マイナー・史跡巡り: 北条氏康の初陣② ~勝坂~ -->

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北条氏康の初陣② ~勝坂~

①小沢原の戦い概要地図
前回、北条3代目の名将・北条氏康の初陣を書き始めました。

この戦の6年前に、上杉朝興(ともおき)の江戸城を、北条氏綱(うじつな:氏康の父)軍に奪われました。

悔しい朝興。リベンジ戦を仕掛けます。彼の軍は多摩川を渡河し、河原で待ち構える当時まだ16才の北条氏康が指揮する軍勢と戦うのです。

これを「小沢原の戦い」と言いますが、前回はこの第1回戦を描写しました。(図①)

第1回戦は上杉朝興軍の勝利です。北条軍は一旦小沢城へと撤退します。

今回はこの後半戦を描きたいと思います。


 1.第2回 小沢原の戦い

敗色強い北条軍です。甲羅にこもるような「亀さん型」である氏康得意の籠城戦も残念ながら、朝興の断固たる意志があれば、甲羅ごと潰されるように、小沢城ごと潰されるのは確実です。小沢城は、やはり少々古いのです。なので、前回述べた通り、縄張り図を見た氏康は「打ってでるしかないか」と言ったのです。

ところが氏康、実はこの撤退は彼の想定内なのです。

出陣前に、氏綱からこの戦を任されてから、彼は夜を徹して作戦を考えました。そして夜中だからこそ思いついたのが「夜襲」です。

寡兵で勝利するには山岳戦のように森や岩等の隠れ場所を上手く使う、夜襲のように夜陰を使う、の2つしかありません。この場合は、巧妙に夜襲を行うことが、数の多い上杉軍に起死回生の一撃を加えられると踏んだのです。

この戦が始まる前に氏康は、後に「隠れ谷」と呼ばれる谷に、小田原から引き連れて来た1千の兵を隠しておいたことを覚えていらっしゃいますか。(写真②)

②現在は「上麻生隠れ谷公園」となっている

そう、彼はこの兵を最初から、この「夜襲作戦」用に待機させていたのです。

撤退することで、上杉軍に驕りが生じます。単に夜襲をするより、この驕りと、日中の戦で疲れ果てている上杉軍は夜は厭戦気分になっていると考えた氏康。撤退することで、この夜襲の効果が倍増すると考え抜いていたのです。

③小沢原の戦い概要マップ

④上杉軍が夜営した金程(※今は住宅街です)
日中の戦の勝利で気を良くした上杉勢、小沢城に立て籠もる北条軍を意識し、地図③のとおり、小沢城の南西3キロメートル先、現在の新百合ヶ丘駅の少し北側にある金程(かなほど)という場所に陣を張り、夜営に入ります。(写真④)

実は、古い川崎の地図を見ると、この金程の陣を敷いた辺りにある「万福寺さとやま公園」内に「小沢原」という地名があります。どうやら「小沢原」とは、先の第1回合戦の場所・矢野口辺りだけではなくて、この陣を張った辺りも指す可能性があります。(写真⑤)

⑤「小沢原」の地名となる場所

ここで2人の土地の豪族が活躍します。乳母子志水小太郎(めのとごのしみずこたろう)と中島隼人佐(なかじまはやとのすけ)です。

2人とも土地勘があるので、夜間でも松明も点けず、暗い山道を走り回ることが出来ます。

氏康は、まず中島隼人佐に命じます。彼は隠した兵1千が滞在する「隠れ谷」付近の住人であるため、小沢城からは目を閉じていても「隠れ谷」に到着することができます。「隠れ谷」の滞在部隊に、本日子の刻(夜中の12時頃)に金程の上杉軍本陣を、裏から攻撃を仕掛けるようにと、隼人佐に伝令を持って走らせます。

そして、小沢城の篝火を盛んにし、堅く城を守って、ひきこもっている北条軍を演出します。上杉軍は3キロ離れていると言っても、小沢城の動静は常に監視し、動きがあれば、即本陣に伝えられる仕組みを持っているでしょうから。

隼人佐は、勿論松明も点けずに、暗く暑い山道を、現在のよみうりランドがある丘を越え、新百合ヶ丘駅近辺「隠れ谷」に静かに控えている部隊に向います。途中、上杉勢の歩哨を確認しましたが、幼い頃から走り回っているこの多摩川丘陵地帯は幾らでも、迂回できる山道を知っているのです。

彼が「隠れ谷」の北条軍に接触したのは亥の刻(夜中の10時頃)です。隼人佐の伝令内容を聞くと、直ぐに「隠れ谷」部隊は夜襲の準備をします。隼人佐は先程、薄暗い夕刻の中、小太郎と一緒に金程にある上杉軍本陣の位置を確認しています。

上杉軍本陣は小沢城へ向けられ設営されていますので、「隠れ谷」から、粛々と静かに金程に到着することができれば背後から急襲することが出来ます。

そして予定の子の刻の少し前、静かに麻生川(この戦直後からこの川は陣川と呼ばれた。隠れ谷部隊が陣を整えたからとの伝承)沿いに部隊は移動します。川音で、移動時の多少の音はかき消され、上杉軍は脅威が迫っていることに気が付きません。

そして一気呵成に、本陣背後から攻めかかります。

前回書いた「小田原北条記」の記述の通り、日中ヘビーに戦い、疲労困憊の上杉軍、勝っているという驕りもあり、ぐっすり寝込んでいる兵士も少なくありません。そこに日中の第1回合戦に参加していないピンピンした北条軍が背後から現れたのですから吃驚仰天。

「物見は何をしていたのだ!」

「小沢城からの動きはありません!」

「ではどこから来たのか!奴等は!」

と上杉の本陣は大混乱です。

南側からの北条軍に圧され、徐々に北へと後退していく上杉勢。現在はよみうりゴルフ倶楽部のゴルフ場となっているところに「将切」という場所があります。(地図③、写真⑥)

⑥将切

ここは、この合戦の際に上杉軍の将が切られたとの伝承がある場所なのです。

小沢城の北条軍も氏康以下、日中の疲れを知らない精鋭部隊数百が、地元の乳母子志水小太郎の誘導の元、夜陰に紛れ、隠れ谷の別働隊の動きに合わせるように、こっそりとこの将切に出て来ます。

そして、金程から後退してくる上杉軍に一撃を加えるのです。それこそ、氏康ら小沢城精鋭部隊が、ここで上杉軍の将を切ったことから付いた地名なのかもしれません。

兎に角、この隠しておいた北条軍並びに氏康ら小沢城精鋭による挟撃夜襲により、上杉軍は、総崩れとなりました。

上杉朝興も枕を持ったままかどうかは分かりませんが、未明には、上杉勢は全軍慌てて河越城方面に撤退したのです。


2.勝坂

そして払暁には、若干16才で、ベテラン上杉朝興を撃退した北条氏康は、やはり初陣を勝利で飾れたのが嬉しかったため、

「勝った!勝った!」

と喜びの声を発して、ある坂を駆け上がりました。後に「勝坂」と呼ばれる伝承地です。(写真⑦)

⑦勝坂

最近撤去されてしまったのですが、6年前に1度、ブログでこの勝坂を取り上げた時には、写真⑦の右手の窪地に勝坂の大きな史跡説明看板がありました。(写真⑧)

⑧かつてあった勝坂の看板

見晴らしが良い場所であるだけに、台風等により吹き飛ばされる可能性があるからでしょうか?しっかりした良い看板ですし、それが無いと単なる坂にしか見えないので、撤去せず立てて置いて欲しかったです。折角ですから、ここにかつての看板に記載されていた内容を転記します。 

◆ ◇ ◆ ◇                                   

~  史跡  勝坂(かちざか)

享禄3年(1530年)6月、草もそよがぬ炎天下に、小沢原(金程1丁目あたり)に対陣するのは、川越城を出発し、府中から多摩川を渡り、先ごろ北条氏に江戸城をとられた恥をそそごうとする、上杉朝興の軍勢、これに対し、北条早雲の孫の新九郎氏康、そのとき、いまだ16才であったが大将として上杉勢なにほどのことがあろうかと初陣の名乗りをあげた。

同年6月12日、氏康は、乳母子志水小太郎をはじめ、中島隼人佐(麻生区万福寺)をひきつれ、上杉の陣を強襲した。草木も燃ゆる暑さの中、敵味方、追いつ追われつの戦いが続けられたが、夜に入り北条勢は一きょに上杉勢にせめ入った。上杉勢は大軍であったが、この勢いにかなわず川越に退いた。弱冠16才の氏康は、勝った勝ったと喜びの声を発して、金程から細山に通じる坂をかけ上がった。

それから、この坂を、勝坂と呼ぶようになったという。

勝坂は、ここの斜面にあり、今ははっきりしないが、坂が急なため、丸太で階段をつくり細山分教場への通学路でもあった。

日本民族学の父、柳田国男先生は、かつてこの地の眺めにふれられ、江の島が見えるといわれた。ここからは、南天のカノーブス(南極老人星)も見ることができ、眺めはすばらしいが、今は見わたす限りの家群が並び、つわものどもの夢の跡をしのぶことはできない。

                        昭和63年3月

                        細山郷土資料館   ~

◇ ◆ ◇ ◆

素晴らしい看板だと思いませんか。マイナー史跡巡りを生業としている私としては、普段なら何気に見逃してしまいそうな場所が、北条5代の中でも1番と言っても過言ではない名将・北条氏康デビュー戦のクライマックスの場所であったということを示しているこの看板は宝です。撤去は残念でなりません。再建を願うばかりです。

一方、「小田原北条記」には、この辺りはどのように書かれているのでしょうか。

~戦いが夜にずれ込んだので、上杉の軍勢は「かなわない」と思ったのだろうか、川越城へ退却してゆく。氏康は初陣で敵を追い落とし、「さい先が良い」と喜んで、
勝どきをあげて陣中へ戻った。それから負傷者を助け、落ち着きを払って兵糧を食べ、小田原にがい旋した。~

さらりと書いてあり、勝坂等の地名こそ出て来ませんが、「勝どきをあげて陣中へ戻った」の表現の辺り、どこで勝どきをあげたのだろう?という場所が、ここ勝坂であることをうかがわせます。


3.勝坂の軍略的意義

ところが、この勝坂を上り、見まわしてみて1つ分かったことがあります。(写真⑨)

⑨勝坂から戦場方面を眺望
それは、この坂の上からは、敵本陣があった金程や隠れ谷を含む、小沢原の戦場が一望できるのです。

看板にもありましたように、現在は家群が立ち並ぶ景観が広がっていますが、地形の起伏等地勢というのは多少の変化はあれ、そうは変わらないでしょう。

この辺りの多摩丘陵は地形が入り組んでいて、広範囲に渡る戦場全体を俯瞰するのは難しいです。

ことに夜襲となれば、局地的には勝利しても、どこかに敵の残存兵力が残っているかもしれないのです。

つまり、氏康は単なる勝利の喜びで衝動的に駆け上ったということではなく、払暁ですから、夜襲後の戦況をこの坂に登ることにより、きちんと確認をした上で、この場所で勝利宣言をしたのだと思います。

16才にしては出来過ぎかもしれません。しかしあらかじめ隠れ谷に兵を隠しておいて夜襲する等の深慮を見ると、やはり氏康はそれ程の人物であったのだろうと、考えながら、草木も燃ゆる8月の暑さの夕刻、私はこの坂の調査を終え、1里離れた自宅へと帰っていくのでした。

3.おわりに

このように初陣を勝利で華々しく飾った氏康ですが、驚くべきことに、日本三大夜戦と言われる「河越城夜戦」という偉業を成し遂げました。この戦は北条氏の関東支配を決定的にしたという重要度だけに留まらず、旧日本陸軍によってもかなり研究され、太平洋戦争では、日本のお家芸とまで言われた夜襲の手本にも影響を与えたものなのです。

この戦の背景や経緯等は、またかなり複雑で、別途機会があれば詳細を描きたいと思いますが、簡単に言うと、上杉・足利等関東中の反北条軍団8万を、氏康の軍勢8千でもって夜襲により完璧に打ち負かすという偉業です。


この戦の仕方は、源流を遡ると、この小沢原の戦いにあると私は思います。合戦を2回に分け、初戦で負けたように見せかけ、驕りが出た隙を夜襲、しかも疲労していない隠し部隊を投入してという作戦は、16才の初陣とは思えない鮮やかさです。

氏康は、「亀さん型」で臆病などと前回の冒頭おふざけのように書きましたが、往々にして臆病な人物は熟慮・深慮に長けた人が多いです。臆病は蛮勇よりは余程役に立つのです。1歩下がって、情報を徹底的に収集する。そしてそれらの情報から計算し尽した行動計画を立てる。さらに状況に応じ、臨機応変に計画を変更する。基本的なことですが、これが非凡の域に達していた氏康は、周囲から臆病な亀のように見えていたのかもしれませんね。ただ、父・氏綱はちゃんと氏康の資質を見抜いていたのでしょう。

氏康は、この後、関東から上杉氏を追い払い、武田・今川家と甲相駿三国同盟を結んで関東を支配します。更に上杉謙信や武田信玄も退ける等、北条5代の中で1番輝かしい北条の関東支配の時期を築いた人物となるのです。

 始めよければ終わりよし

氏康にとって、この諺通りの人生だったとすれば、やはり「始め」であるこの小沢原の戦いは、決して歴史的には小さなものではなかったのだろうと、この勝坂からの景観を愛してやまない友人の写真を見ながら思いました。(写真⑩)

⑩勝坂から富士山・丹沢山系を臨む(撮影:市嶋氏)

ご精読ありがとうございました。