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土曜日

頼朝杉⑯ ~競のリベンジ~

前回、以仁王が父・後白河法皇の軟禁に猛烈に反発して清盛追討の令旨を発出。この令旨は伊豆の頼朝のところにも届きます。

この令旨を発出し平家に反旗を翻すにあたり、以仁王が頼りにしたのが源頼政です。
清盛によって源氏の中では三位という高位に就かせてもらっていた頼政も、前々からいつか平家に対する源氏再興のリベンジを狙ってタイミングを諮っていました。

この以仁王からの要請時に、頼政の息子・仲綱が平家の宗盛から侮辱を受けたこともあって、「今がそのタイミング」と頼政も悟ります。

令旨発布は直ぐに平家の知るところとなります。以仁王は女装をして園城寺に逃げ込みます。(360度写真①)

360度写真① 園城寺本堂

頼政も以仁王の後を追って園城寺に入り、仲綱らと挙兵するのです。今回はこの続きからです。

1.渡辺競のリベンジ

家屋敷を焼いて、園城寺に立て籠もる頼政父子と以仁王。1180年5月21日のこと。
実は、この時、頼政の支援部隊である渡辺党の猛者・渡辺競(わたなべ きおう)という豪傑のエピソードが面白いので紹介させてください。

さて頼政の息子・仲綱(なかつな)が、頼政に泣きつくところを前回描写しました。

「父上、愛馬『木の下』虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」

「・・・」

②渡辺競滝口
(競は滝口の武者なのでそう呼ばれます)

この父子の会話を部屋の外で聞いていた者がおります。渡辺競です。(絵②)

ーそうか。仲綱殿の名馬「木の下」は平宗盛殿から恥辱を受けていたのだな。ー

さて、その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。

競は渡辺党の中核であり、滝口の武者、「競滝口」という異名が付くほどの勇者ですから、当然、頼政も「競、園城寺へ供をせい!」と下知します。

ところが競は

「三位(頼政)殿、私は少々思うところがありますので、ここに残ります。」

と頼政の目を見て言うのです。頼政も、競の目を見てそれ以上は何もいいません。

頼政らが屋敷を焼き払った翌日、競はいつものように滝口の詰所に入ります。詰所は平家の本拠・六波羅の裏手にあり、競が滝口に入るのを平宗盛が見つけました。

「あれ渡辺競が滝口におるわい。奴程の勇者、三位は何故連れて行かなんだのだろう?」

ということで、実は前々から競のような勇者(かなりのイケメンでもあった)を召したいと思っていた宗盛は、彼を六波羅に呼び寄せます。

「御辺は何故、主君三位殿と共に行動しないのか?」

「それでございますが、いつもならすぐに私に色々と指示があるところの三位殿が、この度は何か思うところがあったのか、私には何の指示もありませんでした。気が付けば主君は何と朝敵となって園城寺に立て籠もっています。正直私も困惑している次第です。」

「確かに三位は朝敵となった。ついては競、どうじゃ、この宗盛に使えんか?御辺のような勇者がこの宗盛に奉公してくれれば悪いようにはいたさんが、如何か?」

「もとより、いくら主従の関係が強固であろうと三位殿は朝敵。味方する気はございません。宗盛様にご奉公致しましょう。」

喜んだ宗盛。その日は朝から晩まで、競を何度も呼び出し、主従の信頼関係を深めようと懸命だったようです。そんな心境を知ってか、夕方頃、競は宗盛に1つ願いでるのです。

③上段:宗盛に馬を貸してくれるよう頼む競
下段:秘蔵の名馬「南鐐」を準備する馬方
「宗盛殿、渡辺党の私の知人たちは、きっと今夜、この六波羅に夜討ちを掛けてくるに違いありません。こちらから先制して園城寺を攻撃したいと思います。ところが、渡辺党に私の馬も取られて困っています。1頭お貸しくださいませんでしょうか。」

これを聞いた宗盛。流石は競とばかりに、秘蔵の名馬「南鐐(なんりょう)」を引っ張り出してくるよう近衛の馬方に申し付けます。(絵③)

④白葦毛 ※南鐐もこんな感じ
南鐐とは上質の銀のことで、美しさの表現です。当時サラブレッドはいませんが、きっとそれに近い筋肉質で白葦毛(しろあしげ)の立派な馬だったのでしょう。(写真④)

競は喜び、宗盛に言います。

「お貸し頂いた名馬・南鐐を駆って、これより宮(以仁王)と三位(頼政)の首級を上げたいと思います。」

馬倉から引き出された南鐐。その金覆輪の鞍に競はひらりと跨ると、颯爽と園城寺の門前に駆け付けます。

◆ ◇ ◆ ◇

そして、閉ざされた門の中で陣を張っているであろう頼政や以仁王に、大音声で叫びます。

「競、只今伊豆守殿の『木の下』の代わりに、六波羅の『南鐐』を取ってまいりました!」

おおーっ!

と大きなどよめきが門の中でおこります。直後に園城寺の門が開きます。

南鐐を門内へと進めると、頼政が出てきて(絵⑤)

「競!立派な武者ぶりじゃ!息子・仲綱の恨みを晴らしてくれたのだな!」

⑤頼政陣営
※競は頼政の右下「瀧口渡邊競」とある
◆ ◇ ◆ ◇

源平合戦の緒戦としては、馬ばかりが一番可哀そうに感じる話ではあります。

なんと、この後、南鐐はたてがみとお尻の毛を剃られ、「昔は南鐐、今は平宗盛入道」との文字を焼き印されたのです。写真④の名馬のお尻の毛が剃られ、そんな変な言葉を焼き印された南鐐を思うと涙が出ますね。可哀そうな南鐐。

もう「木の下」も「南鐐」も、「仲綱」とか昔は南鐐、今は平宗盛入道」とか政争の道具に使わないで貰いたい・・・。お馬さんが可哀そうです。

そして、可愛そうな南鐐を六波羅へ馬だけで返したとか。

◆ ◇ ◆ ◇

返ってきた南鐐を見た平宗盛。平家一族に怒りをぶつけます。

「おのれ!競! 知盛(とももり)、はよ園城寺を攻めよ。重衡(しげひら)、競を生捕りにせよ。忠度(ただのり)、ノコギリでやつの首を少しずつ斬って殺すのだ!」

競は見事、源仲綱の恥辱を雪いだのでした。

2.橋合戦(前半)

園城寺に立て籠もった以仁王と頼政・仲綱父子ですが、強大な平家に軍を差し向けられれば、如何にこの園城寺の僧兵が強いと言っても、持ちこたえることは難しいでしょう。

彼らの望みは、全国の源氏に決起を呼び掛けた令旨が効いてきて、反・平家運動が活発化することです。それまでなんとか僧兵らに守られながら時を稼ぎたかったのです。

元々、以仁王らは、園城寺の他に、比叡山、南都(奈良)興福寺の僧兵たちも一緒に決起するよう周旋しておりました。

⑥南都・興福寺
ところが、清盛は比叡山の座主・明雲(みょううん)と親しく、比叡山は以仁王の側にはつかないどころか、一部の僧兵が平家に味方して園城寺を攻めると言い出しました。(清盛が比叡山に米2万石分も送ったので平家側へ傾いたという説もあります。)

ーこれはまずいー

と思った以仁王と頼政は、ひとまず京や比叡山からは遠く、南都興福寺に落ち延びることにしました。(写真⑥)

比叡山の麓にある園城寺は比叡山から攻めやすいのですが、流石に比叡山も南都まで出向いて戦をするような機動力はありません。また平家もいたずらに興福寺等を攻撃すれば、東大寺の大仏をはじめとした日本の伝統ある寺院群が灰燼に帰す可能性があります。それは人心が益々平家から離れることを意味するので、そうそう安易に大軍で攻めるということはできないでしょう。(結果的に平家は南都を灰燼に帰してしまうのですが・・・)

5月25日、園城寺に入って4日目の夜中に以仁王・頼政軍は興福寺目指して行軍を開始します。平家側もこの動きを察知し、即、以仁王らを追いかけ、南都入りを阻止しようとします。この時の平家側の大将は、先に宗盛が宣告した知盛、重衡、忠度

翌26日、以仁王は夜行軍が響いたのか、元々乗馬も馴れておらず。6回も落馬をしたのだそうです。
流石に、これはヤバいと頼政は思ったのでしょう。途中、宇治平等院にて以仁王を休ませることにしました。(360度写真⑦)


⑦宇治平等院(360°写真)

平等院でのこの停滞が命取りになりました。平家軍は追い付きます。

勿論、頼政側も無防備に平等院で昼寝をしていた訳ではなく、以仁王を平等院にて仰臥させると、取って返し、宇治川を渡る橋の橋板を外し、来るべき平家軍と対するために橋たもとに陣を張ります。(絵⑤のイメージ)

平家軍が現れました。怒涛の如く頼政の陣目掛け、橋を渡ってきます。(絵⑧)

⑧宇治川の橋を渡ってくる平家軍(左)
頼政の軍は園城寺の僧兵が主体(右)
※アニメ「平家物語」から

平家先陣が
「あ、橋板が無い!」
と気づいて急ブレーキを掛けますが、後陣の武者たちががむしゃらに押してくるため、人馬もろとも、次々と五月雨で増水した宇治川に墜ち、流されていきます。

また園城寺の僧兵が大活躍します。
まずは、五智院(園城寺の僧院の1つ)の但馬。(絵⑨)
鎧も付けず、楯も持たずに、飛んでくる矢を、見事に斬っては落とし、斬っては落とししてみせたので、後に「矢切の但馬」と云われたとのことです。
⑨五智院但馬の矢切場面
※アニメ「平家物語」から

次に登場するのが浄妙坊。
橋の上で、大声で名乗りをあげ、背負った24本の矢を射始めます。

1本の矢の無駄も無く12人を射殺し、11人に負傷させ、残り1本となったところで、長刀を鞘から抜き放ち、弓も箙(えびら:矢を入れる筒)も、毛皮の沓も脱ぎ捨てるのです。そして裸足で狭い橋桁の上を、まるで広い路を走るように、軽やかに動き回ります。
敵を5人なぎ倒したところで長刀が折れ、更に太刀で8人程切り伏せました。
しかし、太刀も川へおちてしまいます。

この浄妙の大活躍に心酔した一来(いちらい)法師。浄妙を助けようと後に続きます。ところが橋桁は狭く、傍を通り抜けることもかないません。
そこで、「御免候え」といって浄妙の兜の上に手を乗せ、肩を飛び越して浄妙の全面に出たものの、浄妙の代わりに矢に当たり討死してしまいました。

勿論、渡辺競、渡辺省(はぶく)ら渡辺党も大活躍。競はこの戦で自害したという話もあります。

そんなこんなで平家軍は、なかなか頼政の陣に切り込むことが出来ません。

◆ ◇ ◆ ◇

前半戦こそ、これら園城寺の豪傑の勢いに押され気味の平家軍。後半、沈着冷静な頭脳プレイで盛り返します。詳細は次回お話させてください。

ご精読ありがとうございました。
《続く》

日曜日

頼朝杉⑮ ~以仁王の令旨~

 文覚がとってきた院宣と彼の叱咤激励により、平家打倒の挙兵へと傾く頼朝。
周到に文覚や安達盛長らと、伊豆や相模、上総等の坂東の豪族の支援の約束を取り付けることに奔走します。

そんな中で、有名な以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が、伊豆の頼朝の元にも下されるのです。

1.以仁王の令旨

①以仁王
wikipediaより
鹿ケ谷事件以後、後白河法皇と平清盛との対立はますます険しくなります。

そして治承3年(1179年)11月、清盛は数千の兵を率いて京に入り、後白河法皇の院政を強制停止させます。(治承三年の政変)

平家に反抗的な摂政・藤原基房(もとふさ)を大宰府へ左遷、太政大臣以下39名の公卿を解任と政体崩しを徹底します。

更には後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)へと押し込めてしまうのです。

源頼政(よりまさ)と一緒に文覚に平家打倒を説いた藤原光能(みつよし)も、この時解任されています。

◆ ◇ ◆ ◇

このような非常事態に大反発したのが、後白河法皇の皇子・以仁王です。(絵①)

以前のブログ「頼朝杉⑦ ~髑髏と院宣~」でも触れておりますが、以仁王は、父である後白河法皇の妻・滋子によって、天皇の継承権をはく奪されるという不遇な道を歩まされているのです。(系図②)

②以仁王は見事に皇位継承路線から外されている

以仁王は、源頼政を頼りとします。

そう、今までこのブログに何度も登場して頂いた鵺(ぬえ)退治の頼政です。頼政に以仁王は言います。

「朝議にあって三位という最高位の源氏である貴殿が、清盛打倒に立ち上がれば、日本全国津々浦々の平家に恨みをもつ源氏諸氏が決起し、容易に清盛は滅ぼすことが出来ると考えるが、如何か?頼政。」

以前もお話しましたが、頼政は権威と女には、めっぽう弱いのです。皇族である以仁王に「源氏の最高位にいる頼政」と言われれば

ーそうか。俺が今の源氏の中ではNo.1なのだな?ー

と少しは気分がいいはずです。

しかし、自分を三位にしてくれたのは、その以仁王が滅ぼそうと言っている清盛なのです。ただ、この後詳細を述べますが、1つ大きな平家の横暴事件が息子の仲綱(なかつな)に降りかかり、頼政も頭に来ているのも事実です。以仁王もそれを知っているからこそ、きっと頼政が平家打倒に賛同すると踏んでいるのです。

頼政は、やはり葛藤します。

そして流石老練な頼政、平家打倒に協力するも、自分が前面に出ない、いざとなったら逃げを打てる方策を考え付きました。

「分かり申した。ではこの頼政、全国津々浦々の源氏が決起する際には、この老体(この時77歳)に鞭を打って、陣頭に立ちましょう。

ただ、まず間違いなく全国の源氏が決起する必要があります。そのためには、私が何某かの御教書(みぎょうしょ:三位以上の地位にある人が主の意思を奉じて発給する文書)を出すよりも、以仁王さまが令旨(りょうじ、皇太子ならびに皇太后・皇后等の命令を伝えるために出される文書)を発出する方がよかろうと存じます。

またこの令旨を頼政配下ではなく、隠遁している源氏の者に全国津々浦々に伝えさせましょう。この頼政が動くと目立ちます。」

2.頼朝への令旨

③『平家物語絵巻』「源氏揃えの事」
 以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え
歩く源行家と従者
(林原美術館所蔵)
この令旨を全国の源氏に伝え歩くメッセンジャーの役割をしたのが、頼朝の父・義朝の弟・源行家(ゆきいえ)です。(絵③)

彼は生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けていたとの評価がありますが、やはりその行動は人と人とのコンタクトですから、平家側へバレちゃうのですね。

まあ、行家が令旨を届けた後、各地で挙兵準備をしている間に、このような動向は平家に漏洩するのは当たり前です。

しかしながら、発覚する時期がもう少し後であれば、まだ計画的に頼政や以仁王も対応することができたのでは?また、源頼朝や土佐冠者(とさのかじゃ)こと源希義(まれよし)等ももう少し兵力を集め、緒戦の敗戦は無かったのではないか?等色々と想像してしまいます。頼政も77歳の老齢で皺腹掻っ捌くことも無かったかもしれません。

話を戻します。

頼朝のところには、治承4年(1180年)4月24日に届けられました。

「吾妻鏡」には、「そのとき頼朝は水干(すいかん)を着用して恭しく石清水八幡宮を遥拝(ようはい)してから令旨をおしいただき、披閲(ひえつ)した。」とあります。

以仁王の令旨を拝受したこの時、初めて頼朝が挙兵を決意したようなことが書かれている物語は沢山あります。ところが、頼朝は既にこの時、挙兵準備から1年8か月程も経っていたのです。

それは「吾妻鏡」にも彼が令旨を拝したのは、蛭ヶ小島ではなく、守山にあった北条館で受けたことからも、分かります。既にこの頃、北条時政らと挙兵プランを練っている最中だったと思われます。(写真④)

④守山八幡宮(頼朝挙兵前の館)

そして頼朝は新たなる決起の心構えと武運長久を祈った願書を記し、日胤(にちいん)に送るのです。

3.日胤

日胤は、挙兵にあたり頼朝が味方に引き入れることを重要視した千葉常胤(ちば つねたね)の息男です。

彼は園城寺(おんじょうじ)の僧となり、頼朝の祈祷僧を務めていました。(写真⑤)

⑤園城寺(滋賀県)

頼朝のために石清水に千日参籠して祈祷していた最中に、頼朝が送ってきた先の新たな願書を受け取ったのです。

それは丁度600日目の参籠の頃でした。

ということは、既に1年半以上前から、日胤は頼朝のための千日祈祷に入っていたことになります。先に述べた通り、既に頼朝は挙兵プランを始動しており、北条館でそのプランを練る一方で、前回のブログで述べましたように伊豆や相模、房総半島に至る各地の豪族への支援要請に文覚や安達盛長らを奔走させていたのでしょう。

ブログ「頼朝杉⑨ ~過去の誓い~」でも触れましたが、そもそも日胤に千日祈祷をさせたきっかけも、後白河法皇の院宣を取り付けた文覚が、頼朝に働きかけたことによると、文覚研究の第1人者・山田昭全氏はその著書の中で述べています。

また日胤に対しても、文覚はその兄・千葉胤頼(たねより)を介して知り合っていた可能性が大きいです。胤頼については、また後ほど書きます。

4.戒め夢

源行家から令旨を頂いた頼朝は、ちょうど相模の国の渋谷重国に支援要請から帰ってきたばかりの文覚を北条の守山館へ呼び寄せ、以仁王の令旨を見せます。

⑥挙兵時に活躍する源仲綱
「これはまた、以仁王も思い切ったことをされたものですな。以仁王が不遇だったことは、佐殿(すけどの、頼朝のこと)も良くご存じでしょう。京からの三善(みよし)康信殿からの定期的な通信文書にも津々その状況は記載されておりましたからな。
先日、渋谷重国殿のところで、久しぶり会った私の古巣の渡辺党の一人から、ここ伊豆の仲綱殿が、かなり拙い諍いを平家の宗盛(むねもり、兄・重盛亡き後は平家総大将となる人)殿と引き起こしたと聞いております。そのあたりで、もし以仁王が、仲綱殿とその父上・頼政殿を焚きつけたとすれば・・・。」(絵⑥)

「だとしたら何だというのじゃ、文覚。」

「以前、佐殿には私が福原に後白河法皇の院宣を拝受してきた折、夢の中に御父上の義朝殿のシャレコウベが現れ、『頼政と一緒に挙兵してはならぬ』と言った戒め夢を見たお話をさせていただいたかと存じます。」(ブログ「頼朝杉⑦ ~髑髏と院宣~」参照)

「ああ、確かその後、藤原光能に夢の解説をしてもらったと言っておったな。頼政の挙兵は『軽挙妄動』になる可能性があるからだろうとな。」

「はい、まあ今回の愚かな平家との諍いを聞いていても、頼政・仲綱らは一時的な感情に流されがちなのが気になります。行家殿など源氏一族に令旨の伝達を任せる等、雑説(情報)漏洩も心配ですね。令旨で決起を促された全国の源氏が立ち上がる前に、清盛に知られ、以仁王が攻められた時、頼政は以仁王を冷静に見殺しにできますかな。無理でしょうな。きっと以仁王を助けるために無謀な挙兵をするでしょう。その動きこそ『軽挙妄動』ではないかと。」

「頼政は清盛に気に入られ、長年四位だったものを、平家以外の武家としては珍しい三位になる引き立てをしてもらったのに、何故に反乱の狼煙を上げるのだろう。文覚どんな諍いだったのだ?」

「つまらない話ですよ。」

と言って文覚が話をし始めました。

5.名馬を巡る諍い

平家物語にもあるこの話。なんか子供の喧嘩のようなお話です。

さて、源頼政の嫡男である伊豆守・仲綱は、京で「木の下(このした)」という名馬を持っていました。

⑦平宗盛

伊豆の牧の郷には工藤家・狩野家が名馬を沢山もっており、その中の名馬は頼朝も馬好きにするほどのもので、当然、伊豆守である仲綱にも献上していたという訳です。

そこに、平清盛の三男である宗盛(むねもり)が、仲綱に「評判の名馬を見たいものです。」と使者を送ってきました。(絵⑦)

すると仲綱は

「最近、木の下に乗り過ぎてしまったため、知行国の伊豆へ送り休養させております。」

と返事をします。ところが、他の平家の人たちが、「え?木の下は昨日も仲綱が庭で乗り回していましたよ。」とか「今日もいるのを見ています。」等の報告が続々。

まあ、それだけ人に見せたくも、渡したくもない程、仲綱は木の下を愛していたのでしょう(笑)。

しかし、宗盛は「下手に出ているのになんという男だ。」と激怒。

「その馬を所望する」と強く出てきました。

当時、重盛と宗盛は父・清盛と後白河法皇の間に入り、両者の間を取り持つのに腐心していたのです。平家の長者である重盛は、清盛とはまた違う気性で、後白河法皇への忠も建てよう、清盛への孝も建てようと生真面目にやり過ぎたせいで病死してしまいました。

宗盛は重盛程、長者の風格は無いがため、ストレスも重盛程は溜めなかったのでしょうが、流石に知行地・伊豆の国衙(こくが)にも行かず、頼政の基で「木の下」と遊んでいる仲綱に内心イライラする思いだったのでしょう。しかも、「平家にあらずんば人にあらず」の絶頂期に平家No.2の宗盛に嘘までつくとは。

毎日「木の下を譲れ!」と8回も文を送ってきたようです。ストーカー並みです。

まあ、仲綱もあまり賢いやり方ではないですね。ここで良識のある父・頼政が出てきて

「たとえ黄金を丸めて作った馬であっても、そこまで欲しがるものであれば、宗盛殿へ譲ることを惜しむべきではない。お前は一度、伊豆の国衙に戻り、牧の郷で新たな良き馬を見つければ良いのだ。」

と諭します。

「父上がそうおっしゃるのであれば・・・・」

ということで渋々、木の下を宗盛に送るのです。1首歌を添えて。

⑧「仲綱」と焼き印された木の下
※山下景子氏「イケメン平家物語」より
戀しくは きてもみよかし 身にそへる
かげをばいかゞ はなちやるべき

訳:それほど恋しいならば,こちらへ来て見られるがよい。私の身に沿って離れぬ影とも言うべきこの鹿毛を,どうして手放す事が出来ようか。
※『かげ』に『影』と『鹿毛』を掛ける

仲綱も未練がましい気がします。何も言わずスパッと渡せばいいものを。まあ、馬を持ったことはないので分かりませんが、そんなに惜しかったのでしょうね。

◆ ◇ ◆ ◇

この歌を見た宗盛はまた激怒。

「おお、確かにあッぱれな馬や。馬はまことによい馬だが、あまりに主(仲綱)が惜しむので、主の名を金焼(焼き印)にせよ。

と部下に言い、「仲綱」という焼き印を押します。(絵⑧)

そして、客人が来るたびに

「世に聞こえたる名馬を見てくだされ」と言うと、従者に「その仲綱めに鞍置いてひきだせ。」 そして客人に「仲綱めにお乗りください。仲綱めの尻に鞭を打ってください!尻っぺたひっぱたいてください!」

と木の下を虐め抜いたのです。これを聞いた仲綱が男泣きに泣いたのは言うまでもありません。

頼政も流石にこれには閉口し、静かに平家に対するリベンジを考えるのでした。

6.頼政と同時には挙兵せず

「流石にそんなことだけで、頼政殿が反乱を起こすとも思えんが・・・」

「勿論、これは横暴な平家の振舞に対する1例に過ぎないのだと思います。ただ、平家の連中は、源氏がどれほど侮辱されても仕返しできまいと思っている とか、戦えば十中八九我々は負けるだろう、しかし勝ち負けの問題ではない とか 一寸の虫にも五分の魂 等の発言をその者は頼政と仲綱との会話できいております。累積した鬱憤を考えると頼政殿は挙兵するのでしょう。」

「文覚、それを聴いていたのは誰か?」

「はっ、頼政の部下集団である渡辺党一人・渡辺競(きおう)です。渋谷重国に身を寄せている近江源氏の佐々木氏に20年以上前から頼まれていた先祖代々から伝わる鎧兜を届けに来ていました。生きている間に佐々木氏との約束を果たしたのでしょう。直ぐにまた頼政殿の基に戻り挙兵に備えるようです。」

「うーむ」

頼朝も以仁王と頼政の挙兵が間近に迫っていることを感じました。

ー行家叔父の行脚による令旨の布告なぞ、誰かが直ぐに平家にタレこむ。これで平家の手入れでもあれば、即挙兵に転じるな。ー

「この辺りが動機だとすると、頼政殿らも少し考えが甘いのです。そもそも権威指向の頼政殿は以仁王への期待が大きく、また以仁王は、平家以外の武家に設定されていた四位の天井を突き破った頼政殿に期待する。双方が双方に期待すれば、結果は双方が双方に失望するのが古今東西の習わし。」

と文覚は決めつけます。

「しかし、それでは以仁王が倒れたら、この令旨はどうなる。令旨を発出した本人がいなくなれば、無効になるのではないか?」

⑨千葉常胤
(猪鼻城)
頼朝は心配顔です。

「いえいえ、令旨が無効になるということはござるまい。万が一、そのようなことを主張する御仁があっても、我々には後白河法皇の院宣がございます。」

ーそうか。そういえば文覚が伊豆を脱走し福原まで行ってとってきた院宣があったなー

石橋を叩いても渡らないタイプの頼朝。ここまで確認して少しホッとします。

「頼政殿はいつ頃挙兵すると予測する?文覚」

「はっ、ここ1,2か月内には。令旨交付は絶対漏洩します。いや、もう漏洩しているかもしれません。」

「となると、挙兵は5月~6月頃となるわけだな。では、我々が旗揚げできるのはいつ頃か?」

「まだ半年は欲しいところです。北条、狩野、天野は勿論、三浦、土肥、比企は説得できたものの渋谷は中立です。伊東、大庭、畠山、江戸はダメです。せめて後、千葉常胤(つねたね)殿は説得してからでないと。早くて10月頃かと。」(写真⑨)

「うーむ」

頼朝はまた腕を組んで考え込みます。

文覚は続けます。

「一昨日、京にいる千葉常胤の六男・胤頼(たねより)に文で、一言常胤殿への参陣説得を依頼しております。胤頼殿は私の父の推挙により、上西門院で私と一緒に滝口の武士として仕えておりました。その時に私とは師弟の関係を結んでおります。私がここ伊豆に流される時も、私に同心する旨誓ってくれた信用置ける人物です。私も彼と同行して下総の常胤殿を説得したいと考えています。」

「分かった。ことを急いでくれ。頼政殿との挙兵一致は残念ながら無理だな」

7.頼政挙兵(前編)

文覚の予想通り、頼朝のところに行家が来た一週間後の5月初めには、平家側へ令旨の件は露見していました。

5月15日には、平家が糸を引いて以仁王の臣籍降下を発令、以仁王をひっ捕らえに兵を屋敷に向かわせます。

⑩女装をして園城寺へ向かう以仁王
(月岡芳年画)
この時点では頼政の関与は平家側に察知されておりません。頼政自身が前面に出ない方策が功を奏しているのです。この時点で「挙兵失敗」と判断し、頼政は平家側に寝返る方法も選択しえたのかもしれません。

ところが仲綱は「木の下」の恨み一直線です。平家の兵が以仁王の屋敷に着く前に以仁王に知らせるのです。以仁王は女装をして、日胤の手引きにより園城寺へ逃れます。(絵⑩)

16日、平家は園城寺に以仁王の引き渡しを求めますが、園城寺はこれを拒否。更に延暦寺、興福寺にも協力を呼びかけます。

21日、平家は宗盛以下の一門+源頼政を大将とする園城寺攻撃軍が編成されます。この時点でも頼政はまだ清盛恩顧の忠臣とみなされているのです。

ところが、仲綱が黙っていません。

「父上、木の下虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」

「・・・」

その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。(360度写真⑪)

⑪園城寺から琵琶湖、比叡山方面(左側)を臨む(360度写真)

この以仁王・頼政の挙兵により、これから壇之浦合戦まで連綿と続く「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」の火蓋が切って落とされたことになるのです。

先に出てきました文覚の古巣・渡辺党の1人、渡辺競(きそう)。この挙兵で胸のすくような動きを見せ、仲綱と木の下の恨み返しをしますので、次回もお楽しみに!

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【守山八幡宮】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204−1

【園城寺(三井寺)】〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246

頼朝杉⑭ ~挙兵準備~

さて、八重姫の失敗を思い出した安達盛長(あだちもりなが)の話は前回で終わり、話を元に戻します。安達盛長は伊東祐親(すけちか)のような伊豆の有力豪族を頼朝支援に取り込もうとしたのですが、結局失敗に終わりました。当時の伊東祐親は、動員兵力数は約300騎、対する北条時政は約30騎程度、10倍も違うのです。伊東氏を味方に付ければ伊豆半島の大半は味方に付けたようなもの。

それを八重姫との悲恋という形で終わってしまったのですから、盛長は、心の痛手を晴らしていきたいと考えている訳です。

これで話が「頼朝杉⑨ ~過去の誓い~」の最後に戻ることが出来ました(笑)。この最後のところで頼朝が怪僧・文覚と安達盛長に、旗揚げの準備に、伊豆の豪族や関東武者を味方に付けるように指示するのです。今回はこの話の続きからです。

1.伊豆国内の周旋

さて、頼朝の居る伊豆国には、頼朝や文覚の伝承があちこちにあります。
殊に伊豆半島の南側には文覚が来たというお寺も幾つかあります。(写真①、②)

①嵯峨山永禅寺(南伊豆・松崎町)
この土地の景観が西京に似ていると感じた
文覚が嵯峨野と名付け、持仏とし護持して
いた釈迦如来を安置したと言われている

②文覚山円通寺

③円通寺縁起を説明した看板

中には、文覚が頼朝に挙兵を促したという神社やお寺もあるのです。

そもそも蛭ヶ小島等北伊豆にあった挙兵伝承が、何故南伊豆方面にもあるのでしょうか?

これは私の論考ですが、頼朝が挙兵前に文覚と、または文覚だけで、この地域の豪族への挙兵時の支援を頼みに来たのではないかと考えています。

それが、

「文覚が頼朝との挙兵を(この南伊豆の豪族に)促しに来た」
 ⇒「文覚が頼朝に挙兵を促した」

のように伝承としてのニュアンスが変わっていったのではないでしょうか?(写真③)

表向き平家の治安の中で、南伊豆の豪族らに密議を持って支援要請をした文覚。この荒法師が、これらの豪族と謁見の場所に選んだのが寺社である可能性は高いと思います。そしてなんの話があったのかと村人たちの間で噂になった「頼朝からの挙兵支援依頼」という話が、密議だっただけに後々頼朝が有名になるにつれて、「(頼朝の)挙兵への支援依頼」ではなく、もっとインパクトのある「(頼朝への)挙兵依頼」に話が変わっていったのではないかと想像しています。

2.相模国の調整

伊豆国以外にも文覚は安達盛長と足を延ばし、頼朝挙兵の支援を依頼します。文覚、盛長、頼朝は良く話し合い、伊豆国と隣接する相模国では以下3人の豪族を中心に支援を依頼したのではないでしょうか。

④湯河原駅にある土肥実平夫婦の像
隣の妻は「ししどの窟」に隠れた
頼朝一行に食料等を運ぶ支援の功
が大きいとされています

(1)土肥実平(どひ さねひら)

土肥実平は、現在の湯河原を本拠とした豪族です。相模国の西端ですね。(写真④)

彼は前回、八重姫のところでもお話ししました安元2年(1176年)の伊豆半島の西側、奥野という場所で巻き狩りにも参加していました。

まあ、湯河原ですから伊豆にも近いということで、頼朝らと交流があったものと思われます。

ここで特筆すべきことは、単に彼が挙兵後に頼朝の元にはせ参じただけの御家人ではないということです。

①まず山木兼隆(やまきかねたか)屋敷を襲撃した頼朝挙兵後、頼朝はこの土肥実平の湯河原まで出て、三浦半島の豪族、三浦義明と合流しようとします。結局石橋山で平家側の大庭景親(おおばかげちか)らと交戦することとなり、ここでの三浦軍との合流は失敗します。

石橋山合戦敗戦の後、実平は、頼朝が箱根の山々を逃げ廻る先導を果たし、最後は真鶴半島から安房(千葉県房総半島の南側)に小舟で彼を搬送、そこで三浦氏と合流できるよう調整するのです。

上記①②の事実から、土肥実平と三浦一族との間では、石橋山合戦の前後に、かなり緻密なコミュニケーションがあったことが伺えます。もしかすると山木屋敷襲撃の挙兵前からかなりコミュニケーションがあったと考える方が自然かもしれません。現代のようにスマホやSNSがある訳ではなく、すべて人による伝達が基本だった当時の状況を考えると、このコミュニケーションを開始する前に、誰かが土肥氏と三浦氏の仲立ちをしたと考える方が自然でしょう。

私はこれがやはり文覚と安達盛長の周旋によるものと考えています。

(2)三浦義明(みうら よしあき)

⑤叶神社(浦賀港)
実際、文覚は当時三浦一族の棟梁である三浦義明を説得に、三浦半島に足をのばしている形跡が見えます。当時の三浦一族の水軍本拠地である浦賀。この良港に叶神社があります。(写真⑤)

この神社の「叶(かなえ)」は文覚が源氏再興という大願を叶えたことからついた名前ということになっています。

ただ、この叶神社の西の台地上(今は住宅街と化していますが)には文覚上人がしばらく逗留していたような跡もあったようで、どうやら源氏再興について三浦一族を説得した文覚は、この浦賀の港から千葉の房総半島を目指し、千葉一族の説得に出たようなのです。それらの支援をしたのも三浦一族なのでしょう。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵前か挙兵後かは良く分かっていませんが、逗子の葉山の海岸を頼朝が三浦一族の和田義盛と一緒に、三浦一族の本拠に向かう途中、岩の上の松の美しさに感心する場面が、森戸明神の文献に出てきます。(写真⑥)

浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられています。(神社HPより)

⑥千貫松(森戸海岸)

この頼朝と和田義盛の受け答えから、頼朝は、挙兵前に伊豆の配流生活からそっと抜け出して、関東の有力者である三浦一族の支援を仰ぎに本拠のある三浦半島に向かったのではないか?と考えたくなるのです。

というのは、ここから約1㎞北、ヨットで有名な葉山マリーナのすぐ横に「鐙摺城址(旗立山)」という史跡があります。(写真⑦、360度写真⑧)

⑦葉山にあるぽこっとミニチュア
のような山・鐙摺城址(旗立山)

【360度写真】⑧鐙摺城址(旗立山)の頂き
ちょっとした広場になっています

伊豆配流中の頼朝が挙兵前に三浦を訪れた時に、この周辺にいた三浦義明の三男・義久の別館を訪れました。その時、義久から、この小山に城を造る計画がある話を聞かされ、義久が頼朝を案内する時に道が狭く巌に頼朝の鎧(よろい)が摺れたことから鐙摺と名を付けたとの伝承があるのです。確かに道は狭く、私が訪れた当時は、ユリや夏草で登り道が塞がれていました。

この鐙摺城址のエピソードが伊豆配流中の話であることが確実なら、頼朝はここから先、千貫松を通って三浦一族の本拠地がある三浦半島まで行かないで帰ったとは考えづらいですね。であるなら伊豆国で三浦一族と会えばいいのですから。(実際以仁王の平家打倒令旨発出後、京からの帰途の三浦義澄(義明の息子)は伊豆の頼朝に会っています。)

そして、もし三浦半島へ行ったのであれば、この時、千貫松の前を通っているので、この時に「千貫松」のエピソードが出来たと考える方が自然ではないでしょうか?

まあ、これまで述べてきた通り、色々な状況証拠はあるものの、一級史料等への強兵前の周旋については記録がありません。それはある意味、当時の平家に対して秘密裏に進められたことなので、当然と言えば当然ですね。

◆ ◇ ◆ ◇

挙兵直後に三浦一族と合流しようとして石橋山合戦に至る頼朝にとって、三浦一族は直接に会って話をし、十分な味方につけなければならないほど重要な支援豪族との認識だったのだと思います。これらの周旋も、勿論文覚や安達盛長が関与していたのだろうと想像しています。

(3)渋谷重国(しぶや しげくに)

さて、今度は東京・渋谷が関係するお話です。渋谷には渋谷氏という一族がおり、代々渋谷城を居城としていました。現在の金王八幡宮です。(360度写真⑨)

【360度写真】⑨金王八幡宮(渋谷)

この渋谷氏、重国の代では、現在の綾瀬市・藤沢市・大和市方面(いずれも神奈川県)に渋谷荘(しぶやのしょう)という領地をも貰っていました。

⑩早川城址(綾瀬市)
一方、保元の乱、平治の乱で源義朝(頼朝の父)に臣従した佐々木秀義(ひでよし)という近江源氏の一派は、平治の乱で義朝が敗れると、子供たちを伴い、奥州藤原氏を頼って落ち延びようとします。途中この渋谷重国が綾瀬市にある彼の城である早川城に秀義を呼び寄せます。(写真⑩)

そして「何も奥州まで行かずとも、ここで私が匿って差し上げましょう。」と引き留めるのです。秀義もこの重国の好意を受け入れ、重国の娘をめとるのです。

実は、この佐々木一族が早川城にとどまったことが、後々頼朝の挙兵成功と深い関係を持ってきます。まず秀義が早川城近くの大庭景親(おおば かげちか)に呼ばれ、頼朝討伐計画があることを知り、たまたま、早川城に居た嫡男・定綱(さだつな)を使いとして頼朝にこの切迫した事態を告げに走らせるのです。

詳細はまた頼朝挙兵のところでも描きますが、この後、挙兵時には定綱をはじめ、佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、遅参のエピソード等も含め、頼朝に味方し、数々の武功話があるほど活躍するのです。

ただ、この挙兵前から佐々木兄弟は頼朝の韮山へ出入りしていたという伝承もあり、やはり文覚等が渋谷重国や佐々木秀義らへ頼朝への支援を依頼しに早川城に足を運んだ可能性は高いと推測しています。

3.房総半島まで・・・

⑪千葉常胤像(亥鼻城跡)
さらには、今の千葉県、房総半島は下総の千葉常胤を味方に引き入れようとします。(写真⑪)

石橋山合戦の敗戦後、安房に渡った頼朝は、直ちに下総の千葉常胤に支援を要請するよう安達盛長を送ったことは有名ですが、それ以前に常胤のところに支援要請にいったという記述も吾妻鏡にはあるのです。

逆に千葉常胤の従弟・上総広常(かずさひろつね)は2万もの兵力動員力を持っていながら、頼朝から常胤程の支援要請を受けていません。(常胤の動員数は300騎程度)

これは文覚の人脈と関係があるのではないかと推察できます。

文覚と千葉常胤に近い人物が2人浮かび上がります。

1人目は日胤(にちいん)。もう1人は千葉胤頼(たねより)。

脱線しますが、胤の字が付く人物は千葉一族に近い方多いですよね。千葉氏本流自体も代々この胤の諱を受け継いでいったようです。

長くなりましたので、2人の話は、次回以降、源頼政の挙兵話、頼朝の挙兵話の中でさせていただきたいと思います。

長文ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【嵯峨山永禅寺】〒410-3613 静岡県賀茂郡松崎町岩科北側1312−1

【文覚山円通寺】〒410-3612 静岡県賀茂郡松崎町宮内130

【湯河原土肥実平像】〒259-0303 神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目1

【叶神社】〒239-0824 神奈川県横須賀市西浦賀1丁目1−13

【千貫松】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町堀内1025

【鐙摺城址(旗立山)】〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町

【金王八幡宮】〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3丁目5−12

【早川城址】〒252-1123 神奈川県綾瀬市早川3丁目4−964

【亥鼻城跡】〒260-0856 千葉県千葉市中央区亥鼻1丁目5−6



土曜日

頼朝杉⑫ ~八重姫 その3~

さて前回、逢瀬を重ねる頼朝と八重姫の間には千鶴丸という男の子が生まれます。頼朝も初子であり、とても喜んだという話を書きました。(絵①)

①千鶴丸を愛おしむ頼朝と八重姫
(音無神社蔵)

今回はその続きからです。

1.北条義時の画策

当時小四郎と名乗る北条義時は、大番役で京に上る父・時政に言います。

「父上、京で祐親殿にお会いしたら、是非お伝え頂きたいことがございます。」

「なんじゃ?小四郎」

「伊豆守・源仲綱(なかつな)殿に対し、中央(平家)から謀反の兆しがないかしっかり見張るよう勅書が出ております。仲綱殿は5年前のあの伊豆の大不作時、朝廷に献じる五節舞の舞姫の費用が出せない、中止するしかないと請文を出して以来、色々と中央に対する文句が多いようです。」

「まあ、仲綱殿は元々文句言いな性格でもあるからな。ああいう御仁は上から目を付けられやすい。御父上の頼政殿は中央で上手にやっておるがの。でもそんなことは祐親殿にわざわざ京で話すことでもあるまい。」

「いえ、それだけなら良いのですが、最近、こちらから伊東殿のところに行った頼朝殿。なかなか帰ってきません。もしかするとこれは我々の監視下を離れ、祐親殿が大番役で京に上っている最中に、頼朝殿は仲綱殿と共謀しているのではないかと噂されております。しかも、」

小四郎は続けます。

「頼朝殿は何とか伊東一族も巻き添えにしようと画策しているのではないか、と隣国駿河守の長田入道(忠致:ただむね、頼朝の父・義朝を名古屋でだまし討ちにした)が疑っているという噂を聞きました。勿論噂の域を出ませんから、放置しても良いのですが、実は祐親のご子息である河津祐泰(かわずすけやす)殿が長田入道殿のところに行った時に、『頼朝殿は、うちの祐清や妹たちと非常に仲が良い』と話したことで、そのように疑いをもたれたようです。まあ、長田入道殿のことですから、頼朝殿が伊東殿や我々等の在官庁人と仲良くなること自体がお気に召さないのかもしれませんが。」

「ほう、ならば伊東祐親殿には一言忠告しておいた方が良いかもしれんな。頼朝殿には気をつけろと。」

「はい。よろしくお願いします。」

小四郎は、心の中でニヤリとします。長田入道が疑っているというのは小四郎の作り話です。しかし、これが後になって効いてくるのです。

2.祐親の怒り

大番役の役目を果たし、京から伊東へ戻る伊東祐親。

戻る直前、京で久しぶりに会った時政の忠告が頭をよぎります。

ー長田入道は義朝殿をだまし討ちにしてから河内源氏である頼朝殿の復讐を恐れているのじゃろう。杞憂、杞憂。ただ、頼朝殿もなんでワシが京に行っている間、ずーっと伊東におるのじゃ。ワシが京へ上がれば、北の御所から早々に韮山・蛭ヶ小島に戻られると思ったのに3年近くもおるのは不自然じゃ。ー

といううちに伊東の館へ戻ってきた祐親。戻ってから3日間は、3年ぶりに京から戻ってきた主(あるじ)の祝い続きでしたので、頼朝のことなど忘れてしまいました。

②松川(伊東大川)のこの辺りで
柴漬けにして祐親らは上流へ
ある日の夕方、祐親は館の庭の築山に、一人で遊んでいる幼子を見かけます。

「あの子は?」

と妻に問いかけます。

この子は千鶴丸です。この時、既に2歳になっています。

勿論、逢瀬と千鶴丸の出産については、祐親は何も聞かされていません。

祐親に言おうか言うまいか迷っていた妻は、ままよ とばかりに

「頼朝殿と八重の子です。あなたの孫ですよ。」

と告げたのです。

しばらく意味が良く呑み込めず、茫然と遊んでいるその子を見ている祐親。

はっと、北条時政の忠告が頭の中を過ぎります。頼朝が3年近くも伊東にいるのはこのせいか!長田入道をはじめ、四囲では既に噂になっているのだろう。知らぬは俺ばかりという訳か!源氏に嵌(は)められた!

そして、はげしい勢いで妻に言います。

「娘の数が多すぎて、行き場が無ければ、乞食にでもくれてやるが、この時分に大罪人である源氏の流人を婿にするとは、なんたる不行き届き。もし平家に見咎められたらなんとするのか!仇の子は殺すのが古今云われていることだ!」

③火牟須比神社の橘
言い終わるや否や、すぐに近くの郎党に向かって「直ぐに兵を集めよ!」と下知します。

築山で遊んでいた千鶴丸を無理に抱え込むと、嫌がり泣き叫ぶ孫を無理やり抱えて馬に乗り、音無神社の横を流れる松川(現・伊東大川)のほとりまで出ます。

3.橘の枝を持たせ急流に投げ込む

そこに集まった兵に千鶴丸を柴漬け(柴で体を覆い、簀巻き状態にすること)にさせます。

そしてモノのようにそれを馬に括り付け、松川上流に走るのです。(写真②)

ところが、簀巻きにされた千鶴丸があまりに泣き叫ぶのに流石の祐親も辟易しました。

途中、火牟須比神社(ほむすびじんじゃ)という場所を通りかかると、境内の橘の花の良い匂いが漂ってきました。ご存知のように橘の香りは鎮静効果があります。
そこで祐親はこの橘の花の付いた枝を2つ折ると、千鶴丸の幼い手に持たせました。

すると不思議なことに千鶴丸はピタッと泣き叫ぶのを止めたのです。(写真③)

そこから更に半里(2㎞弱)程行くと、松川からかなり高さのある崖に出ました。

この辺りは付近の
大室山という伊豆の名物火山の溶岩が成した地形であり、松川もかなり急流になっています。

「このあたりでよかろう」

なんと、ここで
柴漬けの千鶴丸を川底へ投げ込んでしまうのです。(絵④)
④柴漬けの千鶴丸を川へ投げ込む
伊東祐親(音無神社境内絵)

酷い話ですね。私もこの現場に行ってきました。
稚児ケ淵の入り口は川面からかなり高い位置にあり、⑤の看板が立っています。(写真⑤)

⑤稚児ケ淵入口に立つ看板

下流では、②の写真のように穏やかな松川も稚児ケ淵の辺りはかなり急流となっています。(写真⑥)

⑥千鶴丸が投げ入れられた場所

看板のある場所から、川面へと降りていく山道、驚いたことに⑦のような沢蟹が、沢山いました。足元を見ていないと踏み潰しそうになるくらい沢山の沢蟹です。

蟹たちは、まるでこの川に投げ込まれて死んでいった千鶴丸の小さな骨から生まれてきたようです。(写真⑦)

⑦沢山いる沢蟹

4.富戸三島神社の橘

この東伊豆には千鶴丸の伝承は沢山残っています。

先程、この稚児ケ淵に来る途中、火牟須比神社の神木である橘の枝を、千鶴丸の両の手に持たせた話をしました。

この小枝、実は他の土地でしっかり根付くのです。

柴漬にされた千鶴丸は川に落とされると落命し、その遺体は松川を流れ下ります。途中音無神社の横も流れ下っていったのでしょう。約4km流れた先の海に流れ出た遺体はそのまま、伊豆半島の湾岸流にのり、約10km、川奈沖等を経由して、伊豆半島の西海岸にある富戸の宇根という海岸に流れ着きました。

そしてこの地域の住人が千鶴丸の遺体を見つけ、現在の富戸三島神社に葬ったと言います。(写真⑧)

⑧千鶴丸を葬った富戸三島神社

この時、千鶴丸が握っていた橘の小枝を、この神社の土に挿したところ、見事に根付いたのです。富戸の人たちは、「この幼子の生きたかったという思念が、この橘に移ったに違いない。」と噂し合ったと言われています。(写真⑨)

⑨富戸三島神社の橘
この富戸三島神社の橘は、前述の火牟須比神社の神木・橘の挿し木であることから、この2つの橘は「おとどい(兄弟)」の橘と言われているそうです。「おとどい」は方言ですね。この言い方は伊豆だけではないようですけど。

5.伊東祐清(すけきよ)の助け

話を、千鶴丸を川へ放り入れた直後に戻します。

伊東祐親は自分の孫を殺すという、人非人的な行動をせざるを得なかったことに対する悲しみも手伝って、今回の事態を引き起こした頼朝を激しく憎みます。

「おのれ頼朝!流刑人の分際で八重をたぶらかすとは! 目にもの見せてくれん!」

といきり立つ祐親。稚児ケ淵から直接、兵とともに、頼朝のいる「北の御所」に急行するのです。

一刻後、松明を持った30の兵で「北の御所」を取り囲んだ祐親。

「頼朝!出てこい!よくも八重をたぶらかしたな。」

と大声で叫びます。

ところが、シンとした北の御所は、頼朝はおろか、人っ子一人気配はありません。

◆ ◇ ◆ ◇

この少し前に、祐親とその妻の会話のやり取りを見ていた祐親の次男・祐清が、頼朝の身の危険を察知して、「北の御所」の頼朝のもとに走ったのです。

「何、伊東入道殿(祐親)が激怒とな。」

「はい、残念ながら千鶴丸はもう駄目でしょう。頼朝殿もここに居ては危険です。恐れながら、私から隣の北条宗時殿(義時の嫡男・この時時政は京へ大番役として出ているため)には早馬を飛ばし、頼朝殿の受け入れを依頼しております。宗時殿の受け入れが整うまで、どうか伊豆山権現へお隠れください。」

「うむ、よろしく頼む」

ということで、頼朝は祐清らと一緒に、北へ馬を走らせ、熱海の海際に迫った山の中にある伊豆山権現に逃げ込むのです。(写真⑩)

⑩伊豆山権現(伊豆山神社)

6.伊豆山権現

伊豆山神社に逃げ込んだ頼朝。当時の伊豆山神社は伊豆山権現と言われ、広大な領地と多くの僧兵をかかえ、他人が足を踏み入れるのを赦さない構えを見せているのです。

伊豆山権現に頼朝が匿われたのは、ここが、祐清や隣の土地の土肥実平(さねひら)らと関係が深かったこと。また頼朝自身も、これら伊豆から箱根、相模の国にかけての豪族らと関係を築いていたこともあるのです。兎に角、祐親がどんなに地団駄踏んでも、伊豆山権現の神域まで追手を侵入させることはできないのでした。

そしてこの後、頼朝は無事蛭ヶ小島での流刑人生活へと戻るのです。この時、頼朝を祐親の魔の手から守るために、先の伊東祐清や北条時政のところの小四郎が腐心したとの説もあります。

7.その後のお話は・・・

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも多分、祐清は八重姫の心優しいお兄さん。小四郎(義時)は八重姫に対して憧憬を抱く(初恋という噂も)思春期の男の子として描かれるという噂です。
どんな話が展開するのか楽しみですね。

ただ、八重姫と頼朝の話は、実はまだここまでで半分です。
その後の八重姫の話や、あの有名な曾我兄弟の敵討ちに至るまでのエピソード、そして北条義時や安達盛長の関わりを、次回ざっとさせて頂ければと存じます。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【火牟須比神社の橘】〒414-0054 静岡県伊東市鎌田751
伊豆山権現(伊豆山神社)〒413-0002 静岡県熱海市伊豆山708−1

火曜日

頼朝杉⑪ ~八重姫 その2~

大番役として京へ出向く伊東祐親(すけちか)へ現地の雑説(情報)を入れて欲しいと息子の伊東祐清(すけきよ)から依頼された頼朝。安達盛長と祐親の館(現在の伊東市)に到着する直前、音無神社の森で頼朝らを迎えに来た祐親や妹たちに会います。
その妹の中でも、一番の器量良しの八重姫に頼朝は一目惚れします。

即、頼朝は八重姫にアプローチします。館に招かれたその日の夕暮れに音無神社で待つと八重姫の耳元で囁くのです。

咄嗟のことに八重姫は戸惑います。しかし夕刻、八重姫は頼朝が音無神社に居ないでくれと願いながらも、音無神社に向かうのでした。

今回は、この続きからです。

1.音無神社

音無神社のある伊東は非常に温暖な地であり、東南アジア等に多く植生するというタブの木が境内に沢山あるのです。

この地がいかに温かく過ごしやすい土地なのかを示しています。(360度写真①)

①音無神社境内(360度写真)

ここで頼朝は既に半刻も前からじっとしておりました。

近くの松川から飛んでくる蛍の光は宵に向かうにつれ、その数を徐々に増していき、頼朝の横を通り過ぎて、タブの大木の元へと飛んでいくのです。

それはまるで、このタブの大木が、太古の昔から蛍の逢瀬の場所のような、そんな幻想的な景色でした。

頼朝はタブの幹に近づき、蛍が集まる場所をのぞき込んでいました。
小さな蛍が、沢山と幹の洞(うろ)の中に集まっています。(写真②)
②音無神社のタブの木の洞と蛍光

ふと背後に
気配を感じた頼朝が振り向くと八重姫がいました。少し離れたところで、頼朝の方に近づいてくるわけでもなく、所在無く立っています。

「こっちに来て!」

頼朝は笑顔で八重姫に話しかけます。彼女は頼朝の顔を真っすぐに見ようとはしません。

ただ、おずおずとタブの幹の前の頼朝の横に来て、しゃがみこむのです。

先ほど、ここに来るまでは、積極的に声を掛けてくる頼朝に対し、気恥ずかしいやら、なれなれしくて嫌だなとかいろいろな感情が複雑に入り乱れていました。音無神社で待っているなんて冗談であってほしいと願いながらも、家人たちに嘘をついてまでここまで来てしまった自分が良く分からない八重姫でした。
③音無神社での出会い
(音無神社展示絵)

「ここにね。沢山蛍が集まっているでしょう。ほら、ここにパッ、パッと光を放つ蛍がいる、これがオスです。で、多分、こっちのジッとしているのがメス。見ててください。」
「ほら!今、メスのお尻が1回だけ弱く光ったのが見えましたか?これオスの求愛を受け入れたっていう意思表示なんですよ。」
「あ、こっちも今何回か光りました。お相手は・・・。こいつかな?あ、尻が光ました。受け入れたんですね!」

としゃべり続ける頼朝。八重は洞の光に照らし出された頼朝の横顔を見ることができるようになったのは、もっと大人のアプローチをしてくるのかと思った頼朝が、既に20代後半にしてまるで少年のように蛍の観察に熱中していることに安心したからなのです。

ー意外と純粋な方なのかしらー

松川の対岸にある田んぼから、蛙の合唱が先ほどよりひと際大きくなり、それが夏の夜の到来を感じます。

「ずっと離さない・・・」
④積極的にアプローチする頼朝
(音無神社展示絵)

ーえっ!ー

八重はハッとして頼朝の顔を見上げますが、彼はまだ、先ほどの蛍を見つめています。

グォー、グォー

急に自分たちの足元で牛の鳴き声のような低い響き声がしました。

「あははは!」

雰囲気が一気にそのユーモラスな声で崩れました。ヒキガエルの鳴き声にビックリする八重姫。大笑いする頼朝。

「さて、これからの夜の宴です。祐親殿が準備してくださっています。戻らねば。今日は、ここに来てくれてありがとうございます。」

八重は一気に緊張が溶けると同時に、少し物足りないような、自分でも良く分からない感情のわだかまりみたいなものを感じます。

「蛍はね。私の住んでいる狩野川の流域にも沢山いるんです。私は好きで、毎年彼らを観察しているのですよ。でね。こうやって交尾を始めると、雄は雌を朝まで離さないんです。」

ーさっき「離さない」と言いかけたのは、この蛍のことだったのー

八重は段々気恥ずかしくなってきました。自分ばかりが何か変な事ばかり早合点していたのかと。

「明日もまたここで待っています。」

「・・・」

このお方、なんのためにここで私を待つのだろう?

2.北の御所
⑤「北の御所」推定地域等

翌日も八重はまた葛藤します。待っていると言っても、何をするわけでもなく蛍談義をされるだけ?あの人いつまでこの伊東にいらっしゃるのかしら?なんか密かに音無神社に行くみたいで家人に見つかったら恥ずかしい。どうしよう。行こうか、やめようか。

結局、またそっと館を抜け出して八重姫は音無神社へ向かいます。

この日、頼朝は嬉しそうに八重姫に話をしたのは、祐親殿が自分を気に入ってくれ、是非この伊東の地にしばらく逗留して欲しいと言われたとの話でした。

祐親の大番役の役務開始は、3か月後なのですが、祐親は頼朝と話をしているうちに、早めて1か月以内に出発することにしました。

というのは、頼朝はある助言を祐親にしたのです。

京に大番役で行くなら、お役目開始より早い時期から貴族たちと交友を深め、周旋活動をしておいた方が良い官位獲得の可能性が開けるとアドバイスをしました。

当時、地方の武士たちは京の院や天皇、摂関家等の警護役である大番役に赴くことの見返りに官位を貰い在庁官人として、朝廷や有力貴族らの権威をバックにすることができるというギブテクがあったのです。

そのため、役についてから、あまり目立ったことをするより、役務期間に入る前に賂(まいない)含め色々と気遣いをした方が良いだろうと、頼朝が伝えると

「流石は佐殿。上西門院殿の蔵人(くろうど)だったことはある。」

と祐親は感心してしまい、早々に京へ発つ準備をするので、その間、伊東に滞在して、細々した諸雑に関し教えて欲しいということになったという話でした。
⑥「北の御所」は伊東駅周辺?

一応、頼朝は貴人ではあるものの、流刑人であることから、監視役とは離れて暮らす習わしがあるのです。ですので、祐親は祐親の館とは谷を挟んで対面にある離れの館を頼朝に当てがいます。

ここが、現在の伊東市の北側斜面にあたる(祐親の館は南斜面)ため、「北の御所」と呼ばれるようになるのです。

現在、北の御所の場所は特定されておりませんが、伊東駅周辺だったのではないか?またはそれより少し山側へ上がった松月院のあたりではないか?等の伝承があります。(地図⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

私も現地に行って、「北の御所」の推定場所の辺りを見て廻りました。(写真⑥)

地図⑤の点線に囲まれた辺りなのですが、伊東駅より少し北側斜面を上がったところにある松月院。(写真⑦)

⑦松月院からの眺め
音無神社や伊東祐親の館のあった物見塚公園方面も良く見える場所です。

この寺院もかつては伊東駅の方にあったということなので、もしかしたらやはり御所自体はもう少し標高が低い現在の市街地に近いところにあったのかもしれません。

いずれにせよ、伊豆蛭ヶ小島も北条時政の館から少し離れたところにあり、館のすぐ近くの守山から頼朝の館が監視できたのと同様に、「北の御所」も伊東祐親の館から少し離れた場所で、かつ監視しやすいところにあったのではないかと松月院からの景色を見ながら私は思いました。

3.日暮(八幡)神社

こうやって、連続して頼朝と八重姫は音無神社で日暮れになると会い、段々と少しづつ自身の話や日常を話していくことで、心を開きあうのです。

最初は、頼朝に会うことに非常に抵抗を感じていた八重姫も、彼と何度も会ううちに、単に自分が異性を過剰に意識していただけと思うようになりました。

今は、松川からの川風に吹かれながら、夏の夜を音無神社のタブの木の幹に腰かけて頼朝と話をするのが楽しい。頼朝も同じようです。

ただ、時々祐親から呼び出されて、相談に行く頼朝は、段々と自分の北の御所まで戻らなくなりました。

音無神社のすぐ西隣、田んぼの中に小さな社がありました。そこに馬を繋ぎ、中で日が暮れるまで待つのです。

⑧日暮神社
そして、この社で日暮れを待つという慣習は、伊東祐親が京に向かって出発すると殆ど毎日のこととなりました。

いつしか、土地の人は、この名前も無かった社を、頼朝が日暮れの八重姫との音無神社での逢瀬を楽しむために待機していた場所であることから

日暮神社(日暮八幡神社)

と呼ぶようになったのです。(写真⑧)

4.八重姫の懐妊

しかし、男女のことは、心開きあえば開きあう程、接近するのは古今東西変わりません。

伊東祐親が京に大番役として上った後も、祐親が頼朝に「佐殿は、このまま幾らでも、この伊東にご逗留くださって結構です。北の御所は私が留守中も使ってくださって結構。」と云われたことから、逗留し続けます。

夜になると音無神社で八重姫と逢瀬を重ねる日々。(写真⑨)
⑨松川の脇にある音無の森(音無神社)

何日も頼朝が通いつづける様子は、まるで蛍のオスが何度も何度も光をメスに向けて点滅させるのに似ています。そしてとうとう八重姫もメスの蛍のように、一度限りの光の点滅・受け入れ了解の意思表示をするのです。

その後、頼朝蛍は八重姫蛍を長いこと離しませんでした。

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日暮れを、近くの日暮神社で幾ら人目を忍んで待機しようと、人の多くないこの地方のことですから、噂は直ぐに人々の間を駆け巡ります。

安達盛長はこの時、時々伊豆の北条の里から、この北の御所を訪ね、頼朝から近況を聞き、北条時政や函南に住む比企尼(ひきあま)に状況を報告していました。(図⑩参照)

比企尼は自分の思惑通りのこの状況を殊の外喜んでいます。
思惑とは

①頼朝殿が伊東祐親という伊豆の実力者に気に入られ、その娘を妻とすることで後ろ盾を得る。

⑩頼朝と八重姫を巡る人たち(再掲)
②妻ができることで、安達盛長の妻・丹後内侍(たんごないし)に余計なちょっかいを出さなくなる。

の2つです。

ただ、実はこの時、北条一族は、このことを面白く感じてはいませんでした。

幾ら流刑人であると言っても、頼朝は源氏の正統な嫡男です。かれが一時的だろうとはいえ、伊東祐親の元にいってしまい、その土地が気に入ること自体、いい気はしません。

殊に、北条一族の長・時政の息子・小四郎(後の義時)が一番気にしていましたが、当時の彼はまだ13歳。伊東家の姫様方にかわいがってもらった過去の経験から、八重姫を頼朝公に取られてしまったことに嫉妬してのことだろうと、周りは噂をしておりました。

そうこうするうちに、1年経ちました。

するとどうでしょう。八重姫は頼朝の子供を宿しているのです。

5.千鶴丸誕生

生まれた子供は、男の子で千鶴丸と名付けられました。(絵⑪)

⑪千鶴丸の誕生
(音無神社展示絵)
無事出産できたのは、この前回も出てきた八重姫の兄・祐清(すけきよ)が全面的に頼朝と八重姫の仲を取り持ち、支援してきたおかげです。

頼朝、初めての子供です。かわいくて仕方がありません。

しかも男の子。比企尼の作戦でいけば、この子の祖父となる伊東祐親に頼朝の支援を頼み、後ろ盾をしっかりしたいところです。

ところが、この時、小四郎こと後の北条義時が、何故かそうはさせじと画策します。彼は伊東祐親と交代で大番役に京へ出向く父・時政に一言お願いをするのです。

伊東祐親が大番役として京へ行ってから、早いもので3年が経とうとしていました。

長くなりましたので、続きは次回。ご精読ありがとうございました。

                               《続く》

【音無神社】〒414-0032 静岡県伊東市音無町1−13
【物見塚公園(伊東祐親館跡)】〒414-0046 静岡県伊東市大原2丁目80−1
【松月院】〒414-0002 静岡県伊東市湯川377
【日暮(八幡)神社】〒414-0013 静岡県伊東市桜木町1丁目2−10