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三浦一族③ ~衣笠城落城~

①畠山重忠と三浦軍が戦った小坪の海岸
頼朝たちが石橋山合戦で敗走し、箱根の山中を逃げ回っている間、酒匂川で足止めを食らっていた三浦軍はどうしていたのでしょうか?

今回は、三浦一族の石橋山からの行動について描きたいと思います。

1.小坪合戦

石橋山方面へ向かう三浦軍は、小田原手前の酒匂川の増水により、行く手を阻まれ、仕方なく、軍の周辺、酒匂川の東側(寒川町、茅ヶ崎辺り)が大庭景親の所領であることから、建物に火をかけて廻ったことは、前回描いた通りです。

しかし、8月23日の暴風雨の中、大庭軍が頼朝軍へ攻撃を強行し、頼朝軍が敗走した情報は、三浦軍にも24日未明には伝わります。

②三浦軍の動き(右上)
頼朝の生死も分からない中、三浦義明とその息子、義澄(よしずみ)は、とりあえず衣笠城へ戻り、情勢を見極めようという結論に達し、軍勢を退却させるのです。(図②)

三浦軍が海岸沿いに軍勢を進め、鎌倉由比ガ浜の小坪海岸まで戻ってきたところで、この時平家方の畠山重忠の軍勢が追い付いて来ました。

畠山重忠、私のblogには3回目の登場です。「一の谷の戦い① ~逆落とし~」でも書きましたように、義経の鵯越の時に、「愛馬三日月が可哀想だ!」と、重忠自身が自分の馬、三日月を背負って降りた話は有名です。(写真③)

畠山重忠、この時は源氏側ではなく、平家方でした。それは彼の父親が清盛に仕えて在京中だったからです。

しかし、武蔵野国から大庭軍へ参陣した畠山重忠に対し、大庭景親は意地悪な指示を出します。

「退却する三浦軍勢を追撃せよ。」

というものです。畠山重忠の母親は三浦義明の娘、つまり三浦義明は畠山重忠のお爺ちゃんなのです。

鎌倉小坪海岸で、三浦軍とにらみ合いとなった畠山重忠は、三浦義明と和議を結びます。重忠としては、無碍に祖父との戦をしたくは無かったのでしょう。

③鵯越で愛馬を担ぐ畠山重忠
そして、三浦軍は衣笠城へ、畠山重忠は武蔵国へ戻ろうとした所に、三浦軍本体とは別のルートを通って衣笠城へ戻ろうとしていた別働隊(和田義盛(わだよしもり)の弟部隊)が、畠山軍が三浦本軍と交戦中と勘違いし、喚き散らしながら畠山軍へ突入して来ました。

畠山重忠も、これを見て、「折角、親族の情を掛けてあげたのに、和議と見せかけ、騙し討ちとはなんと卑怯なやり方か!」と激怒し、結局、この小坪で両軍は戦闘を開始してしまいます。(上の写真①参照)

畠山軍の方が約2倍の軍勢で、三浦軍に襲いかかりましたが、三浦軍は、個別に小隊に分かれ、小坪より丘陵地へ逃げ込み始め、追い縋る畠山軍には、引きながらもゲリラ的に攻撃を仕掛けてくるのです。

この辺りにお住まいの方なら分かると思いますが、三浦一族の住む三浦半島一帯は、海蝕が進んだ急斜面を持つ丘陵地帯が連続する土地です。

三浦一族の中で、鵯越を真っ先に駆け下ったことでも有名な佐原十郎義連(さはらじゅうろうよしつら)は、鵯越の急斜面にビビる諸将を見渡し、「こんな崖、三浦では朝夕毎日駆けている馬場みたいなもの、楽勝だね!」と言って、義経より一歩先に崖に飛び込みました。

このように、山岳形態に馴れた三浦氏ではありますが、そのような険しい地形が三浦半島はどの辺りから始まっているかというと、ちょうどこの小坪から始まっているのです。(写真④)
④小坪の海蝕丘陵

一方、畠山軍は、武蔵野国(今の埼玉県)の広々とした平地育ちですし、この辺りの土地は三浦氏に比べると殆ど何も分かっていません。畠山重忠が「馬が可哀想だ」と鵯越で馬を負武う程、急斜面に馴れていないので、追撃は失敗します。

三浦軍は、結局大した損害を受けずに衣笠城へ逃げかえることが出来たのでした。

3.衣笠城落城

さて、この戦ぶりで、畠山重忠は、三浦一族に対する誤解が更に昂じ、怒りプンプンになってしまいます。
親族である三浦氏に情けを掛けて和議に持ち込んであげたのに、裏切る上に、小馬鹿にしたようなゲリラ戦。

三浦義明らは、小馴れた土地での戦で、かなり余裕があったのだと思います。
逆に、孫である畠山重忠を殺さないように配慮したことが仇となったようです。

⑤怒田城址
本丸の向う側は現在久里浜駅
方面であるが当時は海だった
誤解の解けぬ畠山重忠は、三浦一族の主城である衣笠城を攻め落とすことにしました。

彼は、8月26日、自軍の体制を立て直すと、同じ武蔵国の河越(川越)氏、江戸氏らと協働し、数千の兵で衣笠城を目指し進軍します。

この畠山重忠らの攻撃に対し、三浦一族の間でも、迎撃に対しての議論が行われます。

一族の和田義盛は、開口部が多い衣笠城よりも、三方を山に囲まれ、一方が久里浜の海に開いた怒田(ぬた)城の方が守りやすいと主張します。(写真⑤)

しかし、三浦一族の宗主である義明は言います。

「我々三浦一族は、今この時、日本国の軍勢を敵に回して討死しようという覚悟である。ならば一族を代表する衣笠城を枕に討死すべきである。」

彼の決意に基づき、三浦一族は房総半島から駆けつけた上総広常(かずさひろつね)の弟らも、一緒に衣笠城に立籠もりました。
⑥衣笠城の物見岩
※ここの私が座っている辺りから経筒等が
大正時代に発見されたそうです

衣笠城跡からは、平安末期の経筒等が発見されており、この城は、防衛拠点という機能だけの城ではなく、三浦一族の心の拠り所となっていたのでしょう。(写真⑥)

さて、軍勢数千の畠山・河越・江戸連合軍が、衣笠城500の兵に襲いかかります。

三浦軍は奮戦しますが、やはり寡兵、矢も尽き、もはやこの城もこれまでという時に、義明は、残る三浦一族らにまた言います。

「良くここまで戦った。お前たちは、急ぎこの城を退去し、頼朝様の安否を確認せよ。
私は累代の源氏に仕えてきた者として、この歳(89)にして、幸いにも源氏再興の機会に巡り合うことが出来た。これ程喜ばしいことは無いであろう。
自分がこの先、生きられる年月は短い。そこで、自分は老いた命をここで頼朝様に捧げ、子孫の手柄にしたいと思う。
自分1人でこの城に残り、偽って兵が沢山いるように見せかけ、見事全軍が退去できるよう奮闘しよう。」

三浦義澄や佐原十郎、和田義盛ら一族は、これを聞きながら泣きますが、義明の源氏再興への命を懸ける熱意にほだされ、「きっと頼朝様はご無事です。源氏再興のために、命を懸け奮戦します。」と言い残し、26日の夜陰に紛れて、怒田城へ移動します。

そこに、頼朝宛てに出していた何人かの密使の1人が、平家の厳しい監視下にある陸路を避け、湯河原から相模湾を横断し戻ってきました。

そして、頼朝が土肥実平の領内に逃げ込み、「しとどの窟」にて平家の目を盗み隠れ、無事であることを伝えると、三浦一族は「おおっ!」と歓声を上げます。
⑦旗立岩

早速、義澄はまた命がけの密使を、相模湾を西へ、湯河原から「しとどの窟」へと行かせ、以下の主旨の文書を持たせます。

「房総半島は安房に、お迎えの準備が出来ておりますので、至急海上を使い、安房迄お越しください。我々もそちらでお待ちしております。」

一方、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをするのでした。(写真⑦)

この時間を有効に使い、三浦義澄ら一族は、怒田城近くの久里浜から房総半島へ、頼朝を迎え入れる準備に、上総常広の弟らと船を漕ぎだすのです。

翌朝、明るくなった空の下で畠山・河越・江戸の連合軍は、初めて衣笠城がもぬけの殻である事を知ります。

⑧三浦義明(平家物語)
そして、1人城の奥で、カカカと笑う不気味な老人を見つけます。

「どうせなら、孫の畠山重忠の手に掛かり、冥途の土産話にしたいものよ。」

と血走った目で言うのを将兵らは聞いて、「すわ、畠山公の祖父ということは、こやつは三浦義明であるぞ。素首刎ねよ!」と襲いかかります。

齢89歳の高齢等吹き飛ばしてしまうような気概の持ち主、三浦義明。(絵⑧)

最期まで華々しい活躍の武将でした。

4.おわりに

結局、義澄らが送った密使により、28日頼朝らは、湯河原の「しとどの窟」を出て、真鶴岬へ向かいます。そして、土肥実平らが用意していた小舟で戦場を脱出し、かねてより三浦一族と約束していた安房の鋸南町竜島に上陸するのです。(写真⑨)(戦場脱出のルートについては、前回の図、こちらを参照)

三浦一族、とりわけ義明と佐奈田与一の命を懸けた行動で、頼朝のピンチの5日間は過ぎ去りました。

⑨千葉県鋸南町にある頼朝上陸記念碑
石橋山合戦での敗走後の5日間、頼朝たちも箱根の山々を逃げ回り、大変な思いをしながら、安房に脱出してきましたが、これを喜び迎えた三浦一族らも、小坪合戦、衣笠城落城と目まぐるしい運命の変化の渦に巻き込まれているのです。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

三浦義明が命を捨ててまで守った頼朝。

義明は若い頃から、頼朝の父、義朝(よしとも)と行動を伴にし、保元の乱等で活躍します。また、この後に、幕府が開かれた鎌倉も、元はと云えば、義明が義朝を、ここに手引きし、住まわせたことが発端なのです。(後、頼朝が父が住んでいたことを理由に、ここに幕府の礎を築くのです。)

更には義明の娘を義朝へ嫁がせ、義朝の長男、義平を産ませている等々、義朝と義明の間柄は相当深く固い同志の絆があったのではないかと思われます。

三浦義明にとって、義朝の三男の頼朝は、亡き父義朝と走り回った夢のある壮年時代を彷彿させるものがあったのだと思います。ですので、義明は頼朝に賭けたのです。

義明は、頼朝が蛭が小島へ流され、旗揚げするまでの20年の間に、彼と何度か会って、「こやつならやれる」と、源氏の貴種たる才覚を頼朝に見出していたのではないでしょうか。そして、その話を北条時政にもし、時政をこの旗揚げの後見人に仕立てる程にしたのも、もしかしたら三浦義明なのかもしれません。
⑩満昌寺にある三浦義明の墓

私がそう考えた根拠は、石橋山合戦で北条時政の嫡男が討死したことを始め、この後の平家討伐に於いても数多くの武士達が戦死しているにも係わらず、頼朝本人が直接係わる形でその菩提を弔う寺が建立されたのは、三浦義明のための満昌寺と、前回出て来た佐奈田与一と岡崎義実のための證菩提寺(写真はここをクリック)の2つしか無いのです。(写真⑩)

頼朝も源氏再興の心の拠り所としたのは、三浦義明だったのでしょう。

石橋山合戦での苦しい経験と、心の支えであった三浦義明亡き後、頼朝は正観音を握りしめ、祈るというようなイメージの人物とはうって変わり、源氏の統領としての風格と威厳を発揮していきます。

お読みいただき、誠にありがとうございました。

【小坪合戦場】神奈川県逗子市小坪5丁目14−7
【衣笠城址】神奈川県横須賀市衣笠町29
【怒田城】神奈川県横須賀市吉井1丁目-1-23 
【源頼朝上陸の碑】千葉県安房郡鋸南町竜島
【満昌寺】神奈川県横須賀市大矢部1丁目5−10