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日曜日

頼朝杉⑱ ~旗挙げ1:挙兵は少人数に限る~

 以仁王と源頼政(よりまさ)の挙兵は治承4年(1180年)5月15日に始まって、26日に平等院周辺で鎮圧されます。この挙兵に当初連携して挙兵しようとした頼朝でしたが、近隣の坂東武者たちの周旋に走っている文覚や安達盛長らから、

「(周旋に)とても間に合いません!10月頃に挙兵できれば上々でしょう。」

ということで、挙兵一致を断念する頼朝。

これが前回までの話(「頼朝杉⑮」)ですが、今回はこの続きからです。どうして頼朝は10月ではなくて、この頼政の謀反による政変から、3か月後の8月に前倒しで挙兵したのでしょうか。今回はその辺りの経緯から描きたいと思います。

1.頼政・仲綱の残党狩り

①源三窟における有綱
頼政とその息子・仲綱(なかつな)が、平家打倒の令旨を発出した以仁王を庇い、味方である南都興国寺を頼って南下します。

なんとか宇治の平等院まで逃げることはできましたが、ここで平家軍に追いつかれ、3人とも自刃して果てるのです。

この後、当然の習わしとして、この摂津源氏である頼政・仲綱の残党狩りが始まります。

頼政は伊豆の知行国主であり、仲綱は伊豆守。二人とも伊豆国とは縁が深いことは、今までも度々お話してきました。

では、伊豆に誰か他にも縁者がいたのではないか?と考えるのが普通です。

そう、居ました。この宇治の橋合戦の頃、仲綱の子である有綱(ありつな)が目代として伊豆に在国していたのです。(写真①、図⑥も参照)

有綱を頼政の残党とみなし、残党狩りを清盛が、方々に命じているとの噂が京の都に流布します。

この話、以仁王の挙兵時に大番役で在京していた文覚の弟子・胤頼(たねより、千葉常胤の六男)と三浦義澄(よしずみ)が、挙兵失敗を見届けた後、自国に引き上げる途中で、頼朝の居る伊豆の守山北の屋敷に立ち寄り、頼朝や文覚、安達盛長らに伝えるのです。(写真②)

2.三浦義澄と千葉胤頼の伊豆立ち寄り

②頼朝挙兵時の屋敷跡(現:守山八幡宮)

「これから源氏掃討戦が起きる可能性がございますれば、頼朝殿は奥州の藤原秀衡(ひでひら)殿を頼って身を隠された方が剣呑を避けることができるかと。」

と胤頼。

「なに?私が藤原秀衡殿を頼れと。なるほど。それも良いかもしれない。奥州は今、中尊寺、毛越寺、無量光院等、極楽浄土を体現した大寺院が建立されていると聞く。そこで経文を唱えて過ごすのも一興だろう。」

と、この緊張した場を解そうと、すっとぼけた会話をする頼朝。
義澄と胤頼はお互い顔を見合わせ、戸惑います。

ここまでの話を聞いて文覚は思います。

ー三浦義澄殿の父・義明(よしあき)殿も、胤頼殿の父・常胤(つねたね)殿にも、挙兵の話をし、支援の約定は取り付けてある。このお二方は、一度頼朝殿が奥州へ下向し、秀衡殿を頼って奥州17万騎と言われる軍勢を操って、平家打倒の挙兵を行えば良いとでも考えているのだろうか。確かにそれも一理ある。しかし、大軍対大軍の戦いになれば、奥州藤原氏と強固な結びつきを築けていない頼朝殿より、平家一門で固めた平家軍の方に分があるのではないか。ー

「良く分かった。京の状況を教えてくれて助かった。帰国道中気を付けて戻ってほしい。各々の父君にも宜しく伝えて欲しい。またこちらも色々と準備ができれば連絡する。」

と頼朝は義澄・胤頼にねぎらいの言葉を掛け送り出しました。

3.佐々木秀義と大庭景親

「文覚殿、10月に挙兵等と言っておりましたな。そんな悠長なことを言っておると、こちらが潰されてしまいますぞ!」

文覚は素直にこれを認めます。

「確かに!安達盛長殿と拙僧で伊豆の豪族は言うに及ばず、坂東の豪族も周旋し、10月の挙兵には数万が集まる目算をつけておりましたが、有綱殿を討伐に平家軍が来るとなると、これは急がなければなりません。今は、この坂東における大軍準備による挙兵を想定して策を練っておりましたが、変更しなければなりませんな。とりあえずは各武将の周旋を仕上げると同時に、西から攻めてくる平家軍の状況を三善殿と連携して注視していきましょう。

ということで、文覚は京にいる三善康信に文を書き、平家軍がこの伊豆に向けて軍を発する等の動きが少しでも見たら至急連絡するように依頼するのです。

そして坂東各武将の周旋の仕上げにまた奔走するのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

ところが意外なところから、更に挙兵を急がねばならない状況を伝える情報が入ってきました。

佐々木四兄弟の一人、佐々木定綱(さだつな)です。
それは8月の10日を過ぎた頃の事でした。京から平家が討伐軍を編成した等の情報が、いっこうに無いことを、文覚が不安に感じ始めていたころでした。

「大庭景親(おおばかげちか)殿が攻めてきます!」

セミの声がやかましい伊豆守山の頼朝の屋敷に、佐々木定綱は飛び込むやいなや、庭先から頼朝に向かってこう叫びました。

「待て、定綱!」

頼朝は定綱とは古くから面識があります。というのは定綱の父親、佐々木秀義(ひでよし)は近江源氏、頼朝は河内源氏。先の平治の乱で近江源氏の佐々木一族も凋落し、佐々木秀義は息子四兄弟を伴って、京から奥州藤原氏を頼って東下している最中に、渋谷重国(しげくに)という渋谷駅の辺りの豪族に声を掛けられます。(この辺り、「頼朝杉⑭ ~挙兵準備~」にも書いています。)

「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」

と重国は引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとることに同意します。
その時に秀義や四兄弟が留まったのは、現在の東京の渋谷ではなく、神奈川県のちょうど真ん中あたりにある綾瀬市の早川城というところになります。(写真③)
当時、このあたりを渋谷荘(しぶやのしょう)と呼んでいました。

③渋谷荘・早川城(綾瀬市)

早川城は、大庭景親が領有する土地、大庭御厨(おおばみくり、現在の神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の隣です。

◆ ◇ ◆ ◇

ちょっと脱線しますが、大庭御厨の御厨とは伊勢神宮の荘園の事を指す言葉のようです。大庭景親の領有するこの大庭御厨は典型的な寄進型荘園であり、大庭景親は伊勢神宮の荘園の在庁官人だったということですね。

大庭景親の屋敷については写真④の大庭城だったという説(写真④)。
④大庭景親の屋敷だった?大庭城址

大庭城は北条早雲とも関係が深く、戦国初期に作られた城なので平安時代末期の大庭景親の屋敷は別のところであるという説があります。それが大庭城南西の宗賢院(そうけんいん)の辺りという説(写真⑤)。
⑤大庭景親の屋敷があった説・宗賢院

この2つの説が有力なのです。確かに平安時代末期は、戦国時代のような城という概念とは違い、鎌倉のお寺等に見られる四囲を山に囲まれ、正面、寺門のような箇所だけが開かれているスタイルが武家の屋敷に多かったことを考えると、宗賢院は谷戸の奥に鎮座するスタイルであることから、こちらかもしれないなと思いながら、私は2か所を見て廻りました。

◆ ◇ ◆ ◇

話を元に戻します。大庭景親は京に大番役に行っていたのですが、その任を解かれ、8月頭には大庭御厨に戻ってきました。重大な情報を掴んで。

ー頼朝が挙兵しようとしているらしい。ー

多分、後白河法皇の密旨の宣布等、文覚の京や福原における動きを平清盛側が察知したのかもしれません。

そして、大庭景親はこの情報を隣国にいる佐々木秀義を招いて相談するのです。

-自分(大庭景親)は、この挙兵を阻止せんがため、頼朝を討伐するつもりだ。ー

という言葉を付け足して。

大庭景親は秀義の息子たちが、伊豆の頼朝のところに出入りしていることを知っていて、上記のことを漏らすのです。景親としては、親しい秀義の息子たちをこの討伐戦から外しなさいというニュアンスで秀義に伝えた、いわば「思いやり」のある行動のつもりだったのかもしれませんね。

まあ、この当時の状況ではどんなに頼朝が足掻こうとも、大庭景親を初め平家一門の力からすれば、頼朝は滅ぼされると見るのが普通でしょう。だから佐々木兄弟が頼朝のところの出入りを止めれば、生き残れるかもしれませんが共に挙兵になぞ出れば討ち取られるだけ、ならば生き残れる情けを佐々木家にかけてやろうという景親らしい優しさだったのではないでしょうか。

⑥早川城にいる佐々木秀義と
佐々木四兄弟(大河ドラマ)
これを聞いた佐々木秀義は焦ります。

早川城へ戻ってくると、丁度その時、四兄弟の長男・定綱(さだつな)が来ていました。秀義は定綱に頼朝挙兵の事実を確認します。すると定綱は

「父上、何故それをご存じで?どこからその情報を仕入れられたのですか?」

と言うではありませんか。

「やはり、事実か。。。定綱、よく聞け。大至急頼朝殿のところへ走り、これから言う事実を伝えなさい。今日ここから2里(8㎞)離れた
大庭御厨へ行ってきた。そこで大庭景親殿とお会いしたのだ。大庭殿は言っておった『頼朝殿が挙兵するという噂が京で広まっている。自分が討伐する』とな。」

それを聞くや否や、定綱は早川城を飛び出します。頼朝のいる守山まで約70㎞強、約2日の距離ですが、いつ大庭景親が攻めに行くか分かりません。

2日間走り続け、守山の頼朝のところに辿り着くことができました。

4.挙兵計画の変更

「大庭景親殿が攻めてきます!」
「待て、定綱!」

先程の場面に戻ります。

三島宿からは当時の駅制度で設置してある馬を守山まで走らせた定綱。守山の頼朝屋敷に馬ごと飛び込むと、上がった息も隠さず、頼朝の居る間に駆け上ります。

「なに!大庭の景親が!いつ攻めてくるのじゃ!」
「分かりませぬ。分かりませぬが、早川城からここに来る途中、大庭御厨を経由したのですが、かなりの馬が集められ、箱根に向かう街道沿いでも弓や矢を大量に運ぶ人夫たちや兵ともすれ違いますれば、あと数日で挙兵する可能性が高いと推測されます。」
「なんと早急な。文覚殿、文覚殿!」

頼朝は最近、屋敷に常駐している文覚を呼び寄せます。

「三善殿からの連絡が無いと思っておったら、なんと大庭が攻め寄せるそうだ。」
「なんと大庭殿でござったか。」

なるほどとばかりになんの動揺も無く、頼朝と定綱の前に座る文覚。頼朝は

「文覚殿、なんでそんなに落ち着いていられるのか?貴方は平家軍が西から攻めてくるから迎え撃つ形での挙兵を考えておったではないか。大丈夫なのか?」
「はい、想定内の事態です。」
「想定内?」

文覚は言います。
「頼朝殿、お義父殿をはじめ、北条のものも今晩にでもお集めいただけまいか?」

◇ ◆ ◇ ◆

さて、その日の晩、守山の北条の屋敷から、時政、宗時、義時の3人、安達盛長が集まってきました。これに頼朝、佐々木定綱、文覚の合計7人が顔を突き合わせて、狩野川流域のことに蒸し暑いこの屋敷で談義をはじめるのです。

定綱が大庭景親の頼朝討伐の立ち上げ状況を伝えると、やはり北条側にも動揺が走ります。

しかし、文覚が冷静に話を始めます。
「そこで、新しい計画案をお話したいと思います。まず北条殿の手下だけでどれくらいの兵を集めることができますかな?時政殿。」
「うちは伊豆でも伊東祐親殿のような大きな在庁官人ではないので、あって30人程度が関の山でしょう。」

文覚はちょっと苦笑し、「佐々木四兄弟はご参戦いただけますな?」
と定綱に念押しします。

「喜んで」

と定綱。文覚は続けます。

「我々が周旋した工藤、天野、仁田等、伊豆の近隣豪族にも声がけしましょう。それでも40騎程度が限度ですな。ははは!」

というと、頼朝も苦い笑みを浮かべ言います。

「40騎程度でどうやって大庭景親殿に勝利するのだ。御厨は伊勢神宮の荘園ぞ!大庭だけで数百騎は集まる。とても40騎では勝ち目はあるまい。」

「確かに、大庭景親と相模国でぶつかるのを最初の旗揚げとするのは危険極まりない。下手をすると負けます。いや今のままでは下手をしなくても負けます。緒戦で勝てない旗揚げは、古来より、全て失敗に終わっています。」

少し怒り気味の頼朝は投げやりに怒鳴ります。

「胤頼が申していた通り、やはり奥州に下って、平泉の大寺院群の中で読経三昧の日々の方がよさそうだな!」

文覚はそれには何も答えず、続けます。

「たったの40騎ですが、旗挙げには十分です。この40騎で最初に平家側のしかるべき人物を打倒し、『頼朝ここにあり!本日今源氏再興の挙兵を行ったので、坂東武者は駆け付けるが良い』との喧伝をするのです。と同時に三浦殿の衣笠城へ拙僧がこれから至急使者として向かいます。皆さまは、挙兵成功後に東に向かってください。挙兵の噂を聞きつけ、伊豆では先ほどの近隣豪族以外に、田代、大見、宇佐見等も集まり、武者達数千騎は集まるでしょう。三浦殿にも千騎以上は出してもらい、西に向かいます。(藤沢、茅ケ崎あたりの)大庭軍を東と西から挟撃するのです。」

「・・・」

皆、ここ数日で大庭軍が攻めてくるという情報を聞いた途端に、「敵は大庭軍!」が当たり前と考えていただけに、文覚のこの大庭軍との戦の前に、1戦するとは想像もできなかったのです。
文覚のこの突飛な作戦に、皆しばらく声も出ません。

「で、誰を最初に血祭りにあげるのじゃ?文覚殿」

しばらく間を置いて、質問をしたのは北条時政です。文覚は答えます。

「何事も最初の一勝が大事です。40騎程度しか集まらない現状で、一勝を上げるのに、有綱殿の代わりとなる新しい目代を狙うのは如何でしょうか?」

「新しい目代?山木か!最近着任したばかりで奴の屋敷に武人は数十程度しかいないはずじゃ。なるほど!」(表⑦)

⑦政変前後の伊豆知行国責任者の変遷

と頼朝が言うと、すかさず時政が割入ってきます。

「なるほど、寡少な兵力しか集まらないうちに、平家側の軍が攻めてきては勝ち目が無い。だから寡兵を持ってして一勝を上げる。それが、かつての大知行国主・源頼政の孫・有綱に取って代わった山木目代であれば、以仁王や頼政殿の意志を継ぎ挙兵するという意思表示にピッタリだ。
また、確かに最近着任してきたばかりの山木なぞ、使用人で数十人程度の屋敷だ。ここから半里しか離れておらんしな。」

時政は、ただでさえ、自分の領有するこの韮山の一角に屋敷を構えはじめた山木兼隆に、苛々するものを感じていたようです。山木兼隆は、元は罪人で伊豆に流されてきたのですが、平時忠と懇意であったこともあり、いきなり流人から目代に抜擢されたという訳です。

もっとも、時政を一番苛立たせたのは、山木兼隆の流人中、後見人として、函南方面を領有する堤 信遠(つつみのぶとお)が申し出たことです。この堤氏と北条氏は隣国同士なので犬猿の仲だったのです。一方、北条時政が後見人になった流人・源頼朝は、今回、更に討伐の対象になっています。
⑧堤信遠に激しく侮辱される北条時政
(大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から)

確かにこれでは、時政は思いっきり大貧乏くじを引いたと思ってもおかしくは無いですね。

ちなみに大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、更にドラステックにするために、堤信遠が北条時政の顔に
茄子を潰して擦り付け、侮蔑の言葉を掛けていましたね。

という悔しさも相まって、北条側は新しい目代・山木兼隆をぶっ潰すことで平家打倒の挙兵戦に勝利をするのには大賛成です。勿論、堤信遠も同時にぶっ潰すのです。山木屋敷の少し北側に堤屋敷があったようです。

文覚が言います。

「では、各々方、挙兵は山木判官兼隆殿を討つということで一致ですな。では早々に挙兵準備を。実は8月17日が三嶋大社の祭礼の日です。伊豆の人民の1/3が集まるというこの大祭、山木兼隆の屋敷、堤信遠の使用人たちも出払うでしょう。この日を挙兵の日にしたいので、各々方早々に挙兵準備を!」

それまで黙っていた北条義時(よしとき)が1つ質問をします。

「三嶋大社の祭礼の日、山木兼隆自身が祭りに出てしまっていたらどうされます?屋敷を襲うのは取りやめますか?」

これには時政が答えます。

「四郎、くだらないことを聞くな。もし祭りに出ていても、屋敷が挙兵した頼朝に襲われていると知れば、戻り戦うのが目代だろう。腰抜けで屋敷が全滅しても平家方に逃げていくなら末代まで笑われるのが落ち。その日祭礼に行って命拾いをしようがしまいが、屋敷を焼かれ目代として機能しなくなればそれまでの話だ。我々は山木兼隆などという豪傑でもなんでもないちっぽけな武士を潰すのではない。目代という組織を潰せばいいのじゃ。」

「なるほど!では8月17日決行ということで!」

義時もそこに居並ぶ6人も何故か時政のこの一声で、既に目代を潰したような気分になっていました。

◇ ◆ ◇ ◆

長くなりましたので挙兵戦は次回。お楽しみに。
ご精読ありがとうございました。

《つづく


月曜日

頼朝杉⑬ ~八重姫 その4~

 日本3大敵討ちの1つ、「曾我兄弟の敵討ち」をご存じの方も多いかと存じます。

この敵討ち話の出発点は工藤祐経(くどうすけつね)が、曾我兄弟の実の父・河津祐泰(かわずすけやす)を所領問題により殺害するところから始まります。

ところが、この有名な話と、今まで3回に渡り展開してきた八重姫と頼朝の悲恋話が繋がっているという説があるのをご存じでしょうか?

今回は、この説も含め、その後の八重姫や頼朝の話をしてみたいと思います。

1.直後の八重姫

実は色々な話がありますが、その後の八重姫については良く分かっていません。

現地に伝わる話をもとに書きます。

頼朝を伊豆神社まで追いかけた伊東祐親。頼朝のような流刑人に嫁に出すより、乞食にでもくれてやった方がまし、とまで言った割には、北条一族(家臣?)のような立派な家に八重姫を再婚させたようです。

「曽我物語」では、北条義時(江間小四郎)に八重姫を嫁がせた(再婚させた)という記述があります。

音無神社の隣に最誓寺(さいせいじ)というお寺があります(写真①)。

①最誓寺

このお寺は、この北条義時とされる江間小四郎と八重姫の立願によって、亡き千鶴丸の菩提を弔うために建てられたとされています。建てられた当時は同じ「さいせいじ」でも西成寺との名前だったようです。

ただ、「曽我物語」に出てくる江間小四郎は、実は義時ではないというのが通説です。本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。

その後、八重姫は江間小四郎と仲良く平穏に暮らしたのかと思いきや、やはり違ったようです。

2.眞珠ケ淵

悲しみに暮れる日々を八重姫は過ごしていました。
それはそうですね。ある日突然闇に突き落とされたようなものですから。我が子・千鶴丸が父に殺されたことに納得がいかないのは当然ですが、その怒りの感情を共有できる愛すべき頼朝とも一切コンタクトしていない訳です。

②亀石峠から伊東市方面を臨む
ーきっと頼朝様も私と同じ気持ちでいらっしゃるに違いないー

と彼女が考えてもおかしくはありません。

そしてとうとう治承4年(1180年)7月16日、侍女6人と共に伊東の館を抜け出し、伊豆半島の尾根の1つ、亀石峠を越えて韮山の北条館まで頼朝を訪ねていくのです。(写真②)

この頃、丁度頼朝は旗揚げの1か月前。蛭ヶ小島の流刑人用の館から、北条時政の居城のある守山の北側の館に移り、挙兵にあたり伊豆の各豪族への支援の呼びかけや、作戦を練っておりました。(写真③、地図⑬もご参照ください)

その門を伊東からやってきた八重姫らは叩きます。

八重姫の前に現れたのは安達盛長。彼は伊東での八重姫と頼朝のことはすべて熟知しております。また、比企尼(ひきあま)から言われた通りに、伊東へ頼朝を連れて行ったのは安達盛長だったこともあり、八重姫との混乱の責任を強く感じているのです。

八重姫には可哀そうとは感じていますが、蛮勇ふるって、盛長は冷たく言い放ちます。

③守山の北側にあった頼朝挙兵の館跡

「頼朝殿は既に北条時政公の娘・政子殿と夫婦です。八重姫殿が今更会って何とするのですか。」

挙兵直前のこの時期、政子と娘・大姫は、万が一挙兵が失敗した時のリスクを考え、伊豆山権現(伊豆山神社)へ退避させているので、この場所には居ません。

であるからこそ、今、頼朝と八重姫を合わせては、却って頼朝は八重姫を哀れみ、挙兵に影響があるかもしれません。

盛長としては、八重姫を頼朝に会わせ、頼朝の心を乱す訳には行かないのです。

「そうですか・・・。既に政子殿と・・・。」

力が抜けていった八重姫は、それだけ言うとすごすごと引き下がります。千鶴丸が稚児ケ淵に放り込まれた日から、半幽閉のような生活を強いられていた八重姫は、頼朝が政子と結ばれたという事実すら知らなかったのです。

フラフラと覚束ない足取りになった八重姫。

頼朝が待っていると思い、亀石峠を越えてきた時の足取りとは全然違う様子となってしまいました。

半幽閉をされていた伊東の館を飛び出してきたのです。今更、帰る訳にも行きません。重い足を引きずるように元来た道をうつむきながら八重姫は歩きます。

頼朝がいる館の守山を挟んで丁度反対側(南側)に狩野川が流れている眞珠ケ淵という場所があります。

いきなり八重姫はここで入水します。(写真④)

④眞珠ケ淵から飛び立つ鷺

現在、入水したこの悲劇の場所には、眞珠院というお寺が建っています。

境内には八重姫の供養塔を収めた静(しずか)堂というお堂があります。(写真⑤)

⑤静堂

この2本の那木(なぎ)に挟まれた感じのお堂には、正面に八重姫の木像を安置してあると同時に、悲し気な八重姫の絵がおかれていたのが印象的でした。(写真⑥、絵⑦)
⑥静堂にある八重姫の木像      ⑦静堂内の八重姫画

八重姫は衝動的に入水してしまったのでしょうか?狩野川の流れの渦に巻き込まれている様子を見ていた6人の侍女やこの里の人が後に

「梯子があれば姫を救うことができた」

と云い伝えたようで、このお堂の脇に「梯子供養」なる箇所に、ミニチュアの梯子が沢山奉納されていました。(写真⑧)
⑧梯子供養
※実はお堂内の木像の前にも1つ捧げてある

3.曾我兄弟の敵討ち(日本三大敵討ちの1つ)

さて、一方の頼朝ですが、伊東祐親に初子を殺され、八重姫さえも自殺に追い込まれた状況を「しかたがないこと」として看過していたのでしょうか?
蛭ヶ小島で政子と結ばれのうのうと暮していたのでしょうか?
ここからは私の考えが入りますが、智略に長け、細かなことにも結構しつこい頼朝の性格です。話を簡単には終わらせていないような気がします。

そこで急浮上するのが、曾我兄弟の敵討ちの事始めの部分です。

曾我兄弟の敵討ちは、伊東祐親に所領問題で恨みを抱く工藤祐経が、腹心の部下二人に命じて、祐親の暗殺を謀ったところから始まります。

安元2年(1176年)に、流刑人である頼朝を慰撫するために、相模、伊豆、駿河の武士たちが、伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りを催したのです。

狩りの帰途、工藤祐経は、下田街道を見下ろす椎の大木に二人の部下をスナイパーよろしく、弓矢で木の上から、街道を伊東へ戻る馬上の伊東祐親を狙わせるのです。(写真⑨)
街道を行く祐親に向かい、ヒョーと矢を射る二人。(絵⑩)
⑨伊東祐親を工藤祐経の部下2人が弓で狙った椎の木

⑩下田街道を行く伊東祐親を狙う二人
(現地看板から)

矢は、1本は祐親の指を掠めるだけで当たらず、またもう1本は祐親の後ろを歩いていた嫡男・河津祐泰の急所に当たり、祐泰はその場で落命します。

現在、街道沿いのその場所は、「河津祐泰の血塚(ちづか)」という生々しい塚の名前で残っています。(360°写真⑪)
⑪河津祐泰の血塚
(360度写真)

まさに、この塚の背面の山の上に画面を上げてみてください。その上の方にある木が写真⑨のスナイパーが存在していた椎の木なのです。

この河津祐泰が、工藤祐経を敵討ちする曾我十郎・五郎兄弟の父親であり、この父親の敵討ちを、後年頼朝が主催する毎年恒例の行事・「富士の巻き狩り」中で行うのです。河津姓ではなくて、曾我姓なのは母親が曾我氏と再婚したためですね。

この辺り、同ブログの「いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~」から3つ(上・中・下)の話をお読みいただけると嬉しいです。

4.頼朝復讐説

さて、この曾我兄弟が工藤祐経に対し父の敵討ちをすることと、今までお話をしてきた八重姫の悲恋とどう関係があるのかについてお話します。

この富士の巻狩り中に起こった曾我兄弟の敵討ちは、工藤祐経を討ち取った後、曾我の弟・五郎がそこから約1.5㎞離れた頼朝の寝所に乱入し、頼朝をも討ち取ろうとしたのです。(曾我の兄・十郎は工藤祐経の敵討ちの直後、新田四郎という巻狩りに参加していた御家人に殺されました。)

「頼朝公襲撃される」

の報は、その日の昼までには鎌倉へ伝えられ、幕府のある大蔵御所はテンヤワンヤの大騒ぎ。その時に範頼が政子に「鎌倉には私がおりますからご安心ください」との発言が、後に範頼の命取りになる等、頼朝が曾我兄弟に殺されたとの誤報が飛び交う有様だったのです。

では何故曾我兄弟は頼朝公の寝所へ乱入したのか?

色々な説があります。(表⑫)

表⑫ 曾我兄弟が頼朝公寝所へ侵入した理由説
概要内容
説①頼朝への敵討ちの申し開き曾我兄弟の敵討ち自体が、武士としての清廉潔白な行為であることを武士の棟梁である頼朝に訴えたかった。
説②北条時政の陰謀説曾我兄弟の烏帽子親である北条時政が、北条家の安泰のために頼朝暗殺を企画し、兄弟をそそのかして実行しようとした。
(私の上記過去ブログはこれを根拠にしています。)
説③頼朝の伊東祐親への復讐結果に対しての恨み頼朝が工藤祐経を裏から操り、伊東祐親暗殺を企てた。その結果、河津祐泰が死んだことから、河津祐泰の息子・曾我兄弟は、当初から工藤祐経・源頼朝の二人を父の仇として敵討ちを計画した。

曽我兄弟の敵討ちの物語では、所領問題が工藤祐経と伊東祐親の間であり、これが伊東祐親暗殺未遂の引き金を引いたという説が一般的です。

しかし、それだけであれば、なんでわざわざ1.5㎞も離れた頼朝の寝所に曽我の弟は押し入ったのでしょうか?他の説としては、雨の闇夜で道に迷って説もありますが、1.5㎞も離れていますし、あまりに不自然です。

今回私が注目したのは説③です。八重姫との初子・千鶴丸を殺され、有無を言わさず八重姫とも引き裂かれた頼朝が黙っているでしょうか?

この祐親暗殺未遂の時の舞台が「狩り」による「頼朝慰労会」であり、工藤一族と頼朝はこの狩りの時までによしみを通じやすい地理的な位置関係にありました。(地図⑬)
⑬頼朝挙兵時における北伊豆の豪族の状況

伊豆半島の頼朝を支援する地図で明白なのは、やはり伊東氏等、峰々の峠越えをしなければ交流できない東伊豆方面とのコミュニケーションは疎になりがちなのでしょう。
それに比して、狩野川や大見川等、峠の西側地帯は狩野川流域に比較的平な地域が広がり、ここの豪族等とは交流が盛んだったために挙兵時の頼朝支援が多かったようにも思えます。
この辺りの豪族を周旋して廻ったのが、八重姫のこの悲恋話を不憫に思っている頼朝の従者・安達盛長です。

元々、工藤家は頼朝の居た蛭ヶ小島の土地形成に大きく影響を与えた狩野川の地名にもなる名家・狩野氏の一派に属していました。この狩野川の上流「牧之郷」に居を構える狩野・工藤家は「牧」と土地が書かれるように、馬の牧場ということで伊豆半島の名馬を生み出すことも生業にしていたようです。

ご存じのように頼朝は、他の武芸はいざ知らず、馬は好き、かつ得意でしたので、この馬繋がりでも、後に石橋山合戦で戦死する狩野(工藤)茂光やその親戚筋の工藤祐経とも懇意であってもおかしくありません。

となれば

「工藤殿、千鶴丸と八重姫の恨み、なんとか祐親殿に対して晴らして頂けないか?」

と、頼朝が工藤祐経に密かに相談していても不自然ではありません。祐経も所領問題等で祐親を良く思っていないのであれば、頼朝のその言葉で背中を押されるのです。頼朝は祐経の伊東祐親との土地問題による不仲も安達盛長等から聞いていたのでしょう。

そして先の暗殺計画が実行されたのです。暗殺計画は失敗。標的とした伊東祐親は打ち漏らし、代わりに河津祐泰が、その外した流れ矢に当たり死亡。

この話は当時、頼朝が世話になっていた北条時政が知っていたとしたら。そして曽我兄弟が成人して烏帽子親を務めた時政が彼らに真相を全部話をしたとしたら・・・。

全ての筋書きは通りますね。曽我兄弟は、時政から聞いた話を根拠に、富士の巻き狩り中に、工藤祐経だけでなく、祐経を裏で操った頼朝も、その寝所で刺し殺し敵討ちをするつもりだった。(写真⑭)
⑭曾我五郎(弟)が頼朝の寝所
に侵入した狩宿(朝霧高原)

このシナリオだと上記説②との親和性もあります。つまり時政はこの事実を事実として曽我兄弟に伝えるだけで頼朝を暗殺することができるのですから。

真相は分かりませんが、もし八重姫の悲恋が曾我兄弟の敵討ちまで繋がっているとしたら、この事件により死に追いやられた平家討伐時の総大将源範頼(のりより)の死等、この時代の多くの人々にも影響が大きく、人の感情の影響力というものを強く感じさせられる事件です。(写真⑮)

⑮範頼の墓(修善寺)

他にも、八重姫が再婚した江間小四郎は、北条義時とは別人なのか?千鶴丸は実は死んだと見せかけて別の土地で生きていたのか?等々伝承の興味は尽きませんが、一度この辺りで八重姫の物語は筆を置きたいと存じます。

長文、ご精読ありがとうございました。

《つづく》




日曜日

頼朝杉④ ~源 頼政 エピソード2~

神護寺への勧請強要を後白河法皇に迫り、伊豆流刑に処された文覚(もんがく)。

その流刑地選定に関して、先の大きな時代の流れを読み、陰で画策した人物が居ます。それが前回、鵺退治のエピソードを描きました源 頼政(よりまさ)です。(前回のエピソードはこちら

今回もまた、この頼政に関するエピソードを2つ描かせてください。

1.歌による立身出世

「のぼるべき たよりなき身は 木の下に椎(シイ)をひろひて 世をわたるかな」

これが頼政が出世のための一世一代の歌となりました。

①平清盛像(六波羅蜜寺蔵)
元々、平安貴族社会において、武士の身分が低いのは皆さんもご存知の通りです。この当時は平清盛が太政大臣で従一位となった超ウルトラC以外、源氏は河内源氏が没落(義朝や頼朝)し、摂津源氏である頼政が従四位と振るわなかったのです。

この当時の源氏(というか平家以外の武士たち)には、四位と三位の間に突破できそうにないガラスの天井があったようです。

そこで詠んだのが、上の歌です。そう「椎(シイ)」と「四位(シイ)」を掛けたのです。

つまり、歌の裏の意味は以下の通りです。

「(平家一門が清盛殿などの身内に頼りに出世するのに対し)源氏である我が身は頼るべき人が居ません。朝廷のハイアラーキという木の下で、拾わせていただいた椎(四位)で食いつないで生きていきます。」

この歌を知った平清盛は「あれ?頼政は四位だったのか。あれも良い歳やし、ずいぶんと尽くしてくれた。では三位にしてやるか。」と思ったようです。

従三位に昇格した頼政は、当時の源氏としては破格の出世だったのです。周囲の貴族たちも、「おお、とうとう武士も平家だけでなく源氏まで三位になれる時代となった。」と変化を感じながらも、決して頼政に対して妬みを持つことは少なかったようです。それはやはり頼政は歌が上手く、三位以上の貴族たちに政敵を持たなかった温厚な性格だったからこそ、ガラスの天井を打ち破り、昇進することが出来たのだと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

ただ、後に源 頼朝は正二位まで昇進していますが、一、二位よりも「大将軍」という役職にのみ拘ったようです。多分に頼朝は朝廷の政治体制に組み込まれることを嫌がり、朝廷の中央政権から離れた場所・鎌倉に独立政権である幕府を開くことに集中したのです。「大将軍」を欲したのも栄誉が欲しいというよりは、鎌倉に幕府を開く大義名分的な役職が欲しかったのでしょう。当時、世にイノベーティブな変化をもたらすのには、それしか方法はないと頼朝は考えたのです。

一方、頼政はどうだったのでしょう?
彼は大きな組織の中で順当に出世することにより、その組織内でゲットした権力を行使し、自分の考えを完遂したいと考えるタイプだったのかもしれません。

現代でも「偉くなるまではなるべく我慢し、偉くなって発言権が大きくなったら、自分のやりたいことを言うのが、デカいことを成すやり方」と信じていらっしゃる方が多いように感じます。比較的大きな会社や官僚の方に多い考え方なのではないでしょうか。

②平家打倒に敗れ辞世の句を詠む頼政
頼政は、この後、以仁王の挙兵に合わせ、平家に対して旗揚げをするのです。ある意味、政体の中で破格ともいうべき三位になるまでは、嫌いな平家も我慢し昇進に集中。そして三位ゲット後に自分のやりたいこと、つまり平家打倒の実現に乗り出すのです。

頼政の挙兵が頼朝より3か月早いだけであることを考えると、頼朝のように成功するのか、頼政のように失敗するのかは紙一重だったのかもしれません。ただ、頼朝は時代のイノベーターです。現代社会においても官僚や大企業からイノベーターが輩出された例は少なく感じます。なのでこれは私の考えでしかありませんが、頼政はもし挙兵自体が成功したとしても、頼朝のようなイノベーターには成れなかったかもしれません。

ちなみに旗揚げ失敗し、切腹する直前の辞世の句は以下の通りです。(絵②)

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

鵺を退治し、歌も上手く、昇進の末、三位までいったのですから、十分花咲いた感がある頼政が死ぬ間際になって、このような歌を詠む理由があるとすれば、やはり前述のように昇進は彼にとっては手段であって、かれの人生の目的(夢)は平家転覆だったのかもしれませんね。

皆さまはどう思われますか?

ただ、頼政のように偉くなりたければ、さりげなく、しかし上記の歌のように権者に対してオブラードに包みながらも出世したい意志を伝えるスマートさが必要なことはこの時代から現代に至るまで変わらないようです。

2.菖蒲(あやめ)御前

③菖蒲(あやめ)御前
3つ目のエピソードは菖蒲御前の話です。(絵③)

前回描きました頼政が鵺退治をした後の話です。頼政はひそかに心を寄せている女性が居ました。菖蒲御前という美しい女性なのですが、なんと近衛天皇のお父さん・鳥羽院(院政を布いていた)に仕えていた女官だったのです。

奥仕えの女官ですから、何かの折にチラリと見えただけで頼政は一目惚れ。以後は文(ふみ)等の取り交わしを続け、3年経っていました。

鵺退治で、息子・近衛天皇を助けてくれた頼政に、鳥羽院も何か与えたいと思っていたところに、この噂が飛び込んできたのです。

ーよしよし、頼政が一番欲しいものを与えよう。菖蒲御前じゃ。ー

と鳥羽院は考えました。

ただ、そのまま菖蒲御前を頼政に渡すのは面白くありません。鳥羽院は考え、菖蒲御前と同い年くらいの美しい女官12人を菖蒲御前と同じ着物を着せ、御簾の前に並んで座らせました。

そこに頼政を呼び、こう言います。(対面時に御簾にお隠れになる朝廷の慣習として、実際には鳥羽院自らは言葉を発しません。代行する女官に言わせたのです。)

「頼政、息子・近衛をよくぞ助けてくれた。朕からも礼を言うぞ。そして今夜、朕からは『浅香の菖蒲』をくだそう。菖蒲の根は長い。朕は老齢ゆえ菖蒲を引いて掘り起こすのには疲れてしまう。よって頼政自身が、この中から菖蒲を引いて掘り出してほしい。」

ご存知のように「いずれが、菖蒲(あやめ)か、カキツバタか」というように、菖蒲やカキツバタは似たような花が、同じ時期に同じ場所で咲くのです。写真④は私の家の近所にある菖蒲園の花たちですが、まあこの2つは本当に似ていますね。良く分からないです(笑)。(写真④)

④菖蒲園(枡形城跡)
※どれが菖蒲(あやめ)で
どれがカキツバタか?

ちなみに『浅香の菖蒲』とは、現在の福島県郡山近辺、安積(あさか)疎水で有名な土地にあったと言われる浅香沼に咲く菖蒲で、古くから万葉集等の歌にも使われ、菖蒲の枕詞(まくらことば)になっているものです。つまり最高級の菖蒲を鳥羽院がくださるという意味ですね。

菖蒲御前の美しさを、このような花たちの群生になぞらえ、菖蒲に似た姿をさせた12人の女官たちの中から、カキツバタではなくて、菖蒲を選んで引けという鳥羽院の企画は、流石、平安時代の風流さを感じさせます。

しかし、仕える姿をチラリと見ただけの菖蒲御前を、その後何年も会っていないのに、頼政に選べというのは、ある意味、非常に「いじわる」な企画でもあります。

頼政が間違えて他の女性を選んでしまった場合、菖蒲御前は相当シラケるでしょう。長い年月に渡る文の交わしで築いてきた恋愛感情も、この企画の成り行きによっては、即、恋愛終了!という事態にもなりかねません。

皆さんが頼政ならどうされますか?

◆ ◇ ◆ ◇

頼政は、12人の女官を見廻しました。どの女性も美しいですが、今までの文のやり取りの中から、その容貌に現れるものを探そうとします。

ー多分、この方かもしれない。ー

と思う女性は3人に絞れましたが、菖蒲御前は1人です。

しばらく3人の女官たちを見廻しながら、苦渋する頼政。

そこに鳥羽院の代弁をする女官から

「どうして誰の手も引かないのですか?」

と催促の言葉。

そこで、頼政はまた歌で正直な心情を返します。

「五月雨に 沢辺の真薦(まこも)も水こゑて 何れあやめと 引ぞわづらふ」

ー五月雨が降ったことで、浅香の沼の水辺を示す真薦(菖蒲に似た葉を持つ植物)も、水嵩が増して没してしまいました。となると、花が菖蒲(あやめ)かカキツバタなのかもわからなくなってしまいました。なので菖蒲を引けと言われても困っているのです。ー

菖蒲たちが咲く時期は梅雨の季節です。この五月雨とは梅雨のことなのです。花咲く季節が梅雨で増水→菖蒲の花が分からなくなる というウイットな言い訳です。

また、もう一つウイットに富むのは、菖蒲が沢辺に咲く花であることを頼政は知っているということです。カキツバタは湿地帯の水の中に根を張りますが、菖蒲は沢辺の乾地に根を張ります。なので普段は根の張り方で、菖蒲とカキツバタを見分けられますが、五月雨で水嵩が増えた今、どちらも水中に没し分からなくなってしまったという、植生図鑑的な知識も織り交ぜたウイットさがこの歌には秘められているのです。(図⑤)

⑤あやめ(菖蒲)とカキツバタ
等の生育場所の違い
EvergreenのHPから

更にこの歌を深く解釈すると、五月雨は梅雨ですが、どしゃ降りを意味する表現なのです。なので、「鬱陶しい 」という意味合いがあります。特に真剣に恋愛をしている頼政にとって、菖蒲御前を含めた女性たちを、まるでモノのように扱う鳥羽院に対しても少々不快に感じたのかもしれません。

つまり、鳥羽院のこの「いたずら」企画を「どしゃ降りの雨みたいな企画やな。あぁ、鬱陶しい 。」という隠れた批判も裏に込めているのです。

この批判的要素に気が付いた関白太政大臣・藤原基実(もとざね)。

ーヤバい!鳥羽院が頼政の批判に気が付いたら険悪な雰囲気になる!ー

と思ったのでしょう。パッと行動に出ます。

「おおっ、流石は頼政殿、上手い!上手い!」

とまず、頼政をはやしたてます。鳥羽院は代弁の女官に菖蒲とカキツバタの生育場所の違い等、歌を解説して貰っています。頼政の批判的なニュアンスにはまったく気が付いていません。

そこで基実は次に、自ら菖蒲御前の袖をひいて、「これこそ、そなたの妻!」と頼政にひきあわせ、この場を納めることに成功したのです。

後日、頼政のこの場で作った歌こそが、着実に菖蒲御前を自分のものにできるよう、全部読み通し練られたものであると気が付いた基実らは、頼政の頭の良さ・歌のすごさに舌を巻くのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

第84回源氏あやめ祭りの様子
この菖蒲御前、頼政とは33歳差があったようですが、仲睦まじくその後を過ごしたようです。
しかし、1180年に頼政が以仁王と平家打倒の挙兵をする直前、累が彼女に及ばないように、彼女の故郷の伊豆長岡の奈古に逃すのです。そして頼政が自害したとの知らせを聞くと、尼になり伊豆で一生を終えるのです。

今でも伊豆の国市では、『源氏あやめ祭り』を毎年開催して、菖蒲御前の霊を弔っています。(写真⑥)

これは私の想像ですが、菖蒲御前が逃げた伊豆の奈古は文覚が流された地・奈古谷のすぐ隣です。もしかしたら、先に流しておいた文覚を頼りに頼政は菖蒲御前を逃がしたのかもしれませんね。

3.頼政のエピソードの終わりに

いかがでしたでしょうか?源 頼政のエピソード、前回は、鵺退治という武人らしい頼政、今回は歌による立身出世と恋愛成就という文人としての才。

いずれにしてもタダモノではない感のある頼政でしたが、やはり源氏の棟梁となることは出来ませんでした。彼だけではなく渡辺橋の渡辺党を含めた摂津源氏は、河内源氏である頼朝が全国制覇を果たすと、一御家人としてしか歴史には出てこないのですが、大江山の鬼退治をした頼光以来五代後の頼政まで、ある意味、大人にも子供にも夢のある話が多い摂津源氏は、素晴らしいと思います。

先に書きました頼政の辞世の句

「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける」

の彼の主観がどうしてそう思ったのかについては、前述の通りですが、私たちから見ると、十分花を咲かせた頼政だと思うのですが、いかがでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇

文覚が伊豆に流されてくる背景に、頼政という黒幕がいるという話から展開した頼政のエピソードはこれにて終了し、次回からまた時系列を戻して、文覚が伊豆に流された後の話から描きたいと思います。

なお、前回アナウンスした頼政挙兵時における渡辺党の活躍エピソードについては、予定を変更し、この時系列にのっとった中でお話させていただければと存じます。

ご精読ありがとうございました。


⑦「次回はきっと私たちにも出番がありますね。」
「おお、そうだな。今日の富士山は格別綺麗だ。」

【菖蒲御前跡(あやめ池)】〒410-2201 静岡県伊豆の国市古奈53−1

土曜日

頼朝杉③ ~源 頼政 エピソード1~

 さて、前回、遠藤盛遠(もりとお)が人妻である袈裟御前に懸想してしまい、袈裟御前が我が身を持って盛遠に教え、盛遠は出家し、文覚になる経緯を描きました。(リンクはここをクリック

そして話が前後して恐縮ですが、前々回のブログで、僧になった文覚が弘法大師・空海が建てた神護寺復興のために強引に後白河法皇に迫り、結果、法皇の不興を買い、伊豆に流されるという経緯を描きました。(リンクはここをクリック

この文覚の伊豆に流罪となる経緯は、調べれば調べるほど、興味深いエピソードが沢山見えてきました。今回、文覚の伊豆での話を描く予定だったのですが、また少し文覚の伊豆流刑に係る寄り道話もさせてください。(写真①)

①文覚と頼朝が流された伊豆(狩野川氾濫域)
北条義時が居城・守山城から写す

◆ ◇ ◆ ◇

②鵺に矢を射る源 頼政

文覚の流刑地を伊豆と決定したのは、この時より13年前に、この地に流されていた源 頼朝(よりとも)が居ることを意識した選択だったのではないかとの説があります。

では誰が選択したのでしょうか?それが今回の主人公である摂津源氏・源 頼政(よりまさ)です。(絵②)

と言っても、確証的なものがある訳ではなく、あくまで状況証拠によっての論考ですので、よろしくお願いします。

まず論考の第一は、文覚が後白河法皇の御所で神護寺支援を強訴し捕らえられた後、預けられた先は頼政の息子・伊豆守仲綱(なかつな)です。そして文覚を伊豆まで護送するのは渡辺 省(はぶく)という頼政の郎党です。

前回、文覚が遠藤盛遠という武士時代に、斬ってしまった袈裟御前の夫は渡辺 渡(わたる)。そもそも文覚の出身・遠藤家自体が、摂津源氏・渡辺党の縁戚筋であるというお話を書きました。

そう、つまりこの伊豆行は、文覚と関係の深い人脈の中で行われたのです。伊豆へ護送する船も、前回描いた文覚が盛遠時代に住んでいた現在の大阪・渡辺橋のあたりから出航したのです。

更に脱線しますが、頼政というのは絵②にあるように「鵺(ぬえ)」というバケモノ退治で武名を成した人物ですが、この祖父の源 頼光(よりみつ)は、「大江山の鬼退治」で有名です。

皆さんも、酒吞童子(しゅてんどうじ)等の本は小さなころに読まれたのではないでしょうか?

その酒吞童子を倒すために、頼光は頼光四天王という強ーい豪傑4人を従え、大江山に向かうのです。(絵③)

絵の中で、頼光は、左側の酒吞童子の鬼の首にかじられている武者です。

③大江山の鬼(酒吞童子)退治

絵の真ん中で、鎖やら鬼の腕やらで絡めとられながらも奮戦している二人。

二人の右側の人は、これも皆さん絵本等でよく知っている、クマにまたがりマサカリ担いだ「金太郎」さんの豪傑バージョン、坂田公時(金時:さかたのきんとき)。

そして左側が渡辺 綱(わたなべのつな)。なんかツナみたいな名前ですが、渡辺家は伝統的に名前を一文字にしていたようです。渡辺綱とか渡辺省、先週の盛遠時代の袈裟の夫・渡辺渡など、皆一字ですよね。『平家物語』では「渡辺の一文字名ども」なんてよばれています。

この時からのつながりなのです。渡辺党と摂津源氏との関係は。であれば、盛遠こと文覚の身請け引き渡しを頼政の息子・仲綱が実施し、文覚と出自が近い渡辺 省が伊豆に護送したことを、頼政の意志とは関係なく、単なる偶然とみるのは難しい気がします。

そして第二の論考は、文覚はひっ捕らえられた時に「遠くは3年、近くは3か月のうちに、思い知らせ申さん!」と叫んだと言われています。まあ、ひっ捕らえられた時すでに何か確証的なことがあった訳ではなく、単なる悔しい思いを年月を区切った言い方で現実味を持ったように言ったのだとは思いますが、少なくともそのような思いがあったことは、宮中の皆が知るところとなり、これを利用しようとしたのが頼政ではないかと。

④宇治平等院で挙兵する頼政
※3人もの渡辺党がいます(渡辺 清、渡辺 競、渡辺 省)

もしかしたら、頼政と文覚、ひっ捕らえられ伊豆に流されるまでの間、どこかで二人で密談をしていたかもしれません。

「文覚、どうだ一つ世の中をひっくり返してみないか?」

「頼政殿、3年でやってみせましょう!今の政(まつりごと)では、弘法大師の遺志を具現化することはできません。新しい世を作って、拙僧は大師の仏法を隅々まで行きわたらせ、また大師の造った堂宇を復興したい。」

「よし、では文覚。頼光四天王ならぬ、頼政四天王のうちの一人になってくれ。ついては、頼光が足柄山の金太郎を同志に加えたように、伊豆韮山の頼朝を我々の同志に加えるように画策してほしい。」

「なるほど!心得えましてござりまする。頼政殿」

なんて会話があったらと思うとゾクゾクします(笑)。というのは頼政は、これから7年後、後白河法皇の息子・以仁王を立てて、平家に対し最初の旗揚げをする源氏となるのです。(絵④)

平治の乱で源氏の棟梁とされた河内源氏の義朝(よしとも)の嫡子・頼朝を取り込もうという駆け引きが、当時の政(まつりごと)における中核・三位まで昇格した程の頼政が考えない訳がありません。

東の伊豆での頼朝挙兵、西の頼政挙兵、これを同時に行うことで平家殲滅を図りたかったのではないかと思いますが、残念ながら計画が平家側に発覚し、準備が固まらないうちに以仁王を助けるために、頼政は宇治平等院で挙兵し敗れるのです。

⑤大阪・渡辺橋とその周辺
敗れたとは言え、この戦にもいろいろなエピソードがあり、特にまた渡辺党の一人、渡辺 競(きそう)は胸のすくような活躍をしていますので、次回(?)にご紹介します。

この摂津源氏が盛んな頃には、渡辺橋周辺に起居した渡辺党の活躍は目覚ましいものがありますが、残念なことにその後、頼朝が挙兵に成功し河内源氏の世となると、摂津源氏も一御家人に凋落。渡辺党もあまり注目されなくなります。

ただ、これからも詳細は描いていきますが、頼朝の挙兵が成功した裏の立役者は文覚であり、文覚もまた渡辺党であったことを考えると、武士の時代を創生した大事業にいかに渡辺橋近辺の渡辺党が重要な役割を成したのか。関東にある鎌倉の成り立ちに大阪・渡辺橋が大いに貢献していると思うと面白く感じるのは私だけでしょうか?(写真⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

読者の皆様には怒られるかも知れませんが、伊豆での文覚を描くと前回も言っておきながら、なかなか描き始められません(笑)。

というのは、本シリーズは『平家物語』や『源平盛衰記』を調べながら進めていますが、まあ出てくる人物に関するエピソードはてんこ盛りで、皆さんは良く知っているかもしれませんが、歴史初心者の私は恥ずかしながら、いつも「へー、へー」と言って、紹介したくなる衝動を抑えられません。

ですので、大変申し訳ありませんが、もう少し伊豆での文覚の様子を先に延ばし、この頼政や渡辺党のエピソードをご紹介させてください。

◆ ◇ ◆ ◇

⑥御所上空の黒煙の中の鵺

頼政は、上の絵②や絵④に見られるような、勇猛果敢な武士なだけではありません。文武両道に長けていたこともあり、源氏としては当時破格の三位まで位階を上げることができた人物です。特に歌人としても大したものなので、それらのエピソードを3つさせてください。

1つは、やはり「鵺(ぬえ)退治」。これは頼政一番の武勇伝と伝えられることが多いですが、弓の名人と言われる頼政の活躍以上に、これに関する歌がまた粋なのです。

鵺(ぬえ)は「得体の知れないもの」という意味らしいです。「夜の鳥」と書くだけあって、普通、フクロウ以外は夜中に鳴く鳥は日本ではあまり見ませんね。ところが、後白河天皇の先代である近衛天皇の時に、御所上空から細い不気味な鳴き声が夜な夜な響いてきました。

最近の研究では、これはトラツグミという渡り鳥ではないかと言われています。夏はシベリアから朝鮮半島で過ごしますが、冬はインドやインドシナ、フィリピンに渡り過ごす渡りの途中の漂鳥が、京都御所の周辺にたどり着いたのではないかと。主に夜中に鳴くのです。鳴き声は下の動画で聞いてみてください。鵺の声に聞こえますか?(動画⑦)

⑦トラツグミの声(動画)

この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩したのが近衛天皇。まあ、確かに夜中に聞いたら少々不気味な感は否めないですよね。このトラツグミの声は。

当時、一部では近衛天皇の先代の崇徳上皇の怨霊だとか、この後、始まる保元の乱や平治の乱など、平安末期が平安ならぬ不安末期の象徴の声だとか、色々と噂されます。

もともと近衛天皇は若い時から体調が勝れぬ質(たち)だったようですが、これら祟りのように言われ、鵺の形状にも尾ひれ羽ひれが付いて、絵⑥のようになってしまいました。

頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇 です。後述しますが、一説にはこれは「得体の知れないもの」を方角で拡大解釈したものらしいです。そしてこのバケモノが東三条の藤原氏大邸宅の庭(現:東三条院址)から黒煙と一緒に御所の上空に現れるとのことでした。

有験(うげん)の高僧の祈りも効目がありません。この時、左少弁・源雅頼(まさより)が、「こんなバケモノは、酒吞童子を倒した頼光の孫・頼政に倒してもらうのが良いでしょう!」と近衛天皇に奏上します。

⑧鵺に止めを刺す猪早太

「なるほど!」と天皇は頷き、頼政に勅命を出します。

これを聞いた頼政、「私はバケモノ退治のために宮仕えしているのではありません。」と憤ります。

というのは、まあ現実的にはトラツグミあたりの話であり、退治したと言っても相変わらず近衛天皇の体調は戻らないだろうし、小鳥一羽夜中に追い回しても、またどこかで鳴かれたらと思うと、これは政治的なライバル(村上源氏)である雅頼が、頼政を陥れるために仕組んだ罠と疑いたくなる節を感じたからです。

ただ、勅命に従わないわけにはいきません。そこで猪早太(いのはやた)という部下だけを連れて、夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい、

「南無八幡大菩薩」と唱え、

頼光伝来の弓で矢を、ヒョーと射たところ

ギャー

と黒煙中に手ごたえがあり、

ドサッ

と落ちたところに、猪早太が駆けつけ、9回程喉を刀で突き、止めを刺しました。(絵⑧)

このバケモノ退治の話を近衛天皇に奏上すると、天皇は大層喜び、「獅子王」という名刀を頼政に下賜されたということです。現在この刀は東京国立博物館に重要文化財として保存されています。さすが美しい刀ですね!(写真⑨)

⑨名刀:獅子王

さて、この話はこれだけに終わらず、頼政の教養が如何に高かったかの話もついています。さすが文武両道の頼政。

というのは、この獅子王を頼政に渡したのが、当時の左大臣、藤原頼長。この人物後に悪左府と呼ばれることでも有名です。(絵⑩)

⑩悪左府 藤原頼長

渡す時に、以下の歌の上の句を詠みます。

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

これに対して、頼政、すかさず下の句を返します。

「弓張り月のいるにまかせて」

これは、頼長が「頼政、すごい!まるでホトトギスが空の雲まで名き声を轟かすように、あなたも名をあげましたね」と掛けたのに対して

「いやいや、弓張り月(半月)の方向に適当に射っただけですよ。」と、謙遜する頼政。

「弓張り月」と「弓を張って、月の方向に」という意を重ね、「いる(そこにある)にまかせて」と「射るにまかせて」の意も重ねて、裏の意図を表現しているところに、頼長も近衛天皇も、弓だけでなく歌も上手い上、謙遜する頼政に心酔したとかしないとか(笑)。ちなみに悪左府は男色家。

ただ、現実的な解釈では、頼政はやはり鵺退治と称して、鏑矢(かぶらや)をおまじないとして四方に射たのが実態で、「適当に射た」というのは本当のところのようです。ちなみに鵺の形容と猪早太、これらセットで方角を表すと言われています。つまり、頭が猿=未申(南西)、尻尾が蛇=辰巳(南東)手足が虎=丑寅(北東)、猪早太=戌亥(北西)ということで、猪早太自身創作だという話もあります。この方角へ鏑矢を頼政は射たという訳です。

私の勝手な解釈をします。以下の想像は怒らないで笑い飛ばしてください。

頼長が

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

⇒黒雲(黒煙)の中に居たモノの名は、鵺ではなくて小鳥(ホトトギス)
 だったのではないですか?
 (裏の意:それで名をあげられるとは羨ましいこと。)

と上の句を詠んだことに対し

「弓張り月のいるにまかせて」

⇒ええ、半月の方向(南西)にいたみたいなのでテキトーに射ってみました。
 (裏の意:東三条の藤原邸(東三条は御所から南西の方角)から来るのですか
      ら、頼長さんはやはり正体を小鳥だとご存知でしたか。)

とお互い隠れた歌の応酬で、真実の報告をしたのではないでしょうか。

何分、近衛天皇の健康悪化は悪左府が呪詛したという噂があるくらいなので、藤原邸から鵺であるトラツグミを飛ばしていたかもしれません。

ただ、獅子王を下賜くださるほどの騒ぎになっているのですから、こんな真実報告レベルではなくて、もっと頼政のすばらしさが分かるような解釈にしたのではないかという想像は下衆の勘繰りですね(笑)。

実存するかしないかも分からない猪早太だけを連れて、鵺退治というのも、しっかり退治したという報告を創作するために限定した人たちだけでやったような気がしてなりません。

どう思われますか?

あ、決して頼政を貶めるように考えているわけではありません。もし上記歌のやり取りが本当だとしてもそれはそれですごい歌人には変わりないのですから。

すみません。長くなりすぎたので、あと2つのエピソードも次回、頼政の挙兵時における渡辺党の活躍と一緒に描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【渡辺橋】〒530-0004 大阪府大阪市北区1

【東三条院址(藤原氏邸跡)】〒604-0035 京都府京都市中京区上松屋町

【京都御所】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3