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土曜日

一の谷の戦い② ~敦盛~

前回の「一の谷の戦い① ~逆落とし~」では、833年前、1184年2月7日に、神戸は福原の都目掛け、源範頼・義経軍が攻めてくるところと、「逆落とし」は、一体どこで行われたのかについて書きました。(ブログはここをクリック)
敦盛

今回、この合戦の流れと、平家の武者について書いていきたいと思います。(絵①

1.膠着状態を破る義経の秘策(一の谷の逆落し)

前回、義経軍は、最初鵯越で「逆落とし」した後、一の谷にて2度目の「逆落とし」をしたという私の説を書きました。

これに基づいて、2月7日の合戦の状況を以下の図のように修正し、戦闘の経緯をA→B→C→Dで簡単に記入してみました。(地図②
②一の谷の戦い概略図

前回の読者の方から、福原は平家の都なので、その防衛線も相当しっかりしていた筈であり、容易に落ちないようにしていた筈とのご指摘がありました。

私もその通りだと思います。

源氏が進軍する京都から神戸への海岸沿いの主たる交通路は、山陽道です。
③かわぐちかいじの描く
一の谷の眺め

この交通路から大軍が押し寄せる、つまり「戦闘区域①:生田川」が最大の防衛ラインになるということは、当然平家想定済みです。

北側の六甲山から攻めてくることも想定し、平家は「戦闘区域②:鵯越」にも平盛俊等を置き、防衛ラインを敷いたのです。

このような平家の完璧な想定により、源氏が攻撃を開始した直後は、上図のAやBに書いたように、これらの防衛ラインはなかなか破れなかったのでしょう。

そして、この膠着状態を打破する秘策を、鵯越で戦っている最中の義経が思いついたのが、「戦闘区域③:一の谷」への不意打ち作戦なのです。(絵③)

2.平家軍防衛ライン崩壊

義経は、この不意打ち作戦に70騎程選定します。万居る軍のうちたったの70騎。

残りの大軍は、この奇策の陽動作戦として引き続き鵯越で戦闘を継続させます。この時、義経は奇策がばれないように、自分がこの場所から移動することを安田義貞などの一部の武将のみに伝えます。

この騎馬精鋭部隊は、この鵯越から8km西南に高取山等の山麓を越えて、平忠度が守る一の谷へ向かいます。
④現在の一の谷の眺め
※画面上半分は平家が
船を浮かべていた海です。

この一の谷で、海岸線方向にのみ注意しているこの平家の陣を、ノーマークである山側急斜面から、2度目の逆落しにより急襲します。

少々脱線しますが、前回のブログで逆落とし直前に義経が叫んだと描写した「鹿も4つ足、馬も4つ足!」の場面も、実は少々違う説があるので紹介します。

目立たぬように山間部を通り、一の谷へ向かう義経ら騎馬隊の道案内のため、弁慶が通りかかった猟師に声を掛けます。

猟師は「騎馬隊では、山間部が難所であるため、一の谷までは行けない」と言います。

それを聞いた義経は、「猟師、その道は鹿は通るか?」と聞きます。

猟師は「鹿は餌場を求めて通るな。」と答えるや否や、「鹿も4つ足、馬も4つ足!行けない訳が無い。猟師案内せい!」と義経は言います。

猟師は自分は歳なので、息子に道案内をさせましたが、それが義経の鷲尾義久という忠実な部下となりました。彼は義経が最期に衣川で滅ぶまで命運を共にします。

話を戻しますが、高取山を越えて、一の谷の崖の上(写真④)に出ることが出来た義経騎馬隊は、その眼下に広がる須磨海岸に陣を張る平忠度の陣に向かい、一気に駆け下り、攻め込みます。(写真④、絵③も参照)

ここだけは、平家も北側の崖から攻めてくることは想定外でした。
⑤かわぐちかいじの描く
義経も同じ事を言っています

この義経の奇策・奇襲により、ついに平家の防衛ラインは崩壊します。

一つの防衛ラインが崩れると、他の箇所で戦っている平家軍にも、敗色ムードが広がります。

ちなみに一の谷で義経は平家の陣営に火を付けて廻ります。この煙は8㎞離れた鵯越からも、海岸線沿いの10km離れた生田川からも良く見えたと伝えられています。

だいたい、総大将の平宗盛は、なんとこの合戦前から、安徳天皇を抱く健礼門院と一緒に、既に海上に避難している、いわば最初から「逃げ腰」だったのです。(絵⑤のかわぐちかいじの漫画も同じようなことを言っています。)

「一の谷が義経によって破られた!」

と聞いた陸上で戦っている平家の武者たちは、戦闘区域①も②も総崩れ(地図②参照)となって、よよと海上に舟で逃げ出すのです。

3.平 敦盛

さて、このブログ後半は、総崩れとなった平家の中の武者の話を幾つか取り上げます。

この義経軍の中に、熊谷直実という40代の武将が居ました。
⑥平家の若武者の波打ち際で呼び止める
熊谷直実
(須磨寺)

彼は、元々平家の武将で、源氏に寝返ったこともあり、少々功を焦っていました。

しかし、上手く行かない時は、上手く行かないもので、この一の谷の戦いで、直実が浜についた時には、殆どの平家は海に逃れた後でした。

その時、一騎、波打ち際で逃げ遅れたと思われる立派な平家の武者を見つけます。(写真⑥)

直実は「敵に後ろを見せるとは卑怯ですぞ。返しなさい。」と呼びかけます。(一番右上の絵もこの場面を表しています。)

するとその武者は振り返り、直実向かって馬を返して一騎打ちを挑むのです。

しかし、あえなく直実に倒されてしまいます。

直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ、歳の頃16、17と見える紅顔の美少年でした。

「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると、逆に「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗る程の者ではありませんが、熊谷直実と申します。」と答えました。

⑦持っていた笛
(須磨寺蔵:青葉の笛)
すると、その若武者は「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は充分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」

直実はその潔さに心を打たれます。

この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝敗にはもう関係ありません。自身の手柄欲しさに、この若い命を落とさせることになってしまえば、自分の息子小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この若武者が討たれたことを、この方の父上が聞かれたなら、どれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせました。

助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、生田川の防衛ラインを破った範頼の軍勢がすぐそこまで近づいてきます。

もういよいよ逃げられまい。

「同じ事なら、この直実が手に掛けて、後のご供養をお約束します。」と泣きながら刀を執りました。

討ち取った首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛が差してあるのに気が付きます。(写真⑦)
思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。

「ああ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心は一層締め付けられました。

⑧敦盛の首を洗った池と義経が
首実検の際に腰掛けた松(須磨寺)
さて、持ち帰ったその首を池で洗った直実は、その池の前の大きな松の樹の根方に腰掛ける義経に、その首を差し出します。(写真⑧)

義経は、このお方は平清盛の甥の敦盛であると言います。義経は幼少期を京都で過ごしていますので、敦盛を知っていたのでしょう。

また、持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはなかったと言います。「青葉の笛」と言います。(写真⑦参照)

平家物語で一番涙を誘うこの哀話「敦盛最期」は、その後、信長のあの有名な「人間五十年」の独特の節で舞われる幸若舞「敦盛」として、長く私たちの心を揺さぶります。

私もまさに直実と同じような年代で、17歳の長男を持つ身として、この敦盛を討った時の直実の心境がひしひしと伝わります。

4.人間五十年

直実は、この後、世の無常を強く感じて出家します。その時詠んだ彼の心境が、あの信長の大好きだった幸若舞「人間五十年」の節になるのです。以下に原文掲載します。

思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
⑨敦盛首塚(須磨寺)
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ

如何でしょうか?

この敦盛の一節は、「この当時の平均寿命が50年位であり、そのような短い人生は夢幻の如くである。」というような解釈がされますね。

そう聞くと「私は50歳まであと〇〇年ある。」とか数えたくなるかもしれませんが、多分直実は、50歳という年齢にはあまり拘りを持っていないと思います。

敦盛を17歳で亡き者とした直実です。また、直実自身は66歳まで生きています。

多分この一節は、せいぜい50年以下の人間の所業等、どう転ぼうとも大した差はないということを言っているのであって、50年は寿命ではないでしょう。

これは、直実が敦盛を討ったのが43歳、源頼朝の元を逐電したのが46歳、出家するのが52歳と関係があると考えます。

敦盛のように若くして討たれるのも、討った直実のように50歳まで色々とあろうと、人の所業は命の有る無しも含め、儚さは同じという無常観。
また討たれた敦盛も、討った自分も同じ仲間だという連帯感的な死生観ではないでしょうか?

ちなみに高野山には直実と敦盛の墓が並んであります。また、金戒光明寺では、直実と敦盛の五輪の塔が向かい合わせにあります。これらはこの連帯感を表しているのでしょう。

27歳の信長も桶狭間の戦の前に、「今川義元に討たれようと、なんとか生き延びようと大して変わらん。ならば自分の今したいことに注力するだけだ」と、この「敦盛」を舞って自分を説得したのでしょうね。で、当時は無謀とも見られた奇襲作戦を見事成功させてしまったのだと思います。

さて、この敦盛以外にあと2名の平家の武者の話を書きたいと考えていますが、やはり長くなってしまうので、次回以降にします。

⑩敦盛胴塚
(須磨浦公園横)
今回もそうですが、神戸を中心に彼らの行動について、現地にて改めて追いかけてみると、とても心打たれる話が多いのに驚きます。

それは平家物語が上手に作ってあるのもそうですが、やはり平家の武者たちがどこか心優しい部分を多分に持っており、これを滅ぼす源氏側の武将の葛藤が強く感じられます。

日本史の合戦というのは、ある意味、同じ日本人の殺し合いというストイックなテーマですよね。

しかし、実はそのような時代でも、敵味方関係なく、同じ日本人として心が繋がっているのだということを、この神戸の合戦場のあちこちで痛感することが出来ました。

ここまで長文お読みいただき、ありがとうございました。

それではまた!

※「3.平 敦盛」の文章中に、一部須磨寺から配布されている「源平合戦と須磨寺」の文章を引用しております。

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【須磨寺】兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4丁目6−8
【敦盛塚:須磨浦公園】兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目4 −18

一の谷の戦い① ~逆落とし~

年末・年始に妻の実家である兵庫県は西宮市に車で帰省しました。

須磨海岸にある「戦の濱」碑

やはり関西は史跡の宝庫ですね。
史跡があり過ぎるので、選択するのに困ります。

「うーん、どこにしよう?」と悩んでいると、妻から明日、年末の家族集合のため、妹家族を迎えに行ってきて欲しいとの出動命令。

神戸市兵庫区は鵯越(ひよどりごえ)に住んでいる義妹とその子を迎えに行くことになりました。

鵯越と言えば、平家物語の「鵯越の逆落とし」

そう。平家の都、福原が、この兵庫区にあり、平家が、福原からさらに西に落ちていくきっかけとなった源平大合戦の一つに「鵯越の逆落とし」とか、「一の谷の戦い」と呼ばれる戦があります。

今回は義妹家族を夕方に迎えに行く前に、この源平大合戦を調べることにしました。

1.「鵯越の逆落とし」の謎

逆落とし絵巻図
さて、この源平大合戦の有名な「鵯越の逆落とし」の場面を簡単に復習します。小学生の頃、社会で習った方も多いと思います。

1184年2月7日、鵯越の崖の上まで進軍した義経が、弁慶らと一緒に、崖の下の平家の陣を見下ろしています。

ここを馬で駆け下り、平家の陣に突入できるか、全軍真っ逆さまに落ちて、負傷するだけに終わるのか、若干25歳の義経の判断に掛かっています。

その時、崖を鹿がピョンピョンと飛ぶようにして、降りていくではありませんか。

義経 「鹿も4つ足、馬も4つ足!者ども、続けえーっ!」

と叫んで、真っ先に馬で駆け下り始めたので、全軍それに倣い、馬の頭が尻より下になる「逆落とし」状態で一気に崖を駆け下ります。

まさか崖から敵が攻めてくるとは思わなかった平家は、この襲来で散々な目に会い、讃岐の屋島へ逃げるのです。

右の蒔絵のように、古来この有名な場面は語りつくされてきました。

愛馬を背負う畠山重忠
ちなみにこの時義経の部下であった畠山重忠という豪傑は、逆落としの急斜面を自分の愛馬「三日月」が降りるのを可哀想に思い、自分が馬を背負って崖を降りる話も有名です。

深谷市にある彼の銅像は右の写真のように、この逆落としの時の様子がモチーフになっています。

脱線しますが、この三日月等源氏の名馬の産地が私の住んでいるところであることを、拙著ブログ「驚神社」に書いていますので、ご笑覧頂ければ幸いです。(ここをクリック)
関東から600kmも離れたこの神戸の地まで重忠は乗ってきたのかな。

話を戻しますが、この鵯越の話、前々から私が非常に疑問を感じていたことがあります。

この逆落としの標的になった平家の陣地は、前は海、後ろはこの山の崖に守られていました。

次回、お話する平敦盛が海に馬を入れて逃げようとした等の話を見ても、殆ど海岸線に陣を張っていたような描写が窺えます。

逆落としの一コマ
ちなみに右の教育漫画にも海岸線に居る平家が描かれています。

ところが、私の義妹家族は鵯越近辺に住んでいますが、海は全然近くないのです。

右下の写真が鵯越から、海を臨んだ景色です。

逆落としで、海岸近くの平家の陣を攻めるイメージは浮かんできません。

この戦、「一の谷の戦い」とも言いますが、一の谷の平家の陣は、まさに須磨の海岸沿いにあります。

ただ、鵯越から8kmも離れているのです。

これはどういうことなのでしょうか?

2.合戦に至る経緯

ちょっとこの問題は脇に置いて、この戦に至る経緯を見ていきたいと思います。

1183年、倶利伽羅峠(石川県と富山県の境にある峠)の戦いで、角に火をつけた牛を突進させるという奇策(写真右下)で、平家の大軍を破った木曽義仲(源義仲)が上洛します。この時平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて、九州は大宰府まで逃げます。

義仲は、引き連れて来た兵の京都民に対する態度が悪かったり、無作法で田舎侍と揶揄されたりと、兵卒の統治に失敗し、権威を復活した後白河法皇と対立していきます。
鵯越から海の方を臨む

後白河法皇は、鎌倉の源頼朝を頼りにしはじめ、義仲は激怒します。

後白河法王を幽閉しますが、頼朝により追討軍として到着した源義経・範頼軍に京を追い払われる形となってしまいます。

そして、1184年1月20日に木曽義仲は義経・範頼軍により滅ぼされます

この源氏同士の内紛中、平家は讃岐屋島(香川県)を経て、兵庫県の神戸にある福原の都にまで勢力を回復して来ました。

そして、安徳天皇を擁いて、京都奪還を同年2月に計画していましたが、幽閉から救出された後白河法王が、この動きをちゃんと察知していました。
倶利伽羅峠の戦い
(牛角に松明を付け平家軍に突進させた)

平家追討及び三種の神器奪還の宣旨を1月26日に発出します。

3.後白河法皇の策略

そこで、先に木曽義仲を打ち滅ぼした義経・範頼軍が、この宣旨に従い、急ぎ神戸の福原に京都から向かいます。

この時、範頼の軍は、京都から大阪の北東部から武庫川、西宮を経る今の国道2号線沿いに神戸へ向かうのに対し、義経は京都から兵庫県の北側丹波篠山から播磨を経て、北から神戸へ向かいます。

義経は途中、播磨の三草山というところで、平資盛と前哨戦をして勝利します。

そして、下の図が福原を中心とした源氏と平家の布陣の様子です。

大体10km東西の広範囲にて戦闘がなされたことが分かります。
この大戦は、このように地理的な範囲が広いため、「2月7日」と範頼と義経で戦開始の日を示し合せて行われましたが、この前日の2月6日に、後白河法皇の策略が威力を発揮します。

というのは、「源平和平が成る方策を考えているから、戦闘は待て!」という休戦命令を持った後白河法王の使者が平家の処に来たのです。

この件で、平家は油断しました。一応迎え撃つ体制を取っていましたが、休戦命令の話は瞬く間に平家の兵の間に伝わりました。
ところが翌日2月7日に、源氏が上の図のように攻めてきたのです。

平家物語等では、義経の戦術上手ばかりが強調されますが、この後白河法皇の平家戦意喪失作戦も非常に上手く機能し、平家が総崩れとなって屋島に退却する大きな要因を、合戦前日に作っておいたのです。

後白河法皇
また少し話が脱線しますが、後白河法皇は、本当に心理戦が得意ですね。

法皇は武家を分裂させたいと考え、平家滅亡後に義経をも、この法皇の戦術の道具として使います。
簡単です。武家の棟梁である源頼朝より、義経を重用するように見せるのです。そして頼朝の対抗勢力として義経が暴れてくれれば、武家の世は儘ならない。

結局、平家討伐もそうですが、法皇は朝廷優位の権力を確保するためには、武家政治をなるべく混乱させ、消耗させることで力を削ぎたいと考えていたのでしょうね。

ただ、心理戦は限界があります。頼朝はこれを見破っており、さっさと弟である義経を冷徹に衣川で滅ぼし、法皇らが変な事をしないように、六波羅探題という朝廷のお目付け役を京都に設置するのです。

4.逆落としの場所についての議論

さて、話を戻して、この大戦について見て行きましょう。

この大戦、上図のように3つの戦闘区域があります。

戦闘区域①:生田川(2017年1月1日現在)
向かって右側新神戸タワー側が源範頼軍5万
左側新神戸オリエンタルホテル側が
平知盛軍
一番軍が多く、史実的にも間違いの無いのが「戦闘区域①:生田川」です。(写真右)
神戸市の中心を六甲山から流れる生田川の東側に陣を張る範頼軍5万

対する平家軍は、あの勇猛果敢な知盛が大将です。ここは史跡等はありませんでしたが、源氏の白旗を掲げた場所である「旗塚通」等の地名が残っています。

ただ、ここ生田川は、平家としては東から攻めてくる源氏に対し、一番想定していた防衛ポイントですので、ここで両軍の大軍が衝突するのは想定内だったのでしょう。

義経軍は2万。丹波方面の北から福原を攻めます。この義経の行軍記録が「平家物語」や「吾妻鏡」等の史書により若干記述が違うために、今一ハッキリしない部分があり、それらがひいては、これだけ有名な「逆落とし」の場所についても諸説出てくる結果となっているのです。

つまり「逆落とし」は「戦闘区域②:鵯越」であったのか?それとも「戦闘区域③:一の谷」であったのか?

実は私は現地に行くまでは、「戦闘区域③:一の谷」だと考えていました。
戦闘区域③:一の谷逆落とし上から平忠度
の陣方向を臨む

右の写真を見て下さい。まさに海岸線に陣を張る平家の陣を見下ろす位置であり、物語にある逆落としにぴったりの景色ではないですか?

また、右下のフェンスばかりの坂を見て下さい。先程の海岸線を臨む場所の足下は、このような勾配なのです。

非常に説得力があると思いました。

しかし、「戦闘区域②:鵯越」についても、平盛俊などが守っていた明泉寺の現地に行ってみると、右下の写真のように、山側の傾斜はかなり厳しく、一の谷以上に「逆落とし」的な場所は多々考えられます。

また、平家が守る福原の山側からの突如の大軍の出現という観点からは、海が遠いとは言うものの、この場所で逆落しが行われた方が、平家に与える戦闘インパクトはかなり大きく感じられます。

戦闘区域③:一の谷の逆落としの崖?
結果、この「戦闘区域②:鵯越」を撃破した義経らが、海までずっと下り、2里(8㎞)先の「戦闘区域③:一の谷」まで敵を追い詰め続けてもおかしくないと思えてきました。

更に、詳細は次回しますが、明泉寺に墓所がある平知章、大将の盛俊等、かなり多くの平家一族が、ここ鵯越で討ち取られています。

義経が鵯越で兵を2分した時に、義経自身は一の谷へ行き、鵯越攻めは安田義貞という元々木曽義仲の家来だった人物に任せたようなのですが、良く分かっていません。

ただ、これだけの数の平家一族が討ち取られるのに、義経級の大将が必要なのではないか?であれば、やはりここ鵯越を攻めた時には義経は居たのではないか?

なんとなくですが、こちら鵯越で逆落しがあってもおかしくないような気持になってきました。

5.両地点であった「逆落とし」?

これらの史跡を見て廻っていると、鵯越に住んでいる義妹家族を迎えに行く刻限が近づいてきました。

戦闘区域②の明泉寺から鵯越方面、
ここから逆落としして来た?

今回、私は「
戦闘区域③:一の谷」から先に見て廻り、途中、須磨寺等も見た後、義妹家族の近くの「戦闘区域②:鵯越」の明泉寺に行ったので、予定より大幅に時間が経ってしまいました。

 この鵯越の辺りの土地は古くからあるためか、道路が細く、明泉寺の駐車場には道路に入って行けず、かと言って直ぐ近くに路駐できる位、道幅の広い道路もないため、1km近くも離れたコンビニの駐車場に止めて、走って明泉寺に平知章の墓所を見に行きました。

そして、刻限せまる中、また1kmもの道を、まさに今迄見て来た現場から見て、「逆落とし」は何処だったのだろうと考えながら、テクテク歩いていると、またいつもの霊感のようなものがピーンと来ました。

戦闘区域②:鵯越の陣があった辺り
に建つ明泉寺
進行方向の右手の、20平米くらいの住宅地に囲まれたジメジメした小さな空き地に、なにやら碑が立っています。

「おおっ、こんなところに盛俊の塚が・・・」

なんと、この鵯越を守っていた大将、平盛俊の塚でした。

小さいとは言え、ちゃんと住宅街の一角の土地に安置され、今尚地域の人から愛される平盛俊。

そうだ!盛俊なら「逆落とし」の真実を知っている。

そう思い、塚に手を合わせて拝んでいると、新たな思考が湧いてきました。

「義経は騎馬については天才的な人物だった。」

「この大戦でも範頼の軍が海岸沿いを行軍してきたのに対し、義経はその騎馬の機動力を使い、わざわざ丹波方面からぐるっと廻って、この鵯越と一の谷の両方を攻めたのだから、両方の地点で急峻な斜面を騎馬を使って平家軍に襲いかかったのかも知れない。」

私が冒頭に書いたような、華々しい「逆落とし」は作り話かも知れません。史書によっては、畠山重忠は、「戦闘区域①:生田川」を攻めた源範頼の軍に参加しており、愛馬を担いで崖を降りたというのも平家物語の創作だという説もあります。

後で分かったのですが、「逆落とし」は、平家物語の全くの創作で、そんな事実は無かったという説もあるようです。

ただ、義経が馬と急斜面をこの戦で使ったのは事実でしょう。

ふと住宅街の一角で見つかった平盛俊の塚
ならば義経が大将だった鵯越でも一の谷も、平家では絶対に降りられない急峻な斜面を義経軍が降りてきて、平家軍の虚を突いたと考えても、不自然ではありません。どちらの土地も六甲山系の急峻な斜面はあるのですから。

その攻め方に、尾ひれ羽ひれが付いて、冒頭の「逆落とし」の話になったのかも知れません。

「さすが、平盛俊!」と、塚を後にし、急いでコンビニに止めた車に向かいました。義妹家族のお迎えは20分程遅刻しちゃいました。(笑)

お読みいただき、ありがとうございました。

次回は、この戦の詳細な模様について、訪問した須磨寺等で得た情報も含めてレポートできればと思います。


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【一の谷源平史跡 戦の濱の碑】兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目2
【明泉寺】兵庫県神戸市長田区明泉寺町2丁目4−3
【平盛俊塚】
〒653-0883 兵庫県神戸市長田区名倉町2丁目2−9