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水曜日

大航海時代と朝鮮出兵➀ ~耳塚にて思うこと~

 京都の方広寺と言えば、その梵鐘の銘文「国家安康」が有名である。徳川家康は、「家康」の諱の間に「安」の字を挿入したことを、あたかも自分の首を切断したことに等しいと難癖をつけた。

この屁理屈を口実として、徳川家康が豊臣家を征伐し、大阪の冬の陣・夏の陣で淀殿と豊臣秀頼を自害させたことは、社会科の授業でも習うほど有名な歴史的事実である。

当時の壮麗な方広寺は既に存在しないが、この地には豊臣家と縁の深い場所として、豊臣秀吉を祀る豊国神社が建立されている。

この豊国神社の正門から約100メートル先に、「耳塚」と呼ばれる塚があるのをご存じだろうか。(写真①)

①耳塚
首塚や胴塚は多いが、耳塚とは珍しい。そこで調べてみると、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592年~1598年)として知られる朝鮮出兵の際、敵兵の首は持ち帰るには重すぎるため、その(一部ではともいわれる)を切り落として持ち帰り、それを供養した塚だとされる。

その規模は相当なもので、高さは7~8メートル、直径は約20~25メートルにも及ぶのだ。

なるほど、海外からの帰国には首は大変だから耳、というわけか。

しかし、首や胴であれば骨が残るため、塚の真偽はすぐに判明するが、耳や鼻では何も残らない。この点はどうなのだろうか?また、これほどの巨大さは、大量殺戮の事実を物語っているのだろうか?

などの疑問が湧き上がり、さらには「そもそも秀吉は何のために朝鮮出兵を行ったのだろうか?」という根本的な疑問まで、この耳塚の霊に後押しされたかのように泉のごとく湧き出てきた。そこで、これらの疑問について少し調べてみることにした。

1.海外侵攻をしたがらない武士たち

テレビドラマなどでは、豊臣秀吉による朝鮮出兵が、愛息・鶴松(棄丸:すてまる)の病死による悲しみを紛らわすため、あるいは老耄(ろうもう)から思いつきで実行されたものとして描かれることが多い。しかし、これはあまりにドラマ仕立てに過ぎるだろう。たしかに高齢による判断力の衰えはあったかもしれないが、当時の日本の国家機構が、そのような無謀な行動を安易に許容するほど愚かであったとは考えにくい。

では、なぜこのような大規模な海外遠征が実現したのだろうか。鎌倉幕府以来、およそ400年以上にわたり、日本は元寇のように他国からの侵攻を受けることはあっても、自ら海外へ大規模な軍事遠征を行うことはなかった。この背景には、源頼朝以降の武士が海外領土の奪取といった発想を持たなかったというよりも、武士たちが「日本国」という統一国家の正規軍であるという明確な概念が薄かったことが影響しているのではないだろうか。

②熱田湊の灯台のような役割を
果たした村上社のクスノキ
日本が海外へ兵を進めたのは、663年の白村江の戦いまで遡る。この戦いで大敗した朝廷は、唐・新羅の侵攻に備え、防衛体制の強化に着手した。その一環として、「防人(さきもり)」を対馬・壱岐・筑紫(北九州)に設置し、彼らを律令制下の正規の防衛兵として位置づけたのである。
しかし、平安時代中期以降、天皇を頂点とする律令国家体制下でこのような「国家の兵」は徐々に形骸化した。これに代わって登場したのが、「北面の武士」などに代表される「」である。彼らは本来、「(朝廷や貴族に)さぶらう」、つまり従属した下人的な立ち位置から始まった組織だ。

「侍」は、個別の主君に仕える私的な武力集団であり、「国家」全体の軍事力を担うという意識は希薄であった。

鎌倉時代の元寇襲来について、「あれは国防意識があったからこそ、博多湾に集結して戦ったのではないか?」と疑問を持つ読者もいるだろう。

しかし、その後の経緯を考えて欲しい。

元寇後、武士たちの生活はどうなったのか。彼らは純粋な「国防」意識ではなく、「一所懸命」の地を守り、「御恩と奉公」という主従関係の図式で生きていたに過ぎない。敵を退けても、新たな領地や財産を得る恩賞は少なかった

結果、生活は成り立たなくなり、多くの武士が困窮する。

この困窮が原因となり、徳政令が頻発された。そして最終的には、不満を募らせた武士たちによって鎌倉幕府は転覆させられる。

この事実こそが、当時の武士たちの間に「国家の兵」であるという意識が、いかに希薄であったかを物語っているのだ。

現在の日本はシビリアン・コントロール(文民統制)の国であり、事情は多少異なる。しかし、そもそも律令国家として8世紀に始まった日本国の兵員も、天皇を頂点とする貴族国家という文官統制のもとに置かれていた。

つまり、この武士階級は、海外外交を含む「政府の機能」までを積極的に担うつもりは毛頭なかったのである。

2.型破りな武士・信長

しかし、この考え方とは対照的な武将がいる。

織田信長だ。

ルイス・フロイスの『日本史』には、これを裏付ける記述がある。「信長は毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考えであった」と記されている。

信長だからこそ、このような型破りな発想ができたとの見方もある。だが、当時は欧州の大航海時代であり、植民地政策が盛んな時代だ。

信長は領内の熱田湊などで貿易を行い、財を成した織田家の出身である。このため、大航海時代における海外進出の優位性を深く理解していた。海外遠征による壮大な貿易経済効果の構想を、秀吉にも話していた可能性は高いと言える。(写真②)

➂トルデシリヤス条約
(Wikipediaより)
3.トルデシリヤス条約

ここで、少々当時の欧州事情に寄り道しよう。

1494年、当時世界一、二を争う海軍国であったポルトガルとスペインは、トルデシリヤス条約を締結した。これは両国による植民地支配の境界を取り決めた条約である(写真➂)。

この境界設定に大きく影響したのは、コロンブスが1492年にアメリカ大陸を発見したことだ。

ご存じの通り、彼は『東方見聞録』にある黄金の国ジパング、すなわち日本を目指していた。アフリカ経由よりも大西洋ルートの方が遥かに早いと考え、そのルート開拓を望んだ。問題はこの航路に必要な資金である。

コロンブスはまず海洋国第一のポルトガルに資金援助を求めた。しかしポルトガルは、喜望峰経由のアフリカルート開拓こそが有用と考えていた。大西洋ルートはそれまで何度か試みられたが、残念ながら陸地の発見報告はなかった。役に立たないと判断したポルトガルは、コロンブスの資金援助に応じなかったのである。

ポルトガルに失望したコロンブスは、次にスペインに支援を求めた。紆余曲折を経たものの、彼はなんとか支援を取り付けた。そして、ご存じの通り、コロンブスは大西洋ルートを進み、大陸を発見したのである。

この発見はポルトガルを大いに焦らせた。「新世界」への進出は、スペインとポルトガルとの競争となり、侵出先での係争が絶えない状態となった。この摩擦を解消するため1494年に締結されたのが、トルデシリヤス条約である。

4.サラゴサ条約

トルデシリヤス条約では、図④中、紫の経線を境として、東回りはポルトガル、西回りはスペインの勢力圏と定めた。
④トルデシリヤス条約とサラゴサ条約
Wikipediaの図を加工)
この境界線は、ほぼ大西洋上に引かれている。興味深いのは、この分割線だけでは地球は二分割されたことにならないという、単純な盲点がある。地球は丸いので、もう一本分割線が必要となる。

この盲点を問題視できたのは、マゼラン艦隊が世界一周を達成し、帰還した1522年以降である。そこで、もう一本の分割線として、図④の緑の線、すなわち東経約142度の位置に境界線を定めた条約が、1529年に締結された。それがサラゴサ条約である。

図から分かるように、日本はこの二本目の境界線上に位置し、その大部分はポルトガル側に属している。そのため、種子島に漂着したのがポルトガル船であり、日本で最初に平戸に入った貿易船もポルトガル船なのである。

5.遠大なる構想

⑤鉄甲船
かなり脱線したが、織田家が熱田湊で培った貿易の観点から、信長は南蛮(スペイン・ポルトガル)との交易を重視し、イエズス会の修道士たちと積極的に交流した。先に触れたルイス・フロイスもポルトガル人である。

信長が、ゆくゆくは天下布武を国内に留めず、スペインやポルトガルのように大航海時代に日本も乗り出したいと考えていたとしても不自然ではない。それゆえ、フロイスの記述に「一大艦隊を編成し、海外征服に侵出する考え」が出たのであろう。その構想の一端が垣間見えるのが、信長お抱えの九鬼水軍の「鉄甲船」である。(絵⑤)

鉄甲船自体は朝鮮出兵に直接参加していないが、九鬼水軍は後の出兵時、豊臣海軍の要となる。

また、この信長の話をフロイスが聞いていたくらいであるから、毛利平定の司令長官であった秀吉が聞いていなかったはずがない。そうなると、秀吉自身も毛利平定の頃から、信長の海外進出構想をいかに実現するか考えていたのだろう。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、続きは既に書き上げているが、長くなりすぎるため今回はここまでとする。 次回は、ヨーロッパを起点とする大航海時代が、秀吉の朝鮮出兵に影響を与えたのか否かを考察する。 ご精読に感謝する。


火曜日

中国大返し➂ ~「神速」のその先へ!~

前回、豊臣秀吉が備中高松城から姫路城まで驚異的な速さで移動した「中国大返し」の舞台裏について描いた。海路活用説や、播磨・摂津の有力武将たちが明智光秀につくか秀吉につくか迷う中、彼らを牽制するための「神速」戦略があったことを述べた。

そして、今回はいよいよ大返しの最終章、「山崎の戦い」について書きあげてみた。

さらに、多くの者が疑問に抱く「なぜ毛利軍は追撃しなかったのか」についても、ご先祖様にも登場頂き、考察を進めてみた。御笑覧頂ければ幸いである。

1.山崎の戦い

①再掲:山崎の戦いの配陣図
(天王山山頂・旗立松展望台看板より)

戦端は6月13日の午後4時、図①に示された右上の池田恒興が、中央で明智軍と対峙する高山右近の右翼に布陣しようとしたその時、開かれた。明智軍には、秀吉軍の陣形が整う前に決着をつけたい焦りがあったのかもしれない。

②斎藤利三
(Wikipediaより)
しかも、秀吉軍の最前線を担う中川・高山・池田らは、元々光秀派であった者たちであり、中国大返しには参加していない、疲れを知らぬ精鋭部隊であった。光秀側には、これらを迎え撃つ焦り、そして怒りが同時に渦巻いていたのだろう。

光秀の軍師・斎藤利三(絵②参照)もまた、高山右近に襲いかかり、一時的に高山右近ら秀吉の前線部隊は押され気味であった。

そもそも、「ここが受験の天王山」という言葉の比喩は、図①にある淀川系の3河川(木津川、宇治川、桂川)と天王山に挟まれた隘路を抜けた先に広がる、わずかに開けた土地が戦局を大きく左右するという状況からきている。この開けた地に先に陣取った方が圧倒的に有利となるため、明智光秀は筒井順慶を待っていた洞ヶ峠(写真③)から、秀吉は6km離れた富田から駆けつけ、どちらが先に有利な陣地を確保できるかを競ったことに由来する言葉なのだ。
③洞ヶ峠(天王山からの遠望)
※ここ天王山と洞ヶ峠の間には、奥から
木津川、宇治川、桂川の3本が走っており、
隘路になっているのが分かる

2.洞ヶ峠と池田恒興の奇襲

ちなみに洞ヶ峠といえば、光秀から加勢を要請された筒井順慶が日和見した逸話で有名だ。しかし、筒井康隆氏によると、順慶はそもそも洞ヶ峠には来ていなかったらしい。洞ヶ峠で、大和郡山城にいる筒井順慶を待っていたのは、光秀だったのだ。

この山崎の戦いで活躍するのが池田恒興だ。図①でも、彼の軍だけが右奥(北東)に入り込んでいるのが分かるだろう。恒興は高山右近の右翼に並ぶのを止め、大きく迂回して明智光秀の左翼に位置する津田与三郎を攻め立て始めたのだ。

さすが勇猛果敢で鳴る池田恒興が攻め寄せると、津田与三郎はたちまち押され始めた。それを救援しようとした斎藤利三が、今度は高山右近らに押され、結局、明智軍は津田・斎藤らが守る左翼側から崩壊した。

そもそも、対峙する前から明智軍の方が寡兵であった。光秀らは秀吉軍を洞ヶ峠と淀川系3河川に挟まれた隘路から広い場所に出させず、逐次撃破を目指していた。しかし、池田恒興が広い場所に出、明智軍の左側(東側)に回り込めてしまった時点で、光秀は敗北を強く意識したことだろう。

戦いはわずか3時間で秀吉軍の勝利が確定した。

3.不可解な光秀の最期

寡兵の明智軍が唯一勝つための作戦は、隘路での逐次撃退であった。しかし、池田恒興ら摂津・播磨衆が、その隘路を突破し広い場所へ出る作戦を完遂したため、明智軍のこの目論見は水泡に帰した。夕方4時に始まった戦からわずか3時間。周囲が闇に包まれる中、光秀らは後方にある勝龍寺城へとばらばらと退却した(写真④)。
④勝龍寺城

勝龍寺城は、明智光秀の娘たま(細川ガラシャ)が嫁いだ城として有名だが、平城であり防衛能力は高くない。とても秀吉軍の追撃に耐えられないと判断した光秀は、自身の領国である丹波亀山城か、近江の坂本城のどちらかに落ち延びることを決めた。繰り返すが、本能寺の変の直前の光秀は、京の首根っこを東西から抑える位置に領国を持っていたのだ。これは信長からの信頼の厚さを象徴するもの以外なにものでもない。

ここで興味深いのは、丹波亀山城と坂本城を直線距離で比較すると、丹波亀山城の方が勝龍寺城に近いことだ(写真⑤)。
⑤丹波亀山城

丹波亀山城に落ち延びてもおかしくはない。
もちろん、光秀は本能寺の変の後は、織田信長の領国を引き継ぐ形で「近畿管領」的な立場を目指していた。その構想の中核をなすのが近江国であり、その本拠地である坂本城は、光秀にとって最後の望みを託せる場所であった。嫡男・明智秀満がいたことや、安土城との連携、交通網の発達度合い等も総合的に考えると、誰しも再起のために坂本城を選択した光秀の判断は自然に感じるだろう。

しかし、落ち延びる光秀一行は、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りをしていた農民に遭遇する。そして、竹藪から現れた農民に、竹やりで脇腹をブスッと刺されたのだ(写真⑥)。
⑥明智藪

歴史に「もしも」はないが、もしこの時、丹波亀山城を目指し、農民の不意打ちに遭わずに逃げ延びていたとしたら、どうなっていたのだろうか。それこそ西の丹波亀山城に光秀、東の坂本城に秀満が呼応して……。いや、それでも光秀に勝ち目はなかったように思える。

農民らを撃退し、山科を坂本方面へと馬を進める光秀だが、しばらく行ったところで落馬する。脇腹の刺し傷はかなり深く、光秀はここで諦め自刃した。介錯を頼んだ側近には、秀吉軍に自分の首を取られないよう地中深く埋めるよう指示したという。

ところが、光秀の首に関しては様々な伝承が存在する。側近もその後自害したため、地中のどこにあるのか分からないという説。竹藪から光秀の脇腹を刺した農民の仲間が追跡しており、地中に埋めるところを見ていたため、掘り返して織田信孝に届けられた、いや秀吉の手に渡ったという説。これもまた諸説紛々としている。

⑦不意を突かれる明智光秀
(作画AI)
この辺りが曖昧であることも相まって、光秀存命説まで飛び出している。大河ドラマでは、格好良く丹波に馬で駆け、自由に生きる光秀が描かれたこともある。あるいは天海上人となったという説など、こちらも諸説紛々だ。

そもそも、光秀の脇腹に槍を刺した農民は、なぜ光秀がここを通ることを知っていたのか。また、首を掘り起こしたのも農民なのか。そんな都合よく名もなき農民が立ち回ったのか。その証拠はあるのか。光秀が逃げ延びるためにでっち上げた話ではないか、といった疑問も呈される。

このように、不可解な部分が多い光秀の死ではある。ただ、「三日天下」と言われた光秀の天下が、6月2日から同月13日までの11日間であったという事実だけは確かなようだ。

4.何故、毛利軍は秀吉を追撃しなかったのか?

さて、この中国大返しの話の最後に、手前味噌ながら私のご先祖様の逸話も交えたい。

私も高校生になって知ったのだが、我がご先祖・玉木吉保(たまきよしやす)は毛利家の家臣であった。玉木吉保が記した『身自鏡(みのかがみ)』という日記は、当時の中流武士の生活を克明に伝える貴重な史料だ。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に対する罵詈雑言など、思わず膝を打ちたくなるような(?)記録もあるらしい。

最近、安部龍太郎氏のブログを読んでいたところ、ふと三重大の藤田達夫氏の論文が紹介されているのに目が留まった。それは、玉木吉保の『身自鏡』の中の、中国大返しに関する記述に対する考察であった。

それによると、玉木は秀吉と安国寺恵瓊が備中・高松城攻めで講和交渉をした時のことを記しているという。秀吉は、多くの毛利重臣たちを既に離反させ、その連判状を証拠として提示したとのことだ。さらに、「毛利(輝元)殿御謀言不浅(おはかりごとあさからざる)故に信長既に果給ふ」と、本能寺の変を裏で操ったのは毛利輝元であることまで知っていると告げたという。

ここまでが玉木の記述らしいのだが、安部龍太郎氏は、この秀吉の「毛利が黒幕」という情報源は、黒田官兵衛からだろうと推測している。また、毛利の御謀言とは、副将軍に任じられていた輝元が、将軍・足利義昭と長宗我部元親を動かし、光秀と接近させ、本能寺の変を起こさせたことを指す、と述べている。

そして、この文章の解釈を、三重大の藤田達夫氏は以下のように論じているのだ。

「ここまで重臣を取り込まれた上に、内情を見透かされていては、とても動けない。毛利はそう判断した」

⑧秀吉軍に追いすがる毛利軍5万
(作画AI)
つまり、これが中国大返しで東へ奔走する秀吉軍を毛利軍が追いかけなかった理由だというのだ。どうだろうか?素人の邪推で恐縮だが、本能寺の変のお膳立てをしたのが毛利であるならば、むしろ全力で秀吉軍を追いかけ、決戦に持ち込み、光秀をバックアップするのが筋ではないか。そもそも謀略で超大物・信長を殺せるほどの胆力を持った漢・輝元であるならば、本当にそれほど多くの重臣が背くほど、求心力が低下するだろうか。仮にそうだとしても、高松城主・清水宗治のような、己の命を捧げた部下を見殺しにして、平静でいられただろうか。

やはり私は、この3シリーズの最初の記事で述べた『浅野家文書』にあるように、5万の毛利軍というのは功績を大きく見せようとする秀吉の誇張ではないか。実際には1万ほどしか毛利は動員できておらず、追いすがっても秀吉軍に勝てる見込みが毛利側になかっただけなのではないかと考えている。

私のご先祖の日記が、このような歴史の論争ネタを提供すること自体は、大変名誉である。しかし、その解釈について、一意に「だから毛利は動けなかった」とするには論理的な飛躍があるように感じるのは、私だけだろうか。

5.おわりに

以上で、私の中国大返しに関する調査を終える。

私自身が実際に見て回った備中高松城、沼城、岡山城、八浜城、姫路城、尼崎、山崎の天王山登頂、洞ヶ峠など、定番の地を巡れたことは大きな収穫であった。しかし、それ以上に驚いたのは、近年、この中国大返しに関する検証や論考の数の多さだ。どこまでが真実なのだろうか。

考えようによっては、高々500年弱前の話に過ぎない。にもかかわらず、これほど多くの説が飛び交うこと自体が、多くの日本人の興味とロマンを掻き立てる出来事であったという、ただこの一事実だけで十分なのかもしれない。

明智藪のすぐ横の畑で、のんびり煙草をくゆらせていたおじさん。あの方が光秀の脇腹を槍で突いた農民の子孫かもしれない、などと妄想を膨らませていた。 だが、ふと我に返った。この、ありふれた日常が流れる場所こそが、かつて歴史ロマンの中心だったのだ。その不思議さに、私は歴史の奥深さを感じていた。

ご精読に感謝する。


【天王山・旗立松展望台】〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎

【洞ヶ峠】〒573-1131 大阪府枚方市高野道2丁目23−20

【勝龍寺城】〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13−1
【小栗栖(おぐるす)の明智藪】〒601-1455 京都府京都市伏見区小栗栖小阪町




木曜日

中国大返し② ~何故そんなに急いだのか~

前回は、中国大返しが始まり、備中高松城から超高速で東上し、備前宇喜多氏の居城である沼城(備前亀山城)で一時停止した後、一気に姫路城まで駆け抜けたところまでを述べた。今回はその続きである。

①中国大返し日付と移動距離等

1.大返しにおける海路活用説

大返しは、約230kmの行程をわずかな期間で踏破し、3万もの大軍を率いて戦闘にまで及んだ作戦である。この成功の鍵として、近年、海路の活用が注目されている。本能寺の変からわずか2日後には大返しが開始されていることを考えると、急遽、大返しのために海路を準備したとは考えにくい。

この問題の解決策として、皮肉にも、もはや訪れることのない信長のために秀吉が準備した御座所が活用されたのではないか、という説が浮上している。

以前の論考でも述べたように、秀吉は信長に出陣を促した。これは、自身の力では中国攻めに限界があるため主君・信長を頼る姿勢を見せつつ、実際には水攻めなど、中国攻めでの自身の活躍を信長に見せつけることが目的であったと考えられる。そうであれば、備中高松城までの道中に信長の御座所(貴人が宿泊・休憩する場所)を準備する配慮を秀吉が怠るはずがない。

当然、御座所を準備するのであれば、その間の移動手段も抜かりなく準備するはずである。前回の論考でも触れたが、当時、毛利氏は村上水軍による瀬戸内海の制海権掌握に努めていた。しかし、秀吉も村上水軍の一部である来島水軍を味方につけ、また児島水軍なども配下に加えており、毛利水軍に対抗できるだけの水軍力を有していたことが明らかになっている。

とすれば、御座所間の信長の移動に船を用いることを考えても不自然ではない。かつて平家の都として栄えた福原に位置する大輪田泊(写真②)には、戦国時代に兵庫城が存在した。そして、この兵庫城こそ、本能寺の変がなければ信長の御座所として準備されていた可能性が高いことが、近年の研究で明らかになっているのである。

②ここ大輪田泊には、戦国時代に兵庫城が存在
(現在のイオンモール辺り)

神戸港の原型である大輪田泊が御座所の目の前にある以上、この湊から出航し、西へ向かう信長という構想は不自然ではない。支援の大軍は明智光秀に任せており、そちらは山陰道を西へ進む。しかし、信長自身は本能寺に同行した少数の供のみと移動するのであれば、御座所船を海路で岡山城(旭川を遡上)や沼城(吉井川を遡上)といった宇喜多氏の領地へ向かわせることは十分にあり得る。

しかしながら、結局のところ、これら全ての計画は本能寺の変によって実現することなく終わったため、どのような詳細な計画であったのかは残されていない。そもそも信長本隊の移動計画は、本能寺宿泊を含め、信長軍の第一級軍事機密であったと考えられる。ゆえに、明智光秀や秀吉など、ごく一部の限られた将兵しか知り得ない事実であり、当然ながら史料なども残るはずがないのだ。

秀吉は、この極秘の御座所ルートを、大返しという京都への帰路に活用したのだろう。地図①は中国大返しのルートを示しているが、前回述べた沼城から姫路城の間は直線距離で約70kmある。

ちなみに、この区間を1〜2日間で移動することは、途中の船坂峠の急峻さ、またこの時期が梅雨で道がぬかるんでいたことを考慮すると、非常に困難な行程となる。

そこで、沼城のやや東側を流れる吉井川沿いの長船、あるいはさらに東に位置する備前・片上から、赤穂付近までは海路が用いられたのではないかという説が浮上している。もちろん、急ごしらえで3万もの軍勢を船で運ぶことは不可能である。しかし、秀吉をはじめとする一部の主要メンバーだけでも、早期に秀吉の本拠地である姫路城近くまで運搬されたのだろうというのが、この説の主旨である。

2.秀吉の「神速」と戦略

では、なぜ秀吉は、3万の軍が追いつかないほどの勢いで、単身でも帰路を急いだのだろうか。この疑問は、山崎の戦いの布陣図を見ると氷解するだろう。図③をご覧いただきたい。これは、各軍の陣立てを解説した、天王山山頂の看板の抜粋である。

③天王山山頂付近(旗立松展望台)の看板に
ある山崎の戦いの配陣図

秀吉の本陣は、この看板のある天王山付近(図③の現在地)であった。しかし、秀吉軍全体は戦列が非常に長く、この陣配置の時でさえ、最後尾は30kmも離れた西宮に位置していたという。息を切らしながら天王山を登り、この看板を目にした筆者は、まさに「なるほど!」と膝を打ったのである。

黒田官兵衛(地図では黒田孝高)と羽柴秀長は、筆者が懸命に登ってきた天王山の中腹あたりに陣を敷いており、やや奥まった位置にいた。しかし、秀吉軍の最前列で今にも襲いかかろうとしていたのは、中川清秀(茨木市)、高山右近(高槻市)、池田恒興(伊丹市)といった摂津の大武将たち、そして加藤光泰(三木市)という播磨の武将であった。これらの山崎の戦いで最前線にいた武将たちは、中国攻めに参戦する予定で準備を進めていた最中に本能寺の変が起きたため、出陣を一時保留し、明智光秀側につくか、あるいは当初の予定通り秀吉側につくか、状況を冷静に分析しながら熟慮を重ねていたと考えられる。

であるならば、秀吉はまず、播磨・摂津の武将たちに、鬼神のごとき迅速性と勢いを見せつける必要があった。光秀が彼らや京周辺の武将らを自陣に取り込み勢力を拡大する前に叩くためには、合戦は早ければ早いほど良いという判断があったのだろう。そのため、備中から速く京へ引き返すことが作戦の基本であった。しかし、単に速いだけでなく、「鬼神」のごとき神がかった速さが必要であった。これが光秀の勢力拡大を阻止し、周囲を巻き込み天下人となる「勢い」となるのだ。

まず6月6日に備前沼城を出発した秀吉は、海路も活用し、他の兵に先駆けて70km以上も離れた姫路城へ早々に到着した。ここで、上記の摂津・播磨の武将たちに檄を飛ばす書状をしたためたのである。信長や信忠は生存しているという偽情報を流したという説もある。

④姫路城

なぜ、沼城から姫路城までこれほど急いだのか。沼城までは、信長の変死を知った毛利軍が猛烈に追撃してくる状況を想定し、秀吉は緊張していた。しかし、中国攻めの拠点として黒田官兵衛から献上された姫路城まで一気に逃げ切れば、ひとまず安心できたのだ。毛利の脅威はほぼなくなり、次なる大敵である明智光秀に対する様々な策略に没頭できるというわけである。

光秀もまた賢い武将であった。柴田勝家が越中・能登の北陸戦線(対上杉氏)に、滝川一益が後北条氏の上州討入り計画への対応に追われ、もちろん秀吉も中国戦線で膠着している状況を見極めたからこそ、変を起こしたのだ。しかも、秀吉への援軍として控えている丹波・播磨・摂津の武将たちは、旧来から光秀とは昵懇の仲であったため、交渉次第では全員が、秀吉の援軍どころか、光秀の援軍、つまり秀吉の敵になりうる立場にあったのだ。

実際、大返しを行った秀吉こそ、毛利からの追撃だけでなく、丹波・播磨・摂津の武将たちからも襲いかかられ、光秀から血祭りに挙げられる最初の武将となるかもしれない状況であった。

彼らが光秀についてしまうと、万が一光秀との合戦に敗れた場合、京から姫路への退路も閉ざされかねない。そう考えると、備中高松城から姫路までは、まず逃げるように駆け込み、ここで丹波・播磨・摂津の武将たちを自分の味方につける方策を早急に立てる必要があったのだ。つまり、大返しの兵員よりも、上記の陣形で先陣を切っていた武将たち(中川清秀、高山右近、池田恒興、加藤光泰ら)の確保が重要だったのである。

その根拠に、明石を通過してからの1日の行軍距離が30km以下となっている点が挙げられる。これは、先に姫路城で書状をしたためた播磨・摂津の有力武将たちに、迅速な秀吉軍、無傷の秀吉軍、そして忠義の秀吉軍を見せつけ、その後の光秀討伐を有利に進めようという秀吉の思惑があったためと推定されるのだ。

⑤秀吉が髻(もとどり)を切って光秀への復讐心
を見せたのは、尼崎はこの寺町付近と言われる

もちろん、元播磨出身の黒田官兵衛が秀吉の背後で、地元の武将たちを説得していたことも大きな要因である。秀吉も、いくら素早く戻ったとしても、自軍の疲労度を考えれば、待ち構える光秀と対等に戦えるわけがないことは理解していた。しかし、その行動力を見せつける効果がいかに重要であるかを、さすが「人たらし」と称されるだけあって、彼は深く理解していたのだ。

3.山崎の戦い

こうして、摂津・播磨衆を先鋒に従えた秀吉軍と、軍師・斎藤利三を前面に出した明智光秀軍との間で山崎の戦いが始まった。天王山頂上付近から現在の戦場周辺を写したのが写真⑥である。

⑥山崎の戦い古戦場

写真⑥の正面に見える京滋バイパス(名神高速道路の迂回路)の、やや左側でとぐろを巻いているのが大山崎ジャンクションだが、ちょうどこのあたりを中心に明智軍と秀吉の先鋒がにらみ合ったのだ(地図③ご参照)。

長文になったため、山崎の戦いのクライマックスについては次回に描くこととしたい。

ご精読に感謝する。


水曜日

中国大返し① ~宇喜多家の活躍~

「おお、見えてきた!」

中国自動車道の岡山総社ICを降り、東へ三キロ弱戻ると、大きな鳥居が見えてくる。その先に、目指す平らな公園が広がっている。

備中高松城(写真①)

ここは、秀吉が黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛とも。以下、黒田官兵衛)の発案した大作戦「水攻め」を採用し、落としたことで有名な城跡だ。また、この城を包囲中に本能寺の変が起き、「中国大返し」の起点となった場所としても知られている。

今回、秀吉の運命と日本の歴史の転換点であるこの地に立つことで、当時の彼の心境を少しでも味わいたかった。同時に、この水攻めの影の立役者である宇喜多一族についても思いを巡らせたい。それが、今回の史跡巡りの目的である。

①備中・高松城
※中国大返しの起点

1.宇喜多家の命運をかけた戦・備中高松城攻め

ご存じの通り、本能寺の変は、羽柴秀吉が中国・毛利攻めの最中に起きた。

しかも、信長は秀吉からの要請により、援軍として西国へ向かう直前の出来事であった。この毛利攻めから、本能寺の変の弔い合戦へととんぼ返りする秀吉軍の軍略は、黒田官兵衛の策によるところが大きいのは周知の史実だ。しかし、この毛利攻めにおいて、地元である宇喜多一族の活躍が非常に大きかった点も見逃せない。(写真②:沼城の写真)

②沼城(備前亀山城)
※宇喜多の城で大返し時に
一旦ここで毛利の動向を伺う

まずは、この宇喜多の視点から、備中高松城の水攻め、そして中国大返しに至る背景を考察する。

(1)毛利を見限った宇喜多

宇喜多の台頭について書くと、本ブログでも軽く1,2シリーズできてしまうので、今回はあまりルーツには立ち入らない。

③宇喜多直家の木像
※Wikipediaより

宇喜多直家(なおいえ:絵➂)は、主君であった浦上氏の下剋上の機会を虎視眈々と狙っていた。この備前の浦上氏は、隣国である毛利氏(備中)とは常に対立関係にあった。これは、宇喜多にとって、敵(浦上氏)の敵は毛利ということになる。る。

「敵の敵は味方」という諺通り、直家は毛利と手を組み、浦上氏と敵対した。その後、経緯は複雑だが、結果として宇喜多は浦上氏を備前から追放し、名実ともに備前のナンバーワンとなることに成功した。

備前の掌握が成功すると、もはや毛利と手を組む理由は是々非々となった。そこに信長の命を受けた秀吉が中国方面へ侵攻してくる。直家はすかさず毛利を見限り、秀吉を介して信長陣営へと寝返ったのである。

宇喜多直家の信長陣営への鞍替えが早かった理由の一つは、備前の東隣、摂津・播磨で起きた荒木村重の悲劇を間近で見ていたからに他ならない。(絵④)

④荒木村重(歌川国芳)
※Wikipediaより
口に咥えているのは、信長に無理やり
押し込まれた餅

村重は、信長に反旗を翻し毛利を頼ったが、毛利は全く動かなかった。援軍を首を長くして待つ間、信長軍によって村重の家臣やその家族は数百人が火炙りにされ、彼の妻までもが京で斬首されるという悲惨な運命を辿った。これほど陰惨な事態を迎えても、村重は信長に降伏せず、動かない毛利を当てにしたため、家臣の求心力をすべて失ってしまった。最終的に村重は失踪するという最悪の事態を迎えるのである。

この経緯を見れば、直家が「毛利も焼きが回った。なぜ村重を見殺しにしたのか」と考えたのも無理はない。

しかし、長年毛利側につき信長と対峙していた直家は、当初、信長から家臣となることを拒否された。信長からすれば、主家であった浦上氏を裏切り、次に毛利を裏切った直家を信用できないと考えたのだろう。その後、秀吉が間を取り持ったことにより、宇喜多家は以後、秀吉、いや豊臣家に忠誠を尽くすのである。

(2)秀吉出撃の引き金:八浜合戦

秀吉に「自ら中国攻めに出撃しなければならない」と決断させたのが、宇喜多と毛利の大衝突、八浜合戦である。(地図⑤)

⑤八浜合戦の地理的位置等
※出典:ブログ「今日は何の日?徒然日記」図を加工

結論から言えば、この合戦で宇喜多勢は毛利に大敗北を喫した。

この時、強力なリーダーシップを発揮していた宇喜多直家は岡山城で病死しており、本家を継いだ秀家はわずか10歳であった。そのため親族からのサポートが必要であり、その筆頭が宇喜多忠家(直家の異母弟)なのである。

毛利は直家が死去したことを知るや、手を組んでいた村上水軍を岡山沖へ出撃させた。これにより、宇喜多の本拠の目と鼻の先である瀬戸内海地域の制海権を毛利側が掌握したのである。

天正10年(1582年)2月、毛利軍は八浜城方面へ進軍した。

ある朝、馬草刈りをしていた数名の宇喜多兵を、毛利兵数名が追い払おうとしたことから事態はエスカレートした。宇喜多軍が援護兵を出すと、毛利側も応戦。小競り合いは次第に大きな戦へと発展したのである。

毛利側は村上水軍も投入した。村上水軍は、九鬼水軍の鉄甲船には敗れたとはいえ、第一次木津川口の戦いでの活躍からもその強さは明らかであり、宇喜多勢は対抗できなかった。結果、幼い秀家の名代として出陣していた宇喜多基家が戦死するという大敗を喫した。

この八浜合戦における宇喜多の壊滅的な敗北は即座に秀吉に伝えられた。これが、秀吉自身が中国攻めで主体的に備中方面へ動かねばならないと考えた、決定的要因となったのである。

(3)秀吉の備中進行

天正10年3月、秀吉は姫路城を出発し、3万の兵を率いて備中へ進軍を開始した。中旬ごろには、宇喜多の沼城(ぬまじょう)へ入城。そこで16日間滞在し、毛利の防衛ラインの動向を探ったのである。

当時、宇喜多の備前と毛利の備中の境には、毛利軍の7つの城が存在し、これが防衛ラインとなっていた。(図⑥)

⑥毛利軍の防衛ライン「境目七城」

この七城周辺では小競り合いが多発していた。既にこの時点で、備中高松城の北側二つの城(宮路山城、冠山城)は秀吉軍が攻略済みであり、さらに南側の加茂城も秀吉側に寝返っていた。そしていよいよ、水攻めで有名な備中高松城攻めが開始されるのである。

(4)備中・高松城攻め

備中高松城の周囲は低湿地となっており、足守川(あしもりがわ)が氾濫すれば冠水してしまうような平城であった。(写真⑦)

⑦足守川氾濫時(1985年6月)の高松城址水没写真(上)
※下は比較のため14年後の通常時に撮影した高松城址

秀吉はこの城に対し、黒田官兵衛の策である水攻めを採用した。秀吉軍は直ちに城の周囲に堰を築く突貫工事に着手し、約3kmにも及ぶ堤防を12日間で完成させた。

5月に入り、梅雨時でもあったため、堰き止めの効果はすぐに現れ、城は水没状態となった。食料の搬入が困難となり、城の守備兵5千人の士気は急速に低下した。

布陣図を見ると、高松城主・清水宗治(しみずむねはる)の正面を受け持つのは宇喜多勢であった。(地図⑧)この高松城攻めにおいて、清水宗治と隣国である宇喜多との戦いが主になったのは、宇喜多勢が土地に明るいという理由もある。しかし、八浜合戦での敗北の汚名を雪(そそ)ぐという意味合いも大きかったのだろう。

⑧高松城水攻め布陣図
※蛙ヶ鼻築堤跡看板から

2.本能寺の変

秀吉の巧みな点は、このまま待てば落ちる高松城であるにもかかわらず、信長に対して「御出馬願わないと、サルのみでは手に負えません」と、信長を立てることを忘れなかった点だろう。

無論、高松城の援軍に出てきた小早川隆景吉川元春を合わせた毛利軍は5に上る。(地図⑧の左下側)

一方の秀吉軍は3

⑨高松城水攻め時の秀吉本陣からの眺望
ちょうど正面の寺院のような辺りが高松城辺り

この毛利本隊との決戦となれば、やはり信長御大将の出陣が必要となる。これは単に兵数を増やすためだけではない。信長公のお呼び出し方式であった長篠合戦(呼び出したのは家康だが)とも似た、政治的な思惑があった。秀吉はそれらを想定して、信長へ出馬を促したのだろう。これにより、信長も坂本と丹波に軍拠点を置く明智光秀の軍勢を伴って、秀吉の陣中へ駆けつけるという行動に移ったと思われる。

しかし、安芸の毛利拠点から支援に来た吉川・小早川軍は高松城の南西に布陣したものの、城は既に水没していた。軍事行動を起こすには手遅れであった。

また、実は毛利軍の5万という兵数は、秀吉が自己の実績を大きく見せるため誇張したものであって(『浅野家文書』)、実際には1万程度しか出兵していなかった可能性も指摘されている。

ともあれ、毛利軍は動かず(動けず)、結局、清水宗治の切腹による和睦が成立するまで、わずか17日間で決着がついた。無論、「信長出馬か?」という情報や噂が毛利軍に伝わっており、常勝・信長が来る前にケリをつけて安芸へ帰らねばまずいという危機感はあったのだろう。

しかし、秀吉が信長に出馬を願ったのは、吉川・小早川軍との対決という危機感から、というよりも、まずは信長を立てて機嫌良くさせること、さらには稀代の水攻めによる圧倒的勝利を信長に見せつけたかったのではないだろうか。

この状況で最も辛い立場にあったのは、それに乗せられた明智光秀である。この当時の光秀は、信長の信任がかなり篤かった。これは、京を挟んだ東西の重要地である坂本丹波という二つの地を与えられていることからも窺い知れる。

家康の饗応役で失態を犯したからだとか、金柑頭を欄干に叩きつけられたといった、庶民的な感情に訴える伝承は数多くある。だが、それら全てが、信長の愛情の裏返しを表現した逸話に尾ひれはひれが付いた話ではないかと私は考えている。

しかし、家康の饗応役を外し、信長と一緒に中国攻めに行かせようとした際の「中国は取り放題だが、旧領の二国(近江志賀郡と丹波国)は没収する」という冗談じみた言葉は、光秀にとって行き過ぎた仕打ちであったのかもしれない。

もっとも、この説ですら確たる証拠はない。細川藤孝へ宛てた信長文書を見る限り、光秀には相当な信頼を置いていることが分かることから、やはりこれは俗説ではないかという見方もある。(手紙⑩)

⑩「本能寺の変」直前の織田信長朱印状

《⑩の朱印状訳》

中国地方への進出は来年の秋を予定していたが、この度、備前の児島で敗北した小早川隆景注1]備中高山城注2]籠城。羽柴藤吉郎(秀吉)の軍が包囲しているとの注進があった。
指示次第で出陣できるよう用意せよ。油断せずに用意しておくように。詳細は惟任日向守(明智光秀)に申し伝える。

4月24日 信長[朱印]

  • 注1:児島(八浜合戦)で敗北したのは、先に述べた通り宇喜多であり、小早川ではない。
  • 注2:備中高山城は誤情報、高松城。更に籠城したのは小早川ではなく、清水宗治ら。

前述の手紙の注釈から、この時代に正確な事実(FACT)を把握することが難しかった状況がうかがえるのは興味深い点だ。ここで着目すべきは、この手紙が4月24日に書かれたという事実であると私は考える。

本能寺の変が起きたのは6月2日であるから、この手紙は一か月以上も前に出されたことになる。つまり、中国攻めについては、一か月以上も前から信長と光秀の間で議論されており、光秀も計画を認識していたということになる。

そうなると、「家康の饗応対応に腹を立てた」とか、「急に旧領を召し上げて中国を切り取れと命じられた」といった説は、やはり後世の創作ということにならないだろうか。

兎にも角にも、本能寺の変は起きた。

織田信長の死は、備中高松城の水攻めに膠着していた全軍の運命を一変させた。

本能寺の変について詳しく論じ始めればきりがない。よって、この辺りまでの言及に留め、ここからは秀吉が天下人への道を決定づけた、歴史的な奇跡の機動、「中国大返し」の顛末を追うこととする。

3.大返し開始

明智光秀から毛利へ向けた使者は何度か出されたようだが、それらはすべて秀吉の陣中で捕縛されたという。秀吉らは、この重大な情報を自軍にすら知らせず完全に隠蔽したため、毛利側は、城主・清水宗治の切腹による備中高松城の落城後に初めてそれを知ったというのが通説である。

ただし、ここで疑問が生じるのは、毛利軍の主力は吉川・小早川軍だけではないという点だ。山陽道沿いに使者を走らせるルート以外にも、情報を伝える方法は複数あったはずである。毛利側が本能寺の変を知ったのは、対信長として共闘した紀州の雑賀衆(さいかしゅう)からもたらされた情報であり、それは6月5日のことであった。

光秀が本能寺の変を起こしたのが6月2日。そこから2~3日の間に毛利側も変事を知れば、秀吉を釘付けにできるだろうという甘い見通しが、光秀の最大の失敗であった。そもそも当時の情報は混乱していたため、光秀といえども、水攻めで6月4日に清水宗治が切腹したという情報を正確に知る由もなかったのだろう。毛利が6月5日に変事を知ったのは、光秀の予測範囲内だったと思われる。

だが、その予測は甘かった。当時の情報伝搬の常識がその程度の速さだとすれば、秀吉はそれを知っていたからこそ、その裏をかき中国大返しで、いわゆる超「速攻」にこだわったのだろう。

先に述べたように、秀吉は自力で落とせる備中高松城を、わざわざ信長を立てるために呼び寄せようとした。信長も秀吉の魂胆が分かっていたのかもしれない。しかし、現代の上司が部下にするように、信長は光秀に中国侵攻がいかに大変かを説いたはずだ。「光秀はプレッシャーが大きければ大きいほど、大きな働きをする」という部下マネジメントの観点からであろう。結果的に信長の判断は正しく、光秀は「本能寺の変」という「大きな働き」をしてしまう。

光秀の性格からして、援軍のための準備は抜かりなくやったに違いない。であれば、援軍を請うた秀吉が、信長無しで2〜3日で備中高松城を落とせるはずがないと考えるのは、光秀にとって当然の判断ではなかっただろうか。結果的に、これが光秀の「甘い判断」となった訳だが、後から歴史を知る人だから言えるのであって、光秀の能力不足の問題ではない。

いずれにせよ、既にこの時、秀吉は備前の沼城まで走り抜けていたのである。(写真⑪)

⑪沼城本丸跡
宇喜多秀家の旗印「兒」が沢山立ててある
ちなみに
「兒」は手紙⑩の文中にある児島の
「児」の原字である。

沼城へ到達した秀吉は、ここで一旦停滞している。一応は毛利の追撃の有無を確認したためとされる。

しかし、別の一説では、高松城を水没させた梅雨前線が激しく吹き荒れたため、この城の東側を流れる大河・吉井川が氾濫し、足止めせざるを得なかったというものもある。秀吉は天候を恨みながらこの城に留まったというが、こちらの方が追撃確認説より筋が通っているように思える。

仮に追撃があったとしても、沼城で迎撃するよりも、規模の大きな岡山城の方が堅固である。また、この後一昼夜で辿り着く姫路城は秀吉軍の本拠なのだから、なぜ沼城でぐずぐずする必要があったのか疑問が残る。

そして、六月八日晴天をもって大返しは再開された。十九里(七六キロ)の道のりをわずか一昼夜で駆け抜け、秀吉は姫路城へ到着。

ここ姫路城で、秀吉はストックしていた食料や金銀を、大返し中の兵たちに大盤振る舞いで与えた

それは取りも直さず、この大返しの帰結が秀吉の死活を決めるほどの大きな賭けであったからだ。もし失敗すれば、姫路城の財産など何の意味も持たなくなる、そう判断したのである。

この後の大返しと山崎の戦いは、次回に描きたいと思う。

精読感謝。

【備中・高松城】〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558−2
【秀吉本陣跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【蛙が鼻築堤跡】〒701-1333 岡山県岡山市北区立田
【沼城(備前亀山城)】〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801
【八浜城】〒706-0221 岡山県玉野市八浜町八浜1062
【岡山城】〒700-0823 岡山県岡山市北区丸の内2丁目3−1

    土曜日

    家康の大樹⑤ ~清州同盟へ~

    上洛に伴う今川義元(よしもと)の尾張(おわり)侵攻戦略の中、松平元康(もとやす、後の徳川家康)は、今川軍本隊に先行して大高城への兵糧搬入と、信長軍側が大高城へ付けた鷲津・丸根の両砦への攻撃、そして陥落と沢山の戦果を挙げました。その直後

    「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

    の報が入りました。

    唖然とする元康。しかし、周囲の家臣団(三河衆)の一人が

    「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

    と叫ぶと

    「あっ!」

    と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。

    それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

    元康は、しばらく考えます。そして

    「全軍、岡崎へ向かう!」
    「おお!」(家臣団)
    「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
    「ええっ?」(家臣団)

    というのが前回までのお話でした。(リンクはこちらから

    1.大樹寺に入る元康

    ①大樹寺

    訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真①)

    岡崎城には、数は多くはありませんが、今川軍が居ます。桶狭間合戦で勢いに乗った信長軍が、三河へ攻め入ってきた場合、元康は岡崎城の今川軍と協働し、岡崎城にて立て籠もった方が安全であるにも係わらず、大樹寺に入るのは不思議です。(写真②)
    ②岡崎城

    前回述べたように、大樹寺は松平氏先祖8代の墓があり、その前で元康は切腹するつもりだったから?

    であればわざわざ家臣団を連れて岡崎まで来ませんよね?元康だけでいいじゃないですか?

    元康が切腹してしまったら、家臣団は散り散りになってしまい、直後に信長軍追撃があったなら、更に危険にさらされる訳ですから、この理由は通らないような気がします。

    ここでちょっと元康の立場になって考えてみましょう。

    2.元康は今川大企業の中間管理職

    桶狭間合戦で、自分のボスを失ったとは言え、直ぐに自分の思い通りに動いて良いかというと、今川家という組織に帰属している限り、そうもいかないのはお分かり頂けると思います。

    ただし、元康の直属上司はやはり今川義元公。首を取られたとあっては、組織の他の長の業務命令が無くても、非常事態であるが故に、織田軍側の領地にある大高城の地を撤退し、今川領である三河へ戻るのは当然といえば、当然ですし、独断で判断しても、後々今川家側でも問題にはならないはず。

    ここまでの元康の読みは良く分かります。

    ではなぜ、直ぐに岡崎城に入らず、3km手前の大樹寺に入ったのか。

    ここに、元康の思慮の深さを垣間見ることが出来ます。

    ③桶狭間合戦公園に建つ
    今川義元像と織田信長像
    彼は信長を意識していたのです。

    敵としての信長ではなく、将来の味方としての信長です。

    義元が予期せぬ形で討死した直後、元康は元康なりに、義元の跡を継ぐ氏真(うじざね)と信長の器量を天秤に計っていたのでしょう。そして氏真より、自分たちの未来は信長にあるのではないかと予感していたのだと思います。(写真③)

    ですので、幾ら自分の故郷、土地である岡崎だからと言って、不用意に岡崎城に入ってしまえば、岡崎城には今川軍も居る訳ですから、元康は信長に抵抗する勢力であると信長からみなされます。

    ならば、岡崎城の今川軍を追っ払って入城し、早々に信長と手を結べばいいやん!
    と思われる方もいらっしゃると思いますが、そこは、皆さん、今川家という、今で言う大企業、御曹司が多少甘くても、大企業は強い!立て直す人材が出るかもしれません(笑)。

    となると、直ぐにライバル会社である信長ベンチャー企業に移籍というのは軽薄であり、ここはじっくりと今川大企業と信長ベンチャー企業の行末を見極めたいところ。

    いずれにせよ、今の元康は今川大企業の中間管理職。この企業に居場所を残しつつ、将来移籍するかもしれない信長ベンチャー企業にも悪い顔はしたくない。

    勿論、今、手薄の岡崎城を攻め、元康ら三河衆のものとすることもできる絶好の機会なのですが、それをやってしまっては、今後、今川大企業を敵に廻します。まだ信長ベンチャー企業とも提携もしていないのに。

    なので、岡崎城には入らず、大樹寺に入ったのです。

    ちょっと企業風に書きましたが、切実なところは、正妻の瀬名(せな)姫(築山御前)、竹千代、亀姫という元康の家族が人質同様に駿府に住んでいるこの時点で、今川家に楯突く事など想像できない元康です。ただ、今川家を継承している氏真と、元康が幼少の頃より知っている信長、この二人を天秤にかけるとどうしても信長に分があると思う元康の葛藤が、この大樹寺入りに現れていると思います。

    3.わざと態度を明確にしない元康

    ④清州城に居た信長は怖い(笑)
    岡崎城の今川軍は、いつ信長軍が攻めてくるかも分からず、寡兵であることから、何度も大樹寺に留まる元康軍の入城及び信長軍への共闘を求めます。

    ところが、元康は頑として大樹寺を動きません。

    そのうち、岡崎城の今川軍は、信長の三河侵攻を恐れ、城の守備を放り出し、駿府へ逃亡してしまいました。

    元康は、これを待っていました。

    つまり、岡崎城の今川軍が遁走してしまったので

    「(今川の城である)岡崎城を守るべく、しかたなく」元康らが大樹寺から岡崎城へ入城したと。

    これなら、後で今川家から文句の言われようもありません。

    また、後に信長から「あの時岡崎城に入って今川軍として守ろうとしたのだろう?」と詰問された場合でも

    「いえいえ、滅相もございません。岡崎城は松平家代々の城。大樹寺で時機を見て今川軍を追っ払おうと思っていた次第です。」

    と、元康らは、今川軍としてではなく、あくまで独立した三河衆としての行動だったと言い訳できる訳です。

    つまり、このタイミングでは、元康は今川家側の人間なのか、信長側なのかが不明な状況を作り出すことに成功したのです。

    4.鵜殿長照(うどのながてる)

    ⑤忍者ハットリくん
    (名は服部貫蔵)
    この微妙な態度で臨んだ元康ですが、時間が経つにつれ、気持ちはどんどん信長に傾いていきます。

    というのは、氏真の今川領内でのガバナンスはやはり上手く行かず、離反する豪族らの人質を次々と殺し、それがまた今川家からの離反を生むという負のスパイラルが廻り始めたからです。

    松平家もその選に漏れることなく、東三河の松平家の十数人の人質が、吉田城付近で陰惨にも串刺しで処刑されるという伝承が残っています。この後に出てくる松平清善(きよよし)も人質だった娘を処刑されています。

    氏真の統率力の欠如だけでなく、このような破滅型のガバナンスに嫌気が差した元康は、今川家を見限ります。それは勿論、駿府に残している自分の家族・瀬名姫(築山御前、以後大河ドラマに合わせ「瀬名姫」と記述します)、竹千代(後の信康)、亀姫の命を諦めるということを意味します。

    ところが、ここで、一計を立てたのが服部半蔵正成(しげなり)、忍者ハットリくんのモデルです(イラスト⑤)。

    ◆ ◇ ◆ ◇

    鵜殿長照(うどのながてる)という武将をご存じでしょうか?(写真⑥)

    ⑥「どうする家康」の鵜殿長照
    (野間口徹氏)

    元康が大高城に、丸山砦の信長軍の追撃を振り切って、兵糧を入れた話を覚えていますか?(忘れた方は是非こちら「3.元康、大高城へ兵糧搬入作戦成功!」をご笑覧ください。

    元康が大高城へ兵糧を持って飛び込む時まで、大高城で孤高の将として鷲津砦や丸根砦の信長軍の付城と、草の根を嚙みながら戦っていた漢(おとこ)、それが鵜殿長照です。

    かなり気骨のある漢でしたが、今川義元が桶狭間で討ち取られると、元康よりも早く三河の本領に帰って、今川方の武将として上ノ郷城で西三河を信長の魔の手から守ろうとします。(写真⑦)

    というのは、長照自身、義元の甥にあたると同時に、奥方は、今川家当主である氏真の叔母にあたるのです。これだけ今川家との血脈が濃ければ、無条件に今川方で信長憎しであることは明白ですね。
    ⑦上ノ郷城跡

    ここで今川家の味方なのか、織田信長に汲みするのかを判然としないようにした元康の立ち位置を目いっぱい使った一芝居を服部半蔵正成は打ちます。

    ある夜も更けた頃、彼は、鵜殿長照の上ノ郷城に負傷した姿で飛び込みます。

    「御注進!隣国・松平清善殿(絵⑧)が、吉田城外にて娘を今川一族に殺された恨みで、この上ノ郷城へ兵を進めております。我が主・元康は同じ松平家として清善を思いとどまらせようと、竹谷の清善を尋ね岡崎から出てきたところ、清善殿は軍を固め、無勢の我が軍に襲い掛かってきた次第。

    半蔵正成は話ながら、肩に刺さった矢を抜いて見せます。肩から少し血が吹き出します。鵜殿長照は、その生々しい戦の傷を見つめ、ゴクリと唾を飲み込むのです。(これは血袋を使った半蔵正成の演出です。)

    「そもそも松平家同士の話し合いにより、この西三河での混乱を避けようと少人数で来た我が主・元康軍は現在、大苦戦でござる。」

    ⑧松平清善

    「鵜殿長照殿!是非援軍を!我が主・元康は、上ノ郷城の西側・竹谷の地にて交戦中でござる。元はと言えば鵜殿長照殿を庇っての今回の出陣。どうかご出馬を!」

    と、今にも戦での消耗で倒れそうな苦しい息の中での半蔵正成の言。

    「むむむ・・松平家は結束が固いと聞くが・・」

    と半信半疑、直ぐには応じられない長照。そこに留目を刺すかのような半蔵正成の言が続きます。

    「織田信長が来ますぞ。同じ三河の松平家の内紛。信長が逃すはずはありませぬ。我が主・元康が清善殿のところに来たのも、実は清善殿が信長殿との密通の気配があり、このままでは長照殿も松平家も西三河が信長殿に切り取られてしまうと危惧されてのことなのです。ここで元康を見殺しにすれば、信長・清善連合軍と長照殿は対峙することになりますぞ。駿府の氏真殿の支援は望めない現状で!」

    「よし分かった!元康殿を助けようぞ。」

    とやっと応じる長照。早速、城の守備を長子に任せると、数百の騎馬を従えて、西の竹谷に向けて城門を打って出ます。

    5.服部半蔵正成の火計

    長照を説得した半蔵正成は、城内で手当てを受けることとなり、城に残された女性たちに、別室に案内されます。

    「厠(かわや)はどちらか?」

    と聞き、案内されると、厠から庭越しに外に出て、黒装束に着替え、するすると城屋敷の天井裏に潜みます。

    ◇ ◆ ◇ ◆

    鵜殿長照らが、上之郷城から西の竹谷方面へ出撃したことを、城の東にある丘の上から見ていた武将がいます。

    松平元康です。

    半蔵正成が鵜殿へ、「西の竹谷で交戦中」と伝えた元康は、東の丘に引き連れた松平連合軍(松平清善の軍と連合)と共にいるのです。

    竹谷の松平清善の屋敷には篝火を延々と焚いて、それなりに軍勢がいるようにみせかけはしているのですが、殆どもぬけの殻です。勿論、この屋敷は鵜殿軍に打ち壊されることは覚悟の上です。そんなことよりも、松平清善は、桶狭間合戦後、鵜殿長照の今川氏真への讒言により、人質である娘を殺された恨みで、上之郷城をなんとしても抜きたい(落城させたい)と思っていたところでした。

    そこに、松平元康の家臣・服部半蔵正成から、上ノ郷城を抜くことに、元康が協力するとのオファを受けたのですから、屋敷の1つや2つ、大した話ではありません。元康軍が連合する上に、服部半蔵正成が率いる甲賀部隊(忍者部隊)が策略を持って上之郷城を抜くと言うのですから、こんなに心強いことはありません。

    元康は、鵜殿軍が上ノ郷城を出払ったとみるや、全軍に指揮をします。

    ⑨本丸炎上イメージ
    「かかれ!鵜殿長照は半刻(約1時間)もすれば、騙されたと気づき、城に取って返すぞ!半刻で上ノ郷城を抜くのじゃ!」

    城を守るのは鵜殿長照の長男、次男が中心となりますが、長照率いる主力は西の竹谷へ出撃しておりますので、東門を突き破って城に乱入するのに松平連合軍は苦労しません。

    と同時に、上之郷城の本丸から火の手が上がります。城屋敷の天井裏に忍んだ半蔵正成が火を掛けたのです。

    「頼むぞ!半蔵!」

    と元康は祈る気持ちで、その火の手を見つめました。半蔵正成のこの火の手を合図に城外から甲賀部隊も乱入し、鵜殿長照の奥方、息子たちを生捕りにする手筈なのです。

    城・本丸屋敷から上がる火の手はみるみる広がり、城内は大混乱。(イメージ⑨)

    特に松平清善の兵は、城に火の回る中、娘を殺された恨みで鵜殿守備隊の虐殺を進めます。城内は大混乱となりましたが、どさくさに紛れながらも、甲賀部隊は、長照の奥方や息子たちの身の確保に成功しました。

    6.鵜殿坂

    出撃した鵜殿長照らが、竹谷の囮の陣を見つけ、

    「服部半蔵正成に謀られた!」

    と慌てて上之郷城へ取って返したのは、元康の予想通り、城を出撃してからほぼ半刻後。既に上ノ郷城は、火の海と化していました。

    鵜殿軍は茫然として、上ノ郷城の落城を見ているしか無い状況です。

    しかも、攻め手は、いつも相まみえる隣国の松平清善らの軍のようですが、奴らが引き上げる方向、城の東の丘には

    「厭離穢土 欣求浄土」の元康の馬印が立っているではありませんか。

    「おのれ!卑怯だぞ!騙したな、元康っっっ!」

    と、鵜殿長照は、強烈な怒声を発しつつ、率いる軍と一緒に元康が陣に迫ろうとします。その怒声を聞いた松平清善、攻城戦が終り、元康が陣へ取って返す途中だったのですが、

    「長照!観念!!」

    と、長照の後を追いかけます。元康の陣がある丘の頂上にあと少しのところで、長照は木の根に馬の足が取られ落馬。そこに追いついた清善。長照が起き上がったところを、一刀に切り伏せます。悔しさで目を引ん剝く長照の首、これを掴んで持ち上げた清善、

    「宿敵・鵜殿長照の首取ったり!」

    と叫びます。

    現在、この丘へ登る坂は「鵜殿坂」という地名で残っています。(写真⑩)

    ⑩鵜殿坂

    また、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だとの伝承も残っているようです。

    服部半蔵正成の火計は成功しました。生捕りにした鵜殿長照の奥方、その息子らと駿府にいる元康の家族との人質交換に今川氏真は応じるのです。

    7.清州同盟

    元康は、直ぐに無念顔の長照の首を検分します。

    ー長照殿、さぞかしワシを卑怯ものと思われるであろう。しかし、ワシも領民のくらしを含む松平家という家を守り続けなければならず、その結果が得られるのであれば、幾らでも卑怯のそしりを受けもうそうー

    元康の頬に一筋の涙が流れます。そして決意します。

    ー今日を持って、今川家とは決別し、頂いた義元公の「元」の諱(いみな)はお返しし、ワシが卑怯と言われようと守っていく「家」を頂いた名としよう。つまり、「元康」改め「家康」じゃ。ー

    ⑪鵜殿長照のお墓

    駿府に人質となっていた瀬名姫、竹千代、亀姫を取り戻した元康、改め家康は、桶狭間合戦の2年後の永禄5年(1562年)、清州城にて信長と同盟を結びます。(360度写真⑫)

    ⑫清州城

    これが「本能寺の変」までどんなに家康が不利・ピンチになっても続く清州同盟の始まりなのです。

    長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございます。

    《つづく》



    家康の大樹④ ~桶狭間の杜松~

     「狙うは義元の首1つ!」

    色々と複雑な経緯を経て、桶狭間で休息を取っている今川義元の本陣に突撃する信長軍。

    この時、今川義元が馬を繋いだ木が枯木となって残っています。

    杜松(ねず)の木です。(写真①)

    ①今川義元が馬を繋いでいた杜松の木

    1.桶狭間当日の今川義元は馬に乗っていた?

    27歳の信長に対し、海道一の弓取りと言われた今川義元は42歳の男盛り。

    義元は公家の真似事ばかりして、天上眉の肥満体。上洛戦の時には武士であるのに、馬にも乗れず、桶狭間の戦いの時も、輿に乗っていたとの話が昔からよくあります。

    ところが、実はこのような話は江戸中期以降の創作で、大国主・義元が慢心していたがため、小国主・信長に負けたことを強調したいということで作られた部分が多いのです。

    勿論、輿での移動もかなりあったようです。というのは、今川家は時の幕府・足利家の流れを強く汲む家柄なので、輿の利用を許されていた数少ない高家だったのです。ですので、この特別待遇を強調したいと考え、輿を利用することが多かったようです。

    ただし、信長の領地、つまり戦場地となりうる土地では、基本、義元は馬を使ったようです。少なくとも行軍中いつでも馬に乗れるよう引き連れていたことは確かですね。なので、写真①のように桶狭間には、義元が当日馬に乗っていた証拠の駒繋の「杜松の木」が残っているのです。

    ちなみにこの駒繋の「杜松の木」。昭和初期まではちゃんと生きていたようです。大正時代のこの杜松の木が元気だった頃の写真があります。(写真②)

    ②今川義元公の馬を繋いだ「杜松の木」が元気な頃
    ※義元公が信長に急襲された桶狭間の雰囲気が良く伝わってきますね。

    42歳、まさに男盛りの義元。当日の乗馬姿の出立を明良洪範には以下のように描写しています。

    胸白の鎧に金打ち八竜の五枚兜をかぶり、紅錦の陣羽織に、今川重代松倉郷の太刀、一尺八寸の大左文字の脇差を差し、青の馬の逸物に金覆輪の鞍を置き、紅の鞦(しりがい:馬の尻から鞍にかける組み緒)をかけて乗っていた。

    流石一流処の出立です。そしてやはり「青の馬の逸物」に乗っていたのですね。

    ただ、残念ながら桶狭間では、この青の馬の逸物は「杜松の木」に繋いたまま、2度と主が乗ることは無かったのです。

    2.絶対優位の義元

    さて、今川義元の首1つを狙い、信長軍が突撃する少し前の時間に、今一度戻り、善照寺砦から桶狭間に至る間の話を、太田牛一の「信長公記」を基に見ていきたいと思います。(地図③)

    ③桶狭間に至る兵力分布図

    善照寺砦で丸根砦陥落の報を聞いた信長が、「後詰め」戦法は一切捨て「奇襲」戦法に、完全に切り替えたと前回のブログで書きました。

    逆に、この報を聞いた行軍中の今川義元は、

    ④上機嫌で謡をうたう義元
    (コスミック出版『戦国武将 決断の瞬間』)
    「『満足これに過ぐべからざる』の由にて、謡(うたい)を三番うたはせられたる由に候」

    非常に上機嫌な義元です。こんな感じでしょう。(絵④)

    ◆ ◇ ◆ ◇

    一方、信長臣下の佐々 政次(さっさ まさつぐ、「信長公記」では佐々隼人正と表記)は、信長が善照寺砦に入ったと聞き、

    「この上は、われらでいくさの好機をつくるべし」と

    数百の兵力で、中島砦を打って出るのです。

    この攻撃は、今川軍も十分に予想していたようで、約2倍の兵力で迎撃され、いとも簡単に跳ね返されてしまいます。佐々は首を挙げられ、配下の士も五十余騎が討死。

    これを聞いた義元は

    「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし。」

    とさらに上機嫌になり、また謡をうたったようです(笑)。

    「信長公記」に出てくる義元の2つの「謡」うたいの表現は、確かに義元が上機嫌となり、緊張感が和らいでいたことは史実のようですね。

    ただ後世、これが義元の驕り・油断と見なされ、「酒宴を開いた」等、およそ戦闘状態とは思えない状況だったというのは、想像の尾ひれはひれが付いている可能性がありますね。まあ、士気高揚の酒飲みは、近隣の豪族が戦勝祝いで持ってくれば多少はあったかもしれませんが。

    更にこの油断しきった今川義元は「田楽狭間」なる谷に布陣したという説もありますが、海道一の弓取りと言われた今川義元が、敵に襲われたときに戦術上大変不利になる谷に留まるということは考えづらいとも言われています。

    古地図⑤は江戸時代に描かれたものではありますが、桶狭間の今川本陣がやはり、山の上、「おけはざま山」と言われる場所に敷かれたと言われる文献です。(古地図⑤)

    ⑤国立国会図書館蔵 桶間部類絵図には
    今川本陣と書かれた場所は山になっており
    これが「信長公記」の「おけはざま山」

    実際、玉木がこの「おけはざま山」に行ってきました。(写真⑥)
    今は住宅街になって分かりづらいですが、この位置から、写真⑥の奥へと坂を下った100m程先に、今川義元戦死之地碑があります。
    ⑥現在の「おけはざま山」は住宅街となっていますが
    坂道を下りきったところが今川義元戦死地になって
    います。信長軍に押されて古地図⑤の雨池付近まで
    下らざるを得なかった今川本陣だったようです。

    古地図⑤中に描かれている雨池の1つは、現在「大池」という整備された池となってこの地にあります。(360度写真⑦)。他にもこの大池のような雨池が現在もこの桶狭間の辺りには沢山残っています。

    ⑦大池
    古地図⑤に見られるように、この地域は水捌けが
    良くなく、あちこちに深田や雨池があったようです。
    ⑥の「おけはざま山」に陣を張った今川義元も信長軍
    押され、この大池のすぐ奥に見える小山の左の深田
    に足を取られ、討死したようです。

    3.信長の細やかな作戦

    佐々 政次の数百の兵で今川本陣に向かうも、今川軍に余裕で迎撃された戦は、一説には信長の考えた陽動作戦だったのではないかとも言われています。つまり佐々らは囮(おとり)で、この戦の勝利で、更に気を良くした今川義元を油断させるため、また信長本隊の動きを察知させないためにというものです。(地図③参照)

    「信長公記」には、信長が更に芸が細かいことに、善照寺砦から中島砦に移動する際、深田の中の一本道を進軍させたとあります。信長の家臣たちからは

    「殿、この道を進軍させれば、今川義元軍に我らが無勢で清州から駆け付けていることがバレてしまうので止めた方が良いのでは。」

    と進言されたにも係わらず、振り切って実行。これは勿論、モタモタしている時間は無いという状況だったこともあるとは思いますが、わざと以下2つの事を今川軍に誤認させようという意思があるように感じます。

    ①信長軍は無勢。(とるに足らない。)
    ②佐々軍が出撃した後の中島砦の「後詰め」作戦を信長本隊が遂行している。
    (奇襲する意志は信長軍には無い。)

    つまり兵数が少ないにも関わらず、今川軍が尾張に築いた橋頭堡、鳴海城、大高城の対応に右往左往する信長の無策ぶり。

    「ほっほっほ、わが眼中に信長軍はなし。心地よし。」

    と言ったとは「信長公記」には書いていませんが、義元を慢心させればさせるだけ、この後の奇襲作戦はやりやすくなると考えたのかもしれません。

    ◆ ◇ ◆ ◇

    中島砦に入った信長。ここでかつての「うつけ仲間」である前田利家が助っ人として参戦します。前田利家は、桶狭間合戦の前に、信長の不興を買い、出仕停止を食らっていたのですが、信長最大のピンチに、居ても経ってもいられず、無断で参戦。ここに到達するまでに既に敵の首一つ上げていました。(絵⑧)(この後2つ上げ、合計3つの首級を挙げます。)
    ⑧桶狭間合戦に参戦する前田利家
    とその郎党(月岡芳年画)
    ※前田利家は、桶狭間で信長の許可なく暴れまわり
    上記絵のように首級をあげていました

    前田利家の参戦で勇気100倍となった信長軍、中島砦を出撃するにあたり、信長は以下の演説を全軍にします。

    「聞け!今川軍は今朝寅の刻(午前3時頃)から大高城への出入り、鷲津・丸根の砦攻撃等でかなり疲れている。それに対してわが軍は新手。小軍ではあるが疲れた大軍を恐れるな。『運は天にあり』と古(いにしえ)より言う。敵が襲ってきたら引き、退いたら襲い掛かれ。揉み倒し、追い崩すべし!分捕りするな。首は討ち捨てよ!この一戦勝たば、集まりし者どもの家の面目は末代に至る功名であるぞ!一心に励むべし!」

    4.義元、指を食いちぎる

    先に佐々 政次の軍が今川軍に余裕で迎撃された戦で、今川軍が出てくる方向等から、今川本陣が大体どの辺りであるか、信長らは想像がつきます。

    ただ、この時、急に雷神が轟き、沓掛峠の大楠が音を立てて倒れたかと思うと、大地を揺るがす豪雨となります。これは信長軍にとっては非常にラッキーで、後に「あれは熱田神宮の御力だったのだろう」と噂されるくらいの快事でした。

    というのは、豪雨を避けることに手一杯だった今川本陣。豪雨で視界が悪いこともあって、直ぐ近くまで、この土地の豪族で、信長陣営に与している簗田(やなだ)出羽守政綱が偵察に来ていたことに気付きません。

    簗田政綱は戻り、信長の馬の横に自分の馬を乗りつけると、義元のいる正確な位置を耳打ちします。

    時は未の刻(午後2時ごろ)空は先程の豪雨が嘘のように晴れていきます。今でいうゲリラ豪雨だったのでしょう。信長は槍を天に突き出して、大声で

     「狙うは義元の首一つ!他の首は討ち捨てよ!」

    と最後の下知を下します。

    「うおおおおおお!」

    と信長軍の馬のいななき、蹄音、鬨の声が鯨波となり、桶狭間の大地を揺るがします。全軍黒い玉となって今川本陣めがけて突っ込んでいくのです。

    一方の今川軍、ひとたまりも無く崩れ落ちます。

    出現すると想定していなかった敵が、一丸となって襲い掛かってくる恐怖。兵力がどうの、軍の配置がどうの等、冷静な分析ができる心理状態ではなかったでしょう。
    弓、槍、鉄砲は打ち捨てられ、旗指物が散乱します。

    この大混乱の中にあっても、当初、義元は周囲を今川軍300騎に護衛されていました。しかし信長軍の猛攻に耐え兼ね、じりじりと「おけはざま山」の緩斜面を下る形となり、先程の「大池」(360度写真⑦)まで撤退します。この池の淵までの撤退戦で、今川の護衛は50騎ほどに減ってしまったのです。(360度写真⑧)
     
      ⑧桶狭間古戦場公園(今川義元最期の地)

    信長も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい、敵を突き伏せます。周りの者達も負けじと勇戦し、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を砕くほどの激戦を展開。歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次ぐ次第。

    主戦場となった「大池」の辺りは、当時は大湿地帯で深田がひしめいており、この深田に足を取られて、義元の側近たちは次々と討ち取られていきます。

    そして、とうとう

    「そこにおわすは今川治部大輔(じぶたいふ)義元公とお見受けしたり!」と

    服部小平太が義元に肉薄します。義元は佩刀を抜いて服部の膝を払い、これを凌ぎます。ところが、今度は、横合いから、毛利新介という武者が突進してきます。(絵⑨)
    ⑨『桶狭間今川義元血戦』(揚斎延一画)
    ※右側の服部小平太を何とか凌いだ義元(中央)ですが、
    左の幕の外側から毛利新介の襲撃にも合います。
    こうなってはどんなに大軍を率いていても終わりですね。

    義元は、今度は防げず、毛利の槍に突き伏せられ、兜を蹴り外され、大刀で首を切り落とされるのです。その際、義元は従容として死についたのではなく、毛利新介の指を、首を切り落とされる前に食いちぎるという、およそ公家然とした風貌からは思いもつかない行動に出たという伝説が残っています。

    ⑩今川義元首検証杉
    (桶狭間・長福寺)
    ※この霊木は2代目です
    「義元公の首、取ったり!」

    と毛利新介は絶叫します。

    今川軍に激震が走りました。

    海道一の弓取りと言われた大大領主のトップが戦場で「首を切り落とされる」。
    敗色が濃いので撤兵するは「ありえること」と想定できても、直前まで絶対有利な今川軍トップが「首を切り落とされる」とは「ありえない」。

    義元が討たれたとの震撼すべき報は、あっという間に両軍全軍に拡散しました。となると戦は、にわかに今川軍掃討戦の様相を呈します。
    散り散りになって逃げ惑う今川軍。
    義元の首を取るまでは、打ち捨てるべき今川軍の他の将の首も、義元を討ち取った後は分捕り放題です。
    功名心に血眼になる信長軍に対し今川軍が逃げ惑うのは当然といえば当然です。

    5.桶狭間の論功

    掃討戦もほぼ収まってきたころ、信長の元には首を得た者達が続々と実検に訪れてきます。
    ところが信長は、それら種々の今川軍の将首には興味を示さず、今川義元の首のみを検分します。(写真⑩)

    検分後、晴れやかな表情で、もと来た道を引き返し、清州城に帰陣したと「信長公記」は締めくくっています。

    後日、この合戦の論功がなされますが、なんと言っても一番は、やはり指を食いちぎられても、義元の首を上げた毛利新介だろう、いや最初に槍を付けた服部小平太に違いないと噂が飛び交います。

    ところが論功第1は、なんと梁田政綱でした。これは織田信長が、戦における「情報」の重要性を、切った張ったの中世には珍しく、理解が深かったからだとする評価が多いですね。

    しかし、今まで書いてきました「信長公記」でも、義元の最終位置確定に梁田政綱は貢献したかもしれませんが、義元本陣の大体の位置は中島砦に信長が来ている頃から分かっていたような節があります。

    だとすると、これだけの寄与で論功第1とするのは過剰ではないかとの意見もあるようです。(また1次史料において論功第1が梁田政綱と書かれたものは見つかっていないという話もあります。)
    ただ、事実として梁田政綱は沓掛城を貰っていますから、彼の功績は他にも表に出ない何かがあったのかもしれません。

    この辺りの桶狭間の謎も興味が尽きない所ですが、そろそろ桶狭間合戦本論からは離れ、討たれた義元側の武将であった松平元康(家康)は「どうする?」のかに話を戻します。

    6.松平元康の熟慮

    この時、今川義元が向かっていた大高城に先に入り、鷲津・丸根砦等の四囲の信長軍を蹴散らした松平元康(家康)らはどうしたのでしょうか?

    その日(5月19日)の夕方になっても、大高城へ現れない義元らに何かあったのだろうと気を揉み始めた頃、織田方の武将で、元康の伯父でもある水野信元から、

    「御館様(今川義元公)桶狭間にて討死!」

    の報が入りました。
    唖然とする元康。しかし、周囲の三河衆の誰かが

    「殿!岡崎へ帰る絶好の機会ですぞ!」

    と叫ぶと

    「あっ!」

    と元康は我に返りました。そうです。幼少の人質時代から今日まで、元康は岡崎へ帰るためだけに頑張ってきたと言っても過言ではありません。この大高城の最前線で戦っているのも、義元の信頼を勝ち取り、早く一人前の将として、三河・岡崎へ戻してもらいたいと思うからこそなのです。それが義元公亡き今、直ぐ手の届く現実となっているのです。岡崎城は現在、僅かな今川軍が駐留しているのみです。元康の軍1千があれば、今川家は、今はアナーキーな状況、取り戻すのは難しくありません。

    元康は、しばらく考えます。そして

    「全軍、岡崎へ向かう!」
    「おお!」
    「但し、岡崎城ではなく、大樹寺に入る!」
    「ええっ?」

    訝(いぶか)る三河衆を無理に従え、その日の夜に大高城を脱出し、翌朝方には大樹寺に入ります。(写真⑪)
    ⑪大樹寺
    ※岡崎城の北3km辺りにあります

    話がまた脱線しますが、大樹寺に残る有名なこの時の伝承がありますので、一応、ご紹介します。

    ◆ ◇ ◆ ◇

    大高城を信長軍の攻撃から命からがら逃げ伸びた元康ら30騎弱。なんとか大樹寺に逃げ込みます。しかし、追いかけてきた信長軍に大樹寺を包囲されてしまいました。絶望した元康は松平家先祖代々の墓前で腹を切るつもりでした。(写真⑫)
    ⑫大樹寺にある松平八代の墓前

    そこへ、現れた当時の大樹寺住職。「厭離穢土欣求浄土」の教えを元康に説いて諭します。諭された元康は奮起し、「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、寺僧500人と一緒に追撃信長軍を撃退するのです。

    この後、この「厭離穢土欣求浄土」の旗は家康の馬印として使われ続けるのです。(写真⑬)
    ⑬大樹寺本堂にある「厭離穢土」「欣求浄土」

    ◆ ◇ ◆ ◇

    ただ、信長軍が三河・岡崎へ追撃戦をしたという資料は見つかっていません。
    また、もし追撃戦があったのであれば、どうしてたった3kmしか離れていない岡崎城に元康らは入らなかったのでしょうか。岡崎城には今川軍も居たのですから。これからお話する道理から考えても、この伝承には少し違和感を覚えます。

    では、どうして元康は岡崎城ではなくて、大樹寺に入ったのでしょうか?
    それには、元康の深い読みがあったと私は考えます。

    長くなりましたので、この元康(家康)の「どうする?」は、次回のブログで解説致します。

    ご精読ありがとうございました。

    《つづく》