マイナー・史跡巡り: 11月 2014 -->

日曜日

お三の宮 ~吉田新田と人柱~

吉田新田が出来る前の横浜
今回は、横浜市のネイティブであれば、小学生の時に必ず社会科で勉強する吉田新田について書きたいと思います。

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1.吉田新田が出来る前の横浜

吉田新田の概要をご説明します。右図は、吉田新田が出来る前の、大きな入り江の絵です。この入り江を、1654年から、吉田勘兵衛が埋め立て、今の横浜の心臓部に当たる場所を作り出したのです。

元々、横浜という地名も、この絵の左下にあります「横(に出ている)浜(はま)」ということから付いたようです。今の山下公園の辺りですね。

今のJRの3つの駅分はこの釣鐘型の口のところの距離である訳ですから、如何に大きな土地を埋め立てたか分かると思います。

関が原の戦いが終わって間もない頃の江戸時代初期に、これだけ大規模な埋立事業が出来る程、土木技術の進歩や、事業を起こす仕組みが出来上がっていたとは流石文明国家日本という感じです。

ちなみに、この頃はまだイギリスも産業革命前ですから、多分日本の技術というのは世界的にみてもかなり進んだものだったに違いありません。

明暦の大火(振袖火事)
2.吉田勘兵衛

1654年に埋立てが開始された吉田新田は、吉田勘兵衛という材木商が事業として開始した訳ですが、吉田勘兵衛という男、どうも江戸が開けて以来の有名な「明暦の大火」で儲け、事業資金をなしたらしいです。

脱線しますが、明暦の大火は、あの江戸城の天守閣が無くなってしまう程の大火事で(その後も今に至るまでこの天守閣は再建されません)、江戸の大半がこれで焼け落ちてしまったようです。

明暦の大火、ローマの大火、ロンドンの大火と世界三大大火であり、また火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものです。

復興には当時の建造物の主体である材木が沢山必要になるので、一大事業として吉田勘兵衛も取り掛かり、吉田新田への投資元を築いたという訳です。

さて、この吉田勘兵衛さんは、吉田新田以前にも、南千住の辺りで干拓事業を実施しております。

バス停も「お三の宮」
ただ、その干拓地では幕府から名字帯刀をゆるされ、社を築く権限を与えられる1000石の禄高を収穫することが出来なかったため、この横浜の地で、再チャレンジを試みたのです。

この時吉田勘兵衛49歳。江戸時代では既に隠居していても良い歳ですが、頑張りましたね。年代が近い私も見習いたいところです。

そして、この埋立事業はかなり苦労しました。

地図上、釣鐘型の土地の頭のところに流れ込んでいる大岡川が、結構氾濫したようで、この氾濫で河口にある干拓作業中の潮除堤が殆ど押し流されてしまう等、工事は難航を極めました。

これを抑えるために当時の技術の全てを投入して、この一大事業を9年もの歳月を掛けて完遂しました。

3.お三の宮

正面の護岸から先が吉田新田
大岡川が2つに分かれている
そういう高度な技術を持って造った吉田新田にも係わらず、なんて原始的で野蛮なことをするのだろうと驚いたのが、今回の「お三の宮」です。

お三の宮は、吉田新田の一番埋め立て始めの地点、現在の地下鉄吉野町駅の辺りにあります。

吉田新田の真ん中を走る道路(新田開拓当初から昭和40年代までは川でした)沿いのバス停の名前も右上の写真のように「お三の宮」となっています。

丁度、この辺りは、吉田新田が出来る前の汀(なぎさ)にあたる場所です。

まさに先に書いた大岡川の河口辺りの汀ということで、川の氾濫時期に潮除堤を壊しまくった箇所ということになります。

日枝神社(お三の宮)
右上の写真は、大岡川が吉田新田にぶつかり2つの川(大岡川と中村川)に別れる箇所の写真です。先のバス停の直ぐ近くです。

工事が一番難しかったところに、お三さんが人柱となって入水したところから、お三の宮なる名称が出来たのでしょうか?

お三さんについては、過去、色々な伝説がありましたが、大正時代に『烈女お三』と題した小説が、神奈川新聞の前身『横浜貿易新報』に103回に渡り連載され、これを今の伊勢佐木町の日活劇場の前身である喜楽座で上演し好評を博したことに始まり、その後も阪東橋の劇場等、昭和初期にかけて何回か上演されたことから、有名になりました。

簡単にあらすじを書きます。(一部想像で書いている部分もあります。)

お三さんは武家の娘さんで、江戸に住んでおり、両親が決めた許婚の武士が居ました。

明暦の大火で両親を失い、許嫁だけが頼りだったのですが、何故か許婚は、某藩士に暗殺されてしまうのです。

敵討ちを誓うお三さんは、甲州(山梨県)の身延山に必勝祈願に行くのですが、ここで同じく吉田新田成功を祈願しに来た吉田勘兵衛と出会います。

お三さんの入水場所?
釣りしている人がいます
お三さんの敵討ちの志に感動した勘兵衛さん、どうやったのかは分かりませんが、何某かの助太刀をし、見事お三さんは敵討ちを果たし、えらく吉田勘兵衛さんに恩義を感じていたということです。

いつかは恩返しを、と考えていたところに、実は新田開拓にかなり苦戦かつ腐心しているとの勘兵衛の話を聞いて、お三さん

 「では、私が人柱になって氾濫から新田を守らせてください。」

勿論、勘兵衛さんや周りも皆で止めたのですが、そこは烈女、言い出したら聞きません。自分で懐刀を取り出すと喉を突いて死のうとしたので、その意志の固さに、周りも諦めたとのことです。

さて、人柱となる当日、何故か海は荒れ果て、大岡川は氾濫しそうで、またもや完成間近の防潮堤が崩壊しそうなありさまでした。

 お三さんは、白装束で、大岡川の河口にある日枝神社にて、吉田勘兵衛を含む工事関係者と新田事業の祈願をした後、大岡川河口の汀から、後ろを振り向かずに、嵐の中の浪間にザンブと入ったかと思うと、後には白装束だけがゆらゆらと、浪間に浮かんでいたと云います。

不思議なことに、その直後から、嵐は急激に収まり、干拓建造物は無事に難を逃れることが出来ました。また、お三さんの亡骸は出てきませんでした。

それから、大岡川の氾濫などに邪魔されることもなく、新田開拓は順調に行ったということです。

ちなみに、「お三の宮」というのは、この人柱になる前に願を掛けた日枝神社のことです。
横浜開港当時の吉田新田と太田新田

4.その後の吉田新田

その後の吉田新田ですが、勘兵衛さん、やりました。1000石以上の収穫を上げることができ、見事苗字帯刀を許されたようです。

既に、材木商として巨万の富を稼いでいた勘兵衛さん、名誉も手に入れた訳ですが、かなり信心深い方でもあったようで、まあ、この時代の人の逞しさを象徴したような方ですね。

目標達成後、吉田氏は代々この吉田新田に住まわれ、現在は不動産産業をされていらっしゃるのだそうです。横浜人の誇りのご一族ですね。

さて、現在の横浜の礎となった吉田新田ですが、実は右下図のように、埋立てたのは現在の関内駅より西側の部分だけだったのですね。

大発展した現代の吉田新田
(球場より上部の部分)
つまり、ハマスタや市役所等は、日米通商条修好条約が結ばれる幕末まで海の中。

日米通商修好条約が結ばれ、関内(関の内)ということで、外国人を住まわせるために、太田新田というのが、吉田新田以後、200年近く経って造られました。

その第1段で、埋立てたのが、今の中華街の辺りなのですが、見てわかるように斜め45度の作りになっていますね。

簡易船を陸揚げするのに楽なように、このように斜めにしたのだと思われますが、これが中華街となってからは、どうも道に迷いやすい街並みになってしまったようです。

そして、現在の吉田新田が右の写真です。(ちょっと古いですね。昭和40年代かな?ハマスタがその前の平和球場ですし、地下鉄が走っている真ん中の通りが、まだ河になっています。)

吉田勘兵衛さんも、横浜がここまで大発展するとは思ってなかったでしょうね。

5.最後に・・・

このブログの最初に、何故、干拓技術の進んでいた時代に人柱という野蛮な行為が行われたのか不思議であると書きました。

そして、調べれば調べる程、お三さんが、何故それほどまでに人柱になりたいと思ったのか、十分に納得することが出来ませんでした。

下衆の推測ですが、そこまで自分の命を捧げることが出来るのは、彼女が吉田勘兵衛なり、この横浜のだれかを愛したりでもしていない限り、とても出来ないことではないかとも考え、色々その線で調査はしたのですが、残念ながら、そのような事がちらとでも見える資料や事象は見当たりませんでした。

代わりに、お三さんは実は伝説の人で、本当は居なかったという説が見つかりました。「お三の宮」と呼ばれる日枝神社は、住所が昔も今も「山王町」であり、近隣の方々から、「お山(さん)さま」と呼ばれていたとの説があります。

また、この神社に吉田勘兵衛が干拓成就を祈念して、起請文をこの神社に収めているので、その話と「おさんさま」が入り混じって、伝説化されたとの説もあります。

もしかしたら、伝説なのかも知れません。では何故このような人柱伝説が出来たのでしょうか?

ちょうど、江戸時代のこの時期は、かなり近代的な技術が発達し、行政も理路整然としっかりして安定的なものとなってきました。(江戸時代という260年間この行政機構が続くのですから)

そういう時期は、怪談話や人情話等が、合理的なものの精神的圧迫の裏返しとして、人々の間に広まりやすいのだと思います。

心中ものが流行ったのもこの時期ですし、また先にお話しした明暦の大火も「振袖火事」のような怪談めいた話があります。

お三さんが人柱となった箇所の
大岡川を泳ぐボラの稚魚
お三さんの人柱も、全くの作り話ではないかもしれませんが、考えようによっては、こんな巨大干拓が出来る技術の裏返しとして、このような涙を誘う人の話が出来たのかも知れません。

皆さんはどう思われますか?

事実は、全て日枝神社と大岡川が知っていますね。お三の宮のすぐ横の大岡川を泳ぐボラの稚魚たち(右写真)なら、何か知っているかもしれないと思いつつ、大岡川のほとりを歩いて、みなとみらいに向かいました。

それではまた!最後までお読みいただき、ありがとうございました。

土曜日

北条五代記③ ~小沢原の戦いと勝坂~

今回は図中「⑥小沢原の戦い」
この北条五代記は、関東平野での北条家の覇権が打ち立てられたところまでを、ダイジェスト的に書いています。

坂の上の雲を目指して、駆け上っていく北条氏、立ちはだかる中心人物は上杉氏です。歴史を振り返れば、北条氏にとって一番の坂の上は、「河越夜戦」です。

これを達成したのは3代目の北条氏康なのですが、この方の活躍ぶりは、他の勇猛果敢な武将とはちょっと違っているのです。

今回は、その辺りを含めて、この氏康のデビュー戦である小沢原の戦いに焦点を当ててレポートしてみたいと思います。

1.北条氏康について

北条氏康
北条氏康は、甲斐・信濃(山梨・長野)の武田家、駿河(静岡)の今川家との三国同盟を結び、民政向上、北条家組織内も、公平な発言・民主化を実現と、品行方正・立派な君主としての評価は高いです。

一方、北条記等では、「生涯36回の戦いに無敗で、一度も敵に背を向けた事はなく、傷は向う傷ばかりである。」というかなり勇猛な一面も書いています。この辺りの記述が基なのでしょうが、あるCGゲームの氏康のキャラクターは右下の画像のように、アグレッシブ過ぎる印象です。ちょっとかっこつけすぎですよね。

ところが、そこは戦国時代に良くある話。実はかなり偏っていたのです。この時代偏っていた人程、戦国武将として成功した場合、後の江戸時代で矯正され、儒学的に立派な、つまり品行方正な人物像となってしまうのです。ですので、戦国武将の特徴をかなり強調して考えた方が、その豪傑の真の姿に近いように感じます。

前置きが長くなりましたが、では氏康の特徴は?というと、「気の弱い引きこもり型⇒ニート」です。「亀」のようだったのですね。いつも周囲の状況にビクビクしながら、何かあると直ぐに甲羅の中に引きこもるのです。

幼少の頃は、雷が鳴るだけで、部屋の隅で震えているような子であったようで、家臣の中にはその資質を危ぶみ、北条綱成という今川家からの養子に家督を譲るべきではとの声もあったとあります。
とあるCGゲーム上の氏康

この辺り、エリート戦国武将の多くが持っているエピソードですね。例えば、信長もご存じのように「尾張の大うつけ」と馬鹿にされ、弟の信行の方が優秀だと家臣の中で噂されていたとか、武田信玄も非力な男で、これまた弟の典厩信繁の方が優秀と言われていたというようなパターンですね。

なので、こういうエピソードが出ている戦国大名は「あれは韜晦だったのだ」と思わせる場面が必ずあります。氏康の場合、このブログで取り上げる「小沢原の戦い」がそれです。

ただ、氏康の場合には、この小沢原の戦いは兎も角、その後はやはり小田原城という甲羅に籠る体質は脈々と続いていて、上杉謙信に攻められても、武田信玄に攻められても、小田原城にこもって出てこないで、敵が去るのを待ち続けました。

氏康(我が家の)
本質的にはやはりニート型、それもロイヤルニート型だったのではとの説もある位、後世から見ても本質は変わらないように見えますね。

亀さんのように、いつまで経っても出てこない氏康に対して、しびれを切らして帰って行った謙信、信玄なのですが、これが悪いことに、両方の日本国最強軍を撤退せしめた小田原城という過信が北条軍に出来てしまい、豊臣軍20万に対しても、「甲羅にこもり作戦」で行こうということになったとすれば、北条氏滅亡のDNAは、既に氏康の頃に造られてしまったのではないでしょうか。

2.小沢原の戦い

前回、河越城に撤退した上杉軍が、深大寺城を江戸城奪還の前進基地として改修し、牟礼砦等の付城に来た北条軍と対峙するお話をしました。(リンクはこちら

実は、深大寺城から、多摩川の方向に向かい、多摩川の稲田堤を超えて、よみうりランドの丘陵を上る道路は、私も良く利用するのですが、この丘陵のあたりで、北条氏康の初陣戦となる小沢原の戦いがありました。

流石に氏康も初陣から、城に籠って戦ったのではありません。

小沢城址入口
しかし、この初陣からして、少数の兵力で大軍相手に勝つという奇抜な戦略は、後に有名な河越夜戦と同じような感じです。

では小沢原の戦いの状況をお話しします。

当時、16才だった北条氏康は、亀だのニートだのと噂されながらも、多摩川南岸にある多摩丘陵を利用した小沢城主でした。

小沢城も小生の家から近いので行って見ましたが、城址として近隣の住民の方もあまり認識していないようで、まさかここが小田原北条五代の中では一番支配力を高めた氏康が城主だった城と思いもしない様子です。そういうところが、この史跡巡りの面白いところなのですが・・・。話を戻します。

北条氏康の評判を聞いた上杉朝興は、「そんな亀なら、甲羅ごと叩き割ってやろう!」と、江戸城を取られた腹いせもあって、時は1530年6月の草もそよがぬ炎天下に、河越城から軍を進め、小沢城もろとも、北条氏康を叩きに来ます。

勿論、そんなふざけた理由だけで上杉朝興が進軍したのではなく、多摩川以南は北条氏の支配下であった基盤を少しでも崩しておきたいとの思惑があったのでしょう。

小沢原の戦いにおける進軍路
この初陣で大将とならざるを得なかった氏康が、小沢城に籠り震えるかと思いきや、「上杉勢、なにほどのことがあろうか!」とのたまったようです。

また、小沢城を出て、今の矢野口辺りで、上杉軍を迎え撃つことにした氏康、この意外な行動から、「やはり、氏康のニートぶりは韜晦だったのか!」と頼もしく感じた北条軍は、士気も高く出陣したとのことです。

しかし、流石、戦の経験値では上杉朝興の方がベテラン、また江戸城奪取の雪辱をここで濯ぐのだと言わんがばかりの勢いで、深大寺城からの援軍も駆けつけさせ、北条軍に挑みます。

いわゆる蛮勇奮って出てきた氏康も、矢野口での第1回合戦では、散々に上杉朝興にやられてしまったようです。一時小沢城に撤退しました。

まあ、上杉朝興からすれば、「普段籠っている奴は、猪突猛進・イノシシ武者になりやすい。まだまだ若いの。氏康!」という感じでしょうか。上杉軍は、戦場から南西に駒を進め、小沢城からよみうりランドの多摩丘陵を一つ隔てた千代ヶ丘にて、陣の立て直しを図ります。

小沢城址遠望(住宅街の端にある)
3.勝坂

敗色強い北条軍です。普通のニートなら、とりあえず現実逃避に走ってしまいそうな場面です。しかし、それをやってしまったら、亀が甲羅ごと潰されるように、小沢城ごと潰されるのは確実です。

ところが氏康、流石ロイヤルニートです。こう考えました。

「なるほど、朝興は親父(氏綱)と高縄原でも、江戸城でも戦ってきただけのベテランのことはある。まともに戦っては勝てそうにない。」

「朝興は、名前の如く、朝方人間で、夜はめっぽう弱く、特に最近は歳のせいもあってその傾向が強いと聞く。俺は若いし、ニートだから、夜はめっぽう強いぞ!」

ということで、その夜勝いくさ気分で、休んでいる上杉軍に対し、氏康は、軍の一部のわずかな精鋭による夜襲を試みます。

千代ヶ丘にある勝坂
幸いこの土地の支配者であるため、土地の豪族(乳母子志水小太郎、中島隼人佐)と松明も点けずに、暗く暑い山道を、現在のよみうりランドがある丘を越えて敵陣に忍び寄ります。

そして一気呵成に、夜襲を仕掛け、休んでいる上杉軍に襲い掛かると、上杉軍は、総崩れとなり、上杉朝興も枕を持ったままかどうかは分かりませんが、慌てて河越城方面に撤退したとのことです。

この戦い、両軍どのくらいの兵数かの正確な文献はありませんが、多分矢野口で最初にぶつかった第1回合戦時はほぼ均衡していましたが、夜襲を行った第2回合戦時は、上杉に対してかなり少数の北条氏の兵だったとの記録はあります。真っ暗な闇の中、上杉軍が潰走するには、多分小沢城に残る北条軍も含めて、総がかりで襲ってきたのではないかとの恐怖心からのようです。

もし、そうだとすれば、圧されたとは言え、第1回目の合戦で、北条氏の兵力を見せたのは、夜襲の前哨戦として有効だったのではないでしょうか。

いずれにせよ、若干16才でベテラン上杉朝興を撃退した北条氏康は、やはり初陣を勝利で飾れたのが嬉しかったのか、亀とかニートとかの悪評を払拭できそうな勝ち戦が嬉しかったのか分かりませんが、一人で「勝った!勝った!」と喜びの声を発して、千代ヶ丘からよみうりランド方面へ駆け上った坂が、後に「勝坂」呼ばれるようになりました。現在も由来含めて史跡の看板が、この坂の途中にあります。
 
4.河越城夜戦も同じ・・・
勝坂から小田原方面を臨む

このように初陣を勝利で華々しく飾った氏康ですが、驚くべきことに、日本三大夜戦と言われる河越城夜戦、この戦は北条氏の関東支配を決定的にしたという重要度だけに留まらず、旧日本陸軍によってもかなり研究され、日本のお家芸とまで太平洋戦争で言われた夜襲の手本へも影響を与えた偉業を成し遂げました。

この戦の背景や経緯等はかなり複雑で、別途機会があれば詳細をこのブログでも書きたいと思いますが、簡単に言うと、上杉・足利等関東中の反北条軍団8万を、氏康の軍勢8千でもって夜襲により完璧に打ち負かすという偉業です。

この戦の仕方は、源流を遡ると、この小沢原の戦いにあると小生は思います。
そういった意味では、やはりこの小沢原の戦いについても、決して歴史的には小さなものではないですね。

5.北条五代記について

とりあえず、北条五代記と名を打った3部作で、主に上杉氏から関東を奪っていく北条氏2代氏綱、3代氏康について書いてきました。この2代から先、4代・5代の氏政・氏直は、皆さん良くご存知の豊臣秀吉の小田原攻めにあい、滅びの道を走ります。

実は、北条氏もこのデビュー戦以降、今川義元や、上杉謙信、武田信玄等皆さん良くご存知の戦国ヒーロー達と、色々と相間見え、また秀吉20万の大軍に包囲されドラスティクに滅びるという歴史のメジャー路線を並走するのですが、あえてブログのコンセプトからマイナーな時期の北条氏にスポットを当ててみました。

ただ、書いているうちに、このままこの北条氏シリーズを終らせるのも勿体無いなとも勝手ながら思いましたので、続き物は一旦ここで終わりにしますが、また時々この後の北条氏について、ブログで取り上げたいと思います。

またお付き合いの程、何卒宜しくお願いします。

では、今回はこのへんで!
ご精読ありがとうございました。