そう頼朝です。勿論風呂を浴びに来ただけではなくて、京から来た文覚に非常に興味がありました。
京から来た文覚に、都の様子を聞きたい、また人相見が良いと評判の文覚に自分の将来も占ってほしいという気持ちがあったようです。
ひと風呂浴びた頼朝は、文覚に人相見を頼みます。人相見は日を改め、蛭が小島の頼朝宅で行われることとなりました。
◆ ◇ ◆ ◇
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⑦説教する文覚 (手塚治虫作中) |
さて人相見当日。
文覚が気の荒い法師であると聞いていた頼朝は、文覚が人相見に来たと知ると、ビクビクします。
ーこの坊さんにいつ殴られるか?ー
そう、この時の文覚の行動も変なのです。
頼朝の待つ座敷に通されたはずの文覚。いつになっても現れません。
ーどうしたことか?ー
と頼朝が様子を見に立ち上がろうとしたその瞬間。
パン
と座敷の障子が開いた音がしたので、頼朝がすわと障子の方向を見ると、驚いたことに文覚が障子から頭だけ出し、じっとこっちを見ています。あまりに奇抜なその光景に頼朝は目を逸らし、自分の前に着座してくるだろう文覚を期待して待ちます。
しかし、いつまで経っても文覚は目の前に現れません。
ーどうしたのか?ー
かなり時間が経っています。まさかまだ障子のところにはおるまいと思って、また障子の方へ頼朝が目を移した瞬間、ぎょっとして思わず頼朝は立ち上がるところでした。
なんと文覚は、頼朝を片目で眺めているのです。
ーなんだ。こいつ、変な奴だなー
と心で思いつつ、平常心を装いながら頼朝はまたじっと正面を見て座り続けます。
その後も文覚は、立ち上がっては睨み、這いつくばっては睨み、異様な様子で頼朝を眺めます。
頼朝も内心冷や汗を流しながら、それでも文覚のこの異様な雰囲気に飲み込まれないよう、平常心を装い座り続けるのです。
と、急に文覚は大声で頼朝に向かって話しだしたのです。
「拙僧、日本国中を修行して回り、あちらこちらで六孫王(源氏の始祖)の末葉(子孫たち)を見てきたが、大将として一天四海(天下の意)をおさめられる力量があるように見える人物はいなかった。御辺を見るに、穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相がある。御辺はこれから頼もしき人だ。めでたしめでたし。」
何がめでたいのか頼朝は良く分からなかったのですが、もしかしたら文覚が自分が変な行動に出ているのに頼朝が眼無視(ガンムシ)していたことを「穏やかな心を常に持てるよう自己制御ができ、かつ威応(威光が他の人に及び影響を与える)の相」と勝手に決めつけたのだろうと想像しました。
それから何度か頼朝と文覚はお互いの家を行き来するようになったとあります。
さも、この時文覚は初めて頼朝と会い、そしてその尋常ならざる人相を感じたような表現をしていますが、このあたり文覚はかなり以前から決めていた予定行動である可能性が高いのです。
それは文覚が三位・源 頼政のところで、平家打倒の計画を打ち明けられ、元渡辺党で頼政にも恩義のある自分もこれに参画すべく、まずは伊豆に流されている頼朝の基に、流刑地を頼政に周旋してもらった頃から、頼朝に対する行動を決め始めたのだと思われます。
そもそも、文覚は、袈裟御前を切ってしまった遠藤盛遠から文覚という僧に出家して全国を修行しまわる中で1つの大きなビジョンが出来てきました。このビジョンは1度潰れます。そして文覚は様々な人物と会ううちに、考えが練りに練られ、その練りが後の鎌倉幕府という素晴らしいイノベーションに繋がるのです。
ちょっとこの辺りの文覚の経緯を詳細にお話しないと、頼朝への文覚の行動や、その後の頼朝の行動について理解が進みづらいと思いますので、文覚の最初のビジョンができる頃に遡り、お話をさせてください。
2.文覚の最初のビジョン
それは袈裟を殺してしまい、出家した文覚が全国を修行しながら廻っている最中に、平泉の奥州政権を見た時からでした。摂津で育ってきた頃から奥州政権の話は聞いていましたが、どちらかといえば「蝦夷(えみし)」「俘囚」(ふしゅう、陸奥・出羽等の東北地方の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものの意)というように、辺々に住む未開の民族のように言い、京に比べればダメダメな人たちの集まりと思っていました。
ところが、文覚は平泉に修行で行き、目から鱗だったのは、その巧みな経済機構です。今の東北地方である奥州は金や名馬、刀剣等々、京の貴族たちが泣いて喜ぶ名産を生み出していました。(写真⑧)
⑧平泉 中尊寺金色堂
※右は内部 ふんだんに黄金が使われている
マルコポーロが「黄金の国」と誤解した場所
奥州政権はこれらの宝を使い、自分たちの懐を肥やすだけではなく、巧みな賄賂活用により、京の中央で彼らを監視すべき地位にある役人たちの目を逸らさせ、自由に奥州政権を拡大する方向に、ロビー活動をしていたのです。
これは「蝦夷」「俘囚」と、中央から蔑まれていたこととも相まって、非常に効果的に財力のある大きな地方政権、「奥州王国」と呼んでも過言ではない、現国家の上に成り立つバーチャル国家のような様相を呈していたのです。これこそ「名を捨て実を取る」です。
京では朝廷や貴族、それを模倣する平家一門が、ただ日々宴会に浮かれているだけで、このことに気が付き、国家としての統一感が失われつつある日々に危機感を感じる様子もありません。
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⑨滝修行中の文覚 伝・自彫 (証菩提寺蔵) |
ーこのままでは現国家はいつか破綻する。どうすべきか?ー
密教の原点、自然と一体となす修行をしながら文覚は考えます。(写真⑨)
ー空海が起こした真言密教の衰退。これが現国家への求心力低下につながり、廃頽の原因である。朝廷を含む貴族の真言密教を軽視する風潮が悪い。世間は中央政権に白け、奥州政権のように地方は独自の密教寺を求心力の中心に据えている。中尊寺しかり、毛越寺しかり。この腐りかかっている中央政権を変えるには、今一度、京に空海の法力の復活を図る必要がある。それは神護寺と東寺の再興なのだ!ー
それで文覚は、このシリーズのはじめにお話ししましたように空海の建てた神護寺の再興から取り掛かるのです。そして後白河法皇の御所に神護寺再興のための寄進を訴えに行ったのです。
ところが、丁度その時、法皇は酒宴の真っ只中でした。
ーなんと!後白河法皇まで・・・ー
門番が制するのも聞かずに御所の宴内に入り込み、
ー情けなや!ー
と宴に参加する貴族らを睥睨すると、強引に勧進帳を読み上げはじめるのです。
文覚の目には涙が溜まっていました。
3.砕かれたビジョン
すぐさま警護の武士たちが文覚を取り押さえようとしますが、文覚は腕に覚えがありますのでこれら警護の者どもを掴んでは投げ、掴んでは投げ(笑)。
しかし、警護の多人数には敵いません。結局、牢に入れられた文覚。
ここで先のブログにも書きました通り、源 頼政とも会い平家打倒の話をしたのでしょう。
いくつかの文献にも、文覚が頼政の息子・仲綱が伊豆守を務める伊豆へ流罪になったのは、頼政の平家打倒の片棒を担いだからという説がのっております。
ただ、上記文覚のビジョンからすると、「中央政権が腐っている」と考える文覚がなぜ「平家打倒」となるのか、少々論理の飛躍があるように私は感じました。
そこで、源頼政と文覚が会う前に、藤原光能と後白河法皇が文覚と会っていたのではないかという論考をしました。(状況証拠は主に光能の院宣等がありますが、これは先のブログで書きます。)
ご存知のように、後白河法皇は、後日、頼朝から「大天狗」とあだ名されるほどの大策士。
宴に乱入してきた文覚が勧進帳を読み上げる時の涙の意味を知りたい、もしかしたらこの坊主使えるかもしれん と想像してもおかしくありません。
「右近中将(藤原光能のこと)、あの暴れ坊主を呼んでまいれ」
「あの怪力だけが取り柄の粗野な文覚と会われるのですか?奴は『行あれど学は無し』と言われる坊主で、法皇とまともにお話できる人物とは思われませんが。。。元々、渡辺党の武士で人の女房に懸想して殺してしまった程の下司(げす)ですよ。」
「おう、それは面白い。益々話を聞いてみたくなった。今宵の酒の肴話にもってこいではないか。はよ呼んでこい。」
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⑩荻原碌山「文覚」 (1908年作、碌山美術館蔵) |
ということで、光能は牢から文覚をそっと連れ出し、着の身着のままで後白河法皇の前に連れて行きます。後白河法皇はそもそも「今様」のたしなみ等から、白拍子や傀儡師等、怪しい庶民と頻繁に交流があるため、汚い身なりの文覚が対面することを不審に思う者はいないのです。
平伏している文覚に後白河法皇は声を掛けます。
「面(おもて)を上げよ!文覚。」
無言で顔を上げる文覚を見て法皇は言います。
「不屈の強面(こわおもて)や。良い面構えじゃ。」
文覚は先日の宴の時にすでに法皇にも失望しています。法皇に対する静かな怒りが強面となって表れたのでしょう。(写真⑩)
「何故泣いた?」法皇は続けます。
「は?」
「御(み:自分のこと)は見ていた。話すがよい。」
ああ、あの時のことかと文覚は思い返し、今更ながら神護寺の窮状から話を始めます。
法皇は聞き上手でした。深い傾聴と承認。文覚はついつい自分の深いところへ法皇が入り込んでいるのも気づかず話を続けていたのです。修行の話、奥州の話、空海の話、袈裟御前の話、一方的に一刻(二時間)は話したでしょうか。その頃になってやっと文覚は、少し話過ぎたと思うと同時に、話す前に感じた法皇に対する失望と怒りが不思議と消えていくことに気が付いたのです。
「あの宴での神護寺再興勧進は、拙僧の願いではなく、無上菩薩の大願です。なので幾ら法皇のご勘当を蒙っても、全く考えを変えるつもりはありません。拙僧は死んでも菩薩の行を退くつもりはないのです。もし赦されるとしても、この間と同様にまた何度でも参上し、大願の由を訴え続けます。死罪や配流の刑を賜ろうとも、拙僧のこの願は世世生生退転しません!」
と文覚は自分の話を締めくくります。
傾聴して聞いていた法皇。その目は文覚に対する慈愛に溢れています。法皇は真っすぐな文覚を信用したようです。ただ、その締めくくり方には苦笑しながら、今度は御が話すぞとばかりに始めました。
「ほう、良く分かった。文覚。何度も宴の最中に乱入されても困るな。やはり遠くにいってもらうしかないな。
ただ、文覚、御も怠惰で宴に酔っているのではないぞ。ぬしの奥州政権論なぞ数十年前から知っておったわ。知っていて潰さなんだは、そのような多様性がこの国には必要な面もある。
律令国家の多様化するその歩みを止め、元の強力な中央集権に戻すのがこの国のためになるというのは青臭い理想論だ。0か1かではない。つまりどこまでこの国の多様性を上手く均衡していくか。それに腐心しているのだ。
しかし、最近御が酒宴三昧で気を紛らわせているのは、その均衡が破られつつあることに深く憂慮しているからじゃ。
御に憂慮をもたらすのは平清盛。
正直、奥州の山々の中で、ほれ金だ、鉄だ、名馬だと生産し、それを都へ献上して多少富を蓄えるような奥州政権は可愛いものだ。
伊勢平氏の清盛も、地元伊勢で取れる水銀を都の周旋に使うとか国内で売りまわって財を作るとかであれば、奥州政権と同じように御はさほど気にかけなんだ。
ところが奴はその水銀を大宋国(中国)に輸出することにより、奥州なぞは比較にならん程の財を築こうとした。これを阻止するために、御も過去の侍人には考えられない太政大臣のような高い地位まで与え、懐柔を図ってきた。
残念ながら清盛めはそれで留まるどころか、更に増長しておるのじゃ。100年以上に渡り、大宰府や博多を中心に行われてきた日宋貿易の拠点を、大輪田泊(おおわだのとまり、今の神戸港)に移し、本格的にやるつもりだ。それに留まらず、都を京からその大輪田泊付近の福原に移すと言い出しおった。
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⑪大輪田泊付近に立つ清盛塚と清盛の像
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文覚、考えても見よ。ぬしが幾ら、荒廃した京の再興は空海の真言密教である神護寺・東寺の再興であるなぞぬかしても、都が福原に移ればなんの意味もないではないか?」
文覚はこの話を聞いてハッとしました。
ーもしかしたら後白河法皇の方が自分より余程憂国の思慮が深いのではないだろうか?しかし...ー
「し、しかし法皇が京におわしさえすれば、いくら清盛めが福原で財を成しても関係ないのでは?」
「文覚、本当にそう思うのか?清盛も朝廷が福原遷都を嫌がっていることは重々承知なのだ。
ただ清盛は頭が良い。ぬしが言うようにいっそ何度誘っても朝廷は遷都に反対だったという事実があれば、かえって奴が福原に幕府を開く名目ができる。
都は2分され競争になるが、貿易による財力には勝てない。次第に福原には人が集まり、そこが日本の中心になっていくであろう。
それはな。今までのような寺社を中心とした鎮護国家ではなく、安芸の宮島(厳島神社)を清盛が盛り立てたように、海洋国家を目指したものとなっていく。
神護寺・東寺だけでなく、比叡山、高野のお山、荘園という陸からの利益だけで成り立っている京の寺社は、海からの恩恵にはなかなか預かれないだろう。
そうなると相対的にすべて干上がってしまうのだぞ、文覚。
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⑫厳島神社 |
そうならないように御が福原遷都の受容を含めてどれほど苦悩しているのか、ぬしには分かるまい。」
文覚はぐうの音も出ませんでした。
法皇が酒宴三昧で気を紛らわせていることなどは取るに足らない問題です。いかに自分のビジョンが直線的で稚拙なもの、宴に飛び込んで神護寺への寄付を迫るなぞは、児戯にも等しい行為だったかを思い知る文覚でした。
4.密命
文覚はうなだれています。沈黙は半刻も続いたでしょうか?
その間、じっと文覚を見ていた法皇はおもむろに立ち上がり、側にいる藤原光能に声を掛けます。
「右近中将、三位(源頼政のこと)を呼び、右近中将と三位で、この痴れ者へ密命を伝えよ。」
「はっ!」
それだけ言うと、法皇はその場を後にするのでした。
《つづく》