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日曜日

義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~


①義経最期の地 高館(たかだち)
前回、奥州藤原氏3代目の藤原秀衡(ひでひら)源頼朝の謀略比べで、最後は江の島弁財天への祈願をしたことによる、紙一重の差で勝った頼朝の話をしました。(詳細はこちらをクリック

奥州王国の末路、話を続けます。

1.頼朝の深慮遠謀第2段

さて、秀衡亡き後の奥州藤原家を継いだのは、4代目、泰衡(やすひら)です。

秀衡は臨死に際し、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせたことは前回お話した通りです。

深慮遠謀を持つ秀衡の遺言的な起請文。これが健在である限り、秀衡程の智謀を持たない泰衡と義経をトップとする奥州王国軍17万騎を切り崩すのは、頼朝にも大変な事です。

②後三年合戦における同族の争い
清原家衡(左)と清衡(右)
※出典:胡原おみ氏「後三年合戦物語」
奈良時代の律令という国家のシステムが形成されてから、平安時代に入り、摂関政治等を経ながら、システムとして複雑化し、東北の蝦夷(えみし)の地にバーチャル(仮想)国家である奥州王国まで出来てしまいました。
この混沌とした日本を、シンプルな武士による統一国家になんとか再構成し直したいと考える頼朝。

当然彼はこのバーチャル国家である奥州王国を潰す必要を強く感じているのです。

というより、当時1189年より133年前の1056年に源頼義(よりよし)から始まった前九年の役と、その息子・源義家(よしいえ)が中心となった後三年合戦(1083年)で、源氏のDNAには「蝦夷の国は色々な意味でキケン!徹底的に排除すべし」という掟が刻み込まれてしまったのかも知れません。

現代と違って、この時代は時間の割に物事の進歩が遅いので、100年以上前と言っても、たかだか10数年前のことのように語り継がれているのだと思います。

そこで、頼朝は100年前の後三年合戦で、源義家(よしいえ)が用いた謀略に倣(なら)った深慮遠謀第2段を発動します。

以下の図③を見て下さい。
③後三年合戦の反省を活かした頼朝の構想
※図中の「外交圧力」とは
朝廷を介した間接的な圧力のこと
図③の上段ですが、義家は後三年合戦で奥羽の清原一族(藤原氏の始祖)を潰すために、兄弟である清衡(きよひら)家衡(いえひら)をワザと対立させるよう仕向け、同族同士で死力を尽くして戦い合うことで両者の力を削ぎ、最終的には両者ともに自分が潰してしまおうと考えていたのです。(絵②も参照)(詳細はこちらをクリック

④高館の義経堂
これは上手く行くように見えました。しかし、その義家の考え方を事前に察知した清衡が、義家を巧みに使い家衡を滅ぼした後、義家が清衡に手を出す前に京の朝廷等へのロビー活動による外交圧力により、義家を京へ呼び戻す事態を作り、更に義家を奥羽から退去するように仕向けるのです。そして清衡は、義家を追い出した後、奥州藤原氏を名乗り、最後の勝者となります。

図③下段ですが、この後三年合戦を参考に、頼朝は自分を義家に見立て、泰衡と義経の2人を、清衡と家衡に見立てます。そして、後三年合戦で何故義家が清衡と家衡の2氏諸共滅ぼせなかったのかを分析し、以下の2つの結論に達しました。

①義家自体が抗争の前面に出過ぎ
②義家が京の中央政権を抑えず、清衡に抑えられたことにより外交圧力を掛けられた

これらの反省を活かすことで、藤原泰衡と義経両者とも間違いなく潰し、自分が勝者になろうというのが、後に起こる奥州合戦への頼朝の構想です。

2.義経の高館(たかだち)での最期

頼朝は、早速朝廷に宣旨(せんじ)を出させ、泰衡に対し、義経を討伐するように外交圧力を掛けます。当然、泰衡は亡父・秀衡との約束上、これを拒絶します。ただ返答の言い方は、「義経は平泉に見当たりません。」との建前で報告するのです。

しかし、これは頼朝の思うつぼ、頼朝は朝敵を匿う泰衡は賊軍として、またまた朝廷から泰衡討伐の宣旨を出してもらうよう京の中央政権に対して圧力を掛け続けるのです。

⑤奥州高館城大合戦之図(歌川国芳作)
※真ん中で奮戦するのが弁慶
暫くすると泰衡から頼朝の元に書状が来ます。内容は「もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します。」

これを見た頼朝はニヤッとします。「泰衡の奴、余程朝敵にされるのが怖いと見える。この書状で許せと言うのか?先代の秀衡だったら、こんな書状を送って来るようなヘマはせず、黙って今頃は義経と一緒に17万騎率いて鎌倉に攻めているであろうものを・・・」

そして、更に朝廷に対し、泰衡討伐の宣旨発出の要請を強めるのです。

やはり泰衡も義経らと同じ、将来を見通す構想力・戦略能力は殆ど持たない武将なのですね。完全に頼朝の手のひらで転がされています。

とうとう、朝敵にされそうな泰衡は、プレッシャーに耐えきれなくなり、平泉で義経が住んでいる高館(衣川館:ころもがわやかた とも言う)を数百騎で攻めます。(写真④、絵⑤)

⑥高館から北上川を臨む
※「夏草やつわものどもが夢のあと」
の句がここにある
本当に頼朝の思惑通りですね。もしこの数百騎が泰衡軍ではなく、頼朝の鎌倉軍だったら、多勢に無勢で勝ち目の無い戦いであったとしても、戦上手の義経の事ですから、撃退する可能性もあったかも知れません。しかし、そこは人情に篤い義経。ずっと世話になった奥州藤原氏から攻められれば、やられるに任せるしか無かったのでしょう。(写真⑥)

実際、絵⑤のような弁慶の大立ち回りや、部下の奮戦とは対照的に、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず写真①のお堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自刃します。享年31歳。1189年4月30日のことです。

そして、弁慶はご存知の通り、最期は写真①のお堂の前で、義経が自刃する時間を作り出すために、どんなに槍で刺されても、矢が刺さっても倒れることなく死んでいった「弁慶立ち往生」の伝説が残っています。

弁慶のお墓は、中尊寺の前の大きな松の下にあります。(写真⑦

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」
⑦中尊寺門前にある弁慶の松(墓)

後世に中尊寺の僧が詠んだ歌です。

3.義経の御首(みしるし)

泰衡は、6月に酒に浸した義経の御首を頼朝の居る鎌倉へと送り、恭順の意を示します。

義経の御首は、鎌倉の西の外れ、腰越の海岸で検視されます。前々回の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」(ここをクリック)でも書きましたが、どういう訳か義経は壇ノ浦で平家を滅ぼして以来、兄・頼朝の居る鎌倉へは入れず、鎌倉の西の外れ、腰越止まりなのです。

しかも、この腰越海岸で検視された後、義経の首は海岸に打ち捨てられたままなのでした。(写真⑧)

さて、義経が討たれたと聞いてから、1か月程、頼朝はいつも考えていました。

というのは上記作戦に2つ程見込み違いがあったのです。

1つは、義経を立てて鎌倉を攻めるのかそれとも鎌倉へ恭順の意を示すかで、奥州藤原一族の中でももう少し混乱があり、むやみに一族同士で消耗してくれればと思っていたのに、あまりにあっけなく恭順となってしまったことです。特に義経の御首を差し出されてしまえば、鎌倉方は本命である奥州王国殲滅の口実が霧消してしまいます。

⑧義経の御首が討ち捨てられた腰越海岸(手前)
海岸越しの湾を挟んで対岸は江の島です
もう1つは、朝廷がなかなか泰衡追討の院宣を下してくれなかったことです。頼朝のシナリオでは、泰衡たちが恭順の意を顕すのに、もう少し時間が掛かり、その間になんとか朝廷から泰衡朝敵の院宣を取り、それを錦の御旗に、奥州王国を殲滅する、そういう構想だったのです。

しかし、奥州から義経の御首が腰越で検視され、そのまま打ち捨てられたと聞いた時、頼朝は、ハッと思いつきます。「そうだ!そうしよう。江の島弁財天さま、ありがとうございます。」

4.奥州合戦と征夷大将軍

義経の御首を差し出すことで、恭順の意を示し、討伐の院宣の申請を取り下げてもらうよう努力した奥州藤原氏を、頼朝は1189年7月に大軍を持って鎌倉から攻めに出かけます。

頼朝は院宣の発出は諦めました。江の島弁財天に秀衡調伏の祈願をしていた1182年当時とは、平家を滅亡させた鎌倉軍の規模も強さも違います。また戦の天才、義経が指揮をしない奥州軍なぞは、院宣が無くても十分勝てると見込んだのです。

⑨灰となった平泉の中央庁舎「柳之御所」
※奥に見える小山が「高館」
以前Blogにも書きましたが、院宣がある場合は「役」、院宣が無い私戦の場合は「合戦」と呼びます。「前九年の役」は源頼義が安倍氏討伐の院宣により安倍氏を討ったのですが、「後三年合戦」では、源義家が清原家衡らを院宣無しで討伐しました。
同様に、この奥州王国殲滅作戦は、のち「奥州合戦」と呼ばれます。

ただし、殲滅のための口実は必要です。そこで、江の島弁財天が頼朝に囁いたかどうかは分かりませんが、屁理屈を考えついたのです。

「泰衡は『もし義経が平泉に来たら、捕まえて鎌倉へ差し出します』と言ったよな?それなのに大事な私の弟、義経を殺してしまうとは何事か!成敗してくれるわ。」

あきれてモノも言えない口実ですね(笑)。

しかし、それでも充分な勝算があれば、口実なぞ後で何とでも評価してくれというのは、大阪城を攻める口実を方広寺の鐘の刻印に求めた徳川家康と同じです(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
8月、緒戦で負けた奥州軍は、平泉に火を放ち、北に逃走します。

⑩厨川柵(盛岡市)
夏真っ盛りの夕刻に頼朝が平泉へ到着しますが、広大な庁舎などは灰となり、人影もない寂寞とした景色が広がっていたと言います。(写真⑨)

また焼け残った倉庫からは、予想通り莫大な「金」が出てきました。
鎌倉軍は目を見張りましたが、頼朝は一言、「この財が基で奥州王国は、100年以上の独立性を確保できていた訳だ。これで終わりにしよう。統一(武家)社会の幕開けだ。」

そして、泰衡を追いかけ、最後は100年以上前の前九年の役源頼義が、安倍頼時を滅ぼした現在の岩手県盛岡市にある厨川柵にまで進軍します。(写真⑩)

この時頼朝の軍は28万4千にまで膨れ上がりました。

泰衡は、逃走中部下の裏切りにより、既にこの時、首をとられていました。
源頼義前九年の役の将軍として討ち取った安倍頼時にした故事に倣い、頼朝はこの泰衡の首を、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けたのです。それを見ていた28万の軍勢は一斉に鬨の声を上げ、源氏が奥州と戦い始め、100年以上経った今、新しい統一(武家)社会を完成に導いた頼朝に対し、歓喜したのでした。

⑪義経の御首は江の島の海岸から境川を遡り
6㎞上流の白旗神社まで頑張って北上
5.おわりに

いかがでしたでしょうか。前九年の役の話から始まった源氏と蝦夷(えみし)との対立抗争、100年間のスパンの話を全10回のシリーズでお届けして来たお話もこれが最後となります。

8月頭の2日間の調査以降、約4か月間の長きに渡り、お読み頂きどうもありがとうございました。

最後に腰越海岸に打ち捨てられた義経の御首がどうなったのか、物語風に描かせていただくことで、このシリーズをしめくくりたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

義経の首は、腰越海岸が満潮になると、潮にさらわれ流されました。沖には江の島があります。江の島弁財天は近づいてくる義経の首に声を掛けます。

「義経、義経、ご苦労様でした。この江の島の岩屋でゆっくりと休んでくださいね。あなたの活躍は充分見ていました。あなたは最期まで仁のある人物でしたね。」

⑫白旗神社にある義経首塚
「弁財天さま、私は尽くしてくれた泰衡殿も兄上である頼朝殿も、皆争わないで欲しかった。なので抵抗せずに泰衡殿に殺されることで、鎌倉にも奥州にも戦う口実を与えず平和が来ることを願って岩屋で休みます。」

「義経殿、それはちょっと違います。7年前、頼朝殿は私に奥州藤原氏の調伏を祈願しました。私もこの国が本当に統一された平和な社会になるには、バーチャルであっても奥州王国のような形は無い方が良いと考え、その計画は現在も進行中なのです。あなたには残念でしょうが、奥州王国は無くなってもらいます。」

「そ、それでは義経は何の役にも立たなかったのですか?犬死ですか?」

「いえ、平家を倒したことは勿論、奥州にあなたが居たことも全て、統一(武家)社会を創るという大きな貢献であったことが分かりませんか?」

「岩屋で休んでいる場合ではございません。今より北へ向かい少しでも泰衡殿、いや奥州の役に立たねば・・・。」

と言って、少しでも奥州へ戻ろうと、江の島に注いている境川を、どんぶらこ、どんぶらこと満ち潮に乗って北上していました。
しかし、6㎞遡ったところで、首は力尽き果てました。(地図⑪)
そこで御首を川からすくい上げ、首塚を作ったところが、白旗神社です。(写真⑫)
⑬江の島のトンボロ
出典:高橋由一「江の島図」

これを江の島の上から見ていた弁財天は、至急、江の島周辺の海流の流れを変え、江の島と本土が繋がる砂浜を作ります。これはトンボロ現象というもので、現在の江の島もそうですが、1216年に突然出来たとの報告が当時の源実朝(さねとも)になされています。(絵⑬)

地続きになったトンボロを通り、白旗神社の義経に会いに行った江の島弁財天は義経に何を伝えたかったのでしょうか。

勿論、トンボロが急にこの鎌倉時代初期に出来たことは、単なる偶然かも知れません。
ただ、悠大な源氏と奥州の歴史の区切りと何らかの関係があると思う方がロマンチックだなあと感じるのは私だけなのでしょうか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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【高館義経堂】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所14
【武蔵坊弁慶の墓】岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関衣関
【柳之御所跡】岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【江の島弁財天】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
【白旗神社】神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7

義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~

①奥州藤原3代
このblog記事には一部学術研究で活用されたミイラ等の写真が掲載されています。
気分が悪くなる等の恐れが在る方は閲覧をご遠慮ください。

 前回まで前九年の役と後三年合戦について描きました。

今回からの話は、後三年合戦が奥羽で繰り広げられてから100年後の話です。

100年後、奥州王国は前回までの主人公であった藤原清衡(きよひら)から2代後の秀衡(ひでひら)が主となっています。

奥州藤原3代は、清衡、基衡(もとひら)、秀衡となります。(絵①)

100年もの間、この奥州王国を中央政府からの半独立状態を維持できたのは、やはり金色堂をも作った奥州の「金」の力なのでしょう。

中央政府の有力者(関白?)と「金売り吉次」を介して関係を結び、安定した奥州支配を続けます。2代目基衡までは、そういった意味では後三年の悲惨な戦のあとのしばしの静けさが続いたと見ても良いのでしょう。(写真②:これらのミイラについては別途「中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~」参照

そして時代はこのblogでも取り上げた通り、保元の乱、平治の乱等、源平武士の台頭が京より西側を中心として繰り広げられ、奥州の東北地方は、合戦の舞台からは外れることが出来ていた訳です。

奥州藤原氏3代目の秀衡は、これら中央での武士の台頭に、危機感を強く持っていました。
②中尊寺金色堂に収容の藤原3代の遺体
※泰衡の首は訳あって現代まで忠衡(弟)
のものとされていましたが、研究から
現在は泰衡説が濃厚となっています。

「きっと来る!また後三年合戦の源義家(よしいえ)の再来が!」

1.義経の取り込み

上記のような危機感を持った秀衡。この3代目はかなり先見性を持った人物でした。

よく3代目は初代に劣らず優秀と言われますが、その典型例ですね。

そこで、彼は保元・平治の乱を奥州から遠望しているだけではなく、京にて周旋活動をしている「金売り吉次」を使い、中央政権の動きを逐一キャッチし、今後の武士の世が固まってくる時代に対する奥州王国防衛の備えを開始します。

その一計が「義経の取り込み」です。

彼は、100年前の前九年・後三年の原因の基本は、中央から派遣されてきた当時の武士団の頭である源家(頼義・義家)との敵対にあるとの分析を行います。

そして、平治の乱で、平清盛源義朝(よしとも)の息子たち、頼朝と牛若丸を含めた数人を生かしたままにしたと聞くと、また金売り吉次を使って、それら源義朝の遺児たちの様子を探らせます。

将来源氏の世が来る事を予測して、ピカ1の遺児を奥州王国に招き入れてしまうことで、奥州王国を守ろうと考えたのです。

③義経後ろ姿
(鎌倉彫:満福寺蔵)
遺児たちの中で、一番武勇に長け、野心に燃える人物として白羽の矢が立ったのが牛若丸です。(写真③)

伊豆に流刑中の頼朝にも、秀衡の関係者は会っていたようですが、頼朝に、秀衡はかつての義家の狡猾さを見るようであったこと、また北条一族に取り込まれている彼を見て、策士である彼は避けたようです。あれだけ義家に辛酸を舐めされられた奥州藤原家にとっては、純粋で透明性のある牛若丸の方が取り込む大将の器としてはもってこいだったのだと想像されます。

何はともあれ、早速金売り吉次が牛若丸を平泉まで連れて帰ります。

2.奥州王国の独立性

当時は平家一門の世。「平家にあらずんば人にあらず」の勢いですから、義朝の息子を平泉に匿(かくま)う秀衡の動きを知らない訳がありません。

しかし、全く動じない秀衡。この当時秀衡は例の「金」で平家に取り入り、かつて義家が持っていた陸奥守の役職を確保。17万騎と言われる軍を組織した奥州王国は、平家と敵対した源氏の一人息子を匿うくらい何でもないと言わんばかりの独立性を持つ国にまで力を付けていたのです。当時政庁のあった柳之御所(平泉)の敷地規模からも、その広大な王国の様子は伝わってきます。(写真④)

平泉に匿われた義経は15歳から23歳までの多感な時期を、駿馬の産地である平泉で、馬を乗り廻し、戦の技と戦術を磨いていくのです。

3.源平合戦

④奥州王国の政庁があった柳之御所跡
さて、1180年に頼朝が平家討伐の挙兵を起します。(詳細は別記事「三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~」をご笑覧ください。こちらをクリック

この頃、藤原秀衡のところにも、平家から源頼朝征伐の要請が来ており、秀衡も「OK!」文書を返しています。

挙兵し、鎌倉に着座した頼朝も、この奥州藤原氏と、もう少し南の常陸の国(茨城県)の佐竹氏(当時の関東武家勢力図は、こちらをクリック)が鎌倉に攻めて来る脅威を感じており、積極的に西の平家打倒に進軍することが出来ません。

ところが、この時、秀衡も頼朝も予測していなかったことが起りました。

義経が挙兵した頼朝の元に平泉から馳せ参じようとするのです。

秀衡は、伊豆に流されていた頼朝を見て、「義家の再来か?」とさえ思っていた訳ですから、これを滅ぼしておいた方が奥州王国の安寧のためには良策と考え、実際2万程の軍を鎌倉に向けようとしていました。

ところが、義経が頼朝のところに馳せ参じたいと、秀衡に申し出をしてくるのです。
⑤私の家の近くにある二枚橋ここを通り
義経は平泉から頼朝の元へ参じた

一度は馳参を思い止まらせましたが、まさか義経への説得に奥州王国の都合を話す訳にも行かず、説得は上手く行きません。ぶっちぎりで頼朝のところに行こうとする義経に最後は根負けし、佐藤兄弟という部下を付けて、平泉を送り出すのです。

義経は嬉しそうに、弁慶と佐藤兄弟を引き連れて、頼朝のところへ平泉から向かうのです。(写真⑤)

これで秀衡は、義経への道義上、頼朝を攻めることは出来なくなりました。また頼朝はそんな背景は知らずに黄瀬川にて対面(詳細はこちらをクリック)する弟・義経に「これからは兄弟力を併せ、仇である平家打倒に共闘しようぞ!」と涙ながらに語らいます。(写真⑥)

しかし、心の中では以下のように計略を練っているのです。かなりシュールな頼朝です。(笑)

「ふっ、これで奥州の脅威はこいつ(義経)が戦ってくれる間はあらかた消え失せたわ。ただ秀衡は、こいつ(義経)見殺しの覚悟で常陸の佐竹と共謀して鎌倉を攻撃してくるかも知れない。俺はこれらの牽制のためにも鎌倉に残り、平家討伐のための西行きは、義経と範頼に任せよう。」

⑥対面石(奥の杖側が頼朝、手前が義経)
それからの義経の平家打倒における活躍ぶりは、拙著blogでも「一の谷の戦い」を中心とした、合戦状況は3作品作りましたので、どうぞご笑覧ください。(最初の作品はこちらをクリック

源平争乱の間、奥州藤原氏は、中立を保ちました。多分、奥州藤原軍17万騎が動けば、常陸の佐竹氏と共謀しなくても、頼朝を滅ぼすことは出来たかもしれません。

しかし、秀衡はそれでは純粋な義経が黙っていない、頼朝を滅ぼせても、今度は義経まで敵に廻すことになり、それはそもそも義経を奥州に取り込んだ自分達の失策を認めることになるのです。

そこで、秀衡は他の策を考え、やはり義経を上手く使って奥州王国を安寧に導く方法を考えました。

まず源平争乱中、奥州王国は中立。そしてこの間も、ただ手をこまぬいて、義経らの活動を見ていた訳ではなかったのです。

4.腰越状

最後壇ノ浦で平家を倒した義経。凱旋し京に戻ってきた彼に、平家打倒の院宣を下していた後白河法皇は、伊予守等の役職を与え、また義経が鎌倉に断りなく恩賞を出すことを許可します。

⑦左上:後白河法皇 右上:奥州藤原秀衡
左下:源頼朝 右下:源義経
世間では、狸である後白河法皇が、これにより義経と頼朝が対立するだろうとワザと画策し、武家の2人を争わせ弱体化し、相対的に朝廷の権威が高まることを狙ったと解釈されます。私もそう思います。(絵⑦:左上)

ただ、もう1人この後白河法皇にこの行動を仕向けた男が居ます。

そう、秀衡です。(絵⑦:右上)

源平争乱中に、金売り吉次を使い、有力貴族や法皇等に金をばら撒き、義経に対する支援の周旋活動をしていたと思われます。

秀衡は、先程他の策を考えたと言いましたが、その策とは義経を源氏の頭領にしてしまうということです。

秀衡は、頼朝は義家の再来であり、絶対奥州王国を滅ぼしに来ると踏んでいますので、幼少期より取り込んでいた義経に頭を挿げ替えれば、奥州王国は安寧と考えた訳です。

ところが、義経に対する適正な評価が出来たのは、頼朝だけだったのですね。(絵⑦:左下)

義経がもう少し政略的な大局観があれば、秀衡や後白河法皇の意向に沿った行動が出来たのでしょうが、この名将、天才的な戦術は生み出せても、戦略という概念すら持っていなかったのではないかと思うくらい政略に疎いのです。(絵⑦:右下)

このように愚直な程に素直な義経は、何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分が、兄・頼朝に認められないのか不思議でなりません。きっと頼朝の君側の奸(かん)の讒言(ざんげん)により、誤解が生じているに違いないと考えます。

⑧腰越の海岸
そこで壇ノ浦で捉えた平家総大将の宗盛(むねもり)を鎌倉へ連行し、ついでに直接兄・頼朝と話が出来れば、誤解は霧散すると考え、1185年5月、弁慶と一緒に京から鎌倉へ向かいます。

ところが鎌倉の手前4kmくらいの場所である腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(写真⑧)

そこで、この海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。

ところがいつまで経っても入府許可が出ません。

そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。この手紙は腰越状として有名です。

【腰越状意訳】(写真⑨)
私、義経は天皇の命を受けた頼朝公の代理となり、平家を滅ぼし、父・義朝の恥をすすぎました。

きっと褒美を頂けると思っていましたが、図らずも、讒言により、大きな手柄も褒めていただけなくなりました。

私、義経は、手柄こそあれ、何も悪いことはしていませんのに、お叱りを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。

あらぬ讒言に、鎌倉にも入れず、従って日頃の私の気持ちもお伝え出来ず、数日をこの腰越で無為に過ごしています。

黄瀬川の対面以来、永くお会いできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、このような不幸せな巡り合わせとなったのでしょう。
⑨腰越状(満福寺蔵)

亡父・義朝の御霊(みたま)が、再びこの世に出て来ない限り、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることも、また哀れんでも頂けません。
<中略>
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父の御霊を御安めする以外に、何一つ野望を持った事はありませんでした。

その上軍人として最上の高官である五位ノ尉に任命されたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。

義経は野心などすこしもございません。
<中略>
疑いが晴れて許されるならば、ご恩は一生忘れません。

元暦二年五月 日 源義経

◆ ◇ ◆ ◇

何でしょうか?彼が唯一政略っぽい事を述べているのは、上位職へ任官されたことは源家にとっての名誉だということだけです。政略に関する考え方があまりに疎ですね。

それに比べ、この手紙の中でもやたらと平治の乱で敗れた父・義朝の恨み返しの話ばかりが強調されています。

これは前回までの後三年合戦で、負けた家衡(いえひら)の義家・清衡らと戦う動機が「母上を殺した」というのと似ていませんか?家衡は最期「早く母上に会いたい」と言いながら、斬首されるのです。(詳細はこちらをクリック

⑩義経が逗留し腰越状を
したためた満福寺(上)
京へ戻る義経がこの寺の
階段を下りたところに
今では江ノ電が走る(下)
その時、家衡も呟いています。「私はやはり清原家宗家の器ではなかった。」と。

つまり、この腰越状の文章上、既に義経は源家頭領としての器ではなかったことが、現れているのではないでしょうか。

結局、義経は鎌倉入りを許されず、6月9日に頼朝から、平宗盛を連れて京へ戻れとの下知を受けます。(写真⑩)

これにより感情が昂った義経は、「頼朝に不満のある武士は、私に付いて来て一緒に反旗を翻そう!」と言ってしまいます。

これは頼朝の思うつぼであり、4日後13日、義経の所領・役職全て没収となりました。

この後、義経が殺されるまでの話は次回以降描いていきます。

ちなみに義経は、御首(みしるし)となった後も、この腰越の海岸で首実験がなされ、この海岸より鎌倉方面へ入ることは死んだ後もありませんでした。彼の首塚は鎌倉の西、藤沢にあります。

5.おわりに

世にいう判官贔屓(ほうがんびいき)における頼朝は、義経の天才ぶりに脅威・嫉妬を感じ、武家社会の秩序を乱す義経自体を悪者扱いにしたと見られがちですが、私はむしろ頼朝は義経を介し、背後にある奥州王国を見ていたのだと思います。

頼朝が届いた義経の御首を見て、「これで世の中の悪は去った」という場面が多くの歴史小説や映画等で出てきます。

多くの人は、この言葉を聞いて「悪とは何であろう?」と、人情豊で正しい行いの人義経に同情の念を寄せますが、彼は義経の御首を見ながら奥州王国の御首を見ていたのだと思います。
前九年・後三年から100年経った頼朝で奥州王国と源家の確執は終焉を見たのです。源家にとって奥州王国は「悪」そのものだったのでしょう。

その視点で、次回以降も描いていきたいと思います。
ご清読ありがとうございました。

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