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日曜日

家康の大樹② ~大樹寺の椎~

①今川館もあったとされる駿府城
 今川義元のお膝元・駿府(今の静岡市)で、人質として育てられた家康。14歳で元服し、幼名・竹千代から、松平元信(もとのぶ)と名を改めます。(写真①)

今川義元や、今川家の軍師・雪斎は、元信の知見の広さ、優秀さを認めながらも、その能力を今川家のために発揮してくれるかどうかが気になり始めます。

人質なだけに、万が一、今川家と対立するような事態となれば、優秀であればある程、今川家の脅威となるリスクがあると考えるのです。問題の芽を摘むなら早い方が良いと。

そこで、元服を機に、元信を一度岡崎に里帰りさせるという策を、雪斎は今川義元に提案するのです。(前回のブログはこちらから

今回はこの続きからです。

.岡崎にて

雪斎と碁を打ちながら決めた元信の岡崎里帰り、義元は早速元信(家康)へ指示します。言われれば喜ぶかと思いきや、さして嬉しくも無さそうな元信。

-はて?-

と義元は思いましたが、今川家の家臣で、元信の養育係である関口義広(よしひろ)に6千の兵を任せ、元信が岡崎へ発った後、後方からこっそりと岡崎へ向かうように下知します。勿論、元信が信長方へ走る場合には、この関口義広が養育係だったからこそ、責任を取り、元信を潰すためです。

◆ ◇ ◆ ◇

岡崎へ里帰りした元信ですが、自分の城なのに岡崎城には入れません。既に岡崎城代として今川家の家臣が入城しているからです。元信は、岡崎城にて城代に挨拶をし、そこから2km離れた大樹寺という松平家の菩提寺に宿泊するのです。(写真②③)

②松平八代の墓のある大樹寺

③松平八代の墓

さて、大樹寺に入り、翌日松平八代の墓へ詣でていると、岡崎城代からの急使が元信のところに飛び込んできます。

「御注進!織田信長、大高城を急襲!」

「なに!吉法師(信長の幼名)殿が!」

 若干14歳の元信。自分が墓の詣でで帰国した途端に隣国の信長が速攻してくることに脅威を覚えます。それはまるで動物園のトラが寝ている間に、その檻の前の小道を歩くと、急にトラが咆えかかってくるように感じる恐怖に似ています。

 「殿、鳥居忠吉殿、大久保忠俊殿が、至急岡崎城へお越し願いたいとのこと。」

 「今川の城代がおるのに勝手に登城できぬではないか。」

 「城代は今川の岡崎城兵を従え、大高城への支援に向かいもうした。」

 「よし、分かった。兎に角岡崎城へ登城する。」

大樹寺から岡崎城へは約1里(4km)の距離です。早速岡崎城に登城した元信を、齢80歳の鳥居忠吉が迎えます。そして城代らが居ないこの機会に元信に見せたのは、隠れ部屋に堆く積まれた軍資金や兵糧米だったのです。

大久保忠俊が城本殿へ元信を案内すると、その大広間の両側にずらっと並ぶ三河衆の面々。元信を上座に座らせた大久保忠俊と鳥居忠吉が、ひれ伏しながら大音声を発します。

「おかえりなさいませ。殿!」

居並ぶ三河衆の中には、元信を仰ぎ見て、涙するものもいます。

2.謀反か?恭順か? 

元信は、三河の家中から当主である自分への期待が、これ程大きなものであるとは思っていませんでした。黙って家臣たちを見まわしていると、また大久保忠俊が少し顔を上げて言上し始めました。

「殿、現在、隣国の信長殿が今川側の最前線・大高城を攻撃しているのはご存じですな。苦節10年余、今こそこの三河が立ち上がり、信長殿へお味方をして共に大高城守備兵である今川軍を駆逐しましょうぞ!」

「・・・」

「殿!千歳一遇とはこのことですぞ!殿がこの岡崎へお戻りになられたことと時機を同じくして信長殿が大高城を攻めるのは、まさに殿に今川に対する翻意を促しているのでございましょうぞ。三河衆は殿を駿府に取られ、泣く泣く今川の先鋒として織田方との戦いの前線に立たされ、この10年間死屍累々築いてまいりました。その辛酸たるや、ここに居並ぶ譜代の家臣の涙を見れば分かり申すでござろう!」

「・・・」

「いざ!大高城攻撃を下知くだされ!」

④大高城跡

元信は大久保の顔をじっと見つめます。しばらく張りつめた空気が居並ぶ諸将の間に流れ、皆、元信の号令が下るのを、固唾をのんで見守ります。

元信が硬い表情のまま立ち上がりました。

「良いか。私に時間をくれ。」

大久保は叫びます。

「殿!時間がありませぬぞ!大高城が落ちてからでは遅いのです。今すぐご決断を!」

困り顔の元信は大久保を見上げます。しかし、強い声ではっきりと言うのです。

「大樹寺に戻る!」

3.義元への失望

大樹寺に戻ってからも、元信は、ついてきた大久保ら家臣から色々と言われます。

「千歳一遇の好機ですぞ!」とか「何を愚図愚図と決断せずのおるのですか!」

「殿はまだお若いから決められないのでしょう。我々三河衆の古参たちにお任せください。」

「・・・」

元信は目をつぶり、もう何を言われようと、着座の間で石のように黙しています。(写真⑤)

⑤大樹寺着座の間

そうやって2刻(4時間)程経ったでしょうか。

前線に斥候に行っていた武者が入ってきて、元信の前に跪くと

「只今、信長殿、大高城攻撃を諦め、撤退しました。陣中に放った素ッ破(忍者のこと)によると岡崎城から出てこられた殿が大高城へ向かう気配を見せず、大樹寺にお戻りになったと聞いた途端、撤兵を指示したとの由でござる。」

と報告します。

―やはり信長殿は待っていたに違いないー

―おお、折角の好機を・・・―

とヒソヒソと居並ぶ三河衆たちは小声で隣同士と話します。

しかし、元信はその斥候の話を聞いても、苦渋の顔をし、下を向いたまま顔を上げようとしません。

―なんと内向的な。ー

―やはり駿府にいる間に骨抜きにされてしもうたか、我らが殿は。―

―それが今川義元の狙いだったのだろうな。決断できない弱気な当主を作り、今川家の傀儡とする。―

―所詮傀儡当主の下で働く我々も今川家の傀儡。松平家も終わりなのか。―

「聞こえておるぞ!」

三河衆たちは、ハッとなり、顔を上げます。

いつの間にか、立ち上がった元信のこめかみには怒りの血筋が現れています。

握られた拳はわなわなと震え、今にも殴り掛かりそうなその雰囲気に、三河衆は息を飲みます。

その時です。

「御注進!」

と言って飛び込んできた武者がいます。元信の父に仕えていた伊賀者・服部半蔵正保(まさやす)の息子で服部半蔵正成(まさしげ)。家康の懐刀となる人物です。ちなみに「忍者ハットリくん」は服部貫蔵(かんぞう)だそうです。

半蔵正成は、駿府で人質となっている元信の側人として仕えていました。

「殿、殿の予測の通り、ここから北へ半里の岩津にて、今川が家臣・関口義広が6千の兵を率いて待機しておりました。大高城へ信長と戦(いくさ)するために移動する気配も見せず、岩津に1昼夜留まっていた模様。そしてつい先ほど、信長撤兵の知らせが入ると自分たちも陣払いを開始しました。殿のご推測通りであったと思われます。」

これを聞いた大久保忠俊が口を挟みます。

「どういうことじゃ!正成。殿は何を推測なされておったのじゃ?」

「危ういところだったのだ。大久保。」

座に戻った元信が平常心に戻り話始めます。

「此度の墓参、これは今川義元公に強く勧められて成ったことなのだ。私は正直来とうは無かった。」

「はっ?」

「勿論、そちや鳥居らをはじめとする三河衆のことは、人質に来て6年間1日たりとて忘れたことは無い。当然岡崎にも戻りたい。しかし、元服し、岡崎に私が戻ったとなれば、幼少の私と吉法師(信長のこと)殿との関係上、吉法師殿が黙っている訳がない。そしてそれは義元公が予測できない訳がない。」

大久保が返します。

「では、此度の信長の大高城攻撃は、やはり殿を岡崎から引き出し、信長殿の軍につけることの対応?」

「無論、信長殿から私に何かの連絡があったわけではない。でも予想どおりだった。そして義元公も私の予想通りの動きをしたのだ。」

「と申しますと?」

「もし、私が岡崎を出陣し、信長に靡くような疑いがある時は、今川軍が私らを潰してしまおうと。」

「なんと!」

「私も信じたくはなかった。父とも思うておる義元公が、私を潰そうなど・・・。しかし悪い予想は当たった。正成に周囲に今川の大軍が居ないかどうかを確かめさせたところ、まさに関口刑部殿が来ていたとは。皆が私をなじる最中も、私のこの疑い話を何度もしたいと考えたが、万が一これが邪推であり、今川義元公は、やはり真っすぐなお人であったなら、私は死んで義元公にお詫びせねばならぬと考えていたので、安易に皆には打ち明けなかったまでだ。」

元信は大きなため息をつきました。それは今まで唯一、亡き父の代わりとも思い、信頼していた今川義元も、所詮は戦国大名の1人であり、弱肉強食の理から抜け出すことの出来ぬことへの失望です。

4.志意の実

元信は立ち上がると、縁側から大樹寺の庭に出ました。

暗くなりかけた夕暮れの庭に何やらどんぐりのような木の実が落ちています。元信は無言のまま、その実を拾い上げ、

「椎(しい)の実か? 今川家も三河衆もまさに、四囲(しい)は我が志意(しい)のとおりには行かぬ。」

と、腕を大きく振って、嫌なものを遠ざけるように、その実を遠くに投げようとしました。

-ちょっと待て。私が今、これら四囲のモノ全て遠ざけようとすればするほど、却って私の欲しいと思うモノ、つまり理想の浄土も私から遠ざかるのではないか。
四囲のモノを全て遠ざける、つまり、この世が厭であると思うのではなく、反対にこの世に対して懇切丁寧にすることが、理想である浄土に近づくための近道なのでは?ー

家康は、庭の隅まで行き、手で土を掘ります。そしてそっと投げようとしていた椎の実をその穴に入れ、また手で掘り返した土をかぶせます。

-浄土では、実は投げて破壊するものではなく、土に埋め、育つ機会を与えるのが理だ。しかも、ここは「大樹の寺」。もしこれでこの実が大きな椎に育つのであれば、我が志意も大きく育つはず。-

◆ ◇ ◆ ◇

今回の件で、義元に「信頼」された「元信」。名前に「信」の字は必要ないだろう、自分の「元」と三河衆の信望厚い祖父の「康」の諱を付けよという今川義元からの信頼の証として「元康(もとやす)」と改名します。

そして、桶狭間の戦いで義元が信長に討たれるまで、元康は義元の重要な家臣として活躍するのです。

桶狭間の戦いの後、一国の領主として、この岡崎に戻って来た元康は、この大樹寺で、自分が埋めたこの椎が、大木になりつつあることを知るのでした。(写真⑥)

⑥大樹寺にある徳川家康公お手植えの椎

そして、弱冠14歳の時に、全てを投げだしたくなる気分を思いとどまったことを、この椎の木を見ては思い出し、今後も決して諦めずに理想を求めて生きていくことを決意し、この大樹寺で以下の旗印(馬印)を作るのです。(写真⑫、絵⑬)

  厭離穢土(おんりえど):この世は穢れた場所である

  欣求浄土(ごんぐじょうど):浄土のような理想を求め続ける

⑦大樹寺本堂両脇の柱に記された「厭離穢土厭離穢土欣求浄土」

⑧厭離穢土欣求浄土・徳川家康・姉川合戦図屏風

《つづく》

【駿府城】〒420-0855 静岡県静岡市葵区駿府城公園1−1

【大樹寺】〒444-2121 愛知県岡崎市鴨田町広元5−1

【岡崎城】〒444-0052 愛知県岡崎市康生町561−1

【大高城】〒459-8001 愛知県名古屋市緑区大高町城山

土曜日

家康の大樹① ~若宮八幡宮の大楠~

今回から少し家康の生涯とそれにまつわる名木を描いてみたいと思います。
来年は「どうする家康」と題した大河ドラマも始まることですし(笑)。

是非、大河ドラマの前に本シリーズをご覧になり、ここに出てくる史跡や名木を見て廻って頂ければ幸いです。

1.雪斎による安祥城攻略と人質交換

さて、家康。幼名を竹千代(松平竹千代)と言いますが、彼は、岡崎は矢作川(やはぎがわ)の畔(ほとり)にある岡崎城で生まれます。岡崎城には、家康の誕生井戸等の遺構が残っています。(写真①②)

①岡崎城

②竹千代(家康)産湯の井戸(岡崎城内)

三河の一豪族であった松平氏が、安祥城からこの岡崎の地に拠点を移したのは、竹千代の祖父・松平清康(きよやす)です。安祥松平氏の中興の祖である清康爺ちゃんを竹千代はたいそう尊敬していたようで、諱(いみな)「康」を貰い、元康、家康と名前を変えるのです。

ただ、今回の物語は元康の1つ前の名前「元信」という人質先の烏帽子親である今川義元の諱「元」を貰っている時のことを書いていますので、元信と書かせてください。

天文16年(1547年)9月、岡崎城は隣国・尾張(愛知)の織田氏に攻略されます。この時、竹千代の父・松平広忠(ひろただ)は、若干6歳の竹千代を織田方に差し出すことで恭順の意を示すのです。(「本成寺文書」より。諸説あり。)

ところが、ところが。2年後の天文18年(1549年)、松平家の後ろ盾となっている今川家の軍師・太原雪斎が織田の安祥城を攻め、城主・織田信広(信長の兄)を生け捕ります。(写真③)

③安祥城址

そして、庶子である信広と竹千代の人質交換を織田信秀(信長の父)に持ち掛けるのです。

安祥城は岡崎城の西隣にあり、先に述べた清康の代までは、三河松平氏の居城だったのですから、三河衆(三河武士)が懸命に織田方より奪回したということもあるのでしょう。ただ、岡崎城の当主である松平家の継承者・竹千代が戻ってくるかもしれないという期待があったことは想像に難くないですね。特にこの時より約8か月前に竹千代の父・広忠は亡くなっています。つまり松平家当主・竹千代の岡崎帰還は三河衆共通の悲観だったのでしょう。

雪斎はこの三河衆の心理を上手く活用することで、隣国織田家の領分をしっかり奪取させるのです。元々三河衆は勇猛果敢なことで有名でしたから、明確なモチベーションを与えれば、これほど強力なものはなく、今川軍の先陣として死を厭わず、ガンガン織田軍に向かっていくのです。

これでは織田軍はたまらないですね。ちなみに、この城を失ったことで西三河における織田氏の勢力は著しく減退します。流石、軍師・雪斎です。

2.若宮八幡宮の大楠

この人質交換で、当初予定されていた通りに、竹千代は今川家預かりの人質となり、駿府(静岡市)の今川館(現、駿府城)で幼少期を過ごします。この時、今川館から北西にあった臨済寺という雪斎が開いた寺に、竹千代は帝王学等を学びに通っていました。(写真④)

④臨済寺

その学びの帰り道に、竹千代が良く木登りをしたのが若宮八幡宮のクスノキです。(写真⑤)

⑤若宮八幡宮の大クス

10歳前後の竹千代、まだ幼く、無心にこの木をするすると登ったのでしょう。想定樹齢1000年と言われていますから、竹千代が登った時既に樹齢500年以上、木登りにはもってこいですね。(360度写真⑥)


⑥若宮八幡宮の大楠(360度写真)

子供の頃に木登りを経験された方なら分かると思うのですが、子供にとって木登りは、1つの大きな達成感になりますね。竹千代にとっても、このクスの大木に上って駿府を一望することは、徳川家康として日本を統一することに繋がる達成感の事始めだったのではないでしょうか。駿府は、このクスのすぐ横を安部川が流れ、東の駿河湾も近く、また山も北や西に迫っています。この木に登ればまるでそれらを掌握したような錯覚を起こす景色が広がっていたのでしょう。駿府の自然が竹千代に教える帝王学だったのかもしれません。

3.義元の与えた試練

そんな竹千代も駿府の今川館で14歳になると今川義元から「元」の諱(いみな)を受けて、松平元信(もとのぶ)として元服します。そして翌年、義元は、元信の岡崎城への初めて里帰りを赦すのです。というより、これを元信へ勧めます。

この里帰りは、実は義元の元信に対する試練だったという説があります。この時が最初の、家康(この時は元信、以後元信で統一します。)の1つの大きな「どうする?」という決断を迫られるものでした。

 ◇ ◆ ◇

元信の元服直後、義元は、雪斎といつもの碁を打ちながら、元信の資質について雪斎に尋ねます。

「従順で柔軟、物の理(ことわり)を深く理解できる大器にございます。」

と雪斎が語る元信像について、義元は続けて次のような質問をします。

「器量があるのはぬしの見立ての通りだろう。「信頼」が問題なのだ。従順なのは元信の本心からなのだろうか。その大器を今川家のために発揮してくれるのか、はたまた岡崎から人質として来ているとの認識から、いつか今川家に歯向かう三河の巨人となるのかぞ。
前者になってほしいからこそ、私は自分の諱の義元の「元」と「信用」の「信」をつけて「元信」という元服名を与えたのだが。前者であれば、今川家の片腕としてこんなに心強いことはない。後者であれば・・・」

「ふふ、大器であればあるほど、今川家にとって困ったことになりもうすな。」

と雪斎は碁を打ちながら続けます。(絵⑦)

⑦大原雪斎像(臨済寺蔵)

「1つだけ養育している中で気になったことがございます。あれは確か竹千代が11歳くらいの話でございます。梟雄(きょうゆう)になってはならないことを講釈したときのこと。私が梟雄とは何かと竹千代に尋ねたところ、彼は『意地の悪いずるい主(あるじ)のことです。』と答えました。

そこで私が『必ずしもズルいとは言えない。梟雄とは廻りの人誰をも信用できない主。それが故に自分の臣下の心を平気で踏みにじる。先日、村木砦で初陣を飾った隣国の織田信長は、この梟雄に成りえる資質が見受けられる。竹千代は梟雄になってはならぬぞ。』

と話すと、しばらくじっと自分の膝を見つめて何かを考えた後、何故かボロボロと涙を流すのです。噂では織田の人質になっていた2年間、信長と竹千代は交流があったと聞きましたが、この竹千代の反応を見て、竹千代は信長殿を信頼しきっているのか、もしくは過剰に恐れているかのどちらかであろうと感じた次第です。」(絵⑧)

 「ふむ、確かに竹千代が信長を怖れるのか、深い信頼感を幼少の頃に固めたのかでは、今川家にとっては、雲と泥の違いだからな。雪斎、これを確かめる良い案は無いか。今川家にとって問題の芽は早くに摘んでおいた方が良いからな。」

と義元がまたパチリと碁を置き、顔を上げると、雪斎も顔を上げてニヤリとします。

「御屋形様も、梟雄になってはなりませぬぞ。」

義元もまたニヤリとします。雪斎は続けます。

「元服した一人前の当主となったという事由で、元信殿にはこの時機に岡崎へ里帰りさせてはいかがかと。」

「ふむ。」

義元は黙り、腕組をし、目を閉じて考えています。雪斎も碁盤をじっと見つめて黙っています。

長い静寂を破って、パチリと碁を置いたのは雪斎です。義元はハッとなり、碁盤を見つめながら

「我が今川の家臣たちは反対するじゃろうの。元信を三河へ返すのは時期尚早であると。」

義元は更に続けます。

⑧織田信長肖像画
「確かに今、元信を三河に返せば、信長が動く可能性が高い。もし信長と元信が人質時代に信頼関係を構築していたのであれば、動いた信長に同調し、元信が三河衆を引き連れて織田方へ逃げ去る可能性もまた高い。元信にその気が無くとも、三河に残している松平家子飼いの家臣たちがそうしようとする。奴らは長い今川支配の辛酸をなめつくしておるからの。」

「ではやめますか。」

と雪斎は今置いた碁を取り除こうとすると

「いや、待て。ぬしは、こう言いたいのだろう?確かに元信は元服したての14歳とは言え、三河衆をまとめ上げるだけの器量はあると踏んでいる。なので三河衆に押し切られて信長へ靡くことは考えにくい。むしろ元信自身が信長との過去絆で靡くという可能性があるのであれば、今、その機会を元信に与えてみてはどうかと。」

「御明察!」

「よし分かった。元信を取り込もうとする信長は、今川
家の飛地である大高城あたりを衝くであろう。その時、元信がどう動くか。

⑨大高城址
信長に靡けば、向後の憂いを断つためにも徹底的に潰してしまおう。もし靡かず留まれば、今後元信は今川家の礎を支える重要な人材となろう

元信が岡崎に向かった直後に後追いの兵力を準備しよう。」

若干14歳の家康(元信)、最初の試練が始まります。

《つづく》

【岡崎城】〒444-0052 愛知県岡崎市康生町561−1
【安祥城址】〒446-0026 愛知県安城市安城町赤塚1
【臨済寺】〒420-0885 静岡県静岡市葵区大岩町7−1
【若宮八幡宮の大クス】〒420-0862 静岡県静岡市葵区浅間町1丁目40
【大高城址】〒459-8001 愛知県名古屋市緑区大高町城山

日曜日

頼朝杉⑭ ~挙兵準備~

さて、八重姫の失敗を思い出した安達盛長(あだちもりなが)の話は前回で終わり、話を元に戻します。安達盛長は伊東祐親(すけちか)のような伊豆の有力豪族を頼朝支援に取り込もうとしたのですが、結局失敗に終わりました。当時の伊東祐親は、動員兵力数は約300騎、対する北条時政は約30騎程度、10倍も違うのです。伊東氏を味方に付ければ伊豆半島の大半は味方に付けたようなもの。

それを八重姫との悲恋という形で終わってしまったのですから、盛長は、心の痛手を晴らしていきたいと考えている訳です。

これで話が「頼朝杉⑨ ~過去の誓い~」の最後に戻ることが出来ました(笑)。この最後のところで頼朝が怪僧・文覚と安達盛長に、旗揚げの準備に、伊豆の豪族や関東武者を味方に付けるように指示するのです。今回はこの話の続きからです。

1.伊豆国内の周旋

さて、頼朝の居る伊豆国には、頼朝や文覚の伝承があちこちにあります。
殊に伊豆半島の南側には文覚が来たというお寺も幾つかあります。(写真①、②)

①嵯峨山永禅寺(南伊豆・松崎町)
この土地の景観が西京に似ていると感じた
文覚が嵯峨野と名付け、持仏とし護持して
いた釈迦如来を安置したと言われている

②文覚山円通寺

③円通寺縁起を説明した看板

中には、文覚が頼朝に挙兵を促したという神社やお寺もあるのです。

そもそも蛭ヶ小島等北伊豆にあった挙兵伝承が、何故南伊豆方面にもあるのでしょうか?

これは私の論考ですが、頼朝が挙兵前に文覚と、または文覚だけで、この地域の豪族への挙兵時の支援を頼みに来たのではないかと考えています。

それが、

「文覚が頼朝との挙兵を(この南伊豆の豪族に)促しに来た」
 ⇒「文覚が頼朝に挙兵を促した」

のように伝承としてのニュアンスが変わっていったのではないでしょうか?(写真③)

表向き平家の治安の中で、南伊豆の豪族らに密議を持って支援要請をした文覚。この荒法師が、これらの豪族と謁見の場所に選んだのが寺社である可能性は高いと思います。そしてなんの話があったのかと村人たちの間で噂になった「頼朝からの挙兵支援依頼」という話が、密議だっただけに後々頼朝が有名になるにつれて、「(頼朝の)挙兵への支援依頼」ではなく、もっとインパクトのある「(頼朝への)挙兵依頼」に話が変わっていったのではないかと想像しています。

2.相模国の調整

伊豆国以外にも文覚は安達盛長と足を延ばし、頼朝挙兵の支援を依頼します。文覚、盛長、頼朝は良く話し合い、伊豆国と隣接する相模国では以下3人の豪族を中心に支援を依頼したのではないでしょうか。

④湯河原駅にある土肥実平夫婦の像
隣の妻は「ししどの窟」に隠れた
頼朝一行に食料等を運ぶ支援の功
が大きいとされています

(1)土肥実平(どひ さねひら)

土肥実平は、現在の湯河原を本拠とした豪族です。相模国の西端ですね。(写真④)

彼は前回、八重姫のところでもお話ししました安元2年(1176年)の伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りにも参加していました。

まあ、湯河原ですから伊豆にも近いということで、頼朝らと交流があったものと思われます。

ここで特筆すべきことは、単に彼が挙兵後に頼朝の元にはせ参じただけの御家人ではないということです。

①まず山木兼隆(やまきかねたか)屋敷を襲撃した頼朝挙兵後、頼朝はこの土肥実平の湯河原まで出て、三浦半島の豪族、三浦義明と合流しようとします。結局石橋山で平家側の大庭景親(おおばかげちか)らと交戦することとなり、ここでの三浦軍との合流は失敗します。

石橋山合戦敗戦の後、実平は、頼朝が箱根の山々を逃げ廻る先導を果たし、最後は真鶴半島から安房(千葉県房総半島の南側)に小舟で彼を搬送、そこで三浦氏と合流できるよう調整するのです。

上記①②の事実から、土肥実平と三浦一族との間では、石橋山合戦の前後に、かなり緻密なコミュニケーションがあったことが伺えます。もしかすると山木屋敷襲撃の挙兵前からかなりコミュニケーションがあったと考える方が自然かもしれません。現代のようにスマホやSNSがある訳ではなく、すべて人による伝達が基本だった当時の状況を考えると、このコミュニケーションを開始する前に、誰かが土肥氏と三浦氏の仲立ちをしたと考える方が自然でしょう。

私はこれがやはり文覚と安達盛長の周旋によるものと考えています。

(2)三浦義明(みうら よしあき)

⑤叶神社(浦賀港)
実際、文覚は当時三浦一族の棟梁である三浦義明を説得に、三浦半島に足をのばしている形跡が見えます。当時の三浦一族の水軍本拠地である浦賀。この良港に叶神社があります。(写真⑤)

この神社の「叶(かなえ)」は文覚が源氏再興という大願を叶えたことからついた名前ということになっています。

ただ、この叶神社の西の台地上(今は住宅街と化していますが)には文覚上人がしばらく逗留していたような跡もあったようで、どうやら源氏再興について三浦一族を説得した文覚は、この浦賀の港から千葉の房総半島を目指し、千葉一族の説得に出たようなのです。それらの支援をしたのも三浦一族なのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵前か挙兵後かは良く分かっていませんが、逗子の葉山の海岸を頼朝が三浦一族の和田義盛と一緒に、三浦一族の本拠に向かう途中、岩の上の松の美しさに感心する場面が、森戸明神の文献に出てきます。(写真⑥)

浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられています。(神社HPより)

⑥千貫松(森戸海岸)

この頼朝と和田義盛の受け答えから、頼朝は、挙兵前に伊豆の配流生活からそっと抜け出して、関東の有力者である三浦一族の支援を仰ぎに本拠のある三浦半島に向かったのではないか?と考えたくなるのです。

というのは、ここから約1㎞北、ヨットで有名な葉山マリーナのすぐ横に「鐙摺城址(旗立山)」という史跡があります。(写真⑦、360度写真⑧)

⑦葉山にあるぽこっとミニチュア
のような山・鐙摺城址(旗立山)

【360度写真】⑧鐙摺城址(旗立山)の頂き
ちょっとした広場になっています

伊豆配流中の頼朝が挙兵前に三浦を訪れた時に、この周辺にいた三浦義明の三男・義久の別館を訪れました。その時、義久から、この小山に城を造る計画がある話を聞かされ、義久が頼朝を案内する時に道が狭く巌に頼朝の鎧(よろい)が摺れたことから鐙摺と名を付けたとの伝承があるのです。確かに道は狭く、私が訪れた当時は、ユリや夏草で登り道が塞がれていました。

この鐙摺城址のエピソードが伊豆配流中の話であることが確実なら、頼朝はここから先、千貫松を通って三浦一族の本拠地がある三浦半島まで行かないで帰ったとは考えづらいですね。であるなら伊豆国で三浦一族と会えばいいのですから。(実際以仁王の平家打倒令旨発出後、京からの帰途の三浦義澄(義明の息子)は伊豆の頼朝に会っています。)

そして、もし三浦半島へ行ったのであれば、この時、千貫松の前を通っているので、この時に「千貫松」のエピソードが出来たと考える方が自然ではないでしょうか?

まあ、これまで述べてきた通り、色々な状況証拠はあるものの、一級史料等への強兵前の周旋については記録がありません。それはある意味、当時の平家に対して秘密裏に進められたことなので、当然と言えば当然ですね。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵直後に三浦一族と合流しようとして石橋山合戦に至る頼朝にとって、三浦一族は直接に会って話をし、十分な味方につけなければならないほど重要な支援豪族との認識だったのだと思います。これらの周旋も、勿論文覚や安達盛長が関与していたのだろうと想像しています。

(3)渋谷重国(しぶや しげくに)

さて、今度は東京・渋谷が関係するお話です。渋谷には渋谷氏という一族がおり、代々渋谷城を居城としていました。現在の金王八幡宮です。(360度写真⑨)

【360度写真】⑨金王八幡宮(渋谷)

この渋谷氏、重国の代では、現在の綾瀬市・藤沢市・大和市方面(いずれも神奈川県)に渋谷荘(しぶやのしょう)という領地をも貰っていました。

⑩早川城址(綾瀬市)
一方、保元の乱、平治の乱で源義朝(頼朝の父)に臣従した佐々木秀義(ひでよし)という近江源氏の一派は、平治の乱で義朝が敗れると、子供たちを伴い、奥州藤原氏を頼って落ち延びようとします。途中この渋谷重国が綾瀬市にある彼の城である早川城に秀義を呼び寄せます。(写真⑩)

そして「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」と引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとるのです。

実は、この佐々木一族が早川城にとどまったことが、後々頼朝の挙兵成功と深い関係を持ってきます。まず秀義が早川城近くの大庭景親(おおば かげちか)に呼ばれ、頼朝討伐計画があることを知り、たまたま、早川城に居た嫡男・定綱(さだつな)を使いとして頼朝にこの切迫した事態を告げに走らせるのです。

詳細はまた頼朝挙兵のところでも描きますが、この後、挙兵時には定綱をはじめ、佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、遅参のエピソード等も含め、頼朝に味方し、数々の武功話があるほど活躍するのです。

ただ、この挙兵前から佐々木兄弟は頼朝の韮山へ出入りしていたという伝承もあり、やはり文覚等が渋谷重国や佐々木秀義らへ頼朝への支援を依頼しに早川城に足を運んだ可能性は高いと推測しています。

3.房総半島まで・・・

⑪千葉常胤像(亥鼻城跡)
さらには、今の千葉県、房総半島は下総の千葉常胤を味方に引き入れようとします。(写真⑪)

石橋山合戦の敗戦後、安房に渡った頼朝は、直ちに下総の千葉常胤に支援を要請するよう安達盛長を送ったことは有名ですが、それ以前に常胤のところに支援要請にいったという記述も吾妻鏡にはあるのです。

逆に千葉常胤の従弟・上総広常(かずさひろつね)は2万もの兵力動員力を持っていながら、頼朝から常胤程の支援要請を受けていません。(常胤の動員数は300騎程度)

これは文覚の人脈と関係があるのではないかと推察できます。

文覚と千葉常胤に近い人物が2人浮かび上がります。

1人目は日胤(にちいん)。もう1人は千葉胤頼(たねより)。

脱線しますが、胤の字が付く人物は千葉一族に近い方多いですよね。千葉氏本流自体も代々この胤の諱を受け継いでいったようです。

長くなりましたので、2人の話は、次回以降、源頼政の挙兵話、頼朝の挙兵話の中でさせていただきたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【嵯峨山永禅寺】〒410-3613 静岡県賀茂郡松崎町岩科北側1312−1

【文覚山円通寺】〒410-3612 静岡県賀茂郡松崎町宮内130

【湯河原土肥実平像】〒259-0303 神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目1

【叶神社】〒239-0824 神奈川県横須賀市西浦賀1丁目1−13

【千貫松】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町堀内1025

【鐙摺城址(旗立山)】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町

【金王八幡宮】〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3丁目5−12

【早川城址】〒252-1123 神奈川県綾瀬市早川3丁目4−964

【亥鼻城跡】〒260-0856 千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目5−6



頼朝杉⑥ ~文覚と頼朝~

文覚は、後白河法皇に持論を論破され、落ち込むところを描きました。その後、法皇は、側近の藤原光能(みつよし)に、文覚に密命を伝えるよう申し付けました。そして、光能は源 頼政(よりまさ)を呼び出します。

今回のお話は、光能・頼政が平家政権の問題を文覚に説明し、頼朝の挙兵説得を依頼するところから始まります。その後、伊豆に流された文覚は、頼朝と平家打倒について話を始めるのです。

お付き合いをお願いします。

1.打倒平家

①瓶子(へいし)
底面が小さい
ので倒れやすい
※平氏(瓶子)が倒れた
と騒いだ鹿ケ谷事件
 は有名ですね!   
さて、頼政の屋敷に使いをやり、御所の一角に頼政が来るのを待つ文覚と光能。

うなだれている文覚の前に、どこから持ってきたのか瓶子(へいし、写真①)をドカッと置く光能。

「まあ、飲め。」

瓶子から、かわらけ(写真②)へ酒を注ぎ、文覚の方へすいーっと置くと、自分はまた別の瓶子から直接ラッパのみを始めます。これでまあ良く四位もの高位が務まるものだと文覚があきれ顔で見ていると

「お前、摂津渡辺党(写真③)だったんだろう?じゃあ、頼政公を知らない訳はないな。」

「知っています。」

文覚は、頼政公の話をしようとする光能をぼんやり見ながら、実は別のことを考えていました。やはり法皇と清盛の2つの体制が均衡を取る必要性があるのではないだろうかと。

2つの体制。

摂関家である藤原氏が実質的な権力を持っていたことはあります。ただ、それは2つの体制が均衡を保たなければならないというものではなく、朝廷権威に従属する1つの経済基盤、いわばピラミッド型に階層化された体制に準じる経済力を各々の貴族が持つ中で、ボコッと藤原氏の経済力だけが瘤のように飛び出しているようなものだったと文覚は思います。

②かわらけ

ーまして藤原氏が朝廷がいる京以外の土地で政権を持つなぞ、夢にも考えたこともないだろうー

ーもし、平家が福原(現在の神戸)に政権を持つならば、どうなるのだろうか?また奥州は平泉という遠隔の土地で独立政権を作っている。新しい時代は、齢を取った京からは始まらないのかもしれないな。ー

瓶子の口に注がれた酒を飲まず、ずっとその水面に浮かぶ燈明の焔を眺めながら思いに耽っている文覚。

すると見たことのある小柄な男が案内されて入ってきました。

「おお、頼政殿、こちらへこちらへ。」

だいぶ酒が回り出来上がってしまっている光能。頼政が敷物の上に着座すると、かわらけを渡し酒を注ぎます。

ーなんだ酒宴なのか、またも。ー

と文覚は顔をしかめつつ、頼政へ平伏して話し出します。

③摂津渡辺党の港は
「渡辺津」と呼ばれた

「拙僧、文覚と申します。元・摂津渡辺党の遠藤盛遠でございます。」

「遠藤?そなたは遠藤左近将監持遠(もちとお)殿のご子息かな?」

「はい、父のような立派な武士を通すことは出来ませなんだ。」

なぜ?とは頼政は聞きません。じっと文覚を見ていましたが、

「そちは出家前に上西門院(鳥羽天皇の皇女)に仕えておったな。」

「はい、短い期間ですが上西門院の武者所に務めておりました。」

「ならば頼朝を覚えているかな。」

「頼朝ですか・・・。ああ、上西門院・蔵人(くろうど)の。」

当時は保元の乱(1156年)が終わった直後であり、河内源氏の棟梁・義朝の嫡男というだけで、鳴り物入りで蔵人に就任。しかし、文覚が当時の頼朝の姿を覚えているのは、ひょろひょろと青白く、およそ武人としては大成しそうもない若者。

ー平治の乱で源義朝が殺された後は、どこかに流されたと聞くが・・・。ー

「頼朝は今、伊豆に流されてかれこれ13年経つ。」

ー伊豆か。もうそんな前のことだったのだな。ー

「文覚、単刀直入に言う。頼朝を説得し、頼政殿と同時に挙兵させるのだ」

と言ったのは、かなり酔いが回った光能でした。

「頼朝をですか?」

「そうだ、頼政殿は摂津源氏、頼朝は河内源氏。同じ源氏同士が手を結べば、今の世をひっくり返すことなど訳もないことだ。」

「源氏が結束して平家を倒すということですか?」

「しっ!声が大きい。」

「倒してどうするのです?」

「先ほどの法皇の話だけでは、法皇がどれ程清盛に苦慮しているのか分からなかったようだな。文覚。」

「・・・」

光能の見下したような言い方に少々腹が立つ文覚。

ー分かってはいるさ。ただ、法皇がどんなに苦慮していたとしても、本当に清盛は間違っているのだろうか?それが俺には分からん。こやつらは所詮、法皇に対する忖度で動いているだけなのではないのか?ー

「まあまあ、文覚殿に急に政(まつりごと)の話をぶつけまくっても、それはそれで無理難題というもの。順を追ってお話せねばならないと思うが、いかがじゃの?文覚殿。」

と源頼政が、あえて柔らかい口調で諭すように続けます。

「お願いします。」

2.出作(でさく)問題

④神護寺の1荘園図
 後、文覚の活躍で神護寺に
寄進のあった荘園の地図
「文覚殿は、神護寺への荘園寄進を懇願しに後白河法皇のところに来られたと聞いておるが、現在の法皇の荘園事情は存じておられるかな?」

「ぬ、詳しくは聞いておりませぬが、法皇は長講堂領を皮切りに、かなりの荘園を摂関家(旧・藤原家)から集めたと聞いており申す。」

「なるほどな。確かに沢山持っておる。しかし、荘園は相対的な保有数が、政の中の力関係を決定するのは分かりますな?」

「と申しますと、やはり清盛殿と比
しては少ないのですか?」

「法皇の長講堂領が約180か所に対し、清盛の持つものは全国500近くはある。まあ、朝廷は他にも八条院領もあれば公領(荘園ではない正式な国保有農地)もある。また個々の荘園でも取高は違うので一概に清盛の方が多いとはいいがたいが、拮抗するには十分な数だな。」

「そんなに多いのですか。」

「文覚殿、勿論、荘園の数は大問題ではあるが、もっと問題なのは荘園制自体にあるのじゃ。この問題を解決しようと、今までに朝廷から出された荘園整理令の数をご存知かな?」

「いえ」

「ざっと延喜2年(902年)から数えて11回ですぞ。しかし一向に荘園は減らず、荘園制度が内包していた問題点は複雑化する一方。」

⑤荘園の棚田(イメージ)

「内包している問題とは?」

「1つの大きなものは出作という問題での。これは、平家の荘園の農作民が、周りにある、朝廷他の公領や荘園を耕し、そこからの収穫を胡麻化して平家の荘園からの収穫として申請するのじゃ。何故か。平家の荘園の方が租税率が低いから、他の公領や荘園より払う年貢が少なくてすむのじゃ。

これはたまらない。しかも、これはかなり巧妙に裏で行われておる。

また被害にあっている公領の国司や荘官(荘園を管理する人)も見て見ぬふりをするように賄賂を掴まされていることもある。さらには平家の荘官は武人が多い。被害にあっている国司・荘官が下手に武力に訴えれば、逆に命に係わることもある。なので、出作をやられている国司・荘官は、自領からの収穫高を低く帳簿につければ揉め事になることは殆どない。自分たちの実入りが減る分は賄賂等で賄えるからの。収穫高は気候や災害等によって変動するので、わざと低く付けていると詮議されることもない。

勿論、この問題はかなり以前からあったのじゃが、現地で武力を持つもの持たざるものの差が歴然としてきたのは、保元の乱(1156年)以降なのじゃよ。」

⑥荘園の出作問題簡略図

ーなるほど、そのような裏からのやり方には対処しづらいのは確かだ。ー

文覚は思います。

「その問題に対して清盛殿はどうお考えなのですか?」

「清盛も、勿論法皇が痛くその件でお悩みなのはご存知で、たまに上がってくる出作の訴訟に関しては厳しく詮議し、対処はしておる。また、法皇が苦しんでいる様子を見て、逆に清盛の方から、日宋貿易で上がる利益を朝廷に一部を献上するとの申し出もある状況じゃ。

「ならばよろしいではないですか?」

「本当にそうお思いか?文覚殿。確かに清盛のこうした好意に対して、法皇も毎年、清盛の日宋貿易の港・大輪田泊(おおわだのとまり)のある福原(神戸)に行幸される。表向きの関係は良好じゃよ。ただ貿易自体を牛耳っているのは清盛なのだ。つまりこの日の本の国の土地に関して法皇ら朝廷は制御不能、貿易に関しても富の分配権は平家が握っている。これは非常に危ういことではないか?

そもそも土地問題は、現地の国司、荘官も皆喜んでこの矛盾を受け入れている訳ではない。平家以前であれば、荘園領主である貴族に出作を訴え出れば、貴族間で紛争解決してくれた。その解決能力の一番高い藤原氏が一時栄華を誇った時期もあったわけじゃ。

ところが昨今は訴え出ることも難しい複雑な状況が出来上がりつつある。事件は現場で起こっている という訳じゃ。なので国司、荘官らが常に考えていることは、自分たちの武装勢力を強くして、隣の荘園と紛争解決力を高めねばということだけ。これは不安な毎日じゃろ。これを解決しない限り、世の不満は高まる一方じゃ。」

ーなるほど。度重なる荘園整理令で、朝廷から公式に認められない荘園は廃止される方向にはなりつつあるが、出作という抜け穴等を上手く使って平家がまた力を蓄えている可能性が高いということか。先ほどの法皇自らの話では良く分からなかったが、この頼政殿の話で得心した。が、しかし。ー

「頼政殿は清盛殿を倒した後、どうするおつもりですか?」

今まで黙って1人手酌で飲んでいた藤原光能は、何をまだ疑うのだ?とばかりに、あからさまに酔ったうろんな目を文覚に向けます。

場の雰囲気が良くない流れと感じとったのか、かわらけで酒をぐいと飲みほした頼政。笑みを浮かべながら文覚に言います。

「源氏がこれら武装勢力・武人を束ね、朝廷の制御下に入ろうと思う、文覚殿。そなたも、弘法大師様の時代に戻したいのであろう。今の世が不安定であるのは古(いにしえ)の心を失ったからじゃ。闘争が闘争を呼んでいる。源氏は一時的に武人を束ねはするが、その後はまた武装解除の平和な方向に世を変え、大師様の頃の中央集権国家に戻したいのだ。協力してくれぬか、文覚殿。

3.頼朝への期待

伊豆にいる源頼朝が、京の頼政と同調して平家打倒の挙兵ができるように、頼朝の説得工作のミッションを言い渡され、伊豆に流されてきた文覚。

前回お話したように、頼朝と文覚は伊豆の奈古谷に作った文覚のにわか温泉や、蛭が小島の頼朝の屋敷を行き来するうちに、かなり懇意となりました。

特に頼朝も文覚も、北面の武士として、同じ上西門院に務めていたことは、共通の話題として盛り上がりました。二人は互いに見知った禁中の様子や、そこに出入りする様々な人たちについて語らうことも多かったのです。

いつしか頼朝も

ー文覚は初見の時に感じた程、変な僧ではなさそうだ。ー

と思うようになってきた丁度その頃。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

と文覚は言い出します。とうとう源頼政から依頼されていた行動に出たのです。

◆ ◇ ◆ ◇

時は1176年、文覚が流されてきてから3年の月日が経っていました。

この時、京では後白河法皇と平清盛の対立が激化しはじめたのです。

そのきっかけは「鹿ケ谷事件」です。

⑦俊寛・鹿ケ谷山荘の碑
この事件、簡単に言いますと、安元3年(1177年)6月1日の深夜、密告によって、京は東山鹿ケ谷の俊寛(しゅんかん)山荘で、平家殲滅の密議が行われたことが、平清盛に露見しました。(写真⑦)

清盛は間髪入れずに行動を起こし、密議に加わった連中を一網打尽にしたのです。その時捕まった俊寛をはじめ、一味はすべて後白河法皇の近臣であり、この密議の中心に後白河法皇がいるのは明らかだったのです。死罪2名、俊寛は鹿児島県沖の喜界島へ島流し、その他3名も島流しと厳罰に処したのです。さすがに後白河法皇に裁きを下すようなことは出来ませんが、それでも後白河法皇に与えた心理的な打撃は大きく、またこの後、急速に後白河法皇と平清盛は大きな対立が見られるようになるのです。

この影響が、伊豆に流されている文覚のところにも、何等かの形であったのでしょう。

それまでは文覚は、後白河法皇や源頼政から平家の弊害の説教を聞いたとはいえ、しばらくは自分なりに平清盛の動静と源頼朝の人物を観察していました。

文覚はある意味、平清盛を2つの先進性で高く評価しても良いのではないかと逡巡していたのです。それは、

今まで土地にしがみついて収益をあげることの発想しか無かった日本の支配者とは違う、貿易による収益という経済的先進性

2権分立を、京から距離を置く福原という都市で実現しようとする先進性

です。

なので、光能と頼政に言われるがまま、安易に平家打倒の挙兵をすべきという気は起らなかったのです。

⑧北条時政の館があった守山頂上から韮山方面を臨む
頼朝が流されていた蛭が小島(写真矢印)
周辺は狩野川流域であり肥沃な荘園地帯
ただ、昨今懇意となった頼朝と話をしていると、頼朝は案外、京の雅(みやび)な北面の武士、泥臭い土地の事などさっぱり分からない単なる貴公子ではないようです。

この伊豆の肥沃な狩野川流域の田園地帯に流されて16年も経つからなのか、土地からの収益基盤ということに色々な思いがあるように感じます。(写真⑧)

それは、そんじょ其処らの農民の感覚とは違い、米の実りをどのように集め、そしてそれらがどのような形で、京の人の口に入るのか、米以外の商品に化けたりするのかという流通まで含めた米の価値、それに伴う富の集散の仕組みが身をもって分かっているようなのです。

ーこれは大したものだ。ー

と文覚は感心しました。

⑨蛭が小島の頼朝と政子の像は
現地の米の収穫を今も見つめている
多分に、妻である北条政子の父・北条時政が在庁官人(地方官僚)であったことから、国衙(地方)行政の実務が体得できてしまったのでしょう。(写真⑨)

ー頼朝殿とは、この国の財務基盤の考え方について、一度率直に話をする必要があるな。

と文覚は感じていました。

そしてある時、奈古谷に建てたにわか温泉に文覚と頼朝は一緒に入りながら、また京の話題をする中で、平清盛の貿易等の経済的先進性について話をしてみました。

「なるほど、清盛殿には、そのような先進性があったのですね。」

風呂の中で、頼朝は目から鱗と言わんばかりに、清盛の日宋貿易について感心します。しばらく、もうもうと立ち上る湯面からの湯気を眺めていましたが、急に

「しかし、それは、この国の問題の第一を真正面から捉え、変えようということとは違いますな。なるほど外国との交易は高度な商業手法です。ただ、この国はそれこそ数百年間に渡る土地の不健全な私有化を食い止めないといけないのに、清盛殿はそれには手を付けずに、一足飛びに貿易という手法で自分の財ばかり増やすやり方はやはり、間違っていますね。多少朝廷にその交易からの実入りを分けたとしても、まずは土地の財務基盤である荘園制度の見直しからでしょう。清盛殿の交易重視は後白河法皇も困っているのではないでしょうか。多分、鹿ケ谷事件の本質はそこにあるのでしょうね。」

と見通す達感に、文覚は、再び感心してしまいました。

ーこの人に天下をとらせよう。清盛の2つの先進性については、後々、この人の政権下でも実現可能な気がする。

そこでこの章の冒頭の問いかけです。

「頼朝殿は清盛殿を討とうとは思わんのですか。」

4.院宣

文覚の藪から棒な質問、平家打倒をしないのかの質問に対し、頼朝は湯気の中、最初はまじまじと文覚を見つめていました。文覚は続けます。

「頼朝殿がおっしゃる通り、後白河法皇は困っておいでです。この国の本質的な問題もご達観の通りです。平家はねじ曲がり続ける私有地化制度を変えるどころか、先の藤原氏時代の延長で放置するありさま。頼朝殿が政権を取り、土地の基盤問題にテコ入れをすれば、この国は私が理想とするものになる。」

これに対し、頼朝は少し笑みを浮かべながら言います。

「いやいや文覚殿、私は既に29歳。六孫王の子孫であれば、とっくに国守であってもおかしくはない身分にもかかわらず、勅勘(天皇の勅命による勘当)の身であり、何も持っていないことはここに13歳の時に来てから16年間変わらずだ。そんな身の上で清盛殿のような権勢に立ち向かえる訳がない。」

⑩文覚は一計講じ、流刑中でありながら
ここから京へ向かうため芸をします
「頼朝殿、これから政権を取られ理想国を作り上げるまで、この文覚が戦略を授け続けます。まず、後白河法皇が頼朝殿を勅勘の身などと考えてはおらず、平家を倒して欲しいと考えている証として、拙僧はこれから、法皇の院宣を京へ出向いてとってきましょう。」

「院宣とな?しかし、文覚殿も勅勘の身、この奈古谷から京へ向かえば、ここを管轄している北条殿や山木殿から逃亡者として厳しく追手が差し向けられますぞ!」

「ご心配なく。拙僧には法力がございますでの。なあに7,8日程度もあれば院宣をとって戻ってきましょうぞ。」

◆ ◇ ◆ ◇

少々長くなりましたので、続きは次回にします。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

 

【俊寛・鹿ケ谷山荘の碑】〒606-8442 京都府京都市左京区
【蛭が小島】〒410-2123 静岡県伊豆の国市四日町12
【守山展望台(北条館跡)】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204
【文覚上人流寓之跡】〒410-2132 静岡県伊豆の国市奈古谷1729

頼朝杉⑤ ~伊豆の文覚~

 文覚(もんがく)に話を戻します。

京都・神護寺への勧請を、後白河天皇に強く迫ったことで、伊豆に流されることとなった文覚。

流刑地を伊豆に決定したのは、源 頼政(よりまさ)の差配が入ったことは間違いなさそうです。勿論、それは源 頼朝がすでに13年前から伊豆に流されていたことが重要な要因となっています。(写真①)

①伊豆の蛭が小島に立つ
流刑中の頼朝と政子の像
(頼朝31歳、政子21歳)

②藤原光能(みつよし)
神護寺蔵

頼朝杉③にも書きました通り、文覚の流罪地の決定には源頼政が大きく絡み、文覚も頼政からの密命をもって、流罪地・伊豆で源頼朝と接触をするのです。目的は勿論、源氏旗揚げです。平家一門に対する反逆の狼煙を上げるのです。

と、このような陰謀説は、結構あちこちの本等で見かけますが、正直、決定的な証拠は今のところ見つかっていません。

ただ、色々と調べていくと、黒幕は頼政だけに限らず、あと二人の名前が挙げられます。一人は藤原光能(みつよし)。(絵②)

もう一人は、皆さん良くご存知、後白河法皇です。(写真③)

奢る平家に対して、後白河法皇をはじめとする三位以上の貴族たちが、これを良しとせず、平家の勢力をこそぎ落とすための画策を徐々に開始したのも、この頃です。

平清盛に三位にしてもらい、恩義を感じていた頼政が、平家打倒で挙兵したのも、この朝廷の意を汲んだ行動だったのだと想定されます。(現に頼政は後白河法皇の息子・以仁王の挙兵を助けるために宇治平等院に兵を出すのです。)

その目的のために、文覚の利用を頼政も後白河法皇も考えていたとしても何ら不自然はありません。そして後白河法皇は後にも述べますが、絶対に平家打倒の首謀者たる尻尾を出しません。では後白河法皇のエージェントとして活躍したのはだれか?それが絵②にある藤原光能なのです。

1.伊豆における文覚

話を文覚に戻します。伊豆に流された文覚が頼朝の住む蛭が小島から約1里以内の場所・奈古谷という土地に住んだという話は以前もしました。頼政の息のかかった一族・渡辺党の1人である渡辺省(はぶく)に護送されてきた文覚は、在庁官人であった北条時政に引き渡されます。

③後白河法皇
(江里仏師作)

平家の多くの武将は在庁官人では無かったのです。つまり平家一門として出世を考えるなら在庁ではなく、中央に自分は進出し、所領については部下に任す、これがこの当時のエリート平家のトレンドだったのですが、北条時政は愚直に在庁を守ったのです。それはもしかしたら源頼朝という重要人物の監視役を平清盛から授かっているという自負もあったのかもしれません。

いずれにせよ、北条時政は文覚に対しても、蛭が小島の頼朝と同様に、自分の監視がきく奈古谷を指定してそこに住まわせたのだと思われます。

『神護寺旧記』には「深山の中に尋ね入り、棘(いばら)を刈り掃い、一宇の草庵を構えて居住」(苅掃荊棘、一宇草庵所令居住地成)とあります。また『平家物語』『源平盛衰記』はともに「奈古屋が奥にぞ住み居ける」「籠居したる場所をば奈古屋寺と云ふ」と記しています。

奈古谷には国清寺という室町時代にはかなり大きな古刹となった寺院があり、そこから山奥に伸びる道が延々とあります。

現在、この道は「文覚さんと毘沙門道」なんてユーモアのある名前がついています(笑)。(写真④)

④文覚ロードとあだ名される「文覚さんと毘沙門道」

このような歴史上の人物の名前が付いた道路ってあまりないですよね。しかも「文覚さん」なんて親しげな呼び方。これは昭和54年の大河ドラマ「草燃える」の影響もあるようです。

この道路沿いに国清寺から南東の山奥に進んでいくと文覚上人流寓之跡があります。(写真⑤)

⑤文覚上人流寓之跡

どうやら、この場所に文覚は草庵を建て、日夜行法に打ち込んだようです。
行法に打ち込む文覚に対し、奈古谷の住民たちはたちまち信頼を寄せるようになりました。
特に文覚は人相を見ることに長けているとの評判立ち、草庵への訪問者がひっきりなしに現れるようになったと伝えられています。

そしてこの地の目代(もくだい)が田30町分(30ヘクタール:東京ドーム6個分の広さ)を寄進してくれました。

これらの寄進に報いるために、文覚は毘沙門像を安置し、また草庵の脇に湯屋を作り、奈古谷の人たちが自由に入浴できるようにしたのです。(写真⑥)

⑥毘沙門堂
※看板の上に「NHK大河ドラマ」と
大河ドラマにより観光に来た当時
の面影を残しているのですね。

この湯屋に1風呂浴びに来た男が居ます。

そう頼朝です。勿論風呂を浴びに来ただけではなくて、京から来た文覚に非常に興味がありました。
京から来た文覚に、都の様子を聞きたい、また人相見が良いと評判の文覚に自分の将来も占ってほしいという気持ちがあったようです。

ひと風呂浴びた頼朝は、文覚に人相見を頼みます。人相見は日を改め、蛭が小島の頼朝宅で行われることとなりました。

◆ ◇ ◆ ◇

⑦説教する文覚
(手塚治虫作中)
さて人相見当日。

文覚が気の荒い法師であると聞いていた頼朝は、文覚が人相見に来たと知ると、ビクビクします。

ーこの坊さんにいつ殴られるか?ー

そう、この時の文覚の行動も変なのです。
頼朝の待つ座敷に通されたはずの文覚。いつになっても現れません。

ーどうしたことか?ー

と頼朝が様子を見に立ち上がろうとしたその瞬間。

パン

と座敷の障子が開いた音がしたので、頼朝がすわと障子の方向を見ると、驚いたことに文覚が障子から頭だけ出し、じっとこっちを見ています。あまりに奇抜なその光景に頼朝は目を逸らし、自分の前に着座してくるだろう文覚を期待して待ちます。
しかし、いつまで経っても文覚は目の前に現れません。

ーどうしたのか?ー

かなり時間が経っています。まさかまだ障子のところにはおるまいと思って、また障子の方へ頼朝が目を移した瞬間、ぎょっとして思わず頼朝は立ち上がるところでした。

なんと文覚は、頼朝を片目で眺めているのです。

ーなんだ。こいつ、変な奴だなー

と心で思いつつ、平常心を装いながら頼朝はまたじっと正面を見て座り続けます。
その後も文覚は、立ち上がっては睨み、這いつくばっては睨み、異様な様子で頼朝を眺めます。

頼朝も内心冷や汗を流しながら、それでも文覚のこの異様な雰囲気に飲み込まれないよう、平常心を装い座り続けるのです。

と、急に文覚は大声で頼朝に向かって話しだしたのです。

「拙僧、日本国中を修行して回り、あちらこちらで六孫王(源氏の始祖)の末葉(子孫たち)を見てきたが、大将として一天四海(天下の意)をおさめられる力量があるように見える人物はいなかった。御辺を見るに、穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相がある。御辺はこれから頼もしき人だ。めでたしめでたし。」

何がめでたいのか頼朝は良く分からなかったのですが、もしかしたら文覚が自分が変な行動に出ているのに頼朝が眼無視(ガンムシ)していたことを「穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相」と勝手に決めつけたのだろうと想像しました。

それから何度か頼朝と文覚はお互いの家を行き来するようになったとあります。
さも、この時文覚は初めて頼朝と会い、そしてその尋常ならざる人相を感じたような表現をしていますが、このあたり文覚はかなり以前から決めていた予定行動である可能性が高いのです。

それは文覚が三位・源 頼政のところで、平家打倒の計画を打ち明けられ、元渡辺党で頼政にも恩義のある自分もこれに参画すべく、まずは伊豆に流されている頼朝の基に、流刑地を頼政に周旋してもらった頃から、頼朝に対する行動を決め始めたのだと思われます。

そもそも、文覚は、袈裟御前を切ってしまった遠藤盛遠から文覚という僧に出家して全国を修行しまわる中で1つの大きなビジョンが出来てきました。このビジョンは1度潰れます。そして文覚は様々な人物と会ううちに、考えが練りに練られ、その練りが後の鎌倉幕府という素晴らしいイノベーションに繋がるのです。

ちょっとこの辺りの文覚の経緯を詳細にお話しないと、頼朝への文覚の行動や、その後の頼朝の行動について理解が進みづらいと思いますので、文覚の最初のビジョンができる頃に遡り、お話をさせてください。

2.文覚の最初のビジョン

それは袈裟を殺してしまい、出家した文覚が全国を修行しながら廻っている最中に、平泉の奥州政権を見た時からでした。摂津で育ってきた頃から奥州政権の話は聞いていましたが、どちらかといえば「蝦夷(えみし)」「俘囚」(ふしゅう、陸奥・出羽等の東北地方の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものの意)というように、辺々に住む未開の民族のように言い、京に比べればダメダメな人たちの集まりと思っていました。

ところが、文覚は平泉に修行で行き、目から鱗だったのは、その巧みな経済機構です。今の東北地方である奥州は金や名馬、刀剣等々、京の貴族たちが泣いて喜ぶ名産を生み出していました。(写真⑧)

⑧平泉 中尊寺金色堂
※右は内部 ふんだんに黄金が使われている
マルコポーロが「黄金の国」と誤解した場所

奥州政権はこれらの宝を使い、自分たちの懐を肥やすだけではなく、巧みな賄賂活用により、京の中央で彼らを監視すべき地位にある役人たちの目を逸らさせ、自由に奥州政権を拡大する方向に、ロビー活動をしていたのです。

これは「蝦夷」「俘囚」と、中央から蔑まれていたこととも相まって、非常に効果的に財力のある大きな地方政権、「奥州王国」と呼んでも過言ではない、現国家の上に成り立つバーチャル国家のような様相を呈していたのです。これこそ「名を捨て実を取る」です。

京では朝廷や貴族、それを模倣する平家一門が、ただ日々宴会に浮かれているだけで、このことに気が付き、国家としての統一感が失われつつある日々に危機感を感じる様子もありません。

⑨滝修行中の文覚
伝・自彫
(証菩提寺蔵)
ーこのままでは現国家はいつか破綻する。どうすべきか?ー

密教の原点、自然と一体となす修行をしながら文覚は考えます。(写真⑨)

ー空海が起こした真言密教の衰退。これが現国家への求心力低下につながり、廃頽の原因である。朝廷を含む貴族の真言密教を軽視する風潮が悪い。世間は中央政権に白け、奥州政権のように地方は独自の密教寺を求心力の中心に据えている。中尊寺しかり、毛越寺しかり。この腐りかかっている中央政権を変えるには、今一度、京に空海の法力の復活を図る必要がある。それは神護寺と東寺の再興なのだ!ー

それで文覚は、このシリーズのはじめにお話ししましたように空海の建てた神護寺の再興から取り掛かるのです。そして後白河法皇の御所に神護寺再興のための寄進を訴えに行ったのです。

ところが、丁度その時、法皇は酒宴の真っ只中でした。

ーなんと!後白河法皇まで・・・ー

門番が制するのも聞かずに御所の宴内に入り込み、

ー情けなや!ー

と宴に参加する貴族らを睥睨すると、強引に勧進帳を読み上げはじめるのです。
文覚の目には涙が溜まっていました。

3.砕かれたビジョン

すぐさま警護の武士たちが文覚を取り押さえようとしますが、文覚は腕に覚えがありますのでこれら警護の者どもを掴んでは投げ、掴んでは投げ(笑)。

しかし、警護の多人数には敵いません。結局、牢に入れられた文覚。

ここで先のブログにも書きました通り、源 頼政とも会い平家打倒の話をしたのでしょう。
いくつかの文献にも、文覚が頼政の息子・仲綱が伊豆守を務める伊豆へ流罪になったのは、頼政の平家打倒の片棒を担いだからという説がのっております。

ただ、上記文覚のビジョンからすると、「中央政権が腐っている」と考える文覚がなぜ「平家打倒」となるのか、少々論理の飛躍があるように私は感じました。

そこで、源頼政と文覚が会う前に、藤原光能と後白河法皇が文覚と会っていたのではないかという論考をしました。(状況証拠は主に光能の院宣等がありますが、これは先のブログで書きます。)

ご存知のように、後白河法皇は、後日、頼朝から「大天狗」とあだ名されるほどの大策士。
宴に乱入してきた文覚が勧進帳を読み上げる時の涙の意味を知りたい、もしかしたらこの坊主使えるかもしれん と想像してもおかしくありません。

「右近中将(藤原光能のこと)、あの暴れ坊主を呼んでまいれ」

「あの怪力だけが取り柄の粗野な文覚と会われるのですか?奴は『行あれど学は無し』と言われる坊主で、法皇とまともにお話できる人物とは思われませんが。。。元々、渡辺党の武士で人の女房に懸想して殺してしまった程の下司(げす)ですよ。」

「おう、それは面白い。益々話を聞いてみたくなった。今宵の酒の肴話にもってこいではないか。はよ呼んでこい。」

⑩荻原碌山「文覚」
(1908年作、碌山美術館蔵)
ということで、光能は牢から文覚をそっと連れ出し、着の身着のままで後白河法皇の前に連れて行きます。後白河法皇はそもそも「今様」のたしなみ等から、白拍子や傀儡師等、怪しい庶民と頻繁に交流があるため、汚い身なりの文覚が対面することを不審に思う者はいないのです。

平伏している文覚に後白河法皇は声を掛けます。

「面(おもて)を上げよ!文覚。」

無言で顔を上げる文覚を見て法皇は言います。

「不屈の強面(こわおもて)や。良い面構えじゃ。」

文覚は先日の宴の時にすでに法皇にも失望しています。法皇に対する静かな怒りが強面となって表れたのでしょう。(写真⑩)

「何故泣いた?」法皇は続けます。

「は?」

「御(み:自分のこと)は見ていた。話すがよい。」

ああ、あの時のことかと文覚は思い返し、今更ながら神護寺の窮状から話を始めます。

法皇は聞き上手でした。深い傾聴と承認。文覚はついつい自分の深いところへ法皇が入り込んでいるのも気づかず話を続けていたのです。修行の話、奥州の話、空海の話、袈裟御前の話、一方的に一刻(二時間)は話したでしょうか。その頃になってやっと文覚は、少し話過ぎたと思うと同時に、話す前に感じた法皇に対する失望と怒りが不思議と消えていくことに気が付いたのです。

「あの宴での神護寺再興勧進は、拙僧の願いではなく、無上菩薩の大願です。なので幾ら法皇のご勘当を蒙っても、全く考えを変えるつもりはありません。拙僧は死んでも菩薩の行を退くつもりはないのです。もし赦されるとしても、この間と同様にまた何度でも参上し、大願の由を訴え続けます。死罪や配流の刑を賜ろうとも、拙僧のこの願は世世生生退転しません!」

と文覚は自分の話を締めくくります。

傾聴して聞いていた法皇。その目は文覚に対する慈愛に溢れています。法皇は真っすぐな文覚を信用したようです。ただ、その締めくくり方には苦笑しながら、今度は御が話すぞとばかりに始めました。

「ほう、良く分かった。文覚。何度も宴の最中に乱入されても困るな。やはり遠くにいってもらうしかないな。

ただ、文覚、御も怠惰で宴に酔っているのではないぞ。ぬしの奥州政権論なぞ数十年前から知っておったわ。知っていて潰さなんだは、そのような多様性がこの国には必要な面もある。
律令国家の多様化するその歩みを止め、元の強力な中央集権に戻すのがこの国のためになるというのは青臭い理想論だ。0か1かではない。つまりどこまでこの国の多様性を上手く均衡していくか。それに腐心しているのだ。

しかし、最近御が酒宴三昧で気を紛らわせているのは、その均衡が破られつつあることに深く憂慮しているからじゃ。

御に憂慮をもたらすのは平清盛。

正直、奥州の山々の中で、ほれ金だ、鉄だ、名馬だと生産し、それを都へ献上して多少富を蓄えるような奥州政権は可愛いものだ。

伊勢平氏の清盛も、地元伊勢で取れる水銀を都の周旋に使うとか国内で売りまわって財を作るとかであれば、奥州政権と同じように御はさほど気にかけなんだ。

ところが奴はその水銀を大宋国(中国)に輸出することにより、奥州なぞは比較にならん程の財を築こうとした。これを阻止するために、御も過去の侍人には考えられない太政大臣のような高い地位まで与え、懐柔を図ってきた。

残念ながら清盛めはそれで留まるどころか、更に増長しておるのじゃ。100年以上に渡り、大宰府や博多を中心に行われてきた日宋貿易の拠点を、大輪田泊(おおわだのとまり、今の神戸港)に移し、本格的にやるつもりだ。それに留まらず、都を京からその大輪田泊付近の福原に移すと言い出しおった。

⑪大輪田泊付近に立つ清盛塚と清盛の像

文覚、考えても見よ。ぬしが幾ら、荒廃した京の再興は空海の真言密教である神護寺・東寺の再興であるなぞぬかしても、都が福原に移ればなんの意味もないではないか?」

文覚はこの話を聞いてハッとしました。

ーもしかしたら後白河法皇の方が自分より余程憂国の思慮が深いのではないだろうか?しかし...ー

「し、しかし法皇が京におわしさえすれば、いくら清盛めが福原で財を成しても関係ないのでは?」

「文覚、本当にそう思うのか?清盛も朝廷が福原遷都を嫌がっていることは重々承知なのだ。

ただ清盛は頭が良い。ぬしが言うようにいっそ何度誘っても朝廷は遷都に反対だったという事実があれば、かえって奴が福原に幕府を開く名目ができる。

都は2分され競争になるが、貿易による財力には勝てない。次第に福原には人が集まり、そこが日本の中心になっていくであろう。

それはな。今までのような寺社を中心とした鎮護国家ではなく、安芸の宮島(厳島神社)を清盛が盛り立てたように、海洋国家を目指したものとなっていく。

神護寺・東寺だけでなく、比叡山、高野のお山、荘園という陸からの利益だけで成り立っている京の寺社は、海からの恩恵にはなかなか預かれないだろう。
そうなると相対的にすべて干上がってしまうのだぞ、文覚。

⑫厳島神社

そうならないように御が福原遷都の受容を含めてどれほど苦悩しているのか、ぬしには分かるまい。」

文覚はぐうの音も出ませんでした。

法皇が酒宴三昧で気を紛らわせていることなどは取るに足らない問題です。いかに自分のビジョンが直線的で稚拙なもの、宴に飛び込んで神護寺への寄付を迫るなぞは、児戯にも等しい行為だったかを思い知る文覚でした。

4.密命

文覚はうなだれています。沈黙は半刻も続いたでしょうか?

その間、じっと文覚を見ていた法皇はおもむろに立ち上がり、側にいる藤原光能に声を掛けます。

「右近中将、三位(源頼政のこと)を呼び、右近中将と三位で、この痴れ者へ密命を伝えよ。」

「はっ!」

それだけ言うと、法皇はその場を後にするのでした。

《つづく》