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神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~

①神奈川台場
今回、調査しました神奈川台場、東京のお台場に比べると、かなりマイナーな史跡となっております。

ただ、神奈川台場が出来た経緯について調べてみると、幕末に今の横浜の地が開港に至る経緯が見えてきましたので、ご報告させて頂きます。(絵①

1.欧米でも名のあった「神奈川湊(みなと)」

神奈川台場のあった土地(現在の横浜市神奈川区神奈川)は、江戸時代、東海道の宿として発展した街でした。(絵②

この有名な歌川広重『東海道五十三次』の「神奈川宿」の浮世絵。

絵中、船が係留されているのが神奈川湊です。またこの絵が描かれた頃は、開港されていませんが、画面中央に2つの岩山みたいなのがあるのが分かりますか?これが現在の横浜「みなとみらい」の辺りです。(山は、手前が野毛山、奥が山手の丘「港の見える丘公園」。)

この神奈川湊、鎌倉時代は鎌倉の鶴岡八幡宮が治めていました。やはり東京湾に面した良港として、鎌倉の中枢である八幡宮に献上される程だったのでしょう。
②歌川広重「東海道五十三次」に出て来る神奈川宿

更に脱線しますが、鎌倉から戦国時代に掛けて、この湊のすぐ脇にあった権現山城(ごんげんやまじょう)は、横浜市内の城郭としてはかなり大きく、また堅固でした。(写真③

北条早雲の時に、ここ神奈川の豪族上田氏が、早雲側に付き、北条側として初めて関東管領の上杉氏に叛旗を翻し、籠城したのです。この後、北条氏と上杉の関東における泥沼の戦いが繰り広げられ、最後はあの上杉謙信を生み出す結果となるきっかけの地でもあります。

この中世武士時代の横浜市内の詳細は、また別途Blogを分けてお話しようと考えています。

話を戻します。この浮世絵(絵②)だけですと、江戸時代の神奈川宿は、他の五十三次の宿の1つくらいにしか見えませんが、この神奈川が江戸時代、鎖国中でありながら、欧米人の間では有名だったのです。
③権現山城

それは何故か?
こちらの絵なのです。(絵④

有名な葛飾北斎富嶽三十六景の絵ですね。絵の名前は「神奈川沖浪裏」。つまりこの神奈川湊の沖での一現象を表したものなのです。

優美な富士山とは対照的に、凶暴な波濤が襲いかかり、翻弄される舟となす術もなく舟にしがみついている人を表すさまを、波一つ一つの緻密な対数螺旋の技法を使い表現されています。TVや映画等の動画は言うに及ばず、日本には写真も無い時代ですから、北斎の実体験の記憶だけで、ここまでリアルにその瞬間を描けるというのは、19世紀前半、欧米でも驚異の目で見られ、最も有名な日本美術作品の一つとなりました。

当時のゴッホや、作曲家ドビュッシーが絶賛し、自作品に取り入れるなど、欧州の芸術家達に影響を与えたこの作品は、まだ開国前の欧米人にも、日本の中の1地名であるKanagawaを印象付けたものなのです。

④神奈川沖浪裏 葛飾北斎画
2.本当の開港予定箇所は神奈川湊だった?

さて、地図⑤を見てください。

アメリカ領事館、イギリス領事館、フランス領事館など、多くの欧米領事館が、この神奈川地区に集中しています。

これは何を意味しているのでしょうか?

実は、幕末の欧米列強国は、開港を現在の横浜港の場所ではなく、この神奈川湊にして欲しいと強く希望していたのです。

2つ理由があります。

【理由1】この場所が、神奈川湊として長期に渡り良港として運用されてきた実績があること
【理由2】神奈川宿として、当時の交通の大動脈である東海道に面しており、江戸等の日本の主要都市への往来や物資輸送に利便性が高いこと
⑤神奈川湊にある欧米の領事館跡
ですので、領事館を開港に先立ち、この神奈川湊の辺りに沢山建てたのです。
と言ってもどの領事館もお寺を代行所として活用しています。(写真⑥
⑥欧米各国の領事館跡(全てお寺を利用)

また、話が飛びますが、幕末の有名な生麦事件地図⑤の上部に書かれた「生麦」で、薩摩藩の大名行列中に、国法で定められた土下座をせずに馬上にいたイギリス人・リチャードソンを、藩士が斬りつけました。
⑦領事館近くにあるヘボン医師診療所跡(宗興寺)
その後、殺されたリチャードソンの検死を行った場所が、地図⑤にもありますアメリカ領事館なのです。

更に脱線しますが、この検死時に立ち会ったヘボン医師は、あの「ヘボン式ローマ字」の開祖です。

この人が居なければ、今頃私たちはPCやスマホで「日本語ローマ字変換」も打てないところでしたね(笑)。(写真⑦

写真⑥の中にもありますが、今回、このアメリカ領事館があった本覚寺も訪問しました。(写真⑧

するとそのお寺の山門前に、笹薮に埋もれかけていましたが、1つ見慣れない人物の石碑を発見しました。(写真⑨

3.岩瀬肥後守

岩瀬肥後守忠震いわせ ひごのかみ ただなり)。私はこの人を知りませんでしたが、幕末に、小栗上野介、水野忠徳と併せ、「幕末三俊」と呼ばれた優秀な外交官だったのです。

⑧アメリカ領事館のあった本覚寺
以前私は、ロシアのプチャーチンが日本に通商条約を締結しに来た時に、日本側は「米国とも通商条約は結んでいない。和親条約止まりにして欲しい」と交渉したと、別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」にて記述しました。(詳細はこちら

この主張を行い、後に日露和親条約締結(1855年)にまで漕ぎつけた外国奉行が、彼なのです。

一方、1854年に既に締結した日米和親条約で、伊豆の下田に来日していた米国のハリスは、更なる通商貿易のための条約、日米修好通商条約締結を目指します。

ハリスは、幕府に対して「米国は日本に対する領土的野心は少しも抱いていない。日本が警戒しなければならないのは、アヘン戦争の例にあるようにイギリスである。米国と穏当な通商条約を結べば、他の西洋諸国もこれに倣い、自然に日本は西洋諸国との戦争を回避することが出来る。」
との説明をし、洋学知識に詳しい老中首座堀田正睦(ほった まさよし)をはじめ、ロシアからの希求も聞いていた川路聖謨(かわじ としあきら)も含めた幕閣の多くがこの説に傾倒しはじめていました。

その後、水戸の徳川斉昭(なりあき)ら、通商条約締結反対派への強硬な締結押し切りを井伊直弼(いい なおすけ)が行い、1858年に朝廷の裁可無く締結する日米修好通商条約となるのですが、この時に、また米国との交渉の中心的な役割を果たすのが、岩瀬肥後守なのです。

4.日米修好通商条約

⑨笹やぶに埋もれかけた石碑(本覚寺内)
皆さんも、仕事で交渉の経験上、交渉の結果を記す契約書等の条文、交渉相手と自分達どちらで書きますか?基本、自分達で書かせて欲しいと最初は要求するのではないでしょうか?相手に書いてもらうと思わぬところに相手有利となってしまう文章が入り込んでいたりするリスクを避けるためにも、自分達で書いておいた方が良いと。

なにか相手を性悪説で見ているようで嫌な気もしますが、契約などの条約は、性善説ではなく、性悪説で見るのが普通です。

ところが、岩瀬肥後守は、ハリスに言います。

「今迄鎖国していた我々日本人は、通商とか貿易といったことについて全く知らない。ただ貴殿は、(先に述べたように)日本の未来を案じてこの条約を締結したいと言ってくれた。なので私、岩瀬は全面的に貴殿を信用し、条約草案の起稿を一切お任せする。」

驚きです。
まあ仕事でも、もうツウ・カーになった親しい者同士でしたら、相手に草案を一切お任せするみたいな発言はあるかも知れませんが、全く知らない世界で、しかも一国の命運を左右する条約を相手国の代表に任せるとは!やはり相手を全面的に信用するということは、自分もかなり誠実でなければ出来ない事ですね。

ただ岩瀬肥後守は、上記の言はあるものの、そこは「幕末三俊」の漢(おとこ)だけあって、ハリスから提出された草案を詳細に検討し、おかしいと思った箇所は徹底的に指摘・追求することで、ハリスを驚愕させました。ハリス自身、「どうせ鎖国してきた日本人は通商貿易を知らない。米国が不利に傾かないよう、どちらかと言えば日本が不利となるような条項に上手くしよう」と考えたようです。

⑩アメリカ公使館跡にあるハリスの碑(麻布善福寺)
それらを全て看破し、ハリスを黙させた岩瀬肥後守は、畏怖されると同時に、尊敬されました。

そのため岩瀬肥後守の石碑は当時のアメリカ領事館のあった本覚寺境内に、写真⑨のようにあるという訳です。

以下のポイントで岩瀬肥後守は日米修好通商条約上で優位に立つことが出来たのです。

【ポイント1】当初11港を開国するよう要請があったものを4港に抑えることに成功
【ポイント2】輸出入品に関する価格決定権を日本側が持つことができた

以後、彼は米国も加えたオランダ、ロシア、イギリス、フランス、5か国との修好通商条約すべてに立会い、調印しました。全部に立ち会ったのは岩瀬肥後守ただひとりです。

5.岩瀬肥後守の苦悩と横浜開港

岩瀬肥後守が、これ程の国家の大役を果たせたのは、やはり誠実な彼の人格にあると思われます。しかし、彼は横浜開港に当たって苦悩します。

というのは、修好通商条約で開港予定地1つは「神奈川湊」と明記されているのです。横浜ではありません。地図⑤のまさに欧米が開港を希望した神奈川湊、神奈川宿の辺りです。そこで欧米は、どやどやと神奈川宿の辺りに領事館を設ける訳ですが、これに幕閣からストップを掛かるよう、岩瀬肥後守に圧力がかかります。

「神奈川宿は江戸への直結ルート、交通の大動脈である場所にあるため、開港後、東海道伝いに江戸が攻められては大変!よって何としても東海道沿いの神奈川湊の開港は止めさせよ!」

⑪「御開港横浜正景」1863年
※左下に神奈川台場を配置
中央の開港場を支えるように描かれている
ハリスに対しても筋が通らない事は遠慮せずに交渉を進める岩瀬肥後守です。幕閣の高官だからと言って、変な忖度等する訳がありません。

「いや、私たちははっきりと神奈川湊を開港すると決め、条文化しているのです。ここはきっぱり神奈川湊を開港しなければ、武士の面目が立ちません!」

別記事「幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~」でも記述しました(詳細はこちら)が、この当時の幕府は、東海道等の幹線沿いに欧米人が入り込むことを極度に恐れます。

プチャーチンが津波で大破したディアナ号の修復を江戸から近いために物資が豊富に供給できる浦賀(三浦半島)港に回航したいと申し出ても、「江戸に近いからダメ!」と。

欧米列強が、江戸城に攻めて来る可能性は低いと思われますが、当時は兎に角異様に恐れます。そのお蔭であの東京のお台場11基を、ペリーが再来航する期間1年以内に造り上げる等、江戸城防衛ということになると、過剰なまでに防衛環境構築能力を発揮するのです。
⑫明治初期の頃の神奈川台場
※権現山辺りから臨む

なので、折角の岩瀬肥後守の主張も、空しく掻き消され、彼は左遷されます。安政の大獄時期だったこともあり、彼はそのまま失意のもと、44歳という若さで亡くなるのです。

勿論、米国は怒ります。「条約通り神奈川湊を開港しなさい!」

幕府の役人は言います。「いえ、この場所(現在の横浜港:地図⑤参照)も神奈川湊の一部でございまして。ほれ、この有名な富嶽三十六景の神奈川沖の浮世絵(絵④参照)のように、関東は冬場空っ風のような北風が強く、波濤が高くなります。そこで北側の船着き場より、西側の横浜村の方が舟がつけやすいのですよ。横浜村は野毛山山手の丘に挟まれて風を避けられる構造になっていますから。実際神奈川宿の舟は、海が荒れた時はしょっちゅう横浜村に舟を付けます。欧米皆さまの大きな船ならどちらに付けても宜しいのでしょうが、カッター(上陸用小舟)等での上陸を考慮された場合は、横浜村の方が利便性が高いですよ。条約通り、そこは神奈川湊の一部ですし。」

と条約に書かれている神奈川湊とは横浜村が含まれていることを想定して書かれたものなので、居留地はそっちにしてくれと、口八丁で米国を丸め込むのです。

それなりに理に適っているということで、結局欧米列強は、今の横浜港の関内に居留地を持つことになるのです。(絵⑪

更に幕府は、本来の神奈川湊に砲台を築いてしまうのです。(絵⑪写真⑫写真①も参照)

⑬今も残る神奈川台場の石垣
東海道へ外国兵が上陸して陸路江戸へ向かうことを避けるためです。これらの砲台は、品川砲台やお台場等、東海道が海岸線に寄る処にはほぼ造っています。

この事実から考えても、東海道の宿のある神奈川湊を開港場にするなんて、当時の幕府にとってはとんでもないことだったのでしょう。

6.おわりに

この神奈川台場、欧米諸国に対する建前としては、来航する外国船の治安を守るためという大義名分で造ったのではないかと絵⑪等を見て思います。いずれにせよ、この台場は大正時代まで礼砲を打つ平和利用にしか使われなかったようです。

ただ、この台場を造るために、写真③にある権現山城址からは、大量の土砂が掘り出されたために、権現山は低くなり、城郭跡はかなり失われたようです。

台場自体も、殆ど埋めたてられ、ほんの一部だけ住宅街の中に残っています。(写真⑬

もし、岩瀬肥後守が左遷されることなく、彼の主張が通っていたら、開港場も今の横浜でなく、写真⑬の神奈川台場の辺りだったかも知れないと思うと、感慨深いものがありました。

今回の調査の後、ベイブリッジの麓、大黒PA(地図⑤参照)から今の横浜港と神奈川湊を一望できる景色をフィルムに収めました。(写真⑭
⑭大黒ふ頭から見る横浜港(中央付近)と神奈川湊(右風車付近)
この写真を見ると、なるほど幕府が修好通商条約締結後に主張したように、横浜も神奈川湊も同じ港であるという主張も何となく分かる気もします。

しかし、相手をちゃんとリスペクトしつつも、主張するところはきちんと主張し、誠実に物事は進めると言った日本武士らしい岩瀬肥後守。

彼が、米国等へ策を弄せず「神奈川湊は神奈川湊、横浜村とは違いまする!」と幕閣側へ主張するその誠実な姿は、やはりどこか日本人としてのプライドとして大事にしたい生き様だなと思いながら、150年後の横浜の象徴であるベイブリッジを渡り、帰路に着いたのでした。

最後までご精読頂き、ありがとうございました。