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頼朝杉⑭ ~挙兵準備~

さて、八重姫の失敗を思い出した安達盛長(あだちもりなが)の話は前回で終わり、話を元に戻します。安達盛長は伊東祐親(すけちか)のような伊豆の有力豪族を頼朝支援に取り込もうとしたのですが、結局失敗に終わりました。当時の伊東祐親は、動員兵力数は約300騎、対する北条時政は約30騎程度、10倍も違うのです。伊東氏を味方に付ければ伊豆半島の大半は味方に付けたようなもの。

それを八重姫との悲恋という形で終わってしまったのですから、盛長は、心の痛手を晴らしていきたいと考えている訳です。

これで話が「頼朝杉⑨ ~過去の誓い~」の最後に戻ることが出来ました(笑)。この最後のところで頼朝が怪僧・文覚と安達盛長に、旗揚げの準備に、伊豆の豪族や関東武者を味方に付けるように指示するのです。今回はこの話の続きからです。

1.伊豆国内の周旋

さて、頼朝の居る伊豆国には、頼朝や文覚の伝承があちこちにあります。
殊に伊豆半島の南側には文覚が来たというお寺も幾つかあります。(写真①、②)

①嵯峨山永禅寺(南伊豆・松崎町)
この土地の景観が西京に似ていると感じた
文覚が嵯峨野と名付け、持仏とし護持して
いた釈迦如来を安置したと言われている

②文覚山円通寺

③円通寺縁起を説明した看板

中には、文覚が頼朝に挙兵を促したという神社やお寺もあるのです。

そもそも蛭ヶ小島等北伊豆にあった挙兵伝承が、何故南伊豆方面にもあるのでしょうか?

これは私の論考ですが、頼朝が挙兵前に文覚と、または文覚だけで、この地域の豪族への挙兵時の支援を頼みに来たのではないかと考えています。

それが、

「文覚が頼朝との挙兵を(この南伊豆の豪族に)促しに来た」
 ⇒「文覚が頼朝に挙兵を促した」

のように伝承としてのニュアンスが変わっていったのではないでしょうか?(写真③)

表向き平家の治安の中で、南伊豆の豪族らに密議を持って支援要請をした文覚。この荒法師が、これらの豪族と謁見の場所に選んだのが寺社である可能性は高いと思います。そしてなんの話があったのかと村人たちの間で噂になった「頼朝からの挙兵支援依頼」という話が、密議だっただけに後々頼朝が有名になるにつれて、「(頼朝の)挙兵への支援依頼」ではなく、もっとインパクトのある「(頼朝への)挙兵依頼」に話が変わっていったのではないかと想像しています。

2.相模国の調整

伊豆国以外にも文覚は安達盛長と足を延ばし、頼朝挙兵の支援を依頼します。文覚、盛長、頼朝は良く話し合い、伊豆国と隣接する相模国では以下3人の豪族を中心に支援を依頼したのではないでしょうか。

④湯河原駅にある土肥実平夫婦の像
隣の妻は「ししどの窟」に隠れた
頼朝一行に食料等を運ぶ支援の功
が大きいとされています

(1)土肥実平(どひ さねひら)

土肥実平は、現在の湯河原を本拠とした豪族です。相模国の西端ですね。(写真④)

彼は前回、八重姫のところでもお話ししました安元2年(1176年)の伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りにも参加していました。

まあ、湯河原ですから伊豆にも近いということで、頼朝らと交流があったものと思われます。

ここで特筆すべきことは、単に彼が挙兵後に頼朝の元にはせ参じただけの御家人ではないということです。

①まず山木兼隆(やまきかねたか)屋敷を襲撃した頼朝挙兵後、頼朝はこの土肥実平の湯河原まで出て、三浦半島の豪族、三浦義明と合流しようとします。結局石橋山で平家側の大庭景親(おおばかげちか)らと交戦することとなり、ここでの三浦軍との合流は失敗します。

石橋山合戦敗戦の後、実平は、頼朝が箱根の山々を逃げ廻る先導を果たし、最後は真鶴半島から安房(千葉県房総半島の南側)に小舟で彼を搬送、そこで三浦氏と合流できるよう調整するのです。

上記①②の事実から、土肥実平と三浦一族との間では、石橋山合戦の前後に、かなり緻密なコミュニケーションがあったことが伺えます。もしかすると山木屋敷襲撃の挙兵前からかなりコミュニケーションがあったと考える方が自然かもしれません。現代のようにスマホやSNSがある訳ではなく、すべて人による伝達が基本だった当時の状況を考えると、このコミュニケーションを開始する前に、誰かが土肥氏と三浦氏の仲立ちをしたと考える方が自然でしょう。

私はこれがやはり文覚と安達盛長の周旋によるものと考えています。

(2)三浦義明(みうら よしあき)

⑤叶神社(浦賀港)
実際、文覚は当時三浦一族の棟梁である三浦義明を説得に、三浦半島に足をのばしている形跡が見えます。当時の三浦一族の水軍本拠地である浦賀。この良港に叶神社があります。(写真⑤)

この神社の「叶(かなえ)」は文覚が源氏再興という大願を叶えたことからついた名前ということになっています。

ただ、この叶神社の西の台地上(今は住宅街と化していますが)には文覚上人がしばらく逗留していたような跡もあったようで、どうやら源氏再興について三浦一族を説得した文覚は、この浦賀の港から千葉の房総半島を目指し、千葉一族の説得に出たようなのです。それらの支援をしたのも三浦一族なのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵前か挙兵後かは良く分かっていませんが、逗子の葉山の海岸を頼朝が三浦一族の和田義盛と一緒に、三浦一族の本拠に向かう途中、岩の上の松の美しさに感心する場面が、森戸明神の文献に出てきます。(写真⑥)

浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられています。(神社HPより)

⑥千貫松(森戸海岸)

この頼朝と和田義盛の受け答えから、頼朝は、挙兵前に伊豆の配流生活からそっと抜け出して、関東の有力者である三浦一族の支援を仰ぎに本拠のある三浦半島に向かったのではないか?と考えたくなるのです。

というのは、ここから約1㎞北、ヨットで有名な葉山マリーナのすぐ横に「鐙摺城址(旗立山)」という史跡があります。(写真⑦、360度写真⑧)

⑦葉山にあるぽこっとミニチュア
のような山・鐙摺城址(旗立山)

【360度写真】⑧鐙摺城址(旗立山)の頂き
ちょっとした広場になっています

伊豆配流中の頼朝が挙兵前に三浦を訪れた時に、この周辺にいた三浦義明の三男・義久の別館を訪れました。その時、義久から、この小山に城を造る計画がある話を聞かされ、義久が頼朝を案内する時に道が狭く巌に頼朝の鎧(よろい)が摺れたことから鐙摺と名を付けたとの伝承があるのです。確かに道は狭く、私が訪れた当時は、ユリや夏草で登り道が塞がれていました。

この鐙摺城址のエピソードが伊豆配流中の話であることが確実なら、頼朝はここから先、千貫松を通って三浦一族の本拠地がある三浦半島まで行かないで帰ったとは考えづらいですね。であるなら伊豆国で三浦一族と会えばいいのですから。(実際以仁王の平家打倒令旨発出後、京からの帰途の三浦義澄(義明の息子)は伊豆の頼朝に会っています。)

そして、もし三浦半島へ行ったのであれば、この時、千貫松の前を通っているので、この時に「千貫松」のエピソードが出来たと考える方が自然ではないでしょうか?

まあ、これまで述べてきた通り、色々な状況証拠はあるものの、一級史料等への強兵前の周旋については記録がありません。それはある意味、当時の平家に対して秘密裏に進められたことなので、当然と言えば当然ですね。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵直後に三浦一族と合流しようとして石橋山合戦に至る頼朝にとって、三浦一族は直接に会って話をし、十分な味方につけなければならないほど重要な支援豪族との認識だったのだと思います。これらの周旋も、勿論文覚や安達盛長が関与していたのだろうと想像しています。

(3)渋谷重国(しぶや しげくに)

さて、今度は東京・渋谷が関係するお話です。渋谷には渋谷氏という一族がおり、代々渋谷城を居城としていました。現在の金王八幡宮です。(360度写真⑨)

【360度写真】⑨金王八幡宮(渋谷)

この渋谷氏、重国の代では、現在の綾瀬市・藤沢市・大和市方面(いずれも神奈川県)に渋谷荘(しぶやのしょう)という領地をも貰っていました。

⑩早川城址(綾瀬市)
一方、保元の乱、平治の乱で源義朝(頼朝の父)に臣従した佐々木秀義(ひでよし)という近江源氏の一派は、平治の乱で義朝が敗れると、子供たちを伴い、奥州藤原氏を頼って落ち延びようとします。途中この渋谷重国が綾瀬市にある彼の城である早川城に秀義を呼び寄せます。(写真⑩)

そして「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」と引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとるのです。

実は、この佐々木一族が早川城にとどまったことが、後々頼朝の挙兵成功と深い関係を持ってきます。まず秀義が早川城近くの大庭景親(おおば かげちか)に呼ばれ、頼朝討伐計画があることを知り、たまたま、早川城に居た嫡男・定綱(さだつな)を使いとして頼朝にこの切迫した事態を告げに走らせるのです。

詳細はまた頼朝挙兵のところでも描きますが、この後、挙兵時には定綱をはじめ、佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、遅参のエピソード等も含め、頼朝に味方し、数々の武功話があるほど活躍するのです。

ただ、この挙兵前から佐々木兄弟は頼朝の韮山へ出入りしていたという伝承もあり、やはり文覚等が渋谷重国や佐々木秀義らへ頼朝への支援を依頼しに早川城に足を運んだ可能性は高いと推測しています。

3.房総半島まで・・・

⑪千葉常胤像(亥鼻城跡)
さらには、今の千葉県、房総半島は下総の千葉常胤を味方に引き入れようとします。(写真⑪)

石橋山合戦の敗戦後、安房に渡った頼朝は、直ちに下総の千葉常胤に支援を要請するよう安達盛長を送ったことは有名ですが、それ以前に常胤のところに支援要請にいったという記述も吾妻鏡にはあるのです。

逆に千葉常胤の従弟・上総広常(かずさひろつね)は2万もの兵力動員力を持っていながら、頼朝から常胤程の支援要請を受けていません。(常胤の動員数は300騎程度)

これは文覚の人脈と関係があるのではないかと推察できます。

文覚と千葉常胤に近い人物が2人浮かび上がります。

1人目は日胤(にちいん)。もう1人は千葉胤頼(たねより)。

脱線しますが、胤の字が付く人物は千葉一族に近い方多いですよね。千葉氏本流自体も代々この胤の諱を受け継いでいったようです。

長くなりましたので、2人の話は、次回以降、源頼政の挙兵話、頼朝の挙兵話の中でさせていただきたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【嵯峨山永禅寺】〒410-3613 静岡県賀茂郡松崎町岩科北側1312−1

【文覚山円通寺】〒410-3612 静岡県賀茂郡松崎町宮内130

【湯河原土肥実平像】〒259-0303 神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目1

【叶神社】〒239-0824 神奈川県横須賀市西浦賀1丁目1−13

【千貫松】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町堀内1025

【鐙摺城址(旗立山)】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町

【金王八幡宮】〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3丁目5−12

【早川城址】〒252-1123 神奈川県綾瀬市早川3丁目4−964

【亥鼻城跡】〒260-0856 千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目5−6