マイナー・史跡巡り: 一の谷の戦い① ~逆落とし~ -->

土曜日

一の谷の戦い① ~逆落とし~

年末・年始に妻の実家である兵庫県は西宮市に車で帰省しました。

須磨海岸にある「戦の濱」碑

やはり関西は史跡の宝庫ですね。
史跡があり過ぎるので、選択するのに困ります。

「うーん、どこにしよう?」と悩んでいると、妻から明日、年末の家族集合のため、妹家族を迎えに行ってきて欲しいとの出動命令。

神戸市兵庫区は鵯越(ひよどりごえ)に住んでいる義妹とその子を迎えに行くことになりました。

鵯越と言えば、平家物語の「鵯越の逆落とし」

そう。平家の都、福原が、この兵庫区にあり、平家が、福原からさらに西に落ちていくきっかけとなった源平大合戦の一つに「鵯越の逆落とし」とか、「一の谷の戦い」と呼ばれる戦があります。

今回は義妹家族を夕方に迎えに行く前に、この源平大合戦を調べることにしました。

【※写真・地図・絵はクリックすると拡大します。】

1.「鵯越の逆落とし」の謎

逆落とし絵巻図
さて、この源平大合戦の有名な「鵯越の逆落とし」の場面を簡単に復習します。小学生の頃、社会で習った方も多いと思います。

1184年2月7日、鵯越の崖の上まで進軍した義経が、弁慶らと一緒に、崖の下の平家の陣を見下ろしています。

ここを馬で駆け下り、平家の陣に突入できるか、全軍真っ逆さまに落ちて、負傷するだけに終わるのか、若干25歳の義経の判断に掛かっています。

その時、崖を鹿がピョンピョンと飛ぶようにして、降りていくではありませんか。

義経 「鹿も4つ足、馬も4つ足!者ども、続けえーっ!」

と叫んで、真っ先に馬で駆け下り始めたので、全軍それに倣い、馬の頭が尻より下になる「逆落とし」状態で一気に崖を駆け下ります。

まさか崖から敵が攻めてくるとは思わなかった平家は、この襲来で散々な目に会い、讃岐の屋島へ逃げるのです。

右の蒔絵のように、古来この有名な場面は語りつくされてきました。

愛馬を背負う畠山重忠
ちなみにこの時義経の部下であった畠山重忠という豪傑は、逆落としの急斜面を自分の愛馬「三日月」が降りるのを可哀想に思い、自分が馬を背負って崖を降りる話も有名です。

深谷市にある彼の銅像は右の写真のように、この逆落としの時の様子がモチーフになっています。

脱線しますが、この三日月等源氏の名馬の産地が私の住んでいるところであることを、拙著ブログ「驚神社」に書いていますので、ご笑覧頂ければ幸いです。(ここをクリック)
関東から600kmも離れたこの神戸の地まで重忠は乗ってきたのかな。

話を戻しますが、この鵯越の話、前々から私が非常に疑問を感じていたことがあります。

この逆落としの標的になった平家の陣地は、前は海、後ろはこの山の崖に守られていました。

次回、お話する平敦盛が海に馬を入れて逃げようとした等の話を見ても、殆ど海岸線に陣を張っていたような描写が窺えます。

ちなみに右の教育漫画にも海岸線に居る平家が描かれています。

ところが、私の義妹家族は鵯越近辺に住んでいますが、海は全然近くないのです。

右下の写真が鵯越から、海を臨んだ景色です。
逆落としの一コマ

逆落としで、海岸近くの平家の陣を攻めるイメージは浮かんできません。

この戦、「一の谷の戦い」とも言いますが、一の谷の平家の陣は、まさに須磨の海岸沿いにあります。

ただ、鵯越から8kmも離れているのです。

これはどういうことなのでしょうか?

2.合戦に至る経緯

ちょっとこの問題は脇に置いて、この戦に至る経緯を見ていきたいと思います。

1183年、倶利伽羅峠(石川県と富山県の境にある峠)の戦いで、角に火をつけた牛を突進させるという奇策(写真右下)で、平家の大軍を破った木曽義仲(源義仲)が上洛します。この時平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて、九州は大宰府まで逃げます。

義仲は、引き連れて来た兵の京都民に対する態度が悪かったり、無作法で田舎侍と揶揄されたりと、兵卒の統治に失敗し、権威を復活した後白河法皇と対立していきます。
鵯越から海の方を臨む

後白河法皇は、鎌倉の源頼朝を頼りにしはじめ、義仲は激怒します。

後白河法王を幽閉しますが、頼朝により追討軍として到着した源義経・範頼軍に京を追い払われる形となってしまいます。

そして、1184年1月20日に木曽義仲は義経・範頼軍により滅ぼされます

この源氏同士の内紛中、平家は讃岐屋島(香川県)を経て、兵庫県の神戸にある福原の都にまで勢力を回復して来ました。

そして、安徳天皇を擁いて、京都奪還を同年2月に計画していましたが、幽閉から救出された後白河法王が、この動きをちゃんと察知していました。
倶利伽羅峠の戦い
(牛角に松明を付け平家軍に突進させた)

平家追討及び三種の神器奪還の宣旨を1月26日に発出します。

3.後白河法皇の策略

そこで、先に木曽義仲を打ち滅ぼした義経・範頼軍が、この宣旨に従い、急ぎ神戸の福原に京都から向かいます。

この時、範頼の軍は、京都から大阪の北東部から武庫川、西宮を経る今の国道2号線沿いに神戸へ向かうのに対し、義経は京都から兵庫県の北側丹波篠山から播磨を経て、北から神戸へ向かいます。

義経は途中、播磨の三草山というところで、平資盛と前哨戦をして勝利します。

そして、下の図が福原を中心とした源氏と平家の布陣の様子です。

大体10km東西の広範囲にて戦闘がなされたことが分かります。
この大戦は、このように地理的な範囲が広いため、「2月7日」と範頼と義経で戦開始の日を示し合せて行われましたが、この前日の2月6日に、後白河法皇の策略が威力を発揮します。

というのは、「源平和平が成る方策を考えているから、戦闘は待て!」という休戦命令を持った後白河法王の使者が平家の処に来たのです。

この件で、平家は油断しました。一応迎え撃つ体制を取っていましたが、休戦命令の話は瞬く間に平家の兵の間に伝わりました。

ところが翌日2月7日に、源氏が上の図のように攻めてきたのです。

平家物語等では、義経の戦術上手ばかりが強調されますが、この後白河法皇の平家戦意喪失作戦も非常に上手く機能し、平家が総崩れとなって屋島に退却する大きな要因を、合戦前日に作っておいたのです。

後白河法皇
また少し話が脱線しますが、後白河法皇は、本当に心理戦が得意ですね。

法皇は武家を分裂させたいと考え、平家滅亡後に義経をも、この法皇の戦術の道具として使います。
簡単です。武家の棟梁である源頼朝より、義経を重用するように見せるのです。そして頼朝の対抗勢力として義経が暴れてくれれば、武家の世は儘ならない。

結局、平家討伐もそうですが、法皇は朝廷優位の権力を確保するためには、武家政治をなるべく混乱させ、消耗させることで力を削ぎたいと考えていたのでしょうね。

ただ、心理戦は限界があります。頼朝はこれを見破っており、さっさと弟である義経を冷徹に衣川で滅ぼし、法皇らが変な事をしないように、六波羅探題という朝廷のお目付け役を京都に設置するのです。

4.逆落としの場所についての議論

さて、話を戻して、この大戦について見て行きましょう。

この大戦、上図のように3つの戦闘区域があります。

戦闘区域①:生田川(2017年1月1日現在)
向かって右側新神戸タワー側が源範頼軍5万
左側新神戸オリエンタルホテル側が
平知盛軍
一番軍が多く、史実的にも間違いの無いのが「戦闘区域①:生田川」です。(写真右)
神戸市の中心を六甲山から流れる生田川の東側に陣を張る範頼軍5万。対する平家軍は、あの勇猛果敢な知盛が大将です。ここは史跡等はありませんでしたが、源氏の白旗を掲げた場所である「旗塚通」等の地名が残っています。

ただ、ここ生田川は、平家としては東から攻めてくる源氏に対し、一番想定していた防衛ポイントですので、ここで両軍の大軍が衝突するのは想定内だったのでしょう。

義経軍は2万。丹波方面の北から福原を攻めます。この義経の行軍記録が「平家物語」や「吾妻鏡」等の史書により若干記述が違うために、今一ハッキリしない部分があり、それらがひいては、これだけ有名な「逆落とし」の場所についても諸説出てくる結果となっているのです。

つまり「逆落とし」は「戦闘区域②:鵯越」であったのか?それとも「戦闘区域③:一の谷」であったのか?

実は私は現地に行くまでは、「戦闘区域③:一の谷」だと考えていました。
戦闘区域③:一の谷逆落とし上から平忠度
の陣方向を臨む

右の写真を見て下さい。まさに海岸線に陣を張る平家の陣を見下ろす位置であり、物語にある逆落としにぴったりの景色ではないですか?

また、右下のフェンスばかりの坂を見て下さい。先程の海岸線を臨む場所の足下は、このような勾配なのです。

非常に説得力があると思いました。

しかし、「戦闘区域②:鵯越」についても、平盛俊などが守っていた明泉寺の現地に行ってみると、右下の写真のように、山側の傾斜はかなり厳しく、一の谷以上に「逆落とし」的な場所は多々考えられます。

また、平家が守る福原の山側からの突如の大軍の出現という観点からは、海が遠いとは言うものの、この場所で逆落しが行われた方が、平家に与える戦闘インパクトはかなり大きく感じられます。

戦闘区域③:一の谷の逆落としの崖?
結果、この「戦闘区域②:鵯越」を撃破した義経らが、海までずっと下り、2里(8㎞)先の「戦闘区域③:一の谷」まで敵を追い詰め続けてもおかしくないと思えてきました。

更に、詳細は次回しますが、明泉寺に墓所がある平知章、大将の盛俊等、かなり多くの平家一族が、ここ鵯越で討ち取られています。

義経が鵯越で兵を2分した時に、義経自身は一の谷へ行き、鵯越攻めは安田義貞という元々木曽義仲の家来だった人物に任せたようなのですが、良く分かっていません。

ただ、これだけの数の平家一族が討ち取られるのに、義経級の大将が必要なのではないか?であれば、やはりここ鵯越を攻めた時には義経は居たのではないか?

なんとなくですが、こちら鵯越で逆落しがあってもおかしくないような気持になってきました。

5.両地点であった「逆落とし」?

これらの史跡を見て廻っていると、鵯越に住んでいる義妹家族を迎えに行く刻限が近づいてきました。

戦闘区域②の明泉寺から鵯越方面、ここから逆落としして来た?
今回、私は「戦闘区域③:一の谷」から先に見て廻り、途中、須磨寺等も見た後、義妹家族の近くの「戦闘区域②:鵯越」の明泉寺に行ったので、予定より大幅に時間が経ってしまいました。

この鵯越の辺りの土地は古くからあるためか、道路が細く、明泉寺の駐車場には道路に入って行けず、かと言って直ぐ近くに路駐できる位、道幅の広い道路もないため、1km近くも離れたコンビニの駐車場に止めて、走って明泉寺に平知章の墓所を見に行きました。

そして、刻限せまる中、また1kmもの道を、まさに今迄見て来た現場から見て、「逆落とし」は何処だったのだろうと考えながら、テクテク歩いていると、またいつもの霊感のようなものがピーンと来ました。

戦闘区域②:鵯越の陣があった辺りに建つ明泉寺
進行方向の右手の、20平米くらいの住宅地に囲まれたジメジメした小さな空き地に、なにやら碑が立っています。

「おおっ、こんなところに盛俊の塚が・・・」

なんと、この鵯越を守っていた大将、平盛俊の塚でした。

小さいとは言え、ちゃんと住宅街の一角の土地に安置され、今尚地域の人から愛される平盛俊。

そうだ!盛俊なら「逆落とし」の真実を知っている。

そう思い、塚に手を合わせて拝んでいると、新たな思考が湧いてきました。

「義経は騎馬については天才的な人物だった。」

「この大戦でも範頼の軍が海岸沿いを行軍してきたのに対し、義経はその騎馬の機動力を使い、わざわざ丹波方面からぐるっと廻って、この鵯越と一の谷の両方を攻めたのだから、両方の地点で急峻な斜面を騎馬を使って平家軍に襲いかかったのかも知れない。」

私が冒頭に書いたような、華々しい「逆落とし」は作り話かも知れません。史書によっては、畠山重忠は、「戦闘区域①:生田川」を攻めた源範頼の軍に参加しており、愛馬を担いで崖を降りたというのも平家物語の創作だという説もあります。

後で分かったのですが、「逆落とし」は、平家物語の全くの創作で、そんな事実は無かったという説もあるようです。

ただ、義経が馬と急斜面をこの戦で使ったのは事実でしょう。

ふと住宅街の一角で見つかった平盛俊の塚
ならば義経が大将だった鵯越でも一の谷も、平家では絶対に降りられない急峻な斜面を義経軍が降りてきて、平家軍の虚を突いたと考えても、不自然ではありません。どちらの土地も六甲山系の急峻な斜面はあるのですから。

その攻め方に、尾ひれ羽ひれが付いて、冒頭の「逆落とし」の話になったのかも知れません。

「さすが、平盛俊!」と、塚を後にし、急いでコンビニに止めた車に向かいました。義妹家族のお迎えは20分程遅刻しちゃいました。(笑)

お読みいただき、ありがとうございました。

次回は、この戦の詳細な模様について、訪問した須磨寺等で得た情報も含めてレポートできればと思います。

【一の谷源平史跡 戦の濱の碑】兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目2
【明泉寺】兵庫県神戸市長田区明泉寺町2丁目4−3
【平盛俊塚】神戸市長田区名倉町