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日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~

①奥州藤原3代
このblog記事には一部学術研究で活用されたミイラ等の写真が掲載されています。
気分が悪くなる等の恐れが在る方は閲覧をご遠慮ください。

 前回まで前九年の役と後三年合戦について描きました。

今回からの話は、後三年合戦が奥羽で繰り広げられてから100年後の話です。

100年後、奥州王国は前回までの主人公であった藤原清衡(きよひら)から2代後の秀衡(ひでひら)が主となっています。

奥州藤原3代は、清衡、基衡(もとひら)、秀衡となります。(絵①

100年もの間、この奥州王国を中央政府からの半独立状態を維持できたのは、やはり金色堂をも作った奥州の「金」の力なのでしょう。

中央政府の有力者(関白?)と「金売り吉次」を介して関係を結び、安定した奥州支配を続けます。2代目基衡までは、そういった意味では後三年の悲惨な戦のあとのしばしの静けさが続いたと見ても良いのでしょう。(写真②:これらのミイラについては別途「中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~」参照

そして時代はこのblogでも取り上げた通り、保元の乱、平治の乱等、源平武士の台頭が京より西側を中心として繰り広げられ、奥州の東北地方は、合戦の舞台からは外れることが出来ていた訳です。

奥州藤原氏3代目の秀衡は、これら中央での武士の台頭に、危機感を強く持っていました。
②中尊寺金色堂に収められている藤原3代の遺体
※泰衡の首は訳あって現代まで忠衡(弟)
のものとされていましたが、研究から
現在は泰衡説が濃厚となっています

「きっと来る!また後三年合戦の源義家(よしいえ)の再来が!」

1.義経の取り込み

上記のような危機感を持った秀衡。この3代目はかなり先見性を持った人物でした。

よく3代目は初代に劣らず優秀と言われますが、その典型例ですね。

そこで、彼は保元・平治の乱を奥州から遠望しているだけではなく、京にて周旋活動をしている「金売り吉次」を使い、中央政権の動きを逐一キャッチし、今後の武士の世が固まってくる時代に対する奥州王国防衛の備えを開始します。

その一計が「義経の取り込み」です。

彼は、100年前の前九年・後三年の原因の基本は、中央から派遣されてきた当時の武士団の頭である源家(頼義・義家)との敵対にあるとの分析を行います。

そして、平治の乱で、平清盛源義朝(よしとも)の息子たち、頼朝と牛若丸を含めた数人を生かしたままにしたと聞くと、また金売り吉次を使って、それら源義朝の遺児たちの様子を探らせます。

将来源氏の世が来る事を予測して、ピカ1の遺児を奥州王国に招き入れてしまうことで、奥州王国を守ろうと考えたのです。

③義経後ろ姿
(鎌倉彫:満福寺蔵)
遺児たちの中で、一番武勇に長け、野心に燃える人物として白羽の矢が立ったのが牛若丸です。(写真③

伊豆に流刑中の頼朝にも、秀衡の関係者は会っていたようですが、頼朝に、秀衡はかつての義家の狡猾さを見るようであったこと、また北条一族に取り込まれている彼を見て、策士である彼は避けたようです。あれだけ義家に辛酸を舐めされられた奥州藤原家にとっては、純粋で透明性のある牛若丸の方が取り込む大将の器としてはもってこいだったのだと想像されます。

何はともあれ、早速金売り吉次が牛若丸を平泉まで連れて帰ります。

2.奥州王国の独立性

当時は平家一門の世。「平家にあらずんば人にあらず」の勢いですから、義朝の息子を平泉に匿(かくま)う秀衡の動きを知らない訳がありません。

しかし、全く動じない秀衡。この当時秀衡は例の「金」で平家に取り入り、かつて義家が持っていた陸奥守の役職を確保。17万騎と言われる軍を組織した奥州王国は、平家と敵対した源氏の一人息子を匿うくらい何でもないと言わんばかりの独立性を持つ国にまで力を付けていたのです。当時政庁のあった柳之御所(平泉)の敷地規模からも、その広大な王国の様子は伝わってきます。(写真④

平泉に匿われた義経は15歳から23歳までの多感な時期を、駿馬の産地である平泉で、馬を乗り廻し、戦の技と戦術を磨いていくのです。

3.源平合戦

④奥州王国の政庁があった柳之御所跡
さて、1180年に頼朝が平家討伐の挙兵を起します。(詳細は別記事「三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~」をご笑覧ください。こちらをクリック

この頃、藤原秀衡のところにも、平家から源頼朝征伐の要請が来ており、秀衡も「OK!」文書を返しています。

挙兵し、鎌倉に着座した頼朝も、この奥州藤原氏と、もう少し南の常陸の国(茨城県)の佐竹氏(当時の関東武家勢力図は、こちらをクリック)が鎌倉に攻めて来る脅威を感じており、積極的に西の平家打倒に進軍することが出来ません。

ところが、この時、秀衡も頼朝も予測していなかったことが起りました。

義経が挙兵した頼朝の元に平泉から馳せ参じようとするのです。

秀衡は、伊豆に流されていた頼朝を見て、「義家の再来か?」とさえ思っていた訳ですから、これを滅ぼしておいた方が奥州王国の安寧のためには良策と考え、実際2万程の軍を鎌倉に向けようとしていました。

ところが、義経が頼朝のところに馳せ参じたいと、秀衡に申し出をしてくるのです。
⑤私の家の近くにある二枚橋ここを通り
義経は平泉から頼朝の元へ参じた

一度は馳参を思い止まらせましたが、まさか義経への説得に奥州王国の都合を話す訳にも行かず、説得は上手く行きません。ぶっちぎりで頼朝のところに行こうとする義経に最後は根負けし、佐藤兄弟という部下を付けて、平泉を送り出すのです。

義経は嬉しそうに、弁慶と佐藤兄弟を引き連れて、頼朝のところへ平泉から向かうのです。(写真⑤

これで秀衡は、義経への道義上、頼朝を攻めることは出来なくなりました。また頼朝はそんな背景は知らずに黄瀬川にて対面(詳細はこちらをクリック)する弟・義経に「これからは兄弟力を併せ、仇である平家打倒に共闘しようぞ!」と涙ながらに語らいます。(写真⑥

しかし、心の中では以下のように計略を練っているのです。かなりシュールな頼朝です。(笑)

「ふっ、これで奥州の脅威はこいつ(義経)が戦ってくれる間はあらかた消え失せたわ。ただ秀衡は、こいつ(義経)見殺しの覚悟で常陸の佐竹と共謀して鎌倉を攻撃してくるかも知れない。俺はこれらの牽制のためにも鎌倉に残り、平家討伐のための西行きは、義経と範頼に任せよう。」

⑥対面石(奥の杖側が頼朝、手前が義経)
それからの義経の平家打倒における活躍ぶりは、拙著blogでも「一の谷の戦い」を中心とした、合戦状況は3作品作りましたので、どうぞご笑覧ください。(最初の作品はこちらをクリック

源平争乱の間、奥州藤原氏は、中立を保ちました。多分、奥州藤原軍17万騎が動けば、常陸の佐竹氏と共謀しなくても、頼朝を滅ぼすことは出来たかもしれません。

しかし、秀衡はそれでは純粋な義経が黙っていない、頼朝を滅ぼせても、今度は義経まで敵に廻すことになり、それはそもそも義経を奥州に取り込んだ自分達の失策を認めることになるのです。

そこで、秀衡は他の策を考え、やはり義経を上手く使って奥州王国を安寧に導く方法を考えました。

まず源平争乱中、奥州王国は中立。そしてこの間も、ただ手をこまぬいて、義経らの活動を見ていた訳ではなかったのです。

4.腰越状

最後壇ノ浦で平家を倒した義経。凱旋し京に戻ってきた彼に、平家打倒の院宣を下していた後白河法皇は、伊予守等の役職を与え、また義経が鎌倉に断りなく恩賞を出すことを許可します。

⑦左上:後白河法皇 右上:奥州藤原秀衡
左下:源頼朝 右下:源義経
世間では、狸である後白河法皇が、これにより義経と頼朝が対立するだろうとワザと画策し、武家の2人を争わせ弱体化し、相対的に朝廷の権威が高まることを狙ったと解釈されます。私もそう思います。(絵⑦:左上

ただ、もう1人この後白河法皇にこの行動を仕向けた男が居ます。

そう、秀衡です。(絵⑦:右上

源平争乱中に、金売り吉次を使い、有力貴族や法皇等に金をばら撒き、義経に対する支援の周旋活動をしていたと思われます。

秀衡は、先程他の策を考えたと言いましたが、その策とは義経を源氏の頭領にしてしまうということです。

秀衡は、頼朝は義家の再来であり、絶対奥州王国を滅ぼしに来ると踏んでいますので、幼少期より取り込んでいた義経に頭を挿げ替えれば、奥州王国は安寧と考えた訳です。

ところが、義経に対する適正な評価が出来たのは、頼朝だけだったのですね。(絵⑦:左下

義経がもう少し政略的な大局観があれば、秀衡や後白河法皇の意向に沿った行動が出来たのでしょうが、この名将、天才的な戦術は生み出せても、戦略という概念すら持っていなかったのではないかと思うくらい政略に疎いのです。(絵⑦:右下

このように愚直な程に素直な義経は、何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分が、兄・頼朝に認められないのか不思議でなりません。きっと頼朝の君側の奸(かん)の讒言(ざんげん)により、誤解が生じているに違いないと考えます。

⑧腰越の海岸
そこで壇ノ浦で捉えた平家総大将の宗盛(むねもり)を鎌倉へ連行し、ついでに直接兄・頼朝と話が出来れば、誤解は霧散すると考え、1185年5月、弁慶と一緒に京から鎌倉へ向かいます。

ところが鎌倉の手前4kmくらいの場所である腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(写真⑧

そこで、この海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。

ところがいつまで経っても入府許可が出ません。

そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。この手紙は腰越状として有名です。

【腰越状意訳】写真⑨
私、義経は天皇の命を受けた頼朝公の代理となり、平家を滅ぼし、父・義朝の恥をすすぎました。

きっと褒美を頂けると思っていましたが、図らずも、讒言により、大きな手柄も褒めていただけなくなりました。

私、義経は、手柄こそあれ、何も悪いことはしていませんのに、お叱りを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ讒言に、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝え出来ず、数日をこの腰越で無為に過ごしています。

黄瀬川の対面以来、永くお会いできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、このような不幸せな巡り合わせとなったのでしょう。
⑨腰越状(満福寺蔵)

亡父・義朝の御霊(みたま)が、再びこの世に出て来ない限り、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることも、また哀れんでも頂けません。
<中略>
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊を御安めする以外に、何一つ野望を持った事はありませんでした。

その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。

義経は野心などすこしもございません。
<中略>
疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

元暦二年五月 日 源義経

◆ ◇ ◆ ◇

何でしょうか?彼が唯一政略っぽい事を述べているのは、上位職へ任官されたことは源家にとっての名誉だということだけです。政略に関する考え方があまりに疎ですね。

それに比べ、この手紙の中でもやたらと平治の乱で敗れた父・義朝の恨み返しの話ばかりが強調されています。

これは前回までの後三年合戦で、負けた家衡(いえひら)の義家・清衡らと戦う動機が「母上を殺した」というのと似ていませんか?家衡は最期「早く母上に会いたい」と言いながら、斬首されるのです。(詳細はこちらをクリック

⑩義経が逗留し腰越状をしたためた満福寺(上)
京へ戻る義経がこの寺の階段を下りたところに
今では江ノ電が走る(下)
その時、家衡も呟いています。「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」と。

つまり、この腰越状の文章上、既に義経は源家頭領としての器ではなかったことが、現れているのではないでしょうか。

結局、義経は鎌倉入りを許されず、6月9日に頼朝から、平宗盛を連れて京へ戻れとの下知を受けます。(写真⑩

これにより感情が昂った義経は、「頼朝に不満のある武士は、私に付いて来て一緒に反旗を翻そう!」と言ってしまいます。

これは頼朝の思うつぼであり、4日後13日、義経の所領・役職全て没収となりました。

この後、義経が殺されるまでの話は次回以降描いていきます。

ちなみに義経は、御首(みしるし)となった後も、この腰越の海岸で首実験がなされ、この海岸より鎌倉方面へ入ることは死んだ後もありませんでした。彼の首塚は鎌倉の西、藤沢にあります。

5.おわりに

世にいう判官贔屓(ほうがんびいき)における頼朝は、義経の天才ぶりに脅威・嫉妬を感じ、武家社会の秩序を乱す義経自体を悪者扱いにしたと見られがちですが、私はむしろ頼朝は義経を介し、背後にある奥州王国を見ていたのだと思います。

頼朝が届いた義経の御首を見て、「これで世の中の悪は去った」という場面が多くの歴史小説や映画等で出てきます。

多くの人は、この言葉を聞いて「悪とは何であろう?」と、人情豊で正しい行いの人義経に同情の念を寄せますが、彼は義経の御首を見ながら奥州王国の御首を見ていたのだと思います。
前九年・後三年から100年経った頼朝で奥州王国と源家の確執は終焉を見たのです。源家にとって奥州王国は「悪」そのものだったのでしょう。

その視点で、次回以降も描いていきたいと思います。
ご清読ありがとうございました。

頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

源平合戦というと、つい義経の華々しい活躍に目が行きがちなので、今回は頼朝の挙兵と、それを助けるのに功績の大きかった三浦一族等に焦点を当ててシリーズを描きました。

今回は、このシリーズの中で出て来た人物等について、私の生活圏内にも沢山の、マイナー史跡があることが分かりましたので、番外編という形でお送りしたいと思います。

1.二枚橋
①二枚橋

最初は義経です。挙兵した兄、頼朝がその後石橋山合戦で敗れたとの報を聞き、奥州藤原秀衡の元に居た義経は心を痛めます。

ところが、頼朝が安房国に舟で脱出し、また再起の旗を挙げたと聞いて、居ても立っても居られなくなった義経は、藤原秀衡の許可も得ずに、さっさと弁慶と一緒に頼朝のところに駆けつけ、少しでも役に立ちたい、兄を助けたいと、東北から関東へ南下します。

前のシリーズまでに書いた通り、頼朝の動きは迅速で、旗揚げから1か月半で5万騎に膨れ上がった頼朝軍は鎌倉入りを果たします。

義経も、南下途中で、頼朝の鎌倉入りの話を聞いたのでしょうね。急遽鎌倉に向ったのだと思います。そこで、私の近所に残っている、鎌倉へ向かう道の途中にあるのが、写真②の「二枚橋」です。

小さな橋ですが、当時、ボロボロだった木橋では、義経が騎馬で渡れないため、弁慶らが強化工事を施したようです。橋板を二重化し強度を上げることで、騎馬での通行を可能にしたので、二枚橋と言われたようです。現在の橋には、写真のようにわざわざレリーフまで彫ってあります。(写真①)

しかし、こんな小さな橋に、そんな大層な工事をしていたからでしょうか?(笑)
義経らが鎌倉入りすんでのところで、頼朝は、富士川の戦いに繰り出してしまうのです。

なので義経主従は、前回のblogに描いたように富士川近くの対面石まで頼朝軍を追いかけることとなるのです。

しかし、この工事をした当時の私の家の周り(小田急百合ヶ丘駅付近)の住民は喜び、義経主従に感謝したことでしょう。
やはり、義経は頼朝程、冷徹に成れなくても、住民にまで情に篤い良い奴ですね。

2.馬頭観世音と佐々木高綱(たかつな)
②近所(新横浜)にある馬頭観世音

その対面石で義経と再会した頼朝は、この後の戦には出ず、源範頼と義経に任せてしまいます。富士川の戦いの次の戦は、平家との対決ではなく、実は平家を都から追い払った木曽義仲との戦、宇治川合戦になります。

この宇治川合戦に関する佐々木高綱のエピソードを1つ描きます。

これも奇遇なのですが、我が家から私の実家に行く途中の抜け道に、写真②のような馬頭観世音があります。(写真②)

馬頭観世音なんて、大体石碑一つみたいなものが多い中、この立派な馬頭観世音はなんだろう?と常日頃思いながら、通過していました。

今回の調査で、実はこれが、頼朝の山木判官屋敷襲撃で大活躍した佐々木兄弟の4番目佐々木高綱、及び宇治川合戦と関係が深いことが分かりました。(写真③)

石橋山合戦で、頼朝らを大椙の洞で発見した梶原景時は、これを見逃すことで、後日、頼朝が鎌倉入りしたタイミングで味方に付き、軍監として範頼・義経軍に従軍します。
③佐々木高綱の屋敷跡(現 鳥山八幡宮)
綾瀬市の渋谷氏の早川城から高綱は 
現在の新横浜近辺に移住したらしい 

また、この時、景時の嫡男、景季(かげすえ)が張り切って義経らに同行し、木曽義仲・平家討伐軍に参加します。

そこで、景季は頼朝の第1の名馬、生唼(池月)(いけづき)を、今回の討伐に貸して欲しいと頼朝に懇願します。

武士は命を懸けて戦うので、特に最大の兵器である馬に関して無心することは恥とされなかった時代です。

しかし、頼朝は「あれは、いよいよ私が平家討伐の出馬となるまで厩で取り置く」と言って拒否します。しかし、そんな優秀な馬を厩に繋いでおくのは勿体ないと食い下がる景季に根負けし、「では第2の名馬、磨墨(するすみ)を貸そう」ということになりました。

磨墨もかなりの名馬です。(拙著「驚神社」にも出てきます。リンクはこちら
④佐々木高綱屋敷跡(鳥山八幡宮)から
新横浜の日産スタジアムを臨む  

景季は喜び、磨墨を連れて西に向かいます。

ところが、名古屋辺りで、途中休んでいると、佐々木兄弟の高綱が、この第1の名馬、生唼を曳いて歩いてくるのを目撃します。

景季はショック大です。あれだけ頼んだのに頼朝は自分にはくれなかった生唼を、高綱には与えた!なんたる恥辱。

景季は、高綱を殺して、自分も自害して果てようと考えます。

高綱の所にやってきて、景季は言います。

「おい、高綱、それは生唼だな?どうしたその馬。頼朝殿に下賜頂いたか?」

「景季か、この馬か?この馬はな・・・。実は、頼朝殿に頼んでも貸してもらえないと思い、厩から盗み出してきた!」

景季は、目を丸くします。そして

「あははははは。そうか、盗み出したか!その手があったか!」

と高らかに笑うと、上には上が居るものだと、磨墨を曳いて、また京を目指して元気に歩き出すのです。

実は、高綱のこの盗み出したという話は、全くの嘘。真実は高綱も頼朝に欲しいと食い下がり、頼朝も「またか!」と面倒になり、「では絶対誰にも借りたと漏らすなよ。」と念を押して高綱に貸したのです。

⑤宇治川合戦で一番乗りで競う高綱と景季
奥で馬の腹帯を直しているのが景季
手前急ぎ渡河中の佐々木高綱と生唼
なので、高綱は磨墨を曳く景季を見て、咄嗟にこの嘘をつくことを思いついたと言います。

この話と写真②~④を見れば、皆さんはもうお判りでしょう。そう、この近所(新横浜)にある馬頭観世音は、佐々木高綱が頼朝より借り受けた生唼を祀ったものです。

彼の屋敷の近くに生唼の墓があるということは、この名馬、結局頼朝に返さなかったのですね(笑)。

3.宇治川合戦

さて、平家を京都から追い払った木曽源氏の木曽義仲ではありましたが、京における木曽軍の態度は横柄で、義仲自身も宮中の堅苦しい雰囲気に馴染めず、時の権力者である後白河法王と対立します。頼朝を頼りとする後白河法皇が呼んだ範頼・義経軍は、木曽義仲と宇治川を挟んで対峙します。

この時、この合戦の一番乗りをしようと2騎の武者が競い合います。

そう、頼朝から馬を借りた例の2人です。2人とも頼朝から借りたからには、自分こそ一番乗りを果たさなければならないと懸命になっていました。

最初にざんぶと川に乗り入れたのは景季、磨墨は泳ぎが得意なのです。
高綱も、急ぎ生唼の尻に鞭を当てますが、生唼は水が嫌なのか、なかなか川に入ろうとしません。

⑥馬頭観世音の左側にある説明看板
下半分が剥がれ落ちています。
「ヤバい、これでは第1の名馬の名折れ!」

とばかりに高綱は、嫌がる生唼を何とか川に入れ、磨墨の後を追わせますが、もう磨墨は対岸に乗り上げかけ、一番乗りを達成しかけています。(絵⑤)

そこで高綱は、磨墨の馬上の景季に向けて叫びます。

「おうい、景季!馬の腹帯が落ちかけているぞ!」

慌てて、腹帯のチェックをしている梶原景季を横目に、大至急対岸に渡り終えた佐々木高綱は、大音声で「やあやあ、我こそは近江源氏佐々木家~云々」と一番乗りの名乗りを挙げてしまうのです。

このように宇治川の合戦で、一番乗りを果たした名馬生唼のお墓である馬頭観世音も、写真⑥のように、説明看板の下半分が剥がれ落ち、「生唼」という文字も1つも見えない状態が放置されている無関心さが残念でなりません。
今度この記事の打出しをクリアフォルダに入れて、この看板に貼ってこようと思います(笑)。

4.太刀洗の水
⑦梶原景時

さて、梶原景季と佐々木高綱では、上記2つの事例より、何となく佐々木高綱の方が一枚上手のような気がします。

では、景季の父親である梶原景時は如何でしょうか?(絵⑦)

義経ら平家討伐軍に軍監として従軍した景時は、かなりうるさかったようで、何かにつけ頼朝の威を嵩に「下知だ!下知だ!」と叫ぶので「げち、げち⇒ゲジゲジ」と呼ばれ、義経ら現場の武者からは嫌われました。

義経の判官びいきな物語では、頼朝に義経の悪口を伝え続けた景時を、頼朝に見捨てられた義経が「誰かが兄上に讒言を入れている!」と云ったのは有名です。

しかし、そんな嫌われ役の景時も、やはり頼朝に信頼されているだけあって、色々な汚れ役を自ら買っていたのです。
確かに、多分に官僚的なところはありますが、実直で勇気ある武将でもありました。

その代表的な話として、上総広常成敗に関する彼の話をさせてください。

⑧逆落し中の佐原十郎義連
上総広常は、やはり2万騎を引き連れて、頼朝軍の挙兵初期に重要な役割をなしただけに、前回のblogで描いた参陣時に頼朝に怒られた時こそ、しおらしかったのですが、その後はダメでした。

頼朝が鎌倉入りの後、三浦一族が頼朝を自分達の本拠三浦半島に招いた時、以下のような横柄な態度は有名になりました。

まず、三浦一族の館に頼朝が到着時、全員下馬して頼朝への礼を取ったのに対し、先に三浦一族のところに郎党らと一緒に来ていた広常は、「義朝、義平、頼朝と源家三代に渡り、そのような礼は取ったことが無い」と主張して、下馬の礼を取りません。

次に、頼朝歓待の酒宴の席で、岡崎義実が、息子佐奈田与一の石橋山合戦での落命に落ち込んでいるのを見かねて、頼朝が自分の水干(すいかん)を義実に与えました。ところが、その水干を広常は強引に横取りし、「このような老いぼれ(義実のこと)に与えてもしょうがないだろう。むしろ俺のような役に立つ者にこそ与えるべき。」と自分も高齢なのに吐いた暴言で義実と大喧嘩に成りそうになったということです。

前々回のblogに出て来た三浦一族の佐原十郎が仲裁に入り、何とか押し止まりました。(絵⑧)

⑨上総広常の屋敷があった朝比奈切通しの滝
この一連のやり取りを黙って見ていた頼朝は、後日佐原十郎を褒め、かつ寵臣に取り立てるのです。

多分、これだけではないのでしょう。
広常の尊大な態度が、頼朝を困らせていたのだと思います。

そこで、立ち上がったのが梶原景時です。

現在の朝比奈切通しの滝(写真⑨)近くにあった広常の屋敷に、あるモノを持参して訪問します。

「京の雅(みやび)な遊びで、今大流行している双六という遊戯ですぞ。」(写真⑩)

この頃に近い白河法王が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心に叶わぬもの」と語ったというのは有名ですが、それ程、この当時流行っていたようです。

⑩平安末期の双六(すごろく)
後の時代の、紙上で、コマをサイコロの目の分だけ進ませるという双六とは違い、現代で言うbackgammonのようなルールでした。

当然、賭ける訳です。

広常は直ぐに、この景時の持って来た双六にハマります。激しやすい感情型の広常ならきっとハマるだろうというのは景時の計画内です。

ゲーム当初、景時は広常を勝たせ続けます。

気を良くした広常に対し、途中から景時は本気で行きます。そのうち広常は負け始め、急激に機嫌が悪くなってきます。まるで高いところから急に突き落とすような感情の変動を故意に起こすのです。

ついに、「景時、てめえいかさま使ってるな!」といつもの暴言。

「使える訳ないじゃないか!貴様こそ、いつもそうやって人を罵倒し、我々の輪を乱す馬鹿者だ!」と景時が叫ぶと、「なぬっ!」と広常は、刀の柄に手を掛けます。

⑪梶原景時が上総広常を斬った
刀を洗った「太刀洗の水」
次の瞬間、景時の刀が一瞬光ったかと思うと、広常の首が双六盤の上にドシャと落ちます。そのまま、景時は庭から広常の屋敷を優雅に出、近くの清水で広常の血に塗られた刀を綺麗に洗い、鞘に納めます。(写真⑪)

そして何事も無かったかのように立ち去るのです。

現在でも、この朝比奈切通しの横を流れる綺麗な小川は「太刀洗川」という名前が付いています。(写真⑫)

双六に興じた上での事故、しかも正当防衛であるかに見せかけた梶原景時の計画、見事だと思います。

しかし、こんな梶原一族も、頼朝が落馬して死去すると、汚れ役だっただけに、急に立場が悪くなります。

結局、また三浦一族ですが、三浦義村、和田義盛らをはじめとする諸将に鎌倉の政所を追放され、相模の自領に引っ込みます。

⑫朝比奈切通しの川は、広常を斬って
以降太刀洗川
そして、景時・景季親子を含む一族は、上洛し生きて行こうとします。

ところが、上洛途上、駿府の国の山中にて在地の武士に襲われ、奮戦するも敵わず、景時・景季親子は自害、一族33人も討ち取られてしまいました。

頼朝を助けた箱根の山に近い駿河国の山中で、梶原一族が滅びたことは、何らかの因果を感じずにはいられません。

彼は頼朝を箱根山で助けた事は、梶原一族にとって本当にラッキーだったのでしょうか?

5.おわりに

さて、この番外編を「〇〇と愉快な仲間たち」を文字って「頼朝と愉快でもない(?)仲間たち」とさせて頂いたのは、ここに出てくる人物(源義経、弁慶、佐々木高綱、梶原景季、梶原景時、上総広常)という頼朝の旗揚げ時から絡む取り巻きの中で、唯一最期までまともに生き抜いたのは佐々木高綱だけだからです。他は大体嫌疑を掛けられ殺されるという悲劇の中の人です。それはやはり「愉快でもない」人たちだったと思うのです。

⑬宇治川合戦の一番乗りの佐々木高綱
こんなに矢が飛んでくるのによく
生還できますね。       
一応、「(?)」を付けたのは高綱が居ますので・・・。

余談ですが、佐々木高綱の末裔は、明治の大将 乃木希典(のぎまれのすけ)や吉田松陰の師匠玉木文之進(たまきぶんのしん)等なのです。この辺り実は私の遠戚らしいので、高綱が生き抜いてくれなかったら、私がこうやって呑気にblogを書いていることが出来なかったかも知れません(笑)。

話戻りますが、このように鎌倉時代に、人から誤解を受け、人に依って簡単に殺されてしまった時代に比べれば、多少、会社から、近所から、妻・子供から(?)誤解を受けたところで、これらの「愉快でもない」彼らよりは、余程毎日を感謝して過ごさなければならないと思いませんか?

長文ご精読ありがとうございました。またこの頼朝時代の三浦一族シリーズも、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

また他の時代の三浦氏の話をいつか再開します!引き続き宜しくお願いします。

【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【馬頭観世音】神奈川県横浜市港北区鳥山町
【佐々木高綱屋敷跡(現 鳥山八幡宮)】神奈川県横浜市港北区鳥山町281−3
【朝比奈切通し太刀洗の水】神奈川県鎌倉市十二所

土曜日

一の谷の戦い② ~敦盛~

前回の「一の谷の戦い① ~逆落とし~」では、833年前、1184年2月7日に、神戸は福原の都目掛け、源範頼・義経軍が攻めてくるところと、「逆落とし」は、一体どこで行われたのかについて書きました。(ブログはここをクリック)
敦盛

今回、この合戦の流れと、平家の武者について書いていきたいと思います。(絵①

1.膠着状態を破る義経の秘策(一の谷の逆落し)

前回、義経軍は、最初鵯越で「逆落とし」した後、一の谷にて2度目の「逆落とし」をしたという私の説を書きました。

これに基づいて、2月7日の合戦の状況を以下の図のように修正し、戦闘の経緯をA→B→C→Dで簡単に記入してみました。(地図②
②一の谷の戦い概略図

前回の読者の方から、福原は平家の都なので、その防衛線も相当しっかりしていた筈であり、容易に落ちないようにしていた筈とのご指摘がありました。

私もその通りだと思います。

源氏が進軍する京都から神戸への海岸沿いの主たる交通路は、山陽道です。
③かわぐちかいじの描く一の谷の眺め

この交通路から大軍が押し寄せる、つまり「戦闘区域①:生田川」が最大の防衛ラインになるということは、当然平家想定済みです。

北側の六甲山から攻めてくることも想定し、平家は「戦闘区域②:鵯越」にも平盛俊等を置き、防衛ラインを敷いたのです。

このような平家の完璧な想定により、源氏が攻撃を開始した直後は、上図のAやBに書いたように、これらの防衛ラインはなかなか破れなかったのでしょう。

そして、この膠着状態を打破する秘策を、鵯越で戦っている最中の義経が思いついたのが、「戦闘区域③:一の谷」への不意打ち作戦なのです。(絵③

2.平家軍防衛ライン崩壊

義経は、この不意打ち作戦に70騎程選定します。万居る軍のうちたったの70騎。

残りの大軍は、この奇策の陽動作戦として引き続き鵯越で戦闘を継続させます。この時、義経は奇策がばれないように、自分がこの場所から移動することを安田義貞などの一部の武将のみに伝えます。

この騎馬精鋭部隊は、この鵯越から8km西南に高取山等の山麓を越えて、平忠度が守る一の谷へ向かいます。
④現在の一の谷の眺め
※画面上半分は平家が船を浮かべていた海です。

この一の谷で、海岸線方向にのみ注意しているこの平家の陣を、ノーマークである山側急斜面から、2度目の逆落しにより急襲します。

少々脱線しますが、前回のブログで逆落とし直前に義経が叫んだと描写した「鹿も4つ足、馬も4つ足!」の場面も、実は少々違う説があるので紹介します。

目立たぬように山間部を通り、一の谷へ向かう義経ら騎馬隊の道案内のため、弁慶が通りかかった猟師に声を掛けます。

猟師は「騎馬隊では、山間部が難所であるため、一の谷までは行けない」と言います。

それを聞いた義経は、「猟師、その道は鹿は通るか?」と聞きます。

猟師は「鹿は餌場を求めて通るな。」と答えるや否や、「鹿も4つ足、馬も4つ足!行けない訳が無い。猟師案内せい!」と義経は言います。

猟師は自分は歳なので、息子に道案内をさせましたが、それが義経の鷲尾義久という忠実な部下となりました。彼は義経が最期に衣川で滅ぶまで命運を共にします。

話を戻しますが、高取山を越えて、一の谷の崖の上(写真④)に出ることが出来た義経騎馬隊は、その眼下に広がる須磨海岸に陣を張る平忠度の陣に向かい、一気に駆け下り、攻め込みます。(写真④絵③も参照)

ここだけは、平家も北側の崖から攻めてくることは想定外でした。
⑤かわぐちかいじの描く義経も同じ事
を言っています

この義経の奇策・奇襲により、ついに平家の防衛ラインは崩壊します。

一つの防衛ラインが崩れると、他の箇所で戦っている平家軍にも、敗色ムードが広がります。

ちなみに一の谷で義経は平家の陣営に火を付けて廻ります。この煙は8㎞離れた鵯越からも、海岸線沿いの10km離れた生田川からも良く見えたと伝えられています。

だいたい、総大将の平宗盛は、なんとこの合戦前から、安徳天皇を抱く健礼門院と一緒に、既に海上に避難している、いわば最初から「逃げ腰」だったのです。(絵⑤のかわぐちかいじの漫画も同じようなことを言っています。)

「一の谷が義経によって破られた!」

と聞いた陸上で戦っている平家の武者たちは、戦闘区域①も②も総崩れ(地図②参照)となって、よよと海上に舟で逃げ出すのです。

3.平 敦盛

さて、このブログ後半は、総崩れとなった平家の中の武者の話を幾つか取り上げます。

この義経軍の中に、熊谷直実という40代の武将が居ました。
⑥平家の若武者の波打ち際で呼び止める熊谷直実
(須磨寺)

彼は、元々平家の武将で、源氏に寝返ったこともあり、少々功を焦っていました。

しかし、上手く行かない時は、上手く行かないもので、この一の谷の戦いで、直実が浜についた時には、殆どの平家は海に逃れた後でした。

その時、一騎、波打ち際で逃げ遅れたと思われる立派な平家の武者を見つけます。(写真⑥

直実は「敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。返しなさい。」と呼びかけます。(一番右上の絵もこの場面を表しています。)

するとその武者は振り返り、直実向かって馬を返して一騎打ちを挑むのです。

しかし、あえなく直実に倒されてしまいます。

直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ、歳の頃16、17と見える紅顔の美少年でした。

「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると、逆に「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗る程の者ではありませんが、熊谷直実と申します。」と答えました。

⑦持っていた笛
(須磨寺蔵:青葉の笛)
すると、その若武者は「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は充分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」

直実はその潔さに心を打たれます。

この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝敗にはもう関係ありません。自身の手柄欲しさに、この若い命を落とさせることになってしまえば、自分の息子小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この若武者が討たれたことを、この方の父上が聞かれたなら、どれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせました。

助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、生田川の防衛ラインを破った範頼の軍勢がすぐそこまで近づいてきます。

もういよいよ逃げられまい。

「同じ事なら、この直実が手に掛けて、後のご供養をお約束します。」と泣きながら刀を執りました。

討ち取った首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛が差してあるのに気が付きます。(写真⑦
思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。

「ああ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心は一層締め付けられました。

⑧敦盛の首を洗った池と義経が
首実検の際に腰掛けた松(須磨寺)
さて、持ち帰ったその首を池で洗った直実は、その池の前の大きな松の樹の根方に腰掛ける義経に、その首を差し出します。(写真⑧

義経は、このお方は平清盛の甥の敦盛であると言います。義経は幼少期を京都で過ごしていますので、敦盛を知っていたのでしょう。

また、持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはなかったと言います。「青葉の笛」と言います。(写真⑦参照

平家物語で一番涙を誘うこの哀話「敦盛最期」は、その後、信長のあの有名な「人間五十年」の独特の節で舞われる幸若舞「敦盛」として、長く私たちの心を揺さぶります。

私もまさに直実と同じような年代で、17歳の長男を持つ身として、この敦盛を討った時の直実の心境がひしひしと伝わります。

4.人間五十年

直実は、この後、世の無常を強く感じて出家します。その時詠んだ彼の心境が、あの信長の大好きだった幸若舞「人間五十年」の節になるのです。以下に原文掲載します。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
⑨敦盛首塚(須磨寺)
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

如何でしょうか?

この敦盛の一節は、「この当時の平均寿命が50年位であり、そのような短い人生は夢幻の如くである。」というような解釈がされますね。

そう聞くと「私は50歳まであと〇〇年ある。」とか数えたくなるかもしれませんが、多分直実は、50歳という年齢にはあまり拘りを持っていないと思います。

敦盛を17歳で亡き者とした直実です。また、直実自身は66歳まで生きています。

多分この一節は、せいぜい50年以下の人間の所業等、どう転ぼうとも大した差はないということを言っているのであって、50年は寿命ではないでしょう。

これは、直実が敦盛を討ったのが43歳、源頼朝の元を逐電したのが46歳、出家するのが52歳と関係があると考えます。

敦盛のように若くして討たれるのも、討った直実のように50歳まで色々とあろうと、人の所業は命の有る無しも含め、儚さは同じという無常観。
また討たれた敦盛も、討った自分も同じ仲間だという連帯感的な死生観ではないでしょうか?

ちなみに高野山には直実と敦盛の墓が並んであります。また、金戒光明寺では、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにあります。これらはこの連帯感を表しているのでしょう。

27歳の信長も桶狭間の戦の前に、「今川義元に討たれようと、なんとか生き延びようと大して変わらん。ならば自分の今したいことに注力するだけだ」と、この「敦盛」を舞って自分を説得したのでしょうね。で、当時は無謀とも見られた奇襲作戦を見事成功させてしまったのだと思います。

さて、この敦盛以外にあと2名の平家の武者の話を書きたいと考えていますが、やはり長くなってしまうので、次回以降にします。

⑩敦盛胴塚
(須磨浦公園横)
今回もそうですが、神戸を中心に彼らの行動について、現地にて改めて追いかけてみると、とても心打たれる話が多いのに驚きます。

それは平家物語が上手に作ってあるのもそうですが、やはり平家の武者たちがどこか心優しい部分を多分に持っており、これを滅ぼす源氏側の武将の葛藤が強く感じられます。

日本史の合戦というのは、ある意味、同じ日本人の殺し合いというストイックなテーマですよね。

しかし、実はそのような時代でも、敵味方関係なく、同じ日本人として心が繋がっているのだということを、この神戸の合戦場のあちこちで痛感することが出来ました。

ここまで長文お読みいただき、ありがとうございました。

それではまた!

※「3.平 敦盛」の文章中に、一部須磨寺から配布されている「源平合戦と須磨寺」の文章を引用しております。