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日曜日

中尊寺金色堂③ ~後三年合戦 その1~

このシリーズ、3作品目に入りますが、前の2つは、「前九年の役」についてお話しました。
①前九年の役概念図

結局、前九年の役は、図①の東北の雄、陸奥国(岩手県)の安倍氏と出羽国(秋田県)の清原氏の2大有力者のうち、安倍氏が清原氏&源頼義(みなもとのよりよし)連合軍に滅ぼされた戦いということになります。(図①)

そして、この後に続く、後三年合戦(後三年の役とも言う)は、この安倍氏を滅ぼした清原氏の中の一族紛争に、先の源頼義の息子、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が介入して大乱戦になるというお話です。

では順に見て行きましょう。

1.前九年後の清衡

まず、前回のblogで、安倍氏に味方した藤原経清(つねきよ)について思い出して頂けますか?
あの首をなまくら刀で切られた経清です。(忘れた方はここをクリック

その経清の息子が、清衡(きよひら)です。後の奥州藤原家三代の基(もとい)を築く漢(おとこ)になります。

脱線しますが、この藤原一族の先祖は、平将門と戦った藤原秀郷(ひでさと)となります。
藤原秀郷については、平将門を描いた拙著blog(ここをクリック)と、ゆかりの深い新橋の烏森神社等を描いたblog(ここをクリック)がありますので、時間がある時に別途、ご笑覧ください。

さて、安倍氏が滅び、前九年の役が終わった時に、清衡は7才。まだ幼子でした。
②清原一族系図と後三年合戦など
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます

藤原経清に嫁いできた母親は、元々清原氏の出身でした。前九年で安倍氏を滅ぼした清原武則(たけのり)の息子、武貞(たけさだ)と再婚します。(図②参照)
実は、この武貞が清衡の父経清の首を、わざとなまくら刀で苦しみが続くように切った本人なのです。

つまり清衡は、父親の仇を継父として持ったことになります。

前のblogで取り上げた前九年の役の中、黄海川(きみがわ)の戦いで、源頼義率いる朝廷軍に大勝利を収めた安倍氏の蝦夷(えみし)軍は、再び朝廷軍が清原氏と連合を組んで戦いに来るまでの5年間は、「蝦夷国再建!」とばかりに、朝廷支配の及ばない理想郷の建設を夢見ていたのです。
③藤原(当時は清原)清衡

清衡の父・経清も、蝦夷の地における朝廷への貢租を全て安倍氏側で徴収する制度を設ける等、この理想郷の構築を着々と進めていたのです。

そして、その父の構想にかける情熱は、まだ幼子であった清衡にも感覚的に伝わったのでしょう。

前九年の役が終わり、21年が過ぎた1083年。

清衡は28歳となりました。(絵③)

清衡の父の構想への回帰のための戦略が花開きます。

後三年合戦です。

2.後三年合戦の捉え方

さて、後三年合戦は、極端に単純化すると清原一族の抗争に、陸奥鎮守府の源義家(みなもとのよしいえ)らが絡んで、最後は清原氏の3兄弟の中で、清衡だけが生き残るという抗争話です。

図②の肌色でハッチングしてある箇所の人物、特に清原武貞と清衡の母との間の息子3人の間の抗争劇です。兄弟3人仲良く暮らせばいいのにとも思いますが、やはり父親違い、母親違いのこの3人、仲良くできなかったのでしょうか。勿論、取り捲き連中が乗せたということもありますが・・・。

前九年に比べると、この合戦、史料等が乏しく、不明なポイントが多いのです。

その要因として、実はこの合戦は、朝廷からの勅命で行った前九年と違い、清原氏内の内部抗争とされ、源義家らの参戦も、朝廷からの公式な指示ではないとされたのです。

なので、前九年は朝廷公認の公式な戦、これを「役」と言いますが、後三年は朝廷非公認、非公式・私戦、これは「合戦」と言います。

最近までは後三年も「役」と言っていましたが、色々と調査の結果「合戦」であることが明らかになってきました。
④後三年合戦 最後の激戦地だった
金沢柵に建つ金沢八幡宮

話を戻します。不明なポイントが多いからという訳ではありませんが、私はこの合戦を自分が勝ち抜くように仕向けたのは、この清衡なのではないかと考えています。

そこで、その観点から、この合戦について史実を紐解いていきたいと思います。

3.戦の発端

まず、この歴史上に残る合戦をする前の21年間のあいだに、清衡は清原一族の重鎮、吉彦秀武(きみこのひでたけ)と何度も深く語り合っています。(秀武は図②参照)

秀武は、前九年でも清原軍として参戦し、清衡の母と清衡を保護、出羽(秋田県)に連れ帰った人物で、清衡も幼少の頃より頼りにしていた叔父です。

また、清衡は、父親の酷い仕打ちの最期の話も、この秀武叔父から沢山聞かされ、彼の中にはいつしか潜在的に滅ぼされた安倍一族への深い憐れみと、朝廷軍である清原氏と源家に対する復讐の気持ちを持つようになっていたのかも知れません。

さて、秀武は清衡がそんな裏腹な心を持つとは知らず、清原氏の棟梁である真衡が、自分一人の権力増長に力を入れ、あまりに一族をないがしろにしつつあることに深い憂慮をしていることを話します。

秀武はこの時既に70歳、私利より清原一族の先行きを本当に心配していたのでしょう。
この老人、純粋なだけ逆に喜怒哀楽が激しく、気が短いところがあります。
⑤真衡にお祝いの品を献上する秀武

その性格を熟知した清衡は、秀武に言います。

「一度、叔父上は兄・真衡に対して徹底的にへりくだってみてください。もし、叔父上程の重鎮がへりくだっているにも係わらず、兄が横柄な態度を取った場合には、私や弟・家衡は兄・真衡を家長とは認めません。」

◆ ◇ ◆ ◇

さて、上記清衡の言を実行する機会がやってきました。

真衡は息子が出来ず、養子入りをさせています。そしてその養子の妻を迎える結婚式でのことです。

70歳以上である秀武は、40歳そこそこの真衡に、祝いの品として金等を献上します。(絵⑤)
しかも、清衡に言われた通り、へりくだって、庭先で自ら献上の姿勢を取り、真衡からのねぎらいの言葉を待ちます。

しかし、真衡はねぎらいの言葉どころか、坊主と囲碁に耽り、献上の姿勢を取り続ける叔父秀武を無視するのです。

⑥怒る秀武
半刻も経ったでしょうか?秀武は、顔を真っ赤にして、祝いの品を庭に投げつけ、肩を怒らせ、叫びます。(絵⑥)

「なんたる侮辱!!」

そして、秀武は出羽の国に戻ると軍備を整えます。真衡と戦う気満々です。

「想定通り!」

と言ったのは、事の次第を聞いた清衡です。早速、秀武の所に赴き、

「秀武叔父、やはり兄・真衡は、叔父上が家長として仰ぎへりくだっても、徹底して見下した態度を取りましたね。もはや、彼に清原家一族の家長としての器量はございません。ついては、清衡・家衡兄弟は、兄を倒すために叔父上への支援を惜しみません。」

そして、清衡・家衡兄弟は、秀武征伐のために出兵した真衡の留守中、陸奥にある真衡の館(岩手県胆沢郡)と付近の村400戸を焼討にするのです。(絵⑦)
⑦真衡館の焼討

4.真衡の逆襲

流石に、弟達に留守中の虚を衝かれた真衡は動揺します。

秀武討伐は中止。慌てて出羽から陸奥へ軍を引き揚げます。

そして再度、秀武や弟達を討伐するために再軍備をしているところに、源義家(よしいえ)が陸奥の国守として赴任してきます。

先の前九年の時にも、数々の武勇伝を築き、父・源頼義を助けた義家。後に八幡太郎義家と源氏の守り神として神格化される程の彼が戻ってきたのですから、真衡は当然彼に取り入ろうとします。
「三日厨」(みっかくりや)という3日間にも及ぶ盛大な歓迎会を開き、このヒーローを味方に付けます。(絵⑧)

この義家の登場を、出羽の国に居た清衡・家衡は知りませんでした。
そしてまた、秀武叔父の討伐に出陣した真衡の館を、前回同様手薄になったとばかりに、襲撃・焼討に向います。

⑧着任前から既にヒーローである源義家
襲撃当初、真衡の館は前回と同様の守備兵しか居ません。しかし源義家の軍略で、襲撃されたら、真衡の妻の一報により、義家の軍が直ぐに駆けつけるように手配していたのです。

義家の軍が現れたのは清衡にとって想定外でした。

流石はヒーロー義家の軍団。軍の数も、戦略も戦闘能力も義家軍の方がはるかに清衡・家衡軍を上回っています。

「くそっ!抜かった!」

と計画の失敗により、自滅を覚悟した清衡ですが、弟・家衡が乱闘中でピンチだった清衡を自分の馬上へ引き揚げ、一頭の馬で清衡・家衡が逃げるという形でこの危機をなんとかやり過ごしました。

5.おわりに

いかがでしょうか? 
後三年合戦はまだまだ続きます。

この後、清衡は、強い強い義家と敵対するのではなく、味方に付いて、父の仇、父の野望だった蝦夷の国復権を追求するための廻り道をするのです。

話は単純ではなく、かなり複雑です。
⑨シャア・アズナブル

この話を描いていて、何かに似ているなと思いました。
1st ガンダムの中のシャア・アズナブルです。「赤い彗星のシャア」として人気の高いキャラですね。(絵⑨)

ご存知の方多いと思いますが、簡単に解説しますと、彼はジオン公国の創始家ダイクン家の跡取り息子だったのですが、このダイクン家がサビ家に滅ぼされたので、親の仇を討つ計画を建てます。

しかし、その復讐のために彼が取ったのは、親の仇のサビ家に取り入り、ジオン公国の有能な将官となって活躍し、次々にサビ家の同族支配者を狡猾な方法で葬り去っていくという手法です。

まさに清衡は、このシャアのようです。

ダイクン家は前九年で滅ぼされた安倍家または自分の父だった藤原家。
サビ家は、同役で安倍家を滅ぼした清原家として考えるとピタッとはまります。

ファンの皆さんも同じだと思いますが、シャアのキャラって、ストレートじゃなくて、このようにちょっと曲がっているからこそ、カッコいいのですよね。

ただ、現実の歴史の中にもこれに近いキャラはやはり居るのだろうと思います。

勿論、色々な歴史書物の中では、清衡は非常に中立的で、心が寛(ひろ)く、良心的な人物として描かれていることが多いです。
⑩秋田県の沼柵付近(後三年史跡)

しかし、後三年の舞台となった秋田県横手市等の史跡を巡りながら、私なりにこの後三年の数少ない史実を基に色々と考えると、清衡がわざと仕掛けない限り、清原氏内の同族の争いがここまでエスカレートする理由を説明することが出来ないとの結論に至りました。

なので、史実は曲げずに、清衡らの心の動きには、私の解釈を加えて、このまま続きを描いていきたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館

木曜日

中尊寺金色堂① ~蝦夷を恐れる朝廷~

世界遺産である平泉中尊寺金色堂に行ってきました。(写真①)

①中尊寺金色堂
ご存知のように、全て金箔を貼った金色堂は、マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で、日本を「黄金の宮殿」がある国、ジパング(Zipangu)として13世紀末にヨーロッパに紹介したそのモデルと言われています。

Japanの語源にもなっている、このZipanguで、日本が「金の国」という幻想は、この時に確立しました。

後の15世紀における大航海時代、コロンブスはコペルニクスが言う地球が丸いということが
本当であれば、「金の国」日本へ行く近道は、マルコポーロのようにアジア大陸の陸路を行くより、海を西周りに行く方であると想定。大航海に出かけ、結果アメリカ大陸を発見することになったのも、この金色堂建立のお蔭と言えるかも知れません。

②写真の中の金色堂の孔雀のあしらわれた
須弥檀に奥州藤原初代の清衡は眠っている
このようにJapanという語源やアメリカ大陸発見等々、世界的視点での色々なきっかけを作った金色堂。この視点からも世界遺産に登録されてしかるべき遺産であると思います。

ただ、これ程世界に影響を与えた金色堂、どうして奥州藤原三代の礎を築いた藤原清衡(きよひら)がこれを建立しようと考えたのかということは、割と知られていないような気がします。
(写真②)

そこで、今回この金色堂建立の経緯を、幾つかのシリーズに渡り描いていきたいと思います。

1.蝦夷(えみし)の国

まずは、有史以後の東北地方を俯瞰してみます。

③8世紀の東北地方状況
現在の岩手県から青森県一帯は蝦夷の国
というのは、初期の東北地方の中央政権に対する反骨精神的なものは、その後の中世の間、一貫した彼らのDNAとなっているように感じますので、そこを見て行きます。

8世紀、桓武天皇の時代。

京の中央政府は、東北地方のまつろわぬ(順わぬ、服わぬ)人々を、蝦夷(えみし)と、未開地の野蛮人を指すような言葉で呼びました。(地図③)

この言葉とは裏腹に、この蝦夷の国の実態は、物産が豊かで、金をはじめとし、名馬・鷹の羽・アザラシの皮など都で珍重されている特産品の産地だったのです。

また、基盤が稲作社会である中央政権とは違い、まだまだ狩猟民族の傾向を残した蝦夷でした。したがって、日常的に弓馬を使い、狩りの生活をしていたので、かなり強い兵士ばかりでした。

このような中、朝廷はこの蝦夷の土地に「城柵」を作り、少しずつ版図を拡げる政策を取ったのです。桓武天皇の頃には地図③にあるように、現在の仙台市の北東に「多賀城」という大きな鎮守府を置き、5万、10万の大軍を送り込んで、蝦夷を制圧しようとしました。(写真④)

しかし、蝦夷の大将 阿弖流為(アテルイ)等の反抗で、なかなか上手く行かず、最後は征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)がこの地を平定するまでに20年以上の時間が掛かるのです。

④東北の鎮守府が置かれた多賀城(仙台)
その後の時代も、中央政権になかなか「まつろわぬ」東北を、「道奥(みちのおく)」と文化が遅れていると見下そうとする傾向が続きます。

ですが、東北地方は、中央政権の喧伝とは裏腹に、かなりの富と優れた人材を蓄えていったことこそが、中尊寺金色堂が世界的に有名なる程の発展につながるのです。

2.安倍氏と清原氏

時は移り、11世紀の平安時代、藤原道長が「望月の欠けたることもなしと思えば」とのたまったピーク時から時既に30年も経つと、少々世は荒れ始め、仏教でいう末法の世となってきました。

宇治の平等院の建立が始まったのも、この頃の京の世相を反映したものです。

これら京の廃退を尻目に、この頃の東北地方は、金や豊富な物産等による力を蓄えてきておりました。ただ、蝦夷は坂上田村麻呂の平定後、陸奥国(現在の福島県のあたり、地図③参照)の拡大地域となっております。

⑤陸奥の国の安倍氏
 出羽の国の清原氏
また、特にこの頃、貴族のボディガード役であった武士団が、中央政権でこそ、貴族には頭が上がらないでいるものの、貴族の居ない地方では、勢力を増長し、東北地方でもその傾向は顕著でした。

この時、東北地方では、陸奥の安倍氏と出羽の清原氏が勢力を拡大していました。(絵⑤)

しかし、朝廷は、このような東北の秘かなエネルギー蓄積を、その情報網で敏感に嗅ぎ取っていたのでしょう。
特に安倍氏の陸奥の国は、8世紀から煮え湯を飲まされ続けた元蝦夷の地。

下手な反骨精神を持たぬよう適度に叩いておく必要を本能的に感じたのだと思います。

3.前九年の役の開始

そこで、朝廷は、貢租を怠っていたことを理由に、1051年に朝廷軍が安倍氏討伐を開始します。ところが、朝廷軍は安倍軍に散々打ち負かされ退却。(鬼切部の戦い)

朝廷は、この討伐軍の将軍を解任。源氏の武将を将軍に任じます。(絵⑥)
その名は 源頼義(よりよし)

⑥源頼義(よりよし)
頼義の息子たち、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)や、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の方が、神格化された源氏の開祖として有名なのですが、実は頼義もかなり出来た人らしく、桓武平氏系の、平将門を滅ぼした平貞盛の嫡流、平直方(たいらのなおかた)という人から武勇を見込まれます。
直方は、自分の娘を貰って欲しいと、嫁がせるだけでなく、鎌倉にあった屋敷や郎党まで付けて渡した程です。

しかし、この話良く考えると、上記源氏の神として神格化された義家や義光は、平家方の母から生まれているのですね。清和源氏・桓武平氏とは云うものの、実態は結構血のつながりが源平入り乱れていると思いませんか?

話を戻します。源頼義は、その優れた武勇を朝廷に見込まれ、陸奥守&鎮守府将軍として、多賀城に赴任してきました。
そして、陸奥国の安倍氏討伐の準備に取り掛かります。

ところが当時、安部氏の首領であった安倍頼良(あべよりよし)は、平身低頭で頼義に恭順の意を示します。
なんと、自分の名と頼義の名の音が同じ「よりよし」では恐れ多いとして、「頼時(よりとき)」に改名してしまうのです。
⑦藤原経清
※抱いているのが清衡
「後三年合戦物語」より
また中央政権の京でも、国母(皇太后)の病気平癒祈願による恩赦で、安倍氏討伐は、停戦状態となりました。

それから5年間平和に過ぎ、陸奥国守の任期が終わる源頼義の送別会を安倍頼時が開いてくれたのですが、送別会後の頼義の陣中が安倍頼時の息子によって荒らされたという事件が起こり、源頼義は安倍頼時に息子を差し出せと要求します。安倍頼時は事実無根と言ってこれを拒否。

すかさず源頼義挙兵、朝廷からも速攻安倍頼時追討の宣旨が下され、停戦解除となりました。

私見ですが、これって言掛りだったのではないでしょうか?朝廷は8世紀の頃より、自分達に従わない蝦夷(安倍頼時)が嫌いなのです。しかもパワーがありますから。

安倍頼時は勿論、そんな中央政権側の事情を良く知っているので源頼義の任期5年間、耐えに耐え、なんとか中央政権の毒牙から逃れようとしたのだと思います。

ところが、逆に安倍頼時を討たずして、武勇に優れた源頼義の任期が終わってしまう、これは大変ということで、朝廷から隠れたミッションを持って誰かが、この言掛り的な頼時追討・停戦解除の名目作りを、頼義の任期完了目前で行ったのではないかと邪推します。

そう考える1つの根拠は、藤原経清(つねきよ)という源頼義陸奥国守の片腕的な存在がいるのですが、源頼義を寝返り、安倍頼時側に付いたことです。(絵⑦)
⑧前九年の役における安倍一族と源頼義一族の関係図
※赤字は源頼義側

文献等では、藤原経清は義理の兄である平永衡(えいひら)が、頼義に裏切りの嫌疑を掛けられ、誅殺されたことから、自分も源頼義に嫌疑を掛けられる可能性があるので、安倍氏側に逃げたとあります。(図⑧)
ただ、その誅殺された義理の兄弟が本当に裏切っていたかどうかも怪しいのです。

藤原経清は、蝦夷の迫害を汚いやり方で推進しようとする朝廷や源頼義に嫌気が差したのではないでしょうか?

ちなみに経清は、この「前九年の役」後の「後三年の役」等で主役的役割を果たし、かつ奥州藤原三代の礎を築いた初代藤原清衡(きよひら)の父親です。(図⑧参照)

清衡は、この前九年・後三年の動乱を生き抜き、平泉を開いて、最後は悟って仏の道を進んだ人であり、そのような立派な人物の父親が、簡単に寝返ったりするとは思えません。余程腹に据えかねる事態があったとすれば、根本はやはり朝廷の蝦夷迫害にあるような気がします。

⑨前九年の役(gregorius.jpより)

1057年、「前九年の役」の戦端が再び開かれました。(図⑨)
勿論、源頼義の陸奥国守は任期延長です。

4.安倍頼時討死

平永衡と藤原経清という二大臣を失った源頼義でしたが、経清の裏切りには腹が立ちます。そこで、津軽地方の安倍頼時の従兄弟を味方に引き入れようと画策し成功します。

⑩安倍貞任(さだとう)
これを知った安倍頼時は焦ります。

自ら従兄弟を説得しようと津軽に向かうのですが、逆に従兄弟の伏兵に遭い、重傷を負い撤退。そして図⑨の中にある鳥海柵にて死亡。

この安倍頼時の討死に、安倍陣営は意気消沈するどころか、頼時の息子・安倍貞任(さだとう)が弔い合戦の勢いで、源頼義殲滅の気炎を上げます。ちなみに安倍貞任は、先にお話をした頼義の送別会時に頼義陣営を荒らしたとして、頼義に引き渡しを言われたその本人です。(絵⑩)

朝廷の横暴に耐えに耐えてきた父・安倍頼時が、自分に嫌疑が掛けられた時には、流石にこれに耐えることはせず、自分を守ることを優先してくれたのです。
そしてその事により、自分の命を落とすこととなってしまった父・安倍頼時。

彼は父親の愛情を強く感じると同時に、朝廷及び源頼義によって殺された父親が不憫でなりません。

おのれ!源頼義!蝦夷の実力を思い知らせてやる!

安倍貞任は、源頼義を返り討ちにするため、兵4000を衣川の屋敷に集結させるのでした。(写真⑪)

5.おわりに

安倍氏を討伐する理由が、税を納めるのが滞っているでは、何か本当に言掛りっぽいですね。

ちょっと思い出したのですが、ずーっと後の時代、豊臣家大阪城を滅ぼすときの、徳川家康の言掛り的理由「国家安康」。
⑪衣川柵にある安倍氏屋敷跡
「屋敷跡」の木碑は根腐れしており
手で支えないと倒れてしまう(笑)
この時、屁理屈付けてでも滅ぼさなければならない真の理由は、大阪城に眠る大量の金。これを徳川家が恐れたのでしょう。

結局、これと同じで、朝廷軍によるこの討伐や、遡って8世紀の蝦夷征伐、もっと言えば、12世紀の源頼朝による奥州征伐、16世紀の秀吉軍による奥州仕置等、東北地方に対する国家権力の態度の裏には、金の産出、毛皮、海産物等の物産で潤う蝦夷の力に対する恐れがあったのかも知れません。

長文お読み頂き、ありがとうございました。


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