何度も通りかかる「日本橋」。日本の大動脈である東海道は、まさにここが起点です。今回は、この橋にまつわる知られざる歴史をご紹介します
1.「日本橋」の揮毫は徳川慶喜
最近、日本橋の橋標に書かれた「日本橋」の文字が、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜によるものだと知りました(写真①②)。
| ①日本橋の橋標 ②反対側はひらがなで書かれています |
実は、高速道路の横に掲げられている横書きの「日本橋」も、この橋にある慶喜の縦書きを並べ替えたものだそうです(写真③)。
| ③日本橋の上の首都高横腹にある「日本橋」 |
| ④尾崎行雄 |
これには、慶喜自身の「表舞台に出たくない」という思いに加え、依頼した尾崎市長の「ある意図」が関係しているようです。(岩下哲典氏『江戸無血開城』より)。
2.江戸無血開城が繋いだ「東京の発展」
尾崎市長は、慶喜が新政府軍に恭順し、勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の「幕末三舟(写真⑤)」が尽力したことで成し遂げられた「江戸無血開城」こそが、明治44年の東京の発展の礎になったと考えました。
| ⑤三舟(Wikipediaより) ※左から勝海舟・高橋泥舟・山岡鉄舟 |
筆を執った慶喜の脳裏には、おそらく先に逝った三舟たちの顔が浮かんでいたことでしょう。
3.忠臣・高橋泥舟への思い
| ⑥公爵叙爵時の慶喜 |
泥舟は、自身の名を「カチカチ山」の泥舟になぞらえ、「自分も世間という川に出れば沈んでしまう人間だ。表舞台に出るべきではない」と、維新後は静岡で慶喜を支え、ひっそりと生涯を閉じました。 そんな泥舟が唯一、狂喜乱舞したのが、明治35年に慶喜が公爵を授爵された時でした。(写真⑥)
彼は主君の名誉回復を見届けると、翌年、静かに息を引き取ったといいます。
慶喜が「日本橋」の文字に落款を残さなかったのは、この泥舟の謙虚な生き様を思い、自らもまた世間への露出を控えるべきだと覚悟を決めていたからかもしれません。
たった一つの橋の標識にも、深い人間ドラマが刻まれているのですね。
4.鎮座するのは「龍」ではなく「麒麟」
日本橋でもう一つ注目したいのが、照明灯の下にある像です(写真⑦)。
一見するとドラゴンのようにも見えますが、実はこれ、伝説の霊獣「麒麟(きりん)」なのです。
| ⑦日本橋照明灯下の麒麟 |
5.織田信長が焦がれた「麒麟」という理想
麒麟といえば、大河ドラマ『麒麟がくる』を思い出す方も多いでしょう。織田信長が自身の「花押(サイン)」に麒麟の文字をデザインして使っていたのは有名な話です(図⑧)。
古代中国において、麒麟は「優れた王が治める平和な世(至治の世)にのみ現れる」と信じられていました。信長がこれを用いたのは、「平和な世を作る」という願望だったのか、それとも「自分がその王だ」という慢心だったのかは分かりません。
| ⑧信長の「麒麟」花押 |
ただ、彼が四霊獣(龍・鳳凰・麒麟・霊亀)の中で、「龍」ではなく「麒麟」を選んだ点は興味深いところです。
- 龍 : 「皇帝」や「強大な力」の象徴
- 麒麟: 「仁」や「平和」の象徴
武力で他者を屈服させる「覇者」のイメージが強い信長には、本来なら「龍」の方が似合う気がします。しかし、だからこそ彼は、自分に欠けている「仁」の象徴である麒麟に、強く憧れたのかもしれません。
そう考えると、本能寺の変で彼が放った「是非もなし」という言葉も、理想の世(麒麟)に届かなかった自身の限界を悟った叫びのようにも聞こえてきます。
6.「至治の世」と羽ばたく麒麟
再び、日本橋の話に戻りましょう。 浮世絵や時代劇でもおなじみの日本橋は、260年続いた太平の世、つまり江戸時代の象徴です(絵⑨)。
| ⑨江戸時代の日本橋 |
麒麟がもたらす「至治の世」は、江戸幕府によって現実のものとなりました。幕末、その平和が崩壊の危機に瀕した際、江戸の街を救ったのは勝麟太郎(海舟)による無血開城の交渉でした。日本橋の麒麟像には、そんな歴史の連続性も重ねられているようです。
| ⑩キリンビールの麒麟図 |
それは、ここが「東海道の起点」だからです。「江戸で実現した平和が、ここから日本中に飛び立ち、永く続きますように」という願いを込めて、特別に翼が授けられたのだそうです。
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| ⑪東京市史稿表紙 の麒麟 |
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【日本橋麒麟像】