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日曜日

驚神社 ~石川牧と頼朝・畠山重忠の名馬たち~

今年は午年。さらに60年に一度の「丙午」という、特別な年です。 この貴重な機会に合わせ、13年前に書いたブログをリニューアルすることにいたしました。 「馬」に関する記事を、改めて投稿させていただきます。

➀たまプラーザは牧だった?

今から19年前、横浜市青葉区の美しが丘西に引っ越してきた頃のことです。当時はまだ、家の前には広々とした空き地が残っていました。

この辺りは横浜と川崎の分水嶺(ぶんすいれい)にあたり、南は鶴見川、北は多摩川へと続く斜面になっています。私はその独特な地形を見て、特に南側斜面は「ここは昔、牧場だったのではないか」と直感的に思いました。

驚いたのは、そう確信してからわずか一週間後のことです。なんと、我が家の前を本物の馬が歩いているではありませんか!それも真っ白で美しい馬が、馬車を引いて進んでくるのです。(写真①) その後も、この馬車や、時には馬車は引かずに、拙宅前をお散歩する姿を、何度も見かけるようになりました。

公園や動物園ならいざ知らず、ごく普通の住宅街になぜ馬が……?

「やっぱり、ここは最近まで牧場だったんだ!」

そう思って調べてみたところ、意外な事実が分かりました。 実は、近所の動物病院の院長先生が馬のオーナーだったのです。普段は東京・成城にある大学の乗馬部に預けている馬を、時々病院へ連れてきては、我が家の前を含む大通りをお散歩コースとして走らせていたのでした。

右上の写真は他の方のブログからお借りしたものですが、景色から察するに我が家から100メートルほどの場所で撮影されたようです。4車線もある大通りを颯爽と進む姿は、まさに圧巻。

どうです?実に見事な馬車でしょう。 決して見世物などではなく、これが当時のこの街の、日常の風景だったのです。

1.驚きの真実!我が家の周辺には本当に「牧」があった

前置きが長くなりましたが、住宅街を馬が悠々と闊歩する光景は、古の「牧(まき)」に思いを馳せていた私にとって、まさに衝撃的な出来事でした。

独特の地形や、日常に溶け込む馬の姿を目の当たりにして、「もしかしたら、ここはかつて牧場だったのではないか?」と、半分は空想に近い直感を抱いていました。

もともと関東平野は名馬の産地であり、それが東国武士たちの台頭を支える原動力となった歴史があります。「この場所も、その歴史の一部だったのかもしれない」と自分なりに確信を強め、改めて調べてみました。

すると、驚いたことに……なんと、本当にこの場所には「牧」が存在していたのです。
②石川牧
文献の土地名から私が作成

2.石川牧の総鎮守「驚神社」の由来

地図②のA地点に位置するのが、かつての石川牧の中心施設、今回の史跡巡りの真打ちともいえる「驚(おどろき)神社」です。(私がさっきから驚いてばかりいるからこの名前になった……というギャグではございませんので、あしからず!)

実は鎌倉時代以前から、昭和14年という比較的最近まで、地図②に記された広大なエリアは「石川牧」と呼ばれる巨大な馬の牧場でした。その牧場全体の守り神(総鎮守)として建立されたのが、この驚神社なのです。(写真右)

では、なぜ「驚」という一風変わった名前がついたのでしょうか?

この「驚」という漢字、上下に分解してみると「敬」と「馬」、つまり「馬を敬う」という構成になっています。もともとは縦書きで「敬馬(けいま)神社」と記されていたものが、いつしか一文字に合わさって「驚神社」になったのだとか。
非常に趣のある、そして馬への愛が詰まった素敵な当て字だと思いませんか?

3.源頼朝も認めた?超名馬の生産地としての誇り

さて、我が家もその範囲に含まれていた「石川牧」。一体どれほどの馬を産出していたのでしょうか。

調べてみると、驚くべき伝承が残っていました。なんと、源頼朝の第二の名馬「磨墨(するすみ)」と、名将・畠山重忠の名馬「三日月(みかづき)」は、この石川牧から献上されたというのです。源氏の歴史を語る上で欠かせない、トップクラスの名馬がここから誕生していたとは驚きです。こちらがその記事です。(やはり、驚神社だけに驚いてばかりいますね。)

もっとも、「磨墨」の出身地については、大田区の馬込や駿河、香取、岐阜など諸説あります。さすがは頼朝の愛馬、各地で「うちこそが故郷だ」という引き合いが沢山あるのでしょう。(写真④)
④磨墨の像(馬込)

逆に、馬込や駿河、香取、岐阜などの地方から、磨墨は、この石川牧に連れてこられて、調教や走りの訓練をするのであれば、鎌倉に近い石川牧は有力な牧と思います。名馬の一時逗留・調教場所だったのではないでしょうか?

ちなみに磨墨といえば、もう1頭の頼朝の第1の名馬・池月(いけづき:生唼とも書く:写真⑤との宇治川合戦での先陣争いが有名ですね。ちょっと話が脱線しますが、この名馬2頭宇治川合戦の一番乗りエピソードの話を書きたいと思います。

詳細は後述しますが、実はこの池月も割とこの石川牧に近い新横浜の辺りで生涯を終えていることが分かりました。

4.名馬を巡る駆け引き:梶原景季と佐々木高綱

物語の背景には、源頼朝を支えた二人の武士の存在があります。

一人は、石橋山の戦いで窮地の頼朝を救った梶原景時(かげとき)。彼は後に軍監として源範頼・義経軍に従軍しますが、その嫡男である景季(かげすえ)もまた、木曽義仲討伐軍の一員として戦いに加わりました。
⑤池月の像(洗足池)

出陣を前に、景季は頼朝にある願い出をします。 「どうか、第一の名馬『池月』を今回の討伐に貸していただきたい」

武士にとって馬は命を懸けて戦うための「最大の兵器」です。当時は、優れた馬を主君に願い出ることは決して恥とはされず、むしろ戦いへの強い意欲の表れでもありました。

しかし、頼朝はこれを拒みます。 「池月は、いよいよ私自身が平家討伐に出陣する時まで、厩(うまや)に置いておきたいのだ」

それでも景季は諦めません。「これほどの優秀な馬を、厩に繋いだままにしておくのはあまりに勿体ない」と食い下がります。その熱意に根負けした頼朝は、「ならば、第二の名馬『磨墨』を貸そう」と約束しました。景季は喜び、磨墨を連れて西へと向かいます。

ところが、事件は西へ向かう道中で起こりました。 名古屋(鳴海)あたりで一息ついている景季の目の前を、なんと佐々木高綱(たかつな)が、あの「第一の名馬・池月」を曳いて歩いてくるではありませんか!

佐々木高綱といえば、頼朝挙兵の初期から幾多のピンチを共に乗り越えてきた、いわば「旗揚げ以来の同志」です。頼朝は、自分に準ずる特別な功労者である高綱に、密かに池月を託したのかもしれません。

ちなみに、この高綱は後に、現在の新横浜駅近くにある「烏山(からすやま)」に屋敷を構えることになります。(写真⑥)
⑥佐々木高綱の屋敷があった烏山八幡宮
※日産スタジアムが正面に見えます

話を戻します。

池月を引いて歩く佐々木高綱の姿を見た景季は、言葉にできないほどのショックを受けます。 「あれほど必死に頼み込んだ私にはくれなかったのに、なぜ高綱には与えたのだ! 武士として、これほどの恥辱はない……」

あまりの悔しさに、景季は「高綱を討ち果たし、自分も自害して果てよう」とまで思い詰めます。そして、決死の覚悟で高綱のもとへ歩み寄り、こう問いかけました。

「おい、高綱。それは間違いなく『池月』だな? 一体どうした、鎌倉殿(頼朝のこと)から下賜(かし)されたのか?」

すると、高綱は平然とこう答えたのです。 「おお景季か。この馬か?……実はな、鎌倉殿にお願いしても絶対に貸してもらえないと思ったから、厩(うまや)からこっそり盗み出してきたのさ!」

これを聞いた景季は、驚きで目を丸くしました。 「あはははは! そうか、盗み出したのか! その手があったか!」

高らかに笑い飛ばした景季は、「上には上がいるものだ」とすっかり毒気を抜かれました。そして再び愛馬・磨墨を連れて、清々しい気持ちで京を目指して歩き出したのです。

◆ ◇ ◆ ◇

しかし実は、高綱が言った「盗み出した」という話は、真っ赤な嘘でした。

真実はこうです。高綱も景季と同じように「池月」を欲しがって頼朝に食い下がり、頼朝も「またか!」と辟易しながらも、「いいか、絶対に誰にも『借りた』と漏らすなよ」と念を押して貸し与えていたのでした。

磨墨を連れた景季のただならぬ殺気を感じ取った高綱が、とっさについた機転の嘘。これが、一人の武士の命を救い、のちの伝説へと繋がっていくのです。

5.伝説の「宇治川の先陣争い」

⑦宇治川先陣之碑
平家を京から追い落とした木曽義仲(きそ よしなか)でしたが、その軍勢の振る舞いは横柄で、義仲自身も宮中の慣習に馴染めず、後白河法皇と対立してしまいます。法皇の命を受けた頼朝は、早速源範頼・義経に軍を与え、西上させるのです。この鎌倉からの軍は、義仲を討つべく、宇治川を挟んで対峙しました。

この時、全軍の先頭を切って川を渡る「一番乗り」を競い合ったのが、あの二人です。(写真⑦)

頼朝から名馬を授かった景季と高綱。二人は「主君からこれほどの馬を借りた以上、何としても一番乗りを果たさねばならない」と、凄まじい執念で競り合いました。

まず「ざんぶ」と川に乗り入れたのは、梶原景季でした。磨墨は泳ぎが得意なだけでなく、主の命を忠実に守る、実にかしこい「賢馬」です。これはもしかすると、我らが「石川牧」での英才教育?(調教)が実を結んだ結果かもしれません。

一方、佐々木高綱も必死に池月の尻を鞭で叩きますが、池月は水が嫌いなのか、なかなか川に入ろうとしません。実はこの池月、とんでもない「暴れ馬」だったのです。

池月には決まった育成の記録がありません。一説には、洗足池(東京都大田区)の周辺を飛び回っていた野生馬だったと言われています。月明かりに照らされた馬体が、池の水面に映る月と重なってあまりに美しかったため、それを見た頼朝が「池の月と同じくらい美しい!」と感動し、「池月」と名付けたのだとか。(写真⑤)

頼朝は石橋山合戦敗北後、房総半島安房から江戸湾(東京湾)をぐるっと廻り、鎌倉入りを果たそうとしていました。その途中、この洗足池辺りを通ったらしいです。

「このままでは、鎌倉殿から拝領した第一の名馬の名が廃(すた)る!」

焦る高綱は、嫌がる池月を強引に川へ押し込み、磨墨を追います。しかし、磨墨はすでに喉元まで対岸に迫り、今にも一番乗りを達成しようとしていました。(絵⑧) 

⑧宇治川合戦で腹帯を直す景季
その時、高綱が磨墨の背にいる景季に向かって叫びました。

「おい景季! 馬の腹帯(はらおび)が緩んでいるぞ! そんな無様な姿で一番乗りを果たしても、末代までの恥だぞ!」

生真面目な景季は、慌てて腹帯のチェックを始めました。その隙を見逃さず、一気に横を駆け抜けた高綱。対岸に渡り切るや否や、「やあやあ、我こそは近江源氏、佐々木家が四男、佐々木四郎高綱なり!」と大音声で一番乗りの名乗りを挙げたのです。

この後も二人は切磋琢磨し、平家討伐において輝かしい戦功を立てていきます。

6.頼朝の「人馬活用」に見る深慮遠謀

一説には、この馬の与え方にこそ、頼朝の深い洞察力が隠されていると考える人もいます。

もし情熱的で直情型の景季に、暴れ馬の池月を与えていたら、二人(二頭?)で大暴走していたかもしれません。沈着冷静な高綱だからこそ、気性の荒い池月をコントロールできたのです。 逆に、石川牧で調教された素直な磨墨であれば、景季の熱意を余さず受け止め、最大限の能力を発揮してくれる――。

二人の武将の性格と、二頭の名馬の特性を見抜き、最高のパフォーマンスを引き出した頼朝の采配。もし本当にそこまで計算していたのだとしたら、頼朝という人物は恐ろしいほどの天才プロデューサーですね。

7.受け継がれる絆と、忘れ去られた名馬の今

さて、この物語の主役の一頭である「池月」ですが、実は先ほどご紹介した佐々木高綱の屋敷(現在の新横浜駅近く)のすぐそばに、彼のお墓を見つけました。(写真⑨)
⑨池月のお墓である馬頭観世音
※この右側の道路を1か月に2,3度往復しています

高綱の屋敷のすぐ近くに池月の墓があるということは、この名馬は結局頼朝に返されることなく、最期まで高綱と共に過ごしたのでしょう。

「暴れ馬で誰の言うことも聞かない」と言われた池月が、高綱にだけは心を許し、生涯を共にするパートナーとなった……。頼朝もまた、二人の間に生まれた強い絆を認め、そのまま高綱に託したのかもしれません。そう考えると、戦場のエピソードもまた違った輝きを帯びて見えてきます。

しかし、そんな歴史の余韻に浸る一方で、今の現状には寂しさを禁じ得ません。

⑩馬頭観世音の左側にある看板
宇治川の合戦で一番乗りを果たした名馬・池月を祀る「馬頭観世音」ですが、写真⑩の通り、その案内看板は見る影もなく傷んでいます。下半分は剥がれ落ち、そこにあったはずの「池月(生唼)」の名も、今では一文字も読み取ることができません。

これほどの名馬が眠る場所が、無関心の中に放置されているのは、歴史を愛する者として非常に残念でなりません。

あまりに忍びないので、今度この記事をプリントアウトして、クリアフォルダに入れ、そっと看板の横に貼ってこようかと思っているところです(笑)。かつてこの地を駆け抜けた白い馬たちの記憶を、少しでも多くの方に知っていただくために。

8.名将・畠山重忠と愛馬「三日月」の絆

石川牧が生んだもう一頭の名馬、それが畠山重忠(はたけやま しげただ)の愛馬「三日月」です。かつて、この「三日月」が私の家の周りを闊歩していたのではないか……そう想像するだけで、歴史のロマンに胸が躍ります。

思えば小学生の頃、学研の『科学と学習』の付録漫画で「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」を読んだのが、彼との出会いでした。

崖を前にして、「鹿が通れるなら、同じ四足の馬も通れるはずだ!」と勇ましく駆け下りる源義経。その姿に「かっこいい!」と痺れる一方で、私の心に強く残ったのが畠山重忠の行動でした。

「こんな険しい崖を駆け下りては、馬がかわいそうだ。私が背負って行こう」

そう言って、自分よりも大きな馬を軽々と背負い、崖を下っていく重忠の姿。その圧倒的なパワーに驚くと同時に、相棒を労わる優しさに深く感動したものです。 そう、その時背負われていた馬こそが、石川牧ゆかりの「三日月」なのです。あの有名な伝説の主役が、この土地と繋がっていると思うと、時代を超えて急に身近な存在に感じられます。

⑪畠山重忠の馬担ぎ像
左上の写真は「畠山重忠公史跡公園」にある銅像ですが、やはりしっかり「三日月」を背負っていますね。……実物を見ると、その光景はなかなかシュールで、ちょっと微妙な気もしますが(笑)。(写真⑪)

実は重忠には、昔から不思議な縁を感じていました。鎌倉にある彼の屋敷跡は、私が中学生になる頃までずっと草ぼうぼうの空き地だったため、「鎌倉時代からずっと空き地のままなのかな?」と子供心に勘違いし、勝手に親近感を抱いていたのです。

さらに、彼が最期を迎えた合戦の地「鶴ヶ峰」も、現在の住まいからほど近い場所にあります。まさに私にとって、切っても切れない縁のある武将。彼については、またいつかじっくり特集を組んでみたいと思います。

9.「馬を敬う」心を現代に

これほどまでに名だたる武将たちの愛馬を輩出してきた、伝統ある石川牧。その総鎮守である「驚神社」ですが、残念ながら現代では、知る人ぞ知るマイナーな史跡となってしまった感があります(関係者の皆様、ごめんなさい!)。

普段、境内を訪れる人はまばらで、すぐそばまでマンションなどの開発の波が押し寄せています。あざみ野や中川などの洗練された住宅街の中で、かつての広大な牧の面影を留めておくのは、時代の流れとして仕方のないことなのかもしれません。

しかし、私がこの地に越してきた時に感じた「ここは昔、牧だったのではないか」という直感。そして、住宅街を悠々と闊歩していたあの白い馬の姿――。

それらはもしかすると、鎌倉時代という遥か古の時代から、この地に宿る馬たちの霊が私たちに語りかけていた「記憶」なのかもしれません。

便利さを追求し、車社会となった現代。私たちは「馬を敬う」という心を忘れてしまってはいないか。あの白い馬の登場は、そんな現代人へのアラームだったのではないか……。

9月。蝉時雨(せみしぐれ)が降り注ぐ境内に、参拝客は私たちだけ。 その静寂の中で、私はそんな懐古的な想いに深く浸っていました。

馬を敬い、馬と共に生きた先人たちの息吹は、今もこの街のどこかに、確かに息づいています。

⑫驚神社本殿
※13年前の写真です

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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【驚神社】神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目
馬頭観世音(池月のお墓)】〒222-0035 神奈川県横浜市港北区鳥山町462
畠山重忠の馬担ぎ像】〒369-1107 埼玉県深谷市畠山519

土曜日

一の谷の戦い① ~逆落とし~

年末・年始に妻の実家である兵庫県は西宮市に車で帰省しました。

須磨海岸にある「戦の濱」碑

やはり関西は史跡の宝庫ですね。
史跡があり過ぎるので、選択するのに困ります。

「うーん、どこにしよう?」と悩んでいると、妻から明日、年末の家族集合のため、妹家族を迎えに行ってきて欲しいとの出動命令。

神戸市兵庫区は鵯越(ひよどりごえ)に住んでいる義妹とその子を迎えに行くことになりました。

鵯越と言えば、平家物語の「鵯越の逆落とし」

そう。平家の都、福原が、この兵庫区にあり、平家が、福原からさらに西に落ちていくきっかけとなった源平大合戦の一つに「鵯越の逆落とし」とか、「一の谷の戦い」と呼ばれる戦があります。

今回は義妹家族を夕方に迎えに行く前に、この源平大合戦を調べることにしました。

1.「鵯越の逆落とし」の謎

逆落とし絵巻図
さて、この源平大合戦の有名な「鵯越の逆落とし」の場面を簡単に復習します。小学生の頃、社会で習った方も多いと思います。

1184年2月7日、鵯越の崖の上まで進軍した義経が、弁慶らと一緒に、崖の下の平家の陣を見下ろしています。

ここを馬で駆け下り、平家の陣に突入できるか、全軍真っ逆さまに落ちて、負傷するだけに終わるのか、若干25歳の義経の判断に掛かっています。

その時、崖を鹿がピョンピョンと飛ぶようにして、降りていくではありませんか。

義経 「鹿も4つ足、馬も4つ足!者ども、続けえーっ!」

と叫んで、真っ先に馬で駆け下り始めたので、全軍それに倣い、馬の頭が尻より下になる「逆落とし」状態で一気に崖を駆け下ります。

まさか崖から敵が攻めてくるとは思わなかった平家は、この襲来で散々な目に会い、讃岐の屋島へ逃げるのです。

右の蒔絵のように、古来この有名な場面は語りつくされてきました。

愛馬を背負う畠山重忠
ちなみにこの時義経の部下であった畠山重忠という豪傑は、逆落としの急斜面を自分の愛馬「三日月」が降りるのを可哀想に思い、自分が馬を背負って崖を降りる話も有名です。

深谷市にある彼の銅像は右の写真のように、この逆落としの時の様子がモチーフになっています。

脱線しますが、この三日月等源氏の名馬の産地が私の住んでいるところであることを、拙著ブログ「驚神社」に書いていますので、ご笑覧頂ければ幸いです。(ここをクリック)
関東から600kmも離れたこの神戸の地まで重忠は乗ってきたのかな。

話を戻しますが、この鵯越の話、前々から私が非常に疑問を感じていたことがあります。

この逆落としの標的になった平家の陣地は、前は海、後ろはこの山の崖に守られていました。

次回、お話する平敦盛が海に馬を入れて逃げようとした等の話を見ても、殆ど海岸線に陣を張っていたような描写が窺えます。

逆落としの一コマ
ちなみに右の教育漫画にも海岸線に居る平家が描かれています。

ところが、私の義妹家族は鵯越近辺に住んでいますが、海は全然近くないのです。

右下の写真が鵯越から、海を臨んだ景色です。

逆落としで、海岸近くの平家の陣を攻めるイメージは浮かんできません。

この戦、「一の谷の戦い」とも言いますが、一の谷の平家の陣は、まさに須磨の海岸沿いにあります。

ただ、鵯越から8kmも離れているのです。

これはどういうことなのでしょうか?

2.合戦に至る経緯

ちょっとこの問題は脇に置いて、この戦に至る経緯を見ていきたいと思います。

1183年、倶利伽羅峠(石川県と富山県の境にある峠)の戦いで、角に火をつけた牛を突進させるという奇策(写真右下)で、平家の大軍を破った木曽義仲(源義仲)が上洛します。この時平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて、九州は大宰府まで逃げます。

義仲は、引き連れて来た兵の京都民に対する態度が悪かったり、無作法で田舎侍と揶揄されたりと、兵卒の統治に失敗し、権威を復活した後白河法皇と対立していきます。
鵯越から海の方を臨む

後白河法皇は、鎌倉の源頼朝を頼りにしはじめ、義仲は激怒します。

後白河法王を幽閉しますが、頼朝により追討軍として到着した源義経・範頼軍に京を追い払われる形となってしまいます。

そして、1184年1月20日に木曽義仲は義経・範頼軍により滅ぼされます

この源氏同士の内紛中、平家は讃岐屋島(香川県)を経て、兵庫県の神戸にある福原の都にまで勢力を回復して来ました。

そして、安徳天皇を擁いて、京都奪還を同年2月に計画していましたが、幽閉から救出された後白河法王が、この動きをちゃんと察知していました。
倶利伽羅峠の戦い
(牛角に松明を付け平家軍に突進させた)

平家追討及び三種の神器奪還の宣旨を1月26日に発出します。

3.後白河法皇の策略

そこで、先に木曽義仲を打ち滅ぼした義経・範頼軍が、この宣旨に従い、急ぎ神戸の福原に京都から向かいます。

この時、範頼の軍は、京都から大阪の北東部から武庫川、西宮を経る今の国道2号線沿いに神戸へ向かうのに対し、義経は京都から兵庫県の北側丹波篠山から播磨を経て、北から神戸へ向かいます。

義経は途中、播磨の三草山というところで、平資盛と前哨戦をして勝利します。

そして、下の図が福原を中心とした源氏と平家の布陣の様子です。

大体10km東西の広範囲にて戦闘がなされたことが分かります。
この大戦は、このように地理的な範囲が広いため、「2月7日」と範頼と義経で戦開始の日を示し合せて行われましたが、この前日の2月6日に、後白河法皇の策略が威力を発揮します。

というのは、「源平和平が成る方策を考えているから、戦闘は待て!」という休戦命令を持った後白河法王の使者が平家の処に来たのです。

この件で、平家は油断しました。一応迎え撃つ体制を取っていましたが、休戦命令の話は瞬く間に平家の兵の間に伝わりました。
ところが翌日2月7日に、源氏が上の図のように攻めてきたのです。

平家物語等では、義経の戦術上手ばかりが強調されますが、この後白河法皇の平家戦意喪失作戦も非常に上手く機能し、平家が総崩れとなって屋島に退却する大きな要因を、合戦前日に作っておいたのです。

後白河法皇
また少し話が脱線しますが、後白河法皇は、本当に心理戦が得意ですね。

法皇は武家を分裂させたいと考え、平家滅亡後に義経をも、この法皇の戦術の道具として使います。
簡単です。武家の棟梁である源頼朝より、義経を重用するように見せるのです。そして頼朝の対抗勢力として義経が暴れてくれれば、武家の世は儘ならない。

結局、平家討伐もそうですが、法皇は朝廷優位の権力を確保するためには、武家政治をなるべく混乱させ、消耗させることで力を削ぎたいと考えていたのでしょうね。

ただ、心理戦は限界があります。頼朝はこれを見破っており、さっさと弟である義経を冷徹に衣川で滅ぼし、法皇らが変な事をしないように、六波羅探題という朝廷のお目付け役を京都に設置するのです。

4.逆落としの場所についての議論

さて、話を戻して、この大戦について見て行きましょう。

この大戦、上図のように3つの戦闘区域があります。

戦闘区域①:生田川(2017年1月1日現在)
向かって右側新神戸タワー側が源範頼軍5万
左側新神戸オリエンタルホテル側が
平知盛軍
一番軍が多く、史実的にも間違いの無いのが「戦闘区域①:生田川」です。(写真右)
神戸市の中心を六甲山から流れる生田川の東側に陣を張る範頼軍5万

対する平家軍は、あの勇猛果敢な知盛が大将です。ここは史跡等はありませんでしたが、源氏の白旗を掲げた場所である「旗塚通」等の地名が残っています。

ただ、ここ生田川は、平家としては東から攻めてくる源氏に対し、一番想定していた防衛ポイントですので、ここで両軍の大軍が衝突するのは想定内だったのでしょう。

義経軍は2万。丹波方面の北から福原を攻めます。この義経の行軍記録が「平家物語」や「吾妻鏡」等の史書により若干記述が違うために、今一ハッキリしない部分があり、それらがひいては、これだけ有名な「逆落とし」の場所についても諸説出てくる結果となっているのです。

つまり「逆落とし」は「戦闘区域②:鵯越」であったのか?それとも「戦闘区域③:一の谷」であったのか?

実は私は現地に行くまでは、「戦闘区域③:一の谷」だと考えていました。
戦闘区域③:一の谷逆落とし上から平忠度
の陣方向を臨む

右の写真を見て下さい。まさに海岸線に陣を張る平家の陣を見下ろす位置であり、物語にある逆落としにぴったりの景色ではないですか?

また、右下のフェンスばかりの坂を見て下さい。先程の海岸線を臨む場所の足下は、このような勾配なのです。

非常に説得力があると思いました。

しかし、「戦闘区域②:鵯越」についても、平盛俊などが守っていた明泉寺の現地に行ってみると、右下の写真のように、山側の傾斜はかなり厳しく、一の谷以上に「逆落とし」的な場所は多々考えられます。

また、平家が守る福原の山側からの突如の大軍の出現という観点からは、海が遠いとは言うものの、この場所で逆落しが行われた方が、平家に与える戦闘インパクトはかなり大きく感じられます。

戦闘区域③:一の谷の逆落としの崖?
結果、この「戦闘区域②:鵯越」を撃破した義経らが、海までずっと下り、2里(8㎞)先の「戦闘区域③:一の谷」まで敵を追い詰め続けてもおかしくないと思えてきました。

更に、詳細は次回しますが、明泉寺に墓所がある平知章、大将の盛俊等、かなり多くの平家一族が、ここ鵯越で討ち取られています。

義経が鵯越で兵を2分した時に、義経自身は一の谷へ行き、鵯越攻めは安田義貞という元々木曽義仲の家来だった人物に任せたようなのですが、良く分かっていません。

ただ、これだけの数の平家一族が討ち取られるのに、義経級の大将が必要なのではないか?であれば、やはりここ鵯越を攻めた時には義経は居たのではないか?

なんとなくですが、こちら鵯越で逆落しがあってもおかしくないような気持になってきました。

5.両地点であった「逆落とし」?

これらの史跡を見て廻っていると、鵯越に住んでいる義妹家族を迎えに行く刻限が近づいてきました。

戦闘区域②の明泉寺から鵯越方面、
ここから逆落としして来た?

今回、私は「
戦闘区域③:一の谷」から先に見て廻り、途中、須磨寺等も見た後、義妹家族の近くの「戦闘区域②:鵯越」の明泉寺に行ったので、予定より大幅に時間が経ってしまいました。

 この鵯越の辺りの土地は古くからあるためか、道路が細く、明泉寺の駐車場には道路に入って行けず、かと言って直ぐ近くに路駐できる位、道幅の広い道路もないため、1km近くも離れたコンビニの駐車場に止めて、走って明泉寺に平知章の墓所を見に行きました。

そして、刻限せまる中、また1kmもの道を、まさに今迄見て来た現場から見て、「逆落とし」は何処だったのだろうと考えながら、テクテク歩いていると、またいつもの霊感のようなものがピーンと来ました。

戦闘区域②:鵯越の陣があった辺り
に建つ明泉寺
進行方向の右手の、20平米くらいの住宅地に囲まれたジメジメした小さな空き地に、なにやら碑が立っています。

「おおっ、こんなところに盛俊の塚が・・・」

なんと、この鵯越を守っていた大将、平盛俊の塚でした。

小さいとは言え、ちゃんと住宅街の一角の土地に安置され、今尚地域の人から愛される平盛俊。

そうだ!盛俊なら「逆落とし」の真実を知っている。

そう思い、塚に手を合わせて拝んでいると、新たな思考が湧いてきました。

「義経は騎馬については天才的な人物だった。」

「この大戦でも範頼の軍が海岸沿いを行軍してきたのに対し、義経はその騎馬の機動力を使い、わざわざ丹波方面からぐるっと廻って、この鵯越と一の谷の両方を攻めたのだから、両方の地点で急峻な斜面を騎馬を使って平家軍に襲いかかったのかも知れない。」

私が冒頭に書いたような、華々しい「逆落とし」は作り話かも知れません。史書によっては、畠山重忠は、「戦闘区域①:生田川」を攻めた源範頼の軍に参加しており、愛馬を担いで崖を降りたというのも平家物語の創作だという説もあります。

後で分かったのですが、「逆落とし」は、平家物語の全くの創作で、そんな事実は無かったという説もあるようです。

ただ、義経が馬と急斜面をこの戦で使ったのは事実でしょう。

ふと住宅街の一角で見つかった平盛俊の塚
ならば義経が大将だった鵯越でも一の谷も、平家では絶対に降りられない急峻な斜面を義経軍が降りてきて、平家軍の虚を突いたと考えても、不自然ではありません。どちらの土地も六甲山系の急峻な斜面はあるのですから。

その攻め方に、尾ひれ羽ひれが付いて、冒頭の「逆落とし」の話になったのかも知れません。

「さすが、平盛俊!」と、塚を後にし、急いでコンビニに止めた車に向かいました。義妹家族のお迎えは20分程遅刻しちゃいました。(笑)

お読みいただき、ありがとうございました。

次回は、この戦の詳細な模様について、訪問した須磨寺等で得た情報も含めてレポートできればと思います。


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【一の谷源平史跡 戦の濱の碑】兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町5丁目2
【明泉寺】兵庫県神戸市長田区明泉寺町2丁目4−3
【平盛俊塚】
〒653-0883 兵庫県神戸市長田区名倉町2丁目2−9