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月曜日

住吉大社の誕生石 ~薩摩藩・島津家のルーツは頼朝?~

難波の海の神様である住吉大社。源氏物語でも度々出てくるこの神社は、光源氏や明石の君等の参詣場面でも描かれる雅(みやび)な所ですね。(写真①)

①住吉大社正面

そんな古(いにしえ)より京とも所縁の深い住吉大社ですが、太鼓橋を渡った先に源頼朝と縁の深い伝承場所があります。誕生石です。(写真②)

②住吉大社脇にある誕生石
※島津の家紋入り提灯が印象的ですね
薩摩藩・島津家の聖地だからです

今回は、この史跡にまつわる伝承をお話したいと思います。

1.頼朝の乳母・比企尼の長女(丹後内侍)

ちょっと話が複雑になりますが、京で生まれた頼朝の乳母は比企尼(ひきあま)という武蔵国の比企氏の流れを汲む女性でした。(写真③)

③比丘尼山
比企一族の里・埼玉県松山市にあります。
比企一族が北条一族に滅ぼされた後、
頼朝の乳母・比企尼が
若狭局の遺骨を
抱きながら鎌倉から来て、ここで静かに
弔いながら暮らしたといわれます。

比企尼には3人の美人娘がおりました。長女は丹後内侍(たんごないし)と言って、それはそれは比企尼も自慢の美人で教養高い娘でした。母である比企尼の話を良く聞き、常に慎ましやかな性格だったようです。

2.丹後内侍と頼朝の関係

④鎌倉の頼朝の墓(正面)
丹後内侍は、頼朝が伊豆に流されていた頃からの側近、安達盛長(もりなが)の妻となります。ただし、彼女は初婚ではありません。

初婚は惟宗広言(これむね の ひろこと)という歌人で、丹後内侍自身も「無双の歌人」と言われた程の方なので、教養高い歌で繋がりを持ったということですね。

惟宗(島津)忠久という嫡男を産むのですが、広言の子供ではなく、頼朝と通じていたことにより生まれたという伝承があります。この忠久が薩摩・島津家の祖であることから、島津家の始祖は頼朝という伝承が生まれました。

女性好きの頼朝のことですから、あり得るとは思います。特に薩摩藩は、これを藩の公式見解として、鎌倉にある頼朝のお墓を江戸時代にかなり立派に建て直す程、この説を支持してきました。

◆ ◇ ◆ ◇

鎌倉の頼朝のお墓に来ると、立派な多層塔があります。(写真④)

おお、流石武士の世を創生した頼朝のお墓だと思うでしょうが、是非、このお墓の裏に廻ってみてください。(写真⑤)

小さな、五輪塔がこの多層塔の影に隠れて見えますね。実はこちらがオリジナルなのです。

では多層塔は?というとこちらは薩摩藩が、自分たちの始祖は頼朝であるということで、彼らの崇敬を顕す意味も含めて建てたものなのです。  

⑤墓の背面に廻ると小さな五輪塔が

この程左様に、薩摩藩が頼朝に肩入れできるのかと言う根拠が、この伝承なのです。つまり大阪の住吉大社の誕生石と、鎌倉の頼朝の立派なお墓の提供の話は1つに繋がっています。

では、何故丹後内侍が、ここ関東から離れた難波の住吉大社で頼朝の子を生んだのかという経緯を伝承に基づき記します。

3.畠山重忠の対応

北条政子が関係します。ご存じの通り、政子は、頼朝の愛人・亀の前に対する憎しみの余り、かなり酷いことをしたのは有名ですね。同じように丹後内侍が頼朝の子を懐妊したことが政子にバレると、政子は畠山重忠に内侍を殺すように命じます。

「御台所様(政子)にも困ったものだ。いや、それ以上に武衛殿(頼朝)が問題か。。。」

と重忠は、更に家臣の本田次郎親経(ちかつね)に命じて、丹後内侍を由比ガ浜へ誘い出します。由比ガ浜は当時、刑場兼墓場のような、よろしからぬ場所でした。そこに誘い出すこと自体、丹後内侍も何かを感じて、斬首前に上手く逃げてくれないかと重忠は期待したのです。

ー逃げてしまえば、「由比ガ浜で斬るつもりでした」と言い訳もできるー

◆ ◇ ◆ ◇

後年、畠山重忠の息子・重保(しげやす)は、北条時政の命により、懇意だった稲毛重成に由比ガ浜に呼び出され、待ち構えていた三浦義村に刺殺されています。その数時間後に重忠も二俣川(横浜市)で討ち取られるのです。(写真⑥)

⑥二俣川合戦の地にある畠山重忠の首塚

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。

ところが、この重忠の変な期待に反し、丹後内侍は身重であるにも係わらず、本田次郎に従い浜に現れます。次郎がなんと言って誘い出したかは知りませんが、重忠は内侍を一目見るなり、品格高く、かつ決して人を疑わない素直で澄んだ雰囲気に、政子と対照的なものを感じました。

―なるほど、武衛殿が惚れるのも分からんでもないな。これはやはり斬れんなー

やさしい重忠は、次善の策として手配しておいた由比ガ浜の東端にある和賀江島の湊(写真⑦)から、難波を経由して運航する船に、本田次郎と丹後内侍が乗船するよう指示します。

⑦今も伊豆石を使った
基盤部分が残る和賀江島
※遠く左が江の島、右は稲村ケ崎

「よいか、身重で大変だろうが、次郎をつけるので、難波に着いたら、淀川を登る船で京へ行き、前夫である惟宗広言殿を頼るのじゃぞ!惟宗殿には事の経緯を書いた秘文書を作成しておいた、次郎、しっかり手渡してくれ。」

本田次郎も、重忠の寛大な措置に敬服し、なんとしても丹後内侍を逃がさねばという気持ちになっています。そして二人は出帆する船に乗り、難波の湊に向かうのです。

4.島津家始祖誕生

ところが、難波の湊で下船した直後に雷雨に遭い、また日も暮れてきて2人は途方にくれていましたが、不思議なことに雷雨が上がると、数多の狐火が灯り、浜の松原沿いの道を照らしました。

ー住吉様のお導きか?ー

と2人は松原沿いの道を歩き続けると、予想したように住吉大社の社頭に至ったのです。

この時、丹後内侍が急に産気づきます。

本田次郎は「住吉様、お導き頂いたからには立派な子をお授け下さい」と祈りながら、社殿に飛び込みます。そこに田中光宗(みつむね)という神人がいました。そこで次郎は神人に産湯と薬湯を持ってくるようお願いします。(写真⑧)

⑧住吉大社社殿
本田次郎が戻ると、丹後内侍は社の大きな力石に抱きついたまま、まさに男児を出産した直後でした。田中光宗も直ぐに駆け付け、母子共に介抱し、無事保護に至りました。

⑨住吉名勝図会
(誕生石脇に立つ看板から抜粋)
後に内侍が抱きついていた住吉大社の力石は、「誕生石」として安産を祈念する対象となったのです。

また後年、この本田次郎の行動を知った頼朝は、次郎を賞賛すると同時に、成長した男児に薩摩・大隅の2か国を与えます。これが薩摩の島津氏の起こりとなり、この男児は島津三郎忠久と名乗るのです。(写真⑨)

また、この島津三郎忠久の「忠」は畠山重忠の「忠」をもらい受けたものです。そう、忠久が元服する際に、烏帽子親を買って出たのは、畠山重忠だったのです。

5.伝承の不可思議・・・

ただ、良く分からないのは、忠久の出生年が上記の時系列とつじつまを合わせようとすると腐心します。彼の出生年については1166年、1177年、1179年と複数あり、頼朝が旗揚げをしたのが1180年ですから、まだ頼朝が鎌倉入りする前に生まれたことになります。

島津家の「吉見系図」によると、京の二条院に女房として仕えていた時期に懐妊し、島津忠久を住吉神社にて生んだ後、上記の話にもあるように、これを助けた惟宗広言と再婚。そしてその後、離縁し関東へ下って安達盛長に嫁いだとされているようです。

ただ、頼朝が伊豆に流されたのが1160年、伊豆での挙兵が1180年なので、その間で内侍が産み落とした子がどうして頼朝の子なのでしょうか?仮に頼朝が14歳で京にいた時、関係を持ったとしても1161年生まれでないといけませんし、幾ら女好きの頼朝でも平治の乱前後の少年で子をなすとは考えづらいですね。(写真⑩)

⑩伝 島津忠久公 肖像画
(Wikipediaより)

更に1177年頃に頼朝と出会う政子に殺されそうになるなんて、それこそ内侍の子が生まれる前、更に畠山重忠は1180年の挙兵時は頼朝と敵対しています。一体全体、どういう流れで考えれば良いか悩んでしまいます。

うーむ、ただ、あの大藩である薩摩藩が、頼朝のお墓にここまでしっかり関与しているのであれば、歴史考証の素人である私が及ばない考証があるのでしょう。

どなたか分かる方、是非ご教示ください(笑)。

ご精読ありがとうございました。

《終り》

【住吉大社 誕生石】〒558-0045 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9

比丘尼山】〒355-0008 埼玉県東松山市大谷

【和賀江島】〒248-0013 神奈川県鎌倉市材木座6丁目

日曜日

頼朝杉⑱ ~旗挙げ1:挙兵は少人数に限る~

 以仁王と源頼政(よりまさ)の挙兵は治承4年(1180年)5月15日に始まって、26日に平等院周辺で鎮圧されます。この挙兵に当初連携して挙兵しようとした頼朝でしたが、近隣の坂東武者たちの周旋に走っている文覚や安達盛長らから、

「(周旋に)とても間に合いません!10月頃に挙兵できれば上々でしょう。」

ということで、挙兵一致を断念する頼朝。

これが前回までの話(「頼朝杉⑮」)ですが、今回はこの続きからです。どうして頼朝は10月ではなくて、この頼政の謀反による政変から、3か月後の8月に前倒しで挙兵したのでしょうか。今回はその辺りの経緯から描きたいと思います。

1.頼政・仲綱の残党狩り

①源三窟における有綱
頼政とその息子・仲綱(なかつな)が、平家打倒の令旨を発出した以仁王を庇い、味方である南都興国寺を頼って南下します。

なんとか宇治の平等院まで逃げることはできましたが、ここで平家軍に追いつかれ、3人とも自刃して果てるのです。

この後、当然の習わしとして、この摂津源氏である頼政・仲綱の残党狩りが始まります。

頼政は伊豆の知行国主であり、仲綱は伊豆守。二人とも伊豆国とは縁が深いことは、今までも度々お話してきました。

では、伊豆に誰か他にも縁者がいたのではないか?と考えるのが普通です。

そう、居ました。この宇治の橋合戦の頃、仲綱の子である有綱(ありつな)が目代として伊豆に在国していたのです。(写真①、図⑥も参照)

有綱を頼政の残党とみなし、残党狩りを清盛が、方々に命じているとの噂が京の都に流布します。

この話、以仁王の挙兵時に大番役で在京していた文覚の弟子・胤頼(たねより、千葉常胤の六男)と三浦義澄(よしずみ)が、挙兵失敗を見届けた後、自国に引き上げる途中で、頼朝の居る伊豆の守山北の屋敷に立ち寄り、頼朝や文覚、安達盛長らに伝えるのです。(写真②)

2.三浦義澄と千葉胤頼の伊豆立ち寄り

②頼朝挙兵時の屋敷跡(現:守山八幡宮)

「これから源氏掃討戦が起きる可能性がございますれば、頼朝殿は奥州の藤原秀衡(ひでひら)殿を頼って身を隠された方が剣呑を避けることができるかと。」

と胤頼。

「なに?私が藤原秀衡殿を頼れと。なるほど。それも良いかもしれない。奥州は今、中尊寺、毛越寺、無量光院等、極楽浄土を体現した大寺院が建立されていると聞く。そこで経文を唱えて過ごすのも一興だろう。」

と、この緊張した場を解そうと、すっとぼけた会話をする頼朝。
義澄と胤頼はお互い顔を見合わせ、戸惑います。

ここまでの話を聞いて文覚は思います。

ー三浦義澄殿の父・義明(よしあき)殿も、胤頼殿の父・常胤(つねたね)殿にも、挙兵の話をし、支援の約定は取り付けてある。このお二方は、一度頼朝殿が奥州へ下向し、秀衡殿を頼って奥州17万騎と言われる軍勢を操って、平家打倒の挙兵を行えば良いとでも考えているのだろうか。確かにそれも一理ある。しかし、大軍対大軍の戦いになれば、奥州藤原氏と強固な結びつきを築けていない頼朝殿より、平家一門で固めた平家軍の方に分があるのではないか。ー

「良く分かった。京の状況を教えてくれて助かった。帰国道中気を付けて戻ってほしい。各々の父君にも宜しく伝えて欲しい。またこちらも色々と準備ができれば連絡する。」

と頼朝は義澄・胤頼にねぎらいの言葉を掛け送り出しました。

3.佐々木秀義と大庭景親

「文覚殿、10月に挙兵等と言っておりましたな。そんな悠長なことを言っておると、こちらが潰されてしまいますぞ!」

文覚は素直にこれを認めます。

「確かに!安達盛長殿と拙僧で伊豆の豪族は言うに及ばず、坂東の豪族も周旋し、10月の挙兵には数万が集まる目算をつけておりましたが、有綱殿を討伐に平家軍が来るとなると、これは急がなければなりません。今は、この坂東における大軍準備による挙兵を想定して策を練っておりましたが、変更しなければなりませんな。とりあえずは各武将の周旋を仕上げると同時に、西から攻めてくる平家軍の状況を三善殿と連携して注視していきましょう。

ということで、文覚は京にいる三善康信に文を書き、平家軍がこの伊豆に向けて軍を発する等の動きが少しでも見たら至急連絡するように依頼するのです。

そして坂東各武将の周旋の仕上げにまた奔走するのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが意外なところから、更に挙兵を急がねばならない状況を伝える情報が入ってきました。

佐々木四兄弟の一人、佐々木定綱(さだつな)です。
それは8月の10日を過ぎた頃の事でした。京から平家が討伐軍を編成した等の情報が、いっこうに無いことを、文覚が不安に感じ始めていたころでした。

「大庭景親(おおばかげちか)殿が攻めてきます!」

セミの声がやかましい伊豆守山の頼朝の屋敷に、佐々木定綱は飛び込むやいなや、庭先から頼朝に向かってこう叫びました。

「待て、定綱!」

頼朝は定綱とは古くから面識があります。というのは定綱の父親、佐々木秀義(ひでよし)は近江源氏、頼朝は河内源氏。先の平治の乱で近江源氏の佐々木一族も凋落し、佐々木秀義は息子四兄弟を伴って、京から奥州藤原氏を頼って東下している最中に、渋谷重国(しげくに)という渋谷駅の辺りの豪族に声を掛けられます。(この辺り、「頼朝杉⑭ ~挙兵準備~」にも書いています。)

「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」

と重国は引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとることに同意します。
その時に秀義や四兄弟が留まったのは、現在の東京の渋谷ではなく、神奈川県のちょうど真ん中あたりにある綾瀬市の早川城というところになります。(写真③)
当時、このあたりを渋谷荘(しぶやのしょう)と呼んでいました。

③渋谷荘・早川城(綾瀬市)

早川城は、大庭景親が領有する土地、大庭御厨(おおばみくり、現在の神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の隣です。

◆ ◇ ◆ ◇

ちょっと脱線しますが、大庭御厨の御厨とは伊勢神宮の荘園の事を指す言葉のようです。大庭景親の領有するこの大庭御厨は典型的な寄進型荘園であり、大庭景親は伊勢神宮の荘園の在庁官人だったということですね。

大庭景親の屋敷については写真④の大庭城だったという説(写真④)。
④大庭景親の屋敷だった?大庭城址

大庭城は北条早雲とも関係が深く、戦国初期に作られた城なので平安時代末期の大庭景親の屋敷は別のところであるという説があります。それが大庭城南西の宗賢院(そうけんいん)の辺りという説(写真⑤)。
⑤大庭景親の屋敷があった説・宗賢院

この2つの説が有力なのです。確かに平安時代末期は、戦国時代のような城という概念とは違い、鎌倉のお寺等に見られる四囲を山に囲まれ、正面、寺門のような箇所だけが開かれているスタイルが武家の屋敷に多かったことを考えると、宗賢院は谷戸の奥に鎮座するスタイルであることから、こちらかもしれないなと思いながら、私は2か所を見て廻りました。

◆ ◇ ◆ ◇

話を元に戻します。大庭景親は京に大番役に行っていたのですが、その任を解かれ、8月頭には大庭御厨に戻ってきました。重大な情報を掴んで。

ー頼朝が挙兵しようとしているらしい。ー

多分、後白河法皇の密旨の宣布等、文覚の京や福原における動きを平清盛側が察知したのかもしれません。

そして、大庭景親はこの情報を隣国にいる佐々木秀義を招いて相談するのです。

-自分(大庭景親)は、この挙兵を阻止せんがため、頼朝を討伐するつもりだ。ー

という言葉を付け足して。

大庭景親は秀義の息子たちが、伊豆の頼朝のところに出入りしていることを知っていて、上記のことを漏らすのです。景親としては、親しい秀義の息子たちをこの討伐戦から外しなさいというニュアンスで秀義に伝えた、いわば「思いやり」のある行動のつもりだったのかもしれませんね。

まあ、この当時の状況ではどんなに頼朝が足掻こうとも、大庭景親を初め平家一門の力からすれば、頼朝は滅ぼされると見るのが普通でしょう。だから佐々木兄弟が頼朝のところの出入りを止めれば、生き残れるかもしれませんが共に挙兵になぞ出れば討ち取られるだけ、ならば生き残れる情けを佐々木家にかけてやろうという景親らしい優しさだったのではないでしょうか。

⑥早川城にいる佐々木秀義と
佐々木四兄弟(大河ドラマ)
これを聞いた佐々木秀義は焦ります。

早川城へ戻ってくると、丁度その時、四兄弟の長男・定綱(さだつな)が来ていました。秀義は定綱に頼朝挙兵の事実を確認します。すると定綱は

「父上、何故それをご存じで?どこからその情報を仕入れられたのですか?」

と言うではありませんか。

「やはり、事実か。。。定綱、よく聞け。大至急頼朝殿のところへ走り、これから言う事実を伝えなさい。今日ここから2里(8㎞)離れた
大庭御厨へ行ってきた。そこで大庭景親殿とお会いしたのだ。大庭殿は言っておった『頼朝殿が挙兵するという噂が京で広まっている。自分が討伐する』とな。」

それを聞くや否や、定綱は早川城を飛び出します。頼朝のいる守山まで約70㎞強、約2日の距離ですが、いつ大庭景親が攻めに行くか分かりません。

2日間走り続け、守山の頼朝のところに辿り着くことができました。

4.挙兵計画の変更

「大庭景親殿が攻めてきます!」
「待て、定綱!」

先程の場面に戻ります。

三島宿からは当時の駅制度で設置してある馬を守山まで走らせた定綱。守山の頼朝屋敷に馬ごと飛び込むと、上がった息も隠さず、頼朝の居る間に駆け上ります。

「なに!大庭の景親が!いつ攻めてくるのじゃ!」
「分かりませぬ。分かりませぬが、早川城からここに来る途中、大庭御厨を経由したのですが、かなりの馬が集められ、箱根に向かう街道沿いでも弓や矢を大量に運ぶ人夫たちや兵ともすれ違いますれば、あと数日で挙兵する可能性が高いと推測されます。」
「なんと早急な。文覚殿、文覚殿!」

頼朝は最近、屋敷に常駐している文覚を呼び寄せます。

「三善殿からの連絡が無いと思っておったら、なんと大庭が攻め寄せるそうだ。」
「なんと大庭殿でござったか。」

なるほどとばかりになんの動揺も無く、頼朝と定綱の前に座る文覚。頼朝は

「文覚殿、なんでそんなに落ち着いていられるのか?貴方は平家軍が西から攻めてくるから迎え撃つ形での挙兵を考えておったではないか。大丈夫なのか?」
「はい、想定内の事態です。」
「想定内?」

文覚は言います。
「頼朝殿、お義父殿をはじめ、北条のものも今晩にでもお集めいただけまいか?」

◇ ◆ ◇ ◆

さて、その日の晩、守山の北条の屋敷から、時政、宗時、義時の3人、安達盛長が集まってきました。これに頼朝、佐々木定綱、文覚の合計7人が顔を突き合わせて、狩野川流域のことに蒸し暑いこの屋敷で談義をはじめるのです。

定綱が大庭景親の頼朝討伐の立ち上げ状況を伝えると、やはり北条側にも動揺が走ります。

しかし、文覚が冷静に話を始めます。
「そこで、新しい計画案をお話したいと思います。まず北条殿の手下だけでどれくらいの兵を集めることができますかな?時政殿。」
「うちは伊豆でも伊東祐親殿のような大きな在庁官人ではないので、あって30人程度が関の山でしょう。」

文覚はちょっと苦笑し、「佐々木四兄弟はご参戦いただけますな?」
と定綱に念押しします。

「喜んで」

と定綱。文覚は続けます。

「我々が周旋した工藤、天野、仁田等、伊豆の近隣豪族にも声がけしましょう。それでも40騎程度が限度ですな。ははは!」

というと、頼朝も苦い笑みを浮かべ言います。

「40騎程度でどうやって大庭景親殿に勝利するのだ。御厨は伊勢神宮の荘園ぞ!大庭だけで数百騎は集まる。とても40騎では勝ち目はあるまい。」

「確かに、大庭景親と相模国でぶつかるのを最初の旗揚げとするのは危険極まりない。下手をすると負けます。いや今のままでは下手をしなくても負けます。緒戦で勝てない旗揚げは、古来より、全て失敗に終わっています。」

少し怒り気味の頼朝は投げやりに怒鳴ります。

「胤頼が申していた通り、やはり奥州に下って、平泉の大寺院群の中で読経三昧の日々の方がよさそうだな!」

文覚はそれには何も答えず、続けます。

「たったの40騎ですが、旗挙げには十分です。この40騎で最初に平家側のしかるべき人物を打倒し、『頼朝ここにあり!本日今源氏再興の挙兵を行ったので、坂東武者は駆け付けるが良い』との喧伝をするのです。と同時に三浦殿の衣笠城へ拙僧がこれから至急使者として向かいます。皆さまは、挙兵成功後に東に向かってください。挙兵の噂を聞きつけ、伊豆では先ほどの近隣豪族以外に、田代、大見、宇佐見等も集まり、武者達数千騎は集まるでしょう。三浦殿にも千騎以上は出してもらい、西に向かいます。(藤沢、茅ケ崎あたりの)大庭軍を東と西から挟撃するのです。」

「・・・」

皆、ここ数日で大庭軍が攻めてくるという情報を聞いた途端に、「敵は大庭軍!」が当たり前と考えていただけに、文覚のこの大庭軍との戦の前に、1戦するとは想像もできなかったのです。
文覚のこの突飛な作戦に、皆しばらく声も出ません。

「で、誰を最初に血祭りにあげるのじゃ?文覚殿」

しばらく間を置いて、質問をしたのは北条時政です。文覚は答えます。

「何事も最初の一勝が大事です。40騎程度しか集まらない現状で、一勝を上げるのに、有綱殿の代わりとなる新しい目代を狙うのは如何でしょうか?」

「新しい目代?山木か!最近着任したばかりで奴の屋敷に武人は数十程度しかいないはずじゃ。なるほど!」(表⑦)

⑦政変前後の伊豆知行国責任者の変遷

と頼朝が言うと、すかさず時政が割入ってきます。

「なるほど、寡少な兵力しか集まらないうちに、平家側の軍が攻めてきては勝ち目が無い。だから寡兵を持ってして一勝を上げる。それが、かつての大知行国主・源頼政の孫・有綱に取って代わった山木目代であれば、以仁王や頼政殿の意志を継ぎ挙兵するという意思表示にピッタリだ。
また、確かに最近着任してきたばかりの山木なぞ、使用人で数十人程度の屋敷だ。ここから半里しか離れておらんしな。」

時政は、ただでさえ、自分の領有するこの韮山の一角に屋敷を構えはじめた山木兼隆に、苛々するものを感じていたようです。山木兼隆は、元は罪人で伊豆に流されてきたのですが、平時忠と懇意であったこともあり、いきなり流人から目代に抜擢されたという訳です。

もっとも、時政を一番苛立たせたのは、山木兼隆の流人中、後見人として、函南方面を領有する堤 信遠(つつみのぶとお)が申し出たことです。この堤氏と北条氏は隣国同士なので犬猿の仲だったのです。一方、北条時政が後見人になった流人・源頼朝は、今回、更に討伐の対象になっています。
⑧堤信遠に激しく侮辱される北条時政
(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から)

確かにこれでは、時政は思いっきり大貧乏くじを引いたと思ってもおかしくは無いですね。

ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、更にドラステックにするために、堤信遠が北条時政の顔に
茄子を潰して擦り付け、侮蔑の言葉を掛けていましたね。

という悔しさも相まって、北条側は新しい目代・山木兼隆をぶっ潰すことで平家打倒の挙兵戦に勝利をするのには大賛成です。勿論、堤信遠も同時にぶっ潰すのです。山木屋敷の少し北側に堤屋敷があったようです。

文覚が言います。

「では、各々方、挙兵は山木判官兼隆殿を討つということで一致ですな。では早々に挙兵準備を。実は8月17日が三嶋大社の祭礼の日です。伊豆の人民の1/3が集まるというこの大祭、山木兼隆の屋敷、堤信遠の使用人たちも出払うでしょう。この日を挙兵の日にしたいので、各々方早々に挙兵準備を!」

それまで黙っていた北条義時(よしとき)が1つ質問をします。

「三嶋大社の祭礼の日、山木兼隆自身が祭りに出てしまっていたらどうされます?屋敷を襲うのは取りやめますか?」

これには時政が答えます。

「四郎、くだらないことを聞くな。もし祭りに出ていても、屋敷が挙兵した頼朝に襲われていると知れば、戻り戦うのが目代だろう。腰抜けで屋敷が全滅しても平家方に逃げていくなら末代まで笑われるのが落ち。その日祭礼に行って命拾いをしようがしまいが、屋敷を焼かれ目代として機能しなくなればそれまでの話だ。我々は山木兼隆などという豪傑でもなんでもないちっぽけな武士を潰すのではない。目代という組織を潰せばいいのじゃ。」

「なるほど!では8月17日決行ということで!」

義時もそこに居並ぶ6人も何故か時政のこの一声で、既に目代を潰したような気分になっていました。

◇ ◆ ◇ ◆

長くなりましたので挙兵戦は次回。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。

《つづく


水曜日

頼朝杉⑰ ~頼政、以仁王の最期~

①橋合戦(前半)
平家追討の令旨を発出した以仁王と頼政を討伐すべく編成された平家軍。以仁王、頼政らが南都へ逃げる途中の宇治平等院にて停滞している情報をキャッチするとすぐに猛烈な勢いで追いかけ、宇治川を挟んで対峙します。そして橋合戦が始まるのです。(写真①)

橋合戦の前半戦こそ、園城寺僧兵らの勢いに押され気味の平家軍。今日は、この橋合戦の後半からお話を続けたいと思います。

1.馬筏(橋合戦・後半)

さて平家軍、橋の上でまともに頼政の軍(実質は園城寺僧兵)と戦っても一進一退。なかなか攻め込むことが出来ません。幅が狭い橋の上で、幾ら一騎打ち的な戦い方をしている限り、平家軍の兵力の多さによる優位性が確保できません。

そこで、橋の上ではなくて、橋の脇を渡河して大軍で宇治川を押し渡る作戦を考えます。ところが宇治川に行かれた方はご存じだと思いますが、この川は意外と流れが速く、特にこの戦の時期は五月雨を集めて速し状態なので、川にざんぶと駆け入った武者は、なんと馬ごと流されてしまう始末。(写真②)

ここに足利又太郎忠綱という現在の足利市を所領とする若干17歳の武将が平家軍に居ました。ご存じのように足利市は北関東で渡良瀬川や利根川等の上流に位置します。ですので、忠綱は急流を渡るノウハウをしっかり持っていたのでしょう。

彼は総大将・知盛に提案します。

「地元の利根川や渡良瀬川で良く使う渡河の手法があります。私がこれを作って川を渡って見せます故、知盛殿は私の後に続いてください。」

②宇治川はかなり急流

そして、付近の孟宗竹を刈り取って馬と馬を、それらの竹で結びつけます。馬は前後だけでなく、左右も竹を渡し、まるで筏のように組みます。(図③)


③馬筏の略図

④緋威の鎧
川の流れに対して上流に強い馬を置き、下流側に弱い馬を配備します。このような構造にすれば、強い馬が踏ん張ることにより、弱い馬も流されることなく、人馬一緒になんとか川を渡れるという渡河方法です。馬筏といいます。(竹で括り付けず、単に上流に強い馬を、下流側に弱い馬をなるべく密集させて隊列を組みことで渡り切ったという説もあります。)

これは後年木曽義仲と義経がここで戦う時も、畠山重忠が馬筏を組んだという伝承があります。宇治川は馬筏を組まないと渡れない程の急流だったのですね。

見事、忠綱、宇治川を渡り一番乗りを果たします。

これを見た平家軍、「それ忠綱に続け!」とばかりに数百騎ざんぶと宇治川に飛び込みます。ところが利根川で修練を重ねている足利忠綱のようにはいきません。やはり次々と流されていくのです。

これを宇治川の対岸で見ていた例の源仲綱(なかつな)。
この人は武将でありながら、歌好きですね。また一句詠みます笑。

 伊勢武者はみなひをどしの鎧(よろひ)着て
   宇治の網代(あじろ)にかかりぬるかな

⑤宇治川の網代
※氷魚(ひお)を獲っています
訳:平家軍(伊勢武者)は、雅で立派
  な鎧(緋威:ひおどし 写真④)
  を着ながらも、宇治川に流され、 
  下流にある地味な魚獲の網(網代
  GIF⑤)に引っかるとは。 
  (雅な恰好だっただけに、恰好悪
   い事この上ないなあ)
   ※ちなみに鎧の緋縅(ひおどし)
    と氷魚取り(ひおどり、氷魚は
    鮎の稚魚)を掛けています。ど
    ちらも網代でとれると笑

2.平等院での戦い

足利忠綱、大音声(だいおんじょう)で名乗りを上げます。

「足利又太郎忠綱17歳!源三位頼政殿のお味方で我こそはと思う方々は出でて来られませ!私が相手になりましょうぞ!」

そして平等院へと駈けていきます。

宇治川での橋合戦で時間を稼いだ源頼政らは、なんとか以仁王を平等院から逃がし、南都興福寺へ向かわせることが出来ました。

が、それをするのが精一杯。タイムアップです。忠綱が名乗りと同時に門前に駆け付けてくると、摂津源氏である頼政たちや、渡辺党の武者ども、園城寺僧兵は腹を決めます。

「平等院を枕にここで散ろうぞ!」

平等院には平家軍を入れまじと矢合戦(「ふせぎ矢」と平家物語では表現されています)で防戦していた頼政軍。彼らは平等院の門内で休ませた兵を交代で矢戦に繰り出したので、先陣の攻めは守ることができたようです。

しかし、とうとう頼政自身、膝頭に矢を受けてしまいました。

⑥ご存じ10円玉にも描かれている平等院鳳凰堂

流石に70を超えた頼政に寡兵による激しい戦はこたえます。

以仁王を逃がすのが精一杯。
頼政は、今更ながら以仁王の令旨が漏れるというリスクに対する自分の見通しの甘さを悔いるのです。
自分を三位にしてくれた清盛の怖さは半端無かった。

そして以前、藤原光能と文覚の3人で語った源氏再興の夢が、ここでとん挫するのではないかとの絶望感を頼政は感じます。

門内に入り、平等院鳳凰堂の庭先を周囲の肩を借りながら死に場所を探す頼政。(写真⑥)

そこに一人の平家軍の武者が

「そこにおわすは三位殿とお見受けいたす!」

と門内へ突入してきました。

「父上、危ない!」

と平家武者の突進を横から馬で乗り入れ、刀で払ったのは、頼政の次男・兼綱(かねつな)です。平宗盛に一矢報いた渡辺競(きおう)等、渡辺党の面々も頼政の最期の時を稼ぐために平等院内の乱闘に加わります。

しかし、所詮多勢に無勢、兼綱は眉間に矢が刺さったにも関わらずその後も奮戦し、彼の持つ馬鹿力(音に聞こえる大力)で、矢を射た平家の上総太郎判官(かずさたろうほうがん)の息子・次郎丸が近寄ってきたので、首を切り落とします。しかし、平家の兵が14、15騎に寄ってたかって兼綱を討ち取ります。

仲綱(兼綱の兄にあたる)も、父・頼政を庇って戦っていましたが、深手を数か所で受け、平等院の釣殿(現・観音堂:写真⑦の右側の建物の位置にあった)で自害しました。

この時に渡辺競(きおう)も自害しています。平宗盛が「生捕りにせよ。のこぎり引きにしてやる。」とまで恨まれた競ですが、生捕りにはならずに散々戦って重傷を負い、腹を掻き切って死んだようです。

仲綱の無念を園城寺でリベンジした競。宗盛にいたぶられた仲綱も辛かったでしょうが、最期は渡辺党の仲間と一緒に平家へ一矢報いて果てただけに、死ぬ前に少しは気も晴れたでしょうか。

3.頼政の最期

一方、頼政は、皆が平等院内で乱戦している状況を見て、釣殿のすぐ脇で、渡辺党の渡辺唱(となう)に

「わが首を撃て!」

と命じます。(写真⑦)

⑦頼政が自害した扇之芝
隣の建物が仲綱の自害した場所

⑧扇(の紙)に辞世の句を
したためる頼政(月岡芳年画)
※松の木の裏が宇治川の土手
しかし、唱は涙をはらはらと流し、

「とてもできません。ご自害為されたその後に、御首を頂きましょう」

と言います。

唱のその気持ちを汲んで、頼政は松の木の下に静かに座り、鎧を脱ぎ、手にしていた扇をバラすと、すらすらと扇の紙の部分に辞世の歌をしたためるのです。

 埋もれ木の花咲くこともなかりしに
  身のなる果てぞ悲しかりける

そして西に向かって十度念仏を唱え、太刀の先を腹に突き立て、うつ伏せになると、早くその苦痛から解脱させてあげようと唱が、その首を斬って落とすのです。

唱は泣きながら、頼政の首を掴むと、すぐ横の宇治川の土手を駆け上り、川原に出ます。(360度写真⑨)

適当な石を見つけ、頼政の首に括り付けると、川の真ん中の水深が一番深いあたりにその首を沈めてしまいました。

自害した主君の首を敵である平家側にだけは渡したくなかったのでしょう。(地図⑩)

⑨唱が駆け上った土手から頼政・仲綱が
 死亡した釣殿・扇之芝と宇治川を見渡す

⑩頼政・仲綱自刃場所等

4.以仁王の最期

⑪以仁王逃亡経路
さて、頼政らの献身により南都興福寺方面へ逃れた以仁王ですが、やはり途中木津川の畔で平家軍に追いつかれます。(地図⑪)

南都の僧兵も、以仁王らのピンチを助けるため、興福寺から7千人で出発します。

南都の息の掛かった奈良北側の山岳地域に光明山寺という大寺院がありました。
何故か現在は完全に廃寺になっているらしく、全く寺跡も見当りません。(写真⑫)

今では幻となったこの寺院に、以仁王ら30騎はひとまず逃げ込もうとします。

しかし、そうはさせじと、追撃してきた平家軍は多数の兵力で、以仁王らに雨あられのように矢を降らせます。

そしてその1矢が、あと石階段を数段登れば、光明山寺の門内に逃げ込めるというギリギリのタイミングで以仁王に突き刺さるのです。(絵⑬)

⑫以仁王が逃げ込もうとした光明山寺跡地
(一切痕跡は残っていません)

⑫光明山寺山門目前で矢が刺さる以仁王
(アニメ「平家物語」より)

光明山寺内に逃げ込み、南都の僧兵7千人が光明山寺に到着していたのなら、また、その後の以仁王の運命も変わっていたのかもしれません。

5.頼政と以仁王がもたらしたもの

頼政のお墓・宝篋印塔は平等院の敷地内、切腹した扇之芝から南西70mのところにある最勝院にあります。(写真⑬)

⑬頼政の墓

また、以仁王の墓所は先の光明山寺跡から少し離れた北西西約5㎞、木津川の近くの高倉神社にあります。(写真⑭)

⑭以仁王の墓(高倉神社)

ちゃんと二人とも立派なお墓が建っていますね。

先程、頼政の辞世の句について書きました。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに
  身のなる果てぞ悲しかりける

これは、自分は埋もれ木のように花を咲かせることが出来なかった。そんな自分の身上が悲しいばかりだという絶望的な歌ですね。

写真⑦の頼政が切腹した扇之芝の右手前に大きな石があるのが分かりますか?
この石に次の歌が刻まれています。

花さきてみとなるならば後の世に
 もののふの名もいかで残らむ

「花が咲いて実となる生涯であったからこそ、(頼政が亡くなった)後の世に
『武士』としての名、(そして約700年続く『武士』の世そのもの)は残ったのでしょう。」

素晴らしいフォローですね。頼政は最期半分自暴自棄に陥りかけていたのでしょうか。このフォローの歌をこの石に刻んだのは、頼政の子孫・太田氏です。天保年間(1830年~1844年)に刻んだもののようです。

まさに冷静に見れば、以仁王の令旨があったからこそ、源(木曽)義仲、源(武田)信義、源行家、源頼朝、源希義ら源氏軍団が挙兵。平家を滅ぼし、頼朝が武士の府である鎌倉幕府を開き、以後700年間武士の時代が続く、このトリガーを切ったのはこの二人なのですから。ちなみに頼朝は石橋山合戦時にも、この以仁王の令旨を竿の先に括り付けて戦ったとの伝承もあります。

⑮以仁王の令旨(撮影用)
(鎌倉大河ドラマ館)

これは私の考えですが、多分、頼政は最期に1つ思い違いをしたのではないでしょうか?それは

「何とか仲綱らと以仁王を平等院から逃がすことはできたものの、平等院に到着する前に6度も落馬する程に疲れた以仁王が、勢いある平家軍の追従をかわして逃げ切ることは難しい。以仁王が平家軍によって殺されれば、全国の源氏に撒いた令旨は、その発布元となる以仁王が居ないため無効となる。となれば源氏再興の芽は全部平家によって摘み取られる。」

と。

だから自分は「埋もれ木」なんだと。。実はこの令旨の有効・無効については、私も文覚を調べるうちに色々と説は出てきました。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも取り上げられていましたが、確かに「令旨無効ではないか、そうだ!後白河法皇の密旨があった!だから挙兵の大義名分は立つ!」と。(写真⑮、⑯)

⑯後白河法皇密旨(撮影用)
(鎌倉大河ドラマ館)
このシリーズでも、文覚が伊豆の流刑地を抜け出し、福原にいる後白河法皇から頼朝のために密旨を取ってきた下りを書いたのは、この大河ドラマと同じ説を取っているからです。

もし、上記のような思い違いが辞世の歌を詠んだ時の頼政の心境であったなら、草葉の陰、いや宇治川の底から、あと5年後には、自分の芽が出て花が咲いた事実を見た頼政は「しまった!歌人としてもちょっとは名の売れたこの頼政、歌を詠み間違えた!」と苦笑いをしていることでしょう。

皆さまはどう思いますか?

次回からまた舞台は伊豆の頼朝、文覚に移ります。

長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【宇治橋】〒611-0021 京都府宇治市宇治

【扇之芝(平等院)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【釣殿(観音堂)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【光明山寺跡】〒619-0201 京都府木津川市山城町綺田柏谷

【頼政の墓(最勝院)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【以仁王の墓(高倉神社)】〒619-0201 京都府木津川市山城町綺田神ノ木48

【大河ドラマ館(鎌倉)】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−53

土曜日

頼朝杉⑯ ~競のリベンジ~

前回、以仁王が父・後白河法皇の軟禁に猛烈に反発して清盛追討の令旨を発出。この令旨は伊豆の頼朝のところにも届きます。

この令旨を発出し平家に反旗を翻すにあたり、以仁王が頼りにしたのが源頼政です。
清盛によって源氏の中では三位という高位に就かせてもらっていた頼政も、前々からいつか平家に対する源氏再興のリベンジを狙ってタイミングを諮っていました。

この以仁王からの要請時に、頼政の息子・仲綱が平家の宗盛から侮辱を受けたこともあって、「今がそのタイミング」と頼政も悟ります。

令旨発布は直ぐに平家の知るところとなります。以仁王は女装をして園城寺に逃げ込みます。(360度写真①)

360度写真① 園城寺本堂

頼政も以仁王の後を追って園城寺に入り、仲綱らと挙兵するのです。今回はこの続きからです。

1.渡辺競のリベンジ

家屋敷を焼いて、園城寺に立て籠もる頼政父子と以仁王。1180年5月21日のこと。
実は、この時、頼政の支援部隊である渡辺党の猛者・渡辺競(わたなべ きおう)という豪傑のエピソードが面白いので紹介させてください。

さて頼政の息子・仲綱(なかつな)が、頼政に泣きつくところを前回描写しました。

「父上、愛馬『木の下』虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」

「・・・」

②渡辺競滝口
(競は滝口の武者なのでそう呼ばれます)

この父子の会話を部屋の外で聞いていた者がおります。渡辺競です。(絵②)

ーそうか。仲綱殿の名馬「木の下」は平宗盛殿から恥辱を受けていたのだな。ー

さて、その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。

競は渡辺党の中核であり、滝口の武者、「競滝口」という異名が付くほどの勇者ですから、当然、頼政も「競、園城寺へ供をせい!」と下知します。

ところが競は

「三位(頼政)殿、私は少々思うところがありますので、ここに残ります。」

と頼政の目を見て言うのです。頼政も、競の目を見てそれ以上は何もいいません。

頼政らが屋敷を焼き払った翌日、競はいつものように滝口の詰所に入ります。詰所は平家の本拠・六波羅の裏手にあり、競が滝口に入るのを平宗盛が見つけました。

「あれ渡辺競が滝口におるわい。奴程の勇者、三位は何故連れて行かなんだのだろう?」

ということで、実は前々から競のような勇者(かなりのイケメンでもあった)を召したいと思っていた宗盛は、彼を六波羅に呼び寄せます。

「御辺は何故、主君三位殿と共に行動しないのか?」

「それでございますが、いつもならすぐに私に色々と指示があるところの三位殿が、この度は何か思うところがあったのか、私には何の指示もありませんでした。気が付けば主君は何と朝敵となって園城寺に立て籠もっています。正直私も困惑している次第です。」

「確かに三位は朝敵となった。ついては競、どうじゃ、この宗盛に使えんか?御辺のような勇者がこの宗盛に奉公してくれれば悪いようにはいたさんが、如何か?」

「もとより、いくら主従の関係が強固であろうと三位殿は朝敵。味方する気はございません。宗盛様にご奉公致しましょう。」

喜んだ宗盛。その日は朝から晩まで、競を何度も呼び出し、主従の信頼関係を深めようと懸命だったようです。そんな心境を知ってか、夕方頃、競は宗盛に1つ願いでるのです。

③上段:宗盛に馬を貸してくれるよう頼む競
下段:秘蔵の名馬「南鐐」を準備する馬方
「宗盛殿、渡辺党の私の知人たちは、きっと今夜、この六波羅に夜討ちを掛けてくるに違いありません。こちらから先制して園城寺を攻撃したいと思います。ところが、渡辺党に私の馬も取られて困っています。1頭お貸しくださいませんでしょうか。」

これを聞いた宗盛。流石は競とばかりに、秘蔵の名馬「南鐐(なんりょう)」を引っ張り出してくるよう近衛の馬方に申し付けます。(絵③)

④白葦毛 ※南鐐もこんな感じ
南鐐とは上質の銀のことで、美しさの表現です。当時サラブレッドはいませんが、きっとそれに近い筋肉質で白葦毛(しろあしげ)の立派な馬だったのでしょう。(写真④)

競は喜び、宗盛に言います。

「お貸し頂いた名馬・南鐐を駆って、これより宮(以仁王)と三位(頼政)の首級を上げたいと思います。」

馬倉から引き出された南鐐。その金覆輪の鞍に競はひらりと跨ると、颯爽と園城寺の門前に駆け付けます。

◆ ◇ ◆ ◇

そして、閉ざされた門の中で陣を張っているであろう頼政や以仁王に、大音声で叫びます。

「競、只今伊豆守殿の『木の下』の代わりに、六波羅の『南鐐』を取ってまいりました!」

おおーっ!

と大きなどよめきが門の中でおこります。直後に園城寺の門が開きます。

南鐐を門内へと進めると、頼政が出てきて(絵⑤)

「競!立派な武者ぶりじゃ!息子・仲綱の恨みを晴らしてくれたのだな!」

⑤頼政陣営
※競は頼政の右下「瀧口渡邊競」とある
◆ ◇ ◆ ◇

源平合戦の緒戦としては、馬ばかりが一番可哀そうに感じる話ではあります。

なんと、この後、南鐐はたてがみとお尻の毛を剃られ、「昔は南鐐、今は平宗盛入道」との文字を焼き印されたのです。写真④の名馬のお尻の毛が剃られ、そんな変な言葉を焼き印された南鐐を思うと涙が出ますね。可哀そうな南鐐。

もう「木の下」も「南鐐」も、「仲綱」とか昔は南鐐、今は平宗盛入道」とか政争の道具に使わないで貰いたい・・・。お馬さんが可哀そうです。

そして、可愛そうな南鐐を六波羅へ馬だけで返したとか。

◆ ◇ ◆ ◇

返ってきた南鐐を見た平宗盛。平家一族に怒りをぶつけます。

「おのれ!競! 知盛(とももり)、はよ園城寺を攻めよ。重衡(しげひら)、競を生捕りにせよ。忠度(ただのり)、ノコギリでやつの首を少しずつ斬って殺すのだ!」

競は見事、源仲綱の恥辱を雪いだのでした。

2.橋合戦(前半)

園城寺に立て籠もった以仁王と頼政・仲綱父子ですが、強大な平家に軍を差し向けられれば、如何にこの園城寺の僧兵が強いと言っても、持ちこたえることは難しいでしょう。

彼らの望みは、全国の源氏に決起を呼び掛けた令旨が効いてきて、反・平家運動が活発化することです。それまでなんとか僧兵らに守られながら時を稼ぎたかったのです。

元々、以仁王らは、園城寺の他に、比叡山、南都(奈良)興福寺の僧兵たちも一緒に決起するよう周旋しておりました。

⑥南都・興福寺
ところが、清盛は比叡山の座主・明雲(みょううん)と親しく、比叡山は以仁王の側にはつかないどころか、一部の僧兵が平家に味方して園城寺を攻めると言い出しました。(清盛が比叡山に米2万石分も送ったので平家側へ傾いたという説もあります。)

ーこれはまずいー

と思った以仁王と頼政は、ひとまず京や比叡山からは遠く、南都興福寺に落ち延びることにしました。(写真⑥)

比叡山の麓にある園城寺は比叡山から攻めやすいのですが、流石に比叡山も南都まで出向いて戦をするような機動力はありません。また平家もいたずらに興福寺等を攻撃すれば、東大寺の大仏をはじめとした日本の伝統ある寺院群が灰燼に帰す可能性があります。それは人心が益々平家から離れることを意味するので、そうそう安易に大軍で攻めるということはできないでしょう。(結果的に平家は南都を灰燼に帰してしまうのですが・・・)

5月25日、園城寺に入って4日目の夜中に以仁王・頼政軍は興福寺目指して行軍を開始します。平家側もこの動きを察知し、即、以仁王らを追いかけ、南都入りを阻止しようとします。この時の平家側の大将は、先に宗盛が宣告した知盛、重衡、忠度

翌26日、以仁王は夜行軍が響いたのか、元々乗馬も馴れておらず。6回も落馬をしたのだそうです。
流石に、これはヤバいと頼政は思ったのでしょう。途中、宇治平等院にて以仁王を休ませることにしました。(360度写真⑦)


⑦宇治平等院(360°写真)

平等院でのこの停滞が命取りになりました。平家軍は追い付きます。

勿論、頼政側も無防備に平等院で昼寝をしていた訳ではなく、以仁王を平等院にて仰臥させると、取って返し、宇治川を渡る橋の橋板を外し、来るべき平家軍と対するために橋たもとに陣を張ります。(絵⑤のイメージ)

平家軍が現れました。怒涛の如く頼政の陣目掛け、橋を渡ってきます。(絵⑧)

⑧宇治川の橋を渡ってくる平家軍(左)
頼政の軍は園城寺の僧兵が主体(右)
※アニメ「平家物語」から

平家先陣が
「あ、橋板が無い!」
と気づいて急ブレーキを掛けますが、後陣の武者たちががむしゃらに押してくるため、人馬もろとも、次々と五月雨で増水した宇治川に墜ち、流されていきます。

また園城寺の僧兵が大活躍します。
まずは、五智院(園城寺の僧院の1つ)の但馬。(絵⑨)
鎧も付けず、楯も持たずに、飛んでくる矢を、見事に斬っては落とし、斬っては落とししてみせたので、後に「矢切の但馬」と云われたとのことです。
⑨五智院但馬の矢切場面
※アニメ「平家物語」から

次に登場するのが浄妙坊。
橋の上で、大声で名乗りをあげ、背負った24本の矢を射始めます。

1本の矢の無駄も無く12人を射殺し、11人に負傷させ、残り1本となったところで、長刀を鞘から抜き放ち、弓も箙(えびら:矢を入れる筒)も、毛皮の沓も脱ぎ捨てるのです。そして裸足で狭い橋桁の上を、まるで広い路を走るように、軽やかに動き回ります。
敵を5人なぎ倒したところで長刀が折れ、更に太刀で8人程切り伏せました。
しかし、太刀も川へおちてしまいます。

この浄妙の大活躍に心酔した一来(いちらい)法師。浄妙を助けようと後に続きます。ところが橋桁は狭く、傍を通り抜けることもかないません。
そこで、「御免候え」といって浄妙の兜の上に手を乗せ、肩を飛び越して浄妙の全面に出たものの、浄妙の代わりに矢に当たり討死してしまいました。

勿論、渡辺競、渡辺省(はぶく)ら渡辺党も大活躍。競はこの戦で自害したという話もあります。

そんなこんなで平家軍は、なかなか頼政の陣に切り込むことが出来ません。

◆ ◇ ◆ ◇

前半戦こそ、これら園城寺の豪傑の勢いに押され気味の平家軍。後半、沈着冷静な頭脳プレイで盛り返します。詳細は次回お話させてください。

ご精読ありがとうございました。
《続く》