①今川館もあったとされる駿府城 |
今川義元や、今川家の軍師・雪斎は、元信の知見の広さ、優秀さを認めながらも、その能力を今川家のために発揮してくれるかどうかが気になり始めます。
人質なだけに、万が一、今川家と対立するような事態となれば、優秀であればある程、今川家の脅威となるリスクがあると考えるのです。問題の芽を摘むなら早い方が良いと。
そこで、元服を機に、元信を一度岡崎に里帰りさせるという策を、雪斎は今川義元に提案するのです。(前回のブログはこちらから)
今回はこの続きからです。
1.岡崎にて
雪斎と碁を打ちながら決めた元信の岡崎里帰り、義元は早速元信(家康)へ指示します。言われれば喜ぶかと思いきや、さして嬉しくも無さそうな元信。
-はて?-
と義元は思いましたが、今川家の家臣で、元信の養育係である関口義広(よしひろ)に6千の兵を任せ、元信が岡崎へ発った後、後方からこっそりと岡崎へ向かうように下知します。勿論、元信が信長方へ走る場合には、この関口義広が養育係だったからこそ、責任を取り、元信を潰すためです。
◆ ◇ ◆ ◇
岡崎へ里帰りした元信ですが、自分の城なのに岡崎城には入れません。既に岡崎城代として今川家の家臣が入城しているからです。元信は、岡崎城にて城代に挨拶をし、そこから2km離れた大樹寺という松平家の菩提寺に宿泊するのです。(写真②③)
③松平八代の墓 |
さて、大樹寺に入り、翌日松平八代の墓へ詣でていると、岡崎城代からの急使が元信のところに飛び込んできます。
「御注進!織田信長、大高城を急襲!」
「なに!吉法師(信長の幼名)殿が!」
若干14歳の元信。自分が墓の詣でで帰国した途端に隣国の信長が速攻してくることに脅威を覚えます。それはまるで動物園のトラが寝ている間に、その檻の前の小道を歩くと、急にトラが咆えかかってくるように感じる恐怖に似ています。
「殿、鳥居忠吉殿、大久保忠俊殿が、至急岡崎城へお越し願いたいとのこと。」
「今川の城代がおるのに勝手に登城できぬではないか。」
「城代は今川の岡崎城兵を従え、大高城への支援に向かいもうした。」
「よし、分かった。兎に角岡崎城へ登城する。」
大樹寺から岡崎城へは約1里(4km)の距離です。早速岡崎城に登城した元信を、齢80歳の鳥居忠吉が迎えます。そして城代らが居ないこの機会に元信に見せたのは、隠れ部屋に堆く積まれた軍資金や兵糧米だったのです。
大久保忠俊が城本殿へ元信を案内すると、その大広間の両側にずらっと並ぶ三河衆の面々。元信を上座に座らせた大久保忠俊と鳥居忠吉が、ひれ伏しながら大音声を発します。
「おかえりなさいませ。殿!」
居並ぶ三河衆の中には、元信を仰ぎ見て、涙するものもいます。
2.謀反か?恭順か?
元信は、三河の家中から当主である自分への期待が、これ程大きなものであるとは思っていませんでした。黙って家臣たちを見まわしていると、また大久保忠俊が少し顔を上げて言上し始めました。
「殿、現在、隣国の信長殿が今川側の最前線・大高城を攻撃しているのはご存じですな。苦節10年余、今こそこの三河が立ち上がり、信長殿へお味方をして共に大高城守備兵である今川軍を駆逐しましょうぞ!」
「・・・」
「殿!千歳一遇とはこのことですぞ!殿がこの岡崎へお戻りになられたことと時機を同じくして信長殿が大高城を攻めるのは、まさに殿に今川に対する翻意を促しているのでございましょうぞ。三河衆は殿を駿府に取られ、泣く泣く今川の先鋒として織田方との戦いの前線に立たされ、この10年間死屍累々築いてまいりました。その辛酸たるや、ここに居並ぶ譜代の家臣の涙を見れば分かり申すでござろう!」
「・・・」
「いざ!大高城攻撃を下知くだされ!」
④大高城跡 |
元信は大久保の顔をじっと見つめます。しばらく張りつめた空気が居並ぶ諸将の間に流れ、皆、元信の号令が下るのを、固唾をのんで見守ります。
元信が硬い表情のまま立ち上がりました。
「良いか。私に時間をくれ。」
大久保は叫びます。
「殿!時間がありませぬぞ!大高城が落ちてからでは遅いのです。今すぐご決断を!」
困り顔の元信は大久保を見上げます。しかし、強い声ではっきりと言うのです。
「大樹寺に戻る!」
3.義元への失望
大樹寺に戻ってからも、元信は、ついてきた大久保ら家臣から色々と言われます。
「千歳一遇の好機ですぞ!」とか「何を愚図愚図と決断せずのおるのですか!」
「殿はまだお若いから決められないのでしょう。我々三河衆の古参たちにお任せください。」
「・・・」
元信は目をつぶり、もう何を言われようと、着座の間で石のように黙しています。(写真⑤)
⑤大樹寺着座の間 |
そうやって2刻(4時間)程経ったでしょうか。
前線に斥候に行っていた武者が入ってきて、元信の前に跪くと
「只今、信長殿、大高城攻撃を諦め、撤退しました。陣中に放った素ッ破(忍者のこと)によると岡崎城から出てこられた殿が大高城へ向かう気配を見せず、大樹寺にお戻りになったと聞いた途端、撤兵を指示したとの由でござる。」
と報告します。
―やはり信長殿は待っていたに違いないー
―おお、折角の好機を・・・―
とヒソヒソと居並ぶ三河衆たちは小声で隣同士と話します。
しかし、元信はその斥候の話を聞いても、苦渋の顔をし、下を向いたまま顔を上げようとしません。
―なんと内向的な。ー
―やはり駿府にいる間に骨抜きにされてしもうたか、我らが殿は。―
―それが今川義元の狙いだったのだろうな。決断できない弱気な当主を作り、今川家の傀儡とする。―
―所詮傀儡当主の下で働く我々も今川家の傀儡。松平家も終わりなのか。―
「聞こえておるぞ!」
三河衆たちは、ハッとなり、顔を上げます。
いつの間にか、立ち上がった元信のこめかみには怒りの血筋が現れています。
握られた拳はわなわなと震え、今にも殴り掛かりそうなその雰囲気に、三河衆は息を飲みます。
その時です。
「御注進!」
と言って飛び込んできた武者がいます。元信の父に仕えていた伊賀者・服部半蔵正保(まさやす)の息子で服部半蔵正成(まさしげ)。家康の懐刀となる人物です。ちなみに「忍者ハットリくん」は服部貫蔵(かんぞう)だそうです。
半蔵正成は、駿府で人質となっている元信の側人として仕えていました。
「殿、殿の予測の通り、ここから北へ半里の岩津にて、今川が家臣・関口義広が6千の兵を率いて待機しておりました。大高城へ信長と戦(いくさ)するために移動する気配も見せず、岩津に1昼夜留まっていた模様。そしてつい先ほど、信長撤兵の知らせが入ると自分たちも陣払いを開始しました。殿のご推測通りであったと思われます。」
これを聞いた大久保忠俊が口を挟みます。
「どういうことじゃ!正成。殿は何を推測なされておったのじゃ?」
「危ういところだったのだ。大久保。」
座に戻った元信が平常心に戻り話始めます。
「此度の墓参、これは今川義元公に強く勧められて成ったことなのだ。私は正直来とうは無かった。」
「はっ?」
「勿論、そちや鳥居らをはじめとする三河衆のことは、人質に来て6年間1日たりとて忘れたことは無い。当然岡崎にも戻りたい。しかし、元服し、岡崎に私が戻ったとなれば、幼少の私と吉法師(信長のこと)殿との関係上、吉法師殿が黙っている訳がない。そしてそれは義元公が予測できない訳がない。」
大久保が返します。
「では、此度の信長の大高城攻撃は、やはり殿を岡崎から引き出し、信長殿の軍につけることの対応?」
「無論、信長殿から私に何かの連絡があったわけではない。でも予想どおりだった。そして義元公も私の予想通りの動きをしたのだ。」
「と申しますと?」
「もし、私が岡崎を出陣し、信長に靡くような疑いがある時は、今川軍が私らを潰してしまおうと。」
「なんと!」
「私も信じたくはなかった。父とも思うておる義元公が、私を潰そうなど・・・。しかし悪い予想は当たった。正成に周囲に今川の大軍が居ないかどうかを確かめさせたところ、まさに関口刑部殿が来ていたとは。皆が私をなじる最中も、私のこの疑い話を何度もしたいと考えたが、万が一これが邪推であり、今川義元公は、やはり真っすぐなお人であったなら、私は死んで義元公にお詫びせねばならぬと考えていたので、安易に皆には打ち明けなかったまでだ。」
元信は大きなため息をつきました。それは今まで唯一、亡き父の代わりとも思い、信頼していた今川義元も、所詮は戦国大名の1人であり、弱肉強食の理から抜け出すことの出来ぬことへの失望です。
4.志意の実
元信は立ち上がると、縁側から大樹寺の庭に出ました。
暗くなりかけた夕暮れの庭に何やらどんぐりのような木の実が落ちています。元信は無言のまま、その実を拾い上げ、
「椎(しい)の実か? 今川家も三河衆もまさに、四囲(しい)は我が志意(しい)のとおりには行かぬ。」
と、腕を大きく振って、嫌なものを遠ざけるように、その実を遠くに投げようとしました。
-ちょっと待て。私が今、これら四囲のモノ全て遠ざけようとすればするほど、却って私の欲しいと思うモノ、つまり理想の浄土も私から遠ざかるのではないか。
四囲のモノを全て遠ざける、つまり、この世が厭であると思うのではなく、反対にこの世に対して懇切丁寧にすることが、理想である浄土に近づくための近道なのでは?ー
家康は、庭の隅まで行き、手で土を掘ります。そしてそっと投げようとしていた椎の実をその穴に入れ、また手で掘り返した土をかぶせます。
-浄土では、実は投げて破壊するものではなく、土に埋め、育つ機会を与えるのが理だ。しかも、ここは「大樹の寺」。もしこれでこの実が大きな椎に育つのであれば、我が志意も大きく育つはず。-
◆ ◇ ◆ ◇
今回の件で、義元に「信頼」された「元信」。名前に「信」の字は必要ないだろう、自分の「元」と三河衆の信望厚い祖父の「康」の諱を付けよという今川義元からの信頼の証として「元康(もとやす)」と改名します。
そして、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれるまで、元康は義元の重要な家臣として活躍するのです。
桶狭間の戦いの後、一国の領主として、この岡崎に戻って来た元康は、この大樹寺で、自分が埋めたこの椎が、大木になりつつあることを知るのでした。(写真⑥)
⑥大樹寺にある徳川家康公お手植えの椎 |
そして、弱冠14歳の時に、全てを投げだしたくなる気分を思いとどまったことを、この椎の木を見ては思い出し、今後も決して諦めずに理想を求めて生きていくことを決意し、この大樹寺で以下の旗印(馬印)を作るのです。(写真⑫、絵⑬)
厭離穢土(おんりえど):この世は穢れた場所である
欣求浄土(ごんぐじょうど):浄土のような理想を求め続ける
⑦大樹寺本堂両脇の柱に記された「厭離穢土厭離穢土欣求浄土」 |
⑧厭離穢土欣求浄土・徳川家康・姉川合戦図屏風 |
《つづく》