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荒木村重⑥ ~道糞から道薫へ~

信長に謀反を起した荒木村重が、黒田官兵衛を有岡城の牢に幽閉して約1年弱が経ちました。

その間、最初は荒木村重に味方した高山右近や中川清秀らは信長側に翻意。仕方なく摂津国の中で一人孤立した形で信長に対する謀反を続ける村重。

有岡城、尼崎城、花隈城の3城で粘り強く信長に対抗し、毛利水軍の到来を待ちますが、信長(九鬼)水軍の鉄甲船の活躍等で、徐々に敗色が強くなってきます。

①花隈城跡
そして村重は有岡城を脱出、単身尼崎城に逃避したことで、有岡城の防衛戦は将士に限らず妻子も含め悲惨な状況になっていきます。(前回のブログ参照

しかし、村重は信長へ降参し、自らが切腹する等の武将らしい行動はとらず、尼崎城も抜け出し、最後はこの3つの城の中で一番毛利領に近い城・花隈城に逃げ込みます。(写真①

今回は、この続きですが、この「荒木村重」シリーズの最終回となります。お付き合いください。

1.池田恒興(つねおき)

さて、この花隈城を攻めるのは、信長の若き頃からの側近、池田恒興です。(写真④

後に、姫路城を今ある美しい姿に改築した城主として有名な池田輝政(てるまさ)は、この恒興の息子です。

この息子・輝政が、花隈城の東側、神戸の生田神社の森に布陣。そして恒興らは花隈城の北、ちょうど六甲山の麓にあたる諏訪山に布陣し、花隈城への攻撃準備をしていました。(図②

②花隈城の戦い布陣図

荒木村重軍は、神戸に古くからある由緒正しい生田神社が占拠されていることに腹を立てたのでしょう。1580年3月2日、花隈城を出て、生田神社の森の池田輝政軍に攻撃を仕掛けます。

するとこの攻撃を神戸が一望できる諏訪山から見ていた池田恒興は、手薄になった花隈城へ攻撃をするのです。(図②写真③

③諏訪山から花隈城方面の景色
※当時は神戸中心街のビルは無かったので、
花隈城の様子は良く見えたのでしょう。

この戦い、かなりの乱戦になり、総大将である池田恒興自身も5,6名、荒木軍の兵士を討ち取る自体になったようです。

池田軍の奮戦も空しく、この日の戦では勝敗の決着はつきませんでした。

最終的に、この戦の4か月後に恒興らが、力押しに押すことにより、花隈城は開城せざるを得なくなるのです。

荒木村重は、自領の最後の城・花隈城も捨てて、更に西に逃げ、毛利氏のところへ転がり込みました。

それからしばらくは、村重の消息は不明となってしまいます。

流石に村重は総大将なのですから、この最後の砦である花隈城が開城になるに辺り、切腹の1つもすれば、後々の彼への評価も変わってきたのかもしれません。

ところが、やはり彼が選んだのは、毛利氏への亡命。自分の妻や親族、全部殺されても自分は生き残る。

この辺りが、「武将としてどうよ?」という疑問符が湧く方が多いように思われます。

ただ、どうでしょう?もし現代の我々がこの時代の彼の立場になった時、彼の気持ちが分からないと本気で言える人ってどれくらいいるのでしょうか?

④池田恒興

戦国ものが好きだ!という人は多いです。食うか食われるか、殺さなければ殺される。白黒はっきりしている。そういう死生観で生きているからこそ、凄まじいドラマが繰り広げられる。それが戦国時代の醍醐味のように感じられる。それは結構な事ですが、やはり同じ人間、たかだか数百年では変わらない本質的な部分はあると思います。

悔しい思い、死ぬに死ねない執着、これらを人間・荒木村重が持っていても、少なくとも当事者ではない私は、彼を非難することができないなあと強く感じます。

2.黒田長政

さて、有岡城が開城した時、牢に幽閉されていた黒田官兵衛はどうなったのでしょうか。

彼は、1年間も監禁されたため、足腰が相当弱っていましたが、信長方の武将・滝川一益(かずます)らによって救出されました。

彼が幽閉から救出されたという知らせを聞いて、救出されたことを喜ぶと同時に、「これはヤバい!」と感じた武将がいます。そう織田信長です。彼は「黒田官兵衛が村重側に寝返ったようだ」との噂を信じてしまったこと。更に、それに伴い、官兵衛の嫡子を竹中半兵衛に命を下し、殺してしまったこと。この2つについて苦悩しました。今までも彼は沢山の人を処断していますが、見誤ったことは無く、今回の見誤りは、全軍に対する将としての信頼を著しく失墜するものとなります。また、官兵衛の嫡子を殺したことは、この猜疑心が一時的な怒りの感情にまかせたためでもあることを思うと、官兵衛に合わせる顔もありません。

ただ、信長が凄いのは、過去のことには囚われない、常に未来にある困難に立ち向かうことのみが彼の関心事であるということへの切り替えです。

「是非に及ばず。よし、官兵衛に会おうぞ!」

1人での歩行もままならない官兵衛でしたが、官兵衛を救出した滝川一益らの兵士らに担架に乗せられ、信長の前に現れるのです。
しゃべることも困難な官兵衛ではありましたが、それでも今回の次第を信長に詫びようと懸命に口上します。信長はそれを遮り

「いや、詫びは、この信長が言いたい。今回の件は信長が誤った。ゆるせ、官兵衛。」
「既に聞き及びであろうが、質子(人質として預かった子)の御嫡男については、信長の誤解で既に亡き者としてしまった。これには申し開きの言葉もない。官兵衛。すまぬ。」

⑤大河ドラマ『軍師官兵衛』の信長(手前)
と官兵衛(奥)の再会場面
(右の竹中直人は秀吉)

と述べると、官兵衛は眼差しをしっかりと信長に向け、静かに話しはじめます。

「我が愚息の件は、これも天下静謐に向かうために支えとなった1つの小さな組石だったと思い、既に得心しております。」

と言いつつ、目に大粒の涙を溜めているのが信長には分かります。

その時です。

「大殿、どうしてももう1人、この場で引き合わせたい者がおります!」
と大声で言いながら、この場に、子供を連れて入ってきたのは羽柴秀吉です。(写真⑤

その子を見た瞬間、官兵衛も信長も同時に「あっ!」と声を上げます。

◆ ◇ ◆ ◇

そう、秀吉が連れていた子は斬られたはずの官兵衛の嫡男だったのです。

「な、なんと・・・」
「大殿、驚かれましたかな。半兵衛(竹中半兵衛)のやつ、この状況を予測しておりました。そして私に大殿には良く謝っておいて欲しいと言い残しました。」

「半兵衛は斬ったのではなかったのか?確かに幼子の首がわしに届いたぞ」

「半兵衛が大殿に送った首は、溺死した半兵衛の領内の子供です。親御さんに了解を得て処置したものでございます。半兵衛はその時、言っておりました。大殿は村重をはじめ、本願寺や毛利、武田勝頼等の包囲網で気が立っておられるのだ。大殿のこと、きっとこの包囲網を崩した時には気が付くはず。黒田官兵衛は大殿を裏切るような漢(おとこ)ではないと。」

それを聞いた官兵衛は、ハッとなり、秀吉に問いかけます。
「竹中半兵衛殿は今いずこに?」

「半兵衛殿は半年前に、持病が悪化し、三木城包囲作戦中に倒れ、残念ながら亡くなったのじゃ。」

「おお!」

⑥黒田官兵衛が竹中半兵衛から
引き継いだ家紋「石餅」

官兵衛は息子が生きていたことの嬉しさ、その反対に自分を完全に信頼してくれた半兵衛の死、死ぬであろうと思っていた自分が寸でのところで救出されたこと等、あまりに翻弄される運命の波に耐えがたいものを感じ、とうとう大粒の涙を流します。

また、信長も竹中半兵衛の人を見抜く力、信頼する力に感服せざるを得なかったのです。

「死者にはねぎらいの言葉も届かぬか。良くやった、半兵衛。。。」

事態がまだよく分からない官兵衛の嫡子は、父が生きていたというだけで、嬉しくてしょうがないという笑顔を湛えていました。

この子が後に、「西海道に黒田あり!」と言われる猛将・智将の黒田長政になるのです。

黒田官兵衛は、この時、信長によって1万石の石持(こくもち)に格上げされるのですが、黒田家の家紋として「石餅」(こくもち、「黒餅」とも書きます)を使います。洒落のようにも聞こえますが、実はこの家紋、非常に恩義のある竹中半兵衛の家紋を引き継いだと言われています。(図⑥

3.道糞

花隈城も捨てて、更に西の毛利領へ逃げた村重はどうなったのでしょうか?

⑦唐草文染付茶碗『荒木』
高麗茶碗(徳川美術館蔵)

次に村重が、史上に現れるのは信長が本能寺の変で亡くなった後です。武将時代から嗜んでいた茶の道を堺の町で究めようとします。

当初、彼は自分の名乗りを「道糞」としました。自分が「道端の糞」のような汚いもの、役に立たないものの自虐的な意を込めたのです。今までの自分の生き方に対するやさぐれ感が思いっきり現れている名乗りです。

村重の持つ茶器と信長謀反との関係について、以下のような説もあるくらいですから、自虐的、ヤケクソ的な感情を持つ村重の気持ちも分からないでもありません。

荒木村重は「荒木高麗」という名物茶器を所有していることで有名でした。(写真⑦

現在の価値で1.5億円は下らないというモノですが、名物茶器に目が無いことで有名な信長、「荒木高麗」を差し出せば帰参を許すと、謀反を起こし有岡城に立て籠もる村重に通達します。

ところが、ご存知の通り、村重はこれを拒否。「荒木高麗」を持って尼崎城に単身逃げてしまうのです。

殿は家臣や家族・親族よりも「荒木高麗」の方が大事なのか。

口さが無い人たちは言います。茶人として命がけで「荒木高麗」を守ったみたいなことまで言う人もいたのでしょう。

⑧道薫宛黒田官兵衛書状写

これは、やさぐれますね。まあこの話は大袈裟だとしても、村重が堺に来た当初、「あいつは自分や自分の持ち物(茶器)ばかり大事にし、妻子に至るまで仲間を大事にしない奴だ。人の上に立つ器ではなかったのだ。」と陰口をたたかれたことは想像に難くないと思います。

そんな村重こと道糞の心を茶の道によって解きほぐしてくれたのが千利休です。利休は秀吉の許可を貰い、道糞改め「道薫」、つまり(茶の)道を、村重を通し「薫る」ようになってもらいたいという、音は似ていながら、きわめて前向きな名乗りに改めさせます。

そして秀吉の側近(茶坊主)の一人として働かせ、利休十哲(じってつ、利休の高弟子)のレベルまで村重を高めるのです。

素晴らしいV字復活。秀吉の側近として活躍していた村重、黒田官兵衛とも一緒に仕事をする様子が分かる書状が残っています。(写真⑧

4.おわりに

➈村重の墓(墨染寺)
ただ、やはり信長の謀反に対する村重のトラウマは、なかなか消えなかったようです。

特にこの戦いで、村重はキリシタンを目の敵にするようになりました。黒田官兵衛や高山右近らキリシタン大名の自分に対する行動や、妻・おだしさんの行動、なんとなく荒木村重も一時はこれらの人々に感化されていたような気がしますが、多分自分の失敗を中途半端に感化されたキリスト教にあると見なしたのではないでしょうか?

キリシタンである黒田官兵衛もすぐに斬らず牢に入れて生かした、高山右近の人質も結局斬らずに生かしておいた等、謀反の初期にはキリシタンに対する村重の寛容な行動が目立ちます。

しかし、聖書は「すべての権威は神によって与えられたものであるから、(自分の)上に立つ権威に対しては従うべき」と教えています。この考え方からすれば、やはり村重の取った謀反という行動は間違っていたとなる訳で、キリシタンの誰が何を言ったかは分かりませんが、本質的にキリシタンと相容れないと判断したのでしょう。

なので、秀吉の覚えも良くなってきたタイミングで、高山右近や小西行長を讒訴しますが、これが秀吉の勘気に触り、秀吉から遠ざけられてしまいます。

やはり、過去を反省し心を入れ替えたからこそ、側近にて働かせてもらえた村重には、まだくすぶるものがあり、完全には反省していないと秀吉は悟ったのでしょう。

更に悪いことに、秀吉が出陣で居ない間に、村重が秀吉の悪口を話すのを北政所(きたのまんどころ、秀吉の正室)が聞きつけたのです。処刑を恐れた村重は、またもや逃亡します。

そして1586年、堺でひっそりと死去します。享年52歳。位牌は堺の南宗寺にあるようですが、お墓は墨染寺という伊丹市にあるようです。(写真➈

⑩尼崎城に来た村重が懇意の
武将へ援軍要請を記した書状

いかがですか。荒木村重。平成16年11月20日に伊丹市立博物館所蔵の資料から村重は尼崎城に単身来たのも、逃亡のためではなく、反撃の機会を狙ったものであるとの証拠の書状が発見されました。(写真⑩

雑賀衆の援軍を得て反撃をうかがう切迫した心境がつづられています。

徐々に見直される荒木村重の人物像ですが、私が見るところ、村重も自己保身が強い人物というよりは、やさしい武将だったのでは?ただ、中途半端なやさしさは、誤解を生みやすいですよね。そんな気がします。ある意味、現代の社会で生きる我々には共感しやすい人物ではないでしょうか?

当初、信長にその胆力を買われて、摂津国の統治を任される程の逸材が、少々残念なイメージで終わってしまいますが、人としての生き方に優劣はありません。そういった意味では村重自身の生き方にも参考になる事は沢山あると思います。

昨今は石田三成や明智光秀等、過去戦国時代の問題児とされた武将たちの人間性も吟味される時代です。村重についても、まだまだ調べれば出てくると思いますので、今後の村重の武将像に期待し、このシリーズの筆を置きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

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