マイナー・史跡巡り: #荒木村重 -->
ラベル #荒木村重 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル #荒木村重 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

火曜日

荒木村重⑥ ~道糞から道薫へ~

信長に謀反を起した荒木村重が、黒田官兵衛を有岡城の牢に幽閉して約1年弱が経ちました。

その間、最初は荒木村重に味方した高山右近や中川清秀らは信長側に翻意。仕方なく摂津国の中で一人孤立した形で信長に対する謀反を続ける村重。

有岡城、尼崎城、花隈城の3城で粘り強く信長に対抗し、毛利水軍の到来を待ちますが、信長(九鬼)水軍の鉄甲船の活躍等で、徐々に敗色が強くなってきます。

①花隈城跡
そして村重は有岡城を脱出、単身尼崎城に逃避したことで、有岡城の防衛戦は将士に限らず妻子も含め悲惨な状況になっていきます。(前回のブログ参照

しかし、村重は信長へ降参し、自らが切腹する等の武将らしい行動はとらず、尼崎城も抜け出し、最後はこの3つの城の中で一番毛利領に近い城・花隈城に逃げ込みます。(写真①

今回は、この続きですが、この「荒木村重」シリーズの最終回となります。お付き合いください。

1.池田恒興(つねおき)

さて、この花隈城を攻めるのは、信長の若き頃からの側近、池田恒興です。(写真④

後に、姫路城を今ある美しい姿に改築した城主として有名な池田輝政(てるまさ)は、この恒興の息子です。

この息子・輝政が、花隈城の東側、神戸の生田神社の森に布陣。そして恒興らは花隈城の北、ちょうど六甲山の麓にあたる諏訪山に布陣し、花隈城への攻撃準備をしていました。(図②

②花隈城の戦い布陣図

荒木村重軍は、神戸に古くからある由緒正しい生田神社が占拠されていることに腹を立てたのでしょう。1580年3月2日、花隈城を出て、生田神社の森の池田輝政軍に攻撃を仕掛けます。

するとこの攻撃を神戸が一望できる諏訪山から見ていた池田恒興は、手薄になった花隈城へ攻撃をするのです。(図②写真③

③諏訪山から花隈城方面の景色
※当時は神戸中心街のビルは無かったので、
花隈城の様子は良く見えたのでしょう。

この戦い、かなりの乱戦になり、総大将である池田恒興自身も5,6名、荒木軍の兵士を討ち取る自体になったようです。

池田軍の奮戦も空しく、この日の戦では勝敗の決着はつきませんでした。

最終的に、この戦の4か月後に恒興らが、力押しに押すことにより、花隈城は開城せざるを得なくなるのです。

荒木村重は、自領の最後の城・花隈城も捨てて、更に西に逃げ、毛利氏のところへ転がり込みました。

それからしばらくは、村重の消息は不明となってしまいます。

流石に村重は総大将なのですから、この最後の砦である花隈城が開城になるに辺り、切腹の1つもすれば、後々の彼への評価も変わってきたのかもしれません。

ところが、やはり彼が選んだのは、毛利氏への亡命。自分の妻や親族、全部殺されても自分は生き残る。

この辺りが、「武将としてどうよ?」という疑問符が湧く方が多いように思われます。

ただ、どうでしょう?もし現代の我々がこの時代の彼の立場になった時、彼の気持ちが分からないと本気で言える人ってどれくらいいるのでしょうか?

④池田恒興

戦国ものが好きだ!という人は多いです。食うか食われるか、殺さなければ殺される。白黒はっきりしている。そういう死生観で生きているからこそ、凄まじいドラマが繰り広げられる。それが戦国時代の醍醐味のように感じられる。それは結構な事ですが、やはり同じ人間、たかだか数百年では変わらない本質的な部分はあると思います。

悔しい思い、死ぬに死ねない執着、これらを人間・荒木村重が持っていても、少なくとも当事者ではない私は、彼を非難することができないなあと強く感じます。

2.黒田長政

さて、有岡城が開城した時、牢に幽閉されていた黒田官兵衛はどうなったのでしょうか。

彼は、1年間も監禁されたため、足腰が相当弱っていましたが、信長方の武将・滝川一益(かずます)らによって救出されました。

彼が幽閉から救出されたという知らせを聞いて、救出されたことを喜ぶと同時に、「これはヤバい!」と感じた武将がいます。そう織田信長です。彼は「黒田官兵衛が村重側に寝返ったようだ」との噂を信じてしまったこと。更に、それに伴い、官兵衛の嫡子を竹中半兵衛に命を下し、殺してしまったこと。この2つについて苦悩しました。今までも彼は沢山の人を処断していますが、見誤ったことは無く、今回の見誤りは、全軍に対する将としての信頼を著しく失墜するものとなります。また、官兵衛の嫡子を殺したことは、この猜疑心が一時的な怒りの感情にまかせたためでもあることを思うと、官兵衛に合わせる顔もありません。

ただ、信長が凄いのは、過去のことには囚われない、常に未来にある困難に立ち向かうことのみが彼の関心事であるということへの切り替えです。

「是非に及ばず。よし、官兵衛に会おうぞ!」

1人での歩行もままならない官兵衛でしたが、官兵衛を救出した滝川一益らの兵士らに担架に乗せられ、信長の前に現れるのです。
しゃべることも困難な官兵衛ではありましたが、それでも今回の次第を信長に詫びようと懸命に口上します。信長はそれを遮り

「いや、詫びは、この信長が言いたい。今回の件は信長が誤った。ゆるせ、官兵衛。」
「既に聞き及びであろうが、質子(人質として預かった子)の御嫡男については、信長の誤解で既に亡き者としてしまった。これには申し開きの言葉もない。官兵衛。すまぬ。」

⑤大河ドラマ『軍師官兵衛』の信長(手前)
と官兵衛(奥)の再会場面
(右の竹中直人は秀吉)

と述べると、官兵衛は眼差しをしっかりと信長に向け、静かに話しはじめます。

「我が愚息の件は、これも天下静謐に向かうために支えとなった1つの小さな組石だったと思い、既に得心しております。」

と言いつつ、目に大粒の涙を溜めているのが信長には分かります。

その時です。

「大殿、どうしてももう1人、この場で引き合わせたい者がおります!」
と大声で言いながら、この場に、子供を連れて入ってきたのは羽柴秀吉です。(写真⑤

その子を見た瞬間、官兵衛も信長も同時に「あっ!」と声を上げます。

◆ ◇ ◆ ◇

そう、秀吉が連れていた子は斬られたはずの官兵衛の嫡男だったのです。

「な、なんと・・・」
「大殿、驚かれましたかな。半兵衛(竹中半兵衛)のやつ、この状況を予測しておりました。そして私に大殿には良く謝っておいて欲しいと言い残しました。」

「半兵衛は斬ったのではなかったのか?確かに幼子の首がわしに届いたぞ」

「半兵衛が大殿に送った首は、溺死した半兵衛の領内の子供です。親御さんに了解を得て処置したものでございます。半兵衛はその時、言っておりました。大殿は村重をはじめ、本願寺や毛利、武田勝頼等の包囲網で気が立っておられるのだ。大殿のこと、きっとこの包囲網を崩した時には気が付くはず。黒田官兵衛は大殿を裏切るような漢(おとこ)ではないと。」

それを聞いた官兵衛は、ハッとなり、秀吉に問いかけます。
「竹中半兵衛殿は今いずこに?」

「半兵衛殿は半年前に、持病が悪化し、三木城包囲作戦中に倒れ、残念ながら亡くなったのじゃ。」

「おお!」

⑥黒田官兵衛が竹中半兵衛から
引き継いだ家紋「石餅」

官兵衛は息子が生きていたことの嬉しさ、その反対に自分を完全に信頼してくれた半兵衛の死、死ぬであろうと思っていた自分が寸でのところで救出されたこと等、あまりに翻弄される運命の波に耐えがたいものを感じ、とうとう大粒の涙を流します。

また、信長も竹中半兵衛の人を見抜く力、信頼する力に感服せざるを得なかったのです。

「死者にはねぎらいの言葉も届かぬか。良くやった、半兵衛。。。」

事態がまだよく分からない官兵衛の嫡子は、父が生きていたというだけで、嬉しくてしょうがないという笑顔を湛えていました。

この子が後に、「西海道に黒田あり!」と言われる猛将・智将の黒田長政になるのです。

黒田官兵衛は、この時、信長によって1万石の石持(こくもち)に格上げされるのですが、黒田家の家紋として「石餅」(こくもち、「黒餅」とも書きます)を使います。洒落のようにも聞こえますが、実はこの家紋、非常に恩義のある竹中半兵衛の家紋を引き継いだと言われています。(図⑥

3.道糞

花隈城も捨てて、更に西の毛利領へ逃げた村重はどうなったのでしょうか?

⑦唐草文染付茶碗『荒木』
高麗茶碗(徳川美術館蔵)

次に村重が、史上に現れるのは信長が本能寺の変で亡くなった後です。武将時代から嗜んでいた茶の道を堺の町で究めようとします。

当初、彼は自分の名乗りを「道糞」としました。自分が「道端の糞」のような汚いもの、役に立たないものの自虐的な意を込めたのです。今までの自分の生き方に対するやさぐれ感が思いっきり現れている名乗りです。

村重の持つ茶器と信長謀反との関係について、以下のような説もあるくらいですから、自虐的、ヤケクソ的な感情を持つ村重の気持ちも分からないでもありません。

荒木村重は「荒木高麗」という名物茶器を所有していることで有名でした。(写真⑦

現在の価値で1.5億円は下らないというモノですが、名物茶器に目が無いことで有名な信長、「荒木高麗」を差し出せば帰参を許すと、謀反を起こし有岡城に立て籠もる村重に通達します。

ところが、ご存知の通り、村重はこれを拒否。「荒木高麗」を持って尼崎城に単身逃げてしまうのです。

殿は家臣や家族・親族よりも「荒木高麗」の方が大事なのか。

口さが無い人たちは言います。茶人として命がけで「荒木高麗」を守ったみたいなことまで言う人もいたのでしょう。

⑧道薫宛黒田官兵衛書状写

これは、やさぐれますね。まあこの話は大袈裟だとしても、村重が堺に来た当初、「あいつは自分や自分の持ち物(茶器)ばかり大事にし、妻子に至るまで仲間を大事にしない奴だ。人の上に立つ器ではなかったのだ。」と陰口をたたかれたことは想像に難くないと思います。

そんな村重こと道糞の心を茶の道によって解きほぐしてくれたのが千利休です。利休は秀吉の許可を貰い、道糞改め「道薫」、つまり(茶の)道を、村重を通し「薫る」ようになってもらいたいという、音は似ていながら、きわめて前向きな名乗りに改めさせます。

そして秀吉の側近(茶坊主)の一人として働かせ、利休十哲(じってつ、利休の高弟子)のレベルまで村重を高めるのです。

素晴らしいV字復活。秀吉の側近として活躍していた村重、黒田官兵衛とも一緒に仕事をする様子が分かる書状が残っています。(写真⑧

4.おわりに

➈村重の墓(墨染寺)
ただ、やはり信長の謀反に対する村重のトラウマは、なかなか消えなかったようです。

特にこの戦いで、村重はキリシタンを目の敵にするようになりました。黒田官兵衛や高山右近らキリシタン大名の自分に対する行動や、妻・おだしさんの行動、なんとなく荒木村重も一時はこれらの人々に感化されていたような気がしますが、多分自分の失敗を中途半端に感化されたキリスト教にあると見なしたのではないでしょうか?

キリシタンである黒田官兵衛もすぐに斬らず牢に入れて生かした、高山右近の人質も結局斬らずに生かしておいた等、謀反の初期にはキリシタンに対する村重の寛容な行動が目立ちます。

しかし、聖書は「すべての権威は神によって与えられたものであるから、(自分の)上に立つ権威に対しては従うべき」と教えています。この考え方からすれば、やはり村重の取った謀反という行動は間違っていたとなる訳で、キリシタンの誰が何を言ったかは分かりませんが、本質的にキリシタンと相容れないと判断したのでしょう。

なので、秀吉の覚えも良くなってきたタイミングで、高山右近や小西行長を讒訴しますが、これが秀吉の勘気に触り、秀吉から遠ざけられてしまいます。

やはり、過去を反省し心を入れ替えたからこそ、側近にて働かせてもらえた村重には、まだくすぶるものがあり、完全には反省していないと秀吉は悟ったのでしょう。

更に悪いことに、秀吉が出陣で居ない間に、村重が秀吉の悪口を話すのを北政所(きたのまんどころ、秀吉の正室)が聞きつけたのです。処刑を恐れた村重は、またもや逃亡します。

そして1586年、堺でひっそりと死去します。享年52歳。位牌は堺の南宗寺にあるようですが、お墓は墨染寺という伊丹市にあるようです。(写真➈

⑩尼崎城に来た村重が懇意の
武将へ援軍要請を記した書状

いかがですか。荒木村重。平成16年11月20日に伊丹市立博物館所蔵の資料から村重は尼崎城に単身来たのも、逃亡のためではなく、反撃の機会を狙ったものであるとの証拠の書状が発見されました。(写真⑩

雑賀衆の援軍を得て反撃をうかがう切迫した心境がつづられています。

徐々に見直される荒木村重の人物像ですが、私が見るところ、村重も自己保身が強い人物というよりは、やさしい武将だったのでは?ただ、中途半端なやさしさは、誤解を生みやすいですよね。そんな気がします。ある意味、現代の社会で生きる我々には共感しやすい人物ではないでしょうか?

当初、信長にその胆力を買われて、摂津国の統治を任される程の逸材が、少々残念なイメージで終わってしまいますが、人としての生き方に優劣はありません。そういった意味では村重自身の生き方にも参考になる事は沢山あると思います。

昨今は石田三成や明智光秀等、過去戦国時代の問題児とされた武将たちの人間性も吟味される時代です。村重についても、まだまだ調べれば出てくると思いますので、今後の村重の武将像に期待し、このシリーズの筆を置きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《執筆ブログ一覧はこちら》

【花隈城跡】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4
【南宗寺】〒590-0965 大阪府堺市堺区南旅篭町東3丁1−2
【墨染寺】〒664-0851 兵庫県伊丹市中央6丁目3−3


日曜日

荒木村重⑤ ~七松~

①有岡城礎石
前回は、有岡城で荒木村重が信長に謀反の狼煙を上げた直後、信長軍である九鬼嘉隆の鉄甲船が、毛利水軍を破り大勝した話を描きました。

一般的には鉄の船である九鬼水軍の大勝と伝えられているこの海戦。毛利水軍は、じつは大勝という名を九鬼水軍に渡して、石山本願寺への兵糧供給成功という実を取ったのです。

荒木村重は、この時、この戦況をどのように見ていたのでしょうか?

やはり、毛利輝元の大阪湾を含む制海権は、信長軍の水軍たる九鬼嘉隆が鉄甲船で多少武器の技術的優位に立っても、ゆるぎない強さを見せていると感じたのではないでしょうか?

さて、石山本願寺とも仲の良い荒木村重。反信長としてどのような立ち居振る舞いを以後見せてくれるのでしょうか?

1.有岡城内への幽閉

有岡城にて信長に謀反を起こす村重。この村重に信長への帰順を説得しようとして姫路の小寺氏の使いとして黒田官兵衛が有岡城へ現れる話を、このシリーズの①でしたのを覚えていますでしょうか?

そこから既に4シリーズ先が本ブログになっていますので、今一度、その話の復習をさせて頂ければと存じます。

◆ ◇ ◆ ◇

毛利水軍が信長方の九鬼水軍の鉄甲船と一戦交える約1か月前、信長に謀反を起こした荒木村重に一人の男が訪ねてきます。

黒田官兵衛です。

彼は姫路の主君・小寺政職(まさもと)から荒木村重への書状を手にし、村重の信長謀反の翻意を計ろうと、わざわざ姫路から出向いてきたという訳です。

主君・小寺からは、

書状には信長謀反の翻意を、小寺自らが心を込めて説得する内容を書いた。その書簡に加える形で、官兵衛、お前自身が村重を説得するのだ

②この有岡城のどこかに黒田官兵衛は幽閉された
と言われて、その言葉通り、村重に書状を渡し、翻意を促します。

その官兵衛をまじまじと見る村重。実は主君・小寺は嘘をつき、官兵衛を村重に売ったのです。

書状の中身には、信長謀反に対する翻意等これっぽっちも書かれていません。書いてあるのは、官兵衛が反信長への翻意を主張し続けてうるさいので、村重が幽閉でもしてくれれば、信長方は村重に黒田官兵衛まで付いたと勘違いし、戦意をくじくことができる という非情かつ狡猾なものでした。

小寺の書状を読み終わった村重は、この狡猾な主君を決して疑わない官兵衛に憐れみさえ感じます。しかし、ここはドライに書状の提案通り、官兵衛を有岡城の土牢に放り込みます。(写真②

2.竹中半兵衛の知恵

黒田官兵衛が有岡城へ荒木村重を説得に向かったが、失敗し村重側に寝返ったようだとの噂が信長方に広まるのに時間はかかりませんでした。

噂なのですが、信長はすぐに反応します。

「おのれ、官兵衛、裏切ったな!」

そして人質として安土城にて預かっていた黒田官兵衛の嫡子を殺すよう、その預け先である竹中半兵衛に命じます。

竹中半兵衛。この人も黒田官兵衛に負けず劣らずの頭脳派。後に秀吉の軍師として「二兵衛」(半兵衛・官兵衛)と並び称される程の人物です。(絵③

彼は黒田官兵衛を良く知っています。幾ら信長の命と云えども、絶対官兵衛は裏切っていないと確信しており、ここで官兵衛の嫡子を殺してしまい、後に官兵衛が裏切っていなかったら取り返しのつかない大恥をかくのは主君・信長になると考えるのです。

どうしたらよいのか?

流石の知恵者でも妙案は浮かびません。

ただ、神様は考えに考え抜いて本当の窮地に立った人には必ず助け船を出します。

官兵衛の嫡男と同い年の10歳前後の子供が川で溺死したという情報が竹中半兵衛の耳に入ります。

③竹中半兵衛
「溺死した子供にはかわいそうだが、官兵衛の嫡男の身代わりとなってもらおう。」

と半兵衛は考えます。悲しみに暮れる溺死した息子の両親に心から同情し、また事情を全て話し、役に立ってくれぬかと諭したところ、両親も「この子も、竹中さまのお役にたてるのであれば本望だと思います。」と泣きながらも快諾したのです。

◆ ◇ ◆ ◇

3日後、安土城に、人質である黒田官兵衛の息子のものとされる首が届けられます。

しかし、信長はそれどころではありません。
それは、まさにこの時、九鬼水軍の鉄甲船が毛利水軍を迎え討つ直前だったのです。

そのため首実験もそこそこに完了し、この問題はしばらくの間、信長は忘れたのです。

3.高山右近の葛藤

さてこのシリーズの第1作にも書きましたが、荒木村重の謀反は、高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀ら、摂津国の有力武将も一緒に信長を離反し、毛利・石山本願寺連合と協働することで、信長を破れると判断したものだったのです。

殊にこの当時、信長は石山本願寺を中心とした包囲網に、悩んでいる最中でした。

石山本願寺の一向宗の影響は強く、この少し前に鎮圧した伊勢長島一向一揆や、加賀一向一揆、三河一向一揆等、大規模な一揆が石山本願寺を中心としてあちこちで発生します。また全国の反信長軍が立ち上がり、信長としては少しでも敵を減らしたい状況だったのです。特に本願寺派は全国規模を誇る抵抗勢力なので早々に潰したいのです。

ここで摂津の武将、高槻城の高山右近・茨木城の中川清秀・有岡城の荒木村重らが、石山本願寺に近いことを利用して連合を組まれると、摂津の西側にいる巨大勢力である毛利氏とも手を組んでいる石山本願寺を潰すことは不可能に近くなってしまいます。(地図④

④信長に反旗を翻す摂津の武将並びに石山本願寺

なので信長は村重を含め、懸命な懐柔策をとります。

高山右近はキリシタンであることや、中川清秀は村重に対するライバル心があること 等を利用。信長が裏に手を廻し、この二人を翻意することに成功するのです。

じつは荒木村重も、この二人の翻意の少し前に翻意しかけて、わざわざ安土城へと足を運ぼうとします。

ところが、中川清秀が「信長は一度裏切ったものを赦さぬ性質(たち)だぞ!安土城に行けば殺される。止めておけ。こうなれば徹底的に毛利を当てにするしかない。」

と言われ、「それもそうだ」と得心したので、謀反継続となったのです。

中川清秀はどこまで本心だったのでしょうね?彼自身は翻意しているのですから。

◇ ◆ ◇ ◆

高山右近の翻意はかなりドラマチックです。

一応、信長はオルガンティノ等の宣教師を高山右近説得のために送り込みますが、右近は従順なキリシタンであるため、それらの説得だけで信長へ翻意したというよりは、聖書に則り、悩み、自己解決したと云った方が正しいかもしれません。

新約聖書の中で使徒パウロが書いた「ローマ人への手紙」13章1~2節に有名な御言葉があります。
⑤高槻城にある高山右近像

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」
「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めに背いているのです。背いた人は自分の身にさばきを招きます。」

右近は、熱心なキリシタンでしたから、まずこの言葉を肝に銘じていたはずです。なので彼は、信長に背いた荒木村重のところに行き、謀反の翻意を促します。

自分のこの翻意を促すことが如何に本気かを示すため、村重に自分の妹や息子まで人質として差し出すのです。

右近のこの熱心な説得に心を動かされた村重。一度は翻意します。

そして安土城へ向かう途中で、先に述べた中川清秀の説得にあい、翻意した決心も簡単に覆り、元の有岡城へと戻ってしまうのです。

高山右近は苦悩しました。信長と村重との間に戦が起きれば、村重に右近の誠実さを示すために人質とした最愛の妹や息子を殺される可能性がある。
かと言って、自分が村重側に味方し、信長を裏切ることはデウスの教えに反することになる。

既に高山家家中も真っ二つに割れて争議が絶えない状況なのです。

大いに葛藤した右近は、何日も礼拝堂へ入り祈りました。
そして10日後。

「信長公の御前に参る」と周囲に静かに言う右近。

◆ ◇ ◆ ◇

翻意後、はじめて安土城の信長の前に現れた右近は、剃髪し、紙装束だけの姿でした。
そして右近は信長に言います。

「私の所領は全て信長様に返上致します。」

流石の信長も驚くと同時にあきれ顔で右近を見つめます。

右近もじっと信長を見返します。右近からすれば、所領を信長へ返上することで、信長への恭順を示したのです。と、同時に右近が持つ兵力も放棄することにより、敵対する意思が無いことを村重に示すことで、村重が人質を殺す動機も無くなるだろうと考えたのです。

この読みが当たったのでしょうか?結果的に村重は右近からの人質を殺しませんでした。そして、信長も右近のこの潔さに感服したのか、所領を召し上げるどころか、摂津の一部を褒美に与えたのです。

悩みに悩み、祈りに祈り、最後は自分の信仰以外のすべての拘りを放棄することで、逆に右近は、自分の大事なものは何一つ棄損すること無く問題解決を図ることができたのです。

4.尼崎城

⑥尼崎城址碑
さて、期待していた高山右近、中川清秀らが離反したことで、積極的には信長に反撃できない荒木村重。

毛利水軍が、大軍を乗せた船団を尼崎の浜に横付けにして、有岡城を攻める信長軍の背後を突くことのみに一縷の望みを掛けます。

しかし、毛利水軍は一向に現れません。

やはり、九鬼水軍の鉄甲船が大阪湾の制海権を握っていたのです。
尼崎は大阪湾ですから、毛利水軍も近寄れない訳です。

1年近く経ちました。援軍をあきらめかけた村重は言います。

「有岡城から兵を打って出し、信長軍と戦っている間に城に籠る女・子供含めて退却させよう。それが上手くいかない時は、尼崎城と花隈城を信長に明け渡して、助命を嘆願しよう。」

となんともまあ煮え切らない言葉を家臣たちにする村重。具体的にどこに退却するのか。退却後の見通し等ははっきりせず、家臣たちも躊躇するばかり。

そんなこんなするうちの1579年9月2日、村重は自分だけ信長軍の有岡城包囲網から脱出し、尼崎城へ転がり込みます。(写真⑥

有岡城を守る家臣たちは、当然、なんじゃ、我々を見捨てて自分だけ生き残ろうと考えているのか!と村重を疑いはじめます。

ただ、村重も見捨てたという考えではないのです。実は今回の信長離反の最大の原動力は、この尼崎という港町なのです。
尼崎城から花隈城への海岸線沿いは、現在の神戸がそうであるように、当時も港町であり、堺のように交易により富があるので、自立志向が強いのです。

また信長がこういう交易都市を狙い、その利潤を巻き上げようとする武将であることを、この港町衆は、良く知っているからこそ、反信長の精神も強いのです。そのため、村重に対する突き上げも激しく、村重が信長を離反したのも、このことも一因であるとの説があります。

となると、村重としては尼崎城で、これら港町衆と直接話し合い、信長に投降する方法をソフトランディングさせたいと考えたのでしょう。

5.七松

とは云うものの、やはり尼崎を中心とする港町衆の、信長嫌いは、そう易々と変えられるものではありません。

そうこうするうちに、村重が留守をしていた有岡城と信長との間に以下の降伏条件が結ばれてしまいました。
⑦有岡城にある忠魂碑

「有岡城に加え、尼崎城、花隈城の3城を明け渡せば、諸将の妻子は助ける」

この報告を尼崎城で受け取った荒木村重。苦渋で顔が歪みます。港町衆がOKを出さないうちにそんな条件が飲めるわけがないのです。

しかし、有岡城の諸将の求心力は、村重が単身で有岡城を脱出したことにより低下し続けていました。

この降伏条件を伝えに来た有岡城代たちは、村重がこの条件が呑み込めないと分かると、顔色を変え、そのまま出奔します。妻子を有岡城に残したままです。

つまり、信長と村重の間でサンドイッチ状態、本当にどうしようも無いと感じたのでしょうが、妻子が殺されることが分かった上で遁走するとは。先の高山右近に比べると無責任にも感じますね。

◇ ◆ ◇ ◆

有岡城は最終的に指導者を失い、見捨てられた婦女子の悲嘆は激しく、監視の信長軍の兵士たちも余程不憫に感じたようです。

しかし、信長は村重らに見せしめにするため、村重の妻子・親族は京の六条河原にて処刑、他の者は、村重の立てこもる尼崎城近くの七松という場所で処刑と決まったのです。
⑧七松八幡神社にある
石碑

1579年12月13日、まず七松での処刑が行われました。
最初に武将の妻子122名が磔となったのです。有終の美で最期を迎えたいという思いからでしょうか。着飾った衣装で磔にされ、槍や長刀、鉄砲等で次々と殺される様は飾った分だけ陰惨さが強調されるのです。子を抱いた母親もいましたが、容赦なく殺されました。

信長公記には、この時のことを以下のように表現しています。

「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」(Wikipediaより)

信長を肯定する側にある信長公記ですら、このような陰惨な行為であることが書かれているのですから、相当恐ろしい情景だったのでしょうね。。

更に下っ端の武士の妻子や小者等、合わせて512人が4軒の家屋に押し込められるのです。そしてその家屋に火をつけられるのです。家屋の中で、火の手の方向が風により変わるたび、魚の群れのように走り、生きながら焼かれていった512人。

信長は時々こういう陰惨な殺し方をしますね。
現在、七松八幡神社には、ここで殺された人々のための石碑が建っています。(写真⑧

更に村重の妻子・親族等の36人が、京の市中引き回しの上、六条河原にて斬首されたのです。村重の妻・おだし様はクリスチャンだったという説もあります。
⑨村重の妻・おだし様の斬首
(大河ドラマ「軍師官兵衛」より)

2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」では、クリスチャンであるおだし様が、処刑される他の人を思いやりながらも、この六条河原で毅然とした様子で斬首される様子が描かれております。

実際に「信長公記」でも、そのような様子だったことが書かれています。

おだし様を演じた桐谷美玲さんが上手でしたね。(写真➈

この時の様子も「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」と立入左京という朝廷の側近が書き残しています。

6.村重を見捨てた毛利氏

「毛利水軍は何をしているのじゃ!」

と尼崎城で村重は怒鳴ったに違いありません。尼崎の港町衆と信長降伏へのソフトランディングを推し進める一方で、もうこの尼崎の浜に今日来るか、明日来るかと毛利水軍による援軍も期待していた村重。有岡城に立て籠もって信長に敵対すること1年。この間、全然援軍をよこさない毛利軍に対して怒りが爆発しても仕方がありません。

では、何故この時、毛利輝元は荒木村重に援軍を出さなかったのでしょうか?
色々な説があります。雀の涙ほどですが、少しは援軍を出していたようです。

⑩「三本の矢の教え」がいつも正しいとは限らない
毛利軍、本当は上洛の計画まであったようですね。信長の領土を挟んで毛利輝元とは反対側に版図を持つ、東の雄・武田勝頼と共謀し、勝頼が信長・家康軍を引き付けている間に上洛するという計画があったようです。勿論、上洛のお膳立ての一環として村重の謀反があり、どうやら当時の将軍・足利義昭も、絡んでいるようです。

ただ、やはり前述している信長側の九鬼水軍・鉄甲船による大阪湾の制海権が奪われたこと。宇喜多氏の動きが計算外だったこと。大友氏扇動による毛利家内部の動揺。etc・・・

一番の原因は、輝元の祖父の毛利元就が「三本の矢の教え」で結束を図ろうとしたことに、輝元が従順だったことにあります。

ご存じのように「三本の矢の教え」は、元就が三人の息子の結束を呼びかけ、協働することで毛利家の安泰を促す話ですが、この三兄弟、毛利家、吉川家、小早川家の三家となった訳です。

毛利輝元はこの祖父の教えを守り、小早川隆景のこれ以上の戦線拡大は危険であるとの諫言を聞き、上洛を止めてしまいました。

これで村重は見捨てられる状況になったのです。

◆ ◇ ◆ ◇

有岡城が落城したのですから、荒木村重は、もう港町衆とソフトランディングの話し合いは必要ありません。村重は尼崎城に居た嫡男・村次(むらつぐ)と一緒に、花隈城に逃げ込みます。(写真⑪)

この時、花隈城も織田信長が若き尾張の「うつけ」といわれていた頃より、一緒に破落戸(ごろつき)をやっていた池田恒興(つねおき)に攻められ、村重も港町衆と一緒に懸命に戦いますが落城。村重は毛利氏のところに亡命するのです。

この辺りとその後の荒木村重については、次回またお話させてください。
ご精読ありがとうございました。


>
 ⑪花隈城天守台からの景色(360°写真)

【有岡城跡】〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹1丁目12
【高槻城址】〒569-0075 大阪府高槻市城内町3−10
【尼崎城(大物城)址】〒660-0823 兵庫県尼崎市大物町2丁目7−6
【七松八幡神社】〒660-0052 兵庫県尼崎市七松町3丁目10−7
【花隈城址】〒650-0013 兵庫県神戸市中央区1 花隈町5−4

荒木村重④ ~九鬼水軍~

前回は、九鬼嘉隆らが7隻の鉄甲船を造船し、大阪湾の制海権を奪回すべく、まずは紀淡海峡にて雑賀水軍500隻を圧勝後、堺へ寄港するところまでを描きました。(ここをクリック)(絵①
①九鬼水軍・鉄甲船イメージ

そして荒木村重が有岡城で信長に反旗を翻してから4か月後の1578年11月、石山本願寺から兵糧を含む物資供給の要請を再び受けた毛利水軍は、大阪湾の木津川沖で警戒に当たる九鬼水軍に襲い掛かります。(絵②

今回はここからお話をしたいと思います。お付き合いください。

1.第二次木津川口海戦の謎

今回も前回と同様に600艘の水軍で毛利氏は大阪湾へ突入します。(絵②
前回の毛利水軍と違うのは、村上水軍がいない、若しくは影が薄いのです。

この時の戦の様子が、「信長公記」に以下の記述として残っています。

②石山本願寺に向かう木津川口6か所を
鉄甲船で夫々守った?(古地図上に追画)
紺:九鬼水軍
緑:毛利水軍
「敵船を間近く寄せ付け、大将軍の舟と覚しきを、大鉄炮を以て打ち崩し 侯へば、是れに恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上、見物の者ども、九鬼右馬允手柄なりと、感ぜぬはなかりけり」

《意訳》
毛利水軍の舟をなるべく鉄甲船の近くまで引き付けて、(船団の行動を差配している)敵将が乗っていると思われる舟を、大筒(大砲)を持って打ち壊した。すると毛利水軍は鉄甲船に恐れをなして中々寄り付かず、数百艘が鉄甲船により、木津浦へ追い上げられていった。
この戦を見ていた人々は九鬼嘉隆の手柄と(その鮮やかな手腕)に感動しない者は居なかった。

まあ、当然と言えば当然なのでしょうが、九鬼水軍の鉄甲船の大勝利といったところでしょうか?

ただ、「信長公記」は当然信長寄りの記録となっていますので、大勝利と断定するのも信長軍側の見方ではあります。

一方、この海戦について、実は毛利水軍の勝利と見る説も浮上してきています。

石山本願寺側の武将、下間頼廉(しもつま らいれん)書状に

「諸警固一昨日六日至木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」

という記述があります。訳すと「この11月6日に木津浦に着岸できた。当寺(石山本願寺)はこのことを大いに慶(よろこ)んだ」ということなのです。

どういうことでしょうか?

どうやら、毛利水軍が当初企図した通り、兵糧等の石山本願寺への舟による供給は成功したようなのです。この辺り、色々な史料にちょっとずつしか書かれていないため、諸説紛々なのですが、以下のように想定をまとめてみました。

2.考える毛利輝元
③毛利輝元

時を、鉄甲船が雑賀水軍500隻を圧勝後、堺へ寄港している時まで戻します。

堺に停泊中の7隻の鉄甲船の噂は、瞬く間に近畿一帯に広がります。

「おいっ、鉄でできた船やそうや!」
「どないして鉄が海に浮かぶんかの?」
「よう分からん。えらい頑丈やさかい、鉄砲や矢を弾くんやて!」

これを謀反を起こしたばかりの荒木村重が放っておく訳がありません。

鉄甲船に係わる情報は、信長から鞍替えした毛利への良い手土産となります。尼崎から堺は半日もあれば着く距離です。

彼は堺へ探索方を出します。そして鉄甲船を一般公開している時に、詳細に観察した報告を安芸の毛利水軍に提供するのです。

船の大きさ、装置、雑賀水軍を打ち破った戦い方等、堺で仕入れた情報を毛利輝元へとシェアします。(絵③

◆ ◇ ◆ ◇

一方、石山本願寺ですが、雑賀水軍が負けたことで大阪湾の制海権が九鬼水軍に戻ってしまい、またもや兵糧搬入の危機に立たされるのではないかとの危惧が募ります。

石山本願寺住職・顕如は直ぐに毛利家当主・輝元のところへ使いを送り、兵糧搬入と、大阪湾の制海権再奪取を依頼します。(絵③

うーむ!

これらの情報を基に毛利輝元は考えます。

正直彼にとって鉄の船だの、大筒を持って木端微塵にするなどは大した話ではないのです。むしろ、それほどまでに金を投入して信長が欲しい大阪湾の制海権とはなんなのだろうか?

荒木村重をはじめとする摂津の国人たちの謀反。信長が制海権など握っても摂津国が離反すれば、石山本願寺に陸路からでも兵糧どころか兵も毛利や荒木村重から送ることができる。荒木村重支配下の尼崎城から石山本願寺は目と鼻の先。村重もまだ信長に離反したばかりで、国内の体制を固めるのに忙しく、直ぐには石山本願寺と連携して信長を挟撃するほどの余裕はないのだろう。

とすれば今、喫緊の課題である石山本願寺の兵糧欠乏さえ解消できれば、村重が立ち上がってくるので、大阪湾の制海権を持つか持たぬか等大した問題ではない。新しいもの、南蛮もの好きな信長の虚栄心を満たす大きな鉄甲船等、まともに相手にする方が損だ。あくまで今回の毛利水軍出動は石山本願寺への兵糧供給に目的を絞ろう と。

3.第2次木津川口海戦の詳細(想定)

④第2次木津川口海戦 開始時
安芸(現在の広島)を出航した毛利水軍の600艘の舟、前回と違うのは安宅船等比較的大きな船を持つ村上水軍に支援を頼まなかったこと、これにより比較的小さな、しかしながら小回りの利く舟で、毛利水軍の制海権の境目である明石海峡を越えて、九鬼水軍の守る大阪湾へ入ります。

600艘は3つの船団に分けてあります。(図④参照

11月6日朝8時頃、この日の大阪湾は朝霧が立ち込めています。前回は明石海峡を通過する時点で荒木村重の花隈城からの「敵襲!」を知らせる狼煙があがったのですが、今回は既に荒木村重は信長を裏切っていますので、なんら連絡はありません。

木津川口を守る鉄甲船の目の前に、朝霧の中から毛利水軍が急に出現するのです。まだ船団の全容もつかめないまま、九鬼水軍は威嚇射撃を始めます。(図④

距離があるので、大筒による砲撃は大部分水面に落下します。毛利水軍にもっと近づいて砲撃しようと7隻の鉄甲船が前進し出した途端、毛利水軍の第1陣は大阪湾を南下し始めます。

「すわ!堺を攻撃するつもりか!」

と九鬼水軍は鉄甲船を全力で漕ぎ毛利水軍の第1陣の後を追います。船体が小さな毛利水軍と違い、図体のデカい鉄甲船は初動が遅いため毛利水軍から引き離されていくのです。

⑤第2次木津川口海戦 後半戦
これは不味いとばかりにガレ―船のように懸命に漕ぐ九鬼水軍。

ところが、先に南下を始めた毛利水軍の第1陣は途中で舟先を反転し、東西に鶴翼のように広がります。九鬼水軍は重い船ですから、毛利水軍のように急には止まれず、毛利水軍第1陣の懐深くに入って行きます。(図⑤

そして、九鬼水軍のすぐ後ろから毛利水軍の第2陣が追い付いてきます。

九鬼水軍は毛利水軍の第1、第2陣の400艘に囲まれ、その囲みの中で接近戦を繰り広げるのです。(図⑤

接近戦なら鉄甲船の思いのままとばかりに、得意の大筒を至近距離から毛利水軍の軽い舟に打ち込み、次々と木端微塵にしていきます。

毛利水軍も火矢や焙烙玉で応戦しますが、流石、金を掛けただけの鉄甲船、そんなものでは到底歯が立ちません。ただ、舟数では圧倒的に多い毛利水軍、木端微塵にされる舟が続出するも、果敢に舟を鉄甲船に寄せようとします。

さて、この九鬼水軍を木津川の南沖で毛利水軍の第1,2陣が囲っている間に、毛利水軍の第3陣がさっさと木津川口から木津浦伝いに石山本願寺へ兵糧供給を行います。

第1、2陣には兵糧は殆ど積んでおらず、朝霧に紛れて九鬼水軍に戦いを挑んでいる間、兵糧を沢山積んだ毛利水軍第3陣が木津川口から石山本願寺へ兵糧を運ぶ、そういう作戦だったのかもしれません。(図⑤

ただ、やはり鉄甲船は攻守能力に関しては毛利水軍の舟のはるかに上であることは間違いありません。

その日の午後までに毛利水軍、第1陣・第2陣の400艘は退却します。ただ、これは「信長公記」のいうところの「是れ(大筒)に恐れて、中中寄り付かず、数百艘を木津浦へ追上」だったというより、鉄甲船を引き付けて置いて、兵糧を運ぶ舟の邪魔をさせないための作戦だったかもしれません。

ただ、大阪湾の制海権は、その後も九鬼水軍が握り続けます。

⑥九鬼嘉隆
毛利輝元は、もっと勢力を増すであろう荒木村重ら摂津国の反信長勢力に期待したのでしょう。そうすれば大阪湾の制海権を奪い返さなくても、石山本願寺は尼崎城の目と鼻の先。陸伝いで兵糧の支援等できると踏んだのだと思います。

しかし輝元の目論見は、この後、荒木村重ら摂津の反信長体制が崩壊することで、達成できませんでした。

そして石山本願寺も2年後の1580年、ついに信長に降参するのです。

荒木村重ら摂津の反信長体制の崩壊については、次回のブログで描きたいと思います。

4.その後の九鬼水軍

また脱線しますが、この鉄甲船を持つ九鬼水軍。この後どうなったのでしょうか?
この鉄甲船の活躍が信長に認められ、九鬼嘉隆は3万5千石の大名となります。(絵⑥

1582年に本能寺の変で信長が死去すると、九鬼水軍は秀吉傘下に入ります。
小牧・長久手の戦いでは家康の三河を海上から攻めたり、小田原攻めの時は、伊豆半島下田の城を落した後、海上から小田原城包囲網に秀吉水軍の棟梁として参戦する等、各地を転戦して回るのです。

そして、九鬼水軍の本領発揮は朝鮮出兵。1592年の文禄・慶長の役で、九鬼嘉隆は初めて大きな日の丸を掲げ、朝鮮へ大水軍で押寄せたのです。(絵⑦
⑦朝鮮出兵時の九鬼水軍船団
九鬼嘉隆の座船・日本丸を中心に大艦隊だった模様

話飛びますが、私が韓国はソウル市に行った時、ソウル市の一番の目抜き通りに大きく英雄視された像があったことが印象的でした。(写真⑧

⑧朝鮮出兵時に日本水軍を退けた
とされる李舜臣の像(ソウル市)
ソウル市中心部の一番良い場所に、靖国神社の大村益次郎像のような感じで建っているのですが、じつはこの像、李舜臣(イ・スンシン)という朝鮮水軍の武将で、この朝鮮出兵の時に大活躍し、日本水軍をやっつけたということで、英雄視されているのです。

そう、対戦相手は九鬼嘉隆です。李舜臣は、かなり強力に九鬼水軍と渡り合ったようです。

細かな戦況はここでは省略します。李舜臣が一方的に勝ったわけでは無いようですが、ご存知のように朝鮮出兵自体が最終的には日本が退却をしたことから、日本軍を退けた水軍の棟梁として今でも韓国では絶大な人気なのです。

2014年には映画化もされています。逆を云えば、朝鮮出兵において九鬼嘉隆がいかに重要な役割を果たしていたかの証左のような像が、ここソウル市の中心にあると言っても過言ではないでしょう。

このように、海を挟んでの朝鮮出兵では、まさに日本を代表する水軍の棟梁として九鬼嘉隆は活躍するのです。

この九鬼水軍の絶頂期が終わる頃、九鬼嘉隆は息子の守隆に家督を譲ります。

◆ ◇ ◆ ◇

そして関ヶ原の戦では、真田幸村・昌幸親子が西軍(石田三成)に、東軍(徳川家康)には真田真之がつくことで、どちらが勝っても真田家が存続できるように工夫したのと同様に、九鬼嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍につくのです。

勝利した東軍の徳川家康から、九鬼守隆はその功績により、5万6千石まで石高を加増してもらいます。

5.陸に上げられた水軍

徳川家でも日本水軍の中核としての存在意義を高めた九鬼守隆。

ところが、守隆が1632年に亡くなると、その息子の兄弟間で家督争いが発生しました。
これが、お家騒動に発展するのです。江戸幕府の介入を許してしまいました。

ご存知のように江戸幕府の藩行政への介入というのは非常に厳しく、国替えは勿論のこと、領地召し上げ、お家断絶等は当たり前。特に幕府は、この頃こそ諸藩の勢力を弱めるのに懸命な時でしたから、九鬼家も例外ではないと噂されていました。

➈三田市にある三田御池(Googleマップから)
ところが国替えはされたものの、兄は3万石、弟は2万6千石を別々に与えられたため、九鬼家総石高はなんと5万6千石に留め置かれたのです。

なんとラッキーな!と思いたくなりますが、そこは江戸幕府、抜かりはありません。

一番の仕置きは、兄は三田藩(現在:兵庫県三田市)、弟は綾部藩(現在:京都府綾部市)という藩の場所です。

なんとこの二藩両方とも海に面していません。そう、合計石高は変わりませんが、九鬼水軍から海を取り上げたのです。一番大事なものを!

ご存知のように、江戸幕府は鎖国政策を徹底すると同時に、30m以上の大型の造船を禁じました。おかげで先の鉄甲船を造っていた頃であれば、欧州の造船技術と遜色の無いレベルだったものが、この鎖国と造船規制によって日本の造船レベルは急速に低下していきます。

⑩九鬼水軍最後の海?・三田御池
四囲が海で囲まれているからこそ、発展させれば大英帝国のようになれたかもしれない日本は、その四囲が海に囲まれてるからこそ鎖国し、海外からの船も一部の国から、しかも長崎だけという入りを制御すると同時に、国内からの出も造船規制等で制御したのです。

そうなると一番面倒くさい存在が九鬼水軍です。なので江戸幕府はお家騒動に付け込んで、まんまと九鬼水軍を解体に追い込んだ訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

三田市には、三田御池と呼ばれる池があります。(地図➈写真⑩

地図➈を見て頂ければ分かると思いますが、三田城(現・三田小学校)という九鬼氏のお城の手前に池があります。これが三田御池ですが、この池で、三田藩は昔の九鬼水軍の魂を忘れないようにと、水軍演習を怠らなかったようです。とても水軍としての演習ができる規模の大きさの池ではなく、ある意味九鬼水軍の悲哀を感じます。

6.鬼は内、福は内

さて一世を風靡した九鬼水軍ですが、江戸幕府の鎖国政策という時代の流れには逆らえませんでした。

歴史に「もし」は禁句ですが、もし信長が生きていれば、前回も書いたように、彼は交易が生み出す富というものの経済哲学を持っている先見性がありました。

きっと天下布武で国内を纏め上げたなら、秀吉が明という大国に攻め入るようなことはせず、マカオ、マニラ、バンコク等、それこそ東南アジアの有力な貿易都市に侵出し、当時の世界的な(ヨーロッパ的な?)潮流である植民地政策の初期に日本も自然に参画出来ていたかもしれません。

その時にこそ、九鬼水軍の鉄甲船が大活躍していたのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

⑪三田の豆撒きは今も「鬼は内」
神戸新聞の今年の節分の記事から

(記事はここをクリック)
九鬼家は、節分の時に「鬼は内、福は内」と豆まきをすると、まだ歴史を知らない小学生の頃、ふくろうの本で読んだことがあります。九鬼という姓だけに「鬼は外」とは言えなかったのでしょう。

もしかしたら、九鬼家は「鬼は内」で、徳川幕府という鬼を内に入れてしまったかもしれませんね。それでも江戸時代の230年間、三田藩、綾部藩として途中断絶や国替えも無く九鬼家として続いたのですからやはり「福は内」でもあった訳です。

さて、荒木村重のシリーズ、信長への謀反の話から、かなり脱線してしまいました(笑)。次はまた有岡城(伊丹市)へ話を戻したいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【石山本願寺跡】〒540-0002 大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【李舜臣の像(ソウル)172 Sejong-daero, Sejongno, Jongno-gu, Seoul, 韓国
【三田御池】〒669-1532 兵庫県三田市屋敷町5

土曜日

荒木村重③ ~鉄甲船~

荒木村重が織田信長に謀反を起こす2年前の出来事について、前回は描きました。(ここをクリック
①第一次木津川口海戦イメージ

石山本願寺・雑賀衆・根来寺や毛利家・村上水軍らの連合軍と戦う織田信長、これらの戦いを尼崎の地から望見していた荒木村重は何を感じたのでしょうか。(絵①

やはり、この瀬戸内海の制海権を握る者の優位性、摂津国はこの優位者に付くべきではないのか。

その考え方が、荒木村重の織田信長離反を促したと考えてもおかしくはないのだろうという論考を書きました。

そして、1578年7月、荒木村重は有岡城で織田信長に対する謀反の狼煙を上げるのです。
本シリーズ 荒木村重①を参照

今回、この謀反の頃を前回と同じ制海権争奪戦という視点で描いていきたいと思います。
お付き合いください。

1.木津川口海戦の分析

前回の海戦で圧倒的な強さを見せた毛利・村上水軍。荒木村重はそれらを見て「信長おそるるに足らず」「やはりこれからは水軍だ!毛利氏には勝てない」と思ったかもしれません。勢いってやつですね。これも一因で2年後の1578年7月に伊丹・有岡城で信長への謀反を起こすのです。

一方、信長らは、今回の海戦の敗因は何かを冷静に分析していました。
②長篠の戦では
火器を有利に使う信長ではあるが
オリジナルは雑賀衆という説がある
当然、2倍近い船数の違いは大きな敗因ですが、それ以上に重視したのが、敵の武器・焙烙玉です。これを抑えない限り、海戦での勝ち目はないのです。

◇ ◆ ◇ ◆

話しが逸れますが、信長は、今までも、毛利・村上水軍の焙烙玉という火器だけでなく、根来寺の根来衆・雑賀衆の鉄砲でも、その高度な活用手法にはかなり影響を受けていました。

後の長篠の戦で、馬柵の後ろに鉄砲射手が3人ずつ組みになり、ローテーションで武田騎馬軍団に鉄砲を撃ちかけることで、通常一発撃ってから次の発射まで30秒以上かかると言われたものを10秒までに短縮。武田騎馬隊は「信長軍が間断無く鉄砲を撃ってきた」ように見えたという鮮やかな鉄砲活用術も、これら根来・雑賀衆にあった手法(つるべ撃ち)を活用したものとの説があります。(絵②

この時、そもそも3段撃ちは無く、一斉射撃の轟音により馬を驚かした鉄砲活用術だったとの説もあります。もしこの活用術が長篠の戦いで使われていたとしても、これも雑賀衆のオリジナルで次のようなものを応用した可能性が高いです。

鉄砲は弾込めのプロセスで砲身を掃除する作業が結構大変なのです。ただ火薬に点火し轟音だけを出す(つまり弾は飛ばない)のであれば非常に短時間に準備が出来ます。これを上手く使い、空砲含めた一斉射撃で誰が撃っているか分からなくすることで敵をパニックに陥れるという手法です。

今回の焙烙玉対策もそうですが、このように信長は、敵による火器の斬新な活用方法に悩まされ、その対策を考えることで、他の武将より、この火器を誰よりも上手く活用できるようになったのでしょう。

◇ ◆ ◇ ◆

さて、火器の話から派生してしまいましたが、信長は今回は焙烙玉に驚かされた訳ですが、冷静かつシンプルに対策を考えました。

防御:「焙烙玉でも燃えない、壊されない頑丈な船を作る」
攻撃:「焙烙玉を投げて届く距離に船が来る前に、こちらの火器で敵の船を破壊、または延焼させる」

この2点だけです。


2.鉄甲船の建造

結論からお話すると九鬼嘉隆が造ったのは戦艦です。正確には鉄甲船です。

「えっ、黒船が来る300年も前に戦艦が日本で作れたの?」と思われるかもしれませんが、この頃の日本はかなり造船技術も高かったようです。(勿論、黒船のような蒸気機関を持つような船を産業革命前に造るのは無理ですが)
江戸幕府が鎖国政策を取ったこともあり、かなりこの造船技術は廃れていった訳ではありますが。
③大阪湾に現れる九鬼水軍の鉄甲船群

まず、防御に対する対策として、鉄の船であれば焙烙玉が飛んできて、爆発直後に高熱の鉛を飛散させても木材ではないので燃えることはありません。ただ、戦艦大和のように厚さ30cm以上の装甲板が全部鉄のような、魚雷や大砲を考慮する訳ではありませんから、従来の木材の甲板や舷側に鉄の板を張り巡らしたものとなります。

また、攻撃に関しては、焙烙玉が飛んでくる前に、敵の船に穴を空けて浸水させ、船を沈めてしまう戦法をとることとしました。そのための武器を作りました。

と言ってもそんな大層な発想ではありません。従来の鉄砲では小さな穴しか空けることができないので、浸水効率は悪い、じゃあ、従来の鉄砲を大型化しようということなのです。まあ、その発想が後々大砲に繋がるのですが、この当時は大筒といっていました。1隻の舷側あたり3門、計6門の大筒を備えました。

なので、結果的に鉄の甲板と大砲を持つ船、つまり戦艦を作ったという訳です。

3.大阪湾口での海戦
赤字:毛利側
青字:信長側

この鉄甲船を九鬼義隆は伊勢の本拠地で6隻作ります。長さ22m、幅12mというこの当時としては非常に大きな船でした。
5000人は乗船できたという記録もあります。

ついでに九鬼義隆が伊勢の北畠氏から信長の軍門に入った時の直属上長である滝川一益(かずます)も1隻鉄甲船を建造。

1578年6月26日、計7隻の鉄甲船は伊勢志摩の浦を出航し、大阪湾を目指します。(絵③

これを察知した石山本願寺。雑賀衆の門徒船を500隻準備し、雑賀沖は紀淡海峡で鉄甲船を迎え撃ちます。(地図④

前回の海戦で負けている九鬼水軍としては、大軍とはいえ、こんな小舟の群れに負けては、大枚はたいて建造した鉄甲船が泣くというものです。

一方、雑賀水軍も考えます。

「よし、あのデカい船を乗っ取ってやろう!随分重そうな図体しているし、我々小舟のように小回りが利かんだろうから、次々に近づいて雑賀得意の鉄砲つるべ撃ちにし、焙烙玉を甲板に投げ込めば、船上の敵はいなくなるだろう。そうしたら我々の舟を横付けして乗り込み白兵戦で残兵を撫で斬りにして乗っ取ればいい。船数なら圧倒的にこっちが多いのだから。」

船数の多い雑賀水軍は、少数の敵を包み込んで殲滅する鶴翼の陣、九鬼水軍は一点突破に有利な魚鱗の陣の隊形を取り、お互い間合いを詰めていきます。(地図④参照

◇ ◆ ◇ ◆


⑤村上水軍の焙烙玉
両船団の間合いが1km近くなってくると、雑賀衆は舟上で鉄砲の火縄に火を点けはじめます。300m程度の距離になれば射かけるつもりです。

また村上水軍から分けてもらった焙烙玉(写真⑤)も100m以下の距離になれば九鬼水軍の軍船に投げ込むつもりで、準備を開始していました。その時です。

ドン!、、ドン!、ドン!、、、ドン!、、ドドン!

と立て続けに大きな太鼓を打つような音が響いてきて、雑賀水軍舟の目の前に水柱が数本立ち上がりました。

なんだ?なんだ?

と雑賀衆は驚きます。
と、直ぐ隣の舟が浸水し始め、あっという間に沈んでしまいました。

鉄砲の有効射程距離が300mですが、筒が大きい程長距離飛びますので、九鬼水軍の大筒はそれの2倍の距離600mは飛ぶのです。そのリーチの違いが攻撃の先制の違いとなって現れたのです。

水柱による水しぶきが凄い勢いで降ってきます。

最前列の舟があらかた浸水、航行不能状況に陥っています。後続の舟も上手くそれらの舟の前に出ることが出来ません。
⑥戦闘状態の鉄甲船

そこを狙うがごとく砲弾が飛んできます。

殆ど当たらず、水面に落ちるのですが、それでももう雑賀水軍の舟は水浸しで、焙烙玉に火を点ける余裕はありません。また準備中だった鉄砲の火縄もずぶ濡れで消火してしまいました。

今までは木造船を「焼き払う」戦い方だったのが、鉄甲船に装備された大筒6門の砲弾で「破壊し沈ませる」という新しい戦い方となり、雑賀水軍は驚きます。

歯が立ちません。

そんな大混乱の大阪湾口の雑賀水軍の中から、1,2隻、飛び出して鉄甲船に近づきます。そしてなんとか火を付けられた焙烙玉を投げつけるのですが、鉄甲船は看板からして鉄を貼ってありますので、熱した鉛が飛び散っても火災が発生しません。歯が立ちません。(絵⑥

こうして雑賀水軍500隻は、九鬼水軍の鉄甲船7隻に、ほぼなす術もなく大阪湾突入を赦してしまうのです。

4.堺での「大船御覧」

紀淡海峡から大阪湾へ入った九鬼水軍は、7月17日に堺へ入港します。
堺は当時、信長配下の港町でした。

堺と信長について少々書きたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

信長は、尾張半国から版図を拡大し、美濃、北伊勢等の中京地域をほぼ制し、他の戦国武将からも一目置かれる存在になりました。(地図⑦

そんな信長は、足利義昭(よしあき)を伴って上洛。第15代室町幕府将軍(征夷大将軍)に据えます。
⑦信長が欲しがった3都市(緑字)
と版図内の港町(青字)

感激した義昭は、信長に副将軍職や管領(執事)等、幕府としての要職を与えたがりますが、信長は一向に欲しがりません。

義昭は信長に聞きます。

「我が父君(信長のこと、義昭は信長をこう呼んでいた)は無欲じゃのう。一体何が欲しいのじゃ?」
「はっ、さすれば町を3つ程頂きたい。」
「まち?この京の街を欲しいと申すのか?」
「いえいえ、恐れ多くも京は朝廷や将軍の街でございます。私はその周辺の地・堺、大津、草津あたりを頂ければ幸いかと。」
「とはいえ、堺は会合衆(えごうしゅう)という商人どもが共同で納めている自治の町と聞く。ワシが幾ら『下賜する』と言うたところで、これを従えるのは至難の技じゃぞ。」
「下賜するとお言葉だけで十分です。」

◆ ◇ ◆ ◇

この時信長は何を考えていたのでしょうか。勿論、実質主義で天下布武の構想に突き進む信長が、既に形骸化した室町幕府の要職なぞ、貰って益になるどころか却って弊害の多いものを望むわけがありません。


⑧堺市の鉄砲鍛冶屋敷
よく言われる説は、信長が親・信秀の代から引きついだ領国・尾張には津島、熱田等の良港があり、これらの港から上がる利益は国1つ以上の莫大なものでした。当初尾張半国という小さな版図しか持たなかった織田家に、それに不釣り合いな程、軍資金があったのも、これらの良港があったおかげなのです。関東の土地と共に生きる坂東武者等とは違い、彼はこの普通の武者では目に見えない経済論理を貿易という形で体得していて、これが実質的に大きな資金を生み出すとの強い認識を持っているのです。

なので、堺という西日本側に開かれた港を何としても手に入れたい。ついでに言うなら堺は根来衆らが種子島から持ち込んだ鉄砲の製造技術を堺の町で大量生産することに成功したため、鉄砲欲しさにこの堺を欲しがった。大体、この2つの説が堺を信長支配下に置く理由として挙げられています。(写真⑧

そして、草津・大津は堺ほどではないにせよ、水運による日本の東側への物流拠点なので、ここを制すれば、例えば、東の雄・木曽氏、武田氏、上杉氏等へのけん制となったのではないかという説もあります。

でも、地図⑦を良く見て下さい。私にはどうもこの3都市の配置を見ると、京に対する物流制御の布石のようにも見えるのです。既に信長の版図自体が東側への物流制御を果たせると想定されますので、やはり西の堺、東の草津・大津を抑えて有事の際に京を制御したいという思惑があったのではないかと想像してしまいます。
⑨当時の堺はぐるっと濠で囲まれた
強力な自治都市でした

ただ、堺だけは確かにその要素だけでははく、海外交易と鉄砲という魅力もあったのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

ということで、信長は軍を引き連れ、堺に出向きます。信長に服従し、その証として矢銭(軍用金のこと)2万貫(約20億円)を払うこと。さもないと町を焼き払うと脅すのです。これが本気であることを会合衆は知っています。というのはちょっと前に、やはり自治都市であった尼崎にも同じ2万貫の矢銭を要求し、払わないとなると焼いたのですね。流石信長です。やる時は徹底してやるのです。

堺の会合衆は、それこそ名前のように会合を開き、この「服従か?抵抗か?」の要求に対し、大勢は「抵抗」を選択するのです。そして町は濠に架かる橋を上げ、櫓には鉄砲を並べ、来る信長軍に備えます。(地図⑨

ところが、この信長の要求を「服従or抵抗」と捉えず「投資」と捉えた商人がいました。


⑩今井宗久 肖像画
(京都市立芸術大学所蔵)
今井宗久(そうきゅう)です。(絵⑩

彼は、信長等、将来天下人になる人材に投資することで、将来自分達に利潤が廻ってくるという発想に立つのです。そして2万貫を信長に払うのは「服従」ではなくてあくまで「投資」と考えるのです。

今でこそ当たり前になったこの辺りの経済学的なセンス、当時分かっていたのは信長や秀吉等の天下人となる人物、堺の有力商人の一部くらいですかね。逆に見えないものが見えるからこそ、天下人の器なのかもしれません。

◆ ◇ ◆ ◇

長くなりましたが、話を戻します。

堺は、この鉄甲船にも投資していました。(正確にはさせられていました。)「九鬼兵糧」と称して毎月鉄甲船に掛かる莫大な投資資金を、この堺から出すように信長から指令を受けていたのです。

なので、当然投資案件のお披露目のために、この堺に鉄甲船は入港したのです。

ある意味、堺入港前の雑賀水軍への圧勝は、まさに今井宗久ら堺の商人らに対する良い土産話になったことでしょう。鉄甲船は1か月程度堺の港で「大船御覧」という形で、信長の政界関係者(近衛、細川、一色氏等)や会合衆、一般民衆にまで公開されたようです。


また信長の「総見記」には、この時宗久の屋敷で九鬼嘉隆や信長等を交えた茶会が開催されたとあります。(写真⑪

この時に信長から九鬼嘉隆と滝川一益らに褒美が下されました。

九鬼嘉隆も面目躍如というところでしょう。

5.毛利水軍との対決


⑪今井宗久の屋敷跡
さて、冒頭にも述べましたが、1578年7月、丁度、九鬼水軍が雑賀水軍と交戦をする頃、荒木村重は信長に反旗を翻したのです。

彼からすれば、2年弱前の1576年11月に毛利・村上水軍が信長・九鬼水軍を鮮やかに破り、大阪湾を含む瀬戸内海の制海権を握った圧倒的な勝利に直ぐに感化されることなく、慎重に様々な要素を検討し悩んだ結果、信長を寝返り、毛利方に着く結論に至ったと思うのです。

もし、九鬼水軍の鉄甲船による勝利を知ったとしたら、どうだったのでしょう?
いや、知っていたのかもしれません。しかし、もう2年にも渡る謀反への思いは、鉄甲船くらいでは変わりようもないフェーズまで行っていたのかもしれません。

そして、荒木村重が謀反を起し、有岡城へ立てこもってから4か月後の1578年11月。

鉄甲船で大阪湾口の警戒に当たっていた九鬼水軍に再び、毛利水軍600隻が襲い掛かります。

長くなりましたので、続きは次回へ。
ご精読ありがとうございました。

《続く》

【鉄砲鍛冶屋敷】〒590-0928 大阪府堺市堺区北旅籠町西1丁3

【今井宗久屋敷跡】〒590-0955 大阪府堺市堺区宿院町東3丁1