今年は午年。さらに60年に一度の「丙午」という、特別な年です。
この貴重な機会に合わせ、13年前に書いたブログをリニューアルすることにいたしました。
「馬」に関する記事を、改めて投稿させていただきます。
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| ➀たまプラーザは牧だった? |
今から19年前、横浜市青葉区の美しが丘西に引っ越してきた頃のことです。当時はまだ、家の前には広々とした空き地が残っていました。
この辺りは横浜と川崎の分水嶺(ぶんすいれい)にあたり、南は鶴見川、北は多摩川へと続く斜面になっています。私はその独特な地形を見て、特に南側斜面は「ここは昔、牧場だったのではないか」と直感的に思いました。
驚いたのは、そう確信してからわずか一週間後のことです。なんと、我が家の前を本物の馬が歩いているではありませんか!それも真っ白で美しい馬が、馬車を引いて進んでくるのです。(写真①)
その後も、この馬車や、時には馬車は引かずに、拙宅前をお散歩する姿を、何度も見かけるようになりました。
公園や動物園ならいざ知らず、ごく普通の住宅街になぜ馬が……?
「やっぱり、ここは最近まで牧場だったんだ!」
そう思って調べてみたところ、意外な事実が分かりました。
実は、近所の動物病院の院長先生が馬のオーナーだったのです。普段は東京・成城にある大学の乗馬部に預けている馬を、時々病院へ連れてきては、我が家の前を含む大通りをお散歩コースとして走らせていたのでした。
右上の写真は他の方のブログからお借りしたものですが、景色から察するに我が家から100メートルほどの場所で撮影されたようです。4車線もある大通りを颯爽と進む姿は、まさに圧巻。
どうです?実に見事な馬車でしょう。
決して見世物などではなく、これが当時のこの街の、日常の風景だったのです。
1.驚きの真実!我が家の周辺には本当に「牧」があった
前置きが長くなりましたが、住宅街を馬が悠々と闊歩する光景は、古の「牧(まき)」に思いを馳せていた私にとって、まさに衝撃的な出来事でした。
独特の地形や、日常に溶け込む馬の姿を目の当たりにして、「もしかしたら、ここはかつて牧場だったのではないか?」と、半分は空想に近い直感を抱いていました。
もともと関東平野は名馬の産地であり、それが東国武士たちの台頭を支える原動力となった歴史があります。「この場所も、その歴史の一部だったのかもしれない」と自分なりに確信を強め、改めて調べてみました。
すると、驚いたことに……なんと、本当にこの場所には「牧」が存在していたのです。
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②石川牧 ※文献の土地名から私が作成
2.石川牧の総鎮守「驚神社」の由来
地図②のA地点に位置するのが、かつての石川牧の中心施設、今回の史跡巡りの真打ちともいえる「驚(おどろき)神社」です。(私がさっきから驚いてばかりいるからこの名前になった……というギャグではございませんので、あしからず!)
 実は鎌倉時代以前から、昭和14年という比較的最近まで、地図②に記された広大なエリアは「 石川牧」と呼ばれる巨大な馬の牧場でした。その牧場全体の守り神(総鎮守)として建立されたのが、この驚神社なのです。(写真右) では、なぜ「驚」という一風変わった名前がついたのでしょうか? この「驚」という漢字、上下に分解してみると「敬」と「馬」、つまり「馬を敬う」という構成になっています。もともとは縦書きで「敬馬(けいま)神社」と記されていたものが、いつしか一文字に合わさって「驚神社」になったのだとか。
非常に趣のある、そして馬への愛が詰まった素敵な当て字だと思いませんか? 3.源頼朝も認めた?超名馬の生産地としての誇り
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さて、我が家もその範囲に含まれていた「石川牧」。一体どれほどの馬を産出していたのでしょうか。
調べてみると、驚くべき伝承が残っていました。なんと、源頼朝の第二の名馬「磨墨(するすみ)」と、名将・畠山重忠の名馬「三日月(みかづき)」は、この石川牧から献上されたというのです。源氏の歴史を語る上で欠かせない、トップクラスの名馬がここから誕生していたとは驚きです。こちらがその記事です。(やはり、驚神社だけに驚いてばかりいますね。)
もっとも、「磨墨」の出身地については、大田区の馬込や駿河、香取、岐阜など諸説あります。さすがは頼朝の愛馬、各地で「うちこそが故郷だ」という引き合いが沢山あるのでしょう。(写真④)
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| ④磨墨の像(馬込) |
逆に、馬込や駿河、香取、岐阜などの地方から、磨墨は、この石川牧に連れてこられて、調教や走りの訓練をするのであれば、鎌倉に近い石川牧は有力な牧と思います。名馬の一時逗留・調教場所だったのではないでしょうか?
ちなみに磨墨といえば、もう1頭の頼朝の第1の名馬・池月(いけづき:生唼とも書く:写真⑤)との宇治川合戦での先陣争いが有名ですね。ちょっと話が脱線しますが、この名馬2頭宇治川合戦の一番乗りエピソードの話を書きたいと思います。
詳細は後述しますが、実はこの池月も割とこの石川牧に近い新横浜の辺りで生涯を終えていることが分かりました。
4.名馬を巡る駆け引き:梶原景季と佐々木高綱
物語の背景には、源頼朝を支えた二人の武士の存在があります。
一人は、石橋山の戦いで窮地の頼朝を救った梶原景時(かげとき)。彼は後に軍監として源範頼・義経軍に従軍しますが、その嫡男である
景季(かげすえ)もまた、木曽義仲討伐軍の一員として戦いに加わりました。
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| ⑤池月の像(洗足池) |
出陣を前に、景季は頼朝にある願い出をします。 「どうか、第一の名馬『池月』を今回の討伐に貸していただきたい」
武士にとって馬は命を懸けて戦うための「最大の兵器」です。当時は、優れた馬を主君に願い出ることは決して恥とはされず、むしろ戦いへの強い意欲の表れでもありました。
しかし、頼朝はこれを拒みます。 「池月は、いよいよ私自身が平家討伐に出陣する時まで、厩(うまや)に置いておきたいのだ」
それでも景季は諦めません。「これほどの優秀な馬を、厩に繋いだままにしておくのはあまりに勿体ない」と食い下がります。その熱意に根負けした頼朝は、「ならば、第二の名馬『磨墨』を貸そう」と約束しました。景季は喜び、磨墨を連れて西へと向かいます。
ところが、事件は西へ向かう道中で起こりました。 名古屋(鳴海)あたりで一息ついている景季の目の前を、なんと佐々木高綱(たかつな)が、あの「第一の名馬・池月」を曳いて歩いてくるではありませんか!
佐々木高綱といえば、頼朝挙兵の初期から幾多のピンチを共に乗り越えてきた、いわば「旗揚げ以来の同志」です。頼朝は、自分に準ずる特別な功労者である高綱に、密かに池月を託したのかもしれません。
ちなみに、この高綱は後に、現在の新横浜駅近くにある「烏山(からすやま)」に屋敷を構えることになります。(写真⑥)
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⑥佐々木高綱の屋敷があった烏山八幡宮 ※日産スタジアムが正面に見えます |
話を戻します。
池月を引いて歩く佐々木高綱の姿を見た景季は、言葉にできないほどのショックを受けます。 「あれほど必死に頼み込んだ私にはくれなかったのに、なぜ高綱には与えたのだ! 武士として、これほどの恥辱はない……」
あまりの悔しさに、景季は「高綱を討ち果たし、自分も自害して果てよう」とまで思い詰めます。そして、決死の覚悟で高綱のもとへ歩み寄り、こう問いかけました。
「おい、高綱。それは間違いなく『池月』だな? 一体どうした、鎌倉殿(頼朝のこと)から下賜(かし)されたのか?」
すると、高綱は平然とこう答えたのです。 「おお景季か。この馬か?……実はな、鎌倉殿にお願いしても絶対に貸してもらえないと思ったから、厩(うまや)からこっそり盗み出してきたのさ!」
これを聞いた景季は、驚きで目を丸くしました。 「あはははは! そうか、盗み出したのか! その手があったか!」
高らかに笑い飛ばした景季は、「上には上がいるものだ」とすっかり毒気を抜かれました。そして再び愛馬・磨墨を連れて、清々しい気持ちで京を目指して歩き出したのです。
◆ ◇ ◆ ◇
しかし実は、高綱が言った「盗み出した」という話は、真っ赤な嘘でした。
真実はこうです。高綱も景季と同じように「池月」を欲しがって頼朝に食い下がり、頼朝も「またか!」と辟易しながらも、「いいか、絶対に誰にも『借りた』と漏らすなよ」と念を押して貸し与えていたのでした。
磨墨を連れた景季のただならぬ殺気を感じ取った高綱が、とっさについた機転の嘘。これが、一人の武士の命を救い、のちの伝説へと繋がっていくのです。
5.伝説の「宇治川の先陣争い」
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| ⑦宇治川先陣之碑 |
平家を京から追い落とした木曽義仲(きそ よしなか)でしたが、その軍勢の振る舞いは横柄で、義仲自身も宮中の慣習に馴染めず、後白河法皇と対立してしまいます。法皇の命を受けた頼朝は、早速源範頼・義経に軍を与え、西上させるのです。この鎌倉からの軍は、義仲を討つべく、宇治川を挟んで対峙しました。
この時、全軍の先頭を切って川を渡る「一番乗り」を競い合ったのが、あの二人です。(写真⑦)
頼朝から名馬を授かった景季と高綱。二人は「主君からこれほどの馬を借りた以上、何としても一番乗りを果たさねばならない」と、凄まじい執念で競り合いました。
まず「ざんぶ」と川に乗り入れたのは、梶原景季でした。磨墨は泳ぎが得意なだけでなく、主の命を忠実に守る、実にかしこい「賢馬」です。これはもしかすると、我らが「石川牧」での英才教育?(調教)が実を結んだ結果かもしれません。
一方、佐々木高綱も必死に池月の尻を鞭で叩きますが、池月は水が嫌いなのか、なかなか川に入ろうとしません。実はこの池月、とんでもない「暴れ馬」だったのです。
池月には決まった育成の記録がありません。一説には、洗足池(東京都大田区)の周辺を飛び回っていた野生馬だったと言われています。月明かりに照らされた馬体が、池の水面に映る月と重なってあまりに美しかったため、それを見た頼朝が「池の月と同じくらい美しい!」と感動し、「池月」と名付けたのだとか。(写真⑤)
頼朝は石橋山合戦敗北後、房総半島安房から江戸湾(東京湾)をぐるっと廻り、鎌倉入りを果たそうとしていました。その途中、この洗足池辺りを通ったらしいです。
「このままでは、鎌倉殿から拝領した第一の名馬の名が廃(すた)る!」
焦る高綱は、嫌がる池月を強引に川へ押し込み、磨墨を追います。しかし、磨墨はすでに喉元まで対岸に迫り、今にも一番乗りを達成しようとしていました。(絵⑧)
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| ⑧宇治川合戦で腹帯を直す景季 |
その時、高綱が磨墨の背にいる景季に向かって叫びました。
「おい景季! 馬の腹帯(はらおび)が緩んでいるぞ! そんな無様な姿で一番乗りを果たしても、末代までの恥だぞ!」
生真面目な景季は、慌てて腹帯のチェックを始めました。その隙を見逃さず、一気に横を駆け抜けた高綱。対岸に渡り切るや否や、「やあやあ、我こそは近江源氏、佐々木家が四男、佐々木四郎高綱なり!」と大音声で一番乗りの名乗りを挙げたのです。
この後も二人は切磋琢磨し、平家討伐において輝かしい戦功を立てていきます。
6.頼朝の「人馬活用」に見る深慮遠謀
一説には、この馬の与え方にこそ、頼朝の深い洞察力が隠されていると考える人もいます。
もし情熱的で直情型の景季に、暴れ馬の池月を与えていたら、二人(二頭?)で大暴走していたかもしれません。沈着冷静な高綱だからこそ、気性の荒い池月をコントロールできたのです。 逆に、石川牧で調教された素直な磨墨であれば、景季の熱意を余さず受け止め、最大限の能力を発揮してくれる――。
二人の武将の性格と、二頭の名馬の特性を見抜き、最高のパフォーマンスを引き出した頼朝の采配。もし本当にそこまで計算していたのだとしたら、頼朝という人物は恐ろしいほどの天才プロデューサーですね。
7.受け継がれる絆と、忘れ去られた名馬の今
さて、この物語の主役の一頭である「池月」ですが、実は先ほどご紹介した佐々木高綱の屋敷(現在の新横浜駅近く)のすぐそばに、彼のお墓を見つけました。(写真⑨)
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⑨池月のお墓である馬頭観世音 ※この右側の道路を1か月に2,3度往復しています |
高綱の屋敷のすぐ近くに池月の墓があるということは、この名馬は結局頼朝に返されることなく、最期まで高綱と共に過ごしたのでしょう。
「暴れ馬で誰の言うことも聞かない」と言われた池月が、高綱にだけは心を許し、生涯を共にするパートナーとなった……。頼朝もまた、二人の間に生まれた強い絆を認め、そのまま高綱に託したのかもしれません。そう考えると、戦場のエピソードもまた違った輝きを帯びて見えてきます。
しかし、そんな歴史の余韻に浸る一方で、今の現状には寂しさを禁じ得ません。
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| ⑩馬頭観世音の左側にある看板 |
宇治川の合戦で一番乗りを果たした名馬・池月を祀る「馬頭観世音」ですが、写真⑩の通り、その案内看板は見る影もなく傷んでいます。下半分は剥がれ落ち、そこにあったはずの「池月(生唼)」の名も、今では一文字も読み取ることができません。
これほどの名馬が眠る場所が、無関心の中に放置されているのは、歴史を愛する者として非常に残念でなりません。
あまりに忍びないので、今度この記事をプリントアウトして、クリアフォルダに入れ、そっと看板の横に貼ってこようかと思っているところです(笑)。かつてこの地を駆け抜けた白い馬たちの記憶を、少しでも多くの方に知っていただくために。
8.名将・畠山重忠と愛馬「三日月」の絆
石川牧が生んだもう一頭の名馬、それが畠山重忠(はたけやま しげただ)の愛馬「三日月」です。かつて、この「三日月」が私の家の周りを闊歩していたのではないか……そう想像するだけで、歴史のロマンに胸が躍ります。
思えば小学生の頃、学研の『科学と学習』の付録漫画で「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を読んだのが、彼との出会いでした。
崖を前にして、「鹿が通れるなら、同じ四足の馬も通れるはずだ!」と勇ましく駆け下りる源義経。その姿に「かっこいい!」と痺れる一方で、私の心に強く残ったのが畠山重忠の行動でした。
「こんな険しい崖を駆け下りては、馬がかわいそうだ。私が背負って行こう」
そう言って、自分よりも大きな馬を軽々と背負い、崖を下っていく重忠の姿。その圧倒的なパワーに驚くと同時に、相棒を労わる優しさに深く感動したものです。 そう、その時背負われていた馬こそが、石川牧ゆかりの「三日月」なのです。あの有名な伝説の主役が、この土地と繋がっていると思うと、時代を超えて急に身近な存在に感じられます。
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| ⑪畠山重忠の馬担ぎ像 |
左上の写真は「畠山重忠公史跡公園」にある銅像ですが、やはりしっかり「三日月」を背負っていますね。……実物を見ると、その光景はなかなかシュールで、ちょっと微妙な気もしますが(笑)。(写真⑪)
実は重忠には、昔から不思議な縁を感じていました。鎌倉にある彼の屋敷跡は、私が中学生になる頃までずっと草ぼうぼうの空き地だったため、「鎌倉時代からずっと空き地のままなのかな?」と子供心に勘違いし、勝手に親近感を抱いていたのです。
さらに、彼が最期を迎えた合戦の地「鶴ヶ峰」も、現在の住まいからほど近い場所にあります。まさに私にとって、切っても切れない縁のある武将。彼については、またいつかじっくり特集を組んでみたいと思います。
9.「馬を敬う」心を現代に
これほどまでに名だたる武将たちの愛馬を輩出してきた、伝統ある石川牧。その総鎮守である「驚神社」ですが、残念ながら現代では、知る人ぞ知るマイナーな史跡となってしまった感があります(関係者の皆様、ごめんなさい!)。
普段、境内を訪れる人はまばらで、すぐそばまでマンションなどの開発の波が押し寄せています。あざみ野や中川などの洗練された住宅街の中で、かつての広大な牧の面影を留めておくのは、時代の流れとして仕方のないことなのかもしれません。
しかし、私がこの地に越してきた時に感じた「ここは昔、牧だったのではないか」という直感。そして、住宅街を悠々と闊歩していたあの白い馬の姿――。
それらはもしかすると、鎌倉時代という遥か古の時代から、この地に宿る馬たちの霊が私たちに語りかけていた「記憶」なのかもしれません。
便利さを追求し、車社会となった現代。私たちは「馬を敬う」という心を忘れてしまってはいないか。あの白い馬の登場は、そんな現代人へのアラームだったのではないか……。
9月。蝉時雨(せみしぐれ)が降り注ぐ境内に、参拝客は私たちだけ。 その静寂の中で、私はそんな懐古的な想いに深く浸っていました。
馬を敬い、馬と共に生きた先人たちの息吹は、今もこの街のどこかに、確かに息づいています。
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⑫驚神社本殿 ※13年前の写真です |
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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【驚神社】神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目