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月曜日

頼朝杉⑬ ~八重姫 その4~

 日本3大敵討ちの1つ、「曾我兄弟の敵討ち」をご存じの方も多いかと存じます。

この敵討ち話の出発点は工藤祐経(くどうすけつね)が、曾我兄弟の実の父・河津祐泰(かわずすけやす)を所領問題により殺害するところから始まります。

ところが、この有名な話と、今まで3回に渡り展開してきた八重姫と頼朝の悲恋話が繋がっているという説があるのをご存じでしょうか?

今回は、この説も含め、その後の八重姫や頼朝の話をしてみたいと思います。

1.直後の八重姫

実は色々な話がありますが、その後の八重姫については良く分かっていません。

現地に伝わる話をもとに書きます。

頼朝を伊豆神社まで追いかけた伊東祐親。頼朝のような流刑人に嫁に出すより、乞食にでもくれてやった方がまし、とまで言った割には、北条一族(家臣?)のような立派な家に八重姫を再婚させたようです。

「曽我物語」では、北条義時(江間小四郎)に八重姫を嫁がせた(再婚させた)という記述があります。

音無神社の隣に最誓寺(さいせいじ)というお寺があります(写真①)。

①最誓寺

このお寺は、この北条義時とされる江間小四郎と八重姫の立願によって、亡き千鶴丸の菩提を弔うために建てられたとされています。建てられた当時は同じ「さいせいじ」でも西成寺との名前だったようです。

ただ、「曽我物語」に出てくる江間小四郎は、実は義時ではないというのが通説です。本堂には、八重姫が奉納したという千鶴丸地蔵菩薩像が安置されています。

その後、八重姫は江間小四郎と仲良く平穏に暮らしたのかと思いきや、やはり違ったようです。

2.眞珠ケ淵

悲しみに暮れる日々を八重姫は過ごしていました。
それはそうですね。ある日突然闇に突き落とされたようなものですから。我が子・千鶴丸が父に殺されたことに納得がいかないのは当然ですが、その怒りの感情を共有できる愛すべき頼朝とも一切コンタクトしていない訳です。

②亀石峠から伊東市方面を臨む
ーきっと頼朝様も私と同じ気持ちでいらっしゃるに違いないー

と彼女が考えてもおかしくはありません。

そしてとうとう治承4年(1180年)7月16日、侍女6人と共に伊東の館を抜け出し、伊豆半島の尾根の1つ、亀石峠を越えて韮山の北条館まで頼朝を訪ねていくのです。(写真②)

この頃、丁度頼朝は旗揚げの1か月前。蛭ヶ小島の流刑人用の館から、北条時政の居城のある守山の北側の館に移り、挙兵にあたり伊豆の各豪族への支援の呼びかけや、作戦を練っておりました。(写真③、地図⑬もご参照ください)

その門を伊東からやってきた八重姫らは叩きます。

八重姫の前に現れたのは安達盛長。彼は伊東での八重姫と頼朝のことはすべて熟知しております。また、比企尼(ひきあま)から言われた通りに、伊東へ頼朝を連れて行ったのは安達盛長だったこともあり、八重姫との混乱の責任を強く感じているのです。

八重姫には可哀そうとは感じていますが、蛮勇ふるって、盛長は冷たく言い放ちます。

③守山の北側にあった頼朝挙兵の館跡

「頼朝殿は既に北条時政公の娘・政子殿と夫婦です。八重姫殿が今更会って何とするのですか。」

挙兵直前のこの時期、政子と娘・大姫は、万が一挙兵が失敗した時のリスクを考え、伊豆山権現(伊豆山神社)へ退避させているので、この場所には居ません。

であるからこそ、今、頼朝と八重姫を合わせては、却って頼朝は八重姫を哀れみ、挙兵に影響があるかもしれません。

盛長としては、八重姫を頼朝に会わせ、頼朝の心を乱す訳には行かないのです。

「そうですか・・・。既に政子殿と・・・。」

力が抜けていった八重姫は、それだけ言うとすごすごと引き下がります。千鶴丸が稚児ケ淵に放り込まれた日から、半幽閉のような生活を強いられていた八重姫は、頼朝が政子と結ばれたという事実すら知らなかったのです。

フラフラと覚束ない足取りになった八重姫。

頼朝が待っていると思い、亀石峠を越えてきた時の足取りとは全然違う様子となってしまいました。

半幽閉をされていた伊東の館を飛び出してきたのです。今更、帰る訳にも行きません。重い足を引きずるように元来た道をうつむきながら八重姫は歩きます。

頼朝がいる館の守山を挟んで丁度反対側(南側)に狩野川が流れている眞珠ケ淵という場所があります。

いきなり八重姫はここで入水します。(写真④)

④眞珠ケ淵から飛び立つ鷺

現在、入水したこの悲劇の場所には、眞珠院というお寺が建っています。

境内には八重姫の供養塔を収めた静(しずか)堂というお堂があります。(写真⑤)

⑤静堂

この2本の那木(なぎ)に挟まれた感じのお堂には、正面に八重姫の木像を安置してあると同時に、悲し気な八重姫の絵がおかれていたのが印象的でした。(写真⑥、絵⑦)
⑥静堂にある八重姫の木像      ⑦静堂内の八重姫画

八重姫は衝動的に入水してしまったのでしょうか?狩野川の流れの渦に巻き込まれている様子を見ていた6人の侍女やこの里の人が後に

「梯子があれば姫を救うことができた」

と云い伝えたようで、このお堂の脇に「梯子供養」なる箇所に、ミニチュアの梯子が沢山奉納されていました。(写真⑧)
⑧梯子供養
※実はお堂内の木像の前にも1つ捧げてある

3.曾我兄弟の敵討ち(日本三大敵討ちの1つ)

さて、一方の頼朝ですが、伊東祐親に初子を殺され、八重姫さえも自殺に追い込まれた状況を「しかたがないこと」として看過していたのでしょうか?
蛭ヶ小島で政子と結ばれのうのうと暮していたのでしょうか?
ここからは私の考えが入りますが、智略に長け、細かなことにも結構しつこい頼朝の性格です。話を簡単には終わらせていないような気がします。

そこで急浮上するのが、曾我兄弟の敵討ちの事始めの部分です。

曾我兄弟の敵討ちは、伊東祐親に所領問題で恨みを抱く工藤祐経が、腹心の部下二人に命じて、祐親の暗殺を謀ったところから始まります。

安元2年(1176年)に、流刑人である頼朝を慰撫するために、相模、伊豆、駿河の武士たちが、伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りを催したのです。

狩りの帰途、工藤祐経は、下田街道を見下ろす椎の大木に二人の部下をスナイパーよろしく、弓矢で木の上から、街道を伊東へ戻る馬上の伊東祐親を狙わせるのです。(写真⑨)
街道を行く祐親に向かい、ヒョーと矢を射る二人。(絵⑩)
⑨伊東祐親を工藤祐経の部下2人が弓で狙った椎の木

⑩下田街道を行く伊東祐親を狙う二人
(現地看板から)

矢は、1本は祐親の指を掠めるだけで当たらず、またもう1本は祐親の後ろを歩いていた嫡男・河津祐泰の急所に当たり、祐泰はその場で落命します。

現在、街道沿いのその場所は、「河津祐泰の血塚(ちづか)」という生々しい塚の名前で残っています。(360°写真⑪)
⑪河津祐泰の血塚
(360度写真)

まさに、この塚の背面の山の上に画面を上げてみてください。その上の方にある木が写真⑨のスナイパーが存在していた椎の木なのです。

この河津祐泰が、工藤祐経を敵討ちする曾我十郎・五郎兄弟の父親であり、この父親の敵討ちを、後年頼朝が主催する毎年恒例の行事・「富士の巻き狩り」中で行うのです。河津姓ではなくて、曾我姓なのは母親が曾我氏と再婚したためですね。

この辺り、同ブログの「いなげや③ ~富士の巻狩り㊤~」から3つ(上・中・下)の話をお読みいただけると嬉しいです。

4.頼朝復讐説

さて、この曾我兄弟が工藤祐経に対し父の敵討ちをすることと、今までお話をしてきた八重姫の悲恋とどう関係があるのかについてお話します。

この富士の巻狩り中に起こった曾我兄弟の敵討ちは、工藤祐経を討ち取った後、曾我の弟・五郎がそこから約1.5㎞離れた頼朝の寝所に乱入し、頼朝をも討ち取ろうとしたのです。(曾我の兄・十郎は工藤祐経の敵討ちの直後、新田四郎という巻狩りに参加していた御家人に殺されました。)

「頼朝公襲撃される」

の報は、その日の昼までには鎌倉へ伝えられ、幕府のある大蔵御所はテンヤワンヤの大騒ぎ。その時に範頼が政子に「鎌倉には私がおりますからご安心ください」との発言が、後に範頼の命取りになる等、頼朝が曾我兄弟に殺されたとの誤報が飛び交う有様だったのです。

では何故曾我兄弟は頼朝公の寝所へ乱入したのか?

色々な説があります。(表⑫)

表⑫ 曾我兄弟が頼朝公寝所へ侵入した理由説
概要内容
説①頼朝への敵討ちの申し開き曾我兄弟の敵討ち自体が、武士としての清廉潔白な行為であることを武士の棟梁である頼朝に訴えたかった。
説②北条時政の陰謀説曾我兄弟の烏帽子親である北条時政が、北条家の安泰のために頼朝暗殺を企画し、兄弟をそそのかして実行しようとした。
(私の上記過去ブログはこれを根拠にしています。)
説③頼朝の伊東祐親への復讐結果に対しての恨み頼朝が工藤祐経を裏から操り、伊東祐親暗殺を企てた。その結果、河津祐泰が死んだことから、河津祐泰の息子・曾我兄弟は、当初から工藤祐経・源頼朝の二人を父の仇として敵討ちを計画した。

曽我兄弟の敵討ちの物語では、所領問題が工藤祐経と伊東祐親の間であり、これが伊東祐親暗殺未遂の引き金を引いたという説が一般的です。

しかし、それだけであれば、なんでわざわざ1.5㎞も離れた頼朝の寝所に曽我の弟は押し入ったのでしょうか?他の説としては、雨の闇夜で道に迷って説もありますが、1.5㎞も離れていますし、あまりに不自然です。

今回私が注目したのは説③です。八重姫との初子・千鶴丸を殺され、有無を言わさず八重姫とも引き裂かれた頼朝が黙っているでしょうか?

この祐親暗殺未遂の時の舞台が「狩り」による「頼朝慰労会」であり、工藤一族と頼朝はこの狩りの時までによしみを通じやすい地理的な位置関係にありました。(地図⑬)
⑬頼朝挙兵時における北伊豆の豪族の状況

伊豆半島の頼朝を支援する地図で明白なのは、やはり伊東氏等、峰々の峠越えをしなければ交流できない東伊豆方面とのコミュニケーションは疎になりがちなのでしょう。
それに比して、狩野川や大見川等、峠の西側地帯は狩野川流域に比較的平な地域が広がり、ここの豪族等とは交流が盛んだったために挙兵時の頼朝支援が多かったようにも思えます。
この辺りの豪族を周旋して廻ったのが、八重姫のこの悲恋話を不憫に思っている頼朝の従者・安達盛長です。

元々、工藤家は頼朝の居た蛭ヶ小島の土地形成に大きく影響を与えた狩野川の地名にもなる名家・狩野氏の一派に属していました。この狩野川の上流「牧之郷」に居を構える狩野・工藤家は「牧」と土地が書かれるように、馬の牧場ということで伊豆半島の名馬を生み出すことも生業にしていたようです。

ご存じのように頼朝は、他の武芸はいざ知らず、馬は好き、かつ得意でしたので、この馬繋がりでも、後に石橋山合戦で戦死する狩野(工藤)茂光やその親戚筋の工藤祐経とも懇意であってもおかしくありません。

となれば

「工藤殿、千鶴丸と八重姫の恨み、なんとか祐親殿に対して晴らして頂けないか?」

と、頼朝が工藤祐経に密かに相談していても不自然ではありません。祐経も所領問題等で祐親を良く思っていないのであれば、頼朝のその言葉で背中を押されるのです。頼朝は祐経の伊東祐親との土地問題による不仲も安達盛長等から聞いていたのでしょう。

そして先の暗殺計画が実行されたのです。暗殺計画は失敗。標的とした伊東祐親は打ち漏らし、代わりに河津祐泰が、その外した流れ矢に当たり死亡。

この話は当時、頼朝が世話になっていた北条時政が知っていたとしたら。そして曽我兄弟が成人して烏帽子親を務めた時政が彼らに真相を全部話をしたとしたら・・・。

全ての筋書きは通りますね。曽我兄弟は、時政から聞いた話を根拠に、富士の巻き狩り中に、工藤祐経だけでなく、祐経を裏で操った頼朝も、その寝所で刺し殺し敵討ちをするつもりだった。(写真⑭)
⑭曾我五郎(弟)が頼朝の寝所
に侵入した狩宿(朝霧高原)

このシナリオだと上記説②との親和性もあります。つまり時政はこの事実を事実として曽我兄弟に伝えるだけで頼朝を暗殺することができるのですから。

真相は分かりませんが、もし八重姫の悲恋が曾我兄弟の敵討ちまで繋がっているとしたら、この事件により死に追いやられた平家討伐時の総大将源範頼(のりより)の死等、この時代の多くの人々にも影響が大きく、人の感情の影響力というものを強く感じさせられる事件です。(写真⑮)

⑮範頼の墓(修善寺)

他にも、八重姫が再婚した江間小四郎は、北条義時とは別人なのか?千鶴丸は実は死んだと見せかけて別の土地で生きていたのか?等々伝承の興味は尽きませんが、一度この辺りで八重姫の物語は筆を置きたいと存じます。

長文、ご精読ありがとうございました。

《つづく》




土曜日

頼朝杉⑫ ~八重姫 その3~

さて前回、逢瀬を重ねる頼朝と八重姫の間には千鶴丸という男の子が生まれます。頼朝も初子であり、とても喜んだという話を書きました。(絵①)

①千鶴丸を愛おしむ頼朝と八重姫
(音無神社蔵)

今回はその続きからです。

1.北条義時の画策

当時小四郎と名乗る北条義時は、大番役で京に上る父・時政に言います。

「父上、京で祐親殿にお会いしたら、是非お伝え頂きたいことがございます。」

「なんじゃ?小四郎」

「伊豆守・源仲綱(なかつな)殿に対し、中央(平家)から謀反の兆しがないかしっかり見張るよう勅書が出ております。仲綱殿は5年前のあの伊豆の大不作時、朝廷に献じる五節舞の舞姫の費用が出せない、中止するしかないと請文を出して以来、色々と中央に対する文句が多いようです。」

「まあ、仲綱殿は元々文句言いな性格でもあるからな。ああいう御仁は上から目を付けられやすい。御父上の頼政殿は中央で上手にやっておるがの。でもそんなことは祐親殿にわざわざ京で話すことでもあるまい。」

「いえ、それだけなら良いのですが、最近、こちらから伊東殿のところに行った頼朝殿。なかなか帰ってきません。もしかするとこれは我々の監視下を離れ、祐親殿が大番役で京に上っている最中に、頼朝殿は仲綱殿と共謀しているのではないかと噂されております。しかも、」

小四郎は続けます。

「頼朝殿は何とか伊東一族も巻き添えにしようと画策しているのではないか、と隣国駿河守の長田入道(忠致:ただむね、頼朝の父・義朝を名古屋でだまし討ちにした)が疑っているという噂を聞きました。勿論噂の域を出ませんから、放置しても良いのですが、実は祐親のご子息である河津祐泰(かわずすけやす)殿が長田入道殿のところに行った時に、『頼朝殿は、うちの祐清や妹たちと非常に仲が良い』と話したことで、そのように疑いをもたれたようです。まあ、長田入道殿のことですから、頼朝殿が伊東殿や我々等の在官庁人と仲良くなること自体がお気に召さないのかもしれませんが。」

「ほう、ならば伊東祐親殿には一言忠告しておいた方が良いかもしれんな。頼朝殿には気をつけろと。」

「はい。よろしくお願いします。」

小四郎は、心の中でニヤリとします。長田入道が疑っているというのは小四郎の作り話です。しかし、これが後になって効いてくるのです。

2.祐親の怒り

大番役の役目を果たし、京から伊東へ戻る伊東祐親。

戻る直前、京で久しぶりに会った時政の忠告が頭をよぎります。

ー長田入道は義朝殿をだまし討ちにしてから河内源氏である頼朝殿の復讐を恐れているのじゃろう。杞憂、杞憂。ただ、頼朝殿もなんでワシが京に行っている間、ずーっと伊東におるのじゃ。ワシが京へ上がれば、北の御所から早々に韮山・蛭ヶ小島に戻られると思ったのに3年近くもおるのは不自然じゃ。ー

といううちに伊東の館へ戻ってきた祐親。戻ってから3日間は、3年ぶりに京から戻ってきた主(あるじ)の祝い続きでしたので、頼朝のことなど忘れてしまいました。

②松川(伊東大川)のこの辺りで
柴漬けにして祐親らは上流へ
ある日の夕方、祐親は館の庭の築山に、一人で遊んでいる幼子を見かけます。

「あの子は?」

と妻に問いかけます。

この子は千鶴丸です。この時、既に2歳になっています。

勿論、逢瀬と千鶴丸の出産については、祐親は何も聞かされていません。

祐親に言おうか言うまいか迷っていた妻は、ままよ とばかりに

「頼朝殿と八重の子です。あなたの孫ですよ。」

と告げたのです。

しばらく意味が良く呑み込めず、茫然と遊んでいるその子を見ている祐親。

はっと、北条時政の忠告が頭の中を過ぎります。頼朝が3年近くも伊東にいるのはこのせいか!長田入道をはじめ、四囲では既に噂になっているのだろう。知らぬは俺ばかりという訳か!源氏に嵌(は)められた!

そして、はげしい勢いで妻に言います。

「娘の数が多すぎて、行き場が無ければ、乞食にでもくれてやるが、この時分に大罪人である源氏の流人を婿にするとは、なんたる不行き届き。もし平家に見咎められたらなんとするのか!仇の子は殺すのが古今云われていることだ!」

③火牟須比神社の橘
言い終わるや否や、すぐに近くの郎党に向かって「直ぐに兵を集めよ!」と下知します。

築山で遊んでいた千鶴丸を無理に抱え込むと、嫌がり泣き叫ぶ孫を無理やり抱えて馬に乗り、音無神社の横を流れる松川(現・伊東大川)のほとりまで出ます。

3.橘の枝を持たせ急流に投げ込む

そこに集まった兵に千鶴丸を柴漬け(柴で体を覆い、簀巻き状態にすること)にさせます。

そしてモノのようにそれを馬に括り付け、松川上流に走るのです。(写真②)

ところが、簀巻きにされた千鶴丸があまりに泣き叫ぶのに流石の祐親も辟易しました。

途中、火牟須比神社(ほむすびじんじゃ)という場所を通りかかると、境内の橘の花の良い匂いが漂ってきました。ご存知のように橘の香りは鎮静効果があります。
そこで祐親はこの橘の花の付いた枝を2つ折ると、千鶴丸の幼い手に持たせました。

すると不思議なことに千鶴丸はピタッと泣き叫ぶのを止めたのです。(写真③)

そこから更に半里(2㎞弱)程行くと、松川からかなり高さのある崖に出ました。

この辺りは付近の
大室山という伊豆の名物火山の溶岩が成した地形であり、松川もかなり急流になっています。

「このあたりでよかろう」

なんと、ここで
柴漬けの千鶴丸を川底へ投げ込んでしまうのです。(絵④)
④柴漬けの千鶴丸を川へ投げ込む
伊東祐親(音無神社境内絵)

酷い話ですね。私もこの現場に行ってきました。
稚児ケ淵の入り口は川面からかなり高い位置にあり、⑤の看板が立っています。(写真⑤)

⑤稚児ケ淵入口に立つ看板

下流では、②の写真のように穏やかな松川も稚児ケ淵の辺りはかなり急流となっています。(写真⑥)

⑥千鶴丸が投げ入れられた場所

看板のある場所から、川面へと降りていく山道、驚いたことに⑦のような沢蟹が、沢山いました。足元を見ていないと踏み潰しそうになるくらい沢山の沢蟹です。

蟹たちは、まるでこの川に投げ込まれて死んでいった千鶴丸の小さな骨から生まれてきたようです。(写真⑦)

⑦沢山いる沢蟹

4.富戸三島神社の橘

この東伊豆には千鶴丸の伝承は沢山残っています。

先程、この稚児ケ淵に来る途中、火牟須比神社の神木である橘の枝を、千鶴丸の両の手に持たせた話をしました。

この小枝、実は他の土地でしっかり根付くのです。

柴漬にされた千鶴丸は川に落とされると落命し、その遺体は松川を流れ下ります。途中音無神社の横も流れ下っていったのでしょう。約4km流れた先の海に流れ出た遺体はそのまま、伊豆半島の湾岸流にのり、約10km、川奈沖等を経由して、伊豆半島の西海岸にある富戸の宇根という海岸に流れ着きました。

そしてこの地域の住人が千鶴丸の遺体を見つけ、現在の富戸三島神社に葬ったと言います。(写真⑧)

⑧千鶴丸を葬った富戸三島神社

この時、千鶴丸が握っていた橘の小枝を、この神社の土に挿したところ、見事に根付いたのです。富戸の人たちは、「この幼子の生きたかったという思念が、この橘に移ったに違いない。」と噂し合ったと言われています。(写真⑨)

⑨富戸三島神社の橘
この富戸三島神社の橘は、前述の火牟須比神社の神木・橘の挿し木であることから、この2つの橘は「おとどい(兄弟)」の橘と言われているそうです。「おとどい」は方言ですね。この言い方は伊豆だけではないようですけど。

5.伊東祐清(すけきよ)の助け

話を、千鶴丸を川へ放り入れた直後に戻します。

伊東祐親は自分の孫を殺すという、人非人的な行動をせざるを得なかったことに対する悲しみも手伝って、今回の事態を引き起こした頼朝を激しく憎みます。

「おのれ頼朝!流刑人の分際で八重をたぶらかすとは! 目にもの見せてくれん!」

といきり立つ祐親。稚児ケ淵から直接、兵とともに、頼朝のいる「北の御所」に急行するのです。

一刻後、松明を持った30の兵で「北の御所」を取り囲んだ祐親。

「頼朝!出てこい!よくも八重をたぶらかしたな。」

と大声で叫びます。

ところが、シンとした北の御所は、頼朝はおろか、人っ子一人気配はありません。

◆ ◇ ◆ ◇

この少し前に、祐親とその妻の会話のやり取りを見ていた祐親の次男・祐清が、頼朝の身の危険を察知して、「北の御所」の頼朝のもとに走ったのです。

「何、伊東入道殿(祐親)が激怒とな。」

「はい、残念ながら千鶴丸はもう駄目でしょう。頼朝殿もここに居ては危険です。恐れながら、私から隣の北条宗時殿(義時の嫡男・この時時政は京へ大番役として出ているため)には早馬を飛ばし、頼朝殿の受け入れを依頼しております。宗時殿の受け入れが整うまで、どうか伊豆山権現へお隠れください。」

「うむ、よろしく頼む」

ということで、頼朝は祐清らと一緒に、北へ馬を走らせ、熱海の海際に迫った山の中にある伊豆山権現に逃げ込むのです。(写真⑩)

⑩伊豆山権現(伊豆山神社)

6.伊豆山権現

伊豆山神社に逃げ込んだ頼朝。当時の伊豆山神社は伊豆山権現と言われ、広大な領地と多くの僧兵をかかえ、他人が足を踏み入れるのを赦さない構えを見せているのです。

伊豆山権現に頼朝が匿われたのは、ここが、祐清や隣の土地の土肥実平(さねひら)らと関係が深かったこと。また頼朝自身も、これら伊豆から箱根、相模の国にかけての豪族らと関係を築いていたこともあるのです。兎に角、祐親がどんなに地団駄踏んでも、伊豆山権現の神域まで追手を侵入させることはできないのでした。

そしてこの後、頼朝は無事蛭ヶ小島での流刑人生活へと戻るのです。この時、頼朝を祐親の魔の手から守るために、先の伊東祐清や北条時政のところの小四郎が腐心したとの説もあります。

7.その後のお話は・・・

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも多分、祐清は八重姫の心優しいお兄さん。小四郎(義時)は八重姫に対して憧憬を抱く(初恋という噂も)思春期の男の子として描かれるという噂です。
どんな話が展開するのか楽しみですね。

ただ、八重姫と頼朝の話は、実はまだここまでで半分です。
その後の八重姫の話や、あの有名な曾我兄弟の敵討ちに至るまでのエピソード、そして北条義時や安達盛長の関わりを、次回ざっとさせて頂ければと存じます。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【火牟須比神社の橘】〒414-0054 静岡県伊東市鎌田751
伊豆山権現(伊豆山神社)〒413-0002 静岡県熱海市伊豆山708−1

火曜日

頼朝杉⑪ ~八重姫 その2~

大番役として京へ出向く伊東祐親(すけちか)へ現地の雑説(情報)を入れて欲しいと息子の伊東祐清(すけきよ)から依頼された頼朝。安達盛長と祐親の館(現在の伊東市)に到着する直前、音無神社の森で頼朝らを迎えに来た祐親や妹たちに会います。
その妹の中でも、一番の器量良しの八重姫に頼朝は一目惚れします。

即、頼朝は八重姫にアプローチします。館に招かれたその日の夕暮れに音無神社で待つと八重姫の耳元で囁くのです。

咄嗟のことに八重姫は戸惑います。しかし夕刻、八重姫は頼朝が音無神社に居ないでくれと願いながらも、音無神社に向かうのでした。

今回は、この続きからです。

1.音無神社

音無神社のある伊東は非常に温暖な地であり、東南アジア等に多く植生するというタブの木が境内に沢山あるのです。

この地がいかに温かく過ごしやすい土地なのかを示しています。(360度写真①)

①音無神社境内(360度写真)

ここで頼朝は既に半刻も前からじっとしておりました。

近くの松川から飛んでくる蛍の光は宵に向かうにつれ、その数を徐々に増していき、頼朝の横を通り過ぎて、タブの大木の元へと飛んでいくのです。

それはまるで、このタブの大木が、太古の昔から蛍の逢瀬の場所のような、そんな幻想的な景色でした。

頼朝はタブの幹に近づき、蛍が集まる場所をのぞき込んでいました。
小さな蛍が、沢山と幹の洞(うろ)の中に集まっています。(写真②)
②音無神社のタブの木の洞と蛍光

ふと背後に
気配を感じた頼朝が振り向くと八重姫がいました。少し離れたところで、頼朝の方に近づいてくるわけでもなく、所在無く立っています。

「こっちに来て!」

頼朝は笑顔で八重姫に話しかけます。彼女は頼朝の顔を真っすぐに見ようとはしません。

ただ、おずおずとタブの幹の前の頼朝の横に来て、しゃがみこむのです。

先ほど、ここに来るまでは、積極的に声を掛けてくる頼朝に対し、気恥ずかしいやら、なれなれしくて嫌だなとかいろいろな感情が複雑に入り乱れていました。音無神社で待っているなんて冗談であってほしいと願いながらも、家人たちに嘘をついてまでここまで来てしまった自分が良く分からない八重姫でした。
③音無神社での出会い
(音無神社展示絵)

「ここにね。沢山蛍が集まっているでしょう。ほら、ここにパッ、パッと光を放つ蛍がいる、これがオスです。で、多分、こっちのジッとしているのがメス。見ててください。」
「ほら!今、メスのお尻が1回だけ弱く光ったのが見えましたか?これオスの求愛を受け入れたっていう意思表示なんですよ。」
「あ、こっちも今何回か光りました。お相手は・・・。こいつかな?あ、尻が光ました。受け入れたんですね!」

としゃべり続ける頼朝。八重は洞の光に照らし出された頼朝の横顔を見ることができるようになったのは、もっと大人のアプローチをしてくるのかと思った頼朝が、既に20代後半にしてまるで少年のように蛍の観察に熱中していることに安心したからなのです。

ー意外と純粋な方なのかしらー

松川の対岸にある田んぼから、蛙の合唱が先ほどよりひと際大きくなり、それが夏の夜の到来を感じます。

「ずっと離さない・・・」
④積極的にアプローチする頼朝
(音無神社展示絵)

ーえっ!ー

八重はハッとして頼朝の顔を見上げますが、彼はまだ、先ほどの蛍を見つめています。

グォー、グォー

急に自分たちの足元で牛の鳴き声のような低い響き声がしました。

「あははは!」

雰囲気が一気にそのユーモラスな声で崩れました。ヒキガエルの鳴き声にビックリする八重姫。大笑いする頼朝。

「さて、これからの夜の宴です。祐親殿が準備してくださっています。戻らねば。今日は、ここに来てくれてありがとうございます。」

八重は一気に緊張が溶けると同時に、少し物足りないような、自分でも良く分からない感情のわだかまりみたいなものを感じます。

「蛍はね。私の住んでいる狩野川の流域にも沢山いるんです。私は好きで、毎年彼らを観察しているのですよ。でね。こうやって交尾を始めると、雄は雌を朝まで離さないんです。」

ーさっき「離さない」と言いかけたのは、この蛍のことだったのー

八重は段々気恥ずかしくなってきました。自分ばかりが何か変な事ばかり早合点していたのかと。

「明日もまたここで待っています。」

「・・・」

このお方、なんのためにここで私を待つのだろう?

2.北の御所
⑤「北の御所」推定地域等

翌日も八重はまた葛藤します。待っていると言っても、何をするわけでもなく蛍談義をされるだけ?あの人いつまでこの伊東にいらっしゃるのかしら?なんか密かに音無神社に行くみたいで家人に見つかったら恥ずかしい。どうしよう。行こうか、やめようか。

結局、またそっと館を抜け出して八重姫は音無神社へ向かいます。

この日、頼朝は嬉しそうに八重姫に話をしたのは、祐親殿が自分を気に入ってくれ、是非この伊東の地にしばらく逗留して欲しいと言われたとの話でした。

祐親の大番役の役務開始は、3か月後なのですが、祐親は頼朝と話をしているうちに、早めて1か月以内に出発することにしました。

というのは、頼朝はある助言を祐親にしたのです。

京に大番役で行くなら、お役目開始より早い時期から貴族たちと交友を深め、周旋活動をしておいた方が良い官位獲得の可能性が開けるとアドバイスをしました。

当時、地方の武士たちは京の院や天皇、摂関家等の警護役である大番役に赴くことの見返りに官位を貰い在庁官人として、朝廷や有力貴族らの権威をバックにすることができるというギブテクがあったのです。

そのため、役についてから、あまり目立ったことをするより、役務期間に入る前に賂(まいない)含め色々と気遣いをした方が良いだろうと、頼朝が伝えると

「流石は佐殿。上西門院殿の蔵人(くろうど)だったことはある。」

と祐親は感心してしまい、早々に京へ発つ準備をするので、その間、伊東に滞在して、細々した諸雑に関し教えて欲しいということになったという話でした。
⑥「北の御所」は伊東駅周辺?

一応、頼朝は貴人ではあるものの、流刑人であることから、監視役とは離れて暮らす習わしがあるのです。ですので、祐親は祐親の館とは谷を挟んで対面にある離れの館を頼朝に当てがいます。

ここが、現在の伊東市の北側斜面にあたる(祐親の館は南斜面)ため、「北の御所」と呼ばれるようになるのです。

現在、北の御所の場所は特定されておりませんが、伊東駅周辺だったのではないか?またはそれより少し山側へ上がった松月院のあたりではないか?等の伝承があります。(地図⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

私も現地に行って、「北の御所」の推定場所の辺りを見て廻りました。(写真⑥)

地図⑤の点線に囲まれた辺りなのですが、伊東駅より少し北側斜面を上がったところにある松月院。(写真⑦)

⑦松月院からの眺め
音無神社や伊東祐親の館のあった物見塚公園方面も良く見える場所です。

この寺院もかつては伊東駅の方にあったということなので、もしかしたらやはり御所自体はもう少し標高が低い現在の市街地に近いところにあったのかもしれません。

いずれにせよ、伊豆蛭ヶ小島も北条時政の館から少し離れたところにあり、館のすぐ近くの守山から頼朝の館が監視できたのと同様に、「北の御所」も伊東祐親の館から少し離れた場所で、かつ監視しやすいところにあったのではないかと松月院からの景色を見ながら私は思いました。

3.日暮(八幡)神社

こうやって、連続して頼朝と八重姫は音無神社で日暮れになると会い、段々と少しづつ自身の話や日常を話していくことで、心を開きあうのです。

最初は、頼朝に会うことに非常に抵抗を感じていた八重姫も、彼と何度も会ううちに、単に自分が異性を過剰に意識していただけと思うようになりました。

今は、松川からの川風に吹かれながら、夏の夜を音無神社のタブの木の幹に腰かけて頼朝と話をするのが楽しい。頼朝も同じようです。

ただ、時々祐親から呼び出されて、相談に行く頼朝は、段々と自分の北の御所まで戻らなくなりました。

音無神社のすぐ西隣、田んぼの中に小さな社がありました。そこに馬を繋ぎ、中で日が暮れるまで待つのです。

⑧日暮神社
そして、この社で日暮れを待つという慣習は、伊東祐親が京に向かって出発すると殆ど毎日のこととなりました。

いつしか、土地の人は、この名前も無かった社を、頼朝が日暮れの八重姫との音無神社での逢瀬を楽しむために待機していた場所であることから

日暮神社(日暮八幡神社)

と呼ぶようになったのです。(写真⑧)

4.八重姫の懐妊

しかし、男女のことは、心開きあえば開きあう程、接近するのは古今東西変わりません。

伊東祐親が京に大番役として上った後も、祐親が頼朝に「佐殿は、このまま幾らでも、この伊東にご逗留くださって結構です。北の御所は私が留守中も使ってくださって結構。」と云われたことから、逗留し続けます。

夜になると音無神社で八重姫と逢瀬を重ねる日々。(写真⑨)
⑨松川の脇にある音無の森(音無神社)

何日も頼朝が通いつづける様子は、まるで蛍のオスが何度も何度も光をメスに向けて点滅させるのに似ています。そしてとうとう八重姫もメスの蛍のように、一度限りの光の点滅・受け入れ了解の意思表示をするのです。

その後、頼朝蛍は八重姫蛍を長いこと離しませんでした。

◆ ◇ ◆ ◇

日暮れを、近くの日暮神社で幾ら人目を忍んで待機しようと、人の多くないこの地方のことですから、噂は直ぐに人々の間を駆け巡ります。

安達盛長はこの時、時々伊豆の北条の里から、この北の御所を訪ね、頼朝から近況を聞き、北条時政や函南に住む比企尼(ひきあま)に状況を報告していました。(図⑩参照)

比企尼は自分の思惑通りのこの状況を殊の外喜んでいます。
思惑とは

①頼朝殿が伊東祐親という伊豆の実力者に気に入られ、その娘を妻とすることで後ろ盾を得る。

⑩頼朝と八重姫を巡る人たち(再掲)
②妻ができることで、安達盛長の妻・丹後内侍(たんごないし)に余計なちょっかいを出さなくなる。

の2つです。

ただ、実はこの時、北条一族は、このことを面白く感じてはいませんでした。

幾ら流刑人であると言っても、頼朝は源氏の正統な嫡男です。かれが一時的だろうとはいえ、伊東祐親の元にいってしまい、その土地が気に入ること自体、いい気はしません。

殊に、北条一族の長・時政の息子・小四郎(後の義時)が一番気にしていましたが、当時の彼はまだ13歳。伊東家の姫様方にかわいがってもらった過去の経験から、八重姫を頼朝公に取られてしまったことに嫉妬してのことだろうと、周りは噂をしておりました。

そうこうするうちに、1年経ちました。

するとどうでしょう。八重姫は頼朝の子供を宿しているのです。

5.千鶴丸誕生

生まれた子供は、男の子で千鶴丸と名付けられました。(絵⑪)

⑪千鶴丸の誕生
(音無神社展示絵)
無事出産できたのは、この前回も出てきた八重姫の兄・祐清(すけきよ)が全面的に頼朝と八重姫の仲を取り持ち、支援してきたおかげです。

頼朝、初めての子供です。かわいくて仕方がありません。

しかも男の子。比企尼の作戦でいけば、この子の祖父となる伊東祐親に頼朝の支援を頼み、後ろ盾をしっかりしたいところです。

ところが、この時、小四郎こと後の北条義時が、何故かそうはさせじと画策します。彼は伊東祐親と交代で大番役に京へ出向く父・時政に一言お願いをするのです。

伊東祐親が大番役として京へ行ってから、早いもので3年が経とうとしていました。

長くなりましたので、続きは次回。ご精読ありがとうございました。

                               《続く》

【音無神社】〒414-0032 静岡県伊東市音無町1−13
【物見塚公園(伊東祐親館跡)】〒414-0046 静岡県伊東市大原2丁目80−1
【松月院】〒414-0002 静岡県伊東市湯川377
【日暮(八幡)神社】〒414-0013 静岡県伊東市桜木町1丁目2−10


月曜日

頼朝杉⑩ ~八重姫 その1~

 前回、院宣を頼朝に渡した文覚。頼朝は文覚に一人の従者を紹介します。

安達盛長(あだち もりなが)です。

①八重姫
今回は、この盛長の伊豆での過去の活動の1つ、八重姫に関するエピソードをお話ししたいと思います。(写真①)

1.比丘尼の策略

頼朝の乳母である比企尼(ひきあま)は、一時、伊豆に流された頼朝の近く、函南の大竹地区に庵を結んで住んでいました。頼朝の乳母であったことから、13歳の頼朝が伊豆に流される時には、それまでいた京の都を立ち去り、出身である武蔵国・比企のに里帰りしていたのです。そして比企の里から時々伊豆の大竹の庵にやってきては、頼朝に実家の私財から作った金子(きんす)等を渡すことで、頼朝をバックアップしていたのです。

やはり乳母として頼朝が心配だったからでしょうか。いえいえそれだけでは無いのです。

当時、乳母は重要なポストで、この役をなす一族は、乳母が育てる子供が政権を取った時に非常に力を持つこととなっていました。

比企一族を代表している。比企一族の将来の繁栄のため、頼朝殿を流刑人止まりで終わらせてなるものか。

比企尼を駆り立てていたのは、この一族繁栄のためだったのです。

◆ ◇ ◆ ◇

比企尼には3人の美人娘がおりました。長女は丹後内侍(たんごないし)と言って、それはそれは比企尼も自慢の美人で教養高い娘でした。母である比企尼の話を良く聞き、常に慎ましやかな女性だったようです。(図②)

②頼朝と八重姫を巡る人たち

丹後内侍はこの安達盛長の妻となります。ただし、彼女は初婚ではありません。

初婚は惟宗広言(これむね の ひろこと)という歌人で、丹後内侍自身も「無双の歌人」と言われた程の方なので、教養高い歌で繋がりを持ったということですね。

惟宗(島津)忠久という嫡男を産むのですが、広言の子供ではなく、頼朝と通じていたことにより生まれたという説があります。この忠久が薩摩・島津家の祖であることから、島津家の始祖は頼朝という説は結構有名です。

更には、この安達盛長との間にできた子・景盛も、実は頼朝の落胤であるという説もあるのです。

どちらも説ではありますが、頼朝が丹後内侍に子を産ませた話が、2つもあることから、少なくとも頼朝が丹後内侍に異性として興味を持っていた可能性はかなり高そうです。

そうなると比企尼はやはりいろいろと心配になるはず。

まず噂のある娘を貰ってくれた安達盛長に申し訳がない。

そこで比企尼は、頼朝を丹後内侍以外の女性に目を向けるように画策するのです。

ー伊豆にいる頼朝の周辺に良い女子(おなご)はおらんかー

③伊豆・函南の高源寺にある
比企尼の供養塔
早速、伊豆は伊東市の豪族・伊東祐親(すけちか)の次男・伊東祐清(すけきよ)に嫁いだ三女に「誰か見目麗しく頼朝殿が好みそうな女子はおらんかのぅ?」と相談します。

すると三女

「母上、あの方はどうかしら?夫・祐清殿の妹さん、八重姫と申す方、この上なく美人で清純な感じの方ですわ。」

ーそれだ!ー

と膝を叩く比企尼。先に申し上げましたように丹後内侍に興味を持つ頼朝にも困ったと思いつつ、比企尼は同時に優れた戦略家でもあったため、乳母として将来の頼朝の挙兵を戦略的にどう進めるべきか頭を悩ましていました。そして一つの結論として、やはり伊豆の豪族の娘を頼朝が妻として貰い、その豪族の後ろ盾で挙兵するしかない、と考えていたのです。

伊豆の豪族、これは在庁官人の伊東祐親、北条時政であり、この二人をターゲティングしていた比企尼としては、三女が持ってきた八重姫の話はまさに、この戦略にも合っているのです。(写真④)

2.伊東への遠駆け

早速、安達盛長に使いを出し、頼朝たちの住む伊豆蛭ヶ小島から2里離れた大竹(現在の函南駅近く)の比企尼の庵に呼び出します。

やってきた安達盛長に比企尼は言います。

「安達殿、先日、わが三女が旦那の伊東祐清殿とわらわのところに来られての。色々とわらわに京の様子等を聞きたがるのですじゃ。何故かって?どうやら祐清殿の御父上・祐親殿が今度大番役(おおばんやく 京の内裏や院御所の諸門の警固役)で京へ出仕されるとのこと。

ところが、わらわも佐殿(すけどの、頼朝のこと)がこちらの伊豆に流されるとほぼ同時期に武蔵の比企の里(埼玉県比企郡)に里帰りして以来十数年、京の雑説(情報)はとんと疎遠ですのじゃ。

④伊東一族館跡(物見塚公園)
にある伊東祐親像

ただ、わらわは、京にいる甥の三善(みよし)康信殿に、佐殿には京の雑説を常に入れるよう指示しておりますのじゃ。文が届いておりませんかの?安達殿。」

「三善殿から月に3回は文が届きますなあ。お義母様の差し金だったのですね。頼朝殿も『康信の文は大したものだ。入道相国(平清盛のこと)が何をしているのかが手に取るように分かる』と感心しておりました。」

「ですじゃろ?あの甥っ子は真面目ないい子じゃ。そこでな安達殿。一度、うちの三女が、安達殿と佐殿を伊東のお館にお招きしたいとのことですのじゃ。義父・伊東祐親殿へ佐殿からたっぷりと京の情勢をお聞きかせ頂きたいとのことですのじゃ。佐殿は遠駆けがお好きとのこと、是非一度伊東まで行かれるとよい。北条の里や奈古谷とは違った趣のある海と温泉のあるところとのこと。」

流刑人となった頼朝ですが、彼の自由行動範囲は在庁官人の北条時政の領分だけではなく、お隣の伊東祐親の領分も行き来できたようです。一説には頼朝が当初流されたのは、伊豆蛭ヶ小島ではなく、伊東祐親が領分、現在の伊東市だったという説もあるくらいです。

安達盛長がその話を、頼朝にすると直ぐに「よし伊東に遠駆けに行こう!」という話になりました。読経の毎日の中で、頼朝は馬に乗ることだけが唯一の楽しみと言っても過言ではなかったのです。

⑤滝知山から相模湾を臨む
頼朝の住む伊豆蛭ヶ小島から現在の伊東市にある伊東一族の屋敷まではざっと9里(36km)。

馬の遠駆けで半日はかかる行程ですが、北条時政の領分より遠方へ出かけられることに頼朝と盛長はいつもの遠駆けよりも解放感を感じていました。

函南とは「箱(函)根の南」という意味で、箱根火山の南側の外輪山を指します。そこを二人は東へ東へと馬を走らせます。ちょうど伊豆半島と本土との接合部分であり、細くくびれているので4里程行くと、朝日にきらめく相模湾を一望できる滝知山(たきちやま)という峠を越えます。(写真⑤)

「おお、相模湾だ!」

実は、この移動経路は、この後、頼朝が挙兵直後に、関東平野へ出て三浦一族と合流しようとして大庭軍とぶつかる石橋山合戦でも使われるルートです。伊豆山権現への往来等、頻繁に利用する道なのですが、この峠で見る景色(相模湾側と駿河湾側双方、更には富士山の眺望もすばらしい)は何度見ても頼朝は感心してしまうのです。

3.音無の森

現在の熱海の辺りで相模湾に出た二人は、そのまま海岸伝いに網代(あじろ)を通り、伊東へ馬を走らせます。

◆ ◇ ◆ ◇

伊東の丘の上(現在の物見塚公園)に、伊東祐親の館を視認できたので、一刻程(約2時間)馬を駆けさせた二人は、この手前の川(松川)で、愛馬に水をやり、身だしなみを整え、伊東祐清に会う準備をします。次回解説しますが、この辺りはのちに日暮八幡という小さな社ができ、頼朝との関係が深い場所となりました。

対岸に音無という土地があり、社(やしろ)の森となっていました。(写真⑥)

⑥松川の対岸にある音無の森
その森から時々笑い声が聞こえます。複数の女子のようです。鬱蒼と暗い社がパッと華やかな雰囲気となった感じがします。

ーなんだろう?ー

頼朝と盛長は、対岸の森を気にしながらも、水をたっぷり飲んで元気を取り戻した馬の手綱を引きながら、ゆっくりと松川の浅瀬を渡ります。そして、その森の横で再び馬に乗り、祐親の館へと向かおうとします。


とその時、

「これはこれは、佐殿と安達殿。遠路はるばる。そろそろ到着する頃かと思い、館の手前のこの橋でお待ちしておりました。妹たちと。」

と言って森から出てきた武士がいます。

「おお、祐清殿。お迎え痛み入ります。」

と盛長が馬から降り、挨拶を交わすと

⑦音無の森にある竹あかり
(蛍の光のように日中でも見える)
「お義兄様」と祐清の妻となっている盛長の義妹が、小袖姿で祐清の後ろから出てきたのに盛長は少々驚きました。もっと驚いたのが、更に三人、若い女性たちが同じ小袖姿で現れたことでした。

「あ、紹介します。こちら妹の松、さき、そして八重です。」

「安達盛長と申します。こちらが源氏の御曹司・頼朝殿です。」

「頼朝です。よろしく。」と紹介されて挨拶する頼朝が、三姉妹の中で一番可愛らしい八重に目がいくのが盛長にも祐清にも良く分かります。

ー全然隠し立てしない・・・流石は良いとこのお坊ちゃんだー

と思いましたが、盛長は

「して、これは賑やかなお迎えですなあ。」

「あ、実はこの松川は今の時期になると蛍が出るのです。普段、蛍は夜に飛びますが、この森は日中でも薄暗く蛍も夜と間違えてフラフラと飛ぶという噂がありましてな。私がお迎えに行くというと妻が、是非妹たちに一度それを見せてあげなさいというので連れてきたのですよ。」

と祐清は笑いながら答えます。(写真⑦)

4.音無神社

祐清夫婦・伊東一族の三姉妹と、頼朝・盛長の7人は、ワイのワイの打ち解けながら、一緒に祐親の館に向かいます。

⑧伊東祐親の館から伊東湊を臨む
この時も、頼朝は、姉妹3人に公平に接しているようで、ちゃんと八重姫には姫本人も気づかないようなモーションを掛けているのが、盛長には分かりました。

さて、祐親の館は伊東の湊が一望できる眺望の良い場所に建っています。(写真⑧)

勿論、有事の際には、周囲の敵情が分かりやすいという利点もありますし、先ほど渡ってきた松川を外堀とした防御砦としての機能を果たせるような場所を選んでいるのです。

「父上、佐殿が参りましたぞ!」

と屋敷の玄関先で祐清が奥に呼びかけます。

とその時、八重の近くにいた頼朝は、サッと小さな声で八重の耳元に呟きます。

「日が暮れましたら、先ほどの社で。」

◆ ◇ ◆ ◇

すぐに使用人が飛び出してきて馬を預かり、足を洗い、忙しく頼朝と盛長の世話を始めます。

「八重、八重!」

ふっと八重は意識が戻りました。祐清兄や頼朝らを玄関奥に見送った後、それぞれの部屋に戻ろうとしている姉たちが、八重がボーっと立っていたので心配したのです。

「あ、はい、八重も戻ります。」

ー困った!ー

部屋に戻ると八重は畳に突っ伏します。

ー日暮れ時ってあと二刻半!(3時間)ー
ーどうしよう!ー

貴公子然とした風貌、さすが京の精錬された世界で生きてきた高貴な出、およそこの辺りの東夷(あずまえびす)には見られない貴公子ぶりは、八重でなくても初見では、大方の女子が好印象を持ちます。

⑨音無神社
二刻半経ちました。外は夕暮れが終わりかけています。まだピクリともしないで突っ伏したままの八重姫。

にわかに起き上がると、縁側から庭に飛び出します。

「姫様!どちらへ?」

小走りに館を出ようとする八重姫を、薄暗くても見つけた侍女が後ろから叫びます。

⑩蛍の群生をイメージさせる音無神社の
竹あかり
(写真提供:伊東市観光課)
「ちょっと先ほどの音無神社に忘れ物をしました!取ってきます!」

この時代の深窓の令嬢である八重姫。これはかなり勇気のいる行動でした。

音無の森が近づくと八重姫の心臓はバクバクしてきました。

ーお願い!居ないで!ー

周囲には昼間少ししかいなかった蛍が、松川から群れを成して飛んできたのでしょうか。音無神社へ続く道は蛍の光で煌々としています。(写真⑩)

続きは次回とさせてください。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【高源寺(比企尼供養塔)】〒419-0101 静岡県田方郡函南町桑原1265
【滝知山】〒413-0033 静岡県熱海市熱海
【物見塚公園】〒414-0046 静岡県伊東市大原2丁目80−1
【日暮八幡神社】〒414-0013 静岡県伊東市桜木町1丁目2−10
【音無神社】〒414-0032 静岡県伊東市音無町1−13