申すか。」

「はい。」

「では、この書状は何じゃ!」

と秀吉は「葛西・大崎一揆」を煽ったのが政宗である証拠の書状をはらりと白装束の政宗の前に広げる。

「書状には、紛れもない鶺鴒(セキレイ)の花押。ぬしの花押に間違いないな!」

⑤政宗の鶺鴒押印
花押は、現在の公式押印と同じ意味を持ち、特に政宗の花押は鳥の鶺鴒を模した凝ったものであった。(写真④⑤)
政宗は投げられた書状をじっと見つめた。
「良くできておりますが、失礼ながら、この書状は偽物です。」

「何をいまさら。」

「いえ、この花押は私のものではありません。私の花押であれば、鶺鴒の目のところに針で穴をあけております。この書状の鶺鴒の目には穴が空いておりません。」

「ほう」と秀吉。

佐吉、政宗から送られてきた他の書状を御番所(ごばんしょ)からもってこい。

「はっ!」佐吉こと石田三成は慌ただしく立ち上がり、御番所へ走った。

御番所から、政宗の押印が入った他の書状を持って戻った三成は、秀吉に書状を渡す。秀吉はバッと書状を開き、左下の押印を眺めた。

しばらく緊張の沈黙がその場に流れる。

「ワハハ、確かに開いとるわ!」

と大声で笑う秀吉。ほっとした雰囲気の政宗の白装束の肩をポンポンと扇子で叩きながら、秀吉はその場から立ち去るのだった。

6.三成の策

先の鶺鴒押印事件について、現存する政宗の公文書に鶺鴒の目に穴が開いたものは確認されていない

では、これはどういうことか。

⑥奥州仕置軍・再仕置軍等の足取り
一説には、秀吉の寛容な措置であった、あるいは政宗の鮮やかな弁舌とパフォーマンスに対する返礼であったという見方がある。また、後世の創作だとする説も有力である。

石田三成の深謀

ただ、佐吉(石田三成)もかなり怪しい。

彼は自分の深謀を早期に実現させるには、伊達政宗が必要と考えていた。その深謀とは以下の通りである。

三成は「朝鮮征伐」構想を、単なる侵略ではなく、「天下統一後の経済社会システム」として現実的な視点で捉えていた。

応仁の乱以降、百二十年以上にわたる戦乱の中で、武士だけでなく、武器商人など戦で生計を立ててきた人々が大量に増加していた。彼らが天下統一によって一気に失業すれば、当時の日本経済は崩壊するだろう。三成は、このようなハードランディングを避け、ソフトランディングを実現するための深慮遠謀を巡らせた唯一の武将である。

奥州に対する二つの期待

彼は、この海外遠征構想を推し進めるにあたり、奥州に対し以下の二つの役割を期待していた。

寒冷地での労働力確保:寒さの厳しい朝鮮半島と同じような気候の奥州以北で、有用な人夫を調達し、朝鮮出兵に投入すること。

極寒地での事前演習:奥州以北で戦を起こすことで、極寒の朝鮮半島における戦いの事前演習とすること。

そして彼は、奥州仕置軍の巡察行軍中、以下のように思考した。

「奥州は元々まつろわぬ人である蝦夷(えみし)の国であり、中央権力に対する反骨精神が昔から強い。それゆえ、圧政を敷けば、かなりの規模の反乱が発生するのではないか。その鎮圧に軍を送れば、②が実現するし、さらにその時の捕虜を①に充当すればよい。」

三成の仕掛け

そして三成は、奥州仕置軍が残した代官たちに、厳しい検地や刀狩り、取り立てを実施するよう仕向けた。

⑦九戸城本丸と井戸の遺構

これが効果を発揮する。先に述べた葛西・大崎一揆を皮切りに、図⑥のように和賀、稗貫などの地方から不満分子が多数発生した。それらの一揆は鎮圧されるたび、生き残った人々は皆、最後の反乱を起こす九戸政実の許に集結したのである。これの促進に一役買っていたのが伊達政宗。

まさに三成の策に嵌りつつあったと言えるだろう。

7.九戸政実の乱

そして九戸政実の乱が九戸城にて勃発する。(写真⑦)

この反乱も、秀吉の奥州仕置に対する不満から起こった一揆の一つと見なされている。しかし、他の葛西・大崎一揆などのような領主替えや圧制への反発とは、少々背景が異なるのだ。

南部氏の家督争い

乱の真の火種は、秀吉に恭順の意を示した南部信直に対する、九戸政実をはじめとする奥州武将たちの強い不満である。

その不満の原因の一つは、南部家の強引な家督相続にあった。

信直は、女子しか子がいなかった南部晴政(はるまさ)の養子として迎えられた。しかし、晴政が53歳にして晴継(はるつぐ)をもうけたことで、信直は秀吉にとっての秀次と同じく、邪魔な存在となる。

⑧九戸政実
(ザネリさん作)
信直は一旦身を引いた。だが、晴政が66歳で急死し、当主となった晴継もその直後に急死したのだ。これは信直または九戸政実による暗殺説が有力である。

政実の不満と反乱

柔軟かつ狡猾に南部家当主の座を手に入れた信直であったが、九戸政実は実弟・実親(さねちか)を晴継の後継者に据えようとしていた経緯から、信直に強い反感を抱いていた。

また、信直が宇都宮仕置で秀吉から南部家当主のお墨付きをもらい、領内の不満分子の鎮静化を図ったことも、政実には気に入らなかった。

これら南部家跡継ぎ問題に対する九戸政実の不満こそが、秀吉の天下統一に反乱を起こす直接的な火種となったのである。そして、信直の圧政に苦しむ領民らを巻き込み、九戸城へ立て籠もったのだ。

8.奥州再仕置軍の派遣

秀吉は、奥州における一連の反乱を完全に鎮圧するため、天正19年(1591年)6月20日、甥の豊臣秀次を総大将とする「奥州再仕置軍」の編成を命じた。

この再仕置軍は、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった豊臣政権の主力を核とし、さらに上杉景勝伊達政宗も加わるよう命じられた大軍である。

この大軍はまず、葛西・大崎一揆などの反乱を平定しながら北進し、最終目標である九戸政実の討伐へと向かったのだ。(図⑥参照)

⑨九戸城包囲陣立

九戸政実の乱の詳細については、以下の拙著ブログを参照願いたい。

「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」

「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」

九戸城の攻防

九戸城に立て籠もった政実軍は、領民を含めても五千人に過ぎない。対する秀吉の「奥州再仕置軍」は、六万五千という圧倒的な兵力を擁していた。

兵力差は歴然としている。しかし、九戸城は極めて堅固な城郭であった。

九戸政実がこの乱を起こした唯一の活路は、この堅城をもって圧倒的な豊臣軍を厳冬の東北に留めおくことだと考えていたのである。

9.九戸政実の乱終結と天下統一の完了

しかし、奥州再仕置軍の進軍は九戸政実の想定よりも早かった。九月二日には九戸城は完全に包囲されたのである。(図⑨)

一説には、厳冬期の戦いを経験させようとする三成の策に嫌気が差した蒲生氏郷が、早期決着を目指し進軍を急いだとも言われている。

政実は、これ以上の抵抗は無益と判断し、開城を決断する。

政実の命と引き換えに籠城者全員の助命を条件とし、彼は頭を丸めて出頭した。しかし、奥州再仕置軍はこの約束を反故とする。

二の丸では、弟の九戸実親をはじめとする城内の者たちが惨殺され、火が放たれた。政実自身も平泉の南、栗原郡にて斬され、ここに九戸政実の乱は終結したのである。

⑩九戸城から出土した首の無い人骨
城内に居た者は女・子供に至るまで
なで斬りにされたとの伝承が残る)

こうして九戸政実の乱が鎮圧されたことで、豊臣秀吉の天下統一事業は名実ともに完成した。

10.おわりに

本シリーズの冒頭で述べた通り、秀吉の天下統一は小田原征伐ではなく、この九戸政実の乱の終結をもって達成されたという経緯を、ご理解いただけたであろう。

中世という時代をどこで定義するのかについては諸説ある。しかし、平安時代末期の前九年の役で源頼義・義家が陸奥(みちのく)の俘囚(ふしゅう、蝦夷)討伐を始めたことに端を発し、やはり陸奥の九戸城で終焉を迎えると考えれば、中世は陸奥で始まり陸奥で終わるという、きわめて分かりやすい構図となるのである。

ご精読に感謝する。


【宇都宮城】〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町2−24

【黒川城(会津若松城、鶴ヶ城)】〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
【九戸城】〒028-6101 岩手県二戸市福岡城ノ内


土曜日

のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~

①忍城攻略の石田三成が陣を張った
丸山墓山古墳を仲間たちと登る
映画「のぼうの城」で忍城(おしじょう)が有名になってから、早5年が経とうとしています。

この映画を見た時は、「へぇー、小田原征伐に、こんなに生き生きした物語が隠れていたなんて」と感じたのがつい昨日のようです(笑)。

それが昨年、Facebook仲間と一緒に行田市へ行って色々と調べると、この映画(小説)も、史実と史実の不明な箇所は、筆者、和田竜氏の思い描くストーリーで埋める方式で作られるからこそ、あそこまで生き生き描けることが良く分かりました。

まずは和田竜氏の「のぼうの城」の小説に大方沿う形で、この忍城の水攻めについてレポートします。

その後、僭越ですが、この城攻めに関する石田三成についての和田竜氏と私の受ける印象の違いについて、考察させて頂ければと思います。

1.忍城について

忍城は、1478年、この地方の豪族 成田氏が、やはりこの地の忍(おし)一族を攻め滅ぼし、築城したと言われています。

②元々城郭の殆どが水の中にある
この成田氏、かなり自由闊達なタイプの一族のようで、まず、関東一円に勢力を伸ばしてきた北条氏康に対して反発します。

反発のために手を結んだのが上杉謙信。

1561年の上杉謙信による小田原攻めの時には、謙信に同調し、小田原城を攻めているのです。

ところが、15年後に謙信が関東管領に任命されると、どういう訳か、今度は謙信に対して反発。北条と手を結びます。

謙信は怒って忍城を包囲しますが、持ちこたえます。防衛力の高い忍城は関東七名城の1つとして名を馳せます。

それから16年後の1590年、この忍城を、豊臣軍が、まさに攻めに来ます。あの20万の大軍と一夜城(石垣山城)で、小田原城を包囲したことで有名な小田原征伐の一環の軍事行動なのです。

この時、忍城を包囲した豊臣軍は、2万、それに対する忍城は、戦のプロである城兵はたったの500、一緒に籠城した農民らを合わせても2~3000と、約10倍の敵と戦うこととなるのです。

2.大軍の総大将 石田三成

③小説「のぼうの城」の
下巻表紙(左)は三成
右は「のぼう」こと成田長親
忍城は、元々荒川と利根川の間に挟まれた土地にあり、大きな沼地となった中の島々を上手く繋ぎ、造られた城です。(写真②)

だからこそ、攻めづらく、あの上杉謙信でさえ、落とすことが出来ないくらい堅牢な城構えだったことが分かります。

豊臣軍が、幾ら軍勢力2万を頼みに力押しに押しても、かなりの犠牲者を覚悟しないと、この城は落ちません。

そこで検討されたのが水攻めです。

豊臣軍の忍城攻略大将として、任命されたのは石田三成。(写真③左)

「のぼうの城」では、官僚的な仕事ばかりやり、軍功が皆無である三成に、秀吉が親心を出して、この忍城攻めの総大将をさせるのです。

放って置いても2万の大軍の総大将なのですから、軍功間違いなしだろうというところですが、更に、忍城城主 成田氏長(なりたうじなが)が秀吉と内通している既成事実を、わざと三成に伏せた上での総大将です。負ける訳がありません。

④石田三成の本陣 丸墓山古墳
かなり甘いです。秀吉は三成に。

この話に出てくる三成は、秀吉の戦(いくさ)ぶりに感化され、特に秀吉の有名な備中高松城の水攻めのスケールの大きさに純粋に感動したことをから、是非自分でも、この水攻めをやってみたいと虎視眈々と狙っていたので、喜々として出撃していきます。

また、武将としては初々しい(うぶい?)三成は、忍城攻略前に、館林城を攻めようとするのですが、戦う前からこの城が、あまりの大軍に戦意喪失し、降伏してしまうことに、がっかりし、「大権力にもめげずに、戦う筋のある武将と合い間見えたい」と考えます。

そこで、忍城の城代として守備兵の総大将である「のぼう」こと成田長親(まさちか 城主氏長の従兄弟)に、挑発的かつ居丈高な降伏勧告を行うことで、わざと怒らせ、当初は最初から城を明け渡す予定であった成田長親に、開戦に翻意させるよう仕向けるのです。

このように、筆者の和田竜氏は、官僚として、人心コントロールには長けているものの、戦(いくさ)は初心者、非常に純粋、そして自由奔放な総大将石田三成を描いています。

⑤忍城水攻めの地図上プロット
さて、忍城まで兵を進めた石田三成らは、この城を一望できる丸墓山古墳に陣を張ります。(写真①、写真④)

3.忍城水攻め

開戦当初、たかだか500の兵力に対して、2万の兵が初手から水攻めというのも能が無いということで、忍城との開戦当初は、数にモノを言わせた力押しで忍城を攻めます。

最初に述べた通り、やはり沼地を上手く利用して作られた名城だけに、簡単には落ちず、いたずらに豊臣軍の負傷兵を増やしてしまいます。

そこで、兼ねてより三成らが計画していた水攻めに切り替えます。(地図⑤)

地図⑤の緑の線が、この水攻めのために築いた堤(石田堤)です。

今でこそ、荒川の流れはこの堤の南側を流れていますが、当時はこの堤の若干北側を流れていました。現在は「元荒川」の名前で流れ跡が残っています。

⑥今も残る石田堤 高さは約3m
この荒川の流れと北側を流れる利根川を堰き止めるために、この石田堤は総延長28km、秀吉の備中高松城水攻め時は、10kmの堤だったことを考えると実に2倍以上。

こんな長大な堤を、石田三成はたったの5日間で完成させたというのですから、如何に彼のプロジェクト完遂能力が高かったのかが覗えます。

ただ、兵士だけでなく、地元の農民も高額報酬を払い、日雇労働者として雇っての完遂工事です。

兎に角、石田三成は兵数は滅茶苦茶多いわ、軍資金は湯水のように使って良いわで、どうやったら負けることができるのかといった戦の総大将ではありましたが・・・

⑦「忍城は浮き城か?」と
腕組して考える石田三成
映画では、この堤が出来て、荒川と利根川の堰を切ると、まるで津波が押し寄せるように、地図⑤の水色でハッチングした部分に水が押し寄せる場面がありましたが、あれは大袈裟ではないでしょうか。

実際にはちょろちょろと溜まりはじめ、数日掛けて、1~2mも水没すれば良い状況で進捗したのではないかと思います。堤自体の高さが3m程度なのですから。(写真⑥)

水攻め当初、忍城は沈みませんでした。
「浮き城か?」と石田三成も言ったようです。(絵⑦)

元々、この辺りは荒川や利根川の氾濫水域だからこそ、忍城のある沼地も出来たのです。なので、しょっちゅう河川の氾濫は起きており、忍城もそれらに耐えうるだけの高さ設計等は成されていたようです。

ただ、この水攻めを行っている時期が6月の梅雨時であることも、実は三成の計算に入っていました。

梅雨で水嵩の増した荒川と利根川は、忍城自体も水没させはじめます。

⑧石田堤の決壊
困った忍城側大将である成田長親は、決死隊を募り、石田堤の破壊工作を実施。

これがまた見事上手く行き、崩れた堤の上部を守っていた豊臣軍270人が死亡。みるみる水は引き、忍城は水没を逃れます。(絵⑧)

4.忍城開城

水攻めに失敗した三成らは、また最初の兵力にモノを言わせた総攻撃で、忍城を落とそうとしますが、水が引いた後の城の周りは、以前にもまして泥濘が強く、馬の蹄も立たない、兵士もくるぶしが泥に埋まって身動きしづらいという不利な状況で、水攻めをしたことが却って仇となり、益々城を落とすことが難しくなってしまいました。

そこで秀吉は、戦上手の真田昌幸・信繁と調略上手の浅野長吉ら援軍6000を、6月下旬に送り込んでいます。

しかし、彼らが活躍するまでもなく、7月に入ると直ぐに、北条氏政・氏直父子が小田原城を開城、降伏します。

忍城で籠城している意味が失われました。ただ、小田原征伐で最後まで落城しなかったのは忍城だけであり、実質2万対500の対決は、500の忍城側の勝ちとなります。

そこで、成田長親は、なるべく良い降伏条件を石田三成から引き出し、忍城を開城するのです。

5.忍城攻めに見る石田三成

「のぼうの城」にほぼ則し、ざっと忍城の水攻めについてレポートしました。

⑨映画「のぼうの城」キャスト
この本では、他にも甲斐姫の話、成田長親の個性あるリーダーシップの取り方や、豊臣軍2万を虜(とりこ)にする命がけのある秘策等、面白い見せ場が満載です。

それらの真偽は良く分かりませんので、割愛させて頂きましたが、読み物としての物語性が高く、また和田竜氏の含蓄の深いメッセージもその中にふんだんに読むことが出来ます。

石田三成に関しても、非常に正義心に溢れ、敵であっても立派な武将であれば、その指揮する規模や、肩書によらず心腹する等、好男子である反面、優しいために詰めが甘く、理想に憧れ、少年のようなやんちゃな人物として描いています。

映画もこのイメージに合う上地雄輔氏を使っていますね。(写真⑨)

しかし、本当にそうだったのでしょうか?

この忍城攻めに関しても、この時の秀吉や三成、浅野長吉らの書状等から、幾つかの説があります。(表⑩)
⑩忍城 水攻めに関する説
水攻めの命令者はだれかというポイントで、石田三成のイメージが大きく変わります。 

小説「のぼうの城」では、説3を取っています。三成が「水攻め」をやりたがり、また秀吉は彼に軍功を建てさせてキャリアアップをしてやろうとします。このような豊臣方に対し、ある意味現代のノンキャリに近く、無能で「(でく)のぼう」の成田長親が、却って人心を集め、たった500の兵で2万の敵に勝つという痛快劇となっています。

しかし、現実は説3では無いかも知れないのです。

であれば、この「水攻め」をやりたかったのは、豊臣秀吉本人であり、相手の首をとるだけの武功オンリーのような戦い方ではなくて、資金と人足が必要となる堤の工事を短期間でやり遂げるプロジェクトマネージメントに長けた人材として、石田三成がふさわしいとした適材適所人事だったのではないでしょうか。

⑪三成本陣の丸山墓山古墳
から見た忍城
また、石田三成の性格は、やんちゃ坊主というよりは、官僚特有の「上(秀吉)からの命令は絶対」という気構えを持っていることです。

私は、石田三成が水攻めの時に本陣を構えた丸山墓山古墳に登り、忍城の方を見た時に、咄嗟に感じたのは、

「こりゃ、水攻めするにはちょっと無理じゃないか?」

ということです。(写真⑪)

勿論、私は土木工事のプロではないので、確かな事は分かりません。あくまで素人の直感ですが、あまりに土地が広く、平たいのです。28kmの石田堤を作ったとしても、これ程の平地、殆ど水を貯めるような土地構造を持たないところで、人工の湖を作るというは、大事業で、それをたった5日で本当に出来たのか?出来たとしても、だからこそ、簡単に決壊したのではないだろうか?と思い、この景色を見た三成も、実は同じような思いを抱いたのではないかと想像した訳です。

ただ、彼は先に述べたように、秀吉の命令は絶対と言う信念があります。秀吉が得意とする城の包囲作戦の中では、一夜城を作って、小田原城の度肝を抜くと同様に、備中高松城で魅せた水攻めを関東諸将にも見せ、その権威を高めたいと考えるのであれば、多少無理でもそれを遂行するのが三成の役目だと彼自身、強く認識しているのです。

そこで、彼は腐心します。戦に参戦した諸将にとって、水攻めは、武功が取れなくなるので戦闘意欲は低下しますし、堤は上手く出来ず、ちょっとしたことで崩壊する等、三成はこの戦で、自分の官吏としての能力を最大限出して頑張りますが、労報われず、上手く行かないのです。

そんな三成を見て、彼に従って忍城攻めをした大谷吉継、長束正家、佐竹義宣、多賀谷重経、真田昌幸ら諸将は、こう思ったに違いありません。

石田三成は、一生懸命の「でくのぼう」・・・「のぼう」だ!

6.おわりに

和田竜氏の「のぼうの城」の「のぼう」は、忍城城代の成田長親が、あまりにのんびりとし、何も出来ない不器用なので、この領主を、「でくのぼう」の「でく」を外して、農民たちが呼んだあだ名です。ただ、愛嬌がある長親は馬鹿にされながらも皆から愛されたという設定。

この戦でも、「のぼう様じゃあ、何もできねぇ。おらたちが守ってあげんと」と言って、農民や、城兵の「なんとかしてやらんと」という人心を集め、勝利したという、この時代には、稀有なリーダーシップについて書いているのです。

⑫石田堤史跡跡にて
堤を俵を積み上げ構築しているつもりです
これは、石田三成にも当てはまるのではないかと思い、先の赤太字の言葉、またこのブログの表題を付けました。

その証拠に先に列挙しました諸将は皆、関ヶ原の戦いの時に石田三成方に付いています。

現場を知らない秀吉の無茶な要求に対しても、一生懸命に応えようとする三成のひた向きかつ純粋な姿、それは天下分け目の関ヶ原の戦いへ向かう彼の姿に通ずるところがあり、政権にあっては色々と黒い噂が多い彼も、現場で一緒に戦った諸将からすると「なんとかしてやらんと」と思える、「のぼう」様だったのではないかと思えるのです。

楽しい仲間と一緒に行った忍城調査。仲の良い我々と同様、大変だった忍城攻めの中でも、三成はこれらの諸将と心を一つに出来た場面がきっとあったのだろうと思います。(写真⑫)

ご精読ありがとうございました。