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日曜日

北条氏康の娘たち② ~早川殿~

①杉並区にある今川氏累代のお墓
前回は、北条氏康の娘の一人、武田勝頼に嫁いだ北条夫人について描きました。

滅びゆく武田家と運命を共にした北条夫人は、品格を気高く保ち、勝頼を深く愛したまま、戦国のままならない世を倦み果て、去って行ったのです。

このシリーズの後半は、同じ氏康の娘、早川殿について書きたいと思います。

こちらは旦那である今川氏真を上手く盛り立てて、華々しい戦国大名には成れなくても、江戸時代を通して今川家を、江戸にて存続させるのです。(写真①)

では、早速早川殿と今川氏真について見て行きましょう。

1.甲相駿三国同盟による結婚

この同盟の背景等の詳細は、拙著「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」に描きましたので、是非こちらをご笑覧頂けると幸いです。

いずれにせよ、今川義元、武田信玄、そして北条氏康も、国境を接している外側の敵(順に、織田信長、上杉謙信、北関東の豪族&謙信)に、後方の憂いなく戦いを挑むには、この甲相駿三国同盟が必要だったのです。
②今川氏真(右)と早川殿(左)
並んで向き合っている絵を描かれる程仲が
良かった二人であるとも言われる

そして、この当時の同盟には、お約束の姫交換がなされ、今川義元の息子、氏真には、北条の早川殿が輿入れてきます。

氏真17才、多分早川殿も同い年くらいだろうと言われています。

氏真は、この歳まで、かなりの教養人として教育されました。京都の冷泉家等で、駿河に下向していた人物から和歌や蹴鞠の手解きを受けていました。剣道は、あの有名な塚原卜伝です。

父の義元は、単なる京都の公家に対する憧憬だけで交流を繰り広げていた訳では無く、中央政権に対する人脈作り等、政権を取ってからの布石と考えていたようです。

このように氏真は、当時の文化人との交流によって、多様な価値観を身に着けることが出来ました。

そんな頃に嫁いできた早川殿から氏真はどう見えたのでしょうか?家訓の厳しい北条家から来た彼女から見ると、同い年の氏真は、色々と博識ではありますが、まだまだ自分より、子供に見えたかも知れません。

そして、彼女こそ、誤解の多い氏真の真の理解者であり、戦国時代の滅亡する立派な武将に多い自裁に至らせない価値観を肯定し、今川家を生き延びさせたのです。

晩年の二人を描いた絵があります。(写真②)

それぞれ別の掛け軸に描かれた絵ですが、ピッタリくっ付け合わすと、畳の縁がピッタリ合い、お互いが見つめ合うような形になります。

この様に、二人は仲が良かったようですよ。

2.桶狭間の戦い

1560年5月、この同盟で後方の憂いが無くなった今川義元は、先に述べた中央政権奪取のために上洛を開始します。総勢2万5千、隣国尾張の織田軍はこれに比べると寡兵です。

③大雨の桶狭間での奮戦模様
ちょっと話が脱線しますが、有名な桶狭間における、一つの説をご紹介します。

義元が5月に上洛を開始した一つの理由として、5月は「菖蒲」の花が咲き始め、幸先が良いとされます。「菖蒲」を「勝負」に掛けたのです。流石、雅な京風文化を採り入れた義元らしいですね。

それを読んでいたのが信長です。義元はきっと「菖蒲」の月、5月に軍を動かす。この月は現在のグレゴリオ暦の6月あたりであり、梅雨の時期です。

大雨を使おう。

信長は、奇襲作戦を思いつきで実施したのではありません。寡兵でもって大軍の今川に当たるには、山岳戦のようなゲリラ戦が一番なのですが、そのような奇襲が出来る程、尾張は入り組んだ地形がないことが彼の悩みでした。

なので、この時期の悪天候を上手く利用することにしたのです。
この頃台頭してきた乱波(忍者)は、大方が農民の知恵を活かして活動していたので、局所的な天候の予測に長けた者も多く、それらが義元の行軍中の天候を予測していました。

桶狭間で突如降り出した大雨で軍が別れ別れで雨宿りをし、視界が悪い中に、信長の軍が義元の首一つを求めて、突撃してきたのは有名な場面です。(絵③)

「菖蒲」にかけて、「勝負」に出た義元の雅さが仇となりました。

3.薩埵峠(さったとうげ)の戦い(今川氏の滅亡)

今川氏真は、今川義元が上洛を開始する2年前から、今川家の宗家を引き継いでいました。義元は領内の雑事に惑わされず、上洛という目的に邁進するためです。

ですので、本来、義元が桶狭間で討たれても、氏真が既に2年間も今川本家を仕切っているですから、大丈夫ということでは残念ながらありませんでした。
やはり実権は義元が握っていましたし、結局この2年間で氏真は値踏みをされていたのです。義元が討たれた直後から、遠江・三河の国人たちを中心に、今川家からどんどん離反します。

④薩埵峠から国道1号を見下ろす
※当時は山裾まで海で国道
 の幅の土地もありません
一番の代表例は、徳川家康(当時松平元康)です。彼は今川家と断交し、織田信長と結びます。
これには、氏真もかなりご執心で、自ら兵を率いて家康を攻撃するも撃退され、結局三河は家康のものになってしまうのです。

これに動揺したのが駿河と三河の間に位置する遠江、代表的な国人が、あの「直虎」で有名な井伊谷の井伊直親、大河ドラマの中でもありましたが、謀反を疑われ、今川氏真の重臣に誅殺されています。

これら離反する国人を繋ぎとめようと、武威を持って強硬すればするほど、今川家の求心力は低下の一途を辿ります。

そして、甲相駿三国同盟を破棄して、武田信玄が徳川家康と協働して駿河に攻め込んでくるのが桶狭間から8年後の1568年。(ここまでの武田側の経緯は「三増峠の戦い① ~武田信玄vs北条氏康~」をご笑覧ください。

氏真は、薩埵峠で迎え撃ちます。(写真④)

ちょっと脱線しますが、源平合戦の時、「富士川の戦い」という有名な戦があります。

富士川の水鳥が、夜中にバァーと急に飛び立つと、平家軍が「源氏の大軍が夜襲に来たあ!」とばかりに逃げてしまうのですが、その時に水鳥を飛び立たせたのは、平家軍を寡兵を持って、本当に夜襲しようとした当時の武田軍(武田信義、前回のブログで書いた武田姓を最初に名乗った初代甲斐源氏)なのです。

つまり源平の昔から、武田軍は富士川を南下して、太平洋側へ出たのです。今回武田信玄も、やはりこの道を使い、駿河侵攻をしました。(地図⑤)

⑤薩埵峠で対峙する武田軍と今川軍
※武田軍の背後を北条軍が突きます
薩埵峠はその富士川が太平洋に出たところから、駿府(静岡市)に向かってちょっと行ったところにあり、海と急峻な崖に囲まれているので、南下してくる武田軍を防御するのに最適な場所なのです。(写真⑥)

氏真は更に、早川殿の実家である北条氏康にも援軍を頼み、武田軍の背後から北条軍が襲いかかり、今川軍とで挟み撃ちにして殲滅する戦法に出ます。(地図⑤)

絶対絶命の武田軍にも係わらず、信玄は余裕で駿府への進軍を止めもせず、今川軍の護る薩埵峠へと迫ります。

あわや、信玄も終わりかと思った次の瞬間、今川家の重臣たちが裏切り始めます。

信玄の裏工作で、既に重臣を含む、21人もの武将を寝返らせているのです。なので信玄は余裕。

今川氏真は、ほうほうのていで駿府へ逃げ帰ります。しかし、重臣が寝返っているのでは、駿府だろうが、薩埵峠だろうが迎え撃って勝てる訳が無いと考えます。

さて、信玄は今川氏真が逃げ出した薩埵峠の残兵を軽く破り、その日のうちに駿河へ迫ります。「疾きこと風の如く」です。

⑥薩埵峠のサクラ
薩埵峠は直ぐに海岸が迫っている急斜面なの
で敵を叩きのめしては海に転落させるのです
慌てた氏真は、奥さんである早川殿の輿を用意するまもなく、これまたほうほうのていで掛川城へ落ち延びて行きます。早川殿は氏真の乗る超高速で逃げる輿に遅れぬよう必死で走って、付いて行くのです。レディ・ファーストという考えは、この時代全くないようです。

これを聞いて怒ったのは、早川殿の御父上、北条氏康です。(絵⑦)

ただ、彼の怒りの矛先は、何故か今川氏真ではなく、武田信玄に向かうのです。

「信玄坊主が同盟を破棄して今川へ攻め入るから、可愛い我が娘は輿にも乗れずに走らねばならなかったではないか!」と。

ちょっとズレている気もしますが、氏康は、武田軍の駿河侵攻の妨害工作に出ます。この隙をついて、氏真たちは掛川城へ滑り込みセーフ。

この後も、氏康は小田原から増援した北条軍による陣を薩埵峠に張り、駿河に侵攻した武田軍の退路を断つ行動に出る等、信玄に対し、しつこく妨害工作に出ます。

⑦「戦国無双」に描かれる北条氏康と早川殿
そして、信玄と氏康の仲は大変悪くなり、以前書きました三増峠の戦いとなる訳です。(詳細はポータルサイト「武将ジャパン」の転載拙著記事を参照。ここをクリック

実は、これも父親氏康の性格を知っている早川殿が、わざと輿にも乗らず、武田軍と敵対する口実を作り上げたのではないかという説もあります。

今川氏真は、掛川城で3か月間たて籠ります。氏真にとって運が良かったのは、掛川城を包囲し戦う相手が徳川家康だったことです。

信玄は今回の駿河侵攻に当たり、徳川家康と協働体制を敷いており、駿河と遠江の国境を流れる大井川を境に、駿河を信玄が、遠江を家康の軍事行動範囲としていました。

なので、駿河から逃げ、遠江の掛川城に逃げ込んだ氏真を包囲したのは家康であり、家康は、氏真の命を助ける条件で、掛川城を開城させます。

彼は、今川氏真には人質時代に、嫌なことも沢山させられましたが、懐かしい思い出もあるようで、氏真を後々も尊重するのです。これが信玄だったら・・・

いずれにせよ、この掛川城開城にて、戦国大名としての今川氏は滅びました。

4.流転の日々
⑧伊豆戸倉城から国境を流れる狩野川を臨む

掛川城を出た今川氏真は、義父である北条氏康の御世話になります。

北条氏の伊豆と駿河の国境を流れる狩野川に面した伊豆戸倉城という小城がありますが、ここの城主となります。(写真⑧)

というのも掛川城を開城した徳川軍側から、今川軍に提示した条件の1つに、徳川軍と協働した北条軍が、武田軍を駿河から追い出した暁には、氏真を駿河の国主に戻すというのがありました。

ですので、北条氏康は、駿河との国境のこの城に、城主として今川氏真を置いたのですが、これは駿河に侵攻した武田軍に、どうぞ氏真をお滅ぼしくださいと言わんばかりの状況に結果的になってしまいました。
⑨今川氏真と早川殿の屋敷
があった早川河口付近

そこで早川殿が氏康に掛けあい、この城を退去して、小田原城のすぐ横を流れる早川沿いに屋敷を貰います。(写真⑨)

早川殿の名前の由来は、この早川沿いの屋敷を貰ったことから来ています。

さて、こちらで起死回生を目指して、氏真は駿河の国人等に文書を沢山送り続け、武田からの駿河奪還の夢に掛けます。

しかし、この時期に北条氏康が病死し、その死に際に息子氏政に「信玄との同盟を復活するように」と言い残しました。信玄の駿河侵攻については、頭に来ていた氏康ですが、やはり武田軍の強さに、つまらぬ意地を張っているのは北条にとって損と思ったのでしょう。氏政は早速武田信玄と再同盟をします。

これに納得いかないのが早川殿です。今川家再起を目指し、北条が後ろ盾にいると思うからこそ、愛する旦那である今川氏真は頑張っているのです。完全に梯子を外された形です。もう自分の実家である北条は、今川家の再起は諦めているのです。掛川城開城の約定はどうなったのか!と。
⑩氏真、早川殿はこの早川港から脱出します
※現在この港の灯台は巨大な小田原提灯になっています

さて、信玄との再同盟を北条氏政が結ぶと、直ぐに武田軍が小田原に来て、早川沿いの今川屋敷を囲み、今川氏真を捕まえようとします。

これに激怒します。

喝ーっ!

捕縛しに来た武田軍に対し、一喝します。
今川氏真ではなくて、早川殿が、です。

そしてわざと堂々と小田原譜代の家臣に用意させた船で、早川の河口の港から脱出します。(写真⑩)
脱出した船上で涙を流す早川殿は、北条の実家から裏切られた感が強く、口惜しくて仕方ありません。その後もう2度と北条を頼ることはありませんでした。

5.信長への蹴鞠の披露

早川殿と氏真は、船で浜松に逃れます。実は、この北条の裏切りに対応すべく、氏真は事前に徳川家康と結んでいたのです。この頃の氏真は、世間一般がステレオタイプで考える暗愚の将ではなく、一皮剥けた感があります。

⑪諏訪原城跡
家康は氏真を家臣として仕官させ、あの長篠の戦いに参戦させたりしています。
そして、遠江と駿河の境の城、諏訪原城の城主に返り咲きさせています。(写真⑪)

この頃、氏真は京へ上り、かつての文化人の友人らと会うと当時に、父義元の仇である織田信長にも拝謁しています。

そこで有名なエピソードがあります。

信長が「氏真は大変な蹴鞠上手と聞くが、是非見せてくれい」と残忍な笑顔で氏真に言います。

氏真も、父の仇の信長の前で、遊戯である蹴鞠を披露すれば、世間は「さすが今川氏真は暗愚の将だ。良く仇の前で遊戯が出来るよ。」とこき下ろされるのは分かっています。

当然断るつもりでいるところを、早川殿が言います。

「つらいでしょうが、信長の言う通りにしてください。」
「彼は、あなたが暗愚の将であることを世間に印象付け、あなたを世間的に抹殺したいのでしょうが、断れば本当に命を狙われます。私や子供のため、ひいては今川家の子々孫々のために、ここは我慢して彼の言う通りにしてください。」
「どんなに世間が笑っても、私だけはあなたのすばらしさを理解しています。」

氏真は決意します。この戦国の世を暗愚という隠れ蓑で乗り切ることを。

そして、見事信長の前で蹴鞠を披露し、彼の失笑をあえて受けます。

その後、武田勝頼が天目山で滅びます。この時、早川殿の次に氏真の理解者である家康は、武田家が支配していた駿河の国主に氏真を据えたらどうかと、信長に提案します。これが叶えば掛川城で氏真と約束したことが成就します。

しかし、信長は「あんな役にも立たたない奴に国を与えてどうする。」と家康を睨みつけて言います。それから1年以内に信長も武田勝頼同様、戦国武将としても人間としても滅びます。本能寺の変です。

6.高家として

⑫杉並区にある観泉寺
その後、今川家は徳川家康により、高家として江戸に迎え入れられます。
現在の杉並区今川町に知行地を与えられ、早川殿との間にも、4人の息子を設け、おのおのが徳川秀忠等に出仕し、立派に務めています。

そして、今川家は累代に渡り、華々しくはありませんが、立派に繁栄するのです。

知行地の今川町に観泉寺という今川家の菩提寺があります。(写真⑫)

早川殿の方が氏真より、若干早く75歳で亡くなり、氏真も2年後に77歳で亡くなります。二人ともこの時代としては長寿でした。

7.おわりに

前回のブログで書いた北条夫人が亡くなったは19歳、早川殿に比べるとその早すぎた死に何と短い生涯だったのかと涙すると同時に、この二人の姉妹の差は何だったのだろうかと考えてしまいます。

まず、両夫人の旦那の違いは勿論大です。
これは、前回もちょっと書きましたが、やはり教育でしょう。

信玄は、自分が死んだ後も、当然後継者は自分と同じような武将生活が続くと考え、武将としての帝王学や価値観を勝頼に教え込みました。当たり前とは言え、モノトーンの価値観だけを徹底したのです。

一方、今川義元は、氏真に対して、国主としての教育と、自分が上洛し、京都で今川氏が権勢をふるう様になることも想定して、2代目となる自分の息子にも、それら京の文化的な教養を身に付けさせたのです。また、氏真もこの教養を喜び受け、蹴鞠以外、和歌も1700首も読んだようです。

これが両者の教育のされ方の違いです。

勝頼は戦国武将としてしか生きられなかったのです。それが悪い訳ではなく、まるでサクラの花が散るように、潔い最期だったと思います。また、北条夫人も武将の妻としての教育をされてきて、この勝頼の価値観に拍車を掛けるのです。あの願文の内容を見てもそう思いますし、かつ勝頼より先に自害していることからも、彼女の価値観が良く分かります。

一方の今川氏真は、武将として生きられないことに気が付いた時、潔くその価値観を捨てます。信長の前で蹴鞠をして見せることが武将としてどんなに恥ずかしいことか等は、彼ほどの教養人なら分からない筈はありません。ただ、それでも敢てそれが出来たのは、彼の幅広い価値観と、早川殿という真の彼の理解者が居たからではないでしょうか?

⑬観泉寺にある今川氏真・早川殿のお墓
※左が早川殿、右が氏真
早川殿も北条夫人と同じように、武将の妻としての教育はされたでしょう。しかし、北条夫人は最期まで多少北条に対する従属にも似た感情を持っていましたが、早川殿は、早川の河口の港から小田原を脱出する時に、北条を捨てた事が大きく違って、戦国武将の価値観とは違う自分の考えをしっかり持って氏真の価値観を補助したのだと思います。

そういう目で見ると、写真②の氏真と早川殿が見つめ合っているように見える絵も、この人生を助け合って生きて来た二人だけの深い感謝の気持ちが表情に出ている気がします。

観泉寺にある二人のお墓も、写真のように対等な大きさ、むしろ早川殿の方がちょっと大きく立派です。(写真⑬)
この時代にあっては奥方の方が立派というのも珍しい気もします。

これは、その時代の考え方に囚われないで、二人がお互いに助け合いながら長く生きて来たことを象徴するようです。

◇ ◆ ◇ ◆ ◇

戦国武将というと、信長、秀吉、家康、信玄、謙信・・・etcのように、成功者に目が行きがちです。しかし、ご存じのように、人には向き不向きがあります。

武将の子供として生まれて来たからと言って、英才教育をされたからと言って、向いていない人には向いていないのです。

武田勝頼と今川氏真、この二人もそんな不向きなタイプだったのでしょう。

もし、生涯を掛けてやってきたことが、不向きだったと悟った時、あなただったらどうしますか?
敢てこの二人にスポットを当てたのは、この質問に対する180度違う2つの答えがここにあるからです。

また、そのようなパートナーをお持ちになった女性諸君ならどうしますか?そのヒントも北条氏康のこの二人の娘の対応にもあるのではないでしょうか?

⑭諏訪原城址に咲く雑草の花
どれが正しい生き方ということは全くありません。(写真⑭)

最後に一言、氏康の娘二人は、共にダメになっていく旦那を愛し切ったことに注目してください。

北条夫人は、勝頼が滅びる前に実家に帰れと言ってもあの世まで付いていくと言いますし、早川殿は、三国同盟破棄の時に別れなかったのは彼女だけなのです。(武田家と北条家は、妻を離縁して家に帰したのです。)

そして、二人とも愛する旦那に看取られて亡くなります。これが一番幸せなのではないでしょうか?

凄い娘たちを北条氏康は育て上げましたね。

つい長文となり、大変失礼しました。ご精読ありがとうございました。

【薩埵峠】 静岡県静岡市清水区由比西倉澤937−13(薩埵峠展望台)
【伊豆戸倉城】静岡県駿東郡清水町徳倉
【早川屋敷】神奈川県小田原市南町3丁目11-3(報身寺)
【諏訪原城址】 静岡県島田市金谷
【観泉寺】 東京都杉並区 今川2丁目16-1

三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~

絵①をご覧ください。これが三増峠古戦場にある看板に描かれた両軍の配置図です。黒が武田軍、赤が北条軍です。
①三増峠の戦いの両軍配置図


 「あれ?」と前回のこのシリーズを読まれた方は疑問に思うでしょう。

前回のシリーズでは、北条軍が武田軍を迎え撃つために、山岳戦に有利である高台を占拠して待ち構えた、と書いたからです。
ところが、この看板の配置図は、どう見ても、武田軍が高台を占拠しています。
②上図北条軍の最前線(北条氏照軍のあたり)
から武田信玄の本陣方向を臨む

実は、この地図は、武田方の古文書「甲陽軍鑑」を基に作成されています。間違っているのでは無いと思います。
前回の話では、待ち構える氏照・氏邦と追いかける氏康・氏政に挟撃される筈だった信玄が、このような逆転現象を起こした事こそ、信玄がこのような戦を、最初に碓氷峠を越えて、関東に入った時から構想し練っていた証拠だと思っていますし、またそこが信玄の恐ろしくも偉大な戦上手、戦の神様と言われた証左なのです。

結論から言いますと、この配置はこの戦いの中盤から終盤を表しており、信玄は、北条氏照・氏邦らが待ち構えている三増峠に、彼らの作戦を上手く利用しつつ、裏をかいて行き、気が付くと看板のような、完全有利な配置になっていたという訳です。

流石は武田信玄。老練なのも勿論ですが、山岳戦は武田のお家芸、信玄より6つ年上の氏康でも、このお家芸には絶対敵わないというのに、それらの息子ごとき、何者ぞ!という感じの戦い方をしたのだと思います。

では、戦の経過を見て行きましょう。

1.待ち伏せする北条軍の配置

さて、先程の看板の絵を、現在の地図の上に展開すると地図③のようになります。
③看板を地図に落とした図

看板同様、黒が武田軍、赤が北条軍を表します。先程の看板のように、武田軍が山の上、北条軍は山の裾となっています。この状態になるまでをこれから説明します。

④築井城から三増峠と志田峠を臨む
(左が三増峠、右が志田峠)
説明の前に一つ、この地図で意識して頂きたいのは、築井城(津久井城)です。

合戦の前日10月6日の夜中に、信玄は乱波(らっぱ:忍者集団)等を使い、三増峠ではなく、志田峠から密かに築井城下のトウモロコシに火を付け、松明が燃えているように見せかけます。また案山子のような藁人形60体を作り、軍勢が城下直近に滞在しているように見せかけたのです。

これだけで、もう築井城は、北条軍得意のカメ戦法に入りました。翌日の合戦には全く援軍も送らず、甲羅である城に籠ってしまいます。信玄の築井城沈黙作戦大成功です。

さて、日が変わって10月7日早朝です。
この日の北条軍の配置は、右図の通りです。ちゃんと山岳戦の基本、「高いところを取った方が有利」を抑え、三増峠に差し掛かる武田軍を東側山麓で、整然と待ち構えています。

ここで北条軍の中に氏照・氏邦以外で北条綱成という武将が居ることにご注目ください。
⑤武田軍を待ち構える北条軍と小荷駄隊を先頭に進軍する武田軍

この時、待ち伏せする北条軍は1万2千~2万と言われています。勿論、氏照の滝山城や、氏邦の鉢形城の兵だけでなく、江戸城、小机城、玉縄城等、北条氏の名だたる城からも兵を集めています。

北条綱成は、玉縄城の城主であり、北条氏康と同い年です。

また勇猛果敢で若い時から有名であり、大将でありながら、一番に突撃していく無茶ぶり。しかも「勝った!勝った!」と叫びながら突っ込んで行き必ず勝つ、なんとも剛毅で頼もしい常勝の武将なのです。

今回、この待ち構える北条軍の中での総大将というのは決めていないようです。ただ、一番信玄に煮え湯を飲まされた氏照が、その思いと信玄との戦いの経験で、なんとなく総大将的な位置付けになっていたようですが、この綱成のように勇猛かつ親父の氏康と同い年の将が居たのでは、氏照も統一の取れた軍事行動を取ることは難しかったと思います。

⑥右側の山々が北条軍の陣を敷いた場所
と小荷駄隊の通過道
そんな状態を知ってか知らずか、信玄は、この方面に、まず小荷駄隊を、武田24将の1人である浅利信豊護衛の元、三増峠方面へ進めます。

これには訳があります。

武田が小田原攻めをした9年前、北条氏は上杉謙信の小田原攻めの際に、小荷駄隊を襲い、上杉軍がボロボロになると言う成功体験を持って居ます。北条軍は小荷駄隊襲撃は得意なのです。襲いたくなるだろうと。

つまり小荷駄隊は「餌」です。信玄得意の「自軍を餌にする作戦」です。

2.三増峠の合戦①(戦闘開始)
⑦武田軍の合戦における軍展開

さて、この罠に、北条氏照・氏邦は乗りません。乗らないというか、彼らは信玄に痛い目に合わされているので、こんな見え透いた手薄の小荷駄隊が最初に出てくるのを叩いていたら、親父殿である氏康・氏政軍との挟撃作戦が上手く行かなくなる可能性を怖れたのではないかと思います。また小荷駄位が通過しても、武田軍本隊が来ない限り、挟撃まで高所の陣構えは確保しておきたいでしょう。

しかし、ここで、今回信玄に痛い目にはあっていない、氏康と同い年、かつ常勝軍の勇将として知られる北条綱成が黙っていられませんでした。

彼は、小荷駄隊を守備しながら進んで行く浅利信豊に対して、一斉射撃を開始し、攻撃を仕掛けてしまいます。

この一斉射撃により、浅利信豊は見事戦死。

しかし、次の瞬間、武田軍から御諏訪太鼓(武田軍の陣太鼓)が鳴り響きます。

⑧銃弾により戦」死した浅利信豊を祀った浅利神社
それを合図に、厚木方面より一列で北上してきた武田軍が西側の山裾平原に向けて、猛烈な勢いで、展開して行くのです。

「すわっ、やられた!追え、追え!」と、孫子の紺に金字の風林火山の大旗が西に疾走していくのを見て、氏照は、叫びます。

「疾(はや)きこと風の如く」です。

西側の高所を取られてしまったら、山岳戦における北条の優位が保てません。取られる前に、武田軍に一撃を与えたい。

しかし、長く伸びた小荷駄隊とその守備兵たちが行く手を阻みます。彼らの防御力は貧弱ですから、破るのは容易いのですが、ここで足止めを食らう時間が致命傷です。

北条軍がやっと追撃して山裾の平原に出てきた頃には、武田軍は西側の丘の上に、軍の展開を完了していました。

「其の徐(しず)かなること林の如く」だったことでしょう。

その時の軍配置を書いたのが、上記看板になります。
⑨展開後の武田軍と追いかけて来た北条軍の配置
「三増峠合戦場」にある看板の軍配置

上にも再掲しておきますが、看板でも、北条軍の一番先頭に氏照の軍が書かれています。(看板では「北条陸奥守」と書かれていますが氏照のことです)

そこに小さく「orz」(がくっ)と書かれているように見えたのは私だけですね。笑

しかし、畏るべし武田信玄、山岳戦を知り尽くし、あっという間に敵と高所の入れ替わり技を披露してくれました。

信玄は、敵が三増峠で待ち構えているだろうことをかなり前から察知し、築井城への牽制だけでなく、乱波等を使い、この場所の地勢等も詳細に調べた上で、この合戦に臨んだようです。

⑩武田信玄本陣「旗立の松」あたり
なので、武田軍は、三増峠よりも志田峠を抜けるルートを詳細に調べ、ここに陣を張ることを意識したのです。

この戦が無ければ、三増峠を進軍して、築井城を包囲し、落として帰ったかもしれませんが、ここで大戦となると、甲府への撤退ルートは、築井城を避けて通れる志田峠からと考えていたのでしょう。

単に北条とは反対側の高所を取れば良いと考えていた訳では無いのです。

一方、武田軍は築井城へ進軍するであろう、よって、この三増峠の街道を行くに違いないと考えて布陣をした北条軍は完全に裏をかかれました。

3.三増峠の合戦②(勝敗の行方)

さて、皆さん、この合戦、武田軍の最前線で、あの真田昌幸が果敢に戦っています。

武田四天王の1人である馬場美濃守の補佐的な立場ですが、山岳戦に長けた真田昌幸が、それこそ山岳戦の神である信玄の元で、「侵掠(しんりゃく)すること火の如く」戦っていたのではないでしょうか?
後で武田家滅亡となってしまう、武田勝頼も、この頃は素晴らしく勇猛果敢な働きをしていますね。
武田軍は、それこそ孫子の旗を立てた「旗立の松」の信玄が「動かざること山の如し」で采配する元で、生き生きと戦っています。

⑪信玄の本陣「旗立の松」からは
戦場も厚木方面も良く見渡せる
大河ドラマでは、昌幸も勝頼も、最後死ぬ時に「御屋形様ぁ!」と信玄の亡霊(?)に会って死にますが、奇しくも二人が一緒に信玄の元で大活躍した大山岳戦は、この三増峠しかありません。彼らと信玄が一番輝いていた時と言えるでしょう。

さて、戦も終盤に入ります。日も暮れかけて来た頃、ただでさえ、不利な北条軍に、当時の武田の赤備え隊で有名な山県昌景が、北条軍へトドメの一撃を食らわします。

彼は、その煌びやかな赤備え隊を率い、志田街道を南下、北条軍の背後から襲いかかります。

日も暮れかけて、薄暗い中、北条軍はこの隊に気が付くのが遅れたこともあり、大混乱です。

⑫赤備えの山県隊が北条の背後から襲いかかる
近くの山林へバラバラに敗走します。

この時、氏康・氏政親子は、1万の軍勢を引き連れ、まだ厚木に居ます。そして北条破れるの報を聞くと、さっさと小田原へ引き返します。

この戦で、北条の戦死者は3200人と言われております。武田軍も900人余りは戦死者が出たということで、武田軍の圧勝なのですが、合計で4000人以上の死者を出したというのは、山岳戦では最大規模の戦でした。

あの20万の軍が戦った関ヶ原の戦いでも、死者が3000~8000人と言うことですから、この戦がいかに大きかったことが分かると思います。

4.三増峠の合戦後

⑬雲峰寺にある孫子の旗と諏訪大明神の旗
※どちらも三増峠合戦の「旗立の松」で翻っていたはず
ところで、どうして氏康は、氏照・氏邦を見殺しにするような行動をしたのでしょうか?
そもそも、挟撃を氏照・氏邦から具申されているのであれば、この戦始まる頃には、合戦場に現れて良いはず。

実は氏康は夜を待っていたのです。

彼は勿論カメ戦法だけで、関東を上杉から切り取ってきた訳ではありません。拙著のブログの「北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~」で詳しく書いていますが、彼のもう一つの必殺技というか戦術は

「夜襲」

なのです。デビュー戦の小沢原の戦いは、それで上杉朝興を破り、また河越城を落とした「河越夜戦」は、旧日本陸軍に研究し尽されるほどの腕前。

籠城と夜襲、これが氏康の得意技ですが、山岳戦で信玄に勝てる訳が無いと踏んでいたのです。

なので、彼としては、氏照・氏邦らが、信玄の挑発には乗らずに、たとえ、西側の高所を武田軍に取られたとしても、東側の高所で、対峙して、氏康の到着を待ってほしかったのだと思います。
⑭北条氏康の馬標

多分、綱成が挑発に乗らず、じっと待って居たら、氏康は10月7日の夜半に得意の夜襲で、信玄に鉄槌を下したかも知れません。

まあ、力量のある人程、自分の得意・不得意を明確にして、勝てない戦はしないということでしょうね。

これこそ、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」の孫子の言葉は、信玄だけでなく、氏康などの名将も意識されていたのでしょう。

兎に角この戦で、信玄は当初の計画通り、北条にガツンと一発食らわすことが出来ました。

氏康は、2年後の1571年に急速に衰え病死します。臨終に際し、子・氏政に「武田との同盟を復活するように」と遺言したと伝えられ、北条は武田と同年12月、再度甲相同盟を締結するに至るのです。

そして、翌年1572年、武田信玄は、ようやく念願の上洛を開始するのでした。

5.このシリーズの終わりに

3回に渡る長いシリーズを読んで頂き、ありがとうございました。

⑮築井城では遭難しかかりました(笑)
三増峠の戦いは、ある意味、その後の武田家の上洛に対しても、北条氏の関東固めにとっても、そして日本の山岳戦にとっても、この戦の意味は大変大きいと思います。決してマイナーな戦ではありません。

その割には、その戦い自体も不明な点が多く、また歴史的背景も含め複雑であり、諸説紛々なのです。その中で多くの説などを基に、事実で分かっているところは抑えるも、そこから次の明確な事実の間の話は、私の推測で展開されていますので、ご容赦ください。

なるべく時代のメインストリームとどう絡むのかを、分析を基に私なりに分かりやすく描いたつもりですが、ちょっと強引なところも多いのは私も認識しておりますので、この場をお借りして陳謝します。

さて、このシリーズは一応、この回で終わりですが、
次のブログあたりでは、この戦に直接、間接的に絡む人物や、いくさ後の江戸時代から今に至るまで長きに渡る都市伝説のような伝承が本当かどうかを現場で私自身が検証してきた事などを外伝として、軽く(?)ご報告したいなと思っていますので、宜しくお願いします。