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日曜日

驚神社 ~石川牧と頼朝・畠山重忠の名馬たち~

今年は午年。さらに60年に一度の「丙午」という、特別な年です。 この貴重な機会に合わせ、13年前に書いたブログをリニューアルすることにいたしました。 「馬」に関する記事を、改めて投稿させていただきます。

➀たまプラーザは牧だった?

今から19年前、横浜市青葉区の美しが丘西に引っ越してきた頃のことです。当時はまだ、家の前には広々とした空き地が残っていました。

この辺りは横浜と川崎の分水嶺(ぶんすいれい)にあたり、南は鶴見川、北は多摩川へと続く斜面になっています。私はその独特な地形を見て、特に南側斜面は「ここは昔、牧場だったのではないか」と直感的に思いました。

驚いたのは、そう確信してからわずか一週間後のことです。なんと、我が家の前を本物の馬が歩いているではありませんか!それも真っ白で美しい馬が、馬車を引いて進んでくるのです。(写真①) その後も、この馬車や、時には馬車は引かずに、拙宅前をお散歩する姿を、何度も見かけるようになりました。

公園や動物園ならいざ知らず、ごく普通の住宅街になぜ馬が……?

「やっぱり、ここは最近まで牧場だったんだ!」

そう思って調べてみたところ、意外な事実が分かりました。 実は、近所の動物病院の院長先生が馬のオーナーだったのです。普段は東京・成城にある大学の乗馬部に預けている馬を、時々病院へ連れてきては、我が家の前を含む大通りをお散歩コースとして走らせていたのでした。

右上の写真は他の方のブログからお借りしたものですが、景色から察するに我が家から100メートルほどの場所で撮影されたようです。4車線もある大通りを颯爽と進む姿は、まさに圧巻。

どうです?実に見事な馬車でしょう。 決して見世物などではなく、これが当時のこの街の、日常の風景だったのです。

1.驚きの真実!我が家の周辺には本当に「牧」があった

前置きが長くなりましたが、住宅街を馬が悠々と闊歩する光景は、古の「牧(まき)」に思いを馳せていた私にとって、まさに衝撃的な出来事でした。

独特の地形や、日常に溶け込む馬の姿を目の当たりにして、「もしかしたら、ここはかつて牧場だったのではないか?」と、半分は空想に近い直感を抱いていました。

もともと関東平野は名馬の産地であり、それが東国武士たちの台頭を支える原動力となった歴史があります。「この場所も、その歴史の一部だったのかもしれない」と自分なりに確信を強め、改めて調べてみました。

すると、驚いたことに……なんと、本当にこの場所には「牧」が存在していたのです。
②石川牧
文献の土地名から私が作成

2.石川牧の総鎮守「驚神社」の由来

地図②のA地点に位置するのが、かつての石川牧の中心施設、今回の史跡巡りの真打ちともいえる「驚(おどろき)神社」です。(私がさっきから驚いてばかりいるからこの名前になった……というギャグではございませんので、あしからず!)

実は鎌倉時代以前から、昭和14年という比較的最近まで、地図②に記された広大なエリアは「石川牧」と呼ばれる巨大な馬の牧場でした。その牧場全体の守り神(総鎮守)として建立されたのが、この驚神社なのです。(写真右)

では、なぜ「驚」という一風変わった名前がついたのでしょうか?

この「驚」という漢字、上下に分解してみると「敬」と「馬」、つまり「馬を敬う」という構成になっています。もともとは縦書きで「敬馬(けいま)神社」と記されていたものが、いつしか一文字に合わさって「驚神社」になったのだとか。
非常に趣のある、そして馬への愛が詰まった素敵な当て字だと思いませんか?

3.源頼朝も認めた?超名馬の生産地としての誇り

さて、我が家もその範囲に含まれていた「石川牧」。一体どれほどの馬を産出していたのでしょうか。

調べてみると、驚くべき伝承が残っていました。なんと、源頼朝の第二の名馬「磨墨(するすみ)」と、名将・畠山重忠の名馬「三日月(みかづき)」は、この石川牧から献上されたというのです。源氏の歴史を語る上で欠かせない、トップクラスの名馬がここから誕生していたとは驚きです。こちらがその記事です。(やはり、驚神社だけに驚いてばかりいますね。)

もっとも、「磨墨」の出身地については、大田区の馬込や駿河、香取、岐阜など諸説あります。さすがは頼朝の愛馬、各地で「うちこそが故郷だ」という引き合いが沢山あるのでしょう。(写真④)
④磨墨の像(馬込)

逆に、馬込や駿河、香取、岐阜などの地方から、磨墨は、この石川牧に連れてこられて、調教や走りの訓練をするのであれば、鎌倉に近い石川牧は有力な牧と思います。名馬の一時逗留・調教場所だったのではないでしょうか?

ちなみに磨墨といえば、もう1頭の頼朝の第1の名馬・池月(いけづき:生唼とも書く:写真⑤との宇治川合戦での先陣争いが有名ですね。ちょっと話が脱線しますが、この名馬2頭宇治川合戦の一番乗りエピソードの話を書きたいと思います。

詳細は後述しますが、実はこの池月も割とこの石川牧に近い新横浜の辺りで生涯を終えていることが分かりました。

4.名馬を巡る駆け引き:梶原景季と佐々木高綱

物語の背景には、源頼朝を支えた二人の武士の存在があります。

一人は、石橋山の戦いで窮地の頼朝を救った梶原景時(かげとき)。彼は後に軍監として源範頼・義経軍に従軍しますが、その嫡男である景季(かげすえ)もまた、木曽義仲討伐軍の一員として戦いに加わりました。
⑤池月の像(洗足池)

出陣を前に、景季は頼朝にある願い出をします。 「どうか、第一の名馬『池月』を今回の討伐に貸していただきたい」

武士にとって馬は命を懸けて戦うための「最大の兵器」です。当時は、優れた馬を主君に願い出ることは決して恥とはされず、むしろ戦いへの強い意欲の表れでもありました。

しかし、頼朝はこれを拒みます。 「池月は、いよいよ私自身が平家討伐に出陣する時まで、厩(うまや)に置いておきたいのだ」

それでも景季は諦めません。「これほどの優秀な馬を、厩に繋いだままにしておくのはあまりに勿体ない」と食い下がります。その熱意に根負けした頼朝は、「ならば、第二の名馬『磨墨』を貸そう」と約束しました。景季は喜び、磨墨を連れて西へと向かいます。

ところが、事件は西へ向かう道中で起こりました。 名古屋(鳴海)あたりで一息ついている景季の目の前を、なんと佐々木高綱(たかつな)が、あの「第一の名馬・池月」を曳いて歩いてくるではありませんか!

佐々木高綱といえば、頼朝挙兵の初期から幾多のピンチを共に乗り越えてきた、いわば「旗揚げ以来の同志」です。頼朝は、自分に準ずる特別な功労者である高綱に、密かに池月を託したのかもしれません。

ちなみに、この高綱は後に、現在の新横浜駅近くにある「烏山(からすやま)」に屋敷を構えることになります。(写真⑥)
⑥佐々木高綱の屋敷があった烏山八幡宮
※日産スタジアムが正面に見えます

話を戻します。

池月を引いて歩く佐々木高綱の姿を見た景季は、言葉にできないほどのショックを受けます。 「あれほど必死に頼み込んだ私にはくれなかったのに、なぜ高綱には与えたのだ! 武士として、これほどの恥辱はない……」

あまりの悔しさに、景季は「高綱を討ち果たし、自分も自害して果てよう」とまで思い詰めます。そして、決死の覚悟で高綱のもとへ歩み寄り、こう問いかけました。

「おい、高綱。それは間違いなく『池月』だな? 一体どうした、鎌倉殿(頼朝のこと)から下賜(かし)されたのか?」

すると、高綱は平然とこう答えたのです。 「おお景季か。この馬か?……実はな、鎌倉殿にお願いしても絶対に貸してもらえないと思ったから、厩(うまや)からこっそり盗み出してきたのさ!」

これを聞いた景季は、驚きで目を丸くしました。 「あはははは! そうか、盗み出したのか! その手があったか!」

高らかに笑い飛ばした景季は、「上には上がいるものだ」とすっかり毒気を抜かれました。そして再び愛馬・磨墨を連れて、清々しい気持ちで京を目指して歩き出したのです。

◆ ◇ ◆ ◇

しかし実は、高綱が言った「盗み出した」という話は、真っ赤な嘘でした。

真実はこうです。高綱も景季と同じように「池月」を欲しがって頼朝に食い下がり、頼朝も「またか!」と辟易しながらも、「いいか、絶対に誰にも『借りた』と漏らすなよ」と念を押して貸し与えていたのでした。

磨墨を連れた景季のただならぬ殺気を感じ取った高綱が、とっさについた機転の嘘。これが、一人の武士の命を救い、のちの伝説へと繋がっていくのです。

5.伝説の「宇治川の先陣争い」

⑦宇治川先陣之碑
平家を京から追い落とした木曽義仲(きそ よしなか)でしたが、その軍勢の振る舞いは横柄で、義仲自身も宮中の慣習に馴染めず、後白河法皇と対立してしまいます。法皇の命を受けた頼朝は、早速源範頼・義経に軍を与え、西上させるのです。この鎌倉からの軍は、義仲を討つべく、宇治川を挟んで対峙しました。

この時、全軍の先頭を切って川を渡る「一番乗り」を競い合ったのが、あの二人です。(写真⑦)

頼朝から名馬を授かった景季と高綱。二人は「主君からこれほどの馬を借りた以上、何としても一番乗りを果たさねばならない」と、凄まじい執念で競り合いました。

まず「ざんぶ」と川に乗り入れたのは、梶原景季でした。磨墨は泳ぎが得意なだけでなく、主の命を忠実に守る、実にかしこい「賢馬」です。これはもしかすると、我らが「石川牧」での英才教育?(調教)が実を結んだ結果かもしれません。

一方、佐々木高綱も必死に池月の尻を鞭で叩きますが、池月は水が嫌いなのか、なかなか川に入ろうとしません。実はこの池月、とんでもない「暴れ馬」だったのです。

池月には決まった育成の記録がありません。一説には、洗足池(東京都大田区)の周辺を飛び回っていた野生馬だったと言われています。月明かりに照らされた馬体が、池の水面に映る月と重なってあまりに美しかったため、それを見た頼朝が「池の月と同じくらい美しい!」と感動し、「池月」と名付けたのだとか。(写真⑤)

頼朝は石橋山合戦敗北後、房総半島安房から江戸湾(東京湾)をぐるっと廻り、鎌倉入りを果たそうとしていました。その途中、この洗足池辺りを通ったらしいです。

「このままでは、鎌倉殿から拝領した第一の名馬の名が廃(すた)る!」

焦る高綱は、嫌がる池月を強引に川へ押し込み、磨墨を追います。しかし、磨墨はすでに喉元まで対岸に迫り、今にも一番乗りを達成しようとしていました。(絵⑧) 

⑧宇治川合戦で腹帯を直す景季
その時、高綱が磨墨の背にいる景季に向かって叫びました。

「おい景季! 馬の腹帯(はらおび)が緩んでいるぞ! そんな無様な姿で一番乗りを果たしても、末代までの恥だぞ!」

生真面目な景季は、慌てて腹帯のチェックを始めました。その隙を見逃さず、一気に横を駆け抜けた高綱。対岸に渡り切るや否や、「やあやあ、我こそは近江源氏、佐々木家が四男、佐々木四郎高綱なり!」と大音声で一番乗りの名乗りを挙げたのです。

この後も二人は切磋琢磨し、平家討伐において輝かしい戦功を立てていきます。

6.頼朝の「人馬活用」に見る深慮遠謀

一説には、この馬の与え方にこそ、頼朝の深い洞察力が隠されていると考える人もいます。

もし情熱的で直情型の景季に、暴れ馬の池月を与えていたら、二人(二頭?)で大暴走していたかもしれません。沈着冷静な高綱だからこそ、気性の荒い池月をコントロールできたのです。 逆に、石川牧で調教された素直な磨墨であれば、景季の熱意を余さず受け止め、最大限の能力を発揮してくれる――。

二人の武将の性格と、二頭の名馬の特性を見抜き、最高のパフォーマンスを引き出した頼朝の采配。もし本当にそこまで計算していたのだとしたら、頼朝という人物は恐ろしいほどの天才プロデューサーですね。

7.受け継がれる絆と、忘れ去られた名馬の今

さて、この物語の主役の一頭である「池月」ですが、実は先ほどご紹介した佐々木高綱の屋敷(現在の新横浜駅近く)のすぐそばに、彼のお墓を見つけました。(写真⑨)
⑨池月のお墓である馬頭観世音
※この右側の道路を1か月に2,3度往復しています

高綱の屋敷のすぐ近くに池月の墓があるということは、この名馬は結局頼朝に返されることなく、最期まで高綱と共に過ごしたのでしょう。

「暴れ馬で誰の言うことも聞かない」と言われた池月が、高綱にだけは心を許し、生涯を共にするパートナーとなった……。頼朝もまた、二人の間に生まれた強い絆を認め、そのまま高綱に託したのかもしれません。そう考えると、戦場のエピソードもまた違った輝きを帯びて見えてきます。

しかし、そんな歴史の余韻に浸る一方で、今の現状には寂しさを禁じ得ません。

⑩馬頭観世音の左側にある看板
宇治川の合戦で一番乗りを果たした名馬・池月を祀る「馬頭観世音」ですが、写真⑩の通り、その案内看板は見る影もなく傷んでいます。下半分は剥がれ落ち、そこにあったはずの「池月(生唼)」の名も、今では一文字も読み取ることができません。

これほどの名馬が眠る場所が、無関心の中に放置されているのは、歴史を愛する者として非常に残念でなりません。

あまりに忍びないので、今度この記事をプリントアウトして、クリアフォルダに入れ、そっと看板の横に貼ってこようかと思っているところです(笑)。かつてこの地を駆け抜けた白い馬たちの記憶を、少しでも多くの方に知っていただくために。

8.名将・畠山重忠と愛馬「三日月」の絆

石川牧が生んだもう一頭の名馬、それが畠山重忠(はたけやま しげただ)の愛馬「三日月」です。かつて、この「三日月」が私の家の周りを闊歩していたのではないか……そう想像するだけで、歴史のロマンに胸が躍ります。

思えば小学生の頃、学研の『科学と学習』の付録漫画で「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を読んだのが、彼との出会いでした。

崖を前にして、「鹿が通れるなら、同じ四足の馬も通れるはずだ!」と勇ましく駆け下りる源義経。その姿に「かっこいい!」と痺れる一方で、私の心に強く残ったのが畠山重忠の行動でした。

「こんな険しい崖を駆け下りては、馬がかわいそうだ。私が背負って行こう」

そう言って、自分よりも大きな馬を軽々と背負い、崖を下っていく重忠の姿。その圧倒的なパワーに驚くと同時に、相棒を労わる優しさに深く感動したものです。 そう、その時背負われていた馬こそが、石川牧ゆかりの「三日月」なのです。あの有名な伝説の主役が、この土地と繋がっていると思うと、時代を超えて急に身近な存在に感じられます。

⑪畠山重忠の馬担ぎ像
左上の写真は「畠山重忠公史跡公園」にある銅像ですが、やはりしっかり「三日月」を背負っていますね。……実物を見ると、その光景はなかなかシュールで、ちょっと微妙な気もしますが(笑)。(写真⑪)

実は重忠には、昔から不思議な縁を感じていました。鎌倉にある彼の屋敷跡は、私が中学生になる頃までずっと草ぼうぼうの空き地だったため、「鎌倉時代からずっと空き地のままなのかな?」と子供心に勘違いし、勝手に親近感を抱いていたのです。

さらに、彼が最期を迎えた合戦の地「鶴ヶ峰」も、現在の住まいからほど近い場所にあります。まさに私にとって、切っても切れない縁のある武将。彼については、またいつかじっくり特集を組んでみたいと思います。

9.「馬を敬う」心を現代に

これほどまでに名だたる武将たちの愛馬を輩出してきた、伝統ある石川牧。その総鎮守である「驚神社」ですが、残念ながら現代では、知る人ぞ知るマイナーな史跡となってしまった感があります(関係者の皆様、ごめんなさい!)。

普段、境内を訪れる人はまばらで、すぐそばまでマンションなどの開発の波が押し寄せています。あざみ野や中川などの洗練された住宅街の中で、かつての広大な牧の面影を留めておくのは、時代の流れとして仕方のないことなのかもしれません。

しかし、私がこの地に越してきた時に感じた「ここは昔、牧だったのではないか」という直感。そして、住宅街を悠々と闊歩していたあの白い馬の姿――。

それらはもしかすると、鎌倉時代という遥か古の時代から、この地に宿る馬たちの霊が私たちに語りかけていた「記憶」なのかもしれません。

便利さを追求し、車社会となった現代。私たちは「馬を敬う」という心を忘れてしまってはいないか。あの白い馬の登場は、そんな現代人へのアラームだったのではないか……。

9月。蝉時雨(せみしぐれ)が降り注ぐ境内に、参拝客は私たちだけ。 その静寂の中で、私はそんな懐古的な想いに深く浸っていました。

馬を敬い、馬と共に生きた先人たちの息吹は、今もこの街のどこかに、確かに息づいています。

⑫驚神社本殿
※13年前の写真です

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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【驚神社】神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目
馬頭観世音(池月のお墓)】〒222-0035 神奈川県横浜市港北区鳥山町462
畠山重忠の馬担ぎ像】〒369-1107 埼玉県深谷市畠山519

頼朝と愉快でもない(?)仲間たち ~三浦一族番外編~

源平合戦というと、つい義経の華々しい活躍に目が行きがちなので、今回は頼朝の挙兵と、それを助けるのに功績の大きかった三浦一族等に焦点を当ててシリーズを描きました。

今回は、このシリーズの中で出て来た人物等について、私の生活圏内にも沢山の、マイナー史跡があることが分かりましたので、番外編という形でお送りしたいと思います。

1.二枚橋
①二枚橋

最初は義経です。挙兵した兄、頼朝がその後石橋山合戦で敗れたとの報を聞き、奥州藤原秀衡の元に居た義経は心を痛めます。

ところが、頼朝が安房国に舟で脱出し、また再起の旗を挙げたと聞いて、居ても立っても居られなくなった義経は、藤原秀衡の許可も得ずに、さっさと弁慶と一緒に頼朝のところに駆けつけ、少しでも役に立ちたい、兄を助けたいと、東北から関東へ南下します。

前のシリーズまでに書いた通り、頼朝の動きは迅速で、旗揚げから1か月半で5万騎に膨れ上がった頼朝軍は鎌倉入りを果たします。

義経も、南下途中で、頼朝の鎌倉入りの話を聞いたのでしょうね。急遽鎌倉に向ったのだと思います。そこで、私の近所に残っている、鎌倉へ向かう道の途中にあるのが、写真②の「二枚橋」です。

小さな橋ですが、当時、ボロボロだった木橋では、義経が騎馬で渡れないため、弁慶らが強化工事を施したようです。橋板を二重化し強度を上げることで、騎馬での通行を可能にしたので、二枚橋と言われたようです。現在の橋には、写真のようにわざわざレリーフまで彫ってあります。(写真①)

しかし、こんな小さな橋に、そんな大層な工事をしていたからでしょうか?(笑)
義経らが鎌倉入りすんでのところで、頼朝は、富士川の戦いに繰り出してしまうのです。

なので義経主従は、前回のblogに描いたように富士川近くの対面石まで頼朝軍を追いかけることとなるのです。

しかし、この工事をした当時の私の家の周り(小田急百合ヶ丘駅付近)の住民は喜び、義経主従に感謝したことでしょう。
やはり、義経は頼朝程、冷徹に成れなくても、住民にまで情に篤い良い奴ですね。

2.馬頭観世音と佐々木高綱(たかつな)
②近所(新横浜)にある馬頭観世音

その対面石で義経と再会した頼朝は、この後の戦には出ず、源範頼と義経に任せてしまいます。富士川の戦いの次の戦は、平家との対決ではなく、実は平家を都から追い払った木曽義仲との戦、宇治川合戦になります。

この宇治川合戦に関する佐々木高綱のエピソードを1つ描きます。

これも奇遇なのですが、我が家から私の実家に行く途中の抜け道に、写真②のような馬頭観世音があります。(写真②)

馬頭観世音なんて、大体石碑一つみたいなものが多い中、この立派な馬頭観世音はなんだろう?と常日頃思いながら、通過していました。

今回の調査で、実はこれが、頼朝の山木判官屋敷襲撃で大活躍した佐々木兄弟の4番目佐々木高綱、及び宇治川合戦と関係が深いことが分かりました。(写真③)

石橋山合戦で、頼朝らを大椙の洞で発見した梶原景時は、これを見逃すことで、後日、頼朝が鎌倉入りしたタイミングで味方に付き、軍監として範頼・義経軍に従軍します。
③佐々木高綱の屋敷跡(現 鳥山八幡宮)
綾瀬市の渋谷氏の早川城から高綱は 
現在の新横浜近辺に移住したらしい 

また、この時、景時の嫡男、景季(かげすえ)が張り切って義経らに同行し、木曽義仲・平家討伐軍に参加します。

そこで、景季は頼朝の第1の名馬、生唼(池月)(いけづき)を、今回の討伐に貸して欲しいと頼朝に懇願します。

武士は命を懸けて戦うので、特に最大の兵器である馬に関して無心することは恥とされなかった時代です。

しかし、頼朝は「あれは、いよいよ私が平家討伐の出馬となるまで厩で取り置く」と言って拒否します。しかし、そんな優秀な馬を厩に繋いでおくのは勿体ないと食い下がる景季に根負けし、「では第2の名馬、磨墨(するすみ)を貸そう」ということになりました。

磨墨もかなりの名馬です。(拙著「驚神社」にも出てきます。リンクはこちら
④佐々木高綱屋敷跡(鳥山八幡宮)から
新横浜の日産スタジアムを臨む  

景季は喜び、磨墨を連れて西に向かいます。

ところが、名古屋辺りで、途中休んでいると、佐々木兄弟の高綱が、この第1の名馬、生唼を曳いて歩いてくるのを目撃します。

景季はショック大です。あれだけ頼んだのに頼朝は自分にはくれなかった生唼を、高綱には与えた!なんたる恥辱。

景季は、高綱を殺して、自分も自害して果てようと考えます。

高綱の所にやってきて、景季は言います。

「おい、高綱、それは生唼だな?どうしたその馬。頼朝殿に下賜頂いたか?」

「景季か、この馬か?この馬はな・・・。実は、頼朝殿に頼んでも貸してもらえないと思い、厩から盗み出してきた!」

景季は、目を丸くします。そして

「あははははは。そうか、盗み出したか!その手があったか!」

と高らかに笑うと、上には上が居るものだと、磨墨を曳いて、また京を目指して元気に歩き出すのです。

実は、高綱のこの盗み出したという話は、全くの嘘。真実は高綱も頼朝に欲しいと食い下がり、頼朝も「またか!」と面倒になり、「では絶対誰にも借りたと漏らすなよ。」と念を押して高綱に貸したのです。

⑤宇治川合戦で一番乗りで競う高綱と景季
奥で馬の腹帯を直しているのが景季
手前急ぎ渡河中の佐々木高綱と生唼
なので、高綱は磨墨を曳く景季を見て、咄嗟にこの嘘をつくことを思いついたと言います。

この話と写真②~④を見れば、皆さんはもうお判りでしょう。そう、この近所(新横浜)にある馬頭観世音は、佐々木高綱が頼朝より借り受けた生唼を祀ったものです。

彼の屋敷の近くに生唼の墓があるということは、この名馬、結局頼朝に返さなかったのですね(笑)。

3.宇治川合戦

さて、平家を京都から追い払った木曽源氏の木曽義仲ではありましたが、京における木曽軍の態度は横柄で、義仲自身も宮中の堅苦しい雰囲気に馴染めず、時の権力者である後白河法王と対立します。頼朝を頼りとする後白河法皇が呼んだ範頼・義経軍は、木曽義仲と宇治川を挟んで対峙します。

この時、この合戦の一番乗りをしようと2騎の武者が競い合います。

そう、頼朝から馬を借りた例の2人です。2人とも頼朝から借りたからには、自分こそ一番乗りを果たさなければならないと懸命になっていました。

最初にざんぶと川に乗り入れたのは景季、磨墨は泳ぎが得意なのです。
高綱も、急ぎ生唼の尻に鞭を当てますが、生唼は水が嫌なのか、なかなか川に入ろうとしません。

⑥馬頭観世音の左側にある説明看板
下半分が剥がれ落ちています。
「ヤバい、これでは第1の名馬の名折れ!」

とばかりに高綱は、嫌がる生唼を何とか川に入れ、磨墨の後を追わせますが、もう磨墨は対岸に乗り上げかけ、一番乗りを達成しかけています。(絵⑤)

そこで高綱は、磨墨の馬上の景季に向けて叫びます。

「おうい、景季!馬の腹帯が落ちかけているぞ!」

慌てて、腹帯のチェックをしている梶原景季を横目に、大至急対岸に渡り終えた佐々木高綱は、大音声で「やあやあ、我こそは近江源氏佐々木家~云々」と一番乗りの名乗りを挙げてしまうのです。

このように宇治川の合戦で、一番乗りを果たした名馬生唼のお墓である馬頭観世音も、写真⑥のように、説明看板の下半分が剥がれ落ち、「生唼」という文字も1つも見えない状態が放置されている無関心さが残念でなりません。
今度この記事の打出しをクリアフォルダに入れて、この看板に貼ってこようと思います(笑)。

4.太刀洗の水
⑦梶原景時

さて、梶原景季と佐々木高綱では、上記2つの事例より、何となく佐々木高綱の方が一枚上手のような気がします。

では、景季の父親である梶原景時は如何でしょうか?(絵⑦)

義経ら平家討伐軍に軍監として従軍した景時は、かなりうるさかったようで、何かにつけ頼朝の威を嵩に「下知だ!下知だ!」と叫ぶので「げち、げち⇒ゲジゲジ」と呼ばれ、義経ら現場の武者からは嫌われました。

義経の判官びいきな物語では、頼朝に義経の悪口を伝え続けた景時を、頼朝に見捨てられた義経が「誰かが兄上に讒言を入れている!」と云ったのは有名です。

しかし、そんな嫌われ役の景時も、やはり頼朝に信頼されているだけあって、色々な汚れ役を自ら買っていたのです。
確かに、多分に官僚的なところはありますが、実直で勇気ある武将でもありました。

その代表的な話として、上総広常成敗に関する彼の話をさせてください。

⑧逆落し中の佐原十郎義連
上総広常は、やはり2万騎を引き連れて、頼朝軍の挙兵初期に重要な役割をなしただけに、前回のblogで描いた参陣時に頼朝に怒られた時こそ、しおらしかったのですが、その後はダメでした。

頼朝が鎌倉入りの後、三浦一族が頼朝を自分達の本拠三浦半島に招いた時、以下のような横柄な態度は有名になりました。

まず、三浦一族の館に頼朝が到着時、全員下馬して頼朝への礼を取ったのに対し、先に三浦一族のところに郎党らと一緒に来ていた広常は、「義朝、義平、頼朝と源家三代に渡り、そのような礼は取ったことが無い」と主張して、下馬の礼を取りません。

次に、頼朝歓待の酒宴の席で、岡崎義実が、息子佐奈田与一の石橋山合戦での落命に落ち込んでいるのを見かねて、頼朝が自分の水干(すいかん)を義実に与えました。ところが、その水干を広常は強引に横取りし、「このような老いぼれ(義実のこと)に与えてもしょうがないだろう。むしろ俺のような役に立つ者にこそ与えるべき。」と自分も高齢なのに吐いた暴言で義実と大喧嘩に成りそうになったということです。

前々回のblogに出て来た三浦一族の佐原十郎が仲裁に入り、何とか押し止まりました。(絵⑧)

⑨上総広常の屋敷があった朝比奈切通しの滝
この一連のやり取りを黙って見ていた頼朝は、後日佐原十郎を褒め、かつ寵臣に取り立てるのです。

多分、これだけではないのでしょう。
広常の尊大な態度が、頼朝を困らせていたのだと思います。

そこで、立ち上がったのが梶原景時です。

現在の朝比奈切通しの滝(写真⑨)近くにあった広常の屋敷に、あるモノを持参して訪問します。

「京の雅(みやび)な遊びで、今大流行している双六という遊戯ですぞ。」(写真⑩)

この頃に近い白河法王が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心に叶わぬもの」と語ったというのは有名ですが、それ程、この当時流行っていたようです。

⑩平安末期の双六(すごろく)
後の時代の、紙上で、コマをサイコロの目の分だけ進ませるという双六とは違い、現代で言うbackgammonのようなルールでした。

当然、賭ける訳です。

広常は直ぐに、この景時の持って来た双六にハマります。激しやすい感情型の広常ならきっとハマるだろうというのは景時の計画内です。

ゲーム当初、景時は広常を勝たせ続けます。

気を良くした広常に対し、途中から景時は本気で行きます。そのうち広常は負け始め、急激に機嫌が悪くなってきます。まるで高いところから急に突き落とすような感情の変動を故意に起こすのです。

ついに、「景時、てめえいかさま使ってるな!」といつもの暴言。

「使える訳ないじゃないか!貴様こそ、いつもそうやって人を罵倒し、我々の輪を乱す馬鹿者だ!」と景時が叫ぶと、「なぬっ!」と広常は、刀の柄に手を掛けます。

⑪梶原景時が上総広常を斬った
刀を洗った「太刀洗の水」
次の瞬間、景時の刀が一瞬光ったかと思うと、広常の首が双六盤の上にドシャと落ちます。そのまま、景時は庭から広常の屋敷を優雅に出、近くの清水で広常の血に塗られた刀を綺麗に洗い、鞘に納めます。(写真⑪)

そして何事も無かったかのように立ち去るのです。

現在でも、この朝比奈切通しの横を流れる綺麗な小川は「太刀洗川」という名前が付いています。(写真⑫)

双六に興じた上での事故、しかも正当防衛であるかに見せかけた梶原景時の計画、見事だと思います。

しかし、こんな梶原一族も、頼朝が落馬して死去すると、汚れ役だっただけに、急に立場が悪くなります。

結局、また三浦一族ですが、三浦義村、和田義盛らをはじめとする諸将に鎌倉の政所を追放され、相模の自領に引っ込みます。

⑫朝比奈切通しの川は、広常を斬って
以降太刀洗川
そして、景時・景季親子を含む一族は、上洛し生きて行こうとします。

ところが、上洛途上、駿府の国の山中にて在地の武士に襲われ、奮戦するも敵わず、景時・景季親子は自害、一族33人も討ち取られてしまいました。

頼朝を助けた箱根の山に近い駿河国の山中で、梶原一族が滅びたことは、何らかの因果を感じずにはいられません。

彼は頼朝を箱根山で助けた事は、梶原一族にとって本当にラッキーだったのでしょうか?

5.おわりに

さて、この番外編を「〇〇と愉快な仲間たち」を文字って「頼朝と愉快でもない(?)仲間たち」とさせて頂いたのは、ここに出てくる人物(源義経、弁慶、佐々木高綱、梶原景季、梶原景時、上総広常)という頼朝の旗揚げ時から絡む取り巻きの中で、唯一最期までまともに生き抜いたのは佐々木高綱だけだからです。他は大体嫌疑を掛けられ殺されるという悲劇の中の人です。それはやはり「愉快でもない」人たちだったと思うのです。

⑬宇治川合戦の一番乗りの佐々木高綱
こんなに矢が飛んでくるのによく
生還できますね。       
一応、「(?)」を付けたのは高綱が居ますので・・・。

余談ですが、佐々木高綱の末裔は、明治の大将 乃木希典(のぎまれのすけ)や吉田松陰の師匠玉木文之進(たまきぶんのしん)等なのです。この辺り実は私の遠戚らしいので、高綱が生き抜いてくれなかったら、私がこうやって呑気にblogを書いていることが出来なかったかも知れません(笑)。

話戻りますが、このように鎌倉時代に、人から誤解を受け、人に依って簡単に殺されてしまった時代に比べれば、多少、会社から、近所から、妻・子供から(?)誤解を受けたところで、これらの「愉快でもない」彼らよりは、余程毎日を感謝して過ごさなければならないと思いませんか?

長文ご精読ありがとうございました。またこの頼朝時代の三浦一族シリーズも、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

また他の時代の三浦氏の話をいつか再開します!引き続き宜しくお願いします。

【二枚橋】神奈川県川崎市麻生区高石3丁目32
【馬頭観世音】神奈川県横浜市港北区鳥山町
【佐々木高綱屋敷跡(現 鳥山八幡宮)】神奈川県横浜市港北区鳥山町281−3
【朝比奈切通し太刀洗の水】神奈川県鎌倉市十二所