マイナー・史跡巡り: 一の谷の戦い② ~敦盛~ -->

土曜日

一の谷の戦い② ~敦盛~

前回の「一の谷の戦い① ~逆落とし~」では、833年前、1184年2月7日に、神戸は福原の都目掛け、源範頼・義経軍が攻めてくるところと、「逆落とし」は、一体どこで行われたのかについて書きました。(ブログはここをクリック)
敦盛

今回、この合戦の流れと、平家の武者について書いていきたいと思います。(絵①

1.膠着状態を破る義経の秘策(一の谷の逆落し)

前回、義経軍は、最初鵯越で「逆落とし」した後、一の谷にて2度目の「逆落とし」をしたという私の説を書きました。

これに基づいて、2月7日の合戦の状況を以下の図のように修正し、戦闘の経緯をA→B→C→Dで簡単に記入してみました。(地図②
②一の谷の戦い概略図

前回の読者の方から、福原は平家の都なので、その防衛線も相当しっかりしていた筈であり、容易に落ちないようにしていた筈とのご指摘がありました。

私もその通りだと思います。

源氏が進軍する京都から神戸への海岸沿いの主たる交通路は、山陽道です。
③かわぐちかいじの描く一の谷の眺め

この交通路から大軍が押し寄せる、つまり「戦闘区域①:生田川」が最大の防衛ラインになるということは、当然平家想定済みです。

北側の六甲山から攻めてくることも想定し、平家は「戦闘区域②:鵯越」にも平盛俊等を置き、防衛ラインを敷いたのです。

このような平家の完璧な想定により、源氏が攻撃を開始した直後は、上図のAやBに書いたように、これらの防衛ラインはなかなか破れなかったのでしょう。

そして、この膠着状態を打破する秘策を、鵯越で戦っている最中の義経が思いついたのが、「戦闘区域③:一の谷」への不意打ち作戦なのです。(絵③

2.平家軍防衛ライン崩壊

義経は、この不意打ち作戦に70騎程選定します。万居る軍のうちたったの70騎。

残りの大軍は、この奇策の陽動作戦として引き続き鵯越で戦闘を継続させます。この時、義経は奇策がばれないように、自分がこの場所から移動することを安田義貞などの一部の武将のみに伝えます。

この騎馬精鋭部隊は、この鵯越から8km西南に高取山等の山麓を越えて、平忠度が守る一の谷へ向かいます。
④現在の一の谷の眺め
※画面上半分は平家が船を浮かべていた海です。

この一の谷で、海岸線方向にのみ注意しているこの平家の陣を、ノーマークである山側急斜面から、2度目の逆落しにより急襲します。

少々脱線しますが、前回のブログで逆落とし直前に義経が叫んだと描写した「鹿も4つ足、馬も4つ足!」の場面も、実は少々違う説があるので紹介します。

目立たぬように山間部を通り、一の谷へ向かう義経ら騎馬隊の道案内のため、弁慶が通りかかった猟師に声を掛けます。

猟師は「騎馬隊では、山間部が難所であるため、一の谷までは行けない」と言います。

それを聞いた義経は、「猟師、その道は鹿は通るか?」と聞きます。

猟師は「鹿は餌場を求めて通るな。」と答えるや否や、「鹿も4つ足、馬も4つ足!行けない訳が無い。猟師案内せい!」と義経は言います。

猟師は自分は歳なので、息子に道案内をさせましたが、それが義経の鷲尾義久という忠実な部下となりました。彼は義経が最期に衣川で滅ぶまで命運を共にします。

話を戻しますが、高取山を越えて、一の谷の崖の上(写真④)に出ることが出来た義経騎馬隊は、その眼下に広がる須磨海岸に陣を張る平忠度の陣に向かい、一気に駆け下り、攻め込みます。(写真④絵③も参照)

ここだけは、平家も北側の崖から攻めてくることは想定外でした。
⑤かわぐちかいじの描く義経も同じ事
を言っています

この義経の奇策・奇襲により、ついに平家の防衛ラインは崩壊します。

一つの防衛ラインが崩れると、他の箇所で戦っている平家軍にも、敗色ムードが広がります。

ちなみに一の谷で義経は平家の陣営に火を付けて廻ります。この煙は8㎞離れた鵯越からも、海岸線沿いの10km離れた生田川からも良く見えたと伝えられています。

だいたい、総大将の平宗盛は、なんとこの合戦前から、安徳天皇を抱く健礼門院と一緒に、既に海上に避難している、いわば最初から「逃げ腰」だったのです。(絵⑤のかわぐちかいじの漫画も同じようなことを言っています。)

「一の谷が義経によって破られた!」

と聞いた陸上で戦っている平家の武者たちは、戦闘区域①も②も総崩れ(地図②参照)となって、よよと海上に舟で逃げ出すのです。

3.平 敦盛

さて、このブログ後半は、総崩れとなった平家の中の武者の話を幾つか取り上げます。

この義経軍の中に、熊谷直実という40代の武将が居ました。
⑥平家の若武者の波打ち際で呼び止める熊谷直実
(須磨寺)

彼は、元々平家の武将で、源氏に寝返ったこともあり、少々功を焦っていました。

しかし、上手く行かない時は、上手く行かないもので、この一の谷の戦いで、直実が浜についた時には、殆どの平家は海に逃れた後でした。

その時、一騎、波打ち際で逃げ遅れたと思われる立派な平家の武者を見つけます。(写真⑥

直実は「敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。返しなさい。」と呼びかけます。(一番右上の絵もこの場面を表しています。)

するとその武者は振り返り、直実向かって馬を返して一騎打ちを挑むのです。

しかし、あえなく直実に倒されてしまいます。

直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ、歳の頃16、17と見える紅顔の美少年でした。

「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると、逆に「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗る程の者ではありませんが、熊谷直実と申します。」と答えました。

⑦持っていた笛
(須磨寺蔵:青葉の笛)
すると、その若武者は「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は充分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」

直実はその潔さに心を打たれます。

この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝敗にはもう関係ありません。自身の手柄欲しさに、この若い命を落とさせることになってしまえば、自分の息子小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この若武者が討たれたことを、この方の父上が聞かれたなら、どれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせました。

助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、生田川の防衛ラインを破った範頼の軍勢がすぐそこまで近づいてきます。

もういよいよ逃げられまい。

「同じ事なら、この直実が手に掛けて、後のご供養をお約束します。」と泣きながら刀を執りました。

討ち取った首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛が差してあるのに気が付きます。(写真⑦
思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。

「ああ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心は一層締め付けられました。

⑧敦盛の首を洗った池と義経が
首実検の際に腰掛けた松(須磨寺)
さて、持ち帰ったその首を池で洗った直実は、その池の前の大きな松の樹の根方に腰掛ける義経に、その首を差し出します。(写真⑧

義経は、このお方は平清盛の甥の敦盛であると言います。義経は幼少期を京都で過ごしていますので、敦盛を知っていたのでしょう。

また、持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはなかったと言います。「青葉の笛」と言います。(写真⑦参照

平家物語で一番涙を誘うこの哀話「敦盛最期」は、その後、信長のあの有名な「人間五十年」の独特の節で舞われる幸若舞「敦盛」として、長く私たちの心を揺さぶります。

私もまさに直実と同じような年代で、17歳の長男を持つ身として、この敦盛を討った時の直実の心境がひしひしと伝わります。

4.人間五十年

直実は、この後、世の無常を強く感じて出家します。その時詠んだ彼の心境が、あの信長の大好きだった幸若舞「人間五十年」の節になるのです。以下に原文掲載します。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
⑨敦盛首塚(須磨寺)
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

如何でしょうか?

この敦盛の一節は、「この当時の平均寿命が50年位であり、そのような短い人生は夢幻の如くである。」というような解釈がされますね。

そう聞くと「私は50歳まであと〇〇年ある。」とか数えたくなるかもしれませんが、多分直実は、50歳という年齢にはあまり拘りを持っていないと思います。

敦盛を17歳で亡き者とした直実です。また、直実自身は66歳まで生きています。

多分この一節は、せいぜい50年以下の人間の所業等、どう転ぼうとも大した差はないということを言っているのであって、50年は寿命ではないでしょう。

これは、直実が敦盛を討ったのが43歳、源頼朝の元を逐電したのが46歳、出家するのが52歳と関係があると考えます。

敦盛のように若くして討たれるのも、討った直実のように50歳まで色々とあろうと、人の所業は命の有る無しも含め、儚さは同じという無常観。
また討たれた敦盛も、討った自分も同じ仲間だという連帯感的な死生観ではないでしょうか?

ちなみに高野山には直実と敦盛の墓が並んであります。また、金戒光明寺では、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにあります。これらはこの連帯感を表しているのでしょう。

27歳の信長も桶狭間の戦の前に、「今川義元に討たれようと、なんとか生き延びようと大して変わらん。ならば自分の今したいことに注力するだけだ」と、この「敦盛」を舞って自分を説得したのでしょうね。で、当時は無謀とも見られた奇襲作戦を見事成功させてしまったのだと思います。

さて、この敦盛以外にあと2名の平家の武者の話を書きたいと考えていますが、やはり長くなってしまうので、次回以降にします。

⑩敦盛胴塚
(須磨浦公園横)
今回もそうですが、神戸を中心に彼らの行動について、現地にて改めて追いかけてみると、とても心打たれる話が多いのに驚きます。

それは平家物語が上手に作ってあるのもそうですが、やはり平家の武者たちがどこか心優しい部分を多分に持っており、これを滅ぼす源氏側の武将の葛藤が強く感じられます。

日本史の合戦というのは、ある意味、同じ日本人の殺し合いというストイックなテーマですよね。

しかし、実はそのような時代でも、敵味方関係なく、同じ日本人として心が繋がっているのだということを、この神戸の合戦場のあちこちで痛感することが出来ました。

ここまで長文お読みいただき、ありがとうございました。

それではまた!

※「3.平 敦盛」の文章中に、一部須磨寺から配布されている「源平合戦と須磨寺」の文章を引用しております。