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水曜日

頼朝杉⑰ ~頼政、以仁王の最期~

①橋合戦(前半)
平家追討の令旨を発出した以仁王と頼政を討伐すべく編成された平家軍。以仁王、頼政らが南都へ逃げる途中の宇治平等院にて停滞している情報をキャッチするとすぐに猛烈な勢いで追いかけ、宇治川を挟んで対峙します。そして橋合戦が始まるのです。(写真①)

橋合戦の前半戦こそ、園城寺僧兵らの勢いに押され気味の平家軍。今日は、この橋合戦の後半からお話を続けたいと思います。

1.馬筏(橋合戦・後半)

さて平家軍、橋の上でまともに頼政の軍(実質は園城寺僧兵)と戦っても一進一退。なかなか攻め込むことが出来ません。幅が狭い橋の上で、幾ら一騎打ち的な戦い方をしている限り、平家軍の兵力の多さによる優位性が確保できません。

そこで、橋の上ではなくて、橋の脇を渡河して大軍で宇治川を押し渡る作戦を考えます。ところが宇治川に行かれた方はご存じだと思いますが、この川は意外と流れが速く、特にこの戦の時期は五月雨を集めて速し状態なので、川にざんぶと駆け入った武者は、なんと馬ごと流されてしまう始末。(写真②)

ここに足利又太郎忠綱という現在の足利市を所領とする若干17歳の武将が平家軍に居ました。ご存じのように足利市は北関東で渡良瀬川や利根川等の上流に位置します。ですので、忠綱は急流を渡るノウハウをしっかり持っていたのでしょう。

彼は総大将・知盛に提案します。

「地元の利根川や渡良瀬川で良く使う渡河の手法があります。私がこれを作って川を渡って見せます故、知盛殿は私の後に続いてください。」

②宇治川はかなり急流

そして、付近の孟宗竹を刈り取って馬と馬を、それらの竹で結びつけます。馬は前後だけでなく、左右も竹を渡し、まるで筏のように組みます。(図③)


③馬筏の略図

④緋威の鎧
川の流れに対して上流に強い馬を置き、下流側に弱い馬を配備します。このような構造にすれば、強い馬が踏ん張ることにより、弱い馬も流されることなく、人馬一緒になんとか川を渡れるという渡河方法です。馬筏といいます。(竹で括り付けず、単に上流に強い馬を、下流側に弱い馬をなるべく密集させて隊列を組みことで渡り切ったという説もあります。)

これは後年木曽義仲と義経がここで戦う時も、畠山重忠が馬筏を組んだという伝承があります。宇治川は馬筏を組まないと渡れない程の急流だったのですね。

見事、忠綱、宇治川を渡り一番乗りを果たします。

これを見た平家軍、「それ忠綱に続け!」とばかりに数百騎ざんぶと宇治川に飛び込みます。ところが利根川で修練を重ねている足利忠綱のようにはいきません。やはり次々と流されていくのです。

これを宇治川の対岸で見ていた例の源仲綱(なかつな)。
この人は武将でありながら、歌好きですね。また一句詠みます笑。

 伊勢武者はみなひをどしの鎧(よろひ)着て
   宇治の網代(あじろ)にかかりぬるかな

⑤宇治川の網代
※氷魚(ひお)を獲っています
訳:平家軍(伊勢武者)は、雅で立派
  な鎧(緋威:ひおどし 写真④)
  を着ながらも、宇治川に流され、 
  下流にある地味な魚獲の網(網代
  GIF⑤)に引っかるとは。 
  (雅な恰好だっただけに、恰好悪
   い事この上ないなあ)
   ※ちなみに鎧の緋縅(ひおどし)
    と氷魚取り(ひおどり、氷魚は
    鮎の稚魚)を掛けています。ど
    ちらも網代でとれると笑

2.平等院での戦い

足利忠綱、大音声(だいおんじょう)で名乗りを上げます。

「足利又太郎忠綱17歳!源三位頼政殿のお味方で我こそはと思う方々は出でて来られませ!私が相手になりましょうぞ!」

そして平等院へと駈けていきます。

宇治川での橋合戦で時間を稼いだ源頼政らは、なんとか以仁王を平等院から逃がし、南都興福寺へ向かわせることが出来ました。

が、それをするのが精一杯。タイムアップです。忠綱が名乗りと同時に門前に駆け付けてくると、摂津源氏である頼政たちや、渡辺党の武者ども、園城寺僧兵は腹を決めます。

「平等院を枕にここで散ろうぞ!」

平等院には平家軍を入れまじと矢合戦(「ふせぎ矢」と平家物語では表現されています)で防戦していた頼政軍。彼らは平等院の門内で休ませた兵を交代で矢戦に繰り出したので、先陣の攻めは守ることができたようです。

しかし、とうとう頼政自身、膝頭に矢を受けてしまいました。

⑥ご存じ10円玉にも描かれている平等院鳳凰堂

流石に70を超えた頼政に寡兵による激しい戦はこたえます。

以仁王を逃がすのが精一杯。
頼政は、今更ながら以仁王の令旨が漏れるというリスクに対する自分の見通しの甘さを悔いるのです。
自分を三位にしてくれた清盛の怖さは半端無かった。

そして以前、藤原光能と文覚の3人で語った源氏再興の夢が、ここでとん挫するのではないかとの絶望感を頼政は感じます。

門内に入り、平等院鳳凰堂の庭先を周囲の肩を借りながら死に場所を探す頼政。(写真⑥)

そこに一人の平家軍の武者が

「そこにおわすは三位殿とお見受けいたす!」

と門内へ突入してきました。

「父上、危ない!」

と平家武者の突進を横から馬で乗り入れ、刀で払ったのは、頼政の次男・兼綱(かねつな)です。平宗盛に一矢報いた渡辺競(きおう)等、渡辺党の面々も頼政の最期の時を稼ぐために平等院内の乱闘に加わります。

しかし、所詮多勢に無勢、兼綱は眉間に矢が刺さったにも関わらずその後も奮戦し、彼の持つ馬鹿力(音に聞こえる大力)で、矢を射た平家の上総太郎判官(かずさたろうほうがん)の息子・次郎丸が近寄ってきたので、首を切り落とします。しかし、平家の兵が14、15騎に寄ってたかって兼綱を討ち取ります。

仲綱(兼綱の兄にあたる)も、父・頼政を庇って戦っていましたが、深手を数か所で受け、平等院の釣殿(現・観音堂:写真⑦の右側の建物の位置にあった)で自害しました。

この時に渡辺競(きおう)も自害しています。平宗盛が「生捕りにせよ。のこぎり引きにしてやる。」とまで恨まれた競ですが、生捕りにはならずに散々戦って重傷を負い、腹を掻き切って死んだようです。

仲綱の無念を園城寺でリベンジした競。宗盛にいたぶられた仲綱も辛かったでしょうが、最期は渡辺党の仲間と一緒に平家へ一矢報いて果てただけに、死ぬ前に少しは気も晴れたでしょうか。

3.頼政の最期

一方、頼政は、皆が平等院内で乱戦している状況を見て、釣殿のすぐ脇で、渡辺党の渡辺唱(となう)に

「わが首を撃て!」

と命じます。(写真⑦)

⑦頼政が自害した扇之芝
隣の建物が仲綱の自害した場所

⑧扇(の紙)に辞世の句を
したためる頼政(月岡芳年画)
※松の木の裏が宇治川の土手
しかし、唱は涙をはらはらと流し、

「とてもできません。ご自害為されたその後に、御首を頂きましょう」

と言います。

唱のその気持ちを汲んで、頼政は松の木の下に静かに座り、鎧を脱ぎ、手にしていた扇をバラすと、すらすらと扇の紙の部分に辞世の歌をしたためるのです。

 埋もれ木の花咲くこともなかりしに
  身のなる果てぞ悲しかりける

そして西に向かって十度念仏を唱え、太刀の先を腹に突き立て、うつ伏せになると、早くその苦痛から解脱させてあげようと唱が、その首を斬って落とすのです。

唱は泣きながら、頼政の首を掴むと、すぐ横の宇治川の土手を駆け上り、川原に出ます。(360度写真⑨)

適当な石を見つけ、頼政の首に括り付けると、川の真ん中の水深が一番深いあたりにその首を沈めてしまいました。

自害した主君の首を敵である平家側にだけは渡したくなかったのでしょう。(地図⑩)

⑨唱が駆け上った土手から頼政・仲綱が
 死亡した釣殿・扇之芝と宇治川を見渡す

⑩頼政・仲綱自刃場所等

4.以仁王の最期

⑪以仁王逃亡経路
さて、頼政らの献身により南都興福寺方面へ逃れた以仁王ですが、やはり途中木津川の畔で平家軍に追いつかれます。(地図⑪)

南都の僧兵も、以仁王らのピンチを助けるため、興福寺から7千人で出発します。

南都の息の掛かった奈良北側の山岳地域に光明山寺という大寺院がありました。
何故か現在は完全に廃寺になっているらしく、全く寺跡も見当りません。(写真⑫)

今では幻となったこの寺院に、以仁王ら30騎はひとまず逃げ込もうとします。

しかし、そうはさせじと、追撃してきた平家軍は多数の兵力で、以仁王らに雨あられのように矢を降らせます。

そしてその1矢が、あと石階段を数段登れば、光明山寺の門内に逃げ込めるというギリギリのタイミングで以仁王に突き刺さるのです。(絵⑬)

⑫以仁王が逃げ込もうとした光明山寺跡地
(一切痕跡は残っていません)

⑫光明山寺山門目前で矢が刺さる以仁王
(アニメ「平家物語」より)

光明山寺内に逃げ込み、南都の僧兵7千人が光明山寺に到着していたのなら、また、その後の以仁王の運命も変わっていたのかもしれません。

5.頼政と以仁王がもたらしたもの

頼政のお墓・宝篋印塔は平等院の敷地内、切腹した扇之芝から南西70mのところにある最勝院にあります。(写真⑬)

⑬頼政の墓

また、以仁王の墓所は先の光明山寺跡から少し離れた北西西約5㎞、木津川の近くの高倉神社にあります。(写真⑭)

⑭以仁王の墓(高倉神社)

ちゃんと二人とも立派なお墓が建っていますね。

先程、頼政の辞世の句について書きました。

埋もれ木の花咲くこともなかりしに
  身のなる果てぞ悲しかりける

これは、自分は埋もれ木のように花を咲かせることが出来なかった。そんな自分の身上が悲しいばかりだという絶望的な歌ですね。

写真⑦の頼政が切腹した扇之芝の右手前に大きな石があるのが分かりますか?
この石に次の歌が刻まれています。

花さきてみとなるならば後の世に
 もののふの名もいかで残らむ

「花が咲いて実となる生涯であったからこそ、(頼政が亡くなった)後の世に
『武士』としての名、(そして約700年続く『武士』の世そのもの)は残ったのでしょう。」

素晴らしいフォローですね。頼政は最期半分自暴自棄に陥りかけていたのでしょうか。このフォローの歌をこの石に刻んだのは、頼政の子孫・太田氏です。天保年間(1830年~1844年)に刻んだもののようです。

まさに冷静に見れば、以仁王の令旨があったからこそ、源(木曽)義仲、源(武田)信義、源行家、源頼朝、源希義ら源氏軍団が挙兵。平家を滅ぼし、頼朝が武士の府である鎌倉幕府を開き、以後700年間武士の時代が続く、このトリガーを切ったのはこの二人なのですから。ちなみに頼朝は石橋山合戦時にも、この以仁王の令旨を竿の先に括り付けて戦ったとの伝承もあります。

⑮以仁王の令旨(撮影用)
(鎌倉大河ドラマ館)

これは私の考えですが、多分、頼政は最期に1つ思い違いをしたのではないでしょうか?それは

「何とか仲綱らと以仁王を平等院から逃がすことはできたものの、平等院に到着する前に6度も落馬する程に疲れた以仁王が、勢いある平家軍の追従をかわして逃げ切ることは難しい。以仁王が平家軍によって殺されれば、全国の源氏に撒いた令旨は、その発布元となる以仁王が居ないため無効となる。となれば源氏再興の芽は全部平家によって摘み取られる。」

と。

だから自分は「埋もれ木」なんだと。。実はこの令旨の有効・無効については、私も文覚を調べるうちに色々と説は出てきました。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも取り上げられていましたが、確かに「令旨無効ではないか、そうだ!後白河法皇の密旨があった!だから挙兵の大義名分は立つ!」と。(写真⑮、⑯)

⑯後白河法皇密旨(撮影用)
(鎌倉大河ドラマ館)
このシリーズでも、文覚が伊豆の流刑地を抜け出し、福原にいる後白河法皇から頼朝のために密旨を取ってきた下りを書いたのは、この大河ドラマと同じ説を取っているからです。

もし、上記のような思い違いが辞世の歌を詠んだ時の頼政の心境であったなら、草葉の陰、いや宇治川の底から、あと5年後には、自分の芽が出て花が咲いた事実を見た頼政は「しまった!歌人としてもちょっとは名の売れたこの頼政、歌を詠み間違えた!」と苦笑いをしていることでしょう。

皆さまはどう思いますか?

次回からまた舞台は伊豆の頼朝、文覚に移ります。

長文・乱文失礼しました。ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【宇治橋】〒611-0021 京都府宇治市宇治

【扇之芝(平等院)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【釣殿(観音堂)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【光明山寺跡】〒619-0201 京都府木津川市山城町綺田柏谷

【頼政の墓(最勝院)】〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116

【以仁王の墓(高倉神社)】〒619-0201 京都府木津川市山城町綺田神ノ木48

【大河ドラマ館(鎌倉)】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−53

土曜日

頼朝杉⑯ ~競のリベンジ~

前回、以仁王が父・後白河法皇の軟禁に猛烈に反発して清盛追討の令旨を発出。この令旨は伊豆の頼朝のところにも届きます。

この令旨を発出し平家に反旗を翻すにあたり、以仁王が頼りにしたのが源頼政です。
清盛によって源氏の中では三位という高位に就かせてもらっていた頼政も、前々からいつか平家に対する源氏再興のリベンジを狙ってタイミングを諮っていました。

この以仁王からの要請時に、頼政の息子・仲綱が平家の宗盛から侮辱を受けたこともあって、「今がそのタイミング」と頼政も悟ります。

令旨発布は直ぐに平家の知るところとなります。以仁王は女装をして園城寺に逃げ込みます。(360度写真①)

360度写真① 園城寺本堂

頼政も以仁王の後を追って園城寺に入り、仲綱らと挙兵するのです。今回はこの続きからです。

1.渡辺競のリベンジ

家屋敷を焼いて、園城寺に立て籠もる頼政父子と以仁王。1180年5月21日のこと。
実は、この時、頼政の支援部隊である渡辺党の猛者・渡辺競(わたなべ きおう)という豪傑のエピソードが面白いので紹介させてください。

さて頼政の息子・仲綱(なかつな)が、頼政に泣きつくところを前回描写しました。

「父上、愛馬『木の下』虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」

「・・・」

②渡辺競滝口
(競は滝口の武者なのでそう呼ばれます)

この父子の会話を部屋の外で聞いていた者がおります。渡辺競です。(絵②)

ーそうか。仲綱殿の名馬「木の下」は平宗盛殿から恥辱を受けていたのだな。ー

さて、その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。

競は渡辺党の中核であり、滝口の武者、「競滝口」という異名が付くほどの勇者ですから、当然、頼政も「競、園城寺へ供をせい!」と下知します。

ところが競は

「三位(頼政)殿、私は少々思うところがありますので、ここに残ります。」

と頼政の目を見て言うのです。頼政も、競の目を見てそれ以上は何もいいません。

頼政らが屋敷を焼き払った翌日、競はいつものように滝口の詰所に入ります。詰所は平家の本拠・六波羅の裏手にあり、競が滝口に入るのを平宗盛が見つけました。

「あれ渡辺競が滝口におるわい。奴程の勇者、三位は何故連れて行かなんだのだろう?」

ということで、実は前々から競のような勇者(かなりのイケメンでもあった)を召したいと思っていた宗盛は、彼を六波羅に呼び寄せます。

「御辺は何故、主君三位殿と共に行動しないのか?」

「それでございますが、いつもならすぐに私に色々と指示があるところの三位殿が、この度は何か思うところがあったのか、私には何の指示もありませんでした。気が付けば主君は何と朝敵となって園城寺に立て籠もっています。正直私も困惑している次第です。」

「確かに三位は朝敵となった。ついては競、どうじゃ、この宗盛に使えんか?御辺のような勇者がこの宗盛に奉公してくれれば悪いようにはいたさんが、如何か?」

「もとより、いくら主従の関係が強固であろうと三位殿は朝敵。味方する気はございません。宗盛様にご奉公致しましょう。」

喜んだ宗盛。その日は朝から晩まで、競を何度も呼び出し、主従の信頼関係を深めようと懸命だったようです。そんな心境を知ってか、夕方頃、競は宗盛に1つ願いでるのです。

③上段:宗盛に馬を貸してくれるよう頼む競
下段:秘蔵の名馬「南鐐」を準備する馬方
「宗盛殿、渡辺党の私の知人たちは、きっと今夜、この六波羅に夜討ちを掛けてくるに違いありません。こちらから先制して園城寺を攻撃したいと思います。ところが、渡辺党に私の馬も取られて困っています。1頭お貸しくださいませんでしょうか。」

これを聞いた宗盛。流石は競とばかりに、秘蔵の名馬「南鐐(なんりょう)」を引っ張り出してくるよう近衛の馬方に申し付けます。(絵③)

④白葦毛 ※南鐐もこんな感じ
南鐐とは上質の銀のことで、美しさの表現です。当時サラブレッドはいませんが、きっとそれに近い筋肉質で白葦毛(しろあしげ)の立派な馬だったのでしょう。(写真④)

競は喜び、宗盛に言います。

「お貸し頂いた名馬・南鐐を駆って、これより宮(以仁王)と三位(頼政)の首級を上げたいと思います。」

馬倉から引き出された南鐐。その金覆輪の鞍に競はひらりと跨ると、颯爽と園城寺の門前に駆け付けます。

◆ ◇ ◆ ◇

そして、閉ざされた門の中で陣を張っているであろう頼政や以仁王に、大音声で叫びます。

「競、只今伊豆守殿の『木の下』の代わりに、六波羅の『南鐐』を取ってまいりました!」

おおーっ!

と大きなどよめきが門の中でおこります。直後に園城寺の門が開きます。

南鐐を門内へと進めると、頼政が出てきて(絵⑤)

「競!立派な武者ぶりじゃ!息子・仲綱の恨みを晴らしてくれたのだな!」

⑤頼政陣営
※競は頼政の右下「瀧口渡邊競」とある
◆ ◇ ◆ ◇

源平合戦の緒戦としては、馬ばかりが一番可哀そうに感じる話ではあります。

なんと、この後、南鐐はたてがみとお尻の毛を剃られ、「昔は南鐐、今は平宗盛入道」との文字を焼き印されたのです。写真④の名馬のお尻の毛が剃られ、そんな変な言葉を焼き印された南鐐を思うと涙が出ますね。可哀そうな南鐐。

もう「木の下」も「南鐐」も、「仲綱」とか昔は南鐐、今は平宗盛入道」とか政争の道具に使わないで貰いたい・・・。お馬さんが可哀そうです。

そして、可愛そうな南鐐を六波羅へ馬だけで返したとか。

◆ ◇ ◆ ◇

返ってきた南鐐を見た平宗盛。平家一族に怒りをぶつけます。

「おのれ!競! 知盛(とももり)、はよ園城寺を攻めよ。重衡(しげひら)、競を生捕りにせよ。忠度(ただのり)、ノコギリでやつの首を少しずつ斬って殺すのだ!」

競は見事、源仲綱の恥辱を雪いだのでした。

2.橋合戦(前半)

園城寺に立て籠もった以仁王と頼政・仲綱父子ですが、強大な平家に軍を差し向けられれば、如何にこの園城寺の僧兵が強いと言っても、持ちこたえることは難しいでしょう。

彼らの望みは、全国の源氏に決起を呼び掛けた令旨が効いてきて、反・平家運動が活発化することです。それまでなんとか僧兵らに守られながら時を稼ぎたかったのです。

元々、以仁王らは、園城寺の他に、比叡山、南都(奈良)興福寺の僧兵たちも一緒に決起するよう周旋しておりました。

⑥南都・興福寺
ところが、清盛は比叡山の座主・明雲(みょううん)と親しく、比叡山は以仁王の側にはつかないどころか、一部の僧兵が平家に味方して園城寺を攻めると言い出しました。(清盛が比叡山に米2万石分も送ったので平家側へ傾いたという説もあります。)

ーこれはまずいー

と思った以仁王と頼政は、ひとまず京や比叡山からは遠く、南都興福寺に落ち延びることにしました。(写真⑥)

比叡山の麓にある園城寺は比叡山から攻めやすいのですが、流石に比叡山も南都まで出向いて戦をするような機動力はありません。また平家もいたずらに興福寺等を攻撃すれば、東大寺の大仏をはじめとした日本の伝統ある寺院群が灰燼に帰す可能性があります。それは人心が益々平家から離れることを意味するので、そうそう安易に大軍で攻めるということはできないでしょう。(結果的に平家は南都を灰燼に帰してしまうのですが・・・)

5月25日、園城寺に入って4日目の夜中に以仁王・頼政軍は興福寺目指して行軍を開始します。平家側もこの動きを察知し、即、以仁王らを追いかけ、南都入りを阻止しようとします。この時の平家側の大将は、先に宗盛が宣告した知盛、重衡、忠度

翌26日、以仁王は夜行軍が響いたのか、元々乗馬も馴れておらず。6回も落馬をしたのだそうです。
流石に、これはヤバいと頼政は思ったのでしょう。途中、宇治平等院にて以仁王を休ませることにしました。(360度写真⑦)


⑦宇治平等院(360°写真)

平等院でのこの停滞が命取りになりました。平家軍は追い付きます。

勿論、頼政側も無防備に平等院で昼寝をしていた訳ではなく、以仁王を平等院にて仰臥させると、取って返し、宇治川を渡る橋の橋板を外し、来るべき平家軍と対するために橋たもとに陣を張ります。(絵⑤のイメージ)

平家軍が現れました。怒涛の如く頼政の陣目掛け、橋を渡ってきます。(絵⑧)

⑧宇治川の橋を渡ってくる平家軍(左)
頼政の軍は園城寺の僧兵が主体(右)
※アニメ「平家物語」から

平家先陣が
「あ、橋板が無い!」
と気づいて急ブレーキを掛けますが、後陣の武者たちががむしゃらに押してくるため、人馬もろとも、次々と五月雨で増水した宇治川に墜ち、流されていきます。

また園城寺の僧兵が大活躍します。
まずは、五智院(園城寺の僧院の1つ)の但馬。(絵⑨)
鎧も付けず、楯も持たずに、飛んでくる矢を、見事に斬っては落とし、斬っては落とししてみせたので、後に「矢切の但馬」と云われたとのことです。
⑨五智院但馬の矢切場面
※アニメ「平家物語」から

次に登場するのが浄妙坊。
橋の上で、大声で名乗りをあげ、背負った24本の矢を射始めます。

1本の矢の無駄も無く12人を射殺し、11人に負傷させ、残り1本となったところで、長刀を鞘から抜き放ち、弓も箙(えびら:矢を入れる筒)も、毛皮の沓も脱ぎ捨てるのです。そして裸足で狭い橋桁の上を、まるで広い路を走るように、軽やかに動き回ります。
敵を5人なぎ倒したところで長刀が折れ、更に太刀で8人程切り伏せました。
しかし、太刀も川へおちてしまいます。

この浄妙の大活躍に心酔した一来(いちらい)法師。浄妙を助けようと後に続きます。ところが橋桁は狭く、傍を通り抜けることもかないません。
そこで、「御免候え」といって浄妙の兜の上に手を乗せ、肩を飛び越して浄妙の全面に出たものの、浄妙の代わりに矢に当たり討死してしまいました。

勿論、渡辺競、渡辺省(はぶく)ら渡辺党も大活躍。競はこの戦で自害したという話もあります。

そんなこんなで平家軍は、なかなか頼政の陣に切り込むことが出来ません。

◆ ◇ ◆ ◇

前半戦こそ、これら園城寺の豪傑の勢いに押され気味の平家軍。後半、沈着冷静な頭脳プレイで盛り返します。詳細は次回お話させてください。

ご精読ありがとうございました。
《続く》

日曜日

頼朝杉⑮ ~以仁王の令旨~

 文覚がとってきた院宣と彼の叱咤激励により、平家打倒の挙兵へと傾く頼朝。
周到に文覚や安達盛長らと、伊豆や相模、上総等の坂東の豪族の支援の約束を取り付けることに奔走します。

そんな中で、有名な以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が、伊豆の頼朝の元にも下されるのです。

1.以仁王の令旨

①以仁王
wikipediaより
鹿ケ谷事件以後、後白河法皇と平清盛との対立はますます険しくなります。

そして治承3年(1179年)11月、清盛は数千の兵を率いて京に入り、後白河法皇の院政を強制停止させます。(治承三年の政変)

平家に反抗的な摂政・藤原基房(もとふさ)を大宰府へ左遷、太政大臣以下39名の公卿を解任と政体崩しを徹底します。

更には後白河法皇を鳥羽殿(とばどの)へと押し込めてしまうのです。

源頼政(よりまさ)と一緒に文覚に平家打倒を説いた藤原光能(みつよし)も、この時解任されています。

◆ ◇ ◆ ◇

このような非常事態に大反発したのが、後白河法皇の皇子・以仁王です。(絵①)

以前のブログ「頼朝杉⑦ ~髑髏と院宣~」でも触れておりますが、以仁王は、父である後白河法皇の妻・滋子によって、天皇の継承権をはく奪されるという不遇な道を歩まされているのです。(系図②)

②以仁王は見事に皇位継承路線から外されている

以仁王は、源頼政を頼りとします。

そう、今までこのブログに何度も登場して頂いた鵺(ぬえ)退治の頼政です。頼政に以仁王は言います。

「朝議にあって三位という最高位の源氏である貴殿が、清盛打倒に立ち上がれば、日本全国津々浦々の平家に恨みをもつ源氏諸氏が決起し、容易に清盛は滅ぼすことが出来ると考えるが、如何か?頼政。」

以前もお話しましたが、頼政は権威と女には、めっぽう弱いのです。皇族である以仁王に「源氏の最高位にいる頼政」と言われれば

ーそうか。俺が今の源氏の中ではNo.1なのだな?ー

と少しは気分がいいはずです。

しかし、自分を三位にしてくれたのは、その以仁王が滅ぼそうと言っている清盛なのです。ただ、この後詳細を述べますが、1つ大きな平家の横暴事件が息子の仲綱(なかつな)に降りかかり、頼政も頭に来ているのも事実です。以仁王もそれを知っているからこそ、きっと頼政が平家打倒に賛同すると踏んでいるのです。

頼政は、やはり葛藤します。

そして流石老練な頼政、平家打倒に協力するも、自分が前面に出ない、いざとなったら逃げを打てる方策を考え付きました。

「分かり申した。ではこの頼政、全国津々浦々の源氏が決起する際には、この老体(この時77歳)に鞭を打って、陣頭に立ちましょう。

ただ、まず間違いなく全国の源氏が決起する必要があります。そのためには、私が何某かの御教書(みぎょうしょ:三位以上の地位にある人が主の意思を奉じて発給する文書)を出すよりも、以仁王さまが令旨(りょうじ、皇太子ならびに皇太后・皇后等の命令を伝えるために出される文書)を発出する方がよかろうと存じます。

またこの令旨を頼政配下ではなく、隠遁している源氏の者に全国津々浦々に伝えさせましょう。この頼政が動くと目立ちます。」

2.頼朝への令旨

③『平家物語絵巻』「源氏揃えの事」
 以仁王の令旨を諸国の源氏に伝え
歩く源行家と従者
(林原美術館所蔵)
この令旨を全国の源氏に伝え歩くメッセンジャーの役割をしたのが、頼朝の父・義朝の弟・源行家(ゆきいえ)です。(絵③)

彼は生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けていたとの評価がありますが、やはりその行動は人と人とのコンタクトですから、平家側へバレちゃうのですね。

まあ、行家が令旨を届けた後、各地で挙兵準備をしている間に、このような動向は平家に漏洩するのは当たり前です。

しかしながら、発覚する時期がもう少し後であれば、まだ計画的に頼政や以仁王も対応することができたのでは?また、源頼朝や土佐冠者(とさのかじゃ)こと源希義(まれよし)等ももう少し兵力を集め、緒戦の敗戦は無かったのではないか?等色々と想像してしまいます。頼政も77歳の老齢で皺腹掻っ捌くことも無かったかもしれません。

話を戻します。

頼朝のところには、治承4年(1180年)4月24日に届けられました。

「吾妻鏡」には、「そのとき頼朝は水干(すいかん)を着用して恭しく石清水八幡宮を遥拝(ようはい)してから令旨をおしいただき、披閲(ひえつ)した。」とあります。

以仁王の令旨を拝受したこの時、初めて頼朝が挙兵を決意したようなことが書かれている物語は沢山あります。ところが、頼朝は既にこの時、挙兵準備から1年8か月程も経っていたのです。

それは「吾妻鏡」にも彼が令旨を拝したのは、蛭ヶ小島ではなく、守山にあった北条館で受けたことからも、分かります。既にこの頃、北条時政らと挙兵プランを練っている最中だったと思われます。(写真④)

④守山八幡宮(頼朝挙兵前の館)

そして頼朝は新たなる決起の心構えと武運長久を祈った願書を記し、日胤(にちいん)に送るのです。

3.日胤

日胤は、挙兵にあたり頼朝が味方に引き入れることを重要視した千葉常胤(ちば つねたね)の息男です。

彼は園城寺(おんじょうじ)の僧となり、頼朝の祈祷僧を務めていました。(写真⑤)

⑤園城寺(滋賀県)

頼朝のために石清水に千日参籠して祈祷していた最中に、頼朝が送ってきた先の新たな願書を受け取ったのです。

それは丁度600日目の参籠の頃でした。

ということは、既に1年半以上前から、日胤は頼朝のための千日祈祷に入っていたことになります。先に述べた通り、既に頼朝は挙兵プランを始動しており、北条館でそのプランを練る一方で、前回のブログで述べましたように伊豆や相模、房総半島に至る各地の豪族への支援要請に文覚や安達盛長らを奔走させていたのでしょう。

ブログ「頼朝杉⑨ ~過去の誓い~」でも触れましたが、そもそも日胤に千日祈祷をさせたきっかけも、後白河法皇の院宣を取り付けた文覚が、頼朝に働きかけたことによると、文覚研究の第1人者・山田昭全氏はその著書の中で述べています。

また日胤に対しても、文覚はその兄・千葉胤頼(たねより)を介して知り合っていた可能性が大きいです。胤頼については、また後ほど書きます。

4.戒め夢

源行家から令旨を頂いた頼朝は、ちょうど相模の国の渋谷重国に支援要請から帰ってきたばかりの文覚を北条の守山館へ呼び寄せ、以仁王の令旨を見せます。

⑥挙兵時に活躍する源仲綱
「これはまた、以仁王も思い切ったことをされたものですな。以仁王が不遇だったことは、佐殿(すけどの、頼朝のこと)も良くご存じでしょう。京からの三善(みよし)康信殿からの定期的な通信文書にも津々その状況は記載されておりましたからな。
先日、渋谷重国殿のところで、久しぶり会った私の古巣の渡辺党の一人から、ここ伊豆の仲綱殿が、かなり拙い諍いを平家の宗盛(むねもり、兄・重盛亡き後は平家総大将となる人)殿と引き起こしたと聞いております。そのあたりで、もし以仁王が、仲綱殿とその父上・頼政殿を焚きつけたとすれば・・・。」(絵⑥)

「だとしたら何だというのじゃ、文覚。」

「以前、佐殿には私が福原に後白河法皇の院宣を拝受してきた折、夢の中に御父上の義朝殿のシャレコウベが現れ、『頼政と一緒に挙兵してはならぬ』と言った戒め夢を見たお話をさせていただいたかと存じます。」(ブログ「頼朝杉⑦ ~髑髏と院宣~」参照)

「ああ、確かその後、藤原光能に夢の解説をしてもらったと言っておったな。頼政の挙兵は『軽挙妄動』になる可能性があるからだろうとな。」

「はい、まあ今回の愚かな平家との諍いを聞いていても、頼政・仲綱らは一時的な感情に流されがちなのが気になります。行家殿など源氏一族に令旨の伝達を任せる等、雑説(情報)漏洩も心配ですね。令旨で決起を促された全国の源氏が立ち上がる前に、清盛に知られ、以仁王が攻められた時、頼政は以仁王を冷静に見殺しにできますかな。無理でしょうな。きっと以仁王を助けるために無謀な挙兵をするでしょう。その動きこそ『軽挙妄動』ではないかと。」

「頼政は清盛に気に入られ、長年四位だったものを、平家以外の武家としては珍しい三位になる引き立てをしてもらったのに、何故に反乱の狼煙を上げるのだろう。文覚どんな諍いだったのだ?」

「つまらない話ですよ。」

と言って文覚が話をし始めました。

5.名馬を巡る諍い

平家物語にもあるこの話。なんか子供の喧嘩のようなお話です。

さて、源頼政の嫡男である伊豆守・仲綱は、京で「木の下(このした)」という名馬を持っていました。

⑦平宗盛

伊豆の牧の郷には工藤家・狩野家が名馬を沢山もっており、その中の名馬は頼朝も馬好きにするほどのもので、当然、伊豆守である仲綱にも献上していたという訳です。

そこに、平清盛の三男である宗盛(むねもり)が、仲綱に「評判の名馬を見たいものです。」と使者を送ってきました。(絵⑦)

すると仲綱は

「最近、木の下に乗り過ぎてしまったため、知行国の伊豆へ送り休養させております。」

と返事をします。ところが、他の平家の人たちが、「え?木の下は昨日も仲綱が庭で乗り回していましたよ。」とか「今日もいるのを見ています。」等の報告が続々。

まあ、それだけ人に見せたくも、渡したくもない程、仲綱は木の下を愛していたのでしょう(笑)。

しかし、宗盛は「下手に出ているのになんという男だ。」と激怒。

「その馬を所望する」と強く出てきました。

当時、重盛と宗盛は父・清盛と後白河法皇の間に入り、両者の間を取り持つのに腐心していたのです。平家の長者である重盛は、清盛とはまた違う気性で、後白河法皇への忠も建てよう、清盛への孝も建てようと生真面目にやり過ぎたせいで病死してしまいました。

宗盛は重盛程、長者の風格は無いがため、ストレスも重盛程は溜めなかったのでしょうが、流石に知行地・伊豆の国衙(こくが)にも行かず、頼政の基で「木の下」と遊んでいる仲綱に内心イライラする思いだったのでしょう。しかも、「平家にあらずんば人にあらず」の絶頂期に平家No.2の宗盛に嘘までつくとは。

毎日「木の下を譲れ!」と8回も文を送ってきたようです。ストーカー並みです。

まあ、仲綱もあまり賢いやり方ではないですね。ここで良識のある父・頼政が出てきて

「たとえ黄金を丸めて作った馬であっても、そこまで欲しがるものであれば、宗盛殿へ譲ることを惜しむべきではない。お前は一度、伊豆の国衙に戻り、牧の郷で新たな良き馬を見つければ良いのだ。」

と諭します。

「父上がそうおっしゃるのであれば・・・・」

ということで渋々、木の下を宗盛に送るのです。1首歌を添えて。

⑧「仲綱」と焼き印された木の下
※山下景子氏「イケメン平家物語」より
戀しくは きてもみよかし 身にそへる
かげをばいかゞ はなちやるべき

訳:それほど恋しいならば,こちらへ来て見られるがよい。私の身に沿って離れぬ影とも言うべきこの鹿毛を,どうして手放す事が出来ようか。
※『かげ』に『影』と『鹿毛』を掛ける

仲綱も未練がましい気がします。何も言わずスパッと渡せばいいものを。まあ、馬を持ったことはないので分かりませんが、そんなに惜しかったのでしょうね。

◆ ◇ ◆ ◇

この歌を見た宗盛はまた激怒。

「おお、確かにあッぱれな馬や。馬はまことによい馬だが、あまりに主(仲綱)が惜しむので、主の名を金焼(焼き印)にせよ。

と部下に言い、「仲綱」という焼き印を押します。(絵⑧)

そして、客人が来るたびに

「世に聞こえたる名馬を見てくだされ」と言うと、従者に「その仲綱めに鞍置いてひきだせ。」 そして客人に「仲綱めにお乗りください。仲綱めの尻に鞭を打ってください!尻っぺたひっぱたいてください!」

と木の下を虐め抜いたのです。これを聞いた仲綱が男泣きに泣いたのは言うまでもありません。

頼政も流石にこれには閉口し、静かに平家に対するリベンジを考えるのでした。

6.頼政と同時には挙兵せず

「流石にそんなことだけで、頼政殿が反乱を起こすとも思えんが・・・」

「勿論、これは横暴な平家の振舞に対する1例に過ぎないのだと思います。ただ、平家の連中は、源氏がどれほど侮辱されても仕返しできまいと思っている とか、戦えば十中八九我々は負けるだろう、しかし勝ち負けの問題ではない とか 一寸の虫にも五分の魂 等の発言をその者は頼政と仲綱との会話できいております。累積した鬱憤を考えると頼政殿は挙兵するのでしょう。」

「文覚、それを聴いていたのは誰か?」

「はっ、頼政の部下集団である渡辺党一人・渡辺競(きおう)です。渋谷重国に身を寄せている近江源氏の佐々木氏に20年以上前から頼まれていた先祖代々から伝わる鎧兜を届けに来ていました。生きている間に佐々木氏との約束を果たしたのでしょう。直ぐにまた頼政殿の基に戻り挙兵に備えるようです。」

「うーむ」

頼朝も以仁王と頼政の挙兵が間近に迫っていることを感じました。

ー行家叔父の行脚による令旨の布告なぞ、誰かが直ぐに平家にタレこむ。これで平家の手入れでもあれば、即挙兵に転じるな。ー

「この辺りが動機だとすると、頼政殿らも少し考えが甘いのです。そもそも権威指向の頼政殿は以仁王への期待が大きく、また以仁王は、平家以外の武家に設定されていた四位の天井を突き破った頼政殿に期待する。双方が双方に期待すれば、結果は双方が双方に失望するのが古今東西の習わし。」

と文覚は決めつけます。

「しかし、それでは以仁王が倒れたら、この令旨はどうなる。令旨を発出した本人がいなくなれば、無効になるのではないか?」

⑨千葉常胤
(猪鼻城)
頼朝は心配顔です。

「いえいえ、令旨が無効になるということはござるまい。万が一、そのようなことを主張する御仁があっても、我々には後白河法皇の院宣がございます。」

ーそうか。そういえば文覚が伊豆を脱走し福原まで行ってとってきた院宣があったなー

石橋を叩いても渡らないタイプの頼朝。ここまで確認して少しホッとします。

「頼政殿はいつ頃挙兵すると予測する?文覚」

「はっ、ここ1,2か月内には。令旨交付は絶対漏洩します。いや、もう漏洩しているかもしれません。」

「となると、挙兵は5月~6月頃となるわけだな。では、我々が旗揚げできるのはいつ頃か?」

「まだ半年は欲しいところです。北条、狩野、天野は勿論、三浦、土肥、比企は説得できたものの渋谷は中立です。伊東、大庭、畠山、江戸はダメです。せめて後、千葉常胤(つねたね)殿は説得してからでないと。早くて10月頃かと。」(写真⑨)

「うーむ」

頼朝はまた腕を組んで考え込みます。

文覚は続けます。

「一昨日、京にいる千葉常胤の六男・胤頼(たねより)に文で、一言常胤殿への参陣説得を依頼しております。胤頼殿は私の父の推挙により、上西門院で私と一緒に滝口の武士として仕えておりました。その時に私とは師弟の関係を結んでおります。私がここ伊豆に流される時も、私に同心する旨誓ってくれた信用置ける人物です。私も彼と同行して下総の常胤殿を説得したいと考えています。」

「分かった。ことを急いでくれ。頼政殿との挙兵一致は残念ながら無理だな」

7.頼政挙兵(前編)

文覚の予想通り、頼朝のところに行家が来た一週間後の5月初めには、平家側へ令旨の件は露見していました。

5月15日には、平家が糸を引いて以仁王の臣籍降下を発令、以仁王をひっ捕らえに兵を屋敷に向かわせます。

⑩女装をして園城寺へ向かう以仁王
(月岡芳年画)
この時点では頼政の関与は平家側に察知されておりません。頼政自身が前面に出ない方策が功を奏しているのです。この時点で「挙兵失敗」と判断し、頼政は平家側に寝返る方法も選択しえたのかもしれません。

ところが仲綱は「木の下」の恨み一直線です。平家の兵が以仁王の屋敷に着く前に以仁王に知らせるのです。以仁王は女装をして、日胤の手引きにより園城寺へ逃れます。(絵⑩)

16日、平家は園城寺に以仁王の引き渡しを求めますが、園城寺はこれを拒否。更に延暦寺、興福寺にも協力を呼びかけます。

21日、平家は宗盛以下の一門+源頼政を大将とする園城寺攻撃軍が編成されます。この時点でも頼政はまだ清盛恩顧の忠臣とみなされているのです。

ところが、仲綱が黙っていません。

「父上、木の下虐待をお忘れか。あの時、父上も涙を流し、平家の横暴を一緒に嘆いてくださったではござらんか。」

「・・・」

その日の夜、頼政は自宅を焼き払い、仲綱と約50騎を率い、園城寺に入りました。(360度写真⑪)

⑪園城寺から琵琶湖、比叡山方面(左側)を臨む(360度写真)

この以仁王・頼政の挙兵により、これから壇之浦合戦まで連綿と続く「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」の火蓋が切って落とされたことになるのです。

先に出てきました文覚の古巣・渡辺党の1人、渡辺競(きそう)。この挙兵で胸のすくような動きを見せ、仲綱と木の下の恨み返しをしますので、次回もお楽しみに!

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【守山八幡宮】〒410-2122 静岡県伊豆の国市寺家1204−1

【園城寺(三井寺)】〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246