神護寺への勧請強要を後白河法皇に迫り、伊豆流刑に処された文覚(もんがく)。
その流刑地選定に関して、先の大きな時代の流れを読み、陰で画策した人物が居ます。それが前回、鵺退治のエピソードを描きました源 頼政(よりまさ)です。(前回のエピソードはこちら)
今回もまた、この頼政に関するエピソードを2つ描かせてください。
1.歌による立身出世
「のぼるべき たよりなき身は 木の下に椎(シイ)をひろひて 世をわたるかな」
これが頼政が出世のための一世一代の歌となりました。
①平清盛像(六波羅蜜寺蔵) |
この当時の源氏(というか平家以外の武士たち)には、四位と三位の間に突破できそうにないガラスの天井があったようです。
そこで詠んだのが、上の歌です。そう「椎(シイ)」と「四位(シイ)」を掛けたのです。
つまり、歌の裏の意味は以下の通りです。
「(平家一門が清盛殿などの身内に頼りに出世するのに対し)源氏である我が身は頼るべき人が居ません。朝廷のハイアラーキという木の下で、拾わせていただいた椎(四位)で食いつないで生きていきます。」
この歌を知った平清盛は「あれ?頼政は四位だったのか。あれも良い歳やし、ずいぶんと尽くしてくれた。では三位にしてやるか。」と思ったようです。
従三位に昇格した頼政は、当時の源氏としては破格の出世だったのです。周囲の貴族たちも、「おお、とうとう武士も平家だけでなく源氏まで三位になれる時代となった。」と変化を感じながらも、決して頼政に対して妬みを持つことは少なかったようです。それはやはり頼政は歌が上手く、三位以上の貴族たちに政敵を持たなかった温厚な性格だったからこそ、ガラスの天井を打ち破り、昇進することが出来たのだと思います。
◆ ◇ ◆ ◇
ただ、後に源 頼朝は正二位まで昇進していますが、一、二位よりも「大将軍」という役職にのみ拘ったようです。多分に頼朝は朝廷の政治体制に組み込まれることを嫌がり、朝廷の中央政権から離れた場所・鎌倉に独立政権である幕府を開くことに集中したのです。「大将軍」を欲したのも栄誉が欲しいというよりは、鎌倉に幕府を開く大義名分的な役職が欲しかったのでしょう。当時、世にイノベーティブな変化をもたらすのには、それしか方法はないと頼朝は考えたのです。
一方、頼政はどうだったのでしょう?
彼は大きな組織の中で順当に出世することにより、その組織内でゲットした権力を行使し、自分の考えを完遂したいと考えるタイプだったのかもしれません。
現代でも「偉くなるまではなるべく我慢し、偉くなって発言権が大きくなったら、自分のやりたいことを言うのが、デカいことを成すやり方」と信じていらっしゃる方が多いように感じます。比較的大きな会社や官僚の方に多い考え方なのではないでしょうか。
②平家打倒に敗れ辞世の句を詠む頼政 |
頼政の挙兵が頼朝より3か月早いだけであることを考えると、頼朝のように成功するのか、頼政のように失敗するのかは紙一重だったのかもしれません。ただ、頼朝は時代のイノベーターです。現代社会においても官僚や大企業からイノベーターが輩出された例は少なく感じます。なのでこれは私の考えでしかありませんが、頼政はもし挙兵自体が成功したとしても、頼朝のようなイノベーターには成れなかったかもしれません。
ちなみに旗揚げ失敗し、切腹する直前の辞世の句は以下の通りです。(絵②)
「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」
鵺を退治し、歌も上手く、昇進の末、三位までいったのですから、十分花咲いた感がある頼政が死ぬ間際になって、このような歌を詠む理由があるとすれば、やはり前述のように昇進は彼にとっては手段であって、かれの人生の目的(夢)は平家転覆だったのかもしれませんね。
皆さまはどう思われますか?
ただ、頼政のように偉くなりたければ、さりげなく、しかし上記の歌のように権者に対してオブラードに包みながらも出世したい意志を伝えるスマートさが必要なことはこの時代から現代に至るまで変わらないようです。
2.菖蒲(あやめ)御前
③菖蒲(あやめ)御前 |
前回描きました頼政が鵺退治をした後の話です。頼政はひそかに心を寄せている女性が居ました。菖蒲御前という美しい女性なのですが、なんと近衛天皇のお父さん・鳥羽院(院政を布いていた)に仕えていた女官だったのです。
奥仕えの女官ですから、何かの折にチラリと見えただけで頼政は一目惚れ。以後は文(ふみ)等の取り交わしを続け、3年経っていました。
鵺退治で、息子・近衛天皇を助けてくれた頼政に、鳥羽院も何か与えたいと思っていたところに、この噂が飛び込んできたのです。
ーよしよし、頼政が一番欲しいものを与えよう。菖蒲御前じゃ。ー
と鳥羽院は考えました。
ただ、そのまま菖蒲御前を頼政に渡すのは面白くありません。鳥羽院は考え、菖蒲御前と同い年くらいの美しい女官12人を菖蒲御前と同じ着物を着せ、御簾の前に並んで座らせました。
そこに頼政を呼び、こう言います。(対面時に御簾にお隠れになる朝廷の慣習として、実際には鳥羽院自らは言葉を発しません。代行する女官に言わせたのです。)
「頼政、息子・近衛をよくぞ助けてくれた。朕からも礼を言うぞ。そして今夜、朕からは『浅香の菖蒲』をくだそう。菖蒲の根は長い。朕は老齢ゆえ菖蒲を引いて掘り起こすのには疲れてしまう。よって頼政自身が、この中から菖蒲を引いて掘り出してほしい。」
ご存知のように「いずれが、菖蒲(あやめ)か、カキツバタか」というように、菖蒲やカキツバタは似たような花が、同じ時期に同じ場所で咲くのです。写真④は私の家の近所にある菖蒲園の花たちですが、まあこの2つは本当に似ていますね。良く分からないです(笑)。(写真④)
④菖蒲園(枡形城跡) ※どれが菖蒲(あやめ)で どれがカキツバタか? |
ちなみに『浅香の菖蒲』とは、現在の福島県郡山近辺、安積(あさか)疎水で有名な土地にあったと言われる浅香沼に咲く菖蒲で、古くから万葉集等の歌にも使われ、菖蒲の枕詞(まくらことば)になっているものです。つまり最高級の菖蒲を鳥羽院がくださるという意味ですね。
しかし、仕える姿をチラリと見ただけの菖蒲御前を、その後何年も会っていないのに、頼政に選べというのは、ある意味、非常に「いじわる」な企画でもあります。
頼政が間違えて他の女性を選んでしまった場合、菖蒲御前は相当シラケるでしょう。長い年月に渡る文の交わしで築いてきた恋愛感情も、この企画の成り行きによっては、即、恋愛終了!という事態にもなりかねません。
皆さんが頼政ならどうされますか?
◆ ◇ ◆ ◇
頼政は、12人の女官を見廻しました。どの女性も美しいですが、今までの文のやり取りの中から、その容貌に現れるものを探そうとします。
ー多分、この方かもしれない。ー
と思う女性は3人に絞れましたが、菖蒲御前は1人です。
しばらく3人の女官たちを見廻しながら、苦渋する頼政。
そこに鳥羽院の代弁をする女官から
「どうして誰の手も引かないのですか?」
と催促の言葉。
そこで、頼政はまた歌で正直な心情を返します。
「五月雨に 沢辺の真薦(まこも)も水こゑて 何れあやめと 引ぞわづらふ」
ー五月雨が降ったことで、浅香の沼の水辺を示す真薦(菖蒲に似た葉を持つ植物)も、水嵩が増して没してしまいました。となると、花が菖蒲(あやめ)かカキツバタなのかもわからなくなってしまいました。なので菖蒲を引けと言われても困っているのです。ー
菖蒲たちが咲く時期は梅雨の季節です。この五月雨とは梅雨のことなのです。花咲く季節が梅雨で増水→菖蒲の花が分からなくなる というウイットな言い訳です。
また、もう一つウイットに富むのは、菖蒲が沢辺に咲く花であることを頼政は知っているということです。カキツバタは湿地帯の水の中に根を張りますが、菖蒲は沢辺の乾地に根を張ります。なので普段は根の張り方で、菖蒲とカキツバタを見分けられますが、五月雨で水嵩が増えた今、どちらも水中に没し分からなくなってしまったという、植生図鑑的な知識も織り交ぜたウイットさがこの歌には秘められているのです。(図⑤)
⑤あやめ(菖蒲)とカキツバタ 等の生育場所の違い EvergreenのHPから |
更にこの歌を深く解釈すると、五月雨は梅雨ですが、どしゃ降りを意味する表現なのです。なので、「鬱陶しい 」という意味合いがあります。特に真剣に恋愛をしている頼政にとって、菖蒲御前を含めた女性たちを、まるでモノのように扱う鳥羽院に対しても少々不快に感じたのかもしれません。
つまり、鳥羽院のこの「いたずら」企画を「どしゃ降りの雨みたいな企画やな。あぁ、鬱陶しい 。」という隠れた批判も裏に込めているのです。
この批判的要素に気が付いた関白太政大臣・藤原基実(もとざね)。
ーヤバい!鳥羽院が頼政の批判に気が付いたら険悪な雰囲気になる!ー
と思ったのでしょう。パッと行動に出ます。
「おおっ、流石は頼政殿、上手い!上手い!」
とまず、頼政をはやしたてます。鳥羽院は代弁の女官に菖蒲とカキツバタの生育場所の違い等、歌を解説して貰っています。頼政の批判的なニュアンスにはまったく気が付いていません。
そこで基実は次に、自ら菖蒲御前の袖をひいて、「これこそ、そなたの妻!」と頼政にひきあわせ、この場を納めることに成功したのです。
後日、頼政のこの場で作った歌こそが、着実に菖蒲御前を自分のものにできるよう、全部読み通し練られたものであると気が付いた基実らは、頼政の頭の良さ・歌のすごさに舌を巻くのでした。
◆ ◇ ◆ ◇
⑥第84回源氏あやめ祭りの様子 |
今でも伊豆の国市では、『源氏あやめ祭り』を毎年開催して、菖蒲御前の霊を弔っています。(写真⑥)
これは私の想像ですが、菖蒲御前が逃げた伊豆の奈古は文覚が流された地・奈古谷のすぐ隣です。もしかしたら、先に流しておいた文覚を頼りに頼政は菖蒲御前を逃がしたのかもしれませんね。
3.頼政のエピソードの終わりに
いかがでしたでしょうか?源 頼政のエピソード、前回は、鵺退治という武人らしい頼政、今回は歌による立身出世と恋愛成就という文人としての才。
いずれにしてもタダモノではない感のある頼政でしたが、やはり源氏の棟梁となることは出来ませんでした。彼だけではなく渡辺橋の渡辺党を含めた摂津源氏は、河内源氏である頼朝が全国制覇を果たすと、一御家人としてしか歴史には出てこないのですが、大江山の鬼退治をした頼光以来五代後の頼政まで、ある意味、大人にも子供にも夢のある話が多い摂津源氏は、素晴らしいと思います。
先に書きました頼政の辞世の句
「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」
の彼の主観がどうしてそう思ったのかについては、前述の通りですが、私たちから見ると、十分花を咲かせた頼政だと思うのですが、いかがでしょうか?
◆ ◇ ◆ ◇
文覚が伊豆に流されてくる背景に、頼政という黒幕がいるという話から展開した頼政のエピソードはこれにて終了し、次回からまた時系列を戻して、文覚が伊豆に流された後の話から描きたいと思います。
なお、前回アナウンスした頼政挙兵時における渡辺党の活躍エピソードについては、予定を変更し、この時系列にのっとった中でお話させていただければと存じます。
ご精読ありがとうございました。
⑦「次回はきっと私たちにも出番がありますね。」 「おお、そうだな。今日の富士山は格別綺麗だ。」 |