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日曜日

中尊寺金色堂⑤ ~後三年合戦 その3~

前回、清衡(きよひら)義家(よしいえ)の「たぬきとキツネの化かし合い」の様相を呈してきた後三年合戦の中盤を描きました。人物については、また図①を参照しながら読み進めて頂ければと思います。
①後三年合戦人物相関図(更新)
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます。


清衡が、家衡に初手の攻撃を仕掛けさせ、正当防衛を理由に国守である義家に家衡を攻めて貰う。強い強い義家ですから、家衡は簡単に滅びるだろうという清衡の作戦。

これに気づいた義家は、清衡が義家を利用して家衡を滅ぼすのを傍観させるのではなく、両者とも本気で憎み合い、お互い死力を尽くして戦いあうように仕向けます。

そして、これに成功。この話の続きからです。
②沼柵址

1.沼柵での戦い

家衡が清衡館を襲ったことから、国守の義家が清衡側に付いたことを知ると、家衡は代々清原家の有力な柵の1つ、沼柵(ぬまさく)という城のようなものに立て籠もります。(写真②)

◆ ◇ ◆ ◇
東北地方は、有力な防御拠点を「城」とは言わず「柵」と言うことが多いですね。

ご存知の方は多いと思いますが、城はそもそもその地域の人々が守りの拠点としているのに対して、柵はその地域外から来たよそ者が、その地域の敵に対して自身を守るために柵で陣固めをした土地を指します。

特に東北は、その蝦夷(えみし)の土地によそ者の朝廷軍が陣固めをして行った「柵」があちこちにあったため、城より柵の方が多いのです。多賀城でさえ、国府としての行政機能が入るまでは多賀柵だったようです。

また、城は守りの拠点としているので、兵糧を何年分も蓄えられる等、多くの兵士が籠って情勢が変わるのを守りながら待つという機能に長けていますが、柵はある意味前進基地なので、兵站等は後方部隊からこの前進基地へ運搬する形態が多く、城程の蓄えは少なかったようです。

実は、これが後三年合戦でも柵を使っていた家衡らの盲点になります。
◆ ◇ ◆ ◇

さて、沼柵ですが、流石清原氏代々の柵だけあって、西側~北側に流れる雄物川とその支流が、この柵周辺を、それこそ「泥沼」化していることで、周辺から大変攻めづらい構造になっていました。(地図③)
③沼柵における両軍対峙図

そこに、南側から義家・清衡連合軍が攻めてきます。

平安時代の義家の頃から、源氏はやはり騎馬による戦が得意だったようで、この時も馬を中心に颯爽と沼柵によせる義家軍でした。
ところがこれに対し、泥沼地帯に潜んでいる家衡の伏兵らが、次々と矢を射かけるのです。沼地に足を取られた馬上の武者たちは流矢の餌食になっていきます。

これらの伏兵によるゲリラ戦法でかなりのダメージを受け、義家らは停滞を余儀なくさせられます。

ほんの数日で家衡を制圧しようとした義家らでしたが、秋から開始したこの戦が数か月も掛かりそうな情勢に立たされることとなったのです。

④沼柵辺りの積雪は多い
上記地図③の東「横手公園」
から沼柵方面を臨む
清衡は、義家に諫言します。

「ご自身がかつて前九年の役の『黄海川の戦い』の時に経験された以上に、出羽の冬は積雪が多く、冬の戦いは自軍が消耗するだけです。ここは一度撤退しましょう!」

義家は、「なんの家衡ごときは、あと数日で落として見せる!清衡こそ、もっと力入れて戦え!貴様もしかしたら、家衡が身内だからそんな躊躇したような事言うのではないのか?!」

そう言われると、清衡もそれ以上強くは言えなくなってしまいます。

結局、義家は冬まで沼柵前に留まりましたが、多賀城方面からの補給路は、家衡のゲリラ戦法と2mを超す大雪により、ボロボロに絶たれ、食料は欠乏、病人は続出し、戦闘続行は不可能な状況に陥りました。(写真④)

清衡の諫言通りです。
義家は悔しい思いで、沼柵を見上げながら、全軍に下知します。

「撤退!!」

2.両軍それぞれへの加勢
⑤清原武衡像(横手市)

さて、沼柵で勝利を収めた家衡は清原一族での評価が上がります。

「あの軍神 義家に勝った漢(おとこ)。流石は清原家の嫡男」

そして、叔父である清原武衡(きよはら・たけひら)が、現在の福島県いわき市の所領地から援軍に駆けつけて来るのでした。(写真⑤)

逆に負け戦でがっかりしている義家のところにも、強力な助っ人が現れます。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)

あの武田信玄の武田家始祖のこれまた神格化された人物です。このblogでも何度か武田家の家宝「楯無(たてなし)鎧」(写真⑥)を紹介しましたが、この武田家が信長に滅ぼされるまで大事に持っていた鎧は、この義光が着用していたものです。(写真⑥)

彼は、兄・義家が沼柵で家衡に負けたと聞いて、宮仕えの身分であったにも係わらず、長期休暇を朝廷に申請し、兄を支援しに行こうとしました。
ところが、朝廷からはダメ出しされてしまいます。そこでさっさと退職願いを出して、出羽まで来たと言います。

この話は後の源平合戦時に、義経が頼朝の陣中に奥州平泉から駆けつけた話と並べる兄弟愛の美談として良く比較されます。義家は頼朝のように弟を謀殺したりはしませんでしたけど。
⑥義光が着用していた「楯無」
武田家家宝

3.次の戦闘への準備

さて、義家に義光が支援に来たという情報を聞いて、家衡らは義家らの次の攻撃が相当過酷なものになると覚悟します。

そこで彼らは考えます。「既に沼柵にてこずった義家らは、今度来襲してくるときは、必ず沼柵落しの対策をしてくるはず。であれば、次は沼柵に立籠もるよりも、更に規模の大きな金沢柵に立籠もり、沼柵に置く友軍と協働して、義家軍をかく乱する方が良い」と。
図⑦を見て下さい。

金沢柵は沼柵より北東側にあり、ここに居る家衡らの軍を直接義家らの軍が突こうとすれば、当然沼柵に居る家衡軍が、後方から義家らの軍に襲いかかり、挟撃による殲滅作戦を展開されてしまいます。

また、義家らが沼柵を先に攻撃する場合でも、金沢柵から家衡軍が打って出れば、同様に挟撃されるリスクがあります。

よってこのリスクを回避するには義家らは兵を2分して、それぞれの柵に当たらせなければなりません。戦力に分割損が出ます。そうこうするうちにまた冬将軍到来で義家軍は敗退せざるを得ないでしょう。

⑦家衡は金沢柵へ防衛拠点を動かすこ
とにより義家連合軍のかく乱を狙う
しかし、義家側も前回の戦の敗退の要因分析は充分に行い、沼柵の攻略検討もさることながら、ある1つの結論に達しています。
それは単純に兵力数です。

兵力の詳細は未だ不明で諸説ありますが、元々、沼柵に動員した家衡軍が1千、対する義家軍が5千、5倍で攻めても落ちませんでした。家衡征伐第2陣は、義光や鎌倉権五郎景正(かまくらげんんごろうかげまさ:絵⑧)らの支援もあり、2万の軍を出します。家衡側も叔父の武衡軍が多少増えたので2千にはなりますが、それでも10倍の差です。これなら分割損があろうとなかろうと流石に落とせるだろうと考えるのです。

ただ欠点は、この頃はまだ兵農分離が全くされていない時代ですので、これだけの兵力を集めるのは稲の刈り取り農作業が完了する11月頃まで待たなくてはならず、また出羽の冬将軍到来のリスクを甘受しなければならないということです。

4.第2次家衡軍征伐作戦

⑧鎌倉権五郎景正
第2次家衡征伐作戦は、図⑨の通りです。義家・義光兄弟で練り上げた作戦を見て行きましょう。(図⑨)
まず義家軍は、当初2万の軍全軍で沼柵に向けて進軍します。(図中①)
しかし、実態は以下の3軍に分けてあるのです。

第1陣:鎌倉正景軍(先鋒:金沢柵正面突破軍)
第2陣:義家軍(本隊)
第3陣:義光軍(陽動作戦用遊撃軍)

一方、金沢柵の家衡軍は、沼柵の友軍を支援するために金沢柵を出発します。(図中②)

これを第1陣の鎌倉正景軍が先鋒として先回りし、野戦を開始します。(図中③)

そこに陽動作戦で、敵に気づかれないようにぐるっと迂回してきた義光軍が金沢柵の後方から家衡軍に襲いかかり、大混乱を引き起こします。(図中④)

そして、沼柵対策は本隊の義家軍が前回の戦で一番良く分かっていることから、沼柵軍の殲滅を図り、後方の憂いが無くなり次第、金沢柵へ向い、完全勝利を得ます。(図中⑤)
⑨第2次家衡軍掃討作戦概略図
この作戦の結果は次回お話します。

5.おわりに

⑩鎌倉景正の活躍を現す功名塚(金沢柵)
この金沢柵の3軍の中に沼柵での戦い時に、1軍を担った清衡の名前が出て来ません。どうしたのでしょうか?
これも文献等ではっきしたことが書かれておらず諸説ありますが、1説には清衡と義家は前回の沼柵の失敗で反目しあうようになり、第2次家衡征伐作戦時、清衡は義家の軍に従軍しますが、積極的に活用されない立場にさせられたというものです。
私は、実は沼柵の戦い時、清衡があえて冬将軍の到来による撤退の忠告を行い、義家を煽り嫌われ、わざと一線から引いたのではないかとさえ思っています(笑)。

清衡と義家は「たぬきとキツネの化かし合い」、この戦で弟と死力を尽くして戦っては義家の思うつぼ。ほぼ共倒れになり家衡も自分も易々と義家に滅ぼされてしまう。
清衡軍は来るべき義家軍との戦いに備え、体力温存しなければと考え、あえて消極的参戦に止めたのだと思えますが、皆さんどう思われますか?(笑)

最後までお読みいただきありがとうございました。

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【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
 

中尊寺金色堂④ ~後三年合戦 その2~

①源義家
前回からはじまりました後三年合戦。長男の清原真衡(さねひら)が叔父秀武(ひでたけ)討伐の留守に、彼の屋敷を襲った清原清衡(きよひら)・家衡(家衡)の前に立ちはだかったのは、レジェンド源義家(よしいえ)。(絵①)

流石に軍神の異名を取るだけあって義家は滅法強いです。
清衡・家衡兄弟、馬1頭に2人で乗り、ほうほうの体で戦場から脱出するのでした。

この話の続きです。相変わらず登場人物が色々と出てきますので、図②に前回作成しました人物相関図を、今回の話の展開に合わせ更新しました。

前回のblogの図との違いが分かりますか?同じに見えるかも知れませんが、その違いが今回のお話の核となるところです。(前回の図はここをクリック

是非、話の途中で人物が良く分からなくなった時に図②をご参照ください。
②後三年合戦人物相関図(更新)
参照:胡原おみ氏「漫画後三年合戦物語」

1.金売り吉次


この時秀武討伐で遠征中の真衡、自陣で急死します。
それまで、すこぶる元気で病一つ冒したことのない真衡が、「急な病死」とのこと。

清衡と家衡は、戦の対象が急死したので、戦う必要が無くなったことに、ほっと安堵します。しかし清衡は考えます。

あやしい!

清衡は、奥州の忍者のようなもの「金売り吉次」を調査に真衡陣に潜入させます。
➂金売り吉次(イメージ)

また脱線しますが、「金売り吉次」と言うと、義経を京の鞍馬山から連れ出し、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)に仕えさせた大商人のイメージが定着してきましたが、実は「金売り吉次」は固有名詞ではなく、既に清衡の時代から何人も居た隠密行動をする連中の事を指すとの説があります。(絵➂)

彼らは、戦国時代の忍者のような術こそ使いませんが、最大の武器があります。

「金」です。

当時の奥州は玉山金山(たまやまきんざん)などの大規模な金鉱がありました。

ここから産出される金は、後に中尊寺金色堂を造るくらい豊かなものでしたが、この金を上手く使うことによって蝦夷(えみし)の地は力を持ったと同時に、朝廷からは危険視された訳です。

金を制すものは奥州を制す。

これを制した清衡が奥州を制した訳です。

2.真衡暗殺

さて、話を戻しましょう。真衡は公式には「病死」となっていましたが、「金売り吉次」が、真衡軍が秀武討伐から帰陣する中に潜入し、関係者に「金」を掴ませて話を聞いたところ、どうやら義家の刺客が真衡を暗殺したことが分かってきました。

「金売り吉次」からその報告を受けた清衡は全てを悟りました。

義家は、清原一族を恨んでおり、根絶やしにしたいのだ」と。
つまり、今回の戦で義家は、秀武を成敗に行った真衡と組んだように見せかけて、自分は真衡の留守を襲った清衡・家衡を戦で潰し、真衡は秀武討伐中の陣中で病死に見せかけ殺害。一気に清原一族の中核を殲滅しようとしたのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

21年前の前九年の時、義家は18歳の若武者で、安倍一族との戦いで大敗を喫した「黄海川の戦い」では、たった7騎でのみ逃走し、その活路を切り開いた活躍は、後に軍神と呼ばれる程の武勇を発揮しました。

④「義家、てめえ清原家の臣下になるって
言ったじゃねえか!」叫ぶ清原軍
※詳細は次回以降
そのような英雄的経歴を持つ彼が一番恥辱を感じたのは、父・頼義が、安倍氏討伐のために、清原一族の支援を求め、「一緒に戦ってくれるのであれば、私たち源氏は清原一族の臣下となって構わない。」とまで、自分達を卑下する必要があったことなのです。(絵④)

また、安倍一族を破った後の所領(奥6郡)も、本来頼義らが受領して良い筈なのですが、清原一族の臣下となり、支援して貰った立場上、実質的には清原一族が治めることになったのです。

源頼義・義家親子が苦労して戦った前九年の役は、結果的に彼ら親子にとってなんら益になることは生じず、役が終わった翌年、頼義は朝廷へ他国の国守へ転勤願いを出している程です。

これくらいの事で、清原一族を根絶やしにするなんて・・・と思うのは現代の感覚で、この証左は、後、この合戦中に出てくる史実が語ってくれます。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

⑤多賀城跡にある多賀神社
ということは、義家の屈折した野望と、清衡の野望はある意味一致します。事態は上手く使えば、清衡の野望を遂げることに大きく寄与することになるかも知れません。

彼は筆を執り、義家と秀武叔父に文を書きます。それを吉次に持たせ、夫々の館に向かわせます。

義家は、その書面を読み終えるとニヤリとします。

3.家衡との所領分配

それから1週間程経つと、清衡のところに、義家から使いが来ます。「至急、義家の館に来て欲しい」とのことでした。

そこで、清衡・家衡は、多賀城の義家の館に向かいます。(写真⑤)
家衡は敗北後の呼び出しですので、陸奥国守としての裁きを言い渡されるのだろうとビクビクしています。

⑥清衡と家衡の土地割譲
※水色が家衡、ピンクが清衡
予想通り、裁きの言い渡しでした。ただし、真衡が家長として治めていた奥6郡を清衡と家衡に半分ずつ分け与えるというものです。(地図⑥)

地図⑥の北3郡(点線内水色部分)が家衡、南3郡(ピンク部分)が清衡の土地として割譲すると義家は言います。

義家に敗れた清衡・家衡なのですから、斬首や領地召し上げ等の沙汰であってもおかしくないのに、領地までくれるとは・・・。ちょっと疑問に思う家衡に義家は云います。

「今回の兄弟ケンカの原因は自身の短慮にあったと、秀武殿から詫びを入れて来た。そして自分はどうなっても良いので、清衡・家衡2人には寛大な措置を!という嘆願があった。予は秀武殿の心意気に感心し、2人を許し、真衡の土地を割譲したいという訳じゃ。」

家衡は感激してその場を辞します。

この後、清原一族と義家は、束の間ですが平和な日々が続きます。
清衡は割譲された土地が義家の居る多賀城に近いこともあり、また以前お話した魂胆もあるので、義家に急接近します。

ところが、土地割譲当初感激していた家衡は、徐々に不満を募らせて行きます。
それは、この土地割譲が清衡にとって非常に有利であることに気が付くからです。

まず、多少土地が広くても、南3郡に比べると米の取れ高が小さいのです。まあ、それだけであれば兄弟の差なので我慢も出来ますが、最大の差は良い金鉱の有無です。

⑦玉山金山
以前お話しました玉山金山をはじめとする金は、この清衡側の土地で採掘可能なのです。

この採掘される金を使い、清衡はありとあらゆる周旋を行っているのです。(写真⑦)

実は、清衡はここから産出される金を使い、義家に土地割譲について自分が優位になるよう周旋したのです。

清原一族を殲滅したいと考える義家の考えを察知した清衡は、なんとか自分が殲滅候補の最後になるように工夫・調整するのにも金を使ったのだと思います。そして、それに成功します。

義家は清衡・家衡が連合する清原一族には、先の戦などから自分だけでは勝てないと正確に認識しました。なので、順番に1人づつ始末します。
その場合の次のターゲットは、清衡ではなく、家衡になったのです。

家衡も、この不公平な土地割譲をした義家や、それに急接近する清衡が気に入りません。

このような対立が熟したところで、清衡が兄弟紛争を仕掛けます。

ただ、この紛争は単に戦を清衡と家衡ですれば良いというものではありません。
清衡は義家を味方につける大義名分が必要なのです。
それには家衡側から、清衡を最初に攻撃させる必要があるのです。

家衡から攻撃された清衡は、その正当防衛に、役人(国守)である義家に陳情し、味方についてもらう。そして家衡を滅ぼす大儀名分と義家を味方に付けた清衡は易々と家衡を滅ぼす。

清衡はその役を、かつて真衡の庭にお祝いの品を投げつけることで後三年合戦を引き起こした秀武叔父に、担ってもらうのです。

⑧「平安の風わたる公園」にある
平安当時の館再現
4.清衡館への夜襲

秀武叔父も、既に清衡に調略されています。秀武叔父は滅ぼした安倍一族から清衡を連れて来た時から、彼に同情的でした。

秀武叔父は清衡が生き残り、清原家がまとまれば良いと考えていたのでしょう。

よくよく清衡とも相談し、先に描きました義家への取成しの対応や、今回の家衡との衝突の発火役も担ったのだと想像します。

秀武叔父は、家衡の屋敷に行き、彼に言います。(写真⑧)

「兄・清衡は、家衡さまをないがしろにしています。清原武則の直系である家衡さまこそが、清原家の家長であって良い立場であるのに!」

「秀武どうすれば良い?」と家衡は秀武に問いかけます。

「清衡の館に夜襲をかけるべきです。焼き払えば良い。」
「しかし、清衡の館には母が居る。」
「お母上は、この秀武が事前にお逃がしいたしましょう。」

家衡は清衡の館を夜襲することを決心します。

⑨清衡館襲撃
実は、この母上を逃すことは、当然清衡の母上でもあることから、空約束ではなく、清衡からも固く言われていることです。他にも清衡の妻子も皆、夜襲と同時に避難させる計画でした。

ところが、家衡が清衡館を襲う夜、何者かが家衡軍の襲来の少し前に、館に火を掛けるのです。(絵⑨)

清衡は慌てて消火し、母・妻子を避難させようとしますが、そこに家衡軍が攻め寄せ、わやくちゃになり、結果母、妻子全員焼死させてしまうのです。

清衡は、これは家衡のものがやったに違いない。家衡は、清衡が自分を陥れるために自作自演でやったことに違いないと確信しあい、本当にこの2人は憎み合い始めるのです。

5.おわりに

この清衡の作戦の想定外の失敗についても諸説ありますが、やはりこれも義家が画策したとの説が強いです。

清衡は義家を甘く見ていますね。義家は、清衡に気を許しているように見せかけますが、実は、清衡と家衡が心の底から憎み合い、加速して互いに力を奪い合うよう仕向けているのです。そして清衡と家衡がお互い死力を尽くして闘った後に、漁夫の利を狙うかのような形で、義家が清原家を易々と殲滅することを考えているのですから・・・。

先に描きました義家が清衡から貰った書面を読んでニヤリとしたのは、清衡が義家の計画が見通せたように、義家もまた清衡の計画が見通せてしまったからなのです。
⑩金沢柵から沼柵方面を臨む
(両柵とも合戦のクライマックス)

この時点で、この後三年合戦は、清衡と義家の「たぬきときつねの化し合い」の様相を呈して来るのです。

ただ、外面的には、清衡&義家軍 v.s.家衡軍の戦いがこの合戦のクライマックスとして続きます。
次回描きたいと思います。(写真⑩)

最後までご精読ありがとうございました。

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【玉山金山】岩手県陸前高田市竹駒町
【多賀城跡】宮城県多賀城市市川城前
【平安の風わたる公園】秋田県横手市金沢中野三貫堰
【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
【沼柵】秋田県横手市雄物川町沼館沼館

中尊寺金色堂③ ~後三年合戦 その1~

このシリーズ、3作品目に入りますが、前の2つは、「前九年の役」についてお話しました。
①前九年の役概念図

結局、前九年の役は、図①の東北の雄、陸奥国(岩手県)の安倍氏と出羽国(秋田県)の清原氏の2大有力者のうち、安倍氏が清原氏&源頼義(みなもとのよりよし)連合軍に滅ぼされた戦いということになります。(図①)

そして、この後に続く、後三年合戦(後三年の役とも言う)は、この安倍氏を滅ぼした清原氏の中の一族紛争に、先の源頼義の息子、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が介入して大乱戦になるというお話です。

では順に見て行きましょう。

1.前九年後の清衡

まず、前回のblogで、安倍氏に味方した藤原経清(つねきよ)について思い出して頂けますか?
あの首をなまくら刀で切られた経清です。(忘れた方はここをクリック

その経清の息子が、清衡(きよひら)です。後の奥州藤原家三代の基(もとい)を築く漢(おとこ)になります。

脱線しますが、この藤原一族の先祖は、平将門と戦った藤原秀郷(ひでさと)となります。
藤原秀郷については、平将門を描いた拙著blog(ここをクリック)と、ゆかりの深い新橋の烏森神社等を描いたblog(ここをクリック)がありますので、時間がある時に別途、ご笑覧ください。

さて、安倍氏が滅び、前九年の役が終わった時に、清衡は7才。まだ幼子でした。
②清原一族系図と後三年合戦など
※ここをクリックすると別ウィンドウで開きます

藤原経清に嫁いできた母親は、元々清原氏の出身でした。前九年で安倍氏を滅ぼした清原武則(たけのり)の息子、武貞(たけさだ)と再婚します。(図②参照)
実は、この武貞が清衡の父経清の首を、わざとなまくら刀で苦しみが続くように切った本人なのです。

つまり清衡は、父親の仇を継父として持ったことになります。

前のblogで取り上げた前九年の役の中、黄海川(きみがわ)の戦いで、源頼義率いる朝廷軍に大勝利を収めた安倍氏の蝦夷(えみし)軍は、再び朝廷軍が清原氏と連合を組んで戦いに来るまでの5年間は、「蝦夷国再建!」とばかりに、朝廷支配の及ばない理想郷の建設を夢見ていたのです。
③藤原(当時は清原)清衡

清衡の父・経清も、蝦夷の地における朝廷への貢租を全て安倍氏側で徴収する制度を設ける等、この理想郷の構築を着々と進めていたのです。

そして、その父の構想にかける情熱は、まだ幼子であった清衡にも感覚的に伝わったのでしょう。

前九年の役が終わり、21年が過ぎた1083年。

清衡は28歳となりました。(絵③)

清衡の父の構想への回帰のための戦略が花開きます。

後三年合戦です。

2.後三年合戦の捉え方

さて、後三年合戦は、極端に単純化すると清原一族の抗争に、陸奥鎮守府の源義家(みなもとのよしいえ)らが絡んで、最後は清原氏の3兄弟の中で、清衡だけが生き残るという抗争話です。

図②の肌色でハッチングしてある箇所の人物、特に清原武貞と清衡の母との間の息子3人の間の抗争劇です。兄弟3人仲良く暮らせばいいのにとも思いますが、やはり父親違い、母親違いのこの3人、仲良くできなかったのでしょうか。勿論、取り捲き連中が乗せたということもありますが・・・。

前九年に比べると、この合戦、史料等が乏しく、不明なポイントが多いのです。

その要因として、実はこの合戦は、朝廷からの勅命で行った前九年と違い、清原氏内の内部抗争とされ、源義家らの参戦も、朝廷からの公式な指示ではないとされたのです。

なので、前九年は朝廷公認の公式な戦、これを「役」と言いますが、後三年は朝廷非公認、非公式・私戦、これは「合戦」と言います。

最近までは後三年も「役」と言っていましたが、色々と調査の結果「合戦」であることが明らかになってきました。
④後三年合戦 最後の激戦地だった
金沢柵に建つ金沢八幡宮

話を戻します。不明なポイントが多いからという訳ではありませんが、私はこの合戦を自分が勝ち抜くように仕向けたのは、この清衡なのではないかと考えています。

そこで、その観点から、この合戦について史実を紐解いていきたいと思います。

3.戦の発端

まず、この歴史上に残る合戦をする前の21年間のあいだに、清衡は清原一族の重鎮、吉彦秀武(きみこのひでたけ)と何度も深く語り合っています。(秀武は図②参照)

秀武は、前九年でも清原軍として参戦し、清衡の母と清衡を保護、出羽(秋田県)に連れ帰った人物で、清衡も幼少の頃より頼りにしていた叔父です。

また、清衡は、父親の酷い仕打ちの最期の話も、この秀武叔父から沢山聞かされ、彼の中にはいつしか潜在的に滅ぼされた安倍一族への深い憐れみと、朝廷軍である清原氏と源家に対する復讐の気持ちを持つようになっていたのかも知れません。

さて、秀武は清衡がそんな裏腹な心を持つとは知らず、清原氏の棟梁である真衡が、自分一人の権力増長に力を入れ、あまりに一族をないがしろにしつつあることに深い憂慮をしていることを話します。

秀武はこの時既に70歳、私利より清原一族の先行きを本当に心配していたのでしょう。
この老人、純粋なだけ逆に喜怒哀楽が激しく、気が短いところがあります。
⑤真衡にお祝いの品を献上する秀武

その性格を熟知した清衡は、秀武に言います。

「一度、叔父上は兄・真衡に対して徹底的にへりくだってみてください。もし、叔父上程の重鎮がへりくだっているにも係わらず、兄が横柄な態度を取った場合には、私や弟・家衡は兄・真衡を家長とは認めません。」

◆ ◇ ◆ ◇

さて、上記清衡の言を実行する機会がやってきました。

真衡は息子が出来ず、養子入りをさせています。そしてその養子の妻を迎える結婚式でのことです。

70歳以上である秀武は、40歳そこそこの真衡に、祝いの品として金等を献上します。(絵⑤)
しかも、清衡に言われた通り、へりくだって、庭先で自ら献上の姿勢を取り、真衡からのねぎらいの言葉を待ちます。

しかし、真衡はねぎらいの言葉どころか、坊主と囲碁に耽り、献上の姿勢を取り続ける叔父秀武を無視するのです。

⑥怒る秀武
半刻も経ったでしょうか?秀武は、顔を真っ赤にして、祝いの品を庭に投げつけ、肩を怒らせ、叫びます。(絵⑥)

「なんたる侮辱!!」

そして、秀武は出羽の国に戻ると軍備を整えます。真衡と戦う気満々です。

「想定通り!」

と言ったのは、事の次第を聞いた清衡です。早速、秀武の所に赴き、

「秀武叔父、やはり兄・真衡は、叔父上が家長として仰ぎへりくだっても、徹底して見下した態度を取りましたね。もはや、彼に清原家一族の家長としての器量はございません。ついては、清衡・家衡兄弟は、兄を倒すために叔父上への支援を惜しみません。」

そして、清衡・家衡兄弟は、秀武征伐のために出兵した真衡の留守中、陸奥にある真衡の館(岩手県胆沢郡)と付近の村400戸を焼討にするのです。(絵⑦)
⑦真衡館の焼討

4.真衡の逆襲

流石に、弟達に留守中の虚を衝かれた真衡は動揺します。

秀武討伐は中止。慌てて出羽から陸奥へ軍を引き揚げます。

そして再度、秀武や弟達を討伐するために再軍備をしているところに、源義家(よしいえ)が陸奥の国守として赴任してきます。

先の前九年の時にも、数々の武勇伝を築き、父・源頼義を助けた義家。後に八幡太郎義家と源氏の守り神として神格化される程の彼が戻ってきたのですから、真衡は当然彼に取り入ろうとします。
「三日厨」(みっかくりや)という3日間にも及ぶ盛大な歓迎会を開き、このヒーローを味方に付けます。(絵⑧)

この義家の登場を、出羽の国に居た清衡・家衡は知りませんでした。
そしてまた、秀武叔父の討伐に出陣した真衡の館を、前回同様手薄になったとばかりに、襲撃・焼討に向います。

⑧着任前から既にヒーローである源義家
襲撃当初、真衡の館は前回と同様の守備兵しか居ません。しかし源義家の軍略で、襲撃されたら、真衡の妻の一報により、義家の軍が直ぐに駆けつけるように手配していたのです。

義家の軍が現れたのは清衡にとって想定外でした。

流石はヒーロー義家の軍団。軍の数も、戦略も戦闘能力も義家軍の方がはるかに清衡・家衡軍を上回っています。

「くそっ!抜かった!」

と計画の失敗により、自滅を覚悟した清衡ですが、弟・家衡が乱闘中でピンチだった清衡を自分の馬上へ引き揚げ、一頭の馬で清衡・家衡が逃げるという形でこの危機をなんとかやり過ごしました。

5.おわりに

いかがでしょうか? 
後三年合戦はまだまだ続きます。

この後、清衡は、強い強い義家と敵対するのではなく、味方に付いて、父の仇、父の野望だった蝦夷の国復権を追求するための廻り道をするのです。

話は単純ではなく、かなり複雑です。
⑨シャア・アズナブル

この話を描いていて、何かに似ているなと思いました。
1st ガンダムの中のシャア・アズナブルです。「赤い彗星のシャア」として人気の高いキャラですね。(絵⑨)

ご存知の方多いと思いますが、簡単に解説しますと、彼はジオン公国の創始家ダイクン家の跡取り息子だったのですが、このダイクン家がサビ家に滅ぼされたので、親の仇を討つ計画を建てます。

しかし、その復讐のために彼が取ったのは、親の仇のサビ家に取り入り、ジオン公国の有能な将官となって活躍し、次々にサビ家の同族支配者を狡猾な方法で葬り去っていくという手法です。

まさに清衡は、このシャアのようです。

ダイクン家は前九年で滅ぼされた安倍家または自分の父だった藤原家。
サビ家は、同役で安倍家を滅ぼした清原家として考えるとピタッとはまります。

ファンの皆さんも同じだと思いますが、シャアのキャラって、ストレートじゃなくて、このようにちょっと曲がっているからこそ、カッコいいのですよね。

ただ、現実の歴史の中にもこれに近いキャラはやはり居るのだろうと思います。

勿論、色々な歴史書物の中では、清衡は非常に中立的で、心が寛(ひろ)く、良心的な人物として描かれていることが多いです。
⑩秋田県の沼柵付近(後三年史跡)

しかし、後三年の舞台となった秋田県横手市等の史跡を巡りながら、私なりにこの後三年の数少ない史実を基に色々と考えると、清衡がわざと仕掛けない限り、清原氏内の同族の争いがここまでエスカレートする理由を説明することが出来ないとの結論に至りました。

なので、史実は曲げずに、清衡らの心の動きには、私の解釈を加えて、このまま続きを描いていきたいと思います。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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【金沢柵】秋田県横手市金沢中野
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