前回、伊豆は函南の高源寺において、文覚は苦労して取ってきた院宣を、頼朝に渡す時に交換条件を突きつけます。その条件は神護寺復興支援なのですが、そんな文覚を頼朝は上手にからかうのです。
その続きからです。
1.起請文
「文覚殿、そなたは確か神護寺復興の勧進に、後白河法皇の宴会に乗り込んだことが原因でここに流されてきたのでしたね?復興の勧進をあきらめた後白河法皇の代わりに、私に神護寺を復興せよと。院宣にはそう書かれているのではないでしょうね?」
「まさか・・・」
後白河法皇から取得した院宣を頼朝に渡してしまう前に、懸命に神護寺復興の話を切り出した文覚は、頼朝の冗談に出鼻をくじかれたようで、少々熱くなります。
「わかりました。私が天下を収めたら、神護寺は間違いなく復興して差し上げましょう。」
「では、この起請文に花押を」
「なんとこの段階で起請文とは!気が早すぎませんか、文覚殿」
頼朝は苦笑します。しかし、文覚は真顔で答えます。
「頼朝殿、院宣取得の旅の途中、貴殿がお話しくださった杖の話。見てきましたぞ。」
「え?」
一瞬、何の話をしているのか頼朝は理解できなかったようです。しばらく文覚の目を見ているうちに
「ああ、この間、奈古谷の温泉でお話した、20年近くも前の私のつまらない身の上話を覚えていたのですか。」
「つまらないですと!」
またもや真っ赤になる文覚。
「まあまあ・・・」
といいつつ、頼朝は文覚とこの伊豆で出会って打ち解けてきたある晩に、奈古谷の温泉にて文覚に話したことを思い出しました。
2.流刑地伊豆への旅立ち
①源義朝が入浴中を襲われたと伝えられる場所 |
「では頼朝殿、くれぐれも体には気を付けて!しっかりとお父様の霊を弔うのですよ。」
と見送るのは上西門院(じょうさいもんいん)。後白河院の准母(同母姉)です。
かつて頼朝はこの上西門院に蔵人(くろうど)として仕えておりました。
頼朝だけでなく、文覚も武士だった昔、北面の武士として仕えていたところです。
◆ ◇ ◆ ◇
1160年、平治の乱で敗れた源 義朝(よしとも)が京から関東へ逃走する途中、名古屋の南・知多半島の豪族・長田父子のだまし討ちにあい、温泉に入っているところを襲われ落命します。(写真①)
この時、寸鉄帯びずに裸だった義朝が「せめて木刀一振りあれば、こんなことにはならずに済んだのに!無念!」と最期に言ったことが有名となり、付近にある義朝のお墓には現在も木刀を捧げる人が絶えません。(写真②)
②義朝の墓には今も沢山の木刀が捧げられる |
東下する父・義朝に、当時13歳の頼朝も同行していたはずなのですが、雪深い関ヶ原の辺りで義朝の一行とはぐれてしまい、平 宗清(たいらのむねきよ)に捕縛されます。
平清盛の前に突き出され、死罪を言い渡されます。敵の息子を生かしておくことは、将来必ずや自分の親族への仇となります。敵対する家を根絶やしにすることは、自家を永続させるための、基本中の基本だったのです。
ここで清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)が登場します。彼女は頼朝が早世した息子・家盛(いえもり)に生き写しだったことから、頼朝の助命に、かつて頼朝が蔵人だったところの上西門院や名古屋の熱田大宮司家(頼朝の母方実家、写真③)も巻き込み奔走します。なかなか助命を聞き届けてくれない清盛に業を煮やし、とうとう池禅尼は断食まで始める始末。
③頼朝の母方実家・熱田大宮司家 ここで頼朝は生まれたのです。 |
流石の清盛も折れてしまうのです。まあ甘いというのですかね。清盛だけでなく、平家一族全般にこの池禅尼が家盛を思う気持ちのように、一族に対する思いや、どこか人を信用したいという優しさのようなものが感じられます。
それに比べると源氏の方が、人というものは同族でも信用しないというくらい冷徹なところがあって怖いのです。
兎に角、この時、結果的には頼朝を死罪にはせず、伊豆に流刑にするということになったわけです。
3.杖
④大河ドラマ「平清盛」の上西門院 |
「伊豆への道のりは遠いですね。頼朝殿。」
「はっ、上西門院殿には、私は幼少のころからご迷惑をお掛けするばかりで、蔵人の任もろくにできないうちに、このように流されていく身となったこと、慙愧の念に堪えません。」
「何を言っているのですか。頼朝殿。流罪の御身に、六波羅(平家)からは決して品々を与えてはならぬと厳命が下っているので、ワラワは餞別もお渡しすること叶いませぬが、これをもっていきなさい。」
と言って一本の美しい木目の入った杖を頼朝に渡します。
「いつも馬上の人である頼朝殿が、幾ら罪人の身分だからと言って、徒歩で伊豆まで行かれるのは難儀でしょう。大したものではないですが、それは吉野の宇太水分(うだのみくまり)の杉の小朶(こえだ)で作った杖です。あの辺りは木々が十分に水を吸っているのでこの杖も柔軟で丈夫なのですよ。」(写真⑤)
⑤宇陀水分神社(奈良県) (国宝の本殿3棟の左に夫婦杉があります) |
「ありがとうございます。大事に使わせて頂きます。」
「伊豆では御父上の供養に励まれよ。頼朝殿。」
「上西門院殿もお元気で。生きていれば、またお会いする時もございましょう。では、私はこれにてさようなら。」
4.智満寺での頼朝
さて、頼朝の伊豆配流の経緯を詳細に記載した資料はありませんが、伝承が残っています。
それは、このシリーズの最初のブログで書いた文覚が流される途中に立ち寄った智満寺に、13年前の配流途中の頼朝も立ち寄ったというものです。
シリーズの最初にも書きましたが、当時、東海道の途中、島田にある智満寺は非常に大きく、真言密教を敬する頼朝が立ち寄ったとしても、不自然ではありません。
そもそも父・義朝の供養で残りの生涯を伊豆で過ごそうという頼朝ですから、その仏道を深める意義もあって智満寺に立ち寄ったのでしょう。
ただ、やはり頼朝も、智満寺に来る1か月前までは武家の棟梁の嫡男。若干13歳の希望ある少年・頼朝が完全に世俗の欲が捨てきれる程には悟れるわけもありません。
◆ ◇ ◆ ◇
智満寺逗留3日目、その日は朝から降ったり止んだりの曇天でした。
この寺で般若波羅蜜多心経(般若心経)の一部を写経し、写経自体をしっかり学んだ後、頼朝は伊豆入りを果たすという計画でした。
しかし毎日座して写経することに、少々飽きてきた頼朝。ちょっと本堂を抜け出します。さっきまで降っていた雨は小休止のようです。
述べましたように智満寺はかなり大きなお寺でしたので、頼朝を護送している役人から、この寺の僧たちには常に頼朝の行動を見張るように指示されていたのです。
ただ、頼朝はさすがに源氏の嫡男。高貴な出だけあって多少の自由は許されているのです。これは伊豆に流された後も同じでした。
頼朝は、来た時からこの寺の裏山が気になっていました。多くの修験道者等が登っていくのを見ていたからです。自分も少し登ってみたいと、上西門院がくれた杉の小朶の杖をもって雨露が滴る草木をぬって登り始めます。
少し登ったあたり、薬師堂の裏手から智満寺の本堂を眺めます。茅葺屋根の立派な本堂です。(写真⑥)
⑥薬師堂上から智満寺本堂を眺める |
「頼朝殿、どこに行かれたのじゃ!早く戻られい!」
と本堂の方から、指導僧の声が聞こえます。既に頼朝が裏山へ登ろうとしているという他の僧からの情報が入ったのでしょう。
「ちぇ、もうバレているのか。」
舌打ちした頼朝は、持っていた杖を地面に突き立て、空を見上げ、目をつぶると
「父上、私はこれから伊豆で父上の魂を弔い一生を過ごすことになるようです。ただ、私には未練があります。父上が成し遂げたかった事、武士(もののふ)の世を作り上げること、これをまだやりたいという気持ちが消えません。やはり清盛が実現するのでしょうか。私のこの気持ちなぞ荒唐無稽、子供染みた考えなのでしょうか。」
頼朝はここで目を開けて、灰色の空を凝視します。すると答えの代わりなのでしょうか。強くまた雨が降ってきました。
目線を目の前に突き立っている杖に移し、
「子供染みた考えかどうか、ここで賭けてみます。父上が降らす雨によって、いつかこの杖に根が生え、立派な杉になるとしたら、ああ、それがどんなに荒唐無稽な話かはよく分かっています。ですが万が一、そうなった時には、父上が私に『やれ!』と言っていると考えます!」
頼朝がそう呟き、くしゃくしゃになった顔面が、泣いているか、雨に濡れてそうみえるのか分からない状態の中で、ヒステリックに杖の頭を自分の拳で何度も叩き、地中深くに突き立てようとします。
そしてそれは、なかなか戻らない頼朝を探しに来た僧たちが制止するまで続けられるのです。
⑦杖が木に(イメージ) |
「お願いです。どうかその杖は抜かないでください。万が一根付いたら、私は私はやります・・・」
5.根付いた杖
という話を文覚に奈古谷の温泉でした頼朝。話の後、温泉の中で、以下の一言を加えます。
「文覚殿、もし文覚殿が今後、智満寺を通りかかるようなことがあれば、その杖が根付いたかどうか確認して欲しいのです。万が一根が生え成長していたなら、私は父の霊との約束ですから、動かなければなりません。正直、ここで暮らした20年の生活は、当初の流罪の想像とは違い、平和で楽しいものです。私はできれば動きたくはないのです。」
文覚はこの話を覚えており、今回の福原行きの途中で、智満寺に立ち寄ってきたという訳です。
◇ ◆ ◇ ◆「そうですか。」
何の感情も表さない頼朝。それ以上「どうでしたか?」のようには聞きません。
しかし、文覚はあっさりと言います。
「立派な杉の木に成長しておりました。」
「・・・」
更に文覚は言います。
「頼朝殿、頼朝殿が杖を刺した所である薬師堂の裏に、間違いなく一本の若木が立っていた。それが事実のすべてです。」
智満寺の誰かに聞いたのだろうか?いや、杖ではなくて他の若木と誤認したのではないだろうか?聡明な頼朝の脳裏には色々な疑問が湧いてきている筈です。
しかし、頼朝は何も質問しません。そして文覚の瞳をじっと見つめます。まるで少年のような鳶色の綺麗な瞳です。頼朝は静かに言います。
「文覚殿、分かり申した。ありがとうございます。」
そして、文覚から手渡された起請文に淡々と花押をしたためるのです。
⑧安達盛長(法体) |
「文覚殿、お会いしてほしい私の仲間がおります。盛長、入れ。」
7.安達盛長
頼朝が「仲間」といったその人は、頼朝より一回りも年上の、人の好さそうな感じの中年の男でした。「安達盛長(あだちもりなが)と申しますじゃ。」
ニコニコと笑顔で文覚に挨拶する盛長。
実質、頼朝の家来なのです。ただ、流刑の身で公式に家来を持つことは許されていないので、多分他の人に彼を紹介する時には「仲間」と紹介するのでしょう。
「文覚殿、彼は穏やかな見かけですが、貴公同様、熱いところのある漢(おとこ)です。ただ、話し合いの駆け引きはかなり上手で使えると思います。皆、その笑顔に引き込まれる。
これから、旗揚げの準備に文覚殿もご尽力頂きたいのですが、是非、盛長を使って、伊豆の豪族は勿論、一人でも多くの坂東武者を味方に付けたいのです。ご協力いただけますね?」
文覚は少し考えます。
⑨八重姫 |
「相分かり申した。盛長殿、どうぞよろしくお頼み申します。」
と文覚が頭を下げると、盛長は相好を崩して
「なんのなんの、拙者等、何の取柄もないものですがの。歳だけはお二人より持っておるものじゃて。上手に使っておくんなさい。わははは。」
と大きな声で笑うのでした。
8.八重姫
二人の様子を見ていた頼朝。この居心地の良い伊豆の流刑生活も終わりに近づいたことを実感しているのです。
実は、盛長と頼朝、伊豆地域の豪族との良好な関係作りということでは、直近で辛い経験を共有しているのです。
笑顔が絶えない盛長も、心の内である事件が心に引っかかっており、この事件での失敗による心の痛手を晴らしていきたいと内々に考えているのです。
それは八重姫事件です。結果は簡単ですが、ことの発端はかなり複雑です。
長くなりますので、詳細は次回します。
ご精読ありがとうございました。
《つづく》
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