マイナー・史跡巡り: 頼朝杉② ~遠藤盛遠から文覚へ~ -->

月曜日

頼朝杉② ~遠藤盛遠から文覚へ~

  神護寺の再興に支援を貰おうとして、強引に後白河法皇に迫った文覚は、かえって法皇の不興を買い、伊豆に流されてしまうまでの話を前回のブログで書きました。

伊豆に流された文覚が、先に流されていた頼朝と懇意になる話をする前に、少々時間を遡り、文覚の背景からお話をします。(絵①)

①文覚上人(神護寺蔵)

◆ ◇ ◆ ◇

文覚は、最初からお坊さんだったわけではありません。
彼は遠藤盛遠(もりとお、以下盛遠)という俗名の北面の武士だったのです。

遠藤一族は、渡辺党という、現在の大阪は渡辺橋の辺りに起居していた武士団に所属します。(写真②)

②渡辺橋(大阪)

この辺りは、物流が盛んであり、当時は大阪湾から淀川系を遡り、この渡辺橋辺りで荷を下ろす等、水運を使った物流の拠点でした。渡辺党は、これらの水運を握っていたので、平時は農民をしていた武士団等よりも比較的裕福だったように思われます。

また渡辺党は四天王寺ともゆかりが深いことが史料から伺えます。

これって誰かに似ている。と思ったのは、かつて私は楠木正成が渡辺橋あたりで鎌倉幕府軍をゲリラ戦でやっつけることを書きました。(リンクはこちら

楠木正成もまた四天王寺と関係が深く、また水運等により力を付け、河内の豪族となっていったという点でも似ています。

出家せずに武者のままだったら、遠藤盛遠こと文覚も、楠木正成並の知将になったかもしれません。それはそれでこの鎌倉時代のパイオニアとして、違う形で有名になったかもしれませんね。

ことに盛遠は当時、力が強い荒武者だったことが有名だったようです。

さて、では何故、荒武者だった彼が僧になったのでしょうか?

有名な伝説が平家物語や源平盛衰記に残っています。歌舞伎はいうに及ばず、芥川龍之介も「袈裟と盛遠」という短編小説で取り上げていますし、昭和28年には「地獄門」という映画でカンヌやアカデミー賞を受賞する程の話にもなっています。

芥川龍之介の「袈裟と盛遠」は、全体のあらすじを、以下の話で把握されてから読まれることをお薦めします。というのは、「袈裟と盛遠」に登場する袈裟、盛遠の心理描写が凄まじく素晴らしい作品なのですが、出来事を知らないと、その文章の伏線になっているところまで読み取るのが難しいのです。

では物語をはじめましょう。

◆ ◇ ◆ ◇

そのきっかけは、この渡辺橋の落成式でした。

この時、盛遠は警備のために駆り出されていました。娯楽の少ない当時は橋の落成式というとたくさんの人たちが見物に出かけたのです。

その人ごみの中で、ひと際目を引く美しい女性がおりました。盛遠は一目惚れをしてしまいます。

盛遠がこっそりと後をつけて行くと、彼女は盛遠が幼き頃より、よく知っている渡辺 渡(わたる)という渡辺党の邸宅に入っていきます。(絵③)

③ストーカーのような盛遠(文覚)

しかし、盛遠も現代なら立派なストーカーですね。

盛遠は渡辺邸の門番に、今の女性が誰なのかを聞くと、なんと盛遠の叔母・衣川の娘・袈裟(けさ)ということが分かりました。

実は盛遠、まだ袈裟が14歳の時に、あまりに美しいと感じたので、叔母に掛け合って「自分の嫁に下さい!」と迫ったことがあるのです。

ただ袈裟の美しさは世間でも有名で、渡辺 渡も含め、幾人もの男たちが盛遠と同じように言い寄っていたようです。

「くそ!叔母め!袈裟を俺の嫁にはせずに渡に嫁がせるとは!」

と悔しがる盛遠。しかし、彼の「思い込んだら命がけ」の性格は、朝昼晩・朝昼晩と袈裟のことを想い続け、気が付くと100日を超えていました。

盛遠、とうとう我慢しきれず、衣川のところに押しかけ、刀を抜いてこの叔母に襲い掛かるのです。

焦った叔母の衣川。

「盛遠殿、どうされたのか?どうしてこのババを殺そうとするか?!」

と衣川は盛遠に聞きます。

「おババ、俺はこの100日間、袈裟のことを想わない時はなく、時間が経てば経つほど、自分が虚しくなるのだ。どう考えても袈裟とは一緒になれなかったという事実だけがどんどんと重くのしかかり、気も狂わんばかりになってきた。この際、嫁にくれなかったババを殺して、自分も死ぬ!」

とかなり自分勝手な理屈で襲い掛かっていたのです。

「盛遠殿、お待ちくだされ!今晩、ここに袈裟を呼び出しますでの。」
「分かった。今晩、袈裟と逢えるのだな。」

俄かに笑顔になる盛遠。彼は「また夜に来る」と言って立ち去ります。

一時しのぎとはいえ、大変な約束をしてしまったと後悔する衣川。

逡巡しますが、袈裟宛ての手紙を書きます。そして使用人に書いたばかりの文を持たせ、3町(300m程度)離れた渡辺邸の袈裟のもとへ届けるよう言いつかわします。

使用人から母・衣川からの文を受け取った袈裟。何事!と思い、文を開いて読み始めます。

「袈裟や、母は体調を崩して困っておる。至急、来ておくれ。」

あれ?昨日まで元気だった母が一体どうしたというのだろう?ただ、この文からはなにやら切羽詰まった雰囲気が漂ってくるのです。

兎に角、母のところに行った袈裟。母・衣川は泣きながら、盛遠の話をし、

「全ては、この母が悪いのじゃ。そなたはこの母を殺して渡辺邸に帰りなさい。」

と錯乱状態。そんな母を一人置いて帰っては、逆上した盛遠が、また母を殺そうとするのは分かっています。帰るに帰れません。

そうこうするうちに夜となり、盛遠が現れます。

盛遠は母・衣川が居るのも目に入らないのか、その場で袈裟を手籠めにしてしまうのでした。

さて、翌朝になると盛遠は袈裟を渡辺邸へ帰さないと言い出します。

すると袈裟、やはり一晩体を任せたからでしょうか?急に次のように言い出します。

「夫・渡を殺してください。そうすれば晴れてあなたと一緒になります。」

盛遠は張り切ります。一晩で袈裟は俺に傾倒したんだと。漲る自信と夢にまで見た袈裟と一緒になれる未来を想像しながら、彼は袈裟と夫殺しの話を続けます。

「どうやって奴を殺すか。」
「今晩、渡の髪を洗い、お酒を飲ませて、ぐっすり眠らせます。部屋は南塀から入った正面です。忍び入って討ってください。」

盛遠は袈裟の顔を見ます。彼女の眼はどこか虚ろで、盛遠の顔を見ていませんでした。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、その日の晩、袈裟との約束の時間に南塀から渡辺邸に潜り込んだ盛遠。
指定された部屋に入ると確かにぐっすりと眠りこんでいる渡がいます。袈裟は渡の髪を洗うと言っていたことも予定どおりです。もとどりを解いて長い髪型のまま仰臥しているようなのです。

「えいっ!」

と一気に気合を入れ、盛遠は、その首を瞬時に切り落とします。首を切り落とされる瞬間に断末魔の叫びにより、家人たちに気づかれないかと少し心配したため、一気に首を掻き切ることに集中した盛遠。

「あれ?」

と思ったのは、断末魔の叫びが無かったことではありません。

「首が細くないか?渡は華奢な首をしているのか?」

④切った首を月明かりに照らし出す盛遠

と違和感を感じます。切った首を持つと、またその首は大変小さく、でかい顔の自分と大きさがさして変わらないであろう渡のものではないような、違和感も感じます。

切った首を掴み、邸の南の庭に飛び出す盛遠。
月明かりの中にその首を晒し、じっと見つめます。(絵④)

「袈裟!」

そう首は袈裟だったのです。

「穴無慙や、此の女房が夫の命に代りけるこそと思ひて、首を取出して見れば女房の首なり。一目見るより倒れ伏し、音(こえ)も惜しまず叫びけり。」(源平盛衰記より)

◆ ◇ ◆ ◇

我欲による自分の業の深さを思い知った盛遠。首を家に持ち帰り、まんじりともしないで、夜を袈裟御前の首を睨みながら明かします。

朝になって、袈裟御前の首を布に巻き、立ち上がると渡辺邸に引き返します。

「渡!渡!おらぬか?」
「盛遠か!」

すでに渡辺邸では、袈裟が骸(むくろ)となっていることに騒然となっていました。

盛遠は渡の前にどかっと座ると、布から袈裟の首を取出します。

「な、なんと!」

一瞬、開いた口が塞がらないといったような顔をした渡でしたが、次の瞬間、腑抜けたような一気に力が抜けたような表情になります。盛遠が話さずとも、すべてを理解したのでしょう。

「すまぬ!渡、俺を斬ってくれ!自害したいとも思ったが、どうせ同じことなら渡の手にかかって死んだほうが良いだろう。」

盛遠は渡の目の前に自分の大刀を置き、自分は打ち首にされやすいように、一歩下がった位置で平伏ともうなだれているともつかない格好で座りました。

それをじっと見つめる渡。

半刻ほどもたったでしょうか。渡は、いきなり立ち上がると、目の前の大刀をすらりと抜き、平伏する盛遠に近づきます。盛遠は覚悟します。すべては自分のエゴなのですから。

ぶちっ!

鈍い音がしました。少しして盛遠は片目をうっすらとあけてみます。

⑤重源
首は切られていないようです。顔を少し上げると、目の名前に、もとどりを切り、ざんばら髪になった渡が、茫然と立っていることに気が付きます。

先ほどの鈍い音は、渡がもとどりを切った音だったのか。

「盛遠、俺はお前が憎い。袈裟を奪ったお前が。」

「・・・」

「という感情が、どういうわけか腹の底から湧いて来ぬ。」

「どういうことか?」

「分からない。ただ今更、お前を斬っても袈裟は返らない。かといって、自分も袈裟の後を追ったところでなんの甲斐もない。これはどうしたことであろう。と先ほどから、お前を見ながら考えていたのだ。そして分かった。袈裟は、命がけで俺たちに教えようとしたことがあるのだ。きっと。」

「・・・」

「袈裟は観音の生まれ変わりで、我ら二人に仏道修行の心を起こさせようとしたのだ。俺もお前も袈裟の後世を弔うことが、これから生きる道ではないか。」

ーそれで、もとどりを切ったのかー

盛遠は情欲に溺れ、直情的な行動をとった自分に比べ、冷静かつ高尚な渡の考え方に感心しました。そして七回も渡を拝み、自分も大刀でもとどりを切り、渡と同じざんばら髪になります。

そして出家した盛遠は文覚となったのですが、渡辺渡の方は、以後平家物語からも源平盛衰記からも話は消えます。

⑥厳冬の那智の滝で文覚を
助ける仏神たち
ただ、一説には、渡は同時代の東大寺の中興に大きく貢献した重源(ちょうげん)になったというものもあります。勿論重源は紀州の人だから渡辺 渡の訳がないという反駁は十分に考慮した上での説です。(「文覚上人一代記」:相原精次著 から)
(写真⑤)

文覚は神護寺や東寺等の復興に尽力するのですが、同時代に生きた重源も、平家によって一度焼かれた東大寺の再建に尽力するのです。もし盛遠が文覚で、渡が重源だったら、変化の激しい時代の流れと深く関係しながらも、古来からの仏閣の再建を果たした二人を生み出した袈裟御前は、観音の生まれ変わりだと信じられてもおかしくないですね。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、この後、文覚は熊野の那智の滝での想像を絶する苦行等、まるで死にたいのではないかと思う程に荒行をして廻ります。

真冬の那智の滝で21日間の滝行をすると言い、周囲が止めるのも聞かずに実施します。さすがの文覚も4日目で気を失い、滝を数百メートルも落下していくのですが、奇跡的に助かり、残りの苦行も完遂させるという話は有名です。

平家物語では、この時に仏神二人が流される文覚を救ったという伝承になっています。(絵⑥)

ほんと、死んでいてもおかしくはない苦行ですね。

そんな甲斐があったからでしょうか。文覚は出家してから3年経つと、袈裟が蓮の花に座っている夢を見るのです。これに喜んだ文覚。はじめて彼の涙が頬を伝わるのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

それから、彼は苦行をしながら、全国の密教寺を10年以上かけて廻ります。そして京に戻った彼が建て直しを図った寺院が、前回お話した神護寺なのです。

ここで、やっと話が前回のところに、戻ってきました。そう後白河法皇に神護寺への寄進の直談判に行った文覚は、捉えられ、伊豆への配流になったのです。

彼が船で伊豆に行こうとしたときに、出航したのは、やはり今の大阪の渡辺橋のあたりからです。当時は渡辺津と言われていたようで、大阪のこれらの「津」と呼ばれるところは水運による物流だけでなく、人の移動の拠点でもあったのですね。

◆ ◇ ◆ ◇

伊豆に到着した文覚が正確にどこに住んだという場所は特定されておりません。ただ、頼朝の流刑地「蛭が小島」から一里(4km)も離れていない奈古谷・毘沙門堂のあたりという説は有力です。私もそこに行ってきました。(写真⑦⑧、360°写真⑨)
⑦文覚が起居していた毘沙門堂への山道の標識

⑧毘沙門堂入り口


 
⑨毘沙門堂境内(360°写真)

伊豆の流刑地は間違いなく富士が綺麗に見える土地です。文覚と頼朝、大願成就の夢は違えど、プロセスは一致し、二人で富士の高みに上るがごとく、この後走りだすのです。(写真⑩)
⑩文覚と頼朝が流された伊豆は富士山が良く見える

さて、伊豆に流された文覚と頼朝との出会いの話は、現地のレポートも含め、次回させてください。ご精読、ありがとうございました。

《つづく》

【奈古谷・毘沙門堂】〒410-2132 静岡県伊豆の国市