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頼朝杉⑬ ~八重姫 その4~

 日本3大敵討ちの1つ、「曾我兄弟の敵討ち」をご存じの方も多いかと存じます。

この敵討ち話の出発点は工藤祐経(くどうすけつね)が、曾我兄弟の実の父・河津祐泰(かわずすけやす)を所領問題により殺害するところから始まります。

ところが、この有名な話と、今まで3回に渡り展開してきた八重姫と頼朝の悲恋話が繋がっているという説があるのをご存じでしょうか?

今回は、この説も含め、その後の八重姫や頼朝の話をしてみたいと思います。

1.直後の八重姫

実は色々な話がありますが、その後の八重姫については良く分かっていません。

現地に伝わる話をもとに書きます。

頼朝を伊豆神社まで追いかけた伊東祐親。頼朝のような流刑人に嫁に出すより、乞食にでもくれてやった方がまし、とまで言った割には、北条一族(家臣?)のような立派な家に八重姫を再婚させたようです。

「曽我物語」では、北条義時(江間小四郎)に八重姫を嫁がせた(再婚させた)という記述があります。

音無神社の隣に最誓寺(さいせいじ)というお寺があります(写真①)。

①最誓寺

このお寺は、この北条義時とされる江間小四郎と八重姫の立願によって、亡き千鶴丸の菩提を弔うために建てられたとされています。建てられた当時は同じ「さいせいじ」でも西成寺との名前だったようです。

ただ、「曽我物語」に出てくる江間小四郎は、実は義時ではないというのが通説です。本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。

その後、八重姫は江間小四郎と仲良く平穏に暮らしたのかと思いきや、やはり違ったようです。

2.眞珠ケ淵

悲しみに暮れる日々を八重姫は過ごしていました。
それはそうですね。ある日突然闇に突き落とされたようなものですから。我が子・千鶴丸が父に殺されたことに納得がいかないのは当然ですが、その怒りの感情を共有できる愛すべき頼朝とも一切コンタクトしていない訳です。

②亀石峠から伊東市方面を臨む
ーきっと頼朝様も私と同じ気持ちでいらっしゃるに違いないー

と彼女が考えてもおかしくはありません。

そしてとうとう治承4年(1180年)7月16日、侍女6人と共に伊東の館を抜け出し、伊豆半島の尾根の1つ、亀石峠を越えて韮山の北条館まで頼朝を訪ねていくのです。(写真②)

この頃、丁度頼朝は旗揚げの1か月前。蛭ヶ小島の流刑人用の館から、北条時政の居城のある守山の北側の館に移り、挙兵にあたり伊豆の各豪族への支援の呼びかけや、作戦を練っておりました。(写真③、地図⑬もご参照ください)

その門を伊東からやってきた八重姫らは叩きます。

八重姫の前に現れたのは安達盛長。彼は伊東での八重姫と頼朝のことはすべて熟知しております。また、比企尼(ひきあま)から言われた通りに、伊東へ頼朝を連れて行ったのは安達盛長だったこともあり、八重姫との混乱の責任を強く感じているのです。

八重姫には可哀そうとは感じていますが、蛮勇ふるって、盛長は冷たく言い放ちます。

③守山の北側にあった頼朝挙兵の館跡

「頼朝殿は既に北条時政公の娘・政子殿と夫婦です。八重姫殿が今更会って何とするのですか。」

挙兵直前のこの時期、政子と娘・大姫は、万が一挙兵が失敗した時のリスクを考え、伊豆山権現(伊豆山神社)へ退避させているので、この場所には居ません。

であるからこそ、今、頼朝と八重姫を合わせては、却って頼朝は八重姫を哀れみ、挙兵に影響があるかもしれません。

盛長としては、八重姫を頼朝に会わせ、頼朝の心を乱す訳には行かないのです。

「そうですか・・・。既に政子殿と・・・。」

力が抜けていった八重姫は、それだけ言うとすごすごと引き下がります。千鶴丸が稚児ケ淵に放り込まれた日から、半幽閉のような生活を強いられていた八重姫は、頼朝が政子と結ばれたという事実すら知らなかったのです。

フラフラと覚束ない足取りになった八重姫。

頼朝が待っていると思い、亀石峠を越えてきた時の足取りとは全然違う様子となってしまいました。

半幽閉をされていた伊東の館を飛び出してきたのです。今更、帰る訳にも行きません。重い足を引きずるように元来た道をうつむきながら八重姫は歩きます。

頼朝がいる館の守山を挟んで丁度反対側(南側)に狩野川が流れている眞珠ケ淵という場所があります。

いきなり八重姫はここで入水します。(写真④)

④眞珠ケ淵から飛び立つ鷺

現在、入水したこの悲劇の場所には、眞珠院というお寺が建っています。

境内には八重姫の供養塔を収めた静(しずか)堂というお堂があります。(写真⑤)

⑤静堂

この2本の那木(なぎ)に挟まれた感じのお堂には、正面に八重姫の木像を安置してあると同時に、悲し気な八重姫の絵がおかれていたのが印象的でした。(写真⑥、絵⑦)
⑥静堂にある八重姫の木像      ⑦静堂内の八重姫画

八重姫は衝動的に入水してしまったのでしょうか?狩野川の流れの渦に巻き込まれている様子を見ていた6人の侍女やこの里の人が後に

「梯子があれば姫を救うことができた」

と云い伝えたようで、このお堂の脇に「梯子供養」なる箇所に、ミニチュアの梯子が沢山奉納されていました。(写真⑧)
⑧梯子供養
※実はお堂内の木像の前にも1つ捧げてある

3.曾我兄弟の敵討ち(日本三大敵討ちの1つ)

さて、一方の頼朝ですが、伊東祐親に初子を殺され、八重姫さえも自殺に追い込まれた状況を「しかたがないこと」として看過していたのでしょうか?
蛭ヶ小島で政子と結ばれのうのうと暮していたのでしょうか?
ここからは私の考えが入りますが、智略に長け、細かなことにも結構しつこい頼朝の性格です。話を簡単には終わらせていないような気がします。

そこで急浮上するのが、曾我兄弟の敵討ちの事始めの部分です。

曾我兄弟の敵討ちは、伊東祐親に所領問題で恨みを抱く工藤祐経が、腹心の部下二人に命じて、祐親の暗殺を謀ったところから始まります。

安元2年(1176年)に、流刑人である頼朝を慰撫するために、相模、伊豆、駿河の武士たちが、伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りを催したのです。

狩りの帰途、工藤祐経は、下田街道を見下ろす椎の大木に二人の部下をスナイパーよろしく、弓矢で木の上から、街道を伊東へ戻る馬上の伊東祐親を狙わせるのです。(写真⑨)
街道を行く祐親に向かい、ヒョーと矢を射る二人。(絵⑩)
⑨伊東祐親を工藤祐経の部下2人が弓で狙った椎の木

⑩下田街道を行く伊東祐親を狙う二人
(現地看板から)

矢は、1本は祐親の指を掠めるだけで当たらず、またもう1本は祐親の後ろを歩いていた嫡男・河津祐泰の急所に当たり、祐泰はその場で落命します。

現在、街道沿いのその場所は、「河津祐泰の血塚(ちづか)」という生々しい塚の名前で残っています。(360°写真⑪)
⑪河津祐泰の血塚
(360度写真)

まさに、この塚の背面の山の上に画面を上げてみてください。その上の方にある木が写真⑨のスナイパーが存在していた椎の木なのです。

この河津祐泰が、工藤祐経を敵討ちする曾我十郎・五郎兄弟の父親であり、この父親の敵討ちを、後年頼朝が主催する毎年恒例の行事・「富士の巻き狩り」中で行うのです。河津姓ではなくて、曾我姓なのは母親が曾我氏と再婚したためですね。

この辺り、同ブログの「いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~」から3つ(上・中・下)の話をお読みいただけると嬉しいです。

4.頼朝復讐説

さて、この曾我兄弟が工藤祐経に対し父の敵討ちをすることと、今までお話をしてきた八重姫の悲恋とどう関係があるのかについてお話します。

この富士の巻狩り中に起こった曾我兄弟の敵討ちは、工藤祐経を討ち取った後、曾我の弟・五郎がそこから約1.5㎞離れた頼朝の寝所に乱入し、頼朝をも討ち取ろうとしたのです。(曾我の兄・十郎は工藤祐経の敵討ちの直後、新田四郎という巻狩りに参加していた御家人に殺されました。)

「頼朝公襲撃される」

の報は、その日の昼までには鎌倉へ伝えられ、幕府のある大蔵御所はテンヤワンヤの大騒ぎ。その時に範頼が政子に「鎌倉には私がおりますからご安心ください」との発言が、後に範頼の命取りになる等、頼朝が曾我兄弟に殺されたとの誤報が飛び交う有様だったのです。

では何故曾我兄弟は頼朝公の寝所へ乱入したのか?

色々な説があります。(表⑫)

表⑫ 曾我兄弟が頼朝公寝所へ侵入した理由説
概要内容
説①頼朝への敵討ちの申し開き曾我兄弟の敵討ち自体が、武士としての清廉潔白な行為であることを武士の棟梁である頼朝に訴えたかった。
説②北条時政の陰謀説曾我兄弟の烏帽子親である北条時政が、北条家の安泰のために頼朝暗殺を企画し、兄弟をそそのかして実行しようとした。
(私の上記過去ブログはこれを根拠にしています。)
説③頼朝の伊東祐親への復讐結果に対しての恨み頼朝が工藤祐経を裏から操り、伊東祐親暗殺を企てた。その結果、河津祐泰が死んだことから、河津祐泰の息子・曾我兄弟は、当初から工藤祐経・源頼朝の二人を父の仇として敵討ちを計画した。

曽我兄弟の敵討ちの物語では、所領問題が工藤祐経と伊東祐親の間であり、これが伊東祐親暗殺未遂の引き金を引いたという説が一般的です。

しかし、それだけであれば、なんでわざわざ1.5㎞も離れた頼朝の寝所に曽我の弟は押し入ったのでしょうか?他の説としては、雨の闇夜で道に迷って説もありますが、1.5㎞も離れていますし、あまりに不自然です。

今回私が注目したのは説③です。八重姫との初子・千鶴丸を殺され、有無を言わさず八重姫とも引き裂かれた頼朝が黙っているでしょうか?

この祐親暗殺未遂の時の舞台が「狩り」による「頼朝慰労会」であり、工藤一族と頼朝はこの狩りの時までによしみを通じやすい地理的な位置関係にありました。(地図⑬)
⑬頼朝挙兵時における北伊豆の豪族の状況

伊豆半島の頼朝を支援する地図で明白なのは、やはり伊東氏等、峰々の峠越えをしなければ交流できない東伊豆方面とのコミュニケーションは疎になりがちなのでしょう。
それに比して、狩野川や大見川等、峠の西側地帯は狩野川流域に比較的平な地域が広がり、ここの豪族等とは交流が盛んだったために挙兵時の頼朝支援が多かったようにも思えます。
この辺りの豪族を周旋して廻ったのが、八重姫のこの悲恋話を不憫に思っている頼朝の従者・安達盛長です。

元々、工藤家は頼朝の居た蛭ヶ小島の土地形成に大きく影響を与えた狩野川の地名にもなる名家・狩野氏の一派に属していました。この狩野川の上流「牧之郷」に居を構える狩野・工藤家は「牧」と土地が書かれるように、馬の牧場ということで伊豆半島の名馬を生み出すことも生業にしていたようです。

ご存じのように頼朝は、他の武芸はいざ知らず、馬は好き、かつ得意でしたので、この馬繋がりでも、後に石橋山合戦で戦死する狩野(工藤)茂光やその親戚筋の工藤祐経とも懇意であってもおかしくありません。

となれば

「工藤殿、千鶴丸と八重姫の恨み、なんとか祐親殿に対して晴らして頂けないか?」

と、頼朝が工藤祐経に密かに相談していても不自然ではありません。祐経も所領問題等で祐親を良く思っていないのであれば、頼朝のその言葉で背中を押されるのです。頼朝は祐経の伊東祐親との土地問題による不仲も安達盛長等から聞いていたのでしょう。

そして先の暗殺計画が実行されたのです。暗殺計画は失敗。標的とした伊東祐親は打ち漏らし、代わりに河津祐泰が、その外した流れ矢に当たり死亡。

この話は当時、頼朝が世話になっていた北条時政が知っていたとしたら。そして曽我兄弟が成人して烏帽子親を務めた時政が彼らに真相を全部話をしたとしたら・・・。

全ての筋書きは通りますね。曽我兄弟は、時政から聞いた話を根拠に、富士の巻き狩り中に、工藤祐経だけでなく、祐経を裏で操った頼朝も、その寝所で刺し殺し敵討ちをするつもりだった。(写真⑭)
⑭曾我五郎(弟)が頼朝の寝所
に侵入した狩宿(朝霧高原)

このシナリオだと上記説②との親和性もあります。つまり時政はこの事実を事実として曽我兄弟に伝えるだけで頼朝を暗殺することができるのですから。

真相は分かりませんが、もし八重姫の悲恋が曾我兄弟の敵討ちまで繋がっているとしたら、この事件により死に追いやられた平家討伐時の総大将源範頼(のりより)の死等、この時代の多くの人々にも影響が大きく、人の感情の影響力というものを強く感じさせられる事件です。(写真⑮)

⑮範頼の墓(修善寺)

他にも、八重姫が再婚した江間小四郎は、北条義時とは別人なのか?千鶴丸は実は死んだと見せかけて別の土地で生きていたのか?等々伝承の興味は尽きませんが、一度この辺りで八重姫の物語は筆を置きたいと存じます。

長文、ご精読ありがとうございました。

《つづく》