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土曜日

頼朝杉③ ~源 頼政 エピソード1~

 さて、前回、遠藤盛遠(もりとお)が人妻である袈裟御前に懸想してしまい、袈裟御前が我が身を持って盛遠に教え、盛遠は出家し、文覚になる経緯を描きました。(リンクはここをクリック

そして話が前後して恐縮ですが、前々回のブログで、僧になった文覚が弘法大師・空海が建てた神護寺復興のために強引に後白河法皇に迫り、結果、法皇の不興を買い、伊豆に流されるという経緯を描きました。(リンクはここをクリック

この文覚の伊豆に流罪となる経緯は、調べれば調べるほど、興味深いエピソードが沢山見えてきました。今回、文覚の伊豆での話を描く予定だったのですが、また少し文覚の伊豆流刑に係る寄り道話もさせてください。(写真①)

①文覚と頼朝が流された伊豆(狩野川氾濫域)
北条義時が居城・守山城から写す

◆ ◇ ◆ ◇

②鵺に矢を射る源 頼政

文覚の流刑地を伊豆と決定したのは、この時より13年前に、この地に流されていた源 頼朝(よりとも)が居ることを意識した選択だったのではないかとの説があります。

では誰が選択したのでしょうか?それが今回の主人公である摂津源氏・源 頼政(よりまさ)です。(絵②)

と言っても、確証的なものがある訳ではなく、あくまで状況証拠によっての論考ですので、よろしくお願いします。

まず論考の第一は、文覚が後白河法皇の御所で神護寺支援を強訴し捕らえられた後、預けられた先は頼政の息子・伊豆守仲綱(なかつな)です。そして文覚を伊豆まで護送するのは渡辺 省(はぶく)という頼政の郎党です。

前回、文覚が遠藤盛遠という武士時代に、斬ってしまった袈裟御前の夫は渡辺 渡(わたる)。そもそも文覚の出身・遠藤家自体が、摂津源氏・渡辺党の縁戚筋であるというお話を書きました。

そう、つまりこの伊豆行は、文覚と関係の深い人脈の中で行われたのです。伊豆へ護送する船も、前回描いた文覚が盛遠時代に住んでいた現在の大阪・渡辺橋のあたりから出航したのです。

更に脱線しますが、頼政というのは絵②にあるように「鵺(ぬえ)」というバケモノ退治で武名を成した人物ですが、この祖父の源 頼光(よりみつ)は、「大江山の鬼退治」で有名です。

皆さんも、酒吞童子(しゅてんどうじ)等の本は小さなころに読まれたのではないでしょうか?

その酒吞童子を倒すために、頼光は頼光四天王という強ーい豪傑4人を従え、大江山に向かうのです。(絵③)

絵の中で、頼光は、左側の酒吞童子の鬼の首にかじられている武者です。

③大江山の鬼(酒吞童子)退治

絵の真ん中で、鎖やら鬼の腕やらで絡めとられながらも奮戦している二人。

二人の右側の人は、これも皆さん絵本等でよく知っている、クマにまたがりマサカリ担いだ「金太郎」さんの豪傑バージョン、坂田公時(金時:さかたのきんとき)。

そして左側が渡辺 綱(わたなべのつな)。なんかツナみたいな名前ですが、渡辺家は伝統的に名前を一文字にしていたようです。渡辺綱とか渡辺省、先週の盛遠時代の袈裟の夫・渡辺渡など、皆一字ですよね。『平家物語』では「渡辺の一文字名ども」なんてよばれています。

この時からのつながりなのです。渡辺党と摂津源氏との関係は。であれば、盛遠こと文覚の身請け引き渡しを頼政の息子・仲綱が実施し、文覚と出自が近い渡辺 省が伊豆に護送したことを、頼政の意志とは関係なく、単なる偶然とみるのは難しい気がします。

そして第二の論考は、文覚はひっ捕らえられた時に「遠くは3年、近くは3か月のうちに、思い知らせ申さん!」と叫んだと言われています。まあ、ひっ捕らえられた時すでに何か確証的なことがあった訳ではなく、単なる悔しい思いを年月を区切った言い方で現実味を持ったように言ったのだとは思いますが、少なくともそのような思いがあったことは、宮中の皆が知るところとなり、これを利用しようとしたのが頼政ではないかと。

④宇治平等院で挙兵する頼政
※3人もの渡辺党がいます(渡辺 清、渡辺 競、渡辺 省)

もしかしたら、頼政と文覚、ひっ捕らえられ伊豆に流されるまでの間、どこかで二人で密談をしていたかもしれません。

「文覚、どうだ一つ世の中をひっくり返してみないか?」

「頼政殿、3年でやってみせましょう!今の政(まつりごと)では、弘法大師の遺志を具現化することはできません。新しい世を作って、拙僧は大師の仏法を隅々まで行きわたらせ、また大師の造った堂宇を復興したい。」

「よし、では文覚。頼光四天王ならぬ、頼政四天王のうちの一人になってくれ。ついては、頼光が足柄山の金太郎を同志に加えたように、伊豆韮山の頼朝を我々の同志に加えるように画策してほしい。」

「なるほど!心得えましてござりまする。頼政殿」

なんて会話があったらと思うとゾクゾクします(笑)。というのは頼政は、これから7年後、後白河法皇の息子・以仁王を立てて、平家に対し最初の旗揚げをする源氏となるのです。(絵④)

平治の乱で源氏の棟梁とされた河内源氏の義朝(よしとも)の嫡子・頼朝を取り込もうという駆け引きが、当時の政(まつりごと)における中核・三位まで昇格した程の頼政が考えない訳がありません。

東の伊豆での頼朝挙兵、西の頼政挙兵、これを同時に行うことで平家殲滅を図りたかったのではないかと思いますが、残念ながら計画が平家側に発覚し、準備が固まらないうちに以仁王を助けるために、頼政は宇治平等院で挙兵し敗れるのです。

⑤大阪・渡辺橋とその周辺
敗れたとは言え、この戦にもいろいろなエピソードがあり、特にまた渡辺党の一人、渡辺 競(きそう)は胸のすくような活躍をしていますので、次回(?)にご紹介します。

この摂津源氏が盛んな頃には、渡辺橋周辺に起居した渡辺党の活躍は目覚ましいものがありますが、残念なことにその後、頼朝が挙兵に成功し河内源氏の世となると、摂津源氏も一御家人に凋落。渡辺党もあまり注目されなくなります。

ただ、これからも詳細は描いていきますが、頼朝の挙兵が成功した裏の立役者は文覚であり、文覚もまた渡辺党であったことを考えると、武士の時代を創生した大事業にいかに渡辺橋近辺の渡辺党が重要な役割を成したのか。関東にある鎌倉の成り立ちに大阪・渡辺橋が大いに貢献していると思うと面白く感じるのは私だけでしょうか?(写真⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

読者の皆様には怒られるかも知れませんが、伊豆での文覚を描くと前回も言っておきながら、なかなか描き始められません(笑)。

というのは、本シリーズは『平家物語』や『源平盛衰記』を調べながら進めていますが、まあ出てくる人物に関するエピソードはてんこ盛りで、皆さんは良く知っているかもしれませんが、歴史初心者の私は恥ずかしながら、いつも「へー、へー」と言って、紹介したくなる衝動を抑えられません。

ですので、大変申し訳ありませんが、もう少し伊豆での文覚の様子を先に延ばし、この頼政や渡辺党のエピソードをご紹介させてください。

◆ ◇ ◆ ◇

⑥御所上空の黒煙の中の鵺

頼政は、上の絵②や絵④に見られるような、勇猛果敢な武士なだけではありません。文武両道に長けていたこともあり、源氏としては当時破格の三位まで位階を上げることができた人物です。特に歌人としても大したものなので、それらのエピソードを3つさせてください。

1つは、やはり「鵺(ぬえ)退治」。これは頼政一番の武勇伝と伝えられることが多いですが、弓の名人と言われる頼政の活躍以上に、これに関する歌がまた粋なのです。

鵺(ぬえ)は「得体の知れないもの」という意味らしいです。「夜の鳥」と書くだけあって、普通、フクロウ以外は夜中に鳴く鳥は日本ではあまり見ませんね。ところが、後白河天皇の先代である近衛天皇の時に、御所上空から細い不気味な鳴き声が夜な夜な響いてきました。

最近の研究では、これはトラツグミという渡り鳥ではないかと言われています。夏はシベリアから朝鮮半島で過ごしますが、冬はインドやインドシナ、フィリピンに渡り過ごす渡りの途中の漂鳥が、京都御所の周辺にたどり着いたのではないかと。主に夜中に鳴くのです。鳴き声は下の動画で聞いてみてください。鵺の声に聞こえますか?(動画⑦)

⑦トラツグミの声(動画)

この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩したのが近衛天皇。まあ、確かに夜中に聞いたら少々不気味な感は否めないですよね。このトラツグミの声は。

当時、一部では近衛天皇の先代の崇徳上皇の怨霊だとか、この後、始まる保元の乱や平治の乱など、平安末期が平安ならぬ不安末期の象徴の声だとか、色々と噂されます。

もともと近衛天皇は若い時から体調が勝れぬ質(たち)だったようですが、これら祟りのように言われ、鵺の形状にも尾ひれ羽ひれが付いて、絵⑥のようになってしまいました。

頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇 です。後述しますが、一説にはこれは「得体の知れないもの」を方角で拡大解釈したものらしいです。そしてこのバケモノが東三条の藤原氏大邸宅の庭(現:東三条院址)から黒煙と一緒に御所の上空に現れるとのことでした。

有験(うげん)の高僧の祈りも効目がありません。この時、左少弁・源雅頼(まさより)が、「こんなバケモノは、酒吞童子を倒した頼光の孫・頼政に倒してもらうのが良いでしょう!」と近衛天皇に奏上します。

⑧鵺に止めを刺す猪早太

「なるほど!」と天皇は頷き、頼政に勅命を出します。

これを聞いた頼政、「私はバケモノ退治のために宮仕えしているのではありません。」と憤ります。

というのは、まあ現実的にはトラツグミあたりの話であり、退治したと言っても相変わらず近衛天皇の体調は戻らないだろうし、小鳥一羽夜中に追い回しても、またどこかで鳴かれたらと思うと、これは政治的なライバル(村上源氏)である雅頼が、頼政を陥れるために仕組んだ罠と疑いたくなる節を感じたからです。

ただ、勅命に従わないわけにはいきません。そこで猪早太(いのはやた)という部下だけを連れて、夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい、

「南無八幡大菩薩」と唱え、

頼光伝来の弓で矢を、ヒョーと射たところ

ギャー

と黒煙中に手ごたえがあり、

ドサッ

と落ちたところに、猪早太が駆けつけ、9回程喉を刀で突き、止めを刺しました。(絵⑧)

このバケモノ退治の話を近衛天皇に奏上すると、天皇は大層喜び、「獅子王」という名刀を頼政に下賜されたということです。現在この刀は東京国立博物館に重要文化財として保存されています。さすが美しい刀ですね!(写真⑨)

⑨名刀:獅子王

さて、この話はこれだけに終わらず、頼政の教養が如何に高かったかの話もついています。さすが文武両道の頼政。

というのは、この獅子王を頼政に渡したのが、当時の左大臣、藤原頼長。この人物後に悪左府と呼ばれることでも有名です。(絵⑩)

⑩悪左府 藤原頼長

渡す時に、以下の歌の上の句を詠みます。

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

これに対して、頼政、すかさず下の句を返します。

「弓張り月のいるにまかせて」

これは、頼長が「頼政、すごい!まるでホトトギスが空の雲まで名き声を轟かすように、あなたも名をあげましたね」と掛けたのに対して

「いやいや、弓張り月(半月)の方向に適当に射っただけですよ。」と、謙遜する頼政。

「弓張り月」と「弓を張って、月の方向に」という意を重ね、「いる(そこにある)にまかせて」と「射るにまかせて」の意も重ねて、裏の意図を表現しているところに、頼長も近衛天皇も、弓だけでなく歌も上手い上、謙遜する頼政に心酔したとかしないとか(笑)。ちなみに悪左府は男色家。

ただ、現実的な解釈では、頼政はやはり鵺退治と称して、鏑矢(かぶらや)をおまじないとして四方に射たのが実態で、「適当に射た」というのは本当のところのようです。ちなみに鵺の形容と猪早太、これらセットで方角を表すと言われています。つまり、頭が猿=未申(南西)、尻尾が蛇=辰巳(南東)手足が虎=丑寅(北東)、猪早太=戌亥(北西)ということで、猪早太自身創作だという話もあります。この方角へ鏑矢を頼政は射たという訳です。

私の勝手な解釈をします。以下の想像は怒らないで笑い飛ばしてください。

頼長が

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

⇒黒雲(黒煙)の中に居たモノの名は、鵺ではなくて小鳥(ホトトギス)
 だったのではないですか?
 (裏の意:それで名をあげられるとは羨ましいこと。)

と上の句を詠んだことに対し

「弓張り月のいるにまかせて」

⇒ええ、半月の方向(南西)にいたみたいなのでテキトーに射ってみました。
 (裏の意:東三条の藤原邸(東三条は御所から南西の方角)から来るのですか
      ら、頼長さんはやはり正体を小鳥だとご存知でしたか。)

とお互い隠れた歌の応酬で、真実の報告をしたのではないでしょうか。

何分、近衛天皇の健康悪化は悪左府が呪詛したという噂があるくらいなので、藤原邸から鵺であるトラツグミを飛ばしていたかもしれません。

ただ、獅子王を下賜くださるほどの騒ぎになっているのですから、こんな真実報告レベルではなくて、もっと頼政のすばらしさが分かるような解釈にしたのではないかという想像は下衆の勘繰りですね(笑)。

実存するかしないかも分からない猪早太だけを連れて、鵺退治というのも、しっかり退治したという報告を創作するために限定した人たちだけでやったような気がしてなりません。

どう思われますか?

あ、決して頼政を貶めるように考えているわけではありません。もし上記歌のやり取りが本当だとしてもそれはそれですごい歌人には変わりないのですから。

すみません。長くなりすぎたので、あと2つのエピソードも次回、頼政の挙兵時における渡辺党の活躍と一緒に描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

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