①腰越から臨む江の島 |
挙兵したばかりの時期は、目の前の敵である平家だけでなく、奥州王国からも攻められる可能性のあった頼朝。
東北の奥州王国17万騎と西の平家から挟撃されれば、鎌倉方はやはりひとたまりもありません。
この当時の奥州藤原一族の長である藤原秀衡(ひでひら)は、義経を京の鞍馬山から平泉に金売り吉次を使って下向させ、養育しました。それは100年前の前九年と後三年の悲劇を繰り返さないために、源氏のピカ一の遺児である義経を奥州王国側に付ける目的だったのです。(前回のBlogもご参照頂けると嬉しいです。こちらをクリック)
2万の軍で攻める予定であった奥州藤原氏がこれを思い止まったのは、この取り込んだ義経が、敵対しようとした頼朝の元に、兄弟の情により駆け込んでしまったからなのです。
後年、討ち取られた義経の御首(みしるし)を見て、「悪は去った」と宣(のたま)った頼朝のくだりは有名ですが、頼朝は義経自身を「悪」と言ったのではなく、彼の御首に奥州王国の御首を重ねていたのだと思います。
ここまでが前回のBlogの概要ですが、先日、頼朝が如何に奥州藤原氏を怖れていたのかが分かる証拠を見つけました。
それが意外にも、かなり身近な有名な観光地にありました。
江の島です。(写真①)
②弁財天のイメージ (ゲームキャラ) |
関東方面に御在住の方なら、一度は行ったことのある江の島。私もガキの頃から、もう何十回も行っている場所ですので、この島に弁財天が祀られていることは良く知っていました。
水の神様である弁財天は、全国池や海等、およそ水のある処、至る所にあり、琵琶(びわ)を持った平和な女性の神様が祀られているというイメージです。(絵②)
ところが、今回調べて初めて分かったのですが、江の島の弁財天は、このようなオーソドックスな弁財天とちょっとイメージが違うのです。(写真③)
弁財天には2つのタイプがあることが分かりました。2臂像(にひぞう)と8臂像(はっぴぞう)です。
2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっています。つまり絵②にみられる典型的な弁財天は、この2臂像のようです。「2」は腕の数なのでしょう。
一方、江の島のこの弁財天は8臂像で、8本の腕に、ありとあらゆる武器を持っており、これを駆使する技量をもっているという像なのです。(写真③)
③江の島の八臂弁財天 |
つまり、江の島の弁財天は8臂像で、これは武神として祀られているのです。
2.文覚(もんがく)の助言
この弁財天、まだ挙兵2年目の1182年に頼朝が怪僧文覚(もんがく)に命じて、江の島に勧請(かんじょう)せしめ、21日間祈願させたものです。(絵④)
教養高く、深い知見を持った文覚という人物は、非常に反骨精神が強かったようです。
時の権力者である後白河法皇に反発し、暴言を吐いて、残念なことに伊豆に流刑になってしまいました。
(文覚の過去や伊豆での生活については同志の内田氏のBlogが楽しいです。是非ご参照ください。ここをクリック)
文覚は、当時同じく伊豆に流されていた頼朝に会い、父・義朝のドクロを見せ、平家打倒の挙兵を促したという伝説が残っています。
このドクロを見せた辺りの話の真偽はともかく、頼朝の挙兵に関して、頼朝が利害を超えて相談できる相手だったように感じます。当時の頼朝の後見役である北条時政らは、あくまで自分達の利害から入りますから、利害を超えて相談できる人はそんなには居なかったでしょう。
④祈願する文覚(歌川国芳画) |
頼朝は、「既に平家の公達の中に人物は居ない。これだけ政治の表舞台でも一般人からも評価の悪い平家は、もう滅びるのは時間の問題」と捉えていたのだと思います。
問題は秀衡が率いる奥州王国17万騎。頼朝自身本当は西へ平家討伐に行きたいところですが、それではこの鎌倉に奥州王国が攻め込んで来ればひとたまりもありません。ですので、坂東武者求心力の源である頼朝は鎌倉を動けない。彼の悩みは深いのです。
そこで頼朝は、当時罪を赦されて帰洛(きらく)していた文覚を鎌倉へ呼び寄せ、この秀衡対策に悩んでいることを相談します。すると文覚一言。
「弁財天を江の島に勧請なされい。」
「は?弁財天?」
頼朝も何で弁財天なのか分かりません。毘沙門天や阿修羅のような軍神を勧請するならまだ分かりますが、どうしてそんなやさしそうな弁財天を?
教養深い文覚は答えます。
「頼朝殿が一番恐れているのは、奥州王国の「金」ではないか?
弁財天は弁天とは違い、財を操る神でもある。
この弁財天を江の島に勧請した後、藤原秀衡の調伏祈願(対立者の破滅の祈願)をすることで、奥州王国の財力を削ぎ、秀衡を滅ぼすことができる。」
⑤頼朝が江の島に建てた鳥居 |
この時、家臣団を引きいて江の島に来た頼朝は、写真⑤の鳥居を建てて行ったと吾妻鏡に記録があります。(写真⑤)
3.秀衡の心労
頼朝は、この祈願の後、文覚の言葉通り、早速奥州王国の財に切り込み、この王国を攻め滅ぼす策を考えます。
そして、平家討伐後、挟撃の憂いが無くなり、強気になった頼朝は、早速秀衡宛てに以下の要求を突き付けるのです。
「金・駿馬等の平泉から朝廷へ献上してきた品々については、今後、鎌倉から朝廷へ取り次ぐこととするため、一度鎌倉へ納めること。」
この頼朝の要求を受けるか受けないかで、奥州藤原一族の中でもかなり紛糾しました。
何故なら、これを受け入れたら、奥州王国は鎌倉より一段下ということになってしまいます。
しかし、時の権力に同調し、そのパワーバランスの上に成り立って来た奥州王国。
長である秀衡は苦渋の色を顔に浮かべながら
⑥藤原泰衡(ゲームキャラ) 史実より「乙女ゲーム」で有名 になってしまったようです(笑) ※彼の肖像画、このキャラしか ググっても出て来ないのです (T∇T) 出典:こちらをクリック |
秀衡はこの時既に65歳、とても鎌倉に対抗する軍を指揮できる歳ではなく、息子の泰衡(やすひら)もその器量はありません。(絵⑥)
また藤原一族も一枚岩ではなく、対立もあるため、鎌倉に勝つためのリーダーシップを取れる人物が平泉には居ないのです。
この時、まだ義経も奥州には来ていません。吉野の山で静御前と別れている頃です。
秀衡らは、この要求を受け入れます。
更に、頼朝は奥州財崩しのための二の矢を打ちます。今度は朝廷を通して院宣として以下の要求をしてきます。
「大仏のある東大寺再建に3万両出せ。」
朝廷の院宣です。結局頼朝は自分に対抗するだけの奥州王国ではなくて、朝廷にも対抗しているという確証が欲しいのです。
ただ、日頃朝廷と貢ぎ物等で強固なコネを作ってきた奥州藤原氏は、この要求を今度はガンとして跳ね返します。
「今まで慣例では千両が良いところだ。3万両は多すぎる。」
頼朝は、朝廷に「ご覧ください。奥州は云う事聞かない悪い奴でしょ?もっと圧力掛けて下さい。」と言いますが、朝廷は日頃の奥州王国との付き合いがありますから、差して問題視しません。
文覚が祈願した通りにはなかなか行きません。頼朝も少々焦ってきましたが、実はちゃんとこの策は効を奏し始めていたのです。
この奥州王国の財を操るいやらしい政治的駆け引きこそが、頼朝を始め、人には予測出来ませんでしたが、江の島の弁財天からすると、非常に重要なプロセスだったのです。
2つの大事を引き起こすのです。
1つは、政治的駆け引きに業を煮やした秀衡が、元々構想していた最後の手段に出てしまうのです。
4.総大将義経
それは逃亡中の義経を平泉に招き入れることです。金売り吉次を使ったかもしれません。(写真⑦)
⑦変装し逃亡する義経一行 (満福寺襖絵) |
前回のBlogでも描きました(詳細はこちら)が、秀衡は、100年前の前九年・後三年の経験を活かし、平治の乱で敗れた義朝の遺児の中でピカ一と思われる義経を鞍馬山から吉次により平泉へ連れ出し、養育し味方につけることで、源氏からの災いをリスクヘッジしようと考えていたのですから。
頼朝のいやらしい政治的駆け引きに疲れた秀衡は、義経を総大将とする乾坤一擲に掛け、息子泰衡をはじめとする奥州藤原一族に、義経に従い一丸となって鎌倉方と戦う準備をします。これは秀衡の深慮遠謀(しんりょえんぼう)なのです。
とうとう最後の手段に出た奥州王国。ともあれ鎌倉方と戦う機運が熟しました。
5.頼朝の深慮遠謀
逆に、頼朝はワザと義経を平泉まで逃しているのです。
義経の行動を殆ど掴んでいたにも係わらず、これを泳がせ、平泉まで行かせたのは2つの理由からです。
1つは、頼朝を頂点とする行政ハイアラーキを確立するために利用しました。つまり義経を捕まえるためと称し、全国に「守護・地頭」という追捕機能を配したのですね。
ワザとどこに居るか分からんから、全国に追捕機能を設けるみたいな形で、自分の臣下を全国配備しました。この守護・地頭が、この後武士の時代が終わる幕末までの延々700年間、武士の支配システムの基礎として如何に影響力のある役職かは、皆さん良くご存知の通りです。
そしてもう1つは、勿論、奥州王国を滅ぼすためです。義経を奥州が保護すれば、滅ぼすのに十分な口実ができる訳です。
奥州17万騎に対して、この後の奥州攻めで鎌倉方が出した軍勢は総数28万4千騎。圧倒的に有利です。そして、泰衡などは大した人物ではないと踏んでいます。
⑧一番深慮遠謀な感じの頼朝の肖像画 ※頼朝の肖像画や彫刻は沢山ありますが、 やはりこの顔が一番大戦略家の表情? |
秀衡と戦って本当に勝てるか?
非常にシンプルなこの1事は、頼朝と秀衡の戦略・政略に対する「深慮遠謀」、どちらが深く、どちらが遠くまで見通せているかという合戦です。兵の多寡、いくさの戦術ではなく、戦略合戦です。これだけは人の奥深さ故、どうしても読めないのです。
6.調伏祈願の効果
この最後の不確定な要素、ここで2つめの大事が起こるのです。江の島の弁財天への調伏祈願がちゃんと作用してしまったとしか思えません。
秀衡が薨去(こうきょ)します。享年66歳。
脊髄に持病を持っていたと言われますが、急に悪化してしまいます。
秀衡は最期を悟った時、最後の気力を振り絞り、泰衡ら息子と義経を集め、「義経を総大将として、皆で力を併せ頼朝に対抗する」という起請文を書かせます。
秀衡としては、頼朝らが攻めて来る一事が気になって仕方なく、死んでも死にきれない心境だったのでしょう。
ただ、頼朝の江の島における調伏祈願には勝てなかったということでしょうか。(写真⑨)
⑨夕焼けと富士山をバックにした江の島(手前) |
秀衡があと1年生きていたらと思うと・・・残念です。。。
7.おわりに
藤原秀衡という巨星を失った奥州藤原氏は、もう大戦略家の頼朝の敵ではありませんでした。後は弁財天に頼らなくても、彼が思うように義経を始め、奥州藤原氏を滅ぼしたという感じです。
次回は平泉の高館(たかだち)での義経滅亡等を描きますので、ご笑覧宜しくお願いします。
この私の話とは違って、頼朝に追われる義経が平泉に帰ってきたことを、困惑しながらも受け入れてあげた秀衡というのが通説になっています。義経を受け入れたがため、奥州王国は滅びたとも・・・。
ただ、もしそうであるなら、秀衡が鞍馬山から、平家から糾弾されるリスクを冒しても、義経を連れて養育したことや、義経を総大将にして一族結束して戦えと云った秀衡は、義経に対しては単に人の好い爺さんだったとしか思えません。また、もし義経が平泉に来る前に捕まったら、頼朝は奥州王国を滅ぼさなかったでしょうか?そうなら江の島に弁財天を勧請するでしょうか?
⑩江の島弁財天(江島神社) |
すべては江の島の弁財天が知っていますね。(写真⑩)
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
【江島神社】神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号